「ケツの穴に問うて石を飲め」

昨日から北九州市で行われている王位戦第5局の立会いは、北九州市出身の森下卓九段。

森下卓九段が12歳で奨励会入りした際、保護者役として北九州から一緒に上京してきたのがお祖母様だった。

森下九段のお祖母様を知る人は、例外なく「昔気質の非常に立派な人だった」と語っている。

森下卓八段(当時)が、奨励会入りしてからC級1組に昇級するまでの間の10年間一緒に暮らしていたお祖母様について語る。

将棋世界1998年9月号、森下卓八段の連載自戦記より。

 今年の六月、父方の祖父キクノが九十歳で天寿を全うした。祖母が亡くなったとき、私は対局だったので、葬儀に参列できなかった。それゆえ祖母の遺体に接していないので、死後しばらくたった今日でも、祖母が亡くなったことを実感しない。どこかで生きている気がする。

 私は生まれたときから祖母にはずい分と世話になった。幼少期の忘れ得ぬ思いでも数え切れない。

 そして昭和五十三年の秋、私が十二歳のときに花村先生の門下として奨励会入会が決まり、祖母は後見人として一緒に上京してくれることになった。そのとき祖母は七十歳。誰一人として頼る人も知る人もいない大都会に、高齢を押して行くことは、相当な不安や心配があったと思う。本当によく決断してくれたものだ。

 祖母との生活はちょうど十年続いた。思えばこの十年間が、私の土台づくりの時期だった。花村先生に将棋の技術と考え方、棋士としての生き方を教わり、祖母には生活面で様々なことを学んだ。

 花村先生も、私とは祖父と孫のような年齢の開きがあり、私はこの二人の祖父母に、棋士としての、人間としての基礎を固めてもらったのだと思う。

 さて、祖母は昔のことわざや格言をよく教えてくれた。なかでも一番印象に残っているのが、いささか品がなくて恐縮だが「ケツの穴に問うて石を飲め」という言葉だ。読んで字の如し。そういえば父は「両方良いことはない」という言葉をよく使い、母は「その年齢になってみないとわからない」とよく言っている。祖母の影響を受けたのかもしれない。

(中略)

 祖母の九十年の人生には、戦争をはじめ様々な出来事があったと思う。よくぞ生き抜いてこれたものだ。その生命力の強さを私も得たい。

 私は祖母が生きた九十年の、ほぼ三分の一を生きた。さきに祖母と生活した十年で基礎が固まったと書いたが、独立して更に十年を重ねた。この十年で学んだ知識、得た体験も多い。正直言って、祖母と暮らした十年は温室育ちだったので、独立してからは荒波に溺れそうになったこともあるが、基礎を固めてもらっていたおかげで、なんとかやってこれた。自分なりに経験を重ね、基礎の上にある程度の建物ができたと思う。今後はいま一度原点に戻り、将棋に打ち込むのみの生活を築いていきたい。

 知らぬが仏という言葉もあるが、知ったうえでどう対処するかが本当の勝負だろう。私が最も将棋に打ち込んだのは、二十歳から二十五歳までの五年間だが、今後はそれ以上に将棋に打ち込める気がしている。

 祖母の冥福を祈るとともに、より一層将棋に打ち込み、勝つことに徹する決意を墓前に捧げたい。

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2009年にブログに書いたことだが、2005年の読売新聞のインタビューで森下八段は、「祖母は対局のある日の朝食に、いつもステーキとトンカツを用意した。テキ(敵)にカツ(勝つ)という験担ぎです」と話をしている。

→「焼き肉」 森下卓さん

カツだけならよくあることだが、ステーキもというところが凄い。北九州女性の面目躍如という感じがする。

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北九州といえば、思い出すのは北九州を舞台とした「無法松の一生」。

そして最近では、北九州出身のリリー・フランキーさんの「東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜」。

「東京タワー」のお母さんも、母と子、祖母と孫の違いはあれ、北九州女性の気質としての共通点があるのかもしれない。

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それにしても、「ケツの穴に問うて石を飲め」という格言はインパクトと説得力がある。

私は、人間関係面以外は、「やらずに後悔するより、やって後悔したしたほうがいい」という思想を貫いてきたのだが、「ケツの穴に問うて石を飲め」の考え方が欠けていたことも多かったと思う。

非常に含蓄がある言葉だ。

「ケツの穴に問うて石を飲め」はGoogleで検索しても一件もヒットしない。

森下九段のお祖母様オリジナルの格言なのかもしれない。

そういう意味でも、本当に素晴らしいお祖母様だったのだと思う。