河口俊彦七段逝去

河口俊彦七段が亡くなられた。

享年78歳。

河口俊彦氏が死去 将棋棋士七段 (日本経済新聞)

将棋棋士・河口俊彦さん死去 連載「対局日誌」が好評(朝日新聞)

訃報:河口俊彦さん78歳=将棋棋士七段、作家(毎日新聞)

河口俊彦七段は、東公平さんとともに将棋ペンクラブの創設者で、初代会長だった。

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将棋ペンクラブ会報2003年秋号、河口俊彦七段の将棋ペンクラブ大賞(大山康晴の晩節)受賞のことば「天才の将棋的言語」より。

 生前の芹沢博文は、いたく木村義雄名人を尊敬していて、いろいろなゴシップを聞かせてくれた。お得意にしていたのはこんな話だ。

「木村名人は昼飯のとき、赤坂の料亭で極上のうな重の出前をとる。それが運ばれると、ふたを取って茶をかけ、またふたをする。しばらく置いてふたを取り、うなぎを取り去る。そして香の物をおかずに、サラサラとかっこむ。うなぎをもったいないなんてケチッちゃいけない。ポイと捨てるところが、どうだ、しゃれてるだろ」

 この話ははじめて書く。出し惜しみしていたわけではない。あまりにくだらないと思って書かなかったのだ。

芹沢は、「木村義雄論」を書くと言っていたがはたせなかったが、もし書き上げたとしても、さっきの話は書かなかっただろう。

 しかし、芹沢も私も、ああいった話が好きなのである。木村義雄という人間の一面があらわれていると思う。だから、私も「大山康晴論」を書くときは、そういったゴシップを数多く紹介したいと思っていた。ところが結局、ほとんど書けなかった。簡単なようでいて、私にとってゴシップを書くのは難しいのである。

 また、もう一つ別の狙いもあった。

 故山本直純さんと雑談をしていてヒントを得たのだが、音楽的言語、絵画的言語というものがあり、耳のよい人、眼のよい人には、聴きとれ、読みとれるものだそうだ。

 なら、天才の将棋にも、将棋的言語によって語られているものがあるのではないか。大山康晴の将棋からそれを読み取り、それを文章にしてみたかった。

 考えてみると、昔の棋士達は無意識に、将棋的言語を読み取っていたのである。だから大山、升田の指し手に感動はするが、それを文章にするのは、やはり難しかった。

 そんなわけで『大山康晴の晩節』としていちおうまとめてみたが、なにか物足りぬものを感じる。ただ、大山康晴について、いくら書いても、書き尽くせぬ感じはどこまでも残るのだろう。それでも、升田・大山時代の将棋指しのゴシップを、これからも書きつづけて行きたい。年寄りの昔自慢と笑われそうだが、どうしても、現代の棋士より、升田・大山時代の棋士が魅力的に思えてしまうから。

 

 将棋ペンクラブ大賞を作ったとき、山口瞳さんは「念の為言っておくけど、東さんと河口さんは候補外だよ」と言った。若いライターの励みになるような賞を作る、という趣旨であるから、それは当然のことと思っていた。

 ところが、今回湯川さんから、年月が経って諸々事情が変わったこと、選考経過などの話を聞き、快く大賞をいただくことにしました。皆様の御声援に感謝します。

 

大山康晴の晩節

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謹んでご冥福をお祈りいたします。