将棋ペンクラブ裏話

河口俊彦六段(当時)や東公平さんの尽力により、将棋ペンクラブが発足されたのが1987年11月27日。ちょうど25年前の今日にあたる。

将棋ペンクラブ会報1999年秋号、東公平さんの「将棋ペンクラブ裏話」より。

 団鬼六先生

 当クラブ結成のきっかけをお話したい。

 団鬼六さんがアマ連の機関誌「将棋ジャーナル」でアマ・プロ平手戦を企画したとき、最優秀観戦記には賞金30万円を贈るという、すばらしい援助をしてくれた。河口俊彦六段が私と同点で賞金を折半し「お金は有効に使います」と謝辞を述べた。ゆえに河口・東は当クラブの「観戦記大賞」を受けていないのだ。すでに団先生からもらっている、という解釈で、私は羽生善治四段と関則可・元アマ名人の観戦記だったと記憶する。

 河口さんは奨励会員のころすでに、「新日本文学会」に参加(聴講)していたほどの文学好き。たちまち将棋ペンクラブ創立構想をまとめ「あんたが副会長だよ」と私を指名。作家を中心に観戦記者、カメラマン、画家、文を書く棋士、後援する愛棋家を一体としたグループを作り、言論の自由のない将棋界に新風を巻き起こそうという壮挙に、囲碁記者まで喜び、数人入会した。

「創刊準備号」という16ページの冊子が最初の会報であって”純文学の鬼”井上光晴さんが檄文「将棋とは何か」を寄せ、山口瞳さんは「観戦記者の地位向上」を力説した。将棋ライターは(今でもそうだが)棋士とケンカしたら最期、仕事を失う弱い立場にある。新聞社所属でも、棋士と衝突して筆を折った記者が数人いたほどだから、1700局の観戦記を書いた加藤治郎名誉九段が、名誉会長になってくださったのは心強かった。

 会議や会報編集には、河口会長と同じ横浜在住の団さんの家を拝借し、泊まり込みで奥様にも世話になった。早世した初代編集長・横田稔さんの働きも大きかった。

 しかし、詳細は述べないがトラブルが数回起こり、いやになった河口、東がやめるというのを聞いた井口昭夫さん(毎日新聞)が後継を引き受けてくれたわけである。

山口瞳先生

 瞳さんを将棋界に引っ張りこんだのは私だった。まだ若い編集者だった頃、月刊誌「知性」を創刊すると聞いたので、松田茂行九段の使いで、神田の河出書房に行った。応対に出てきた人が、チョビひげの瞳さんだ。将棋のページを作る話はすぐまとまった。

「あんたも強いんでしょ」「奨励会1級です」「じゃあ、二枚落ちで指してよ」から、お付き合いがはじまったのである。

 ハイヤーで小川町から大井町の松田宅へ行く途中で、瞳さんは「秋色最中」を買い、江戸の俳人・秋色女が「井戸端の桜あぶなし酒の酔い」という句を詠んだのが、このモナカのいわれだ、と話してくれた。それが縁で、自宅まで行って将棋をご指導した。

 以後の山口瞳先生については、どなたもご存じのはず。将棋ペンクラブ大賞の賞金、賞品がサントリーから出ていたのは、もちろん瞳先生のおかげである。

 最初の大賞選考会は、新宿の「京王プラザホテル」スイートルームで開いた。河口会長のコネで無料で使えた。審査員は山口瞳、色川武大、中原誠。司会は高橋呉郎、カメラマンは弦巻勝の各氏。そのとき瞳さんが「なぜ各新聞の記者を呼んでおかないのか」と、きつい冗談を言ったのが忘れられない。直木賞の選考ができるほどの顔ぶれが、無報酬で候補作を読み、批評してくれた。この賞は他の文学賞並みに評価されるべきだと思う。

 当時、林葉直子の少女小説「トンポリシリーズ」が大人気で、「20万部なんて、俺たちの本でも売れないよ」と話題になった。

「評論のない世界に繁栄はない」が瞳先生の口癖で、自身は”将棋連盟の宣伝部長”を務めている気分なのに、芹沢博文九段が「素人が将棋の本で金儲けしちゃいけない」と言ったなど、選手(棋士)が一番偉いというプロ将棋指し集団のありかたに批判的で、われわれ記者の原稿料を尋ねるほどだった。

「観戦記なんて詰まらない仕事でしょう。国立へ引っ越して来て、小説家にならないか」とお誘いを受けたり、文藝春秋別冊「随筆名人戦」の5人の豪華メンバーに特に推薦してもらうなど、私の恩人の一人でもある。

 エピソードを一つ。山口英夫七段(原田門下)は同姓のよしみで、瞳さんの自宅稽古をしていた。ある日、玄関の前を掃除しようとドアを開けたら、七段が足踏みしている。聞くと、5分前に着いたので、約束の時間までベルを押さずに待っていたのだ。こういう律儀な棋士が大好きで、家には棋士や作家、編集者が大勢集まって酒を飲み、将棋を語った。細かい心配りもあり、国立駅から指定のタクシーに乗って「山口瞳さんの家」というと道に迷わず、料金は受け取らない。全部瞳さんのツケになる契約。文章だけではなく、江戸っ子で親分肌の人柄に人気があった。

(以下略)

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故・井口昭夫さんが、河口俊彦六段と東公平さんから将棋ペンクラブの運営を引き継いだのが1993年のことになる。

原田泰夫名誉会長、3名の代表幹事(井口昭夫:事務局、大竹延:大賞、湯川博士:編集)の新体制。

この頃、会員数も減少していたので、一般会員と購読会員を一本化し、5,000円だった年会費を3,000円に改定して現在に至っている。

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1987年11月27日(金)は京王プラザホテルで「将棋ペンクラブ発足式」が開催されており、棋士、ライター、出版界、会員など170名が参加する盛大な会となった。

この日が、将棋ペンクラブの発足日ということになっている。

なぜか仏滅の日だ。

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ところで、このブログは2008年6月4日(大安)から書きはじめている。

しかし、ブログの一番右下には”ブログ人登録 2008年06月03日”と表示されている。

6月3日は仏滅だ。

私の中では大安吉日から開始したつもりのブログなのだが、システム的にはブログの環境が登録された日が開始日。

仏滅から逃れられないようだ・・・