23時間15分の激闘

午前10時から翌日の午前9時15分までの対局。

近代将棋2004年9月号、スカ太郎さんの「関東オモシロ日記」より。

 そのB級1組だが、6月25日に行われた2回戦で早くも混戦模様になってきた。

「まだ2回戦しか終わっていないのに何が分かるのかね」といちゃもんをつけてくる人もいるかもしれないが、2連勝は順位11位の中村修八段ただ一人。その他に入ってくる結果はすべて星の潰し合いとなり1勝1敗者が増えていったのである。

 最後に残った一局が中川七段-行方七段戦だった。この将棋はまず行方が入玉を決め、後から中川も入玉して持将棋が成立した。行方は87手目に1分将棋になっており、そこから241手目の持将棋成立まで延々と1分将棋で指し続けた。途中「持将棋だね」と引き分け提案した中川に、行方が「もうちょっと(指させてほしい)」という迫力の会話があった。その局面は、行方に負けはなく、うまくいけば勝ちが出るかもしれないという局面だったそうだ。「ブロック崩し」というコンピュータゲームを連想させる駒のはがし合いが続いたものの結局持将棋が成立。時刻は日付の変わった午前1時35分だった。もう終電車もなくなってしまったので、オイラはこの将棋を見てから帰ろうという気になった。この将棋が終わる頃には、ちょうど始発電車が走り始めるだろうと考えたのである。

 しかしそれは非常に甘い考えだった。

 指し直し局を中盤までは時折のぞいていたオイラだったが、いつの間にやら控え室でグースカ眠ってしまっていた。そこに行方が大きな音を立てて襖を開けて入ってきたので、目が覚めた。

「ありゃしまった、寝ている間に終わっちゃったよ」と思ったら、行方が「千日手になりました」と言って控え室にゴロンと横たわった。

「30分後に起きられなかったら不戦敗になるんですかね」とジョークとも本気とも取れる言葉をつぶやき、行方は眠りについた。顔にハンカチを乗せて眠りについたので、「なんだか死体みたいだな」とオイラは思った。実際、疲れ果てた行方は半分くらい死んでいたかもしれない。

 対局室に入り棋譜を見ると、(中略)千日手が成立したのは午前4時58分。

 中川は対局室にある縁側の板張りの上でやはり横たわっていた。畳の上でなく、あえて板張りの上で寝ていたのでとっさに「臥薪嘗胆」という言葉を思い浮かべた。アンダーシャツ姿であえて板の間に横たわっていたのがなんとも中川らしい剛毅な一面を見たようで、オイラは先ほどまでの眠気がこのとき吹き飛び、よーし、この将棋、決着するまで見届ける、と決めた。中川は控え室ではなく、対局室の傍らで横になったが、これは万が一寝過ごした場合を考えてのことだったらしい。

 2局目の残り時間は行方が2分、中川が48分だったので、規定により双方に58分ずつが加算され、行方1時間、中川1時間46分となった。中川の持ち時間は2局目の指し直し開始時よりも9分増えていた。

 3局目の指し直し局が始まったのは午前5時28分。すでに陽が昇り、外は明るい。

 盤に向かった中川は、上着もワイシャツも脱ぎ捨て、寝ていたときと同様に白いアンダーシャツ姿のままだった。

 週刊将棋の下村記者が「写真を撮らさせていただきます」と言った。その言葉には「その格好で撮ってもいいでしょうか」という意味も含まれていたと思うのだが、中川は「はい」ときっぱり言い切った。そこには「僕はもうこの格好で戦うのだ」という揺るぎない決意が感じとれたのだった。

 後日、この「白いアンダーシャツ姿での対局話」を浦野真彦七段にしたところ、「それはないやろ」と驚いていたけれど、このときのオイラの感想を率直に言えば、白いアンダーシャツ姿での対局も「このときばかりはあれでよかった」と思うのだ。北斗の拳で、戦う前にケンシロウの服がビリビリズタズタに破けてしまうように、中川の上着もワイシャツも気合で破けてしまったように思えたのだった。あたたたたー。

(中略)

 この頃、1日塾生の竹林俊太郎初段がやってきて、この将棋の検討に付き合ってくれていたのだが、午前8時半を過ぎた頃に、「うーん、今日、大広間で10時から将棋大会があって、盤を35面並べなくちゃいけないんですけど、この将棋はそれまでに終わりますかね」と心配そうに言い出した。たしかに午前10時に終局するかどうか微妙な時間になってきていたのである。

 終局直前の第4図。ここで中川は△4四銀と玉の脱出路を作ったのだが、次の一手が決め手になった。▲3五銀まで行方の勝ち。これぞ退路封鎖の手筋で後手玉は必至である。

 中川は投了図で苦痛に満ちた顔で盤上をにらみつけていた。残り19分。何度か天を仰ぎ、何度か頭を垂れた。18分使い、最後は秒読みの8まで読まれてから投了した。無念さが漂う投了シーンだった。終局は午前9時15分。対局開始から23時間15分という激闘にピリオドが打たれた。

 感想戦が終わった時には午前10時を過ぎ、控え室のモニターに朝日オープン・阿久津主税五段-中井広恵女流二冠の初手が映し出されていた。

 本局の記録係は星野良生2級。途中からは疲労困憊と、先手後手が2度入れ替わったために4六を6四と記入してしまう等の符号間違いで記録用紙にミスが多発していたが、これはもうしょうがないだろう。3局分の記録をすべて清書し終わったときには午後3時を過ぎていたそうだが、今生で任務をまっとうしたのは偉かった。

(中略)

 今期はB級1組から目が離せないな。築地の鮨屋に行き、激闘を終えた中川、行方とともにビールを飲みながら、そんなことを思ったのだった。

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スカ太郎さんの軽妙な文章を通してにもかかわらず、一緒に疲労を感じてしまうほどの激闘だ。

対局が終わった2004年6月26日は土曜日だったので、築地の鮨屋でゆっくりと飲めたことだろう。

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魚市場が近い関係から、築地には多くの鮨屋がある。

場所的に分けると大きく3つに分類される。

(1)市場の敷地内にある店(場内)

(2)市場を出てすぐの所にある店(場外)

(3)市場通りよりも銀座寄りにある店(大手寿司店など)

営業時間は(1)(2)が早朝から昼過ぎまで、(3)が11:00以降開店。

スカ太郎さんたちがどの辺の店に行ったかは興味深いところだ。

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今では行列ができるほど有名になってしまったが、築地市場の場内に「大和」という鮨屋がある。

数十年前、この店の店主が築地市場将棋部のとりまとめ役をしていた。 師範代は土居市太郎名誉名人で、土居門下の大内延介少年も稽古でよく通っていた。

「名人の上 升田幸三」という大きな置き駒も飾られている。

営業時間は、5:30~13:30。

通常の店なら10,000円以上の値段になる寿司を3,000円~4,000円で食べられる店、という雰囲気。

寿司にはあまり興味のない私でさえ、一度行ったことがある。

もちろん、大内延介九段お薦めの店だ。

→ 「大和」自戦記

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いろいろなブログを調べてみると、風評被害なのか、行列ができていた場内の鮨屋も、最近ではそれほど行列はできていないという。(外国人観光客がかなり減ったらしい)

場内の名店に行くのは、今がチャンスだと言える。