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羽生善治名人(当時)「気持ちを高める時間だった。それが結果として9分35秒必要だったということでしょう」

将棋世界2001年6月号、NHKアナウンサーの村上信夫さんのエッセイ「9分35秒の実況中継」より。

 時間にして、9分35秒。その間、対局室には、息をするのも唾を飲むのも憚られるような空気が流れていた。

 平成9年の第55期名人戦は、平成の将棋界を代表する羽生・谷川二人の対戦だった。挑戦者の谷川浩司竜王(当時)は、このシリーズを制すれば永世名人の資格を得る。羽生・谷川のどちらが先に十七世名人を名乗るのか、世間の注目を集めていた。

 谷川竜王が、羽生善治名人(当時)をカド番に追い込んで迎えた第6局。羽生名人には、後がない。群馬県伊香保温泉の対局室には、地元のファンも入って、大一番が開始される瞬間を見守っていた。

 対局開始時刻の午前9時と同時に衛星放送も始まった。立ち会いの五十嵐豊一九段が対局の開始を告げた。

 だが、先手番の羽生名人は、膝の上で手を組み、目を閉じて俯いたまま微動だにしない。1分たっても2分たっても、いっこうに指す気配がない。初手が指されないと、対局室にいるファンの人たちも退出するきっかけがつかめない。取材陣もカメラのシャッターボタンに手をかけたまま、いかんともしがたい。そして、私はひたすら実況するしかない。初手が指されたところで、番組タイトルが出る手筈になっている。それまでは、実況描写して待つしかないのである。用意したコメントに加えて、目に映ることを実況しながら、羽生さんの手の動きから目を離さないようにしていた。

 羽生さんは、5分近くも姿勢を変えず、沈思黙考していた。「自分の気持ちを高ぶらせているのかもしれません」と私はコメントしたが、実際後で羽生さんに聞くと、「気持ちを高める時間だった。それが結果として9分35秒必要だったということでしょう」と、こともなげに答えてくれた。

「5分半たちました。目が開きました。指しません。まだ」と実況している私は、はじめのうちは、早く指してほしいと思っていたが、このままの状態がずっと続くなら、それはそれでいい。ずっと見守りながら、実況を続けようという気持ちに変わっていった。

 9時6分30秒。羽生さんが駒台に手をかけた。一瞬、飛車先を突いたのかと思った。

「まだです。まだ指しません」

 そして羽生さんは、唇を真一文字に結んだ。こめかみに手をやった。少しうなづいた。小さく息をはいて、吸った。

 谷川さんは、左右に視線を配りながら、盤面から目をそらしていた。谷川さんは、やはり「早く指してほしい。早くこの空気を変えたい」と考えていたそうだ。「作戦の決断を確認する時間だったのではないか」と分析している。「それにしてもあの雰囲気の中で初手をあれだけの時間かけて指すような芸当は自分には出来ない」とも言ってる。

 羽生さんが初手を指すまでの間、多くの人が、名人戦独特の空気を味わっていたに違いない。駒が動く前から始まっている戦いに酔いしれていたに違いない。

 ついに羽生さんの指が歩をつまんだ。「さぁ、やっと手が動きました。9時9分35秒。7六歩です!」私の実況も少し声高になった。

 長く長く感じた9分35秒だが、それは至福の時でもあった。ハラハラドキドキワクワクさせられる時間であった。

* * *

 対局室の二人を見ているだけで絵になる。和服の着こなし、正座姿、駒を並べたりかたづけたりするしぐさ…。どれもが日本の様式美を伺わせる。

 対局に没頭すると、テレビカメラが自らを映しているなどという意識はなくなる。髪の毛をかきむしって考える姿、勝利を確信してお茶を飲む姿。勝敗をかけた男たちの姿は、見るものを釘付けにする。

 3月に生中継した『将棋界のいちばん長い日』宛に視聴者から届いた200通あまりのFAXの中に、「将棋のルールは知らないけど、対局姿に引き付けられて見ている」という人が何人かいた。こういう人を大切にしていきたいと思う。将棋を知らない人が見ても面白い将棋放送を心掛けたい。ハラハラドキドキワクワク、みんなで楽しめる将棋の放送を目指したい。

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スポーツで言えば重量挙げ、ハンマー投げ、走り高跳び、走り幅跳び、スキージャンプなどが、自分の中で気持ちを高めてからスタートできる競技。

とはいえ、これらは瞬発力あるいは短時間の中で力を発揮し尽くすための精神集中(神に祈っている場合もあるかもしれないが)であり、将棋で初手を指すまでの「気持ちを高める」とは性質が異なるものなのかもしれない。

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自分を振り返ってみると、果たしてこれまでに「気持ちを高める」ようなことをしたことがあったのだろうかと考えてしまう。

 

いろいろと思い出してみたが、気持ちを落ち着かせたり鎮めたりするようなことはあっても、気持ちを高めた事例がなかなか出てこない。

あるとしたら、カラオケで難しい曲を歌おうとする時に自分の気持ちを高めたことがあるくらい。

かなり冴えない。

 

 

 

「君は強いんだってね。羽生さんがそう言ってましたよ」

将棋世界2001年8月号、山野美容芸術短期大学教授の中原英臣さんのエッセイ「羽生五冠、丸山名人との不思議な御縁」より。

 私は将棋には詳しくないのですが、自分でも不思議だと思うくらい将棋の世界とは御縁があるようです。私は羽生五冠の就位式には殆ど出席しています。皆勤賞は無理としても精勤賞くらいはいただけそうです。

 羽生五冠との御縁についてお話するには、時計の針を1990年まで戻さなくてはなりません。当時『クオーク』という科学雑誌で対談を連載していた私の前に対談相手として颯爽と現れたのが、その前年に19歳で竜王になったばかりの羽生五冠でした。羽生五冠の印象を私は「天才は一つの世界を変える。碁と違い先手後手の差がなかった将棋に、羽生竜王が先手有利の革命を起こしつつある。将棋はゲームだと笑う若き天才の笑顔に日本人に欠けている国際的センスを感じ、心が晴れました」と書いています。

 その後の羽生五冠の活躍は素晴らしいものがあります。就位式の祝辞をお願いされたのに、どうしても都合がつかなくて「今回は無理なので、次の機会にお引き受けさせてください」と申し上げたところ、わずか1ヵ月で「次の機会」がきたこともありました。いまでも時折お話を伺うことがありますが、羽生五冠のすごいところは、いくら強くなりタイトルが増えても、初めてお会いした時の素晴らしい笑顔が少しも変わらないことでしょう。

 もう一つの御縁についてお話するには、時計の針を1992年に合わせなくてはなりません。当時(今でもそうなのですが)、早稲田大学で楽勝科目の聞こえも高い「生活の衛生学」という講義を持っていた私は学生たちから「仏の中原」と呼ばれていました。その楽勝科目の進級試験が来週に迫っていたある日のこと、私は試験のテーマを学生たちに知らせていました。普段は欠席がちの学生たちも、この日ばかりは私の言葉を一言一句といえども聞き逃さないという真剣な様子で講義を受けています。テーマを与えた後に、いつものように「就職試験などでどうしても試験を受けられない学生はレポートを提出すればいいですから、講義が終わったら申し出てください」と言いました。

 講義が終わると、毎回かならず講義に出て一番前の席で真剣にノートを取っていた真面目な学生が「私はレポートにしていただきたいのですが」と申し出てきました。いくら「仏の中原」でも、試験を受けられない理由くらい聞かなくてはなりません。以下は真面目な学生と私の会話です。

「試験に出席できない理由は?」「実は将棋の対局があるんです」「えっ、いくらなんでも将棋部の試合じゃ駄目だよ」「実は、私、プロなんです」「プロって将棋のプロのこと」「そうなんです。来週はプロの対局があるのですが」「そうなの、それならいいでしょう。ところで対局相手は誰なの」「羽生さんです」「えっ、それじゃ君、勝てっこないじゃない」「……」

 これが丸山忠久名人との出会いでした。その日、家に帰ってから羽生五冠に電話をして「私の講義を受けている丸山君という学生が羽生さんと対局するようですね」と言うと、即座に返ってきたのは「丸山さんはとても強いんです」という声でした。後日、レポートを持ってきた丸山名人に「君は強いんだってね。羽生さんがそう言ってましたよ」と言うと「それほどではありません」と照れていた姿がいまも目に浮かびます。この時の羽生五冠の御墨付きは、丸山名人が誕生した瞬間に証明されました。

 レポートは見事なまでに論理的で「仏の中原」でなくても「優」を与えたと思います。いま手元にある丸山名人のレポートには「授業で先生はエイズの治療薬が私達が枯れる頃までできないだろうと予想していたが、何か画期的な新薬ができるのではないかという希望的観測をもっている」と書かれていますが、私の予想は外れて丸山名人の観測が当たりました。名人の読みにはかなわなくて当然かもしれません。

 その他にも森下卓八段とも仲良くさせていただいており、奥様の声楽のリサイタルにもご招待いただいたこともあります。卒業後は一度もお会いしていなかった丸山名人との再開をセットしてくれたのは、顔の広い森下八段でした。時計の針を戻すだけでは能がなさすぎるので、ここで一気に針を10年先に進めてみますと、進化論を研究している私の目には、将棋界を進化させている3人の姿がはっきりと見えます。

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”就位式の祝辞をお願いされたのに、どうしても都合がつかなくて「今回は無理なので、次の機会にお引き受けさせてください」と申し上げたところ、わずか1ヵ月で「次の機会」がきたこともありました” は物凄い迫力。

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私大での進級試験ということは、1月下旬から2月上旬にかけて行われる試験。

そういうことから、「もう一つの御縁についてお話するには、時計の針を1992年に合わせなくてはなりません」の1992年は、1992年1月の中~下旬のことだと思われる。

この頃に行われた羽生-丸山戦はNHK杯戦準決勝で、羽生善治五冠(当時)が勝っている。

丸山忠久九段は四段の時。(この年の3月に順位戦でC級1組への昇級を決め五段に昇段している)

棋士2年目でNHK杯戦準決勝に進み、勝率も7割を超えているのだから、どう見ても凄い四段だ。

羽生五冠が「丸山さんはとても強いんです」と言ったのも、中原英臣さんへの社交辞令抜きの、全くの感じたままの言葉であったことが分かる。

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それにしても、丸山九段は本当に真面目な学生であったことが示されている。

私など、必修科目以外の一般教養科目は最初の授業に出ただけで後はそれっきり、それで試験を受けて単位を取った科目も多かった。

丸山九段の真面目な大学生度を100%とすると、私は30%くらいのものだったと思う。

何しろ、大学にはキャンパスがなく、たくさんの喫茶店、雀荘、居酒屋などが超至近距離にある絶妙な環境だった。

 

 

羽生善治棋王(当時)「与えれば与えられるんです」

将棋世界2001年7月号、写真家の岡村啓嗣さんのエッセイ「島研」より。

 羽生善治さんのスポーツ好きは、有名だ。

 自身でやるのは水泳と軽いジョギング。体力を強化するのとリフレッシュが目的だ。

 中学生のころは、東京・八王子の自宅から片道40分の自転車通学をしていた。行きは延々と坂道を登る。かなりハードだ。3年間の自転車通学で相当体力・脚力が鍛えられたに違いない。昨シーズン89局という最多対局記録を達成したが、こうした基礎体力があったからこそではないかと、あの坂道を思い出す。スポーツ観戦は、時間が許す限りしているようだが、サッカー、ラグビー、NBAなど好きなスポーツは多い。スポーツ選手との交流もある。ラグビーの平尾誠二さんと羽生さんが初めて会ったのは、竜王奪取から1年余り経った91年4月頃。当時、羽生さんは20歳で、竜王を谷川浩司さんに取られ持っていたタイトルは棋王一冠のみ。棋士人生の中でも珍しくスランプに陥っていた頃だった。一方、平尾さんは当時27歳で日本代表チームの主将をつとめ、強豪スコットランドに勝つなど「スポーツ界のプリンス」ともてはやされ、またその発言から「革命児」とも呼ばれ、注目を集めていた。

 二人はすぐに意気投合、すっかり打ち解けた。最初に行った店は、青山通りに面したスペインレストラン。二軒目は、パブを貸し切り状態にしてカラオケを歌った。羽生さんは「マスカレード」を、平尾さんは「大阪で生まれた女」を熱唱。

 二人がどんな話をしていたか、私は今でもはっきり覚えている。

「島研」についてだった。羽生さんが所属していた研究会である。

 島朗さんが、羽生さん、佐藤康光さん、森内俊之さんを集め、プロの棋士としては初めての研究会を作ったのだ。今でこそ、棋士が集まり研究会を開くのは当たり前になっているが、当時としては画期的。他の棋士たちからは「プロ同士が一緒に研究といっても、手の内を明かしてしまったら不利になるだけ。成立するわけがない」と冷ややかに見られていた時期でもあった。

 平尾さんと羽生さんの話題もそこに集中した。

 平尾さんも当時代表チームの主将として迷いがあった。ラグビー界は、代表チームの成績よりも国内で所属するチームの成績をより重視する傾向にあった。自分が持つノウハウを代表チームで全て教えてしまったら、国内の試合で自分が所属するチームは不利になる。口には出さないが、様々なジレンマを感じていた事だろう。

 その時の羽生さんの一言が強烈な印象として残っている。

「平尾さん、与えれば与えられるんです」

 そう語ったときの羽生さんの真剣な眼は忘れられない。

 あれから10年、時は流れた。

 羽生さんは、史上初の七冠王を達成。平尾さんも神戸製鋼を率いて日本選手権7連覇を達成させた。

 いつしか島研も解散。4人揃ってタイトル戦やA級で活躍するようになって、さすがに役割を終えた。

 しかし、羽生さんと平尾さんの二人はその後も定期的に対談の機会を持つなどして、交流を継続させている。

 私自身、お二人と親しくさせていただきながら、それぞれの10年余りの歳月を思うと、その生き方、考え方に共通のものを感じ、将棋とスポーツ、真剣勝負の中で語る本質は一緒なのだと実感している。

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「平尾さん、与えれば与えられるんです」

内容は異なるけれども、「情けは人の為ならず」と同じような雰囲気のこと。

それにしても、20歳の若さでこのようなことを話すことができる羽生善治三冠があまりにも凄い。

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パブを貸し切りというのが豪快だ。

1991年の羽生棋王(当時)はまだ広く顔は知られていなかったものの、平尾誠二さんはスター選手であったので、貸し切りにする必要があったのだろう。

羽生棋王が歌った「マスカレード」。

ジョージ・ベンソンやカーペンターズがカバーしたレオン・ラッセルの曲が思い出されるが、庄野真代の「マスカレード」、trfの「マスカレード」、SHOW-YAの「マスカレード」など、曲名は同じでも違う曲がたくさんある。

どの「マスカレード」を歌ったのかを総合的に考えてみると、安全地帯の「マスカレード」である可能性が高いと思われる。

羽生三冠は、少年時代にピアノで安全地帯の曲を練習していたと観測されるのがその主な理由。

羽生善治四段(当時)インタビュー(前編)

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平尾誠二さんは今年の10月に癌で亡くなっている。53歳の若さだった。

ラグビー日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任した平尾さんだが、伝説的なテレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の登場人物のモデルにもなっている。

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羽生三冠と平尾誠二さんは、『簡単に、単純に考える』 (PHP文庫)でも対談をしている。

簡単に、単純に考える (PHP文庫)

 

 

「棋士の特徴は、割り勘はめったになく、自分が金を払いたがることだろう」

将棋世界2001年6月号、山田史生さんの巻頭随筆「酒場にて」より。

 若い時は自分の酒の適量が分からず、飲み過ぎて吐いたりしたことが何回かあった。分別がつくに従いそのようなこともなくなったのだが、最近は年と共に適量が減ってきていることに気づかずに、若い時のつもりで飲んでしまい、気分が悪くなったり、翌日二日酔いになったりすることがたまにある。いい年をして汗顔の至りである。

 それはさておき、せっかく金を払い、時間を使って飲むのだから酒場では楽しく、気分よく過ごしたいものである。かといって自分だけ楽しければよいというものではなく、酒場側から見ても好まれる客でなくてはなるまい。客が帰ってから店で悪口を言われているような飲み方ではしょうがない。

 この項を書くにあたって、意識的に酒場のママやマスターに嫌な客について聞いてみた。金払いが悪い、酒ぐせが悪い、女性にさわりたがる、これが嫌われる客の共通したベスト3で、これは常識から見ても当然であろう。問題は自分ではあまり気づかずに嫌われている場合である。

 バーのマスター「まず威張る人。酒場の人間を一段低く見て、アルバイトの女性や青年をすぐ”お前”呼ばわりする人。今の時代、首相だろうが社長だろうが、人間的には誰でも平等。社会的地位があるから、金を払うんだからといって威張ったり、わがままをいう人は嫌われます。また家庭の話はあまりしない方がいい。息子が一流大学へ入ったことを自慢げに言ったり、女房がどうしたこうした、などという話は、店にも他の客にも関係ない。むしろ白けることが多いんです」

 スナックのママ「カラオケで他の客に拍手を強要する人。自分のグループに対してならまだしも、関係ない人にまで拍手を求めるのは、場をにぎやかにしているつもりでしょうけれど嫌ですね。また4、5人で急に来て、入れないと”前に来ている客に帰ってもらえ”とか”こんな店もう来ない”など悪態をつく人。電話一本くれていれば何とかなるかもしれないのに、急ではどうしようもない。嫌というより気が回らないんでしょうね」

 小料理屋のおかみ「一人で来ていて、他のグループの話にあれこれ口を出す人。親しみを見せているのでしょうが、相手は迷惑がっていることが多いんです。また自分の話ばかりしていて人の話を全く聞かない人。酒を売っているんだから酒に酔うのは仕方ないけれど、周囲に気が回らないほど酔ってしまうのは嫌ですね」

 ところで酒場における将棋棋士はどうか。数十人の棋士と酒席を共にしていると思うが、お世辞ではなく概して評判がよいのは喜ばしいことである。将棋棋士の特徴は、割り勘はめったになく、自分が金を払いたがることだろう。勘定を払うには順番のようなものがあって、まず対局があった後なら勝った棋士。先輩、後輩の場合は先輩。地位に差がある場合は上位(稼ぎのよいほう)の棋士。あとは飲みに行きましょうと誘ったほう。このような暗黙の了解がある。だから若手棋士がなまじ「今日は私が」などと言うと「まだ10年早い」と怒られたりすることがあるので、勘定を払うにも気を使わなければならないのである。

 将棋に勝つ、強くなる、地位が上がる、ということに直結しているので、酒場では金を払う側に回りたいと棋士は常々思っている。珍しい人種といえようか。

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先輩から受けた恩を後輩に返す、棋士の良き伝統。

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その日の対局に勝った20代若手棋士が、30代タイトル保持者、40代A級在籍八段、50代九段、を誘って飲みに行ったら誰が払うことになるのか。

なかなか難しい問題でケースバイケースなのだろうが、50代九段として当時の二上達也九段や内藤國雄九段や勝浦修九段などの顔を思い浮かべると、50代九段(最も先輩)が払うことが多かったのではないかと想像できるのだが、その場に当時の中原誠十六世名人がいたらどうなっていたのか、などやはり非常に難しい問題だ。

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故・芹沢博文九段も後輩棋士にたくさんご馳走したと言われている。

芹沢九段の場合は、全盛期の中原十六世名人や米長邦雄永世棋聖と一緒に飲む時も芹沢九段が勘定を持っていたわけだが、ツケにすることも多かったようだ。

結局はいろいろな店にツケが残ったまま芹沢九段は亡くなったわけだが、店のママからすると、「芹沢さんが勘定を持つことはないから、お願いだから中原さんや米長さんに払わせてあげて」と思ったかもしれない。

 

 

『聖の青春』担当編集者の随筆

将棋世界2001年4月号、講談社の矢吹俊吉さんのエッセイ「私はA級八段である」より。

 ある日突然、私はプロ棋士になっていた。しかもA級である。八段である。六枚落ちでも勝てない、あの先崎学と同格である。

 夢ではない何よりの証拠に私の前には盤が十面、そして指導対局がはじまるのをわくわくしながら待っている子どもたち。司会者の合図に私は鷹揚にうなずき、おもむろに5四歩と指しはじめた―。

 指しはじめたとたんに化けの皮がもろくも剥がれた。しょせんは自称永世アマ初段、指はもつれる、駒はマス目におさまらない。かくて一月六日TBS系放映のドラマ『聖の青春』は名作に小さな傷を残したのだった。シャレではなく、私の手つきに関する棋友たちの懸念は、杞憂には終わらなかったのである。

 リハーサルのときは落ち着いていた。撮影現場にはさいわい将棋に詳しい人はだれもいない。ただでさえ増長しやすい私は、あろうことか将棋の振り付けまでする「先生」と化していた。

 異変が起こったのは本番直前のことだった。著者の大崎善生氏、いわずと知れた本誌前編集長が予告もなしに現れたのである。三流の詐欺師が仕事中、本職の弁護士に踏み込まれたような心境といえば近いだろうか。私の指は凍りついた。編集者の仕事はほとんど詐欺師、というのが私の持論である。それがこんなところで実証されようとは。

 故村山九段の生涯を描いた『聖の青春』(講談社刊)は刊行後一年がたった現在も売れつづけている。読者は将棋ファンの枠を大きく超え、一種の社会現象といっても過言ではない反響を呼んだ。日本人が忘れた「生きる美学」が、読者の心をうちふるわせてやまないのだろう。

 大崎さんは泣きながら書いた。担当者の私は泣きながら編集した。十回読んで三十回泣いた。ドラマの脚本を読んで泣き、テレビを見てまた泣いた。四十歳のときにはじめたヘボ将棋がご縁となり、これだけの作品に巡りあえたのは、まさに編集者冥利につきる。

 昨年二月、この本の刊行を機に私は村山九段の実家を訪問し、生涯忘れぬ駒に出会った。ご両親に見せていただいたその駒は聖少年が愛用したプラスチックの駒である。いったい何万回盤に打ちつけたらそうなるのか、角も飛車も半分ほどにすり減って傷だらけになっていた。病院のベッドで、あるいは奨励会時代のアパートの一室で、ひたすら盤に向いつづけた聖少年の思いの深さ、激しさ。どんな名匠の手による盛上駒の逸品よりも尊い、魂のこもった駒だった。

 難病ネフローゼと闘いながら、村山聖少年はわずか二年十一ヶ月で奨励会を勝ち抜いた。鬼気迫る精進、抜きんでた才能、そして名人への執念。聖には及ばぬまでも、奨励会員たちは青春のすべてをかけて今日も鎬をけずっている。いずれ劣らぬ天才たちも、おそらく五人に四人が夢破れ、将棋界を去ってゆく。彼らの青春とは何なのだろうか。

 五月刊行予定の大崎さんの第二作は、奨励会に挫折した青年たちの物語である。せつなくも美しく、最後に勇気が湧いてくる作品とだけ書いておこう。

 今や私は白昼堂々、千駄ヶ谷に通っても、デスクの上に盤駒を広げても、社内でだれにも文句を言わせない地位を獲得した。勢いあまって刊行した村山九段の師匠、森信雄六段の『あっと驚く三手詰』も好評を博している。はっきりいって無敵である。ただ一点を除けば、こんなに恵まれた将棋ファンがいるだろうか。

 指導対局のシーンで、私に与えられたセリフはひとことだけ。それは日常生活で私がもっとも多く口にすることばだった。

「はい、負けました」

 無念である。

※(やぶき しゅんきち)元「現代」編集長、現在講談社学芸図書第二出版部長。『聖の青春=大崎善生著』、『イサム・ノグチ=ドウス昌代著』など優れたノンフィクション作品を手がける。1954年生まれ。

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講談社の矢吹俊吉さんは、新宿2丁目にあった酒場「あり」によく来られていた。

とても温厚な紳士で、なおかつ堅苦しくないといった感じで、私もこのような大人になりたいと思ったものだった。

その後、矢吹さんは子供将棋教室を手伝ったりもしている。

現在の矢吹さんは、講談社サイエンティフィクの代表取締役社長。

講談社サイエンティフィク 矢吹俊吉社長第1回(ホテル暴風雨)

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矢吹さんが演じたのは、将棋のイベントで子供を相手に多面指しをするプロ棋士の役。森安秀光八段(当時)の役ということになる。

Youtubeで短時間の映像を見た時にこのシーンもあって、「あっ、矢吹さんだ」とビックリした。

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「五月刊行予定の大崎さんの第二作は、奨励会に挫折した青年たちの物語である。せつなくも美しく、最後に勇気が湧いてくる作品とだけ書いておこう」とあるのは、『将棋の子』のこと。

この作品も泣けた。

愛媛県出身の女性に、「坂の上の雲(1)」(愛媛県出身の秋山好古・秋山真之兄弟、正岡子規が登場する)をプレゼントしたら、あまり面白いと感じなかったのか途中で読むのを止めてしまったらしいのだが、それではと『将棋の子』を勧めたら、ボロボロ泣きながら一気に読んでしまったと報告があった。2004年頃の話。

将棋の子 (講談社文庫)

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「勢いあまって刊行した村山九段の師匠、森信雄六段の『あっと驚く三手詰』も好評を博している」と書かれている『あっと驚く三手詰』は、2001年に将棋ペンクラブ大賞著作部門技術賞を受賞している。

 

あっと驚く三手詰