升田幸三実力制第四代名人の名局になるはずだった一局

昨日からの続き。

将棋世界2004年12月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

画竜点睛を欠いた一局

昭和43年12月2日
A級順位戦
▲九段 升田幸三
△八段 山田道美

▲7六歩△8四歩▲7八銀△3四歩▲6六歩△6二銀▲6七銀△4二玉▲7五歩△8五歩▲7七角△3二玉▲7八飛△6四歩(1図)

 早指しの升田だが本局では珍しく小刻みに時間を使っている。

 相手が当代随一の研究家であり理論的な振り飛車退治で知られているから升田も慎重なのだろう。

 ▲7五歩はちょっとした変化球であるが、升田はこの手もよく指している。

 ▲7八飛には3分の消費だが、▲8八飛も得意型だからどちらにしようかな、といったところ。

 △6四歩は▲6八角には△6五歩を用意した石田流拒否の作戦だが、時代を思わせる一手で、現代では△3三角から△2二玉-△1二香とする左穴熊が圧倒的に多い。

 いつも思うのだが、升田であればその作戦に対していかなる指し回しを見せてくれたであろうか。

(中略)

 △7四歩と早くも後手から戦端を開いた。山田としては金銀は低く構えたまま、軽く飛、角、桂を捌くつもりである。

2図以下の指し手
▲8八角△7五歩▲6八金△9五歩▲6七金△7三桂▲4五銀△6五歩▲同歩△8八角成▲同飛△2二角▲9八飛△8六歩(3図)

 ▲8八角で▲6五歩は無理で以下△7七角成▲同飛△7六歩▲7八飛△2二角で先手不利。飛車交換は先手有利だから△7五歩は当然。△7三桂に▲7六歩は△8六歩▲同歩△8四飛▲7七角となり、これもあるが、やや重い指し方だ。

 それよりも本譜▲4五銀からの先手の駒運びが実に鮮やかで、いかにも升田将棋を見せられた気がする。

 とはいっても3図は飛車が蟄居して先手が苦しそうに見えるのだが……。

3図以下の指し手
▲同歩△8四飛▲5六角(途中1図)

途中1図以下の指し手
△8六飛▲3四銀△5五角▲7七金(途中2図)

 ▲5六角が角使いの升田の面目躍如、本局随一の妙角であった。

 △8六飛にかまわず▲3四銀と進む。△8九飛成には▲2三銀成△4二玉▲2二成銀△同銀▲5五角△3三歩▲8八飛で先手優勢。△5五角は仕方なかった。

 返す刀で▲7七金、これでぴったり受かっている。

途中2図以下の指し手
△8四飛▲2三銀成△4二玉▲7四歩△同飛▲8八飛△8五歩(4図)

 後手は口惜しいが△8四飛と退却する他なかった。

 そこで初めて▲2三銀成として、後手陣の一角を食い破った。

 ▲7四歩からの捌きもまた見事で、本局の升田は冴えわたっている。

4図以下の指し手
▲6八飛△7六歩▲6六金△4六角▲6七飛△7七歩成▲同桂△7六歩▲7五歩△7七歩成▲同飛△5四飛▲4七銀△7六歩(5図)

 危ないようでも▲6八飛から▲6六金がうまい。△7七歩成とくれば▲7五歩△6八と▲7四歩△6六角▲7三歩成△同銀▲7一飛で先手勝つ。

 △4六角に▲6七飛も軽妙で、ここを▲7五歩△5四飛▲5八金とすれば手堅いが、升田はそんな凡庸な手を選ばない。

 だが、先手玉には△3六桂の王手があり危険に見えるが、そこは升田に抜かりはなく相手の太刀先の届かぬことを見切っているのだ。

 ▲4七銀で後手の角が窮屈になってきたが、山田も負けてはおらず、△7六歩の軽妙手で切り返し、見応えのある将棋になっている。

5図以下の指し手
▲6七飛△3五角▲3六銀△4四角▲4五銀△7七歩成▲6九飛△7八と(途中3図)

 ▲7六同金は△5五角だから▲6七飛とするが、後手は桂頭の弱点を先を取りつつしのいだ。

 しかし角の始末に困っている。△3五角▲3六銀と追撃し、行き場がない(△4六角は▲4七歩)やむない△4四角に▲4五銀と両取りに出て、敢えて桂損した升田の遠大な構想が遂に完成した。△7七歩成は利かされるが、▲6九飛で何事も起きない、はずであった。

途中3図以下の指し手
▲4四銀△同飛▲7八角△6八銀▲5五金△6九銀不成(6図)

 ここに至って初めて升田の心に緩みが生じた。△7八とに僅か1分の消費で▲4四銀と角の方を取ってしまったのだ。

 △同飛に▲7八角が手順前後で、△6八銀の勝負手が生じて、形勢は俄にもつれ始めた。戻って、▲4四銀では黙って▲7八同角と取っておけば升田の名局が完成していただろう。△5七飛成には▲4四銀から▲2四角の王手竜があり、後手は身動きがとれなかったのである。

 それでも形勢は先手が良いのだが、決め手を逃した動揺が升田の集中力を削ぎ始める。

6図以下の指し手
▲4四金△同歩▲6九角△6八飛▲5八銀△6五桂▲6一飛△5一金寄▲9一飛成△3六歩▲同歩△6九飛成▲同銀△5五角(7図)

 ▲6一飛は次に▲4三歩を見ている。

 △7一金には▲2四角△3三歩▲同成銀△同桂▲同角成△同玉▲4一飛成で先手が勝つ。後手も△3六歩とイヤ味を衝くが強く▲同歩と取り、王手竜を食うのは折り込み済み。

7図以下の指し手
▲3七角△4六金▲3五飛△9一角▲3一飛成△同玉▲4六角△同角▲3七銀△同角成▲同桂△4二玉▲3一角△4三玉(8図)

 ▲3七角で受かっている、ここまでは良かったのだが△4六金に▲3五飛がトンデモナイ大錯覚の一手であった。

 いかなる錯覚か、升田は手駒の香を桂と勘違いしていたのだ。これは升田が脳内の盤を見て考えている証拠である。

 眼で見ているならば駒台の香と桂を見間違える訳はない。

 ▲3五飛もたった1分で指している。決め手を逃し動揺し、それが焦りを呼んで集中力を欠き、前頭葉に描かれた図が不正確になっていたのであろう。△9一角とタダで取られてはさすがに逆転した。▲3一飛成△同玉となり駒台を見て初めて桂のないのに気づき升田は飛び上がったろう。

 ▲3五飛では平凡に▲9四竜で、はっきり勝っていた。また、▲3一飛成でも▲4八香とすれば△3七金▲同桂△4一金▲6五飛でまだ戦えた。

 本譜はもうダメにしてしまった。

(中略)

 最終図からは▲6九玉には△5八香成以下容易な並べ詰めとなっている。

 本局、▲5六角の構想が目を瞠る鮮烈さで見る者を升田ワールドに引き込み、その後も敢えて桂損して角を捕獲するなど、余人には為し得ない見事な駒操きであったが、勝ち筋に入った途端の気の緩みからきたのであろう小ミスが尾を引いて、後の大ミスにつながってしまう。

 それが升田らしいとも云えるのだが、月並だが画竜点睛を欠いた一局と惜しまれる。

—————

▲5六角(途中1図)が、升田幸三実力制第四代名人にしか打てないような名角。

まさしく遠大な構想。

攻めては▲3四銀から▲2三銀成を可能にし、受けては▲7七金(途中2図)の驚異的な味の良さ。

—————

90対10だったものが55対45になると、90→55になった方が悲観的になってしまう。

例えば、50万円の株を買って、90万円まで株価が上昇したのに翌週には55万円まで下落してしまったような場合、実質的には5万円のプラスであるにもかかわらず、心理的には大損してしまったような気持ちになるものだ。

このような状況では、冷静な判断をすることが難しくなる。

—————

負けと思ったら勝つことはできないけれども、比較的早いタイミングで勝ちと思っても勝つことができない、これが将棋の魔性というものなのだろう。