「こんな筋を考える人など三浦以外にいないが、やってみると一理も二理もある」

将棋世界2002年3月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 新年の将棋界は勝負将棋で始まった。

 前日にはA級順位戦の羽生竜王対森下八段戦があり、この日は、同じクラスの先崎八段対三浦八段戦である。これがどんな性質の勝負かは言うまでもない。両者未だに1勝しかしてないから、負けた方はほとんどアウトとなる。こういうのを、裏の大一番と最近は言うそうだ。

 午後、将棋会館に来て、なにはさておき特別対局室を覗くと、当然のことながら緊迫感に満ちている。

 先崎対三浦戦のとなりは、丸山名人対南九段戦。先崎八段は、肌合いの違う人達にはさまれて、居心地はどうだったろうか、などは私の勝手な思い過ごしで、四人共、まわりのことなど気にしないで指しているようだった。

(中略)

 先崎対三浦戦の中盤は1図。三浦八段お得意の戦法で、消費時間がすくない。

 1図から△7三香と打つのが定跡手順。ここで、先崎八段が手を変えた。

1図以下の指し手
△7五歩▲8五銀△8三香▲8六香△5五歩▲7四銀(2図)

 あまり考えないから、△7五歩は予定だったか。昨年暮、棋王戦の挑戦者決定戦があった日(郷田が勝ち、このときは挑戦者が決まらなかった)控え室に先崎八段がいた。雑談をしているうちに、先崎君が口をとがらせた「年明け早々に順位戦がついたんですよ。まるで、正月は酒を飲むな、と言われたみたいじゃないですか」。

 多分酒を控えただろう。折にふれて盤面を思い浮かべていたか。そして、そのなかに、1図もあったはずである。

 苦心は見えるが、△7五歩はよくなかった。▲8五銀と、取ってくれと出たのが好手で、△同飛なら▲8六香と飛車を殺してよい。そこで△8三香と打ったが、▲8六香で状況は変わらない。結局銀を取れず、△5五歩と突くのでは、▲7四銀と出られ、後手やや不利であろう。

 局後「やはり△7五歩と打つようでは(得意をさけるのでは)いかん」と先崎八段は頭をかかえたのだった。

(中略)

 先崎対三浦戦は、2図から長考相次ぎ、夜の9時ごろまでいくらも進まなかった。

 局面は5図。▲5四歩と垂らされ、後手も忙しくなった。

 なお、参考までに2図から5図までの手順を誌しておくと、△8六香▲同歩△5六歩▲1三歩成△同玉▲6三銀成△5五銀▲5四歩。

5図以下の指し手
△8七歩▲9七玉△5七歩成▲同金△9五歩▲8七玉△8三香▲7七玉△8六香▲6五角△5六歩(6図)

 いよいよ勝負所である。△8七歩は、一本は筋、という手で、ノータイムでも指せるが、先崎八段は68分も考えた。こういうのも勝負術の一つなのだろう。この長考中に、新聞各社の担当記者達が控え室にあらわれた。さすがに観戦のプロで見るべき所を知っている。

 三浦八段は当たりをさけるように▲9七玉と逃げれば、先崎八段は△5七歩成を利かそうとする。

 この歩成は微妙である。玉が端に離れた後に成るのだから。田中(寅)九段は「ここで勝負がつく」と言って継ぎ盤に向かった。

 ポイントは、△5七歩成に手を抜き、もう一手△6七とと金を取られても、先手玉は絶対に詰まない、という点にある。たとえば、手を抜いて▲5三歩成と攻め、△6七と▲4三と、と攻め合う。これは先手勝ちのようだが、この後、△4三同金と手を戻され、▲3一角△1二玉で、以下寄るのか寄らないのかはっきりしない。田中九段は上野四段と精密に詠んだが、わからないままだった。

 三浦八段も同じだった。攻めて負けるより、潰されて負ける方がまし、とばかり▲5七同金と受け、控え室の研究とは別の展開となった。

 それにしても、△9五歩に▲8七玉とは理解しがたい応手だが、三浦八段にも言い分があって、これも立派な指し方。

 そして香をためて打つ手や、玉の早逃げ等があって、局面は目まぐるしく動く。

 この頃、南九段に快勝した丸山名人が控え室にあらわれ、継ぎ盤が二つになった。

 ▲6五角のあたり、控え室の形勢判断はまちまち。両対局者ともわからなかったらしい。ただ、手は見つけやすい局面で、▲6五角に△6四歩が、すぐに発見された。▲8三歩△6五歩▲8二歩成となり、そこでいろいろ手があり、控え室の意見も分かれたが、やがて、△3九角と信じ難い手が見つかり、▲1八飛△1七歩で、後手よし、の結論が出た。

 局後、解説用の感想戦があらかた終わったころ、田中九段がことさら声をひそめ、△3九角と打つ変化を言った。

「えっ!?」と先崎八段は例の口ぐせを発してから「そんな手あるんですか。ムチャクチャ指しにくい手だな」と驚きながら、盤上の駒を動かした。他ならぬ田中九段が言うのだから、やってみるしかない。そうして、△1七歩まで進んだ局面を眺め「手はあるもんですね。なるほどこれはボクがおもしろそうだ」。

 その間三浦八段は無言。自分の考えてない手には無関心らしかった。

 と、こんな風に詳しくやっていたらきりがない。見所はまだたくさんあるので、▲8七玉で▲5三歩成などの枝葉は省く。

6図以下の指し手
▲8三歩△5七歩成▲8六玉△9二飛▲9五歩△8四歩(7図)

 ▲6七金右と逃げるのは、利かされた感じで指せない。▲8三歩は当然の一手と、みんなが思ったが、ここでもドラマがあった。

 △5七歩成と取られたとき、▲8六玉はやむをえない。ところが、△9二飛と逃げられて、先手は指す手がなくなった。▲5三歩成とやりたいが、△8五歩▲同玉△5三金▲同成銀△7三桂の王手角取りではっきりしない。わからないが、長引きそうだから、この順を選ぶのかと思ったら、三浦八段が指したのは、▲9五歩だった。これまた誰もが気がつかぬ手で、野垂れ死に覚悟の手である。

 ところで、このとき三浦八段は後悔でいっぱいだったのだ。バカな、なぜ▲8三香と打たなかったのだ、と。

 感想戦で、三浦八段がそれを言ったとき、先崎八段や私達は、何を言っているのかわからなかった。極端に言葉を省いているせいもあるが、なにより着想が奇抜すぎていたからである。

 ドラマとはこの場面(6図)で、▲8三歩で▲8三香と打てば先手がよかったのだ。

「思いつかない」先崎八段は目をむいた。まったくこの将棋は驚く場面が多い。

 こんな筋を考える人など三浦以外にいないが、やってみると一理も二理もある。歩でなく香ならば、△9二飛のとき、▲8一香成がある。この進行なら、先手玉も入玉を狙える意味があり、有望だった。

 もし▲8三香と打ち、三浦八段が勝っていたら、生涯を通じての会心の一局になったろうに。まったく惜しかった。

 先崎八段は、知らぬ間に危機を脱していたわけで、△8四歩と手がかりの歩を打って、先が見えて来た。

7図以下の指し手
▲5三歩成△5六銀▲9四香△6五銀▲9二香成(8図)

 丸山名人は、継ぎ盤に向かっているときも口数がすくないが、動かす駒は雄弁で、7図から最終まで、すべての手順を示し、後手勝ちの結論を出していた。

 ▲9四香で、▲4三とは、△6五銀で後手玉は詰まないから先手負け。▲9二香成は見事な形作りの一手だった。すなわち、後手の次の一手が妙手である。

8図以下の指し手
△5三金▲同成銀△7六金▲9七玉△9六歩▲8八玉△7八角成▲同玉△8七角▲7九玉△7八金 まで、先崎八段の勝ち。

 すぐに△7六金は▲9七玉で詰まない。一歩されば△9六歩がある、というわけで、歩を補充する△5三金が決め手になった。これが一手すきを消す手にもなっている。

 プロの将棋らしいのは、遂に▲1八飛の王手が指されなかったこと。味を消さない例であった。

 終了は午前0時27分。感想戦は静かに始まった。形通り最初から並び直されたが、丸山名人は30分ばかり見て一言も口をはさまずに席を外した。それから30分あまりして、田中九段が帰った。これで棋士はいなくなり、観戦記者と私など数人が残された。感想戦はなおもつづいているが、見るべきものは見たと、私もそっと帰った。

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昨日の棋王戦挑戦者決定トーナメント、松尾歩八段-三浦弘行九段戦で、三浦弘行九段が激戦を制してベスト16に進出した。

三浦九段の不調が続くかと心配をしていたが、昨日の指し回しは完全な復調を思わせてくれるような展開だった。

棋王戦での次の対局は、羽生善治三冠-及川拓馬六段の勝者、その先には(豊島将之八段-藤井聡太四段の勝者)と森内俊之九段の勝者が待ち構えている。

壮絶な山だが、三浦弘行九段としても望むところだと思う。

目が離せない戦いが続く面白い夏となりそうだ。