倉島竹二郎「勝負を見つめて五十年」(前編)

将棋世界1981年1月号、倉島竹二郎さんの「勝負を見つめて五十年」より。

 さきごろ私はNHKに頼まれて、ラジオの「人生読本」に出た。朝の6時15分から30分までの15分間で、それが3日連続の番組である。担当の金子佑司氏がつけてくれた題名は、本題と同じ「勝負を見つめて五十年」というので、金子氏の注文は、できるだけ私自身と将棋との関係について話してほしいとのことだった。私は引き受けたが自信はなかった。大体将棋の話は堅い感じで、愛好者以外の一般の人には興味がなさそうだったからである。それに、午前6時15分というと、よほど早起きの、またよほどもの好きの人でなければ聴く筈がないという気がしていた。が、やってみて驚いたのは、思いのほか反響の多かったことで、私のところに手紙や電話をくれた未知の人が少なくなく、中には50年ほど前に会った女性から便りがきたり、直接ラジオは聴かなかったが新聞に面白かったという投書が出ていたので懐かしかったと云って、近況を知らせてきた妻の古い友人もいた。そして、NHKにも可なり反響のあった由を金子氏が知らせてくれた。私は意外だったが、これも結局は将棋が世間に浸透してきたせいだろう――と、嬉しかった。

 そんなことがあって、私は改めて自分と将棋との因縁について振り返ってみる気になったのである。古風なことを云う奴だと笑われるかも知れないが、将棋と私は前世から切っても切れない縁(えにし)があったように思えてならないのだ。

 将棋を何歳ぐらいから指したかはハッキリしないが、小学生の上級生時代に学校の先生とやって勝ったのをかすかに記憶している。私は京都の生まれで、小学校は祇園町にある弥栄小学校だったが、同級生に最近亡くなったアラカンこと嵐寛寿郎君(本名、高橋照一)がいた。

(中略)

 そのうち文学に夢中になり、国木田独歩や有島一郎、それにトルストイやドストエフスキー、ツルゲネーフやチェホフなど、ロシア作家の翻訳を乱読して、いっかどの文学青年を気取るようになった。そして、上京して早稲田か慶応の文科に入り、将来は小説家になろうと志すに至った。私はそれを両親に打ち明けて頼んだが、なかなか許してもらえなかった。が、私があまりにせがむので私を溺愛していた母が打たれ気味になり「そんなに小説家はんになりたいのなら、お前が小説家はんに向くか向かんか、一ペン八卦見はんに見てもらいまひょ」と云って、私を建仁寺の境内に店を出している易者のところに連れていった。母はこれまで何度もその易者に見てもらっていて、大変信用しているらしかった。宗匠頭巾をかぶり、白い長い髭を生やした年老いた易者は、筮竹と算木を鳴らして卦をたてたが「東京に出て、もの書きはんにならはるは向いています」と、助け舟を出してくれたが、ふと首を傾げると「変やな。ボンさんは一生勝負事と離れられんという卦が出てまっせ」と、怪訝そうに云った。それで、母が「ほんなら、相場でもやるのと違いますやろか?」と心配そうに尋ねると、易者は「相場でもなさそうどす。わてにもよう分かりまへんけど、仕事と関係のあることのようどす」と、答えた。その時は、少しでも見料を多くせしめるために話をのばしたのだろうと、私は別段気にもとめなかったが、後年易者の言葉を思い出して、その暗合の不思議さに驚くほかなかった。それにしても、当時の私(母もだが)は、50年も将棋の観戦記を書いて暮らすことになろうなどとは夢にも思わなかったし、易者が「わてにもよう分かりまへんけど」と云ったのも道理で、私が将棋と自分は前世から切っても切れない縁がある気のするのも、こうしたエピソードがあったからである。

* * *

 母が父を口説いてくれたおかげで、私は上京して慶応の文科に入学することが出来た。慶応の予科時代の同級生には詩人の故藤浦洸君や劇作家で名を成した宇野信夫君などがいたが、当時の文科生は自然主義の悪い面にばかり影響されて、放蕩することを人生修業などと称して学業をおろそかにする連中が多かった。私もその一人で、教室にはお義理で顔を見せるだけで、三田界隈の将棋会所やビリヤードにいりびたった。そして、小使い銭がなくなるとインチキな詰将棋をやって仲間の学生から50銭硬貨を1枚せしめるのが常であった。

(中略)

 私の予科時代に大正12年9月1日に起こった関東大震災があった。学校はまだ暑中休暇だったが、私はどこか旅行するつもりで京都の実家から高輪御所の近くの下宿に戻っていたので、大震災にぶつかった。あの物凄かった大震災の模様をくわしく書いている余裕のないのは残念だが、幸い私の下宿は倒れも焼けもしなかったものの、一時は東京中が火の海と化すかと思われたし、東京市内だけで死者5万8千、焼失家屋30万というひどい災害だった。それにデマによる朝鮮人騒ぎによる犠牲者も少なくなく、私は敗戦当時以上の虚無状態に陥った。そして、怠け放題怠け、放埓のかぎりをつくして、とうとう落第してしまった。その虚無状態を救ってくれたのは、大正14年に父が亡くなり、その節、母が私の堕落を必死に諌めてくれたのと、大正15年にそれまで休刊していた三田文学が水上滝太郎先生(本名阿部章蔵で、作家と同時に一流の実業家でもあった)を中心にして復活し、三田文学が三田の学生や若い作家志願たちにも解放されることになったからだ。私は心機一転して創作に打ち込んだ。そして、国文学の教師だった小島政二郎先生の推輓で復活何号目かの三田文学新進作家号に処女作を発表することが出来た。それがキッカケで水上滝太郎先生の知遇を得、麹町下六番町にあった水上邸に出入りするようになった。

* * *

 水上滝太郎先生は愛棋家で、月に1回水上邸で催される水曜会という集まりには、いつも将棋盤が置いてあった。水曜会は三田派ばかりでなく早稲田派その他の新進作家にも解放された楽しい会で、私は早稲田派の新進だった井伏鱒二氏と将棋を指した記憶がある。水上先生の尊父の阿部泰蔵翁(我が国での生命保険の創始者)は小野五平十二世名人から四段を許された実業界切っての強豪だったそうだが、水上先生もなかなか強く、三田文学と読売新聞が将棋の対抗戦をやったときも、水上先生は主将として出場され、読売の主将だった一代の名観戦記者菅谷北斗星を見事に破った。その対抗戦は三田派の大勝だったが、私は副将として出ていた。水上邸で将棋会の催されたこともあった。そのとき、招かれた花形作家の佐佐木茂索氏が当時はまだ珍しかった立派な桑の駒台を手土産にし、われわれ三田の若手を「やはり売れッ子は違うな」と羨ましがらせたものである。

(中略)

 私はよく「どうして観戦記を書くようになったのですか?」と聞かれるが、それは一口に云うと食うためであった。私は昭和4年に慶応の国文科を卒業したが、当時は世界的な不景気のドン底時代だったし、父の死後兄の不始末で京都の実家が破産し、私は母と甥の一人を引き取らねばならぬ羽目となった。そのころの作家生活は惨めなもので、ちょっと流行すると豪華な家を建て、豪華な自家用車で飛び回る現在の作家生活と異なり、自分の家を持っている作家は5本の指にも満たないほどで、殆どが借家住まいか下宿住まいであった。あれほどの大家だった泉鏡花先生にしてからが、長屋風のちゃちな2階建ての、それも借家とのことで、こんな事でよいものであろうか――と、私は義憤を感じずにはいられなかった。私はたまに文芸春秋や週刊朝日に短編小説、また都新聞に随筆を書かせてもらったが、駆け出しだけに稿料は微々たるもので、稿料だけで家賃を払い、3人(母と甥と私)が食ってゆくことは容易でなく、時には死にたい気持になることさえあった。その時代、水上滝太郎先生には物心両面で随分とお世話になった。そうした状態のときに持ち込まれたのが、新聞将棋の観戦記であった。新聞は国民新聞(ズッと前に廃刊になったが、曽ては一代の硯学徳富蘇峰翁が論陣を張った東都の一流紙であった)で、当時は木村義雄名人の無二の親友でジャーナリストの鬼才と称せられた故御手洗辰雄氏が編集局長だった。御手洗氏は娯楽面の充実を重く見て、将棋の観戦記を書ける然るべき人間はいないかと、文芸春秋に相談にいった。そして、当時文芸春秋に籍を置いていた佐佐木茂索氏の推薦で、私に白羽の矢が立ったのである。将棋の観戦記を書けば月に百円(百円は大金だった)ぐらいの定収入があるとのことで、私は二つ返事で飛びついたのだった。無論、小説家になることを断念したわけではなく、観戦記は一時の方便のつもりであった。が、根が好きな道だし、私は次第に棋界に深入りするようになったし、昭和10年エポックメイキングな大棋戦である将棋名人戦が創設され、主催紙の東京日日新聞から招聘されて名人戦の観戦記者になると、すっかり主客顛倒して観戦記が主となり、小説の方はサッパリ書かなくなってしまった。そして何と観戦記者生活が50年――半世紀つづいたわけである。

 先達て、「枻」出版社の「将棋讃歌」という雑誌に、観戦記者の東公平氏と奥山紅樹氏との、観戦記についての対談が出ていた。その中に、私が経済的に恵まれず、極く粗末な家に住み、清貧にあまんじながら観戦記を書きつづけてきたのは見上げたものだと、大変同情的にまた好意的に語られているところがあった。いささか面映い気がせぬでもなかったが、たしかに観戦記だけで生活してゆくことは並大抵ではなく、経済的に恵まれないのは事実だ。だからといって、私は50年間将棋の観戦をつづけてきたことを悔やむ気持は毛頭ない。それどころか、将棋の観戦を通じていろいろな人と結ばれ、将棋の縁で一方ならぬ恩恵をこうむり、それに名匠巨匠のすばらしい対決の数々をじかに観戦し得たことは実に幸せで、その点私はどんなに感謝してよいか分からない気がするのである。

(つづく)

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名人戦や王将戦の観戦記を数多く担当し、NHK杯戦での聞き手でもおなじみだった倉島竹二郎さん。

私が小学生や中学生の頃、NHK杯戦を見れば、ほとんどの週に倉島竹二郎さんが出演していた。

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「そのころの作家生活は惨めなもので、ちょっと流行すると豪華な家を建て、豪華な自家用車で飛び回る現在の作家生活と異なり、自分の家を持っている作家は5本の指にも満たないほどで、殆どが借家住まいか下宿住まいであった」

昭和初期の作家がそうだったのか、あるいは作家という職業ができて以来そうだったのか、どちらにしてもとても驚く事実だ。

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倉島竹二郎さんが慶応大学文学部国文科を卒業したのが26歳の時なので、複数年留年をしたと考えられる。(戦前は、尋常小学校6年、中学と予科を合わせて7年、大学が3年だった)

とんとん拍子に大学を卒業していたら、タイミング的に、復活した三田文学と関わりを持つことができなかったかもしれないわけで、倉島さんにとっても将棋界にとっても留年は結果的に大正解だったということができるだろう。

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宗匠頭巾をかぶり白い長い髭を生やした易者、京都という土地と相まって、何とも言えない風情を感じる。

祇園の弥栄尋常小学校は、現在の漢検 漢字博物館・図書館 「漢字ミュージアム」の場所にあった。

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嵐寛寿郎さんは戦前戦後を通して活躍した大俳優。

嵐寛寿郎さんは弥栄尋常小学校を5年で中退、丁稚奉公に出される。その後、苦労して俳優となり、昭和2年公開の映画『鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子』のヒットにより、メジャースターへの道を歩み始めた。

鞍馬天狗シリーズは昭和31年までの30年間に40本、右門捕物帖(むっつり右門)シリーズも昭和4年から昭和30年までの27年間に30本も上映されるほどの人気シリーズ。

60歳を過ぎてからは、高倉健さんの『網走番外地シリーズ』の鬼寅、藤純子さんの『緋牡丹博徒シリーズ』での剛毅で人情味溢れる昔気質の親分役などで活躍をしている。

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月刊文藝春秋の名物企画「同級生交歓」に倉島竹二郎さんと嵐寛寿郎さんが一緒に出ている。

下の写真は将棋世界1981年1月号に掲載されたもので、「同級生交歓」の際に撮られたものと思われる。

昭和40年代、コマ劇場楽屋での二人。