将棋世界1989年5月号、中島一彰さんの第38回NHK杯争奪戦決勝〔羽生善治五段-中原誠棋聖〕観戦記「羽生、4名人を倒して初優勝」より。
年間勝数60を超す新記録。勝率は8割。対局数、連勝もトップ。
今年度の記録部門を総ナメにし、新人王戦、天王戦の優勝。まさに羽生、羽生、羽生の一年だった。
そして、その締めくくりとも言うべき快挙が、このNHK杯戦でのVである。
何と言っても、テレビ対局が将棋ファンに与えるインパクトは、大きい。その注目度満点の棋戦制覇だ。羽生という名前が、さらに大きくフローズアップされた、と言えよう。
(中略)
山口(英)、福崎、大山、加藤(一)、谷川、そして決勝が中原。
羽生が倒したメンバーだ。特に3回戦以降は、いずれも名人経験者である。とてもフロックだけで勝ち進める相手ではないはずだ。しかも、その一局一局の内容が、これまた素晴らしかった。
準決勝で敗れた谷川が「もう、子供たちとは指したくありません」と、ボヤいたと聞く。たしかに、羽生と対戦する上位者とすれば、心理的にやりにくい点、あったことと思う。
羽生が相手では、皆「切られ役」に立たされてしまうからである。谷川や中原は、常にヒーローだった。だからどうしてもヒールには徹し切れない。何となく腰がすわらないまま……しかも短時間制の将棋……。
しかし、そうした点を割り引いても、羽生のすごさには舌を巻かざるを得まい。恐るべき18歳である。
(中略)
本トーナメントで、羽生は、1回戦からことごとく戦型を変えて臨んだ。本人の弁によれば「意識的に、いろいろな将棋を指したかったから」。
決勝戦ではひねり飛車。先手番になったらこれ、と決めていたようだ。羽生にしては、やや珍しい作戦か。
矢倉、または相掛かりを予想していたという中原は、やや意表を突かれたか。
「ひねり飛車にして最初のポイントは、左側の金銀をどう使うか」は、解説役を務めた大山十五世名人の言葉だが、羽生はその金銀をいち早く右翼へ引き寄せ、自玉をがっちりと囲った。そして、攻め込むチャンスを静かにうかがっていた。
中原が2、3筋の位を取り、△3四金と立った1図、狙いすました羽生の攻めが出る。
▲6五歩△同歩▲6四歩。よくある手筋(△6四同銀ならば▲7四歩)とはいえ、続く△5二銀に、じっと▲5五歩と伸ばした手が、渋く幅広い。
後手の角筋を未然に止めると同時に、▲5四歩の攻めも秘めているのだ。
少し進んだ2図は、羽生がその▲5四歩を決行、中原が△同歩と応じた局面である。
2図から。羽生は▲6三歩成。
これが軽妙な成り捨て。△6三同銀ならば、▲4二角成△同玉▲7一銀△7二飛▲6二銀成△同飛▲5三金の王手飛車で決まる。そこで中原△6三同金と応じたが、やはり▲4二角成と切る手が厳しく、羽生はっきり優勢。以下△4二同玉▲6四歩△7四金に、▲同飛と連続しての大駒切りは、見ていても迫力満点だった。
我々取材陣は、本番中「副調整室」という部屋で熱戦を見守っていたが、羽生が飛車角をともに切った時には、思わずどよめきが起こったものだ。
居合わせていた森王位などは、中原が△7四金とした瞬間、「あっ、ダメ」。
(中略)
羽生の攻めは鋭かった。たちまちにして、と金を2枚作って追い込む。懐の深さでは定評のある中原をしても、もはや受けが利かない形だった。
「マムシのと金、じゃなく、ハブのと金だから、それ以上だろう」と、誰かが言った。そして3図での▲4三銀。これがまた鮮やかな一打だった。
△4三同玉ならば▲4二金の1手詰めだ。△2三玉と逃げるよりないが、じっと▲3六歩とされ、中原玉は上部脱出の望みも絶たれてしまった。
「大駒は全部持っているんですけどねえー」は大山解説。言外に後手シノギなしをほのめかす。
ともかく2図あたりから、大山の予想する通りに指し手が進んだのだ。「大山さんが一人で指せばいいんだよ」という声もあがったくらいである。裏返せば、それだけ局面が単純化していたのだろう。さすがの中原もどうしようもなかった。
3図以降も、羽生は緩みなく寄せの網を絞り、見事に大敵を仕留めた。
(中略)
中原がきっぱりと「負けました」と駒台に手をかけた瞬間、期せずして副調整室では拍手が沸き起こった。
両者のここまでの健闘を讃えると同時に、それは新しいスター誕生への祝福でもあった。
NHK杯には歴代優勝者の名が刻まれているが、すでに満杯で、来年は台座をひとつ継ぎ足すという。その新しい台座に刻まれる文字は「第38回優勝者 羽生善治」である。
打ち上げの席、羽生の師匠・二上九段のあいさつがふるっていた。
「中原さん、ありがとう。羽生君 おめでとう」。
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NHK杯戦で11回の優勝を果たしている羽生善治名誉NHK杯選手権者の、初めてのNHK杯戦優勝の時の模様。
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中原誠十六世名人を相手に、ひねり飛車で圧勝。
1図からの▲6五歩△同歩▲6四歩の後の▲5五歩がなかなか気が付きにくい手。
この手のおかげで、2図からの石田流らしい捌きが展開される。
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「マムシのと金、じゃなく、ハブのと金だから、それ以上だろう」
と金に付けられる形容詞は古来より”マムシの”だが、たしかに”ハブの”は斬新な感じがする。
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マムシとハブ、どちらが恐いか調べてみた。
マムシ(ニホンマムシ)は全長40 ~65cm、ハブは全長100 ~220cm。
毒性はマムシの方がハブよりも強いが、体が小さいため、マムシに噛まれた時に注入される毒量はハブよりも少ない。
結果として、ハブに噛まれた時の方がマムシに噛まれた時よりも重症であることが多いという。
なおかつ、ハブはマムシに比べ非常に攻撃性が強い性質であるらしい。
つまり、両方とも十分過ぎるほど恐さに違いないとしても、より恐怖度が高いのはハブのようだ。
そういう意味でも、「マムシのと金、じゃなく、ハブのと金だから、それ以上だろう」は正鵠を得ていることになる。