羽生善治五冠(当時)「いやあ、今思うと気恥ずかしい気がしますね」

将棋マガジン1994年1月号、小室明さんの「羽生善治未公開棋譜の一挙公開 先崎少年とのケンカ将棋」より。

1983年、13歳の羽生善治1級(当時)。将棋マガジン同じ号より、撮影は炬口勝弘さん。

1983年7月7日
東京・将棋会館 奨励会・香落
(持ち時間各1時間)
▲3級 羽生善治
△2級 先崎学

初手からの指し手
△3四歩▲7六歩△4四歩▲2六歩△3三角▲1六歩△1二飛▲1五歩△6二玉▲4八銀△7二玉▲6八玉△8二玉▲7八玉△4二銀▲5八金右△4三銀▲1七桂(1図)

1図以下の指し手
△1五角▲2五桂△5一角▲1三桂成(2図)

2図以下の指し手
△同桂▲1四歩(3図)

 羽生と先崎。得難いライバルである。今や将棋の実績という点では隔たりができてしまったが、羽生戦における先崎の闘志は衰えることがない。

 本局はちょうど10年前の初対局。ライバルとしての気合がほとばしり、それに互いの自意識が増幅されて、局面は序盤から猛烈なタタキ合いとなった(3図)。

3図以下の指し手
△1五歩▲4六歩△3二金▲4五歩△同歩▲1五香(4図)

4図以下の指し手
△同角▲1八飛△2四角▲1三歩成△同飛▲同飛成△同角▲1一飛(5図)

5図以下の指し手
△3一角▲4四歩△5二銀▲2一飛成△4二飛▲4三桂(6図)

6図以下の指し手
△2二角▲5一桂成△3一金▲5二成桂△同金▲2二竜△同金▲4三銀(7図)

7図以下の指し手
△3二金▲5二銀成△同飛▲4三金(8図)

8図以下の指し手
△7二飛▲3二金△8四香▲4三歩成△9五桂(9図)

9図以下の指し手
▲3三角成△8七桂成▲6八玉△4六桂▲5三と△5八桂成▲同玉△4六歩▲6三と△2八飛▲7二と△同銀▲4九歩(10図)

「いやあ、今思うと気恥ずかしい気がしますね。お互いに内容が荒っぽく、指し手に含みというものがない。本当に直接手ばかりで、級の将棋ということを痛感しますね」

 羽生は照れ笑いを隠せなかった。

「先崎君とはアマ時代にも指したことがあったので、プロの奨励会に入ってどういう将棋を指すか、大変に興味がありました。指し手を進めていくうちに、その思いが強くなりましたね」

10図以下の指し手
△5六歩▲5一飛△4七金▲5九玉△6一銀打▲5五馬△4八金▲同歩△2九飛成▲4九金△6四歩▲同馬△6三銀打▲同馬△同銀▲6一飛成△4九竜▲同玉△7一金▲4二飛(投了図)
まで、94手で羽生3級の勝ち

 10図。▲4九歩で羽生の勝ちが不動のものとなった。それまで先崎は自分が勝ちと思っていたのに、底歩を打たれて負けなので相当に驚いたらしい。

 この年は谷川浩司が史上最年少の名人になり、棋界が大きく動いた年でもあった。

「谷川先生は雲の上の人でした。ただもう遠い遠い存在で……」

 当時、優れた将棋評論家としても知られる芹沢博文九段は、谷川を中原、米長以上のスケール感をもった将棋として絶賛し、後に四段羽生善治を「勝負に辛いだけだ」と、あまり評価をしていなかった。

「芹沢先生は将棋の表現力、勝ち方を重視する方です。名人になった頃の谷川先生は既成の概念にとらわれない独創的な表現をする将棋でしたから高い評価をされたのでしょう。その点、四段当時の私の将棋は雑で投げっぷりも悪く、芹沢先生の理想とされる将棋とは程遠いのでしょう。見た目の美しさもありませんし」

 羽生は悪びれずに率直に語った。

* * * * *

12歳の羽生善治3級(当時)と13歳の先崎学2級の戦い。

「お互いに内容が荒っぽく、指し手に含みというものがない。本当に直接手ばかりで、級の将棋ということを痛感しますね」

逆に直接手ばかりなので、見ていてとても面白い。

* * * * *

1図からの奇襲とも思えるような▲1七桂~▲2五桂~▲1三桂成~▲1四歩の攻め筋。

▲1五香(4図)と、香の只捨てからの強引な捌き。

▲4三桂(6図)、▲4三銀(7図)、▲4三金(8図)と、4三の地点への執拗な攻撃。

力いっぱい鎖鎌を振り回しているような迫力だ。

* * * * *

▲4九歩(10図)で先手が受かっているというのだから驚く。

かなり前から読んでいたのだと思うし、読みが深くなければ指せない一手だと思う。

* * * * *

「芹沢博文九段は、谷川を中原、米長以上のスケール感をもった将棋として絶賛し、後に四段羽生善治を『勝負に辛いだけだ』と、あまり評価をしていなかった」

晩年の芹沢博文九段はかなりの辛口で、若手棋士の将棋に対して厳しい見方をしていた。

原田泰夫八段(当時)「一局指しただけでは本当のことは分かりませんが、羽生君は筋のよい将棋のように感じました」

「その点、四段当時の私の将棋は雑で投げっぷりも悪く、芹沢先生の理想とされる将棋とは程遠いのでしょう。見た目の美しさもありませんし」

以前の「羽生善治五冠(当時)のお父様へのインタビュー」の記事で、高橋呉郎さんが「生産者」と「生活者」の概念について、

「生産者として対局にのぞむ棋士は、程度の差こそあれ、ロマンティストになぞらえざるをえない。大山名人にはそのかけらもなかったのだから、相手にすれば始末にわるかった。気がついたときは、いいように手玉にとられていた」

と書いており、羽生五冠も大山康晴十五世名人と同様、「生活者」タイプの棋士と分析している。

そのような切り口で見れば、芹沢九段は「生産者」タイプの棋士に対する評価が高かったのだろう。

芹沢九段が亡くなったのが1987年12月。

それ以降の羽生将棋を芹沢九段が見たなら、芹沢九段の見方も変わったに違いない。

 

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