師匠が内弟子に将棋の指導をしない理由

倉島竹二郎さんの「昭和将棋風雲録」より。

 私は最初、内弟子は絶えず師匠から将棋の指導を受けるものと考えていたが、これは全くの見当違いであった。市川にいた3年間、大崎八段が内弟子に将棋を教えているのを見たことは一度もなかった。内弟子たちは日課のように相当広い邸内をくまなく掃除しなければならなかったし、また百鉢を超える盆栽に水をやらねばならなかった。それに大崎八段の口述筆記や原稿の清書もしなければならず、将棋の勉強は寸暇を見つけて内弟子同士が指すくらいのもので、見ようによっては奉公人以上の酷使に思えた。が、これは大崎八段のところにかぎった話ではなく、升田元名人もいつか私に「内弟子時代は拭き掃除から使い走り、時には洗濯のいっさいを仰せつかったこともあります。そして、木見先生には一度も将棋を指してもらいませんでした」ともらしていたほどで、棋士の内弟子生活はどこでも大同小異だったようだ。私はそうした内弟子制度が時代錯誤でありまた不合理にも思えたので、大崎八段にいつまでもこんな調子でよいのかと非難めいた質問をしたことがあった。

 と、大崎八段は「ものごとは考え方じゃが、芸ごとや勝負ごとの修行は理屈を抜いたもので、私はだいたいこんな調子でよいと思っとる。拭き掃除も修行の一つといえないこともない。それに、稽古は素人衆にだけするもので、どんなに段や級が低くても専門家を志したからは教えてもらおうなどという気持ちがあっては問題にならん。自分の道は自分で切りひらいてゆくほかはない。内弟子修行は将棋指しがどういうものか、つまり棋士の根性とかあり方をおのずと体得するところに値打ちがあるのじゃ」と微笑を浮かべながら答えた。が、大崎八段が内弟子たちの将棋に全然無関心であったかというと、けっしてそうではなかった。

 ある日、私は大崎邸で将棋を指した。相手はたしか藤川君であったと思うが、私はまんまと嵌め手に引ッかかって、にっちもさっちもいかなくなってしまった。そこへ偶然現れた大崎八段が盤上を一瞥すると、急に顔色を変え、

「藤川、お前は何というみっともない将棋を指すのじゃ、そんな根性じゃいつまでたっても一人前の将棋指しにはなれんぞ!」

 と、おそろしい剣幕でどなりつけた。私は大崎八段はなぜ急に怒りだしたのかわからず、ひどく面喰らったが、藤川君は師匠のことばがすぐピンと胸にこたえたらしく「すみません」と素直に謝った。大崎八段は顔色を和らげ、棋聖天野宗歩が弟子の負けてきた将棋を見てその男らしい指しぶりを称揚し、また弟子の勝ってきた将棋を見てその卑劣な指しぶりを叱責した故事を例にとって、棋士は常に理想を高く持って勝敗よりもりっぱな将棋を指すことに努めねばならぬことや、ことに修行時代はその根性を養うことがなによりたいせつであることを、諄々と説き諭した。

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故・花村元司九段が弟子の森下卓九段の少年時代に平手で千局以上稽古をつけたケースもあるが、ほとんどの場合、師匠は弟子に直接の将棋の指導(技術の指導)をするようなことはない。

倉島竹二郎さんの文章では、その辺の機微が見事に描かれている。

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18年か19年前のことになるが、田中寅彦九段と飲んでいる時のこと。

同席していた人が「息子さんに将棋の指導をされたりすることはあるんですか?」と質問をした。

この頃、田中寅彦九段のご長男の誠さんが、奨励会員であり田中九段の弟子でもあった。

田中九段は、

「絶対に教えません。自分で強くなれないようならプロとしてやっていけませんから」

と明快に答えていた。

親の気持ちとして、師匠の気持ちとして、共通するものだったのだと思う。

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師匠と弟子の関係は、将棋・囲碁、スポーツ、伝統工芸、料理人など、それぞれの世界でそれぞれの形がある。

歴史的な成り立ちも含め、それぞれの世界の違いを調べてみるのも面白いかもしれない。