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将棋界で何度か起きていたかもしれない話

近代将棋1982年11月号、「編集手帳」より。

 内藤新王位が以前、何かのタイトル戦でタイスコアに持ち込んだ時の新聞の見出しが、

「内藤、勝ってタイに」。

 内藤先生が行きつけのクラブに行くと、そこの女性曰く

「あら、先生、タイからいつお帰りで?」

内藤先生「??」

* * * * *

これは本当にあった話なのだろう。

神戸新聞なら地元の内藤國雄九段の活躍を一面に載せることはあっただろうし、駅売りの神戸新聞の見出しを少し遠目で見ただけなら、そう思うことはありうる。

たしかに、見出しだけ見れば、そのようにも解釈できる。

勝った副賞としてタイ旅行。

「内藤、勝ってハワイに」の乗りだ。

 

福崎文吾八段(当時)「あるような、ないような。ないかなと思ったらあるし、あるかなと思ったら、たいしてない」

将棋世界1994年1月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 福崎文吾八段」より。

戦意がすべて

 米長邦雄に挑戦した十段戦七番勝負は、皆さんご承知のように4-2で福崎が勝ち、タイトル初挑戦で十段位を獲得した。四勝のうち振り飛車穴熊は三局で、そのすべてに勝って「福崎穴熊」の威力をまざまざと見せつけたシリーズだった。

 だが、翌年の防衛戦では、高橋道雄の挑戦を受けて四連敗という不名誉なスコアで、ビッグタイトルをあっさり手放してしまう。

 最も不可解だったのは、福崎が穴熊を一局も指さず、全局、高橋のお家芸である矢倉で通したことだ。その理由を福崎は「気分的なもの。そのときは矢倉をやりたいという心境だった」と説明した。

 ところが一昨年、王座戦で谷川浩司に挑戦したときは、いきなり振り飛車穴熊を指して、私たちを驚かせた。

 福崎は、この王座戦での穴熊採用も僕に「気分的なもの」と言い、そのあとで「谷川さんとは、穴熊でまだ決着がついてなかったですからね」と付け加えた。

 作戦は理ではなく、気分で選ぶ。これはかつて十段戦挑戦のときに語った「僕は自分の好きな手を指す」と、ほとんど同じ意味である。福崎はちっとも変わっていない。

 さて、福崎将棋とその光の部分をざっと紹介してきたけれど、ここまでは単に”昨日の夢”のおさらいでしかない。

 いま、福崎は何を考え、何を求めているのか。現在の心境と”明日の夢”を率直に語ってもらった。

 インタビューしたのは十一月十三日で三時間にも及んだ。もちろんそのすべてを再現することは不可能なので、ここではその核心部分(=勝負にかかわる内容)だけを要約して紹介する。

―福崎さんは最近よく関西将棋会館に「顔を見せますね。何か心境の変化でも?

「A級に上がれるようにと思ってね。家でゴロゴロしてたら睦美に怒られるから」

―A級昇級が当面の目標ですか。

「そうですね。ずっとA級に上がるまでの目標でしょうね。それと、相手に関係なく、タイトルがほしい」

―将棋会館に来るのはプラスですか。

「プラスといえばプラス。でも、来てない人より明らかにプラス、とは言えませんね。純粋に強くなろうと思ったら、受験勉強じゃないけど、家で棋譜並べたり、詰将棋解いたりするほうがいいんじゃないかな。だけど子供いてるし、なかなか家では難しい。ちょっとしか強くならない。だけど、そのちょっとが大事かなと思って……」

―昔と比べると、いまのほうが少しずつ強くなってると。

「どうなんですかね。強さ自体はそんなに変わってないと思うけど、強さの質が違うんですよ。昔は一本道の順をどこまでもずーっと読んでやってたけど、最近は変化に対応する指し方になってる。戦い方がガラッと変わったんです。いまは第二、第三の受けを考えたり………。だから将棋が厚くなっていると思う」

―昔の「深く読む」棋風を、そのまま通したらまずいんですか。

「通せないですね。ピッチャーが直球だけでやっていけないのと同じで、スライダーを覚えないとダメやね。いまは昔と違って、形で判断するでしょう。いちいち考え込まなくても形でわかるんですよ。直感だけで危ないところは避けるし、あらゆる点で昔よりは良くなってるんですよ。例えば、走りでもね、コーナー、コーナーで曲がるでしょう。だんだんうまくなると、コーナーでスピードをわざと緩めるんですよ。曲がりやすいために。たとえていうとね。だから瞬発力だけでいうと昔のほうが強くても、勝負はいまのほうが勝つという……ね。昔は腕力しかないから、それだけで頑張ってたんだけど、それでいったら損だとわかってきた。だから強い弱いといっても、そのときの境地によるんですよ。本音でいうと、僕はほとんど読んでないですよ。序盤も中盤も終盤も」

―冗談を。けっこう時間を使ってるじゃないですか。

「時間は使ってるけど、局面状況を把握してるだけなんですよ。それをやるだけで、ほとんど手を読んでない」

―それで失敗したら「しまった」と思わないですか。

「まるっきり思わない。だから精神力が強くなったと思いますね。長くやってると精神力が強くなる」

―昔はそうじゃなかった。

「そうですね。気持ちが高揚したり落ち込んだり。ドキドキしたりハラハラしたり。負けたときは感情のコントロールが難しい。いろんな意味で自分を制御しきれない。負けたら”なんで負けたんや”と。自分が悪い手を指し、相手がいい手を指して負けるんだから、いってみれば当たり前の現象なのに、自分でそういう状況を受け入れなくなるでしょう。若いときは」

―そういう心境に、いつごろからなったんですか。

「王座を取られてから(笑)。いや、十段を失冠してからかな。それまでは穴熊にして、相手に将棋を指させないというか、相手の長所を認めない指し方というか、自分だけ主張して勝つという、そういう感覚でしたからね」

―そういうのって、いい面もあるんじゃないですか。

「いまだと村山君や阿部君が、自分のペースでやってるほうですね。とくに村山君はその勝負の感覚が強い。僕の場合は”力が抜ける”という状態ですね」

―それだったら、昔よりもっと勝たなくちゃダメじゃないですか。

「そうですねェ……。きょうの話、ボツにしましょう(笑)。実際、自分でもよくわからないんですよ。はっきりしてるのは、いまの羽生さんや谷川さんは相当なレベルだということ。終盤なんか見ててもね。そりゃあ研究すれば”これでギリギリ勝ちだ”というのはわかりますけど、それをなぞっていくだけでもすごいと思う」

―その谷川さんに、福崎さんはよく勝ってるじゃないですか。

「それは谷川さんが指し方を変えてるから。勝負するところが違うんですよ。谷川さんは、羽生さんとだったら自分の将棋をかけて、という感じだけど、僕とやるときは将棋に対するウデ比べみたいな感じです。指し方が全然違うんですよ」

―よくわからないな。例えば、対福崎の場合はどう違うんですか。

「緩めてくれるんですよ」

―えっ?

「つまり矢倉でね。だれもわからないぐらいの微妙な駆け引き、なんていうのを僕はまるっきりしない。そういうのは向こうもしないんですよ。例えば、いつも一円、二円の細かい計算をしてる相手だと自分も細かくなるわけですよ。相手次第ですけどね。千円、二千円とか言ってる人は一円、二円をねぎったって話が通じないでしょう(笑)。僕の場合、ワザが決まるか、みたいな感じでやってるから、そうすると谷川さんも”じゃあ、そっちの勝負でいきましょう”と指し方を変えてくれるんですよ、微妙にね。
現代矢倉の最先端とかいったって、僕にはわからへんしね。ちょっと打って引くとか、引いてから打つとか、そういうところにウェートを置いてない。僕は激しい戦いになっても自分で損得がわからないままに戦ってるから、相手も別段そこまではしないわけですよ。例えば池崎さんが、将棋を覚えたての人と平手で指すとするでしょう。相手は当然、めちゃくちゃやってくるわけですよ。初手から▲7六歩△8四歩に、▲6八金とか、▲5八金左とか。そうしたら”えっ?”と思うでしょ。そういうときに現代矢倉をしますか」

―しません(笑)。する必要もない。

「それと同じようにね。相手の指し方が違うと、ガラッと変わりますよ。相手が現代矢倉の第一人者で、その一手一手に意味があり、”あなた、知ってますか?”みたいにやってこられたら、谷川さんだったら「何でも知ってますよ」という感じでやるわけですよ。だけど、初めから石田流みたいな感じできてたら、サバキを消すか、ぐらいのもんでね。あとは気合と気合のぶつかりあいみたいな勝負になるわけですよ。最後がジャンケンポンみたいなね」

―谷川-福崎の場合は、福崎さんからそういうふうに持っていく?

「僕のほうが粗いんでしょうね(笑)」

―最近は研究会は?

「やってませんね。連盟で平藤君と一対一でやるくらい。研究会は、別にやる必要もないみたいな感じですね」

―昔はやってましたね。

「やってたけど、あんまり役に立ちませんね、僕の場合は。僕は、無理な仕掛けをやっても、別に平気だしね。悪手だろうが何だろうが、いいんですよ、勝負手だから……。実際、それで行けるんだから。そういう感覚さえあれば十分でね。これがいいとか、悪いとかの問題じゃない。そのとき、その相手に通用するかどうかが勝負で、通用できるという勝負観が大事なんですよ。だれとやっても勝てるんなら、だれよりも頭がよく、だれよりも記憶力がよくて、あらゆる変化に精通してとなっちゃうんですよ、最後は。それはコンちゃん(コンピューター)の将棋ですよ。だれが来たってメチャクチャ速い球を投げて、いつでも三振を取るそういう練習の仕方というのは、僕はナンセンスだと思う。そんなことないと思ってる。全然違うわけですよ、相手によって。ハッタリでも何でも、通用すれば、それは立派な手であってね。プロに通用するんだから、立派な手なわけですよ。勉強して手筋を覚えるとかいうんじゃなくて、そのときの相手に通用するかどうかが勝負なんです」

―じゃあ、家で棋譜を並べて相手の棋風を研究してるわけだ。

「いや、棋譜はあまり並べてませんけどね。勉強そのものより、戦意のほうが大事ですよ。戦意が高揚してるときのほうが強いし、いい手が指せる。

―戦意は、棋士ならだれでも持ってるでしょう?

「いや、みんなマチマチですよ。初めから自信がないとか、絶対勝つしかないとか、絶対負けるとか……。境地としては似たようなもので、かたくなな気持ちで凝り固まっている、ということに関しては共通してる。それと、執念がないとダメですね。

―福崎さんは、執念あるでしょう。

「あるような、ないような(笑)。ないかなと思ったらあるし、あるかなと思ったら、たいしてない(笑)」

―棋風が変わってきてないですか。

「池崎さんから見て、どうですか」

―穴熊時代と比べると、かなり変わってると思う。例えば、昔は鬼手がいっぱい出たけど、最近はちょっと減ってる。

「棋風はだんだん変わるんですよ。やってる戦法も変わってるし。昔は刺し違いで、手抜きして攻めることが多かったけど、いまは受けに回るようになってる。取ったらどうなるか、もう一手待ったらどうか、と考える。だから最近は、イビアナをやってても受けを考えてる。ただ、受けというのはなかなかマスターできませんけどね」

夫人の予感

 このインタビューの前後、福崎は対局ラッシュだった。前日は村山聖との順位戦B級1組。翌日は「将棋の日」で谷川浩司との記念対局。そして次の日は米長邦雄との棋聖戦準決勝が控えていた。

 対村山戦は福崎の快勝だった。

 妻の睦美によると「あの順位戦の日、朝、送り出すときに顔を見て、きょうは絶対勝つと思った」そうだ。「私、勝つときは何となくわかるんですよ。私の体調が悪いときに、負けてくることが多いんです。私ね、対局の前の晩は緊張して眠れないんです………」

 元女流棋士の悲しい性か、それとも夫への愛ゆえにか。

 そんなの、僕にわかるわけもないが、これだけははっきり言える。妻もまた、夫とともに勝負の世界を生きている、と。

 対米長戦は関西将棋会館であった。その日、僕は福崎が家を出たあと、こっそり睦美に電話で聞いた。「きょうの勝負はどうですか?文吾さんは勝ちますか、それとも負けますか」

「それがね………」と睦美は言った。「きょうはよくわからなかったんです。順位戦のときは、はっきりわかったのに・・・」

 僕は関西将棋会館に行って控室のテレビで米長-福崎戦を見た。結果は福崎が勝ったが、最後までかなり危なっかしい将棋だった。最初は福崎が優勢だったのに、終盤、米長が摩訶不思議な手順を見せてから流れがだんだんおかしくなり、一瞬だが、逆転した局面もあったのだ。

 うーん。こんな危なっかしい勝ち方では、妻が「よくわからなかった」のも無理はないな、と僕は思った。

* * * * *

「初手から▲7六歩△8四歩に、▲6八金とか、▲5八金左とか。そうしたら”えっ?”と思うでしょ。そういうときに現代矢倉をしますか」は非常に説得力がある。

* * * * *

「僕は、無理な仕掛けをやっても、別に平気だしね。悪手だろうが何だろうが、いいんですよ、勝負手だから……。実際、それで行けるんだから。そういう感覚さえあれば十分でね。これがいいとか、悪いとかの問題じゃない。そのとき、その相手に通用するかどうかが勝負で、通用できるという勝負観が大事なんですよ。だれとやっても勝てるんなら、だれよりも頭がよく、だれよりも記憶力がよくて、あらゆる変化に精通してとなっちゃうんですよ、最後は。それはコンちゃん(コンピューター)の将棋ですよ」

人間同士の対局の魅力、面白さの原点が端的に言い表されている。

コンピュータソフトによる研究が進んだとしても、このような部分は非常に大切だと思う。

* * * * *

「そうですねェ……。きょうの話、ボツにしましょう(笑)」が、嬉しくなるような福崎流。

* * * * *

近代将棋1982年6月号グラビアの写真。撮影は弦巻勝さん。

福崎文吾七段(当時)「タイトル戦は死力を尽くして頑張ります。そうでなければ、リーグ戦で僕を勝たせてくれた先生方に申し訳ないですからね」

将棋世界1994年1月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 福崎文吾八段」より。

 福崎文吾を初めて見たのは、関西将棋会館がオープンして一、二年たったときだから、もう十年以上も昔のことになる。

 当時、サラリーマンだった僕は、日曜日になると、時折、関西将棋会館の二階道場へ通っていた。その日、会館内はどこも超満員で(たぶん「将棋の日」だったと思う)、道場に行くと何人かの棋士たちがアマチュア相手に指導将棋を指していた。その中に福崎がいたのである。

 そのころ、僕が個人的に知っている棋士といえば、森信雄、東和男、青木清、脇謙二の四人だけで、彼ら以外の棋士たちは、将棋まつりとNHKテレビと将棋雑誌のグラビアページでしか見たことがなかった。東とは関西本部がまだ阿倍野区にあったころからの古い付き合いで、その縁で他の三人と知り合うようになったのだ。

 もっとも、僕は将棋雑誌はめったに買わなかったから、福崎が「穴熊の名手」ということも、また福崎が谷川浩司、小林健二と並んで「関西若手三羽ガラス」と呼ばれていることも、当時はまったく知らなかった。どこかで見覚えのある顔が、たまたまそこにあったから視線を止めたのである。

 観戦客の背中越しに盤面をのぞくと、下手の勝勢で、よくみると上手の玉に即詰みがある。簡単な5手詰みである。下手の若い男は少考してから、王手をかけた。駒を持つ手が少し震えていた。どうやら詰みを発見したらしい。

 指し手は僕の予想通りに進み、最終手▲4五銀が指された。局面は正確には覚えていないけれど、部分的にはA図のようになっていた。

 上手が最後まで指したのは意外だったが、ともあれ、これでゲームセットである。ところが―。

 ▲4五銀が指された瞬間、福崎が4四の玉をパッとつかんで5五へ出ようとしたから、僕は一瞬、心臓が止まりそうになった。下手が「えっ!」と大声を上げると、福崎は玉を持ったまま、ニヤッと笑い、「あ、歩がいたんですね」とケロリとして言った。

 こんな終局の場面、生まれて初めて見た。もちろん、福崎はわざとやったのだ。つまりはチャメである。

 僕は面白い男だなァと思い、フクザキの顔と名をしっかり脳裏に焼き付けた。

 一、二年たって、また福崎を見た。

 関西将棋会館に行ったら、偶然、東がいて、「いま、森さんのマンションで研究会をやっています。のぞきますか?」と声をかけられた。

 森のマンションは徒歩数分のところにあり、1DKの狭い部屋で八人の若者がチェスクロックを使って将棋を指していた。そこにあの「面白い男」がいた。

 ここでもフクザキは一番目立つ存在だった。というのも、他の人たちが黙々と将棋を指しているのに、一人、この男だけが、一手指すごとに「ヒャー」とか、「ウワー」と奇声を発していたからだ。なんとも、にぎやかな男だった。

鬼手の源泉

 僕は昭和五十九年の十二月に会社を辞めてフリーの観戦記者になった。仕事があろうとなかろうと、毎日のように関西将棋会館に通った。「連盟職員以上の出勤率」というのが当時の僕の自慢だったが、それでも福崎と顔を合わせることは数えるほどしかなかった。一つには、福崎が自分の対局のときしか出勤してこなかったせいである。

 福崎は僕の知らない間に女流棋士の兼田睦美と結婚し、一児のパパになっていた。いま育児に専念していますよ、マイホームパパですね、と親しい棋士たちが教えてくれた。

「妖刀」「怪力」「独特の感覚」と喧伝される棋界きっての異能派棋士に、「マイホームパパ」という言葉ほどそぐわないものはないが、しかしそれは事実で、本人も「オシメを替えたり、風呂に入れたり……。結構忙しいです」「睦美が対局のときは留守番をしなくちゃいけないし」「結婚して、子供が生まれてから人生観が変わりました」と語っていた。

 ただ、当時、しばしば書かれたり言われたりした「異常感覚」「感覚破壊」といった評語に対しては、福崎ははっきり嫌悪感を示していた。

 例えば十段リーグの対有森浩三戦(六十一年七月)。この将棋は劣勢の福崎が終盤、馬のタダ捨てというスゴイ鬼手を放ち、結果的にはこれが逆転劇を生む遠因になるのだが、感想戦のとき、負けた有森が「感覚破壊の手に負けた」と何度も同じセリフを繰り返すものだから、最初は聞き流していた福崎も、しまいには怒ってこう言った。

「どっちもどっちやないか。最初はこっちが勝ってたんだからな」

 福崎が本気で怒った顔を、僕はこのとき初めて見た。

 僕が初めて福崎とじっくり話をしたのは、同年九月、福崎が十段リーグで桐山清澄を破って、初のタイトル挑戦を決めた日の深夜だった。

 この桐山戦もすごかった。福崎は矢倉の負け将棋を、角捨ての鬼手を放って千日手に持ち込んだ。そして指し直し局は十八番の振り飛車穴熊で快勝。

 感想戦が終わってから福崎と酒を飲んだ。中原名人、谷川棋王、桐山棋聖、高橋王位と、六人中四人もタイトルホルダーがいる最強のリーグ戦で、二位以下を大きく引き離しての挑戦権獲得だったから、感激もひとしおのはずなのに、二十六歳の青年棋士の口から出る言葉は非常に謙虚で、こちらが拍子抜けするほどだった。

「今期はラッキーでした。タイトル戦で挑戦するのは夢でしたから、大舞台に出られただけでもうれしいです」

「勝ってはいけない人が挑戦者になったみたいです」

 かつて僕が見た「面白い男」「にぎやかな男」は、ここにはいなかった。僕が

「挑戦者がそれじゃダメです。もっと威勢のいい言葉を吐いて」とからかうと、福崎は笑って「タイトル戦は死力を尽くして頑張ります。そうでなければ、リーグ戦で僕を勝たせてくれた先生方に申し訳ないですからね」と言った。

 これはおそらく、精一杯のリップサービスだったと思う。エネルギーは内でたぎらせ、外に向かっては「モナリザの微笑」が、棋士福崎の生き方の流儀で、その逆では断じてないからだ。

 一週間後、僕は改めて福崎に取材を申し込んだ。終盤戦で突然飛び出す、あの「鬼手」の源泉は何だろう。その一端だけでも知りたいと思った。

 福崎はこう語った。

 例えば”最善手”について。「ある局面で候補手が五つあるとして、それぞれの変化を順番に読んでから”これでいこう”というコンピューターみたいな指し方を、僕はしない。直感で二手ぐらい選び、それを深く読む。読み直しはあまりしない。

 僕は自分の好きな手を指す。たとえ棋理に合った手が他にあったとしても、自分がイヤな手は指したくない」

 例えば、プレッシャーについて。

「以前は、たとえ弱くても勝負は何が何でも勝たなくてはいけないと思っていた。このため対局前、眠れないとか体調をくずすことがあったけど、いまはそういうことはない。結局、勝負は強ければ勝つし、弱ければ負ける。そう考えるようになってから気分的に楽になった」

 ”僕は好きな手を指す”という一言に、福崎将棋のすべてが凝縮されているような気がする。

(つづく)

* * * * *

池崎和記さんの連載「昨日の夢、明日の夢」の第1回。

池崎さんが一番書きたいことを第1回に持ってきたのではないかと思う。

* * * * *

福崎文吾七段(当時)の棋風が「異常感覚」「感覚破壊」という形容になったのは、1984年の谷川浩司名人(当時)の自戦記がきっかけ。

谷川浩司名人(当時)「感覚を破壊された」

福崎八段(当時)自身はその表現を嫌がっていたと初めて知る。

* * * * *

「タイトル戦は死力を尽くして頑張ります。そうでなければ、リーグ戦で僕を勝たせてくれた先生方に申し訳ないですからね」

なかなか言える言葉ではない。感動的な名言だ。

* * * * *

1982年の福崎七段(当時)。

池崎さんと初めて会う2年前。22歳、七段になったばかりの頃。

近代将棋1982年6月号グラビアの写真。撮影は弦巻勝さん。

NHK将棋講座2018年11月号「佐々木慎六段-佐藤天彦名人戦」観戦記

今日は、NHK将棋講座最新号の発売日。

◯表紙は豊島将之二冠のイラスト。

○深浦康市九段の講座「振り飛車なんてこわくない」、11月のテーマは「三間飛車のさばきを封じよう」。▲3七桂~▲4五歩の急戦の仕掛けを網羅した解説。三間飛車党の方にとっては、誰にも読んでほしくないと思うほど、様々な形の三間飛車が居飛車に粉砕されている。「康市のひとりごと」がとても良い。

◯後藤元気さんの「渋谷系日誌」は、安用寺孝功六段の自戦記、菅井竜也王位-糸谷哲郎八段戦終了後の昼食の様子、後藤さんが阿久津主税八段邸へ遊びに行った時の話、読者からの手紙、佐々木慎六段-佐藤天彦名人戦終了後に飲みに行くことになった経緯のようなこと、宮田敦史七段と藤井聡太七段と詰将棋の話など盛り沢山。

○段・級位認定 次の一手問題

○将棋連盟からのお知らせ

○女流棋士会からのお知らせ

○日本女子プロ将棋協会からのお知らせ

○「重箱のスミ」クイズ

○テキスト感想戦

○付録は、「阿部健治郎の囲い最前線 相居飛車編②角換わり」。相手の動きをよく見ないで駒組みをすると失敗する実例をもとにしながら、角換わりの指し方を理解する。コンパクトにまとまっているので、短い時間で効率よく角換わりの変化を勉強できる。

〔NHK杯戦観戦記〕

◯2回戦第3局 安用寺孝功六段-広瀬章人八段

「再びこの舞台で」 自戦記:安用寺孝功六段

◯2回戦第4局 羽生善治竜王-高野智史四段

「貫禄の羽生新手」 観戦記:鈴木宏彦さん

◯2回戦第5局 糸谷哲郎八段-菅井竜也王位

「棋士が将棋を指す意味」 観戦記:小島渉さん

◯2回戦第6局 佐々木慎六段-佐藤天彦名人

「最後まで利いた筋違い角」 観戦記:私


今月号には私が書いた観戦記(佐々木慎六段-佐藤天彦名人戦)が掲載されています。

この対局よりも前に行われた叡王戦・鈴木大介九段-郷田真隆九段戦(郷田九段が勝ち)と同じ局面が出現。佐藤天彦名人も佐々木慎六段もこの一局をそれぞれ研究していましたが、佐藤名人が「この局面になったらやってみるつもりでした」と、郷田九段が指した手とは違う研究手が指されました。

解説は広瀬章人八段。この対局の勝者と広瀬八段が3回戦で戦うという珍しいケース。

対局前の控え室でのこと、収録後の感想戦で現れた変化、後日の話、佐々木六段の奥様、愛猫「けいちゃん」のことなど、テレビには映らなかったエピソードも盛り込んでいます。

NHK将棋講座2018年11月号、ぜひご覧ください。

 

NHK将棋講座 2018年 11 月号 [雑誌]

 

原田泰夫八段(当時)「芸能部の王様は飛角金銀桂香歩をうまく活用なさればいいじゃないですか」

近代将棋1982年2月号、原田泰夫八段(当時)の「棋談あれこれ」より。

箱根、石葉亭にて(十段戦第5局)

 加藤一二三十段と挑戦者・米長邦雄棋王の七番勝負第5局の立会をさせていただいた。41歳の十段に38歳の棋王、読売棋欄の日本一に全語句地方紙棋欄の日本一が挑戦、どちらのタイトル保持者が光るか、興味満点の顔合わせ、対局当日の読売朝夕刊に眼を通す。

 第1局…10月27・28日、東京千駄ヶ谷「玉荘」米長勝ち。第2局…11月5・6日、鶴巻温泉「陣屋」加藤勝ち。第3局…11月17・18日、熱海温泉「美晴館」米長勝ち。第4局…11月26・27日、金沢「金沢ニューグランドホテル」加藤勝ち。2対2、改めて三番勝負の形で箱根強羅の決戦であった。

 持ち時間は一人9時間、二日がかり。十段が上座、棋王の先手番。対局室は最上階の特別室「暁」この部屋で各種の大きなタイトル戦が行なわれた。第5局…12月9・10日、両日とも快情、箱根山の眺めはすばらしかった。

 観戦記は山本武雄八段。副立会は11月17日「将棋の日」に贈八段、原田門下の佐藤庄平君。記録係りは権橋五段門下22歳の大野八一雄三段。読売の担当は文化部の山田史生記者。前夜に平井芸能部長、当日から対局終了まで吉村文化部長が同席された。

 お世話役は美人聡明愛嬌兼備の若旦那夫人が陣頭、中年婦人清楚なタニさん、肉感的なヒロさんがあれこれ気をつかって下さった。石葉亭で三泊、想い出の風景、今も残る声を紹介する。楽しく学んだ、感謝感謝。

声の風景

○対局開始5分前、新調紺の洋服にコゲ茶の靴下、横綱北の湖の如き「神武以来、18歳八段」の記録をもつ加藤十段が上座に着く。すぐ立ち上り広大傾斜、各種樹木の庭園を眺める。元気いっぱい、闘士発散の姿であった。

 まもなく、茶の大島に薄茶の袴、羽織の紐まで茶で統一した「さわやか流」の米長棋王が笑顔を浮かべて登場する。

米長「箱根の緑りも、よござんしょう」

加藤「――」無言。

 応接間に石葉亭の大旦那が椅子席に「箱根の緑りも、よござんしょう」が口癖、これを知っている原田はつい笑ってしまう。

○休憩前後、棋王が手洗いに立つ、或いは椅子席で盤側に不在の時、十段は米長陣の座ぶとんの背後に立ち盤上を見る。自陣から読み、敵陣から自陣を眺めれば見落しが少ない。

 へんな癖で棋士良心がとがめるのか、2分か3分で自分の席に戻ろうとする。その瞬間

米長「どうぞ、どうぞ、ご遠慮なく」

加藤「――」無言。

○朝食は対局者と関係者も一緒、この方が手数が省ける。しかし、対局者は自室で食事したいなら、それも自由のしきたりがある。

加藤「食事は自分の部屋でします。希望は、なんでも結構です」

米長「皆さんとご一緒でいいです」

○担当の山田記者は誠実善良、相手の立場に立ち、蔭で厚意的配慮の淡々流。昼食に十段が”握りずし”の注文、控え室の山田さんは世話役婦人に「私も加藤さんにおつき合いしましょう。加藤さんの方だけ、三、四個多く入れて下さい」と念を押す。

 帰りのキップはバラバラに帰るので、わざわざ出かけて確保された。対局中、東京、大阪の本部大盤解説場から「次の手をお知らせ下さい」電話の応答。読売本社に知らせ、報道記事を作り、寸暇もなし。これからは将棋連盟の本部から本部へ連絡すべきだ。第二日目の中盤後からだんだん控え室もあわただしくなるから。

○吉村文化部長、平井芸能部長、将棋界へのご理解と愛情は人一倍の感じ。性格の相違が面白い。初日の朝食後、平井さんは社へ。

原田「もうちょっと、ごゆっくしては」

平井「正月の記事を沢山作るんですよ」

原田「芸能部の王様(部長)は飛角金銀桂香歩をうまく活用なさればいいじゃないですか」

平井「いや、そうもしていられません」

 吉村さんは悠々、将棋は少々ご存知とか、謙遜型は強いから案外強豪かも知れない。何れ停年、優雅な人柄、東京の区長か市長になり将棋介発展にご尽力願いたい、将棋ファンと帰人票で政界にお出まし願いたい、ほろ酔い懇談は楽しかった。

○山本八段は静粛無言観戦がお好き、恩師の金易二郎名誉九段の態度に酷似されてきた。

 本局68手目、加藤十段が35分の熟慮の5三桂を1分以内で「ここは5三桂と打ったらどうでしょうか」と控え室で特別発言、先輩八段のぼけない感覚を喜んだ。

 読売将棋間の継続隆盛に、山本さんの功績を見逃すことはできない。本部、長年の理事、不言実行、威張らない人。不遇不幸な人の気持がよく分る人。いい人である。

○佐藤庄平八段は原田の一番弟子、青年時代に病気でなければ、とっくに八段に昇進していたと思う。棋才豊か、常識あり、解説指道、執筆など、40代での上位、彼は今「成増名店街将棋囲碁会館」の講師として幸福な人生を送る。囲碁は将棋棋士中では一位か二位、アマ七段ぐらいらしい。将棋もA級選手と比較しても見劣りしない。

 自己宣伝せず、ファンに慕われる佐藤君に八段、成増地区の碁将棋ファンは心から喜びの拍手、理事会の好手だった。

朝日アマ将棋名人戦

 朝日新聞社主催の「第五回朝日アマ名人戦全国大会」は12月7・8の両日、東京新宿の厚生年金会館で開催された。開会の朝、日本アマ将棋連盟の佐橋滋会長、朝日本社の中江編集局長のあいさつ、原田が千駄ヶ谷本部代表として祝辞を述べた。

 朝日新聞社の行事に出席したのは久しぶり、皆さんは好意的に迎えて下さった。昔しから朝日は将棋界の普及にご尽力、育成された。戦前から「大学将棋」を一貫して後援協力、現在、日本一の「職団戦」は原田普及部長時代の創設なので感謝感謝である。

「朝日アマ名人戦」は全国13ブロックから代表32選手が、前年度の小林純夫第四期名人(奈良)への挑戦権獲得をきめる。

 旅行続きで調査不足だが、東京代表の元奨励会二段加部康晴君(26歳)が優勝ときいた。「流石元プロ二段は―」とプロ棋士の評価を高めた。人柄のいい好青年に幸あれ。

 大会後に「アマ・プロ角落戦」が行われた。7対2、5対4、5対4、三回戦ってアマ特別強豪が2勝1敗の勝ちこし。星数はプロ15勝、アマ12勝「いい勝負」。

○12月に加藤十段と米長棋王は、12局と11局。これまで1ヵ月で最多対局は大山王将の15局「それがご自慢らしい」と米長さん談。普通の体力では入院するよりない。

 原田は対局に追われず健康的な手順、7日朝、厚生年金会館で挨拶後、大阪へ。

 8日は和歌山市農協中央会で2時間半の講演。夜の10時頃、石葉亭へ到着した。忙殺はご免、花鳥風月の気分ゼロの人は、日本人でないような感じがする。

○毎日新聞の木曜夕刊「あの店、この店」欄に快男児加古記者のご依頼で約30年在住の阿佐ヶ谷の赤ちょうちん、縄のれんを4,5軒紹介した。本誌の酒道に心得ある名記者はそれを書けというが、これにて終結、なにとぞご寛恕を。

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昭和の雰囲気を味わいたい時には原田泰夫九段の随筆が一番。

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肉感的という言葉を見たり聞いたりしたのは何年ぶりだろう。とにかくとても懐かしく感じられる言葉だ。

原田泰夫九段の日常会話には、たとえば「歌舞音曲」、今回の終わりの方にも出てくる「花鳥風月」など、やや文語体に近い言葉が出てきて、それが多くのファンが楽しみにしていた原田節だった。

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大旦那の「箱根の緑りも、よござんしょう」も含めて、石葉亭へ一度行ってみたくなるような気持ちになる。

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平井芸能部長は、山田史生さんの前の将棋担当だった平井輝章さん。

「芸能部の王様(部長)は飛角金銀桂香歩をうまく活用なさればいいじゃないですか」は、他のケースでも使える実戦的な言葉だ。

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日本アマ将棋連盟の佐橋滋会長。

佐橋滋さんは元・通産次官で、通産省(現在の経済産業省)時代は「ミスター通産省」と呼ばれていた。

城山三郎さんの『官僚たちの夏』の主人公のモデルにもなった人だ。