関係者が顔面蒼白になった対局場

将棋世界1992年10月号、日本経済新聞の表谷泰彦さんの「大山名人の思い出・追悼文 二律背反を宿した巨人」より。

 立会人や観戦記者として盤外から王座戦を支えてきた加藤治郎名誉九段は、懐旧談になると、よく「タイトル戦で最高の旅館も王座戦なら最低も王座戦だね」と言っては、なつかしそうな顔になる。最高の旅館の方は加藤先生の身びいきやお世辞もあり、本当に王座戦なのか疑問だが、最低の旅館の方は、恥ずかしながら間違いなく王座戦なのである。

 《廊下を歩くとミシミシ。タタミはフワフワとへこみ、部屋を歩けばホコリが舞う。部屋が少ないため、対局者以外は大部屋の片隅や廊下でゴロ寝。係の女性たちは近所の農家の主婦で、朝は彼女たちが「まだ、こっちにも一人寝てるよ!」と大声で叫びながら、起こして回る》

 これは昭和34年に高崎で行われた王座戦決勝、大山名人対山田七段の会場風景なのである。

 対局者に「こんなところで将棋は指せない」と言われても仕方がない大失態で、いくらのんびりした時代とはいえ、関係者は顔面蒼白になったことと思われる。しかし、当時の担当記者で現在囲碁ライターとして活躍中の勝村実先輩は「対局者から不平や不満は一切なかった」と言う。旅館の紹介者が大先輩の金子金五郎九段だったことへの遠慮もあったのであろうが、基本的には大山名人が『ここで私が文句を言えば新聞社が恐慌をきたす』と判断して忍の一字に徹し、山田九段もまた、それに同調したのだと思う。ことごとく大山名人に反発した山田九段も、周囲への優しさや気配りという点では、大山名人と似ていたのであろうか。

(以下略)

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王座戦は1969年までは優勝棋戦(トーナメント戦で優勝者を決める)、1982年までは前年度優勝者とトーナメント勝ち抜き者による三番勝負、1983年から五番勝負のタイトル戦となっており、表谷さんの文章の昭和34年は優勝棋戦の頃。

金子金五郎九段は山田道美九段の師匠。

山田道美九段は前年の六段時代に「三社杯B級選抜トーナメント」で優勝しているが、タイトルホルダーやA級棋士が参加する棋戦で決勝を争うのは初めて。

弟子の活躍を祈っていた金子金五郎九段が、弟子のためにと考えて紹介した旅館だったのかもしれない。

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関係者が顔面蒼白になる対局場、他にはどのような状況が考えられるだろう。

  1. 対局室に宴会場の嬌声が聞こえてくる
  2. 建てつけが悪く、対局室に虫がたくさん入ってくる
  3. 大雪が降って、全館停電に
  4. 対局室の前の大庭園が誰でも出入り自由
  5. 怖い業界の人達が団体で泊まっている
  6. 対局者の部屋が訳ありで、幽霊が出たり金縛りにあったりする

などが、典型例か。

1~3は20世紀の頃にに事例があったようだ。

ちなみに、対局に一番影響が出そうなのは6だと思う。