『将棋家元』大橋家断絶す

将棋世界1983年9月号、加藤久弥さんの「『将棋家元』大橋家断絶す」より。

 将棋史の幕を開けた初代名人大橋宗桂につながる江戸時代の「将棋家元」大橋本家がついに断絶した。本家十五代を継いだ大橋京子(東京都江戸川区)さんが跡継ぎのないまま7月1日夜心筋梗塞で亡くなったのである。行年81歳。法名=蓮華院妙浄日京大姉。遺志により同家に残っていた江戸時代の古文書、駒つくりの字母などが日本将棋連盟に届けられた。大山康晴日本将棋連盟会長はさっそく丁重に弔意を表したが、家元三家のうちただ一つ家名を残していた大橋本家だったので将棋家元の名跡はこの日をもって完全に消えてしまった。

家元三家始末記

 慶長17年(1612)徳川幕府にはじめて「将棋所」が設けられ、寛永12年(1635)にはそれを預かる世襲の「家元三家」(大橋、同分家、伊藤)の制が定まった。以来凡そ230年、三家は幕府の保護をうけて”御城将棋”に栄光を誇り江戸の棋界に君臨して来たが、明治維新の変革で「将棋所」が潰えた後は厳しかった。

 野にくだった三家の棋士はいままでほとんど顧みなかった市井に棋界の再興を求めたのであるが道は遠く、また三家とも跡継ぎに恵まれることも不幸であった。

 まず大橋分家の九代宗与七段(養子=前名・勝田仙吉)が身の不始末を責められるなかで明治14年(1881)11月死亡(年齢不詳)し後継者もなく絶える。

 次に伊藤家は八代宗印が十一世名人に登って棋界再建に尽力したが明治26年(1893)1月6日志なかばにして逝った。行年68歳。法名=王照院清常宗印日修居士。嗣子印嘉初段は父に先立ってすでに亡い。当然、伊藤家も絶えることになり、宗印の次男渡辺富三郎が長男高政を養子に入籍させて家名再興を図ったが希望は実らなかった。宗印名人の血をひく孫、渡辺高康氏(富三郎の三男=74歳)は千葉県船橋市に健在であるが、同家に位牌を残して伊藤家はとうに消えた。

 両家のあと大橋本家だけが生き残ったのであったが、当主十二代宗金五段が明治43年(1910)11月17日、奇しくも御城将棋の日に亡くなって事実上絶えた。行年72歳。法名=真如院宗金日歓居士。

本家は家名再興

 大橋本家十三代にあたる宗金の長男五郎の消息はよくわからないが、同家の法名禄にも十三代の名はなく中断したらしい。しかしここ群馬県下仁田町に嫁した宗金の長女有賀みよが名跡の絶えることを惜しんで必死に立ち向かい、大正初期に孫娘静子を十四代に送って家名再興の望みをとげたのである。

 昭和3年(1928)6月、そのころ芝区(現・港区)二本榎の上行寺にある大橋本家歴代の「駒形墓碑」が東京府の史跡指定をうけその機に大橋本家の近況が浮かび上がったことがある。十四代静子の女学生姿も新聞に紹介され「大橋家の再興成る?」を思わせたが、彼女は2年後の昭和5年(1930)11月28日17歳で早世してしまった。法名=昌山院妙純日静大姉。

 そこで有賀家はみよの三女京子を次の養女に送って十五代を継がせあくまで再興を期した。まさに執念である。ところが京子さんは生来の病弱、のちに思い余って従妹の井岡登喜子(宗金の孫)さんを口説き落とし井岡家の愛娘を養女に迎えることになる。三代目の養女に望みを託したのであろうが、お目あての少女は二人まで相次いで早世して終う。このため悲しみの母登喜子さんは在家得度して妙浄と名乗る尼僧になった経緯がある。

永代供養に後図

 大橋京子さんの病院通いは老境に入っていっそうはげしくなり三家の菩提寺詣りもできない。と言って無縁仏にされては困る…病床に悩み抜いた京子さんは昨年3月、前記井岡さんを通じて日本将棋連盟に「三家菩提寺の永代供養に対する強力」を求めて来た。

 これをうけた連盟は先師への慰霊と将棋の史跡を保護するために全面的な強力を快諾、京都の霊光寺と教行院、伊藤宗印の墓所・東京の本法寺、大橋家歴代の「駒形墓碑」を移した伊勢原市上行寺、以上四ヶ寺の永代供養を引きうけすでに実行されている。

 京子さんもこれに心を安じ同家に古くから伝わる江戸時代の古文書、大量の棋書などを将棋連盟に寄贈、さっそく大阪の将棋博物館に飾られたのであった。

遠祖年忌の後に

 初代大橋宗桂は寛永11年(1634)80歳で亡くなった。法名=玉浄院宗桂日龍居士。京都市伏見区深草の霊光寺境内に建てられた巨大な「駒形墓碑」はいまも厳として始祖の偉徳をたたえ、この春3月9日の祥月命日には350年祭が行われた。この知らせに喜んだ京子さんは従妹妙浄尼に霊光寺の厚意に感謝する伝言を頼み、間もなく入院したというがそのまま帰らなかった。

 血脈が全く絶えたわけではなく、宗金の四女井岡豊(90歳)さんが長女妙浄尼のもとに老いを養っているが大橋家の十六代を継ぐ人はもういない。

 将棋界が花を盛りに謳歌しているとき、都の一隅でかすかに明滅していた江戸の家元の最後の灯がひっそりと消えた。

——–

家を継ぐ、家系を絶やさないことが、いかに大変かを痛いほど感じさせられる。

大橋家、伊藤家の子孫の方はいらっしゃるが、別の家に嫁いだり別の家を興したりしているので、「大橋家」、「伊藤家」ということにはならないところが辛い。

——–

逆に考えると、源氏、平家ともに滅亡しているが、例えば源義経が奥州で知らぬ間にできていた子などもあったはずで、血筋が連なる人が現代に存在する可能性も残されている。

私も幼い頃、父に「森家の先祖は平家の落武者だ」と聞いて、それ以来、平家のファンになったほどだ。

今考えれば、父が子供相手に適当な冗談を言ったとしか思えないが、それはそれで楽しい想像だ。