高橋道雄九段「いつでしたか、私が電車に乗っていますと、近くの女子高生とおぼしき3人組が、羽生さんの顔がどうの、髪型がどうの、と話題にしているではありませんか」

将棋マガジン1995年7月号、高橋道雄九段の第53期名人戦第3局〔羽生善治名人-森下卓八段〕観戦記「楽しみな名人戦」より。

名人戦第3局。将棋世界1995年7月号より、撮影は弦巻勝さん。

 今、名人戦が大変に注目されています。

 第1局での全国各地における大盤解説会は、どこも大盛況でしたし、その前の王将戦のフィーバー振りは本当に凄いものでした。

 すべてこれ羽生善治という素晴らしい男の出現(躍進)によるものです。

 いつでしたか、私が電車に乗っていますと、近くの女子高生とおぼしき3人組が、羽生さんの顔がどうの、髪型がどうの、と話題にしているではありませんか。

 CMの影響も多大にあるでしょうが、こうした将棋そのものは知らない人間層にまで広く浸透しているのですから、実にたいしたものです。

 ま、同じ棋士としては、タイトル独占はとても悔しいけれども、反面、将棋界の人間が世間的に注目を浴びるのは、将棋界にとって大変に喜ばしいことであり、気持ちは半々、心中やや複雑というのが、私自身の偽らざる心境であります。

 今期名人戦は、挑戦者にA級初参加の森下八段が名乗り出ました。

 今さら申すまでもなく、その力量は万人が認めるところです。

 最終戦は私が対峙したわけですが、あの一番に関して、「高橋は残留が決まっており、消化試合みたいだから気楽云々」と書かれた記事が多いのには憤慨しました。

 あの一局を勝つと負けるとでは、結果的に来期の順位が2枚違っていたのです。

 順位1枚の真の大切さは、当事者でないと分からないのかもしれません。

 あれは、あちらが挑戦権を懸けて必死なら、こちらも順位確保のために必死という将棋だったのです。

 勝負をするにあたっては、それぞれの棋士にそれぞれのモチベーション(動機付け)があります。

 気楽な勝負なんて、あるはずがないのです。

 さて、ゴールデンウィークの真っ最中、5月3・4日の両日に名人戦第3局が行われました。

 舞台は赤坂プリンスホテル。

 羽生名人2連勝の後を受けての大一番です。

 名人戦となりますと、ファンの方々と同様、棋士も胸がわくわくしてきます。

 個人的には、お二人の激闘を楽しみ、かつ勉強させて頂いており、まあ最終的にはどちらが栄冠を手にしてもいいのですが、この一番に限っては、森下八段に勝ってもらわなくては困ります。

 何故なら、一方が3連勝しますと、新聞掲載の関係(4番で終わる可能性あり)で、A級が早く開幕してしまうからです。

 ちょっと前に終わったばかりですし、せめて5月中はまだご勘弁を、というところ。

 元より、3連敗を喫しますと、過去の例から見ても、シリーズ制覇はほぼ絶望的な雰囲気になってしまいますので、森下八段にとって、この一番は何が何でも勝たねばならない将棋です。

(中略)

 本局は、全体を通して一手としてゆるみもなく、森下八段にとっては会心の一局だったことでしょう。

 一方が明なら、一方は暗。

 羽生名人にとっては、あまり出来の良くない将棋でした。

 反省点も色々とあるでしょうが、ここは一歩譲って、相手の出来の良さを誉めるよりなさそうです。

 挑戦者が1勝を返し、今後のシリーズ展開が、とても面白くなってきました。

(以下略)

名人戦第3局。将棋マガジン1995年7月号より、撮影は弦巻勝さん。

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「すべてこれ羽生善治という素晴らしい男の出現(躍進)によるものです」

「いつでしたか、私が電車に乗っていますと、近くの女子高生とおぼしき3人組が、羽生さんの顔がどうの、髪型がどうの、と話題にしているではありませんか。CMの影響も多大にあるでしょうが、こうした将棋そのものは知らない人間層にまで広く浸透しているのですから、実にたいしたものです」

テレビの影響力が今よりもはるかに大きかった時代。

羽生善治六冠(当時)の実績と人柄、羽生六冠が出演した公文式とブルガリアヨーグルトのテレビ広告により、羽生六冠の知名度、好感度がうなぎのぼりに上昇した。

それとともに、将棋ファン以外にはあまり知られていなかった棋士という職業の存在も、日本国中で広く知られることとなった。

そのような意味では、初代・大橋宗桂以来の将棋の400年の歴史の中で、非常に革命的な出来事が起きた年だったと言うこともできるだろう。

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「あの一局を勝つと負けるとでは、結果的に来期の順位が2枚違っていたのです。順位1枚の真の大切さは、当事者でないと分からないのかもしれません」

毎年、順位戦各組の最終戦の前後、見るだけの立場の人でさえも順位の重さを痛感するわけなので、当事者である棋士にとっては、その何万倍も重みがあると思って間違いない。

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「個人的には、お二人の激闘を楽しみ、かつ勉強させて頂いており、まあ最終的にはどちらが栄冠を手にしてもいいのですが、この一番に限っては、森下八段に勝ってもらわなくては困ります。何故なら、一方が3連勝しますと、新聞掲載の関係(4番で終わる可能性あり)で、A級が早く開幕してしまうからです。ちょっと前に終わったばかりですし、せめて5月中はまだご勘弁を、というところ」

今もそうかどうかはわからないが、名人戦が終わる時期によってA級順位戦の開始時期が早くなることもあるというのは、言われてみれば新鮮な驚きだ。

じっくりと期間をおいてから指したい棋士、すぐにでも指したい棋士、あまりこだわらない棋士、3通りに分かれるのだろうか。あるいは「5月中はまだご勘弁を」が大勢を占めるのだろうか。

どちらにしても、このように棋士の気持ちを率直に伝えてくれる高橋道雄九段の文章が嬉しい。