対局後の「終電で帰るのに悪手なし」

近代将棋1983年3月号、金井厚さんの第6回若獅子戦2回戦〔島朗四段-大野八一雄四段〕観戦記「強くなった島四段」より。

 大野は、碁、麻雀、酒のうち、一つは捨てろと師匠からいわれたそうだ。修行のさまたげになってはいけないという親心である。そこで好きな麻雀をやめた。「やめた」と宣言した以上は絶対やらない、と誓った。それを、彼は長い間守りつづけてきた。が、誓いを破るハメに陥ってしまったのだ。

 最近の話である。対局が済んだあと、大野は、N理事、S理事、I四段らとともに外に出た。すでに夜の12時近い。3人は雀荘に繰り出すハラだ。

「待ってなさいよ。車で送ってやるから」

 同じ方向に帰るN理事にそういわれて、大野は素直に従った。

 麻雀は4人でやるとは限らない。棋士は3人でやる場合が少なくない。4人いても、3人でやるらしい。俗に3マー。これが性に合っているらしい。このときもそうだった。大野は最後までメンバーには加わらなかった。「車で送ってやる」の一言にひきずられて終わるまで待っていたのである。

 だが、一向にお開きにはならない。とうとう夜が明けた。陽が昇る。昼の12時だ。まだ終わらない。実に12時間。大野はずっとそばで見続けていた。

 そこへ現れたのがM八段とT六段。

「ちょうどいいのがいた」

 どちらが先に口にしたかはしらないけれど、とうとう大野はつかまった。先輩の言には逆らえない。彼は素直な性格である。そこで3マーが始まった。そうこうするうちに片一方は終了し、N理事はさっさと帰宅。

(それはないよ!)

 大野は心の中で叫んだが、後の祭り。

 結局麻雀も一人負け。自腹を切ってタクシーで帰っても、そのほうが安上がりだったというお話。

(以下略)

* * * * *

N理事は野本虎次六段(当時)、S理事は佐藤義則六段(当時)と断言できる。

M八段は森雞二八段(当時)、T六段は滝誠一郎六段(当時)である可能性が99%だと思う。

* * * * *

これは「終電で帰るのに悪手なし」のケースであるが、そうではない「終電で帰るのが悪手」になることもある。

酔って御茶ノ水から中央線の終電に乗り、立ったまま眠ってしまい、気がついたら高尾ということがあった。

酔って新宿から終電に近い電車に乗り、座って寝てしまい、気がついたら豊田ということもあった。

どちらも電車に乗らずにタクシーで帰っていれば、もっともっと安く済んだ。

そういうわけなので、一般的には「終電で帰るのに悪手なし」とは言い切れないのがこの世の中。

 

升田、大山に好かれた男

将棋世界1993年8月号、炬口勝弘さんの「素顔を拝見 剱持松二八段」より。

十九年目の昇段

 早くから八段の器と謳われ、昭和48年に順調に七段になりながら、それから十九年。今年の一月中旬、七段以来、190勝目を挙げて、やっと八段昇段を決めた。

 そのお祝いの会が銀座のサッポロライオンで催されたのが四月五日。筆者は当日、出席できなかったが、来会者は150人を超え(うち棋士仲間50人余)、立錐の余地もないほどの大盛会だったと聞く。

 ちなみに読売新聞の盤側欄によれば、『”ようやく引退に間に合った。これも皆さまのおかげです”最後の一言は棋士が多かっただけに大受けだった』とある。

 今回、インタビューで高田馬場の将棋教室を訪ねたら、開口一番、飛び出したのも、晴れの祝賀会のことだった。それも、お客様に駒落ち将棋を指導しながら、当夜のスナップ写真のアルバムをめくってはこれは誰、どういう人と熱弁を振るうのであった。なんだか、こっちはお客さんに悪いような気がして尻こそばゆく落ち着かなかったが、先生は平然と喋りつづける。ちなみに教室は毎週水、金、土曜日と、第一、第三日曜日に開かれていて、この日はウイークデーの昼下がり。お客さんはたまたま一人。弟子の松本佳介三段(21)が、隣の和室で、パソコンに向かい、将棋の研究をしていた。

「ちょっと話しながらで悪いけどね、私、話しながらでも将棋はピシッとやりますから。こういうときは、私強いんですよ(笑)。こういうときの方が強い。そうそう連盟の対局のときだって、話しながらのときは強いんですよ。真剣になってくると震えてくるんですが」

 パチリと指してはその合い間に、来会者の説明をしてくれたが、すごいメンバーばかりだったのに驚かされた。

 財界のお歴々。テレビ将棋のスポンサーだった大企業の元社長や会長。そして、七段としての1勝目をあげた当時の連盟会長加藤治郎名誉九段をはじめ二上現会長、タイトルホルダー、新鋭棋士まで、関東のそうそうたる棋士が勢揃いしている。

「米長さんも挨拶で言いましたよ。升田、大山に好かれた男。こんな棋士は剱持さん以外にいない!要するに、升田さんに好かれて、大山さんに好かれるって絶対ない。この二人に好かれたのはホントに珍しいっていうか、不思議な人だって。会の後、また米ちゃんに会ったとき、あれも剱持先生の人徳です、って彼も言うわけです。ホントにね、あれだけメンバー集めるったら、まず集まらないですよ。ほとんどの人が来てるわけですよ。あれ来てないのはトップクラスじゃないですからね(笑)。二上会長も挨拶で、私のときはこんなに棋士が来てくれるかどうかなんてね。

 名人戦の始まる一週間前です。米長さん、気合が凄いときだったんですよ。ところが椿事が起こってね。うちの教室のと、稽古先の若いのとがね、十人ぐらいで米長君を囲んでトグロを巻いてると思ったら、米長名人バンザイ!ってやるんですよ。中原名人もいるのにさ。升酒持ってね。中原名人がいなけりゃいいけどね、私はビックリして飛んで行ったですよ。なんてこと言ってくれるんだ!って。米長さんの顔みたら、さすがにバツ悪そうだったですけどね。あれはちょっとマズかったですよ。まあそれだけ米ちゃん気合いが入ってたというわけでしょうけどね」

 二人は翌日、竜王戦を戦い、米長がな中原得意の5九金戦法を逆に用いたが敗れた。さらにその週、全日プロで新鋭深浦四段にも敗れている。ただし、名人戦は、ご承知の通り、4-0で中原を破り、悲願の名人を奪取した。

力道山と升田幸三と

昭和九年七月二十一日、東京都に生まれたが、育ったのは母親の里がある茨城県。石岡市から入ったところ、現在、自衛隊百里基地のある小川町であった。荒巻三之八段に入門したきっかけは、「田舎へ教えに来てた。当時はもう食うにも困って、だから、ウチの村へ来ちゃ、将棋やっちゃ、米貰って帰ったりしてたもんで」

 昭和三十一年四段。前年には、賀集、芹沢、関屋、大村、大原の五人が四段になっていた。「これじゃ堪らないってんで、総会で予 備クラス作られたんです。そのために私は三回以上損してる。なければ、もっと早く抜けられたんですよ。まあ九勝一敗でポンと抜けたけどね。その予備クラスの第一期の卒業生が私なんです」

 順位戦は、昭和三十二年度の第十二期から参加している。同期は佐藤大五郎(21)。剱持は二十三歳だった。特筆すべきは、この期、B1の加藤一二三七段が、四年連続の昇級昇段の快記録で、十八歳という史上最年少の若さで、A級八段入りしたこと。もう遠い昔のことのように思える。剱持八段も、今では五本の指に入る最古参組の棋士。

(中略)

 五段になったのが昭和三十七年と、五年かかっているが、翌三十八年にはB2六段と、連続昇級昇段している。四段の最後の年、三十六年には、東西対抗勝継戦で六人抜き(優勝)しているから、この頃が、最も脂が乗っていた時期といえるかもしれない。

「力道山とね、将棋世界にね、載ったことあるんですよ。私と写真撮ってね。三段の免状出したとき、グラビアですよ。私が二十二ですからね、当時。今、五十九だから、三十六年ぐらい前。十一月号かな、多分、十一月。写真バーンと載ってます。四段になって、先妻と一緒になったときでした」

 力道山といえば時代のヒーローだった。そして若き剱持八段も光り輝いていた。それで、本誌のバックナンバーをひもといたが、三十二、三年のには載っていない。実は五年の違いで、昭和三十七年だった。あえてデテールにこだわるのは、人間の記憶のあいまいさ、いい加減さを検証しておきたかったからに外ならない。記憶力抜群とされる棋士でさえそうなのである。

四段C2入りの年でなく、五段C1入りの年だった。二十八歳のとき。ただし十一月号というのだけはドンピシャだった。

 ”棋士とファン”という一頁の連載グラビアで、せっかくだから以下に引用させていただく。

―今年C1入りした新鋭剣持松寿五段はプロレス好き。またプロレスの王者力道山さんも将棋ファンということで三菱電機の大久保謙氏の紹介で、プロレスを見たり、将棋を指したりとなった仲。このほど力道山さんに三段が贈られた。テレビ将棋にゲストとして出ると大ハリキリ。右から力道山さん、剣持五段、大久保謙氏。

「凄い話があるんですよ。あるとき升田幸三の写真を力道山に見せたら、こいつはバケモンだ!って言ってね。あっそうだ、力道山から聞いた話だけど、東急のある人の結婚式に升田さんが行ってね、女の方が偉い立場にいて、旦那の方に力がない、それでみんな来賓が新婦ばかり褒めるわけです。そのときに。升田さんがね、東急の五島、お前はなんだとね、始まっちゃったんですよ。世話になる女の方を褒めるとは何事だ!当時の超一流の政・財界の大物連中、もうみんなびっくりしちゃってね。力道山も、オレなんか口も利けないような人をコケにして凄かった。それまでガヤガヤ騒いでたのが、シーンとなったって。そのときに、三菱電機の社長が、君、いい男だ、凄い奴だ、私も将棋習いたいということになって、私が先生で行くようになったわけです。升田さんのところには、当時私が出入りしてましたんで、まだ二十歳か二十一ぐらいでしたかね。升田さんは、今のと一緒になったときの仲人なんですよ」

 指導将棋が終わると、丁寧な解説が始まった。『一気に希望段位まで。責任指導』という教室のキャッチフレーズ通りで、最初にながら指導を心配したのが、まったくの杞憂だったのを知ってほっとした。さすがプロだと思った。

 感想戦が終わると、今度は弟子の松本三段(他に弟子は弟の秀介初段、野島崇広4級がいる)が平手で稽古を変わった。

縁の下の力持ち

 剱持八段は、連盟の手合係を長く務め、その後、昭和五十年から五十一年にかけては、将棋会館建設委員会で、募金事業にあたった。しかし、その前に、テレビ東京の早指し戦創設にも大きな功績をしている。

「私は育ての親みたいなもんです。競艇と大倉屋という不動産屋を関屋君(喜代作六段)が最初にスポンサーとして決めたんだけど、それだけだと要するにイメージがちょっとということでね、テレビ局も困るわけです。難航してたんですよそれで私が一流企業の三菱電機の大久保さんを説得して、直談判でね、決まった
のはテレビ始まる一週間前でしたよ。三菱が入ってくれたんで、はじめて12ch(東京12チャンネル=現在のテレビ東京)の将棋番組ができたんです。私は、その後で12chの重役が接待してくれましてね、タキロン(やはりスポンサー)の会長と、料理屋でご馳走になりましたよ。

 とにかく、私のお弟子さんが、随分テレビのスポンサーになってくれて、一時は、あそこの12chの船舶振興会以外のスポンサー全部、私が揃えたんです。三菱電機と、それからタキロン、呉羽化学。僕は九社会っていうね、会があるんですよ。タキロンから始まりまして、どんどん増えて、その中にサッポロが入ってるんです。みんな教えに行ってたんです。今度のパーティーにはみんな来てくれましたがね。

 とにかく、三菱電機のお蔭でね、今のテレビ将棋があるというようなもんですよ、うん。私はね、縁の下の力持ちをやりすぎちゃったんですよ。うん。だから将棋これだけ勝てなくなって、あれやってなきゃあね、私だってもっと上へ行ってたんですけどね、ま、これも運命でね。

 昔、西武デパートで将棋まつりやってたでしょう。あれも私がやったんです。当時は東急一本だったんですが、おかしいんじゃないか、他のデパートでやってもいいんじゃないかという話で、私が西武をまとめたんです。池袋の。東急の権限がすごかったんです。私が作って、それで連盟にあげたんですよ。ほんとは自分でやってりゃ、私のもんなんです。うん。でも三年ぐらいで終わっちゃった」

 会館建設でも口八丁手八丁、敏腕を振るった。

「当時、私も連盟の事務員やってた。手合と営業の方やってたんですけど、それで会館の方やってくれないかということで、会館部っていうの作ったんですよ。建設委員のメンバーには総理大臣の福田赴夫さんも名を連ねているんだけど、千日手模様になって、一年ぐらい金が集まんなかったんですよ。当時の寄附行為っていうのはね、銀行と鉄鋼と電力の三つの団体がね、OKしないとなかなか寄附が集まんなかったんですよ。それで大山さんが、なんとか三菱電機をね、説得してくれないかっていう話でね、困るからってんで。それで名人を連れて行ったわけです。

 そしたら三菱重工と電機で七百万、金が入ったわけですよ。暮れにね。そしたら正月明けにはどんどん金が集まっちゃってね、五月にはね、七千万ぐらい余っちゃったんですよ、あれだけ金が集まんなかったのにね。

 だから大山さんは私には頭はね、上んないんですよ。大山さん立ててるけど、内助の功は私ですよ。升田幸三さんが、もともと三菱系列の先生だったんですが、あれは剱持がやったんで大山名人じゃないって言うんですよ。それで、升田さんと大山さんが喧嘩になっちゃったこともあるんですよ。大山さん、升田さんのウチへ乗り込んで行ったんですよ。こんなこと喋るとまずいかな」

 もはや二人ともこの世になく、裏をとるのも不可能だが、とにかく会館建設に奔走したことは否めない。

「先生、スミマセン。終わりました」

 次の間で対局していた生徒さんから声が掛かった。

「あっ、どうもどうも。負けちゃった?」

「でも結構いい将棋でしたよ」

 と青年は答えた。

「うん。だんだん強くなる、あなたは。あのね、将棋に対する情熱がいいから。うん。まあ、あんまり負けるの気にしないで、もう少しやれば、必ずね、定跡覚えたら勝てるようになるから。だから定跡こつこつ覚えなさいよ。力は、力は大丈夫、うん」

幸せ?

「あれっ、どこまで話したかな」

 青年が帰った後、先生は教室の厳しさを語り始めた。

「華やかなりし頃もあったけど、ま、ここへ来てからじゃちょっとみじめな話になっちゃうからね。やっぱりこのバブルでお客さん減りましたよ。薄利多売ですからね、人数が減るとね。私ほど安くやってるのいないですよ。今のままだと将棋界つぶれちゃう。今の状態、勝負勝負でしょう。みんな研究してるからね。きのうもね、中原名人と話したんだけど、あれだけ名人になった人でもね、どっかへ行くとかサービスする気とかにならないって。一日一日が勝負で必死に勉強しなきゃ駄目だと。あの辺がそう言うんですからね。そんなに勝負だけきつく争ってもね、ファンが減っていけば、収入減るんですよ。だから、トーナメントプロはトーナメントプロ、レッスンブロはレッスンプ、分かれてね、それで将棋界をもり立てなきゃ」

 もう十年も前になるが、かつて教室があった新宿副都心のマンションに、佐藤大五郎九段に連れられて訪ねたことがある。16坪。52.48ヘーベーの2DKだった。夫人や親戚の反対を押し切り借金して三千万で購入したということだったが、それから何年かして会ったときには、「二億以下じゃ売らない」とすごい鼻息だった。驚き、そしてうらやましく思ったものだ。変哲もないマンションだが、都庁(予定地ー当時)の隣というロケーションがよかった。

「三千万で買ったやつがね、四年後には三億五千万になったんですよ。ただ売ると、儲けの85%が税制上税金で持っていかれますから、三千万もないんだよね。いくらも残んない(笑)。で、五年経つのを待ったわけ。一年待ったために、いくらになったと思います?八千万ですよ。この話は面白い話ですよ。だけど私はもう株のために億の借金をしちゃってたから、なんとしても返さなくっちゃいけない。でも役者なんですよ(得意気な顔をして言った)。私は、とにかく焦った顔一切しないで、とにかく二億四千万で売ったんだから。坪1500万で16坪、ピッタリでしょう(電卓を叩いて数字を見せてくれた)。神業なんですよ。売れなければ、もうメチャメチャになってたところです。四億ぐらいの株やってましたからね。一日の勝負がね、百万単位でしたよ。暴落で、一日に八百万やられたこともあります。まあ、そういう面白い話が、まだまだいっぱいあるんですけどね、キリキリするんですよ、対局してても。いや、私はね、あんまりお金欲しくないんですけどね」

 マンションの売り上げで大儲けしたと思ったら、どうやら株では大損をしたらしい。さしもの強気でなる八段も、さすがにダメージが大きく、某棋士と飲みながら、ボロボロ涙を流したという噂も耳にしたことがある。

 いずれにせよ、人間的な希有な棋士である。ゴルフもうまいが、歌もうまい。しかも、前夫人がママの店へ行って歌うのである。以下は田舎の同級生の談。

「私は将棋は指さないから分りませんが、ウチの店にきた、”おゆき”を歌ってる棋士、なんて名でしたか、彼も変わってるからな、と言って笑ってましたよ。とにかくヅケヅケ言う。大法螺を吹く。今回の祝賀会、田舎の同級生にも声を掛けたんだけど、敬遠するのが多くて。私みたいに、長く付き合った人は、その良さが分るんですがね。なんせ、同窓会でも、この中で千人斬りやったのは俺ぐらいだろうなんて威張ったりするもんだからね」

 幸せな人だと思う。

 去年の夏、大山十五世名人の通夜の日、たまたま駅から斎場まで一緒に歩いたものだったが、そのときの八段のセリフが、今でも奇妙に耳の奥に残っている。「大山さん、幸せだったのだろうか、そりゃ間違いなく歴史に残る巨人だけれど、人間としてね」

 いろんな棋士がいて、将棋界は、やはり面白いなと思う。

* * * * *

このブログには剱持松二九段の記事がいろいろとある。

それほど個性的で面白い棋士だったということになる。

この炬口勝弘さんの記事も、今までに出てきたエピソードなどの裏話が語られていて、やはり面白い。

* * * * *

下の写真は、同じ記事に載っていた炬口勝弘さん撮影の写真。

二上達也九段が歌って、西村一義九段が手をたたいて、剱持松二八段(当時)がカウンターの中でマラカスを振る。

たまらなく貴重な写真だ。

* * * * *

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1)

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(2)

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(最終回)

剱持松二九段逝去

剱持松二四段(当時)と力道山アマ三段

人情の教室

愛しきK七段(当時)

怒涛の剱持松二七段(当時)

 

 

大山康晴十五世名人が指したとは思えないような俗手の好手

近代将棋1983年1月号、大山康晴十五世名人の第8期棋王戦挑戦鮭ってトーナメント〔対 二上達也九段〕自戦記「将棋は奥が深い」より。

 二上さんの中央位取りに対し、振り飛車側はどう対応するかが大きなポイントである。

1図以下の指し手
▲7五歩△8五歩▲7七角△5四銀▲5八金左△5三銀▲7八飛△9四歩▲9六歩△4四歩▲4六歩△4五歩▲同歩△同銀▲6八角△8四飛▲7六飛(2図)

 私は▲7五歩と7筋の位を取り、二上さんの△8五歩(これを怠ると、▲7八飛から▲7六飛と早く好形に組まれる)に▲7七角と受け、△5四銀に▲5八金左から▲7八飛と転回した。

 これは前に指した連盟杯戦も二上さんの中央位取りだったので、少しはそれと変わった形を指したいという気持ちと、同時に”軽い指し方”を目指したからだ。

 しかし、本質的にいうと、軽い将棋を指したいと思うようなときは、だいたいにおいて不調というか、消極的な気持ちに支配されていることが多い。それで私はできるだけ重い将棋を指す、じっくりした将棋を指すことを心がけているのだが、今回の場合はこのところ勝率が少し落ちているので、意識して軽い指し方に作戦を切り替えてみたのである。

 このまま二上さんに4五歩の位取りを許しては作戦的に押され形になる。私は▲4六歩と対抗したが、二上さんは予定のコースか、△4五歩▲同歩△同銀と4筋の歩を交換した。

 これで4五銀を追うことができないから、二上さんの注文に私がはまったようだが、そうではない。

 こちらとしては二上さんの4五銀が浮き駒の状態のときに戦いになれば、振り飛車側が有利になる、と直感的に判断して△4四歩に▲4六歩と受けたのだ。

(中略)

 私は▲8九飛と引き、二上さんは△8六歩と私の飛先を抑える。ここまでは一本道の手順だが、私に”先”が回ったのが大きい。

4図以下の指し手
▲7三銀△同桂▲同桂成△8四飛▲4四桂△3三玉▲5二桂成△同金▲4六歩△5四銀▲8三金△同飛▲同成桂△7八金▲8一飛△4二角▲7三成桂△8九金▲8五飛成(5図)

 私の▲7三銀が貴重な”先”を生かす俗手の好手。ほとんど決め手に近いといってもいいほどのパンチで、やむをえぬ△同桂に▲同桂成、△8四飛のとき、厳しい▲4四桂の王手金取りが実現した。

 二上さんの△3三玉逃げに▲5二桂成△同金の金桂交換から▲4六歩(敵の△4六桂を消す)で△5四銀と追って▲8三金の飛取り。

 二上さんは△同飛と切り、▲同成桂に△7八金と飛角両取りで反撃に出た。しかし、この局面では私の駒得(飛銀交換)であり、二上陣はバラバラの状態で私の飛打ちの絶好な目標になっている。

 私は▲8一飛と角取りに当て、二上さんの△4二角に、両取り逃げるべからずの格言どおり、▲7三成桂と遊び駒を活用した。これで△8九金と飛を取られても、▲8五飛成と銀を取り返して駒の損得は五分。とすれば、駒の働き、玉の堅さというものに大きな差があるから、もうこの将棋は負けないと思った。

(以下略)

* * * * *

4図からの▲7三銀(途中図)。

縁台将棋をやっているガラの悪いおじさんが勢いだけで指しているような手で、私でさえ指すのがためらわれるような筋が悪そうに見える一手だ。

しかし、これが大山康晴十五世名人の手にかかると必殺手になるというのだから、奥が深い。

▲7三銀を△同桂と取らずに、

  • △8三飛なら▲8四歩△9三飛▲8二銀不成△9二飛▲8三歩成
  • △9二飛なら▲8四銀成

▲7三銀△同桂▲同桂成に△8四飛ではなく、

  • △8一飛なら▲8二歩△7一飛▲7二歩△同金▲8一歩成
  • △9二飛なら▲8三歩

だろうか。

とにかく一気に振り飛車側が有利になる▲7三銀だ。

 

将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(2018年11月17日)

amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。

「将棋に美は必要だが、勝負に美は必要ない」

近代将棋1982年4月号、弦巻勝さんの第5回若獅子戦〔田中寅彦五段-中村修四段戦〕観戦記「目のまわる王様」より。

 本誌編集部より観戦記を書いてみないかと依頼を受けた。私は一応写真を撮ることによって生計を立てている、将棋大好きカメラマンである。現像液も使用せずに紙の上に文字を浮き出させることは得意でない。しかし、最初から最後まで誰はばかることなく一局の将棋を真近で見ることができる。こんないい話はない。カメラとペンを持って将棋の本山へ参上した。

 棋界は混み合っていて、プロ棋士になるのは大変なこと、アマチュアの中で少し強いくらいではとてもプロの四段にはなれない。宝くじに当たるようなわけにはゆかないのだ。ましてや八段になれるのはごく一部にすぎない。四段になると将棋の世界は一人前。しかし今日の対局者は二人共一人前と思っていない。八段になって一人前と考えている二人である。読者の皆さんは、観戦記は読まずにぜひ棋譜だけは並べてほしい。

(中略)

プロフィル

 田中寅彦五段 昭和三十二年四月二十九日生れ、四十七年高柳敏夫八段に六級で入門。

 中村修四段 昭和十七年十一月七日生れ、五十一年佐伯昌優七段にやはり六級で入門。今日は対局が多く、この将棋の他に十局もあり、雑誌でよく見る棋士の顔が動いている。本局は将棋連盟五階の香月の間で午後一時ピッタリに駒が振られた。田中さんの先手で7六歩、田中「最後だからうるめてくれ……」、中村「いやあ……」これは本棋戦は年齢制限があり、田中さんはこの棋戦、今期かぎりの対局なのである。田中さん「若獅子戦は優勝しやすいはずなのになぜできないのかなあ。弱いのかなあ……」。中村さんは風邪気味で、二、三日前ようやく熱がさがったという状態。彼は風邪をひいていなくともあまりしゃべらぬ人だから、時々口は動かすのだが音としては出てこない。あめ玉をなめている。中村さんの6四歩でやぐら中飛車が映る。

(中略)

消えた十五分

 田中さんの5七銀の時におかしなことに気がついた。対局は一時ジャストに始まった。私の時計は一時二十分、チェスクロックの両者の消費時間を見ると、中村さんが三十分、田中さんが五分、あわせて三十五分、十五分はどこに行ったのか……。記録係は萩原徹也さん十六歳、高校一年生で長谷部七段門下、昨年十月の入会で今回が四回目の記録係とのこと。聞いてみた。「これはチェスクロックの故障ですね」、いたって簡単、どうということはないらしい。他のチェスクロックに換えればいい。田中さんの了解を得て田中使用時間五分、中村十五分と新しいチェスクロックにセットして再開された。ドイツ製のかなりしっかりしたチェスクロックに見えたが、中村さん側の針が元気が良すぎたわけである。

(中略)

天王山の位

 香月の間はこの一局だけなのでとても静か光もとてもきれいな部屋で新しいチェスクロックの音が今度はゆるやかに聞こえる。

 局面は中村さんの6四歩からやぐら対やぐら中飛車の局面になったが普通は中村さん側の飛車が頑張って銀をくり出し急戦で5五をおさえて、中飛車側有利と入門書に出ている。しかし本局は田中さんの歩が5五にいて、しかも銀が二枚で頑張っている。これは素人目にも田中さん側を持って指したいと思う。局後田中さんに聞いてみると、「この局面はどの棋士が見ても私の方を持つ」と語ってくれた。

(中略)

目線

 一時に開始されて現在二時半、チェスクロッキを睨みながら中村さんブランディーを飲むようにチビリチビリと茶を……。7筋のあたりをしばらく眺めて、あめ玉を口に入れたかと思ったら、5一玉、眺めていた所と動かした所との目線が違う。田中さんは自分の銀が駒台に乗ったことに満足そう。中村さんだって7四に銀を使わされてはいい訳ない。しかしここに銀を打たないと田中さんの角に好きなように暴れられる。

(中略)

問題の局面

 それでも田中さんは「おもしろく行くか」と、8四の歩に噛み付いた。7五歩で角がひっこみがつかなくなった。田中さんは口をとがらせてヒューと溜息で角を吹く。このあたりは局後一番研究されたところ、ハッキリした答えはその場で出なかったが、田中さんは良いと思い、中村さんは悪いと思っていることは一致した。田中さんの4五歩で本格的な決戦になった。しかしこの4五歩は疑問手らしい、中村さんに1三角と覗かれ王様を睨まれた。4図から5図に至る間に問題の手があったらしい。局後いろいろ聞いたり、テープレコーダーでも取ったりしたが、家に帰ってきたら皆忘れてしまった。テープにはいろいろパチパチ音がしているがどこの局面を言っているのか指しているのかさっぱり分からない。4五歩で指し手は沢山あるが、5三歩、6三玉、5五銀打、5三金、5四銀、同金、5五歩、5三金、5四銀、同金、5五歩、5三金、5四銀、同金、同歩、とか5五銀打、6三銀左、5四歩、6一玉、4五歩、1三角、4四歩、7二玉、4五銀、4六歩打、4八飛、3三桂、3四銀、5四銀、5二歩、8一飛、7三角成、同金、5四銀、4七歩成、同飛、5六角打、4九飛、3四角、6六桂、5八銀、いろいろあるらしい。いずれにしてもプロはずいぶん沢山の手を読むものである。驚いた。

見えない部分

 十二年程前、私がある週刊誌の専属で写真を撮っていたころ銀座のソニービルでおもしろい催し物をやっていた。某フィルムメーカーの企画でテレビゲームを利用したものだと思うが、大きな画面に動物が左右から、走ったり飛んだりして出てくる。それを五メートル程手前にセットしてあるカメラですばやくとらえる。(繁華街のゲームセンターにあるような備えつけの銃で動物を撃ちおとすのに似ている)、うまく確実に撮れると点数が出るしかけ、同行の編集者は十点満点の四点。私にもやれと勧める。プロとしての自負のある私は四点以下ならどうしようと気乗りしないままやるだけやってみた。満点が出た。どうやらプロとしての面目を保てた。近くの珈琲店で”たとえ九点取れたとしても一点差が実は大きな差”と言い胸を張ってコーヒーを飲みほした。プロのカメラマンはまず第一にミスをする権利がないということである。最低限度の技術はもちろんのこと、責任のもてる写真を撮らねばならない。プロになってから私の技術が進歩したとは思えぬが何かが変わってきていると思っている。棋士を考えてみた場合、アマチュアと大きな差がある。その差は勝負に対する鍛えといっても過言でない。アマチュアは何らかの仕事に携わっている。ほかの時間に将棋を楽しんでいるのが一般的である。一方、プロは奨励会を経てきている。この奨励会が勝負を教えていると思う。もちろんこの間に将棋の技術的なオブジェを積み重ねて強くなっているのであろうが、多くはここで勝負を学んでいる。例えば月二回しかない対局をじいーっと待ち、このチャンスに飛びつく、そして勝負。

逆転か

 5七歩でいよいよ中村さんの反撃、加藤一二三九段のようにベルトに手をかけセキをするが風邪でやっているのでなんだか迫力がない。両者残り時間三十分。4三金にはビックリした。田中さんの飛車にどうぞ成れるものなら成りなさいという手。私はこういう手を考えつくのが不思議でならない。このあたりから中村さん、なんとなく駒に元気が出てきて、やぐら中飛車の飛車が張り出した。端っこの角も働いている。それでも素人目には中村さんの王様の方が薄いから中村さんが負けるかなと思っていた。少し前まで田中さんが相手の顔を手があくと睨んでいたのをやめたのが気にはなっているのだが……。

 最後は龍を銀でとると、8五桂、9八玉、8八金打、同金、同歩成、同玉、8七金打で1三の角が睨んでいて逃げられない。中村さんの8五銀出が格好よくきまった。

本局を観戦して

 この将棋を顧みると、序盤中村さんの作戦負である。Aクラスとの将棋であれば、ポイントをそのまま持って行かれ、押し切られ負けであろう。ものの二十数手で不利になるのは勉強不足もあるのではないか……。田中さんは序盤巧みに指していたにもかかわらず楽観からくる疑問手であらた勝負をふいにしている。勝負に対する甘さ以外のなにものでもない。将棋に勝ったが勝負に負けたわけだ。将棋に美は必要だが、勝負に美は必要ない、形振りかまわず勝ってこそ美しい。負けたけどいい将棋だ、などとは達観した棋士の言。若手のトーナメントプロが負けたけど美しかったなどはない。以上アマチュアの戯言と聞き流してほしい。最後に局後丁寧に教えてくれた両先生に感謝し、ペンをおきます。

* * * * *

写真家・弦巻勝さんが若かった頃の観戦記。

辛口だけれども棋士に対する愛情がこもっている。

「将棋に美は必要だが、勝負に美は必要ない」

格好いい言葉だ。

将棋ペンクラブ末席幹事による将棋ペンクラブ非公認ブログ。近代将棋に連載していた「将棋ペンクラブログ」のネット版です。