「実はぼく、この中の坊瑞苑での最初の記録係なんです」

近代将棋1984年10月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

 その検討会を見ていて思い出すのが、谷川さんが王位戦で記録係をつとめたときのことだ。

 あれは勝浦修八段が中原誠王位(当時)に挑んだ年のことだから、昭和51年の第17期王位戦だった。場所はたしか兵庫県姫路市の「播龍」だったと記憶している。

 立会人の内藤國雄九段が背のヒロッと高い少年を連れて現れ、「この子は強くなりまっせ」と紹介してくれたのを覚えているが、もうそのころには”天才少年・谷川”の名は将棋界に知れ渡っており、わたしも当然、その名を聞いていた。

 こんどの王位戦の打ち上げの宴のとき、隣りに座った谷川さんにそんな話をすると、「ええ、そうでしたね。わたしは、あれが最初で最後のタイトル戦での記録係なんです」といって笑っていた。わたしにとっても大変光栄なことだが、いつか中原十段が「わたしもタイトル戦での記録はただの一度だけ。それも王位戦なんです」といっていたのを思い出す。何年のだれとだれの将棋かは忘れてしまったが、いつかまたチャンスがあったら聞いておくことにしよう。

 そのとき、中原さんが教えてくれた。

「あのね、奨励会員でも高校や中学に行っているものは、夏休みだけしかタイトル戦の記録をやることができないんですよ。もっとも、ぼくは高校卒業寸前、谷川君は中学卒業寸前に四段に昇ったんだから大差なんですけどね。ふっふっふ」

「なるほど」と思ったので、強く印象に残っている。

 その中原-勝浦戦の対局開始のときにおもしろい話がある。

 朝、例によって駒がきちんと並んだ。そんなとき、ときどきおもしろい話が出る。このときも、立会人の内藤さんはじめ、対局者の中原さん、勝浦さん、みんな明るい人なので、いろいろと出た。そんな笑いの中で中原さんがふっとわたしに向かっていった。

「あのね、能智さん。この谷川君はきっと強くなるから、いま”三段・谷川浩司”の色紙をもらっておくといいですよ」

 谷川少年は中学生の制服を着て、困ったような顔をしていた。ただ内藤さんが「そうや、そうや」といっていたが、もちろんかわいそうでもらう気にはなれなかった。いま思うと、やっぱり残念でならないが、谷川さんの天才ぶりを見るおもしろいエピソードではなかろうか。

 また話は今期王位戦第2局の打ち上げの席にもどる。ちょうど谷川さんの隣に井上君が座っていた。わたしからいえば一つ置いて向こう側の席である。

 そのとき、谷川さんと記録係の話をいろいろしていたら、聞いていた井上君が話に入ってきて言うのである。

「実はぼく、この『中の坊瑞苑』での最初の記録係なんです」

 そういえばそう。23期の王位戦、内藤-中原戦での記録係はたしか”この子”だった。きょう、このホテルの支配人が「最初にうちを使ってくださったときは内藤先生と中原先生の戦いで、午後1時47分に終わって大あわてしました」といっていたっけ。井上君もその対局をよく覚えていて話す。

「あれは谷川流の筋違い角の超急戦の将棋になって、77手で終わったんです」

 そこでわたしがからかい心を起こした。

「じゃあ、モナコのグレース・ケリー王妃が泊まったベットに最初におやすみになったのは君か?」

 それを知っている谷川さんはちょっぴり笑ったが、もっと若い井上君はちょっぴり赤くなっていた。

 というのは、このホテル、ポートピアに来られたモナコ王妃夫妻が「日本式のホテルに泊まりたい」といわれお泊めしたところだ。実は対局室がその部屋で、いつも記録係がその寝室に寝ることになっている。ちなみにその部屋代は1日5万円とか。

「ええなあ」と内藤さんも井上君に言っていたが、記録係でも、ときにはこんな役得があるのである。

(中略)

 つい最近のことだ。わたしは中原誠十段と某棋士の観戦記を書くために盤側についていた。どの将棋も序盤は比較的のどかだ。相手が考えているとき、中原さんとわたしは他愛のない話をしていた。すると中原さん、すっと横にある茶封筒を開き、一枚の紙片を取り出して、わたしのほうに差し出した。

「これ、見てください。おもしろいですよ」

 渡されたものは一見なんの変哲もない記録用紙である。さっと見たとき、「ずいぶんきれいな字だな」と思った。そして対局者が「王位・大山康晴 挑戦者・二上達也」と書かれているので「こりゃあ、古い棋譜だな」と興味を持った。

 中原さんは黙ってニコニコ笑っている。

 次に日付を見るのが普通だ。なんと「昭和39年8月31日」と記されている。そして「あっ」と驚いた。記録係の項にほんとに驚くべき人の名が書かれていたのである。

「三段 中原誠」

 なんと、これが冒頭に書いた中原さんの貴重な記録係の体験の棋譜だったのである。

 やや角張った字は、いまの色紙の字とそっくり。それが実にていねいに書かれている。しかも、終盤のノータイムの部分でも少しも乱れを見せていない。もちろんペンの肉筆だ。

 じっくり見たあと、「大変貴重なものを見せていただいて」とお返ししようとした。そしたら、ニヤッと笑ってまたびっくりすることを言う。

「この間、昔の物を整理していたら、これが出てきたんですよ。これ、王位戦のものだから、能智さんに差し上げますよ」

 ケロッとして言ったので、一瞬冗談かと思った。しかし次の瞬間、とび上がるほどうれしかった。

 いまも、その棋譜はすぐ横にある。もう家宝である。そしてまた欲が出た。

「谷川さんが三段のとき、中原さんが『色紙をもらっておけば』と言ってくれたが、あのとき棋譜をもらっておけば、二枚そろったのにィー」と。

* * * * *

「中の坊瑞苑」で最初に王位戦七番勝負が行われたのが、1982年の第2局だった。

この時の記録係を務めた井上慶太二段(当時)は18歳。

この半年後に、井上二段は四段に昇段している。

「心優しき青年 井上慶太四段」

将棋世界1983年4月号グラビア、「新星誕生!井上慶太新四段」。

* * * * *

「ちなみにその部屋代は1日5万円とか」

「中の坊瑞苑」の貴賓室の今日の料金を調べてみると、78,990円(2食含む、消費税別)。

35年前と比べても、それほど上がっていないことがわかる。

* * * * *

モナコのグレース・ケリー王妃は、元アメリカの女優で、1951年から1956年まで映画に出演していたが、1956年にモナコ大公レーニエ3世と結婚。

しかし、1982年9月14日、前日に起きた自動車事故が原因で亡くなった。享年52歳だった。

井上二段が記録係を務めた王位戦第2局が1982年8月5日~6日だったので、わずか1ヵ月後のこと。

井上二段にとっては、普通の人が感じる以上に衝撃的な出来事だったに違いない。

 

谷川浩司名人(当時)「我ながらエキサイトしやすい性格なんだと思いました。かなりあつくなっているのが自分でも分かりましたからね」

将棋世界1989年3月号、青島たつひこさん(鈴木宏彦さん)の「駒ゴマスクランブル」より。

 1図をご覧いただきたい。▲2六歩の誤植ではない。初手▲3六歩。これを見て「あっあの将棋か」と気のつく方は相当な棋界通である。

 昭和60年1月21日。第11期女流名人位戦、林葉直子女流名人(当時)対長沢千和子二段戦の第4局。林葉さんは初手に10分考えた末に▲3六歩と突き、そして勝っている。

「九州大学の学生さんにこんな手もあると教えられまして……」

 当時、林葉さんからそんな話を聞いた記憶がある。それをなぜ今ごろ持ち出してきたかといえば、最近男性プロ同士の対局で2局この初手▲3六歩が現れたからである。

 1局目は正月に札幌の将棋腕競べで行われた森内俊之(先手)-中村修戦。森内の初手▲3六歩に対し中村の2手目はなんと△3二飛。

 まあこの勝負は公式戦ではない席上のお好み対局だから、二人とも多分にファンサービスを意識しての指し手だったと思う。だが、驚いたことにプロの公式戦でもこの▲3六歩がついに出た。

 1月23日に収録されたNHK杯の先崎学四段(先手)対谷川名人戦。先手の初手がこれ!

「我ながらエキサイトしやすい性格なんだと思いました。かなりあつくなっているのが自分でも分かりましたからね」

 その日の夜、一緒に飲んだ時の谷川名人。ちなみに名人は例の林葉-長沢戦は知らなかったが、森内-中村戦の方はなんと大盤解説を務めていたという。

 果たして先崎がそこまで計算してこの歩を突いたのかどうか。どちらにしても、佐藤康光戦の2手目△3二金といい、この新鋭の度胸が常識はずれであることは間違いない。

(以下略)

* * * * *

「我ながらエキサイトしやすい性格なんだと思いました。かなりあつくなっているのが自分でも分かりましたからね」

温厚な谷川浩司九段でさえ、このような感情を抱いたのだから、初手▲3六歩はかなり刺激的な指し手ということが言えるだろう。

石田流党あるいは三間飛車党の人が後手番の時に、初手▲3六歩を見たら、(俺をバカにしているのか)とやはりアツくなる可能性が高い。私自身がそうだった。

しかし、この初手▲3六歩をとがめる方法は見つかっていない。

将棋は奥が深い。

初手▲3六歩は、最も最近の大舞台では、2005年度のNHK杯戦決勝で渡辺明竜王(当時)が丸山忠久九段に対して指している。

* * * * *

林葉流初手▲3六歩戦法

中村修七段(当時)「後手番二手目の可能性(4)・・・△7四歩編」

 

米長邦雄九段「嫌な男の顔を、思い出させてしまうかもしれないね」

将棋世界1989年1月号、谷川浩司名人(当時)の「名人の読みと大局観」より。

「相手はどっちの手を指してほしいんだろう」

 1図の局面を前にしての、米長九段の独り言である。

 矢倉を指さない居飛車党、を未だに続けている私としては、後手番で初手▲7六歩と突かれた時の作戦が難しい。というわけで、よくお世話になるのがこの横歩取りである。

 岐れでは殆ど良くならないが、何故か勝率は良く、62年4月以降、5勝1敗なのである。

 従来は1図での最善手は▲3二飛成とされていたが、最近、特に10代棋士の間で、▲3六飛がよく指されている。

 ▲3六飛以下、△同角▲同歩△2七飛▲3八銀△2五飛成▲7七銀△6二銀▲2七角(A図)と進んだのが、対羽生四段(当時)戦、NHK杯戦だが、これはひどい目に遭った。唯一の敗戦局である。

 ▲3二飛成か▲3六飛か、どちらをお望みか、というのが独り言の意味なのだが、米長九段は、相手の意志をそらすタイプではない。

 というより逆に、相手の得意に敢えて飛び込んで戦うタイプである。

 そんなわけで、米長九段と戦う時は、こちらの気持ちをはぐらかされてガッカリすることがない。気分良く戦うことができるし、歯車が噛み合って大熱戦になることが多いのである。

 横歩も必ず取ってくれると信じていた。そして、1図から、一度指してみたい形があったのだが―。

(中略)

「嫌な男の顔を、思い出させてしまうかもしれないね」

 再び、独り言である。

 なるほど、▲3六飛と引けば、私が公式戦で2連敗している羽生五段の顔を思い出すわけか。

 だが、その推測は外れていた。

 11分考えられた米長九段の指し手は、▲3二飛成。以下、△同銀▲3八銀△3三銀▲1六歩(2図)まで、ノータイムで進む。

 私が思い出したくない顔というのは、1ヵ月前タイトルを取られてしまった森王位のことだった。

 △3三銀に対しては、▲4五角、▲7七銀、▲6八玉辺りが一般的だったが、▲1六歩というのは、1年半程前に棋王戦で森九段(当時)に指された手なのである。

 森新手。狙いは、いきなり角をいじめることである。

(中略)

 一度指してみたい、と思っていた▲1六歩(2図)に対する、△4四歩▲6五角△3一飛だったが、本局で得られた結論は、私にはややつらいものがあった。

 この変化が先手指しやすい、ということになると、初手▲7六歩に対して△3四歩と突きにくくなるのである。

 感想戦終了後、見ていた弟弟子の井上慶太五段に、

「今までこの戦法で稼いできたのだから、良いではないですか」

 と慰められたが―。

 後手に新対策はあるのか、それとも、矢倉を勉強し直すしかないのか。

* * * * *

▲3二飛成と▲3六飛、どちらにしても谷川浩司名人(当時)にとっては「嫌な男の顔」を思い出す手になるのだから凄い。

「嫌な男の顔を、思い出させてしまうかもしれないね」は、絶妙な独り言だと思う。

* * * * *

全く慰めになっていない、井上慶太五段(当時)の「今までこの戦法で稼いできたのだから、良いではないですか」が、とても可笑しい。

 

「中村王将は気を遣うから、それが裏目に出なければ……」

将棋世界1988年5月号、第37期王将戦七番勝負第7局「平常心で臨めた第7局」より。

 5時25分、中村王将が投了を告げた。

 南二冠王の誕生である。

 終局直後の対局室。部屋の片隅に陣取り、2日間、対局を見守っていた大きな生け花が片づけられる。花のあった位置に、カメラマンたちがかわるがわるに立ち、次々とフラッシュをたく。

 その閃光の先には、子供のような屈託のない笑顔を浮かべる南二冠王がいる。そして、その前にはガックリと肩の落ちた中村王将。

「全体的に結構うまく攻めることができました。5局目でリードされた時も、1局1局を考えようと思っていましたのであまり気にはなりませんでした」。

 緊張の為か、終局の興奮の為か、南の声が時折かすれる。

「3ヵ月で二冠。ちょっと信じられませんね」。

 続いて、敗れた中村王将に質問が向けられる。

「残念です。ですけれど、このシリーズは指していて、読み負けているような感じがあったから、仕方ないでしょう」。

 努めてハキハキと、よく聞きとれるように語る姿はなんとも痛々しい。

「5局目で流れを変えたのが、いけなかったかなあ」と、周囲の空気を察して、すかさず自嘲的なジョークを飛ばす。

 続いて再び南へ矛先が向けられる。

「震えはなかったですか?」

「ええ、少し馴れてきました」と南。

「震えるようなかっこうしてないんですけど」と中村がまぜっ返し、再び対局室に笑いが起こる。

「地蔵流というネーミングに抵抗は?」

「嬉しくはないですけど、抵抗ということもありません。でも何となくイマイチな感じですね(笑)」

「自分の棋風を一言で言うと?」

「ありません(笑)」

「では、それがあるまでは地蔵流でいいですか?」

 南はコックリとうなずいた。

 こういう風に、糸を張りめぐらしたような終局後の空気が、少しずつ少しずつ柔いでいく。

 この王将戦が始まる前「中村さんは気を遣うから、それが裏目に出なければ」と塚田王座が心配していたのを思い出す。

 その通り、中村は虎の子を失った直後でさえも、見事な気配りを忘れなかった。その姿は清々しく、どんな大きな花よりも絵よりも、今は対局室の空気を柔げている。中村は堂々と敗れたのだ。

 追いつ追われつの大接戦は終わった。

 花が失われ色あせた部屋、取り囲む大勢の取材陣、時々光るまばゆい閃光。いつもタイトル交代劇はその中にある。

(以下略)

感想戦の時。将棋世界同じ号に掲載の写真。撮影は中野英伴さん。

* * * * *

「中村さんは気を遣うから、それが裏目に出なければ」

歴史的には、タイトル戦では気を遣うことが裏目に出る場合が多いようだ。

その一方で、気を遣う棋士にはファンが多いという傾向もある。

* * * * *

「5局目で流れを変えたのが、いけなかったかなあ」

この期の七番勝負は、第4局まで先手が勝つ流れとなっており、第5局は後手番の中村修王将(当時)が勝って、この流れが変わった。

第6局、第7局とも中村王将は先手番で敗れている。

第5局が以下の記事のように、中村王将らしさの出た勝ち方だったので、より一層そのような思いが強くなったのかもしれない。

将棋世界1988年5月号、スポーツニッポンの松村久さんの「第37期王将戦七番勝負を振り返る 真価を発揮した南地蔵流」より。

 南先手の第5局、三たびひねり飛車になったが、中村は2~4筋と徹底的に位を張り、金銀を中央に集めて対抗。しかし、南がうまく指して、控え室では1日目にして「南がいいのではないか」という声が出たほど。ところが、一見苦しそうに見えてからの中村のしのぎが素晴らしかった。綱渡りのような受けでこらえて、最後は玉頭の位を生かして一気に南陣に襲いかかった。いかにも中村らしい勝ち方、流れは完全に中村のものと思った。

 ところが、南がここから2連勝したのである。

(以下略)

 

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