羽生マジックの真骨頂

島朗九段の非常に素晴らしい観戦記。

抜粋とはいえ内容が濃いので2~3回に分けようとも思ったが、一度に読んだほうが良さを失わないと考え、1回で掲載。

将棋世界2003年7月号、島朗八段(当時)の名人戦(森内俊之名人-羽生善治竜王)観戦記「ベスト&ブライテスト」より。

第2局

 一日目羽生は熟考を強いられているように周りには思えた。しかし実際は違った。角換わりに決まったあとの、結果的に組み上げられる基本型までの過程を心から慈しんでいたのだ。そのため一日目に5時間以上の消費時間が記録されたが、強いられるという表現は少なくとも当たってはいない。真に必要な時間が多かったから。そしてその思考は遠くはない対局の考慮で不意によみがえるだけでなく二日目の終盤にも思考の厚みとなってすぐ生きてくるはずだから。

(中略)

 そこで▲3六歩は自然な手順。今度は森内が迷う。事前の研究では実戦特有な序盤手順の前後を網羅することはできない。彼は早く基本型をセットしたかった。それはこの将棋に限らず、相手が羽生だからということでもない。中終盤で驚異的に広く読みの手を探索し取り上げる森内将棋の自然な反映として、序盤を「打たせて取る」フォームに起因するものだ。七年前の名人戦にしても全五局の中で一日目から羽生が森内の消費時間を大きく上回ったことは一度もなかった。

 第1局終了後に彼はそうした時間戦略を見直した。普通にするのではない、もっと方針を徹底させるべきだと思った。自分は中盤重視の将棋で、野球のイニングでいえば、3・4・7を取れれば勝てると考えている。ライバルの佐藤康光は2・7・8重視かと思った。決定的に違う。

 その点、羽生はもっと明瞭な傾向がある。1・2・3。彼の推測はほぼ当たっていた。そこで全く差がつかない稀な場合のみ・・7が必要になると羽生は考えていたのだ。

(中略)

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 ▲3五金を目の当たりにして、森内の眼が輝きを増してきた。そこには羽生との純粋な競争を何より待ち望む彼の深淵が現れていた。誰でも勝利を愛するのはたやすい。しかし、強敵の巧技を認めそれを超えようとする現実を好むのは容易な作業とはいえない。

 成りか成らずか。シンプルで、極みの選択はまさに名人位を賭けた円熟と充実の思考となった。104分での△5八銀成と手つきさえも重そうに成った一手は、実力制第十二代名人・森内俊之の長年鍛え上げた強さをまざまざと伝えるものにふさわしい。夕食休憩直前に指されたとき、森内の指先をまばたき一つして羽生はじっくり見届けた。こんなに勝敗を分けるかもしれない成り・不成はそんなに現われないな、とだけ瞬間彼は思った。そして今まで読んでいた不成の変化を、いっぺんにではなく徐々に脳裡からその痕跡を丁寧に消していく。成りでも役立つ変化に注意しながら。

 不成の場合・・・羽生は▲4四歩で▲3四金の変化に心が傾いていた。△5二玉▲3二竜△4二歩▲4三金△6二玉▲2一竜△3一歩▲3三金△8六飛▲同歩△6七銀打▲8七銀・・・寄るかどうかわからない。残っているのか・・・

(中略)

 はっきりしているのは、△5八銀成の形だと金を渡したときにすぐ△6八金で寄ってしまうこと、(中略)成りが生きる変化を読み進めて確認するたびに、森内の読みが羽生の中で融合していく。これ以上他人を理解できることが、日常であるだろうか。成りなので、いまの変化のほとんどが消えた。変わって本譜の▲4四歩からの順を羽生は夕食休憩中も一人自分の部屋で鋭く、時にペースを緩めて考えてみる。少し苦しいのかも、と感じたが、局面の複雑性は夜になっても続くだろうと思った。どんなに複雑でも、終盤に必ず答えはある。再開が近づく今、▲3二竜に難関の△4二銀の先を読んでいた。いつものように、自分にとり最強の応手に彼は挑戦する。そう意思の力で決めているのではなく、習慣だから。

(△5八銀成以下、▲4四歩△同金▲同金△同玉▲4五金△4三玉▲4四歩△5二玉▲3二竜)

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 夜戦に入りおよそ1時間。森内は▲3二竜に対しての応接に再度時間をかけていたが、さきほどの△5八銀成の時点に比べると、見通しはかなり鮮明になっている。二日目に羽生より3時間以上考えているため(それでも一日目に3時間の差をつけていたので、残り時間はこの時点で同じくらいだった)消耗は激しく、緊張はピークに達していたが、局面の見通しの明るさは、再び彼に読み抜く勇気と力を与えつつあった。△4二歩は▲4三歩成△6二玉▲2一竜△4一銀▲7五銀で負ける。しかし△4二銀で少し残っていると思った。▲4三歩成△6一玉▲4二と△6八金▲5一と△7一玉▲6一と△8一玉・・・逃げ切れる。

 この手を見て大きく首を左右に振る羽生を、森内は視野の隅にとらえる。そしてここでも、森内の読み筋がわずかに薄い部分、▲5二銀が指された。

(2図以下、△4二銀▲4三歩成△6一玉▲5二銀)

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 検討陣が時間をかけ、複数の、敗戦のプレッシャーがない頭脳で調べれば、ここは後手勝ちの結論が出される。そして当然のことながら、勝負は違ったところで決着がいつもついていく。

 マジックという言葉で括れば簡単だが羽生の終盤技術のひらめきの一つが▲5二銀に表れている。勝ちに直結するかどうかはわからない。しかしこの技術を保持しているので逆転・錯綜が確率的に多く生まれ、豊かでテクニカルだが、決して説明のつかない謎と夢の部分・・・それは彼の愛嬢が大好きな「銀のぶどう」の上品なお菓子が作られていくさまに、どこか似ていた。お父さま、アーモンドツリーって木の実がいっぱい入ってるね。

 局後に▲5二銀に△7二玉として、▲4二竜△8一玉▲5一竜△9二玉▲9五歩△8六飛で、こう進めば後手勝ちということがわかった。但し▲5一竜で▲6一銀不成の変化があり、容易ではない。

 いいタイミングで△8六飛として▲同歩に△8七歩から一気に詰み形へもっていけるのが鍵で、その意味から△7二玉のところ、△7一玉▲4二竜△8六飛がより明快な順。以下▲6一銀成△8一玉▲8六歩△8七歩▲同金△7八金▲9八玉△8八金打▲同金△同金▲同玉△8七歩▲9八玉△9七銀▲同玉△8五桂が妙手で、先手玉は歩が9六のままでもきれいに詰んでいた。(中略)好手はいっぱい出現するものの、狭い地域での手順なのでトッププロからしてみれば超難解というほどではない。少したりないと感じている羽生の側からみれば、これで詰まされたらやむなしという順でもある。

(本譜は3図以下△5二同角▲4二竜△6九銀▲5二と△同飛▲同竜△同玉▲7九歩)

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 △5二同角は、より確実に勝ちを選んだ結果の選択、のはずだった。△6九銀で受けがないように思えた先手陣だが、▲7九歩(4図)が値千金の底歩。受けなしどころか、たった一枚の歩で寄りのない強固な陣容に変貌していた。

 森内は時ならぬ長考に沈む。豊富に思えた持ち駒は、飛角で王手をかけられる自玉の状況を考えると駒が多いどころではなく、△7六金も▲7四角で勝てない。勝敗不明の時間がとても長かった将棋の結論は、ここで決定的になった。

 これまで耳に入らなかった夜の波の音が森内に聞こえてくる。終盤に決め手を逃した名人は、羽生マジックに負けた訳ではない。しかし二日目の濃い終盤戦でわずかに急所をはずしたのは、間違いなく羽生が盤の前に座っていたためで、確固たる信念を持ち、自信に裏打ちされた森内でさえも一瞬それを崩されたから・・・。そう感じられた。

 とても、いい将棋だった。

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島朗九段でなければ書けない観戦記。

3図の▲5二銀のような手が、なぜ羽生マジックなのかが非常によく理解できる。

終盤、相手の読みの薄そうな部分に楔を打ち込むのが羽生マジック(羽生流終盤技術の部分集合)ということになるのだろう。

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”自分は中盤重視の将棋で、野球のイニングでいえば、3・4・7を取れれば勝てると考えている。ライバルの佐藤康光は2・7・8重視かと思った。決定的に違う。その点、羽生はもっと明瞭な傾向がある。1・2・3”

”今まで読んでいた不成の変化を、いっぺんにではなく徐々に脳裡からその痕跡を丁寧に消していく。成りでも役立つ変化に注意しながら”、

”成りが生きる変化を読み進めて確認するたびに、森内の読みが羽生の中で融合していく。これ以上他人を理解できることが、日常であるだろうか”

”しかしこの技術を保持しているので逆転・錯綜が確率的に多く生まれ、豊かでテクニカルだが、決して説明のつかない謎と夢の部分・・・それは彼の愛嬢が大好きな「銀のぶどう」の上品なお菓子が作られていくさまに、どこか似ていた。お父さま、アーモンドツリーって木の実がいっぱい入ってるね”

など、非常に印象的な、あるいは非常に説得力のある表現が満載の観戦記だ。

すごいことだと思う。