倉島竹二郎さんの「昭和将棋風雲録」より。
分裂の最中、私にとっては忘れられない対局風景がある。
それは昭和11年2月26日、あの歴史的な悲劇二・二六事件が起こった当日のことだ。当時青山に会った将棋連盟本部で、関根名人対木村八段の臨時棋戦と土居八段対大崎八段の名人戦が行われていたが、事件の報が伝わると、あまりの大惨事に皆はしばし茫然自失の体であった。私はその朝、東京日日新聞から連盟にくる車の中から見た、宮城付近の降りしきる雪の中にいた着剣の兵士たちの姿を思い浮かべ(私は市街戦の演習とばかり考えていたのだが)これから日本は一体どうなるのだろう―と前途暗澹たる想いに胸をしめつけられていたが、やっと職業意識を取りもどして、その日の対局をどうすべきかについて皆にはかった。「さあ」と、土居さんも木村さんもあいまいな返事だったが、さきほどからじっとうなだれていた大崎さんが、まっ赤に充血した顔をツと上げると、
「むろんやりますよ。どんなことがあっても、将棋指しは将棋を指すのが本分じゃ」
と、何かに向かって激しい憤りを投げつけるような調子でいった。土居さんと木村さんは、また大崎流の強がりが始まったというふうに顔を見合わせたが、関根翁は、
「そうじゃ、大崎君。貴公のいうとおりじゃ」
と、賛成した。関根翁の表情もいつになくきびしかった。
それで将棋は指し継がれることになったが、次々に伝わってくる真相とデマをとりまぜてのニュースに、気分はすっかりこわされてしまって、対局は中止のやむなきにいたった。
私は大崎さんに付き添って連盟を出た。高血圧で幾度も倒れた大崎さんの体のことが気にかかったからである。その時はすでに、大蔵大臣高橋是清氏、内大臣斎藤実氏、教育総監渡辺錠太郎氏は即死とわかり、首相岡田啓介氏も侍従長鈴木貫太郎氏も絶命とあやまり伝えられていた。また、クーデター部隊と警備部隊が銃火を交えたというデマも飛んでいた。
どうしてだか―多分大崎さんがいい出したのだろう。私たちは寄り道をして、神宮外苑に入っていった。まだ粉雪がちらついていた。
「馬鹿者奴!」突然、大崎さんがどなった。
「世間知らずの不逞軍人に何がわかるか。高橋さんも斎藤さんもりっぱな人物じゃった。日本の大黒柱じゃった。大黒柱を倒せば家全体が倒れる。軍人は政治にかかわるべからずとは勅論に書いてあるのを忘れたか、馬鹿者奴!」
大崎さんの体がヨロヨロッとした。私はあわててより添って支えた。
「先生、大丈夫ですか?円タクを呼びましょうか?」
「大丈夫。もう少しここにいたい。あれに掛けよう」
二人は傍のベンチに雪を払って腰を下ろした。大崎さんは二重回し、私はオーバー、寒さはさして感じなかった。クリスマスツリーを思わせる樹々の梢の間からのぞいてみえる絵画館の建物が、異国の風景のように美しかった。私はなんだか夢を見ているような気がした。
「倉島君、あんたも軍隊の飯を食っているから知ってるだろうが、軍人には物分りの悪い連中が多く、すぐ命を投げ出してという。自分の命をそまつにするのはかってだが、人も自分も見境がないのは困ったものじゃ。わしは戦争にいってつくづく戦争がいやになった。人と人が殺し合う、そんな理不尽なことがあるものか。人間は感情の動物だから、激論もするし、手を振り上げたくなるときもある。しかし、その手は絶対打ち下ろしてはならない。五・一五で亡くなった犬養さんが、話せばわかるといった最後のことばは、ありゃたしかに真理じゃ。人間が殴り合ったら、殺し合ったら、もはや人間じゃない。ただの動物じゃ。犬養さんのような人を、高橋さんのような人を、よくも―」
大崎さんは譫言のようにしゃべりつづけていたが、しだいに舌がもつれ気味になると、急に「う、うう―」と、何かが込み上げてきたように呻いた。私が驚いて振り向くと、大崎さんは二重回しから自由の利く左手を出して目蓋のあたりを押さえていたが、その指の下から鼻筋にそって涙が辷り落ちていた。
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二.二六事件は1936年のことなので、今から80年前のことになる。
二.二六事件については、知っているようで知らないことも多い。
ネット上を調べてみると、非常にわかりやすく解説している記事があった。
→二・二六事件と五・一五事件の違いをまとめてみました(武将ジャパン)
著者の長月七紀さんが「フットワークは軽いのに盛大な勘違いをした人がとんでもないことをやらかした」と書いているが、たしかにその通りなのだと思う。
将棋で言えば、振り飛車の左の銀が7六と6六の歩を引き連れ、玉を取り囲んでいる美濃囲いの駒が諸悪の根源として、自陣の美濃囲いの4九金、5八金、3八銀を立て続けに排除するような展開。
その後の展開も含めて、日本にとって非常に不幸な事件となった。
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大崎熊雄九段は日露戦争で壮絶な体験をしている。
倉島竹二郎さんの「昭和将棋風雲録」より。
話しずきの大崎八段は、棋界の楽屋ばなしや維新の志士の話などをおもしろおかしくしてくれたが、私がいまでも忘れられないのは日露戦争の体験談である。
大崎八段は日露戦争の勇士で、功七級の金鵄勲章をもらっていたが、その金鵄勲章を近所の子供に貸し与え、親が驚いて返してくるまでほっておくといった、当時の常識では考えられないことを平気でやった。私は別段軍国主義者でも軍人崇拝でもなかったが、軍隊の飯を食っているだけに勲章は貴重で、そまつにしてはいけないという先入観があった。で、私はあるとき、金鵄勲章を玩具か何かのように軽々しく取り扱っている非常識をなじったことがあった。と、大崎八段は「勲章を神棚に上げておいても何のご利益もありゃせん。それよりも、無邪気な子供の喜ぶ顔を見る方がましじゃ。勲章は誰のもんでもない、わしのもんじゃ。これをもらうためにはな、倉島君、みてくれ」というと、パッと肌脱ぎして、上半身をむき出しにした。赤黒い堅肥りの体であったが、右腕が途中から無残にくびれて、それから手首の方にかけては左手の半分ほどの細さになっていた。
「腕は手榴弾でやられたのじゃが、このとおりほかにも鉄砲の痕もあれば銃剣の痕もある」と、大崎八段は白い斑点と化した傷跡を示し、長々と話し始めた。
「満州のある雪の朝のことじゃが、わしの中隊は塹壕戦から白兵戦に移った。しかし味方の苦戦で、わしは手榴弾にやられて谷間に転がり落ちて気絶をしてしまった。ふと気がつくと、ロシア兵が一人、谷の斜面を下りてくるのが目に入った。わしは無意識に起き上がろうとした。ロシア兵は屍と思っていたのがムクムクと動き出したものだからひどく驚いたようすで、銃剣を構えながら近寄ってきた。わしは立とうとしたが腰を強く打ったらしく立てなかった。銃はそのへんには見あたらず、また右手がブラリと垂れて全然自由がきかない。わしはてっきり殺されると思ったが、ふと、腰の拳銃が残っていることに気づいた。六連発じゃが、五発は前につかってあと一発、その一発が命の綱、わしは咄嗟に思案を定めると、左手で拳銃をソッと抜き出し、それをしっかり腰にあてて待ち構えたのじゃ。幸いロシア兵はそれに気づかなかったらしい。気づいたら射撃で撃ち殺されていただろう。ロシア兵はギラギラと目を光らせながら迫ってきた」
いままで幾度も話したことがあるのだろう。その話しぶりは堂に入ったものであったが、それでも大崎八段の顔は紅潮して真剣だった。
「さあ、そこじゃ。わしはどうせ助からぬと肚を決めたが、同じ殺されるなら何とか相手もやっつけてやりたいと思った。ロシア兵は三メートルほどに迫ってから、ちょっとためらったようすだった。が、急に何か喚きながら突っ掛かってきた。わしはわざとその銃剣を右の肩先で受け止めた。メリメリッと音を立てて切尖が骨身にくい込むような気がして朦朧となったが、わしは気を失う寸前に拳銃の引金を引いた。戦友が二人捜しにきてくれたお蔭でわしは息を吹き返した。わしの弾はみごとにロシア兵の胸を撃ち抜いていたが、わしの肩先にも銃剣が突き刺さったままだった。戦友が何とかそれを抜こうとしたが、膏が巻きついたのか抜けない。それでわしは、かまわぬから一人が後ろからだき、一人が体に足を掛けて、グッと一思いに抜いてくれと頼んだ。戦場ならではの無茶な話だが、戦友がわしのいう通りにしてやっと抜けた。肉がついていたそうじゃ。わしは抜きしなに痛みを耐えようと歯をくいしばったが、そのときからわしの歯の根はグラグラにゆるんで、若いころから総入れ歯になる始末じゃった。銃剣が抜けると同時にわしはまた気絶したが、戦友の介抱で正気づき、二人の肩に支えられて歩き出した。が、殺した相手がどんな男かと気になってソッと目をやった。それはわしよりも若そうな、まだ子供のようにあどけない顔をした青年じゃった。わしは何ともいえないいやアな気がした。何の恨みもない見も知らぬ同士がなぜ殺し合わねばならぬのか、これが人間のすることかと情けなかった。わしは思わず南無阿弥陀仏と唱えたが、わしはいまでも気候の変わり目にはそのときの古傷がうずくような気がするし、雪の日などはよくそのロシア兵の顔が思い出される。そんなにまでしてもらった金鵄勲章やで、どうしようとわしの勝手じゃないか」
勲章のことは理窟に合ったような合わないような話であったが、その体験談は興味ぶかかったし、私はそれをきいてからいっそう大崎八段に親しみを感じるようになった。
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大崎熊雄八段(当時)は、二.二六事件の日以来、一時鎮静気味だった高血圧がぶり返して対局ができないほどの病状となってしまう。亡くなったのは昭和14年4月。56歳の若さだった。