将棋界の大旦那「七條兼三」(6)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の6回目。

今日は、七條兼三氏の詰棋人との交わりについて。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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詰棋人との交わり

七條が詰将棋を愛したのは、中年になって目覚めた自らの棋才とともに、詰棋人との交わりが楽しかったからだろう。

毎年正月の二日は、詰棋人しか邸に入れない。会社の人や業界の人、他の趣味の人たちは他の日に廻す。この日ばかりは、気の合った詰棋人との歓談に終始する。黒川一郎、駒場和男、門脇芳雄、森田銀杏、森敏広などが常連であった。

「君のあの作品ね、あれはいいよ。でも穴があるような気がして検討したのですが、残念ながらありませんでした。あははは」

こう言っては、日本酒を旨そうに呑み干すのである。

ほとんどの詰棋人は、十代二十代の若いころから詰将棋の世界に入るが、七條は昭和39年46歳で始めた。将棋雑誌の広告で「詰将棋パラダイス」を見、好奇心で取り寄せた。指し将棋は実力五段あったが、詰将棋を解く才は別で、ずいぶん苦戦した。凝り性の七條、

「よし、それなら解いてやろう」

と本気で詰将棋に取り組んだのである。

毎日毎日取り組んでいるうち、いろいろな手筋があることがわかり、おもしろくなった。そうなると上達は早く、中編も、長編にも挑戦できるようになった。

詰パラを発行している鶴田諸兄とも面識を得たが、硬骨漢で大酒呑みの鶴田を、一発で気に入った。

鶴田は当時タブーとされていた、プロ棋士の詰将棋代筆問題を槍玉に挙げていた男だ。元名古屋警察の公安警部で、数々の有名事件をさばいてきた現代の侍である。しかし武家の商法であるから、詰パラの経営は苦しく、赤字続き。七條は鶴田と知り合ってすぐから、援助を申し出た。一度、鶴田について、苦笑いしながら語ったことがある。

「鶴田君はおもしろい男でね。僕が経営の足しにしてもらうつもりで、明治時代の金貨や銀貨を上げたんです。そうしたら驚くことに読者プレゼントに出してしまった。ただのコインだと思っていたのでしょう。あれでは経営がたいへんなわけです」

七條の日本金貨コレクションは日本一で、夢の完全収集(種類+発行年度)を成し遂げ豪華な原寸写真入りの本まで出している。日銀にもない、世界でも数枚しかない金貨も、手に入れている。

詰将棋の解答を始めた翌年には、自邸で、全国詰将棋大会を開くという進展ぶり。この大会は空前絶後、今も語り草になっている。

まず、大会二日前に鶴田はじめ幹事数名が秋葉原ラジオ会館の社長室を訪れる。大会の進行など打ち合わせがあり、ビールや果実酒を呑む。夕刻になると、行きつけの神田明神下にある料亭へ繰り出す。ここには七條専用の囲碁将棋の盤駒が備えられている。馴染みの芸者が来てまた呑み始める。

翌日は前夜祭だが、真昼間から上野の森の七条邸に集まり、その数三十有余人。七條が手配した美人が三人現れ、皆に酌をして歩く。あたりが暗くなると、将棋、麻雀、座り相撲など、座は大いに高揚し、爆笑歓声が上がる。七條旦那はこの光景を肴に、気持ちよさそうに杯を干してゆく。

さて本番は五月九日(日)。五月晴れ。集まったのは全国の詰棋人が九十人。北は北海道、新潟、長野、西は京都、大阪、神戸から続々と参集。七條邸はこの日のために、大広間の畳替えをし、夜具を仕入れ、放送設備を整え、解説用の大盤を発注、座布団を百枚ほど誂えたという。まるで、朝廷からの勅使を迎える江戸城という騒ぎである。

午後一時大会開始。全国詰将棋連盟の議事や表彰、名物の会員自己紹介、懸賞詰将棋、万歳三唱、記念撮影などの式が終わると、お待ちかねの大懇親会だ。五人編成の楽団が、にぎやかに音楽を流すや、きれいどころ(芸者)が十数人サッと会場に流れこみ、

「さあさ、召し上がれ」

とお酌すれば、お堅い詰棋人たちも相好を崩し、思わずコップ酒を差し出すのであった。

(中略)

この日の提供品の記録が残っている。

銘酒五斗(一升瓶が50本)、麦酒拾打(ビール120本)、金貨、銀貨、盤駒、詰棋本…

(つづく)

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明治時代の金貨や銀貨の値段の例は次のとおり。

旧10円金貨 明治4年 有輪 550,000円

旧1円金貨 明治4年 前期 130,000円

財務省放出 新5円金貨 明治44年 極美品 180,000円

新1円銀貨 明治11年 深彫 110,000円

旭日竜5銭銀貨 明治3年 28,000円

発行年が変わったとしても、1枚最低でも数万円はするのだと思う。

全く、ただのコインではない。