藤井猛四段(当時)「好きな食べ物は肉類。嫌いな食べ物は納豆」

将棋マガジン1991年10月号、「ひと口メモ 藤井猛四段」より。

 スポーツは、特に、これといってはやりませんが、プロ野球の観戦は大好きで、中日ドラゴンズの大ファンです。

 映画はビデオでよく見ます。洋画がほとんどですが、カンフー映画も好きです。

 読書は、何でも読みます。

 今はまだ将棋一本槍なので、特に趣味と言えるようなものはありません。

 好きな食べ物は肉類。嫌いな食べ物は納豆。

 ためになった将棋の本は特になし。

 出身地は群馬県沼田市。現住所は東京都三鷹市です。

(談)

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藤井猛四段(当時)がデビューしたばかりの頃の談話。

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「好きな食べ物は肉類。嫌いな食べ物は納豆」

Wikipediaを見てみると、現在の藤井猛九段は、好きな食べ物はうどん、嫌いな食べ物は納豆と梅干し、と書かれている。

たしかに、一番好きな食べ物は年齢とともに微妙に変わっていくこともあるが、嫌いな食べ物はまず変わることがない。

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納豆は、平安時代には既にあったとされている。

「初めて納豆を食べた人と、初めてナマコを食べた人、どちらが勇気があるか」という問題があったら、かなり悩むと思う。

さらに、これに飯寿司、筋子、たらこなどが加わったら、相当な難問になる。

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カンフー映画の代表的作品といえば『燃えよドラゴン』、中日ドラゴンズのファン、そして竜王3期獲得と、藤井猛九段は「竜」と非常に縁が深いということがわかる。

 

「おい、知ってるかい。中田宏樹五段て、温和で虫も殺さない感じだろう。ところがオイチョカブをやると別人なんだ」

将棋マガジン1990年9月号、「公式棋戦の動き 勝ち抜き戦」より。

 巷の話。

「おい、知ってるかい。中田宏樹五段て、温和で虫も殺さない感じだろう。ところがオイチョカブをやると別人なんだ」

「どんな風に?」

「手付きがプロみたいに素早く、表情、仕種に味があるんだ。それに勝負に辛い。でもそれ以上にすごいのがあるけどね」

「何だいそれ?」

「将棋さ」

 先月号まで2人抜きの中田宏五段が、あれよあれよという間に6人抜きを果たしてしまった。

(以下略)

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中田宏樹五段(当時)は、ここまで米長邦雄王将、森安秀光九段、西村一義八段、内藤國雄九段、勝浦修九段、青野照市八段に勝って6人抜き、この号で有吉道夫九段に勝って7人抜き、次号で中原誠名人に勝ち8人抜きという快進撃。(大内延介九段に敗れ9人抜きはならず)

中田宏樹八段は羽生善治九段と四段になった時期がほぼ同じ頃だったため、中田宏樹四段(当時)が高い勝率をあげてもあまり取り上げられなかったという事情があるが、昔から実力者であることは衆目の一致するところ。

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将棋世界付録、「2000年棋士名鑑」には、中田宏樹八段に、なぜ「デビル」という渾名がついたかが書かれている。やはり、オイチョカブが関係している。

 元々中田宏樹には「ニヒル」という渾名がついていた。ある奨励会旅行の夜、中田は”おいちょカブ”で大勝ちした。オケラになった者に「お前はニヒルじゃなく悪魔だ。血も涙もないデビルだ!」と怒鳴られ、それ以来中田は「デビル」と呼ばれるようになった。

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今年の3月27日の竜王戦4組ランキング戦、中田宏樹八段-藤井聡太七段戦で、敗れはしたものの、中田八段が終始優勢に進めていたのは記憶に新しい。

NHK杯戦で中田宏樹八段の観戦を二度しているが、寡黙さの中に人柄の良さ、温かさが滲み出ているのが中田宏樹八段だ。

「正義のデビルがやってきた」

定跡を信用しない「創造派の三強」

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第32期王位戦七番勝負の挑戦者となった中田宏樹五段(当時)。将棋マガジン1991年9月号、撮影は中野英伴さん。

「棋士が続々天童へつめかける。羽生の骨を拾ってやる、と言うのが先崎五段らだ」

将棋マガジン1991年2月号、読売新聞の山田史生記者の「第3期竜王戦七番勝負終了 シリーズを振り返って」より。

 七番勝負敗者の後ろ姿は常に淋しげで哀愁が漂うものである。十段戦以来、毎年幾多の後ろ姿を見て来た。大山、中原、加藤、米長、桐山、福崎、そして前期の島も、皆淋しげだった。しかし今回の羽生の後ろ姿はしゃんとして、むしろ傲然とさえしていた。まだ20歳、これから数え切れないぐらいタイトル戦に出てくるであろうことを、自他ともに認めている自信がそうさせるのであろう。一度ぐらいの負けは、めじゃない。むしろ自分の今後のためになる敗戦であったと、誇示するかのような後ろ姿であった。

 しかし、前期、19歳の羽生善治が、島朗から激戦の末、竜王位を奪った時は、これは当分羽生の長期政権だろうと思ったものだが、その羽生が、こうも簡単に竜王を手放してしまうとは。

 挑戦するより防衛する方が難しいとよく言われる。それは予選を勝ち上がってきた挑戦者は、当然一番好調で、最強であるからだが、それにしても羽生にとって相手が悪かったとしか言いようがない。実力者谷川浩司が”絶好調”を道づれに、全力で向かって来たのだから、どうしても押され気味になったのは、やむをえなかったろう。

 ここでは、二人の天才が死力を尽くして戦った竜王戦全5局を、盤側から振り返りながら、その勝因、敗因を探ってみたい。

(中略)

 第3局(11月8,9日)は石川県小松市粟津温泉にて。

(中略)

 さすがの羽生も3連敗では七番勝負の行方も定まったと見るむきが多かった。

 第4局(11月15,16日)は長野市の「長野ホテル犀北館」。タイトル戦はやり慣れたホテルだが、竜王戦は初めて。

 角換わりで後手谷川の棒銀。羽生もストレート負けはつらい。守勢をとるが自陣に駒を打ちつけて、少しでも負けにくい陣形を作って粘りに粘る。これにゴウをにやしたか、谷川の読みに珍しくスキが生じた。王手飛車の筋を見落としており攻めに無理が生じ、羽生角捨ての妙手もあって、羽生初の1勝。

 羽生の局後の言葉。「一つ勝ててほっとしました」は本人はもとより主催紙の一員としても同様の心境であった。

 第5局(11月26,27日)は山形県天童市の「滝の湯ホテル」。ここは前期の第2局、島-羽生戦で持将棋になった対局場。衛星放送の関係者も含め、棋士が続々天童へつめかける。羽生の骨を拾ってやる、と言うのが先崎五段らだ。

 さて羽生は四間飛車に振る。振り飛車は羽生、相当な勝率というが、ここはもう居直った感じ。かつて中原が大山に対して2-3と追いつめられた時、振り飛車を連続採用して初めて名人位を奪取した例があるが、それに倣ったか?

 中盤から終盤にかけ羽生、飛車切りの強襲をかけ、これが決まったかと思われたが、谷川はきわどく勝ちがあるのを読み切っていた。ついに谷川、竜王位に就く!

 谷川は「挑戦者として気分的に楽な立場だったのが幸いしました。気を緩めずに次のタイトルも狙いたい」。

 羽生は「終盤で少しずつ読み負けていました。全局を通じ力一杯戦ったので結果は仕方ありません」。

(中略)

 さて改めて谷川の勝因を考えてみよう。6月に谷川は名人位を失った。このショックを谷川は開き直りではね返した。昭和57年、中原が名人、王位と失い、いったん無冠になりながら、そのあと獅子奮迅の勝ちっぷりで十段、棋聖、NHK杯などを奪取したことが合ったが、この時の中原の開き直りとよく似ている気がする。力のある棋士が予想外の敗戦を重ねた末、こんなことではいかんと、腰を据えて将棋に集中、本気を出した、という感じであろうか。

 また谷川自身が、前夜祭でのあいさつなどで述べていることだが「棋士はスポーツ選手と違い、第一線で戦える寿命が長いので、年上とか年下とかいっていてもしょうがない。勝負も目先の勝ち負けにこだわるより、30年ぐらいの幅で考えるべきではなかろうか。対戦成績も少しぐらいの勝ち越し、負け越しをうんぬんしても意味がない」という心の持ち方を意識的にするようにしており、これが見事に実行された。

 王位戦では20歳の佐藤康光と、なりふりかまわぬねじりあいを展開、今回の竜王戦でも同じく20歳の羽生を、後輩という目で見ず、謙虚に挑戦するという心構えで臨んだのである。

 もちろん谷川も大きな危機感を抱いていたことは事実だろう。羽生を筆頭に、佐藤康、森内、屋敷、森下ら、10代、20代前半の強豪棋士が続出、さらに郷田、丸山らも続く。まだ28歳の谷川がもう激しく追い上げられている将棋界の現実、今彼らにトップの座を奪われたら、抜き返すのはちょっと難しい。自分が踏ん張らなければ、という思いがいつになく強かったのではなかろうか。

 夏ごろから一日おきの対局という過密スケジュールが続いたが、これも良い方に転化した。酒席その他、つきあいのいい谷川が、つきあう時間の全くない将棋づかりの毎日。他の事に目を向ける余地のないことがむしろ良かったのではないだろうか。実戦は少ないよりも多いほうがいいに決まっているのだ。

 一方、羽生は―。昭和57年に奨励会入りしてから平成2年はじめまで、7年間将棋一筋に全速力で走り続けてきた。その結果、この2年間連続で全記録部門のトップを独占、最優秀棋士賞をとり、棋界最高位の竜王を獲得、順位戦もB級2組にまでこぎつけた。私生活でも苦労の末、高校を卒業することができた。

 どんな人間であっても、一息入れ、ほっとするのは自然のなりゆきではなかろうか。これでなおほっとしなければ、もう人間ではない。

 しかし緊張感が薄まっても勝てるほど甘くないのがプロの世界。負け数が増え、その結果として対局数も減った。

 かたわら免状への署名、各地将棋大会のゲストや審判、テレビ出演、マスコミのインタビューや対談など各方面でひっぱりだこ。これまでと日常のリズムががらりと変わった。19か20の若者としては将棋の調子が多少はおかしくなるのも当然であったろう。

 またタイトル保持者になってしまえば、どうしても受け身の姿勢になることは避けられず、そんなことも防衛戦に影響があったかもしれない。

 以上の中で最も影響があったのはやはり対局不足ではなかったろうか。羽生はどんどん対局することによって調子をつかんでいくタイプのようであるから。

 冒頭の記述に戻ることになるが、羽生にとっての強味は、彼自身、今回の敗北も含め、すべてが今後のための勉強、経験としてとらえていることだろう。何といってもまだ20歳、本来修行中の奨励会員であってもおかしくない年齢である。将来のためを思えば竜王防衛に失敗した方がむしろよかったような気さえする。やや不調のまま防衛してしまったのでは、将棋を甘く見てしまうことにもつながりかねない。自分でもそう思っているのではなかろうか。また近々タイトル戦に姿を見せることは確実だろうが、その時はもう一回り大きくなっているに違いない。

 ともあれ、全局両者全力をふりしぼっての見事な対局だった。むだ口一つない若者同士の気持ちのよい勝負。しかし戦い終わっては、ヒザつきあわせ喜々としてゲームに興じる。新しい勝負師たちの姿として、印象深い七番勝負であった。

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「七番勝負敗者の後ろ姿は常に淋しげで哀愁が漂うものである。十段戦以来、毎年幾多の後ろ姿を見て来た。大山、中原、加藤、米長、桐山、福崎、そして前期の島も、皆淋しげだった。しかし今回の羽生の後ろ姿はしゃんとして、むしろ傲然とさえしていた」

とは言っても、羽生善治前竜王(当時)も人の子、決して平気なわけではなかったはず。

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この時の対局終了後の写真。

小林健二八段(当時)と観戦記担当の武者野勝巳五段(当時)の間に、記録係の杉本昌隆三段(当時)の顔が見える。

終局後。将棋マガジン同じ号のグラビアより、撮影は中野英伴さん。

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「棋士が続々天童へつめかける。羽生の骨を拾ってやる、と言うのが先崎五段らだ」

対局終了後の短期的にも、そして歴史的にも、先崎学五段(当時)が敗れた羽生前竜王の骨を拾った形となっている。

「一人で行って・・・」

羽生善治前竜王(当時)の、夜と朝の間に

羽生善治前竜王(当時)「また一からの出直しだけれども今は楽しい夢を見ている最中に目が覚めてしまった様な気分」

 

将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(2019年5月18日)

amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。

谷川名人の弟弟子、と人から言われるのが何よりも嬉しかった井上慶太四段(当時)

近代将棋1984年11月号、池崎和記さんの第8回若獅子戦〔井上慶太四段-神吉宏充四段〕観戦記「関西流ケンカ将棋」より。

 神吉宏充四段(内藤九段門下)と井上慶太四段(若松六段門下)は、師匠が同門(故藤内八段門下)のせいか兄弟弟子のように仲がいい。年齢的にも体格的(?)にも神吉の方が兄貴分だが、四段になったのは井上の方が早かった。ともにタニケン(谷川研究会)のメンバー。神吉、井上に、有森浩三四段、浦野真彦四段を加えて”関西の四天王”という。奨励会時代、井上が二段の時に、三段の神吉は有森と並んで四段昇段の筆頭候補だった。が、先輩二人が激しいデッドヒートを演じている間に「お先に失礼!」とばかりに真っ先に四段に駆け登ったのがノーマークの井上。神吉と有森が地団駄踏んで悔しがったというエピソードがある。

 かんき・ひろみつ。ご存知、関西若手の名物男。今や、棋士としてよりも”突撃レポーター”として名高い。『将棋世界』に「関西若手はどないじゃい」という抱腹絶倒のレポートを連載中で、棋士のプライバシーをズケズケ書くものだから、読者には大ウケだが(筆者もその一人)、俎上にのせられる棋士の方は「今度は何を書かれるやら……」と、いつも戦々恐々の状態らしい(ホントかね?)。

 趣味も、その体重(110キロ!で棋界ナンバーワン)と同じくらい豪快で、何を思ったか最近、ン百万円の大枚をはたいて最高級レーザーディスクのフルセットを買ったそうな。その後の最新情報によれば「借金で首が回らず、ヒーヒー言ってる」ともっぱらの噂。

 将棋の方はどうか―。神吉と親しい浦野四段の話によると「なまくら四つの、定跡にこだわらない将棋ですね。人マネがキライ、というよりデキナイ棋風で、その個性的な将棋は”神吉流”とも”ヘンタイ流”とも呼ばれています。とにかくツヨイ将棋。もっとも私はまだ負けてませんけど……」とのこと。

 一方の、いのうえ・けいた。「ケイタ」の名前のイメージ通り、童顔で明るい性格の好青年。対局中はほとんど無口だが、ポカをやった時などに、突然「わしゃ、何をやっとるんじゃ!」と大声を発するクセがあるという。私生活はあまり知られていないが、谷川名人の弟弟子、と人から言われるのが何よりも嬉しいらしい(その気持ち、ワカル)。

 棋風は、攻守ともに安定した居飛車の本格派。童顔ゆえに「一見ヨワそうに見えるが」(浦野四段)、実は強く、外見とは裏腹に内面の闘志は相当のものがあるという。欠点は自分の形勢を悲観的に見ることと、勝負にわりあい淡白なこと。

(以下略)

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将棋世界1983年4月号、四段に昇段したばかりの頃の井上慶太九段。

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1984年当時、レーザーディスクプレーヤーが20万円以内だったので、「ン百万円の最高級レーザーディスクのフルセット」は、音響装置や大型画面やソフトなどを含んだものと思われる。

レーザーディスクは、1990年代後半、DVDに駆逐されてしまうことになる。

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「神吉宏充四段(内藤九段門下)と井上慶太四段(若松六段門下)は、師匠が同門(故藤内八段門下)のせいか兄弟弟子のように仲がいい」

このようなこともあり、神吉宏充七段は、井上慶太九段のエピソードを数多く書いている。

井上慶太五段(当時)の悪夢

井上流運転技術

「井上さん、ずっとそうしていなさい」

井上慶太八段(当時)「へ?そちらどなたはんでっか」

井上慶太六段(当時)の結婚

井上慶太五段(当時)の妹さん「ウソやろ」

 

将棋ペンクラブ末席幹事による将棋ペンクラブ非公認ブログ。近代将棋に連載していた「将棋ペンクラブログ」のネット版です。