阿部隆七段(当時)「当時の羽生さんは全然強いと思わなかった。こっちも相当ひどかったけど。もっとも、羽生さんはそれから1年くらい経ったら化け物になっていた(笑)人間、こんなに強くなれるもんかと思った」

将棋世界2002年12月号、鈴木宏彦さん記の「第15期竜王戦挑戦者 阿部隆七段インタビュー 無欲に秘める関西の闘志」より。

―阿部さんの将棋はこれまで何度も観戦していますが、あらたまって生い立ちを聞くような機会はありませんでした。そこから聞かせてください。

阿部「生まれは大阪市内の淀川区。小学生のときに今の十三に来ました。事情があって母親一人に育てられたので、母方の親戚の家の近くに引っ越したんです。将棋は小学校3年のときに一時同居していた叔父に教わった。もっとも、当時は野球もやっていたので将棋はぽちぽち。本格的に始めたのは中学に入って師匠(田中魁秀九段)の教室に通い始めてからです。小学校6年でアマ9級だったのが、中2の秋には三段半になった。田中教室では、石飛英二(元奨励会三段)君と2つ下の佐藤康光君がライバルだった。初めて会った佐藤君はまだ小学校5年生。やんちゃで近所の駄菓子屋によく走って行きました。兄弟子の福崎さんはもうプロの六段でした。谷川さんと並ぶ関西の花形スターで、当時の福崎さんのカリスマはすごかった」

 カリスマ福崎、優等生佐藤康光、元気(生意気)阿部。これは田中一門の伝説として、いまだに聞く話だ。「後輩から見た奨励会時代の福崎さんは神様のようで近寄り難い存在だった」と浦野真彦七段に聞いたことがある。佐藤康光が関西奨励会から関東に移籍するときは、関西奨励会の東和男幹事が、「将来の名人候補が東京に行ってしまう」と嘆いたという。阿部の大物ぶりも奨励会時代から評判だった。

阿部「小学校6年のときには、もうプロ棋士になろうと決めていました。母親を助けたいとかじゃなくて、プロにあこがれていたんです。夢は中原、米長でした。(中略)羽生さんとは、奨励会のときに1度対戦しているんです。2人とも二段のときの奨励会旅行。賞金大会の3位決定戦だった。矢倉の定跡形で向こうが変な手を指してきたので、感想戦で、『この手はおかしいんじゃないですか』と言ったら、『どうやるんですか』と聞き返してきた。当たり前の形なのに、こいつ、なんにも定跡を知らんなと思いましたよ(笑)。僕は奨励会に入ったころから序盤にウエイトを置いていたけど、当時はプロ棋士でも定跡を知らない人がたくさんいた。もっとも、僕の場合は根本的な力がなかったので、四段になってから苦労しました」

(中略)

 阿部の四段昇段から半年後、今度は東の天才が四段になった。同年12月18日、羽生四段誕生。東西の天才少年の対決を見ようと、さっそく本誌が三番勝負を企画した。結果は羽生の2連勝。

阿部「羽生さんとの三番勝負ですか。昔のことで、あんまり覚えてないんですよ。2局目の終盤ですごい手を指されて逆転負けした記憶はある。▲3九角?そうそれそれ。でも、当時の羽生さんは全然強いと思わなかった。こっちも相当ひどかったけど。どちらも今より角1枚くらい弱かったような気がする。もっとも、羽生さんはそれから1年くらい経ったら化け物になっていた(笑)。人間、こんなに強くなれるもんかと思った。四段になってすぐに指した将棋を芹沢先生(故博文九段)に褒められたことがあるけど、それはたまたまできがよかっただけ。芹沢先生に勧められて陶芸の本を読んだけど、18のガキにはただちんぷんかんぷんなだけだった(笑)」

(中略)

 年下の羽生少年に2連敗した阿部は、「今度は順位戦で指そう」と言い残して大阪に帰ったという。阿部らしい話だ。その後の羽生の活躍についてはいまさら言うまでもない。奇跡的な強運と実力が重なって、羽生の独走は何年も続いた。しかし、その独走が終わったあとは、他の実力者たちも徐々にその力を発揮し始めた。佐藤康光、森内、藤井、丸山、郷田。羽生世代の実力者は一通りタイトルを取ったし、谷川も復活した。その間、阿部は何をしていたのか?

阿部「羽生さんが活躍するようになっても、特に意識することはありませんでした。ただ、すごいなあと思っただけ。佐藤君や森内君も親しいし尊敬もしているけど、負けて悔しいと思うことはないです。もともと人のことは意識しない性格なんです。ずっと、自分は自分のやれることをやるしかないと思っていました」

(つづく)

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故・芹沢博文九段は、阿部隆四段(当時)がデビューした頃から非常に高く評価していた。

「芹沢先生に勧められて陶芸の本を読んだけど、18のガキにはただちんぷんかんぷんなだけだった(笑)」

陶芸の本を18歳の少年に勧めるところがいかにも芹沢九段らしいが、どのような陶芸の本だったのだろう。

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「矢倉の定跡形で向こうが変な手を指してきたので、感想戦で、『この手はおかしいんじゃないですか』と言ったら、『どうやるんですか』と聞き返してきた。当たり前の形なのに、こいつ、なんにも定跡を知らんなと思いましたよ(笑)」

羽生善治三冠は、奨励会時代から非常に強かったわけだが、当初は荒削りだったことがわかる。

「羽生さんはそれから1年くらい経ったら化け物になっていた(笑)。人間、こんなに強くなれるもんかと思った」

四段になり強豪棋士とも対戦するようになって、スポンジが水を吸うように様々なことを自分の糧としていったのだろう。

阿部隆七段(当時)の言葉が小気味いい。

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阿部隆八段は、佐藤康光九段とは兄弟弟子の関係、森内俊之九段とは仲が良く、よく一緒に遊んでいた。

森内俊之八段(当時)と阿部隆六段(当時)

森内俊之八段(当時)からの深夜の着信

「今、森内がウチに来てるんだよ。後から康光も来て、明日になれば郷ちゃんも来るんだけど」

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羽生善治四段(当時)と阿部隆四段(当時)が戦った1986年の将棋世界の企画「天才少年激突三番勝負」。

第1局→羽生善治四段(当時)四段昇段後の初めての対局

第2局→羽生マジック登場1号局と思われる一局