戦慄の大山マジック

昨日からの続き。

将棋世界2004年7月号、内藤國雄九段の「気になっていたこと 棋聖戦の不思議 下」より。

「升田さんも悪い将棋を勝つようになったなあ…」関西本部管理役角田三男六段(当時)が東京から送られてきた棋譜を並べながらそう言ったのを思い出す。良い将棋を落とすことの多かった升田さんが、苦しい将棋を粘って勝つようになったというのである。

 角田さんも大の升田党であった。

「負けを拾う数とタイトルの数は比例する」以前私はこう主張した。もう助からないと思った将棋も、たまには勝つくらいでないと挑戦者にもなれない。

 升田さんにもそういう時期があったっが、それは長く続かなかった。ある人から「升田大山戦集を作ろうと棋譜を集めたが升田があまりに勝勢局を落としているので嫌になりやめた」という話を聞いた。確かにそう言いたくなる気持ちは分かる。しかし大山側から見れば様子が違ってくる。例えば有名な高野山の決戦(昭和23年、名人挑戦者決定戦)の場合、この将棋が伝説的にまで有名になったのは、升田八段が大山七段(何れも当時)に劇的なトン死を食ったからである。しかし大山さんが勝ちを拾ったとするのは当たっていない。中盤の応酬は互角。終盤もギリギリで、秒を読まれた大山七段が一度勝ち筋を逃している。つまり内容的にはどちらが勝っても不思議はなかったのである。升田さんは無類の寒がりで、寒い高野山で戦わされたのが敗因だと後に語った。

 大山名人が揺るぎない第一人者になってラジオ出演したときのこと。アナウンサーの「升田さんは寒がりで体が弱いようですね」の一言に珍しく声を尖らせた。

「体の強い者が将棋勝つならね、角力取が名人になりますよ!」

 才能が上の兄弟子に体力勝ちしていると言われる(書かれる)のが我慢ならないように聞こえた。

 棋聖というタイトルが升田さんのために出来たようなものだとは前回に述べた。ところが蓋を開けてみると大山名人が独占して離さず、5期連続であっさり永世棋聖に就いた。

 第6期(昭和40年)。遅ればせながら待望の升田九段が挑戦者として再登場した。観戦記は加藤治郎、原田泰夫、広津久雄(当時各八段)がそれぞれ名筆を振るった。いずれも公平を期してはいるが、行間に升田に棋聖位をという気持ちがにじみ出ていた。

 升田九段が勝てば棋聖という第4局の終盤をもう一度見ていただきたい。

 1図以下▲5一と△5八歩▲6一と△5九歩成▲9六香△同馬▲7一と△6六香▲7二と△同玉▲6六金△同歩▲同馬△6四香▲7三香(図面省略)まで大山棋聖の勝ち。

 1図は万全な升田陣に比べ大山陣は4六銀と5九香が働かず3八銀も負担になっている。どう見ても後手楽勝なのに。ここから15手で投了に追い込まれるとは―。

 ▲5一とに対する△5八歩が無茶苦茶である。

 観戦記には▲5一とに△同馬で先手にうまい手はない。△5八歩で△6六金なら後手勝ち。

 △9六同馬が敗因で△8八金(▲同玉は△8六歩)ならまだ後手の勝ち筋と記されている。

 最短距離を目指したために逆転負けを食ったということになるのだろうが、美濃囲いの要「6一金」を簡単に取らせてしまう感覚が信じられない。

 その頃升田九段は体の調子もよさそうで、棋戦の方も余裕を持って勝っていた。ただ一日に酒2升タバコ200本の豪語が不安材料であった。勝ち将棋を作りながら突如思考が乱れ暴走したのは、それが大きく影響を及ぼしていると考えられた。

 それから40年近い歳月が流れたある日、ふとこの将棋を並べてみたい気になった。すると当時は何も思わず通り過ぎていたある個所にあれっ?と思うことが生じた。

 A図は1図から4手遡った局面である。

 A図以下▲3八銀△3九竜▲4九歩△9五馬にて1図。

 ▲3八銀がどうも変。歩切れになるし、この銀が負担となって馬が動けなくなってしまう。何の楽しみもない手である。

 今活躍している棋士なら▲5四歩(B図)と突くだろう。こうして4六銀を働かせたい。

 3八に銀を手放しては後手陣に怖い筋はなくなり、先手はずるずる負けるだけだと考える。

 勝手な想像をすると、升田九段はA図で▲5四歩を予想し、これに対する手順をいろいろ組み立てていた。そこへ▲3八銀という思いもかけない手がやってきた。私は縁台将棋をしているおじさんどうしの会話を思い出す。

「なんやこれは?」「手ェや」

 升田さんも恐らく「なんじゃこれは」と思ったに違いない。そして「大山君は勝負を投げてくれた。それなら早いとこやっつけたろか」と思ったか、それとも意味の分からない手に不気味さを感じてあせりが生じたのか、その辺のところは分からない。とにかくこの不細工(?)な3八銀が升田さんの鋭敏な将棋感覚を狂わせたという気がしてならないのである。因みに△9五馬と出るところでは△9七歩成▲同香△同香成▲同桂△9六歩で後手勝ち(観戦記)。あるいは△8六歩▲同歩△8八歩でも勝てる。それより▲5一とに対して△5一同馬の他に△5一同金でも△7一金でも△6二金上でも負けはない。持ち時間も2時間残っていた。”どうしても勝ちだった”とはこういう将棋のことをいう。

 この逆転を、心理面を重視する大山流の術策と見るのはおそらく考え過ぎだろう。しかし永年の対升田戦の上に立つ勘が働いたということは出来ると思う。升田さんは次の5局目も敗れて手中にしかけた棋聖を逃し、その後挑戦者になることはなかった。

 ところで永世棋聖の年金240万円について。私は関心がないので正確には知らないが、大山棋聖の手に渡ったのは1回か2回。以後は棋聖戦年間契約金の一部として連盟がいただいていると聞いている。

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大山康晴十五世名人の「体の強い者が将棋勝つならね、角力取が名人になりますよ!」。

この反対の言葉が、板谷進九段のキャッチフレーズ「将棋は体力」。

どちらの言葉も正しいのが、将棋の奥深いところ。

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「升田さんも恐らく『なんじゃこれは』と思ったに違いない。そして『大山君は勝負を投げてくれた。それなら早いとこやっつけたろか』と思ったか、それとも意味の分からない手に不気味さを感じてあせりが生じたのか、その辺のところは分からない。とにかくこの不細工(?)な3八銀が升田さんの鋭敏な将棋感覚を狂わせたという気がしてならないのである」

内藤國雄九段のこの分析が、1図からの不可解な展開の全てを解説してくれていると言っても良いだろう。

私だったら、あるいはほとんどのアマチュアの方なら、1図からの▲5一とには△同馬と取ると思う。

普通なら陥ることがないような落とし穴に、類まれなる鋭敏な将棋感覚を持っているがゆえに落ちてしまった升田幸三九段。

落とし穴に落ちたというよりも、落とし穴を自ら作ってそこに落ちたと言った方が適切かもしれない。

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▲5一とに対する升田九段の指し手もさることながら、大山名人は△同馬と取られていたらどのような手を指すつもりだったのだろう。

何も手が見当たらないが、そう考えると、「升田九段ならこの状況で絶対に6一金を逃げない」と大山名人が確信を持って▲5一とを指したとしか思えなくなる。

それが読みから来るものなのか直感によるものなのかは分からないが、どちらにしても戦慄の大山マジックであることには変わりはない。