大山康晴名人「升田さんと水野社長との祝杯は一度たりともあげさせない」

将棋世界2004年6月号、内藤國雄九段の「気になっていたこと 棋聖戦の不思議 上」より。

「名人位は他のタイトル全部合わせたよりも上だ」芹沢博文はこう唱えた。竜王戦が出来る前、谷川浩司が21歳という空前の若さで名人位を獲得したときのことである。これは、その芸と人柄に心底惚れ込んだ谷川君へのご祝儀のようなものだが、知る人ぞ知る別の意味合いもひそんでいた。

 タイトルの数は現在7つだが当時は6つ。

 その頃、芹沢さんの親友米長邦雄が十段棋聖王将棋王の四冠を制し、米さん持ち前のサービス精神から「世界一将棋の強い男米長」と刷り込んだテレホンカードを友人、ファンに配布するということがあった。

 芹さんはこれに対して「いくらタイトルをとっても名人一つに敵うもんか」とけちをつけたのである。ご両人に親しい私だから言えるのだが、これは芹さんの米さんに対する嫉妬心に他ならない。親しいが故に生じる嫉妬心はよくあることで、私はこれをいけないことだとは思っていない。米さんも気にとめることはなく、2人の仲に影響はなかった。

 それより不思議なのは、多額の契約金を出している各紙が芹沢説を抵抗なく受け入れたことである。当時の棋士で四冠保持者が名人一冠より下と考えていた者はいなかったと思う。私が四段になった頃は名人王将九段の3タイトル時代だが、王将戦も九段戦も最高位の重みがあった。

 ただその後、20年間多くのタイトルを独占した大山さんが、いつでもどこでも「大山名人」と呼ばれていて、これが他のタイトルの影を薄くしたということは言える。

 その途中(昭和37年)にビッグタイトル棋聖戦が誕生する。この時、作家で愛棋家の藤沢桓夫さんなどは「名人より格が上の印象を与えると異議を唱えたものだった。

 この棋戦は当時財界四天王といわれた産経新聞社長水野成夫氏によって創設されたのだが、棋聖の称号が名人以上のイメージを与えるという抗議こそ氏の望むところだったろう。

 これを名人に香を落として勝った升田幸三に冠したいというのが氏の意向であったからである。升田幸三の人気は絶大で、年間休場しているときでさえファンの人気投票はダントツの1位。大衆だけでなくトップクラスの文化人、財界、政治家の間にも熱烈な升田ファンがいた。水野社長もその1人で、升田さんと痛飲して豪快な人柄と巧みな話術と迫力に惚れ込んだのである。棋聖戦は年2回、多額の賞金とは別に永世棋聖(5回優勝)には年金240万円が支給されるという規定。名人戦の賞金が50万円の時代だから棋士達は目を丸くした。

 これも升田さんに発奮してもらいたいという思いからだが、一流の企業人である水野社長には、人気絶大の升田さんが自社タイトルを取れば購読者の数も増え、もとがとれる―という読みもあったと思われる。

「大山君に2度ヤリを引いてもしょうがない」と広言し、順位戦以外は極端な早指しで枯淡の境地に入りかけていた升田さんだったが、水野社長の意気に感じ、期待に応えるべく大いに燃えた。が、「これはありがたい」と喜んだ棋士が別にいた。名人十段王位王将の四冠王大山康晴である。大山さんは兄弟子に強い対抗心を持っていたが、人気の点では諦めていた。というより問題にしなかったというべきかもしれない。「将棋は勝つことが全て」これが揺るぎない信念であった。しかし大山名人も人間である。新タイトル誕生の経緯は面白くない。第一人者の自分を蔑ろにしている。「升田さんと水野社長との祝杯は一度たりともあげさせない」と心に誓った。そこには男の嫉妬心が働いたように思われる。男が男に惚れる一方男が男に嫉妬する。嫉妬心を闘争心に昇華させ、ますます芸に磨きをかける。そこが大山さんの偉大なところであろう。

 果たして大山さんは第1期から第5期まで連続して勝ち、最短距離で永世棋聖を勝ちとった。升田さんは第3期に挑戦者となったが五番勝負を1勝3敗で敗退。1年半おいて第6期(昭和40年前期)挑戦者となる。あのときはプロもアマも升田さんに勝たせたいという思いが強かった。私が不思議に思うのは、升田2勝1敗で迎えた第4局における升田九段の負け方である。

A図からの指し手
▲5一と△5八歩▲6一と△5九歩成▲9六香△同馬▲7一と△6六香▲7二と△同玉▲6六金△同歩▲同馬△6四香▲7三香(B図)
 にて、大山棋聖の勝ち。

 A図は玉の固さ、大駒の働き、香の働き等に大差があって後手勝勢。控え室は全員升田棋聖の誕生を信じた。それがあっという間に―。

 将棋に逆転はつきものである。過去幾多の名勝負にそれがおきている。しかしA図からの升田九段の暴走にはそういった逆転劇とは異質なものが感じられる。時間もたっぷり残っていたのに、一体何があったというのか。

(つづく)

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「これは芹さんの米さんに対する嫉妬心に他ならない」

「男が男に惚れる一方男が男に嫉妬する。嫉妬心を闘争心に昇華させ、ますます芸に磨きをかける。そこが大山さんの偉大なところであろう」

一般的な話になるが、嫉妬心は女性よりも男性の方が強いという説がある。

この説と結びつくのかどうかは分からないが、たしかに、男性は別れた女性のことをいつまでも想い続けるが、女性は別れた男性のことはきっぱりと忘れるという傾向がある。

男性の恋愛は「名前を付けて保存」、女性の恋愛は「上書き保存」 と言われている現象だが、男性の場合は「名前を付けて嫉妬」、女性の場合は「上書き嫉妬」の違いがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

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「ただその後、20年間多くのタイトルを独占した大山さんが、いつでもどこでも『大山名人』と呼ばれていて、これが他のタイトルの影を薄くしたということは言える」

これは非常に鋭い視点だ。

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A図からの指し手。升田幸三九段に一体何が起きてしまったのだ、というような展開。

明日に続きます。