加藤一二三九段「この子が一二三君か」

将棋世界1982年1月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。

 将棋界で「一二三」といえば加藤だが、もう一人、同名がいる。関西の若手のホープ小林健二六段の長男が一二三君だ。「ぼくの棋士番号が123番。女房の映子のお茶の番号も123番、それに尊敬する加藤先生にあやかって一二三とつけたんです」と小林、若すぎて坊やみたいに見えるので、子供が赤ん坊を抱いているように見えるが、よく連れ歩く。

 近鉄将棋まつりのときもだっこしてきた。ちょうど加藤が早指し将棋に出演する日だった。こども好きな加藤が寄ってきて、「この子が一二三君か」と抱き上げ、ほおずりしたという。やさしい加藤らしいエピソードだ。

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1982年当時の加藤一二三九段の謹厳なイメージから考えると光景を想像するのが難しいエピソードであるが、現在の加藤一二三九段を見ていれば、大いにありうると納得できるエピソード。

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棋士番号123番、お茶の番号123番。

このような番号で、私が生まれて初めて意識したのは、中学1年の時に通いはじめた耳鼻科の医院の診察券番号444番。

病院で4の数字が並ぶのは不吉にも思えたが、覚えやすいし滅多にないことなので、かえって嬉しくなった記憶がある。

次に覚えているのが、大学受験の時の受験番号614番。高校入試の時にも受験番号はあったのだろうが、第一志望の高校を落ちてしまったことなどもあって全く覚えていないし、大学も落ちたところの受験番号は全く覚えていない。

どうして614番を覚えているかというと、大学の創立記念日の一つが6月14日で、この日は休みになっていたため。(旧制時代の創立記念日と新制大学になってからの創立記念日の2つがあった)

大学に入ってからの学籍番号、会社に入ってからの社員番号も覚えているが、それより後になって付けられた番号はほとんど覚えていない。

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棋士番号1番は金易二郎名誉九段

棋士番号100番は森雞二九段

棋士番号111番は 真部一男九段

棋士番号200番は豊川孝弘七段

棋士番号222番は木村一基八段

棋士番号300番は青嶋未来五段

棋士番号123番の小林健二九段も含め、この辺が覚えやすい棋士番号。

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2,26,92,131,175,183が永世名人の棋士番号。

数学的法則性があれば面白いと思うのだが、きっと何もないと思う。

 

 

 

藤井猛九段「△4六飛なんていう手を読めるはずがないでしょ」

将棋世界2002年6月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 4月1日、新年度入りである。順位戦が終われば竜王戦で、この日は、丸山名人対藤井九段戦、深浦七段対鈴木(大)七段戦などの好取組がある。

 1図は、丸山対藤井戦。おなじみの「藤井システム」だが、▲9六歩と受けてある所が見なれぬ形だ。

 いうまでもなく、穴熊に組ませぬ、が藤井システム。端を受けた分、先手の駒組が立ち遅れているのを見とがめて、さっそく仕掛ける。調べてあるのか進行が早く、1図が昼休みの局面だった。

1図以下の指し手
△8五桂▲8六角△4五歩▲8八銀△7三銀▲5七銀△6五銀▲5五歩△9五歩▲同歩△7六銀▲7八金寄△9七歩▲同桂△同桂成▲同香△8五銀▲5九角△5五角(2図)

 一見当たり前の手の連続のようだが、両者長考の連続だった。本戦法の中核をなす部分なのだろう。このあたりの詳しい変化について、局後ほとんど語られなかった。

 しかし、2図となってみると、△9六歩が目にみえており、後手がどう見ても指しやすい。

2図以下の指し手
▲2四歩△9六歩▲同香△2四歩▲同飛△2二歩▲3四飛△9六銀▲3一飛成△4一飛▲3六竜(3図)

 端を破ったのはいいが、後手の問題は2筋の処理である。ここを破られては何にもならない。

 といっても受けは難しくなく、△2二歩と平凡に受ければよい。その後▲3四飛と回られ、歩切れで困ったかに見えるが、成り込まれてもよし、の大局観があれば、どうということはない。

 すなわち、▲3一飛成を許しても△4一飛があり、先手も竜を自陣に引くのでは大した成果ではない。ここの見きわめが藤井九段の勝因の一つになった。

(中略) 

3図以下の指し手
△4六歩▲同歩△9七銀成▲6六歩△9六香▲8九玉△6五歩▲7七銀△6六歩(4図)

 そんなわけで、深浦七段が控え室の来てモニターテレビを見つめている。よき研究材料というわけだろう。もう一人豊川五段は黙々と将棋を並べている。他に奨励会員二、三人と日経のM記者、週刊将棋の記者に私。順位戦が終わると、控え室も急に淋しくなる。

 ▲3六竜と引いたところは銀取り。それを防いで△4六歩だが、これは手筋。

 そうして藤井九段は大長考に入る。

「どうかね」と深浦七段に訊くと「銀が成ると思いますけどね」。

 みんな同じことを考えているらしいが、それにしても藤井九段は長い。寄せにわからぬ点があって苦しんでいたのだが、ここで考えたのが、後のドラマを生んだ。

 40分も考えて△9七銀成。残り時間もすくなくなった。以下△6五歩までは予想された攻め方。

 対して、▲7七銀の受けを、豊川君は「柔らかいな」と感心した。△6六歩の4図のとき、▲同銀左と取って簡単に寄らないのである。その次、△6六同角▲同銀△7六桂でよさそうだが、▲7七銀△6八歩▲同角の頑張りがある。

「そうかな」「何かありそうだな」なんて言っていると「▲6六同銀に△4六飛はどうでっか」怪しげな関西弁がした。声の主はM君である。そんなバカな、と言うわけにもいかず、深浦、豊川両君は聞こえぬふりをしていたが、一分しないうちに、両者は眼を合わせ、なんともいえなぬ、名状しがたい顔になった。

 △4六飛が妙手なのである。▲同銀は△6六角で受けなしだし、▲同竜とは取れない。私も含めて、M君にいい手を見つけられたのが、ちょっとしゃく、というわけ。

 名人も同じだった。△4六飛と出る順にここで気がつき、さっきの大長考のときにこれを読み切られた、と読んだ。そうして―。

4図以下の指し手
▲5八金△6七桂まで、藤井九段の勝ち。

 相手の読みを外すつもりで▲5八金と上がったら、△6七桂で受けなし。あっけなく終わってしまった。

 感想戦で藤井九段にたしかめると、

「△4六飛なんていう手を読めるはずがないでしょ。△6六同角▲同銀△7六桂以外は浮かばなかった。その後がはっきりしなくて考えたんですよ」

 昔だったら、こういう感想を聞けば、「何んだ、読んでなかったの」とかの負け惜しみが出たところだが、今の棋士は上品で大声を発したりはしない。名人も例によって微笑んだだけだった。

 ともあれ「週将」の文体を借りれば、藤井竜王復位に向けて好発進、というところ。

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数手前の選択肢の少ない局面での長考が、相手の応手に影響を与えるという事例。

丸山忠久名人(当時)が「なんだ、読んでなかったの」と言う姿は想像ができないし、どう考えてもありえない世界。

「なんだ、読んでなかったの」

森雞二九段なら、どのような場合でも必ず言ってくれそうな言葉だ。

森内俊之九段-佐藤康光九段戦なら、森内九段が笑いながら言いそう。

郷田真隆九段-先崎学九段戦なら、郷田九段が微笑して首を傾けながら言いそうな言葉。

木村一基八段-行方尚史八段戦なら、お互いに言いそうだ。

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ところで、4図から▲6六同銀左△4六飛の局面(A図)。

▲同竜は△同角、▲5五銀は△3六飛で、次の△9九飛からの詰みが残るのは理解できる。

▲同銀は△6六角で受けなしと書かれているが、▲7七金あるいは▲7七角と受けられた後の変化が深そうだ。

また、▲3一竜とされた時の変化がわからない。

一見、△4六飛は鮮やかな次の一手に見えるが、私にとっては難しい変化が多く、理解するのにはなかなか手間がかかりそうだ。

 

 

佐藤康光九段の戦慄の3段ロケット型居飛車穴熊退治

将棋世界2002年3月号、毎日新聞の山村英樹さんの第51期王将戦七番勝負第1局〔羽生善治王将-佐藤康光九段〕観戦記「炸裂したスズメ刺し」より。

 〔意表の三間飛車〕

 記録の天野貴元二段が行った振り駒は1枚が回り将棋の「10」のように立って、歩が3枚出た。羽生の先手番が決まった。そうなると盤側で予想したのは当然相居飛車の戦型になる。ところが、佐藤の4手目は△4四歩。「?」と見るうちに飛が3筋に移動した。なんと、公式戦では初の佐藤の「純正」三間飛車。これから何番も対戦する羽生を相手に、初戦からいきなり意表を突くことをやってくれた。羽生も「驚きました」と語っていたという。

 しかし、振るにしても現在は四間飛車の全盛時代で、三間飛車の実戦は少ない。ということは、必ずしも有利な戦法とは思われていないのではないか。さらに控え室では「三間飛車は軽いサバキが求められる作戦。佐藤さんの棋風とは違う感じがするが」の声もあった。すると、この戦法を選んだ意味は?記者には、佐藤が後に実現する構想をおぼろげながら描き、あらかじめ考えてきたのではないかと思えてきた。それは2日目の午後になってからの話だが。

 羽生は玉を居飛車穴熊に囲う。竜王戦でもさんざん展開されたように、現在はすんなり組ませてくれることの方が少ないだろう。「穴熊に囲うことができてはまずまずと思った」との感想がある。同時に不思議な気がしたことだろう。「なぜ、佐藤さんはこの戦法を選んだのだろう」と。

途中図からの指し手
▲7八金右△6三金▲4六銀△6四銀▲3五歩(2図)

〔伏線〕

 △8一玉が封じ手だった。普通の居飛車対振り飛車の進行と言ってもいいような駒組みだが、1点違うのは封じ手が△8二玉ではなく、下段に移動したこと。羽生も(通常の)△8二玉ではない予感がしたそうだが、控え室の立会陣、丸田祐三九段と前田祐司八段も「△8一玉の方が勝る展開になるかどうかはなんとも言えません」と話していた。この手も後で思えば大構想を実現させるための重要な一手だったのだ。局後、「△8一玉あたりまでの進行は想定されていたのですか」と聞くと、「いえ、とてもそんな」の答えが返ってきた。しかし、はっきりした形でなくとも、なんらかのひらめきがあったのだろうと状況証拠からは思える。

 ▲3五歩は自然な仕掛け。佐藤の応手は……。

2図からの指し手
△7五歩▲3四歩△5一角▲7五歩△同銀▲5七角△6六歩▲同歩△7六歩▲3八飛△8五桂▲4八角△7三銀▲2六角△5三金(3図)

〔突然の大長考〕

 右方を手抜きして△7五歩はわずか7分の決断。▲3四歩の取り込みも予想されるところ。だが、この手が指された午前10時45分からピタリと佐藤の手が止まった。午後0時半から昼食休憩に入り、食事を早めに終わらせて午後1時すぎには盤前に戻って読みを続ける。これまた自然な△5一角が指されたのは再開が告げられた直後、午後1時半だった。記録用紙に105と記入される。

 この長考も謎だった。そして進行を見ると、佐藤は盤の右半分はほとんど見ないで、玉頭戦にかけたような指し方。しかし、羽生に飛角を小刻みに動かされ△5三金と受けた3図は見事なほどに後手の金銀がバラバラ。ちょうと青野照市九段、勝又清和五段も控え室を訪れたが、「(後手陣の)こんな形は見たことがない」。その口ぶりからすると、どうも先手有望と感じているようだ。先手の堅い穴熊を見ると、素人目にもそう見える。だが、6手進むと見方ががぜん変わる。

3図からの指し手
▲5七銀△7四銀▲3六飛△9三香▲3七角△9二飛(4図)

〔遠大な計画〕

 羽生がどの時点で佐藤の構想に気付いたかはわからないが、この時点で気付いてももう止められなかった。三間飛車の選択、封じ手の△8一玉、大長考の△5一角。それらへの疑問をいっぺんに解決したのがこの△9三香から△9二飛。「スズメ刺し」の用語は本来矢倉戦でよく使われるので、この場合に使えるかどうかわからないが、おそらく前例のない対穴熊の「スズメ刺し」。最下段を移動する地下鉄飛車は実戦例もあるが、こんな構想はあるのだろうか。

 記者が属する毎日新聞と一緒に王将戦をを主催するスポーツニッポン紙で特別観戦記者をつとめた作詞家の荒木とよひささんだけが、早くからこの構想を言っていたが、前田八段が「荒木さん、自慢していいですよ。おそれいりました」。佐藤は「端にプレッシャーをかけるしか勝負にならないので」と感想で。しかし、羽生は「スズメ刺しの形になってはこちらが悪いと思います。中盤の飛角の動きなど、ゆっくり指しすぎたかもしれません」。とは言うものの控え室では後手陣の形は異様なだけにまだ羽生に分があるのかと思っていた。

4図からの指し手
▲6八銀△6三金▲6七金△7二金▲3五飛△4二角▲7八金△8四歩▲4六角△6四角(5図)

〔我慢比べ〕

 堅い穴熊だが、逆に言えばこれ以上進化のしようが難しい。佐藤にしても一歩持っていれば△9六歩以下端攻めが実行できるのだが、その歩がない。羽生にとっては歩を渡さずに手を進めたい。右の手順は双方ともにすぐには動けず、手待ちの意味がある。ただ、この間に佐藤の金銀が再び集結し、結構堅い形になった。とは言え、いつまでも待つ手がない。

「どちらが先に辛抱できなくなるか」と控え室の視線が集まる中で、佐藤が動いた。午後6時10分、角をぶつける△6四角。ここから堰を切ったように局面がほぐれる。

5図からの指し手
▲同角△同銀▲3三歩成△6九角▲7九歩△4七角成▲4三と△7七歩成▲3一飛成△7一歩▲7七銀右△2九馬▲8六銀△1九馬▲2一竜△9四香打(6図)

〔一気に攻め合いに〕

 残り時間が16分対9分ということもあるが、両者の指し手は早かった。あっと言う間に羽生が竜を作る。手順中△7七歩成は拠点を失って惜しいようだが、△7一歩で後手陣が引き締まった。そして、取ったばかりの香を9四に打ち、いよいよ攻撃の準備が完了。羽生はここで手を止めた。

6図からの指し手
▲8五銀△同銀▲7七桂打△7三桂▲6一角△9六歩▲8五桂△同桂▲9六歩△同香▲9七歩△同桂成▲同桂△同香成▲同銀△同香成▲同香△9八歩▲8八玉(7図)

〔羽生のミス〕

 5分使って▲8五銀。続く▲6一角とあいまって攻め合いの順だが、勝負所があったとすればここだろうと、局後の検討が集中した。

 代わる手でもっとも有力だったのが▲7六桂と打つ手。△7五銀左に▲4二角と攻防の角を打ち、どうなるか。変化の中には千日手の順もあり、「これが最善かも」の声が両者からあったが、終局直後の感想だけに自信が持てない様子。ただ、本譜よりは勝ったかもしれない。

 佐藤が端に集めていたミサイルが次々と発射され、次第にすっきりした形になってきた。「これは羽生さんの負けかも……」と控え室の声も定まってきた。残り5分の佐藤が2分を使って決め手を出す。

7図からの指し手
△9七飛成▲同玉△8五桂▲9六玉△9五銀▲同玉△8三桂▲9四玉△9三銀▲同玉△9一香(投了図)  
 まで、118手で佐藤九段の勝ち

〔佐藤鮮やかに先勝〕

 △9七飛成が決め手になった。▲7七玉と逃げれば即詰みは免れるが、羽生はそんな気にならなかったのだろう。▲同玉と取って、詰まされる順を選んだ。以下は長手数だが、詰んでいる。投了図以下は▲8四玉△7五銀▲8五玉△7四金▲同玉△7三金▲8五玉△8四金。駒を使い切り、遠く1九の馬まで利いている。

「詰みを発見してようやく勝ったと思いました」と佐藤。

 羽生の居飛車穴熊を粉砕して先勝した佐藤。この勝利は大きな自信になっただろう。三間飛車からスズメ刺しという大胆な発想には脱帽するしかないが、やはりどこかでおぼろげにこんな発想が生まれて、いつかは指してみようと思っていたのだろうか。本人は「いや、そんなことはありませんよ」と笑って否定するだろうが……。

 局面がほぐれてから終局するまでわずか50分足らず。この2人の戦いはそれまで序盤、中盤で注ぎ込んだものを一気に清算する時点では第2局まで終わっているが、おそらく2局目も、第3局以降も、両者の激闘はこんな光景が続きそうだ。

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2図で後手玉が8一ではなく8二にいれば、真部流三間飛車そのものの形。

羽生善治王将の攻め方は、真部流三間飛車に対する一つのお手本の手順ということになるだろう。

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「こんな形は見たことがない」と言われた3図の後手の陣形。

本当に見たことがない。

こんな不安定でバラバラで浮き駒だらけで、個人的には絶対に指したくないような形だ。

しかし、ここからが天衣無縫流の佐藤康光九段の真骨頂が発揮される。

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5図以降の後手の陣形が引き締まっているのが、奇術を見せられているような気持ちになる。

三間飛車は世を忍ぶ仮の姿であり、本筋の狙いはスズメ刺し、そして、6図の3段ロケットというか3段ミサイルの展開。

あとは、先手の穴熊の9筋に集中攻撃。

泣く子も黙るような攻撃。

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佐藤康光九段の奔放な指し回しが現れる初期の段階であるが、この後、佐藤康光九段は更に奔放な、誰も考えつかないような、誰も指さないような振り飛車を何局も見せてくれるようになる。

佐藤康光王将(当時)「我が将棋感覚は可笑しいのか?」

 

 

途中で特別対局室に移動してきた対局

将棋世界1982年8月号、能智映さんの「棋士の楽しみ」より。

 その日、東京の会館は対局は多かった。王位戦リーグ3局のほかに、順位戦、ほかの新聞棋戦の予選など10局近くあった。特別対局室での勝負は、大山康晴王将-勝浦修八段戦、内藤國雄九段-西村一義七段戦の2局で、わたしも後者のほうを観戦していた。すると午前中に内藤が妙なことをいい出した。

「きょうは森安秀光君(八段)もきて、石田和雄八段と対局しているはずや。あの二人だけ一室に閉じ込めとくのはかわいそうや。同じ王位戦やから、せま苦しいけど、ここへ入れてやったらどうやろか」

 そんな例はめったにない。はじめは冗談かと思っていたら、大山まで「そのほうがにぎやかでいい。それに勉強にもなるし―」とおもしろがって、その話に乗ってしまった。そして昼休みの間に、森安-石田戦の盤がそこに運ばれてしまったのだ。

 休憩のあと観戦にくる棋士たちは「あれっどうなってんの?」と驚くし、隣の部屋で対局中している芹沢博文八段など「ほう、6強のそろい踏みですな。わたしも勉強のため、全部が終わるまで時間をつかって指していましょう」と誘い水をかけている。内藤らに「終わったら、いっしょに呑みに行こう」という”赤裸々なナゾ”をかけている。

 その芹沢の予想(?)どおり、この3つの対局は深夜に及んだ。そのころ、わたしは酒を一日置きに呑むことに一時的に決めていて、その日は呑めない日だったのだが、内藤は対局中に「12時を過ぎれば、あしたやな!」と笑わせた。ところが、内藤-西村戦が終わったのが11時半近く。そして不思議に隣の芹沢の将棋も11半すぎにちゃんと終わった。

 両者が感想戦を終えて、対局室を出るときに内藤はブレザーのソデをちょっとくって、黄金の時計をちらっと見る。そして、わたしに向かい憎いことをいう。「ぴったり12時ですな!ほな、いきましょっ!」

 あきれてものがいえないが、うれしい気が先行する。隣の森安-石田戦だけ、まだ続いている。出掛けに、ちょっとそっちを向いた内藤は「秀光君、行き先は出口の守衛さんにいうとくわ」といい、芹沢、内藤にわたしが付いて夜の街へ。―タレント二人の付け人といった感じがしないでもない。

「わたしは、歌が本職やから下手なカラオケを聞かされるのはかなわんのや」と内藤が注文を付ければ、「オレもそうだから―」と芹沢が受けて、近くのきれいとはいえないおでん屋風小料理屋の座敷に上がり込む。

 あとは呑めや呑めやである。二人は東西の横綱と定評のある酒豪だ。もう将棋のことなどまったく忘れて家庭的おでんをつまみながらがんがん呑む。ところが、待てど暮らせど森安は現れない。そして3時を回ったころ、若い観戦記者が戸口に顔を見せ、「森安先生は先回りして、あっちのスナックでお待ちですよ」と告げる。

「そな、いきましょ」と立ち上がる。「お勘定は?」とおばさんに聞けば、「オチョウシ45本ですから、3万ン円です」と。―呑みも呑んだり、わずかな時間でこうなのである。しかし、話はまだ続く。

 近くのスナックに回ると、森安、石田が観戦記者2人と、どこかのオッチャンを囲んでやっている。よくそのオッチャンを見ると、どこから現れたか、桜井昇六段ではないか。先輩で、しかも理事だから威張れるのである。

 こんどはにぎやか、わいわい呑んだ。不慣れな(?)わたしなど、テーブルにうつ伏して眠ってしまう情けなさで6時半ごろまで呑み騒いだ。もう夜は明けていた。芹沢、石田、桜井はタクシーをひろって帰った。私と観戦記者の中島一彰君らは「もうだめだ、連盟の記者室で仮眠しよう」と帰り道で気付くと、連盟に泊まるはずの内藤と森安が消えている。

―なんと、また呑みに行ったのである。

 西の横綱がこうなら東の横綱もすごい。話はもう少し続く。

「さあ寝よう」と記者室に着いてみると、熱心に将棋を研究している棋士が2人いるではないか。加藤博二八段と佐藤義則六段だ。「いや、寝そびれて、朝を待ってるんです」。外が明るいのにも気付かぬ熱心さに頭が下がったが、ひょいと見ると、ちゃんとワンカップが用意してある。もう眠る門下。それを少しちょうだいして時間を待つ。

 実はわたしは内藤-西村の観戦記の〆切りが急ぐので、この日、芹沢に解説を受ける約束だったし、中島君も芹沢と仕事の約束を持っていた。―佐藤も「わたしも師匠に会っていこうか」というので、3人で車をとばす。着いたのは約束どおり10時。

 なんと芹沢は、もうウイスキーをチビチビなめながら待っていたのである。「さあさあ、仕事はちょっといっぱいやってから」というので、4人でまたはじまった。このあたりで、さすがのわたしも仕事を断念し、佐藤と並んで芹沢家の布団にもぐり込む。

 ところが起きてみると、芹沢たちは仕事を終えて、また呑んでいる。「もう、だめだ」と芹沢家を出たのは3時ごろであった。口惜しいから、わたしも家に帰って少し呑んだが、それにしてもあの両横綱は、ウイスキーの量をガロンとかバーレルで数えるような恐ろしい呑みっぷりだ。

(以下略)

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対局の途中で部屋が変わるというのは、かなり異例なことだ。

これが実現できたのも、隣で対局していた大山康晴十五世名人(日本将棋連盟会長)が同意というか乗り気になったことが大きかっただろう。

また、王位戦の担当である三者連合の能智映さんが観戦記者として同室にいたわけだから、話は早い。

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午前0時過ぎまで開いている「おでん屋風小料理屋」はなかなかないと思うのだが、そういう意味では、飲みに行った場所は新宿だったのかもしれない。

スナックというのも新宿2丁目にあった「あり」である可能性が高い。

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午前6時半から飲みに行ける店というのは限られている。

この当時、私は六本木で飲むことが多かったが、どんなに遅くまでやっている店でも午前5時か6時には閉店だった。

新宿だからこそ、朝遅く(?)まで開いている店があったのだと思う。

 

 

内藤國雄九段が36年前に書いた非常に鋭い意見

将棋世界1981年12月号、「メモ帖」より。

 内藤九段が週1回、新聞にコラムを書き始めたと8月号に報じた。将棋のことや社会問題を鋭く論じている。一部を紹介しよう。「過剰の悩み」というタイトルの稿である。

(前略)肥満体は栄養過剰在庫の状態である。すべて物事は「必要な時に必要なだけのもの」があればいいのであって、それ以上になるとかえってマイナスに作用する。ところが多ければ多いほどよいと信じられているものがある。”情報”がそれ。しかし実は、それこそが最大の問題ではないかと思われてならない。氾濫する情報は、正常な感覚を狂わせかねない。無限に続く情報の波状攻撃に、世間は”一時騒ぎ”と見事な”移り気”というもので対処する方法を身につけた。(後略)

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まさしく現代の姿を言い表したような36年前の文章。

当時はパソコンなど個人はおろか企業でもほとんど入れていなかった時代。個人がネットワークを介して情報のやりとりをするのが一般的になるのは、この20年後のことになる。

芥川賞作家の新井満さんがまだ電通に勤務していた頃のインタビューで、「情報は収集するものではなく削ぎ落とすもの」と語っていたのを読んで、当時の私は大いに衝撃を受けたものだが、それが1988年頃のことなので、内藤國雄九段はその8年ほど前に同様の趣旨のことを書いていたことになる。

当時としては誰も書いていないような、非常に斬新で革命的な意見だと思う。

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羽生善治三冠も自著の『簡単に、単純に考える』で、「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います」と語っている。

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現代はSNS全盛の時代。

Twitterの場合で言えば、有益な情報、必要な情報を速く入手できるという利点もあるが、出所を確認していないデマ情報が流れてくることも多い。

あるいは100ある事実のうちの、自分に都合の良いところだけ(主張したいところだけ)の10くらいを抽出して、それに意見が加わって流れてくる場合もあり、情報の受け手がしっかりしていないといけない時代になっている。

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100ある事実のうちの、自分に都合の良いところだけ(主張したいところだけ)の10くらいを抽出して、それに意見(思惑)が加わって流れてくる、は現代のマスコミにも顕著な傾向だ。

三浦弘行九段が冤罪に見舞われた事件での多くのマスコミ報道もそうだったが、そのような姿勢がマスコミへの信頼感の低下を加速させている。

マスコミが大好きだった私が言うのだから、本当に良くない状況だと思う。

 

 

将棋ペンクラブ末席幹事による将棋ペンクラブ非公認ブログ。近代将棋に連載していた「将棋ペンクラブログ」のネット版です。