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知られていなかった棋界七不思議のうちの一つ

将棋世界2003年12月号、佐藤康光二冠(当時)の自戦記「独特の感覚に苦しむ」より。

 先月の話の続きになるが棋聖就位式は無事終了。ファンも含め沢山の方に来ていただきました。ありがとうございました。そしてバイオリンは自分が思っていた半分の出来。やはり本番になると指が動かなくなる所が悲しいが次にこういう機会があったら少しでも上手くなっていたい。

 また第11期銀河戦で優勝することができた。実は全棋士参加の棋戦では初めての優勝だった。以前森内九段が数々の優勝がありながらタイトル獲得がなかったのが棋界の七不思議と言われていたが、私はそれとは逆ということで自分自身では少し気になっていたのだが今回の優勝で気分が晴れた。嬉しい優勝であった。

 話は変わってやや旧聞になるが9月上旬に将棋合宿に参加した。泊まりがけで行くのは恐らく棋士になって2回目。7、8年前迄遡る。久しぶりである。

 2泊3日だったが朝は6時半より対局。さすがにこんな早い時間に将棋を指したのは初めてで森下八段の影響か。本当に食事以外は休みもなく飽きもせず、対局後は王位戦第5局の難解な終盤や最新型の研究等夜中の2時頃まで。

 久しぶりに将棋だけのことを考えられた時間であった。考えてみると修行時代の十代から二十代前半迄はこういう生活だった気がするのだがいつしか今になってみるといかに時間を割いていないのかを痛感。少しでも多く時間を増やしたいと思った。また悩めば悩む程課題も増え、考えれば考える程面白い将棋の素晴らしさを再確認させてくれた充実した時間であった。

(以下略)

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「実は全棋士参加の棋戦では初めての優勝だった。以前森内九段が数々の優勝がありながらタイトル獲得がなかったのが棋界の七不思議と言われていたが、私はそれとは逆ということで自分自身では少し気になっていたのだが今回の優勝で気分が晴れた。嬉しい優勝であった」

佐藤康光九段は、1987年に四段になって以来、この文章が書かれた2003年までに、竜王1期、名人2期、王将1期、棋聖2期を獲得している。

一方のトーナメント戦は、若手棋士のみが出場するテレビ東京の早指し新鋭戦 で2回優勝(1990年度、1991年度)をしているが、全棋士参加の棋戦での優勝は2003年の銀河戦が初めてだった。

たしかに、言われてみなければ気がつかない、意外なことだ。

佐藤康光九段は2003年の銀河戦優勝以降は、NHK杯戦で3回、銀河戦で2回、全棋士参加ではないがJT将棋日本シリーズで2回、大和証券杯ネット将棋・最強戦で1回と、それまでの歴史を取り戻すかのようにトーナメント戦で優勝を重ねている。

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森内俊之九段は、1987年に四段になって以来、2003年までに、

  • 全日本プロトーナメント優勝2回
  • NHK杯戦優勝2回
  • 早指し将棋選手権優勝1回

全棋士参加ではないトーナメント戦では

  • JT将棋日本シリーズ優勝1回
  • 新人王戦優勝3回
  • 早指し新鋭戦優勝 2回

でありながら、2002年の名人戦まではタイトル獲得がなかった。

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森内俊之九段のことは明らかに棋界七不思議とされていたが、佐藤康光九段のことは棋界七不思議には数えられていなかった。

もっとも、その時々の棋界七不思議がどのような七つなのか、全てを挙げられる人はいなかったはずなので、佐藤康光九段が全棋士参加トーナメント戦で優勝がなかったことも1995年頃から2002年までの棋界七不思議の一つとしても良いと思う。

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森内九段がタイトルと縁がなかったこと以外で、棋界七不思議とされていたのが、「竜王戦1組優勝者が挑戦者になったケースが一度もない」。

2011年夏までは明らかに棋界七不思議のトップを行くものだったが、これを打ち破ったのが2011年1組優勝の丸山忠久九段が竜王戦挑戦者になったこと。

現在では「竜王戦1組優勝者が挑戦者になることは非常に稀である」ということで棋界七不思議の七番目くらいに位置付けらそうだ。

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現在の棋界七不思議には、佐藤康光九段の対局時の昼食での「冷やし中華に餅追加」が加えられても良いような感じがする。

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昔は、関西若手棋士七不思議というものがあったようだ。

24年前の関西若手棋士の七不思議

 

 

第30期竜王戦第1局対局場「セルリアンタワー能楽堂」

渡辺明竜王に羽生善治棋聖が挑戦する竜王戦、第1局は東京都渋谷区の「セルリアンタワー能楽堂」で行われる。→中継

セルリアンタワー能楽堂」は、セルリアンタワー東急ホテルの地下2階にある能楽堂。

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セルリアンタワーは、2001年に東京急行電鉄の本社跡地に建設された超高層複合ビルで、B2F〜3F、19F〜40Fがセルリアンタワー東急ホテル、4F〜16Fがオフィスおよびレストラン。

〔セルリアンタワー東急ホテルの昼食向きメニュー〕

セルリアンタワー東急ホテル内のレストランと昼食向きメニューは次の通り。

○タワーズレストラン「クーカーニョ」

旬の素材を使い伝統の技術と斬新なアイデアで織り成すプロヴァンス料理。

○ガーデンキッチン「かるめら」

ずわい蟹と茸のピラフ 卵白仕上げ 2,007円
ビーフカレー 温野菜添え 2,007円
かるめら三色カレー(ビーフ、シーフード、野菜)2,269円
サワークリームで仕上げたビーフストロガノフ 2,577円
国産牛の網焼き”ステーキ重”温野菜添え 2,982円
ミートソースのパスタ ポロネーズ 2,007円
博多明太子のパスタ 帆立グリル添え 2,007円
シーフードとオリーブオイルで仕上げたペスカトーレ 2,007円
ずわい蟹のクリームソースパスタ 2,007円
トマトのクリームソースと茸のパスタ 2,007円
鴨南蛮またはにしん蕎麦 2,007円
ふかひれと蟹の餡を乗せたチャイニーズヌードル 2,982円
北海道産帆立貝と海老のグリル 2,577円
海老フライ レムラードソース添え 2,684円
ハーフチキン フライドポテトとともに 2,577円
松坂ポークのグリル(柚子胡椒、粒マスタード、岩塩)2,577円
ビーフハンバーグステーキ きのこソースまたはおろしソースでさっぱりと 2,684円
2種類のチーズを使ったビーフハンバーグステーキ 2,684円
国産牛のサーロインステーキ 4,324円

○ガーデンラウンジ「坐忘」

ミックスサンドウィッチ 1,960円
アメリカンクラブハウスサンドウィッチ 2,067円

○料亭「セルリアンタワー金田中」

夜は1組、昼は2組の予約制。

○日本料理「金田中 草」

草は、初皿は器と竹がおりなす和の前菜、素材の味を汁にひきだす御汁物、お造、主皿、ご飯、甘味の5皿でおわる日本料理。

○中国料理「szechwan restaurant 陳」

陳建一さんがオーナーの四川料理店。

陳建一の麻婆豆腐セット 1,782円
飲茶ランチ 2,970円
〈水餃子(葱油ソースorうま辛ゴマだれ)/点心3点盛り/1~12の中から1品/デザート〉
1.海老カニレタスチャーハン
2.野菜入り回鍋肉チャーハン
3.牛肉とピーマンのあんかけ焼きそば
4.海の幸入りあんかけ焼きそば
5.海の幸入りスープそば
6.野菜スープそば
7.火鍋スープそば
8.重慶式ピリ辛和え麺
9.ふかひれの姿煮のせスープそば
10.陳建一の担々麺
11.汁なし担々麺
12.スーラ―タンメン
※4・5はプラス357円、9はプラス5,940円

○イタリアンレストラン「オリ」

ジャガ芋のニョッキ 牛ひき肉のラグーソース 1,600円
帆立貝とホウレン草のリゾット 1,600円
ズワイガニとチリメンキャベツのビアンコ サフランタリオリーニ 1,800円
パンチェッタとこだわり卵のカルボナーラ 1,700円
赤鶏さつまと柳松茸のカチャトラ風 トマトを練り込んだタリアテッレ 1,800円

〔昼食予想〕

メニューが豊富で非常に難しいが、理屈抜きの予想は次の通り。

渡辺明竜王
一日目 海老カニレタスチャーハン
二日目 かるめら三色カレー(ビーフ、シーフード、野菜)

羽生善治棋聖
一日目 ビーフハンバーグステーキ きのこソース
二日目 陳建一の担々麺

 

 

先崎学八段(当時)「飛車を大きく捌くのが好きな棋士が、飛車のある角落ちよりも飛車のない飛車落ちのほうが得意というのは、将棋とは不思議なものである」

将棋世界2003年12月号、先崎学八段(当時)の「駒落ちのはなし」より。

 将棋指しは、駒落ちの上手に関して、おおまかにいえばふたつのタイプにわかれる。

 飛車落ち派と角落ち派である。飛車落ちと角落ちというのは兄弟分であるが、似て非なるもので、上手として指しこなすコツもまるで違う。まあプロであるのだからどちらも指しこなせるのだが、やはり得手不得手、好き好きがわかれるのである。

 飛車落ち派の代表は鈴木大介八段である。「角落ちよりも飛車落ちのほうが上手は勝ちやすい」などとよくいっている。どうも本気のようなので、飛車落ちの上手に相当の自信があるか、角落ちに自信がないかなのだろう。

 藤井猛九段も飛車落ち派である。本人は公言していないが、あきらかにそうだ。またこれは一局も見たことがないのだが、久保利明八段も飛車落ち派であろう。想像で書くが、彼は角落ちの上手は苦手に違いない。なにしろあの捌きの将棋ですからね。

 ベテランの棋士でいえば、鈴木君の師匠の大内延介九段なども飛車落ち派である。これも久保君と同じく豪快な捌きの棋風であるところからだろう。飛車を大きく捌くのが好きな棋士が、飛車のある角落ちよりも飛車のない飛車落ちのほうが得意というのは、将棋とは不思議なものである。

 ここまで棋士の名前を見て、もうお分かりでしょう。そう、飛車落ち派は振り飛車党の棋士に多いのである。たしかに飛車落ちの上手の陣は振り飛車の陣形に似ていなくもない。あるいは居飛車の将棋である角落ちは慣れがないということか。だとすれば、昔、内藤國雄九段が『続・血涙十番勝負』(講談社刊)で山口瞳氏相手に指したように、初手△2二飛!とすればいいと思うのだが。

 一方、角落ち派は大勢いる。これは角落ちのほうがハンデが小さいのだから当たり前である。その他大勢といってもよい。総じてベテラン、故人の棋士に角落ちの名手が多いのは、昔、朝日新聞上で行われたアマプロ熱血の角落ち戦の影響だろう。

 このA級棋士とトップアマ10人が対決する企画は、朝日新聞のいわゆる「名人戦問題」の余韻冷めやらぬ時期だったこともあり、プロ側もプライドをかけた本気の勝負をしたものだった。成績もプロのほうが押していたと思う。特に大山、中原、米長、加藤の四棋士は四強と呼ばれ、圧倒的な成績をほこっていた。同じ朝日の紙上での今のアマプロ戦の現状を見たら天国の大山先生は何というか。なにやらあの世から怒鳴り声が聞こえてきそうなのである。

 はなしを戻すが、角落ちの上手が得意な棋士は、角落ち派というよりは、駒落ちが得意な棋士ということになるのかもしれない。いまの時代でいえば、まずは前回書いた通り羽生である。他には森内俊之君も強い。特に角落ちの上手なんて、あの粘っこい棋風でやられたら下手は嫌になるだろう。同じような意味で中村修八段なども本気を出せば強いだろう。

 逆に苦手の代表は、佐藤康光棋聖と島朗八段。佐藤君の角落ちは、すぐに攻めて切れてしまう。島さんは、本質的に粘りの将棋なので、気合を入れれば実は強いのかもしれないが、そういう場面をまだ見たことがない。森下八段も同じタイプである。

 若手では……といいたいところだが、私は自分より下の世代の駒落ちはほとんど見たことがない。おそらく読者のみなさんもそうであろう。これは不幸なことである。よって、勝手にタイプを決めることにする。なにせ一局も見ないで決めるので、書かれた棋士の人、気を悪くしないでくれよ。

得意:丸山忠久、屋敷伸之、木村一基、渡辺明

苦手:北浜健介、行方尚史、堀口一史座、野月浩貴

 こんな感じである。まああまり深く考えないでください。

(以下略)

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振り飛車党の棋士は、厳密には正確な言い方ではないが、飛車よりも角を可愛がる傾向が強いと感じられる。

鈴木大介九段は、将棋の醍醐味は竜を切る時、と話していたことがある。

大内延介九段の怒涛の攻めも、竜をバチバチ切っていた印象が強い。

久保利明王将も八段時代、湯川博士さんの『振り飛車党列伝』で「飛車は割合、気軽に切りますが、角はけっこう計算します」と語っている。

中田功七段は、「飛車は切るため。なくてもいいんですよ。だからぼくは角落ちがダメ。飛車落ちは大好き」と言っている。

中田功五段(当時)「飛車は切るため。なくてもいいんですよ。だからぼくは角落ちがダメ。飛車落ちは大好き」

飛車落ちの玉の囲いは、江戸時代の振り飛車のような囲い。

振り飛車党の棋士が飛車落ち派というのは、非常に説得力がある話だ。

飛車を捌く、には飛車を切って他の駒と交換するという意味も含まれる。

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飛車を非常に大事にしたのが、振り飛車名人と呼ばれた大野源一九段だった。

とにかく、飛車を敵陣に成るか飛車交換をするか敵の飛車を取って敵陣に打つかの将棋だった。

「大野さんに勝つには、玉ではなく飛車を詰めれば良い」と冗談で言われていたほどの、飛車使いの名手だった。

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自分が下手の立場で、飛車落ちと角落ち、どちらが指しやすいか考えると、個人的には圧倒的に角落ちの方が好きだ。

例えば極端な例で1図。

1図から▲7四歩の攻撃が成り立つ。

▲7四歩△6三金(2図)は必然。

ここから、▲6四角△同金▲7三歩成(3図)と技が決まる。最低でも飛車交換にはなる。

しかし、8二に飛車がいなかったら△7五歩で全くつまらないことになってしまう。

敵の飛車がいてくれるからこそ攻めがいがあるというもので、相手の飛車がいないと攻め筋も減るし、振り飛車的な攻めのモチベーションが上がらなくなってしまう。

そのような意味もあって、私は飛車落ちよりも角落ちの方に好意を持っている。

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上手側も下手側も、飛車落ち派、角落ち派に分かれるものなのだろう。

 

 

羽生善治四段(当時)の驚異の金銀損の攻め

将棋世界1986年5月号、羽生善治四段(当時)の第8回若駒戦決勝〔対 神崎健二二段〕自戦記「ラッキーな優勝!」より。

○最後の出場○

 若駒戦の出場は2回目、前回は1回戦負けだったので今度こそがんばりたいと思った。1回戦から苦戦の連続ながら決勝まで勝ち残ることが出来た。関東の代表として恥ずかしくない将棋を指したいと思い、大阪に向かった。

(中略)

○早くも作戦負け?○

 関西の代表は神崎二段、前々回の優勝者である。もちろん今回が初顔合わせ、棋風も全く解らない。

 ▲7八金の所、▲6八玉から▲7八玉と一手得する作戦で来ると思っていた。それならば矢倉中飛車か急戦矢倉にするつもりだった。▲3五歩と突かれて、普通▲2六歩の形が▲2七歩になっているので少しおかしいことに気がついた。しかし僕は余り悲観していなかった。最近はこのような序盤ばかりだ。

1図以下の指し手
△同歩▲同角△4五歩▲6八角△5三銀▲4六歩△4四銀右▲4八飛△3四銀▲3五歩△同銀右▲4五歩(2図)

○飛先不突き矢倉の優秀性○

 ▲6八角の所で▲2六角と反対の方に引かれるほうがいやだった。こういうことができるのも飛先不突き矢倉の優秀な所だと思う。

 と言っても▲6八角は悪い手ではない。△3四銀まではよくある形と思ったが飛先不突きの利点で▲3五歩と打たれることに気がついた。

 ▲2六歩の形ならば△同銀右▲4五歩△3六歩▲4六銀△2六銀でこちらが良い。2図は手の広い局面なので長考に入った。

2図以下の指し手
△3六歩▲4六銀△6四角▲3五銀△3七歩成▲4九飛△4七歩▲6五歩△7三角▲4四歩△4八歩成▲4三歩成△同銀▲4四歩△5二銀(3図)

○金銀損○

2図で考えた変化は3通り。1つめの変化は△3六歩▲4六銀△5三角、2つめの変化は△6四角▲3六歩△同銀、3つめが本譜の手順。

 1つめは押さえ込んでいきたい将棋なので本筋だとは思うが、じっと▲7九玉(変化2図)と寄られて▲5五歩や▲3五銀△同銀▲4四銀など、玉型が良くなれば思い切った攻めが出来るのでとても受け切る自信がなかった。

 2つめの手順は▲同銀△1九角成▲4六角△同馬▲同飛(変化3図)で次に▲4四歩△4二金引に▲6一角が厳しい。なお▲4六角のところ▲4四歩△4二金引の交換を入れると、△4五歩▲4八飛△1四角でこちらが面白い。

 本譜の手順も銀損になるので自信がなかったが、この順が一番逆転の可能性があると思った。▲4四歩に手を抜いたのは勢いで、△3三金寄では負かされそうな予感がした。2度目の▲4四歩は小さなミスで、ここは▲6四歩△同角▲4四歩△5二銀▲6五銀△4九と▲6四銀△同歩▲7九玉△5九と▲8八玉△6九と▲3七桂△6八と▲同金引(変化4図)ではっきりしていた。角をにげずに▲3七桂がいい手で角をにげると2段目から飛車を打たれて歩切れのために困ってしまう。

 3図で昼食休憩。

3図以下の指し手
▲3四銀△4九と▲7九玉△5九と▲4三金△4二歩▲3二金△同玉▲8八玉△6九と▲5七角△4七と▲6六角△3八飛(4図)

○望外の好転○

 昼食休憩中にはひどい将棋になってしまったと思っていたが先手の玉型が悪いので、苦しいながらも大変だった。

 △5九とは自慢の一手で、放っておくと△6九と▲同玉△3九飛で一枚使わなければならない。次の▲4三金が敗着になった。ここは▲8八玉△6九と▲3七桂△6八と▲同金引(変化5図)で桂馬を取れば▲3三歩△同桂▲4三金で攻めが続く。

 本譜の手順は先手の角が6六の好位置に行ったのだが、△3八飛と打たれると銀が渡せないので攻め方に困る。

4図以下の指し手
▲2二銀△同玉▲4三歩成△5五歩▲3三金△同桂▲同と△3一玉▲6八桂△4四銀▲7五歩△5七と(5図)

○勝利を確信○

 ▲2二銀には△3四飛成でも勝ちだが、△同玉のほうが勝ちが早いと思い選んだ。△4四銀と要のと金を取りに行って、どうやら勝負あった感じ。

 しかし▲7五歩といやな所を突いてくる。ここで△3三銀ならば▲同銀成△同飛成▲7四歩でうるさい。次の△5七との意味は、▲同金ならば△6八と▲同銀△7六桂で寄り筋。▲同角ならば△3三銀▲同銀△同飛成▲7四歩で、角をにげた時に▲5五角を消しているのである。

 どうやらゴールが見えてきた。しかしどんなに良い将棋でも油断すると危ないので慎重に指した。

5図以下の指し手
▲2三銀成△3三銀▲同成銀△同飛成▲5七金△3八竜▲6七金寄△5八銀▲3三歩△6七銀成▲2三銀△7八成銀▲同玉△6八と▲同銀△7九金▲6七玉△7六金▲同玉△8五金▲6七玉△7六金打▲5七玉△6六金▲4六玉△2四角(投了図)
まで、106手にて羽生の勝ち。

○若駒戦のこと○

 若駒戦は奨励会の有段者が参加できる唯一の棋戦です。対局の少ない奨励会員にはとても励みになるので、これからも続けてほしいと思います。僕も初段の時に初めて若駒戦の対局通知をもらった時には、嬉しくて対局の日が待ち遠しかったことを覚えています。

 この将棋を振り返ってみますと、序盤に▲3五歩と仕掛けられて早くも苦しくしてしまいました。しかし中盤で金銀損しても、玉型の悪さをついて2枚のと金で飛車を取りに行ったのが結果的には良かったようでした。神崎二段としては角を6八に置いたまま、それを取らせて攻めれば良かったと思います。ただ神崎二段は角を取らせるのを考えていなかったそうで、その点ではとてもツイていたと思います。

 そして4図になっては完全に逆転しました。5図以下は割合にうまく寄せ切ることができました。しかし内容としてはイマイチという気がしました。もっともっと勉強して良い将棋を指したいと思います。

 この後表彰式で優勝カップをもらいましたが、それをもって帰って来るのが意外と大変で、何となく優勝したんだなあという気持ちになりました。

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2図から3図に至るまでの金銀損の攻め。

中盤に入ったばかりの局面での、驚くほどの踏み込みの良さと勇猛果敢さ。

たしかに金銀損ではあるが、と金が2枚できているので金銀と金2枚の交換と見ることもできる。なおかつ先手の飛車を殺せるわけで、非常に説得力のある指し方だ。

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「しかし僕は余り悲観していなかった。最近はこのような序盤ばかりだ」

と羽生善治四段(当時)が書いているように、この頃の羽生四段は、序盤は荒削りだったものの、豪腕の中終盤力で勝利を重ねていた。

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この羽生四段の自戦記は、将棋世界での初めての自戦記で、15歳の時に書かれたもの。

月並みな言葉ではあるが、15歳の文章とは思えないほどしっかりとしている。

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下の写真は、この対局が行われた頃の羽生四段。中学3年生。

貴公子然とした少年なのに、この対局で現れたような、野蛮と賞賛したくなるような強烈な攻撃を仕掛けてくるわけで、そのギャップがすごい。

この頃の別の棋戦での羽生善治四段(当時)。中学3年生。将棋世界1986年4月号掲載の写真。撮影は中野英伴さん。

 

 

 

どこまでが誤植なのかを判断するのが難しい記事

将棋世界1986年7月号、沼春雄五段・編集長(当時)の編集後記より。

 先日、本誌の46年8月号を見ましたら”小学一年生で初段”という見出しで小さな記事が載っていました。

 初段コースを卒業したそうなのですが、名前を見ると岩川浩司君(9歳)となっていました。

 どうも現棋王のようなのですが、それにしては初段まで24ヵ月と長すぎたようですし、9歳で小学一年とは少し異常。いったいこの中に何箇所の誤植があったのでしょうか。

(以下略)

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将棋世界1971年8月号、若松政和四段(当時)の「小学一年生で初段」より。

 私の教室に岩川俊昭、浩司の両少年が通っています。兄が13歳、弟が9歳(小学1年生)ですが、このほど弟の浩司君が初段コースで見事1200点(23回目)を獲得しました。往復ハガキの表書きから解答まで全部自分で書いています。(ハガキを見るまでは誰かが代筆されているものと思っていました)

 棋質も豊かだし、2年近くの努力と頑張りは大したものだと感心しました。初段コースを現在めざしておられる方々や年少者のはげみになればと思いお報せした次第です。

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この将棋世界1971年8月号で明らかな誤植なのは、

  • 小学1年生→小学3年生
  • 岩川→谷川

の2点。

それ以外に誤植があるのかどうか、考えてみたい。

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「このほど弟の浩司君が初段コースで見事1200点(23回目)を獲得しました」

この当時の将棋世界の初段コースは1回が3問で100点満点。最速でも初段になるのに1年かかる。(1986年当時および現在の初段コースは最速で2ヵ月)

谷川浩司九段が将棋を覚えたのが5歳の頃。

羽生善治棋聖の場合を見てみると、

  • 将棋を覚えたのが小学1年(6歳か7歳)の時
  • 八王子将棋クラブで8歳の春に5級、9歳になった頃に初段

谷川浩司九段、羽生善治棋聖とも9歳でアマ初段ということは、谷川浩司少年が将棋世界の初段コース23回で初段は大いにありうる回数と言えるだろう。

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谷川浩司少年は、この翌年1972年5月5日の子供の日にNHK教育テレビで、北海道の兼田睦美さん(中学2年、現在の福崎文吾九段の奥様)とのチビッ子対局に出演している。

谷川浩司少年が奨励会に入ったのは1973年、小学5年の時のこと。

羽生善治少年は、10歳で四段、11歳で五段になり、奨励会に入るのは1982年、12歳(小学6年)の時。

このように見ると、小学4年から急速に棋力が伸び始めるとも考えられる。

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ちなみに、将棋世界1971年8月号の「小学一年生で初段」は、沼春雄奨励会二段(当時・第一回高校選手権大会個人戦優勝)の「高校生の季節」と同じページに載っている。

沼春雄五段(当時)が昔の自分が書いた記事を読んでいる時に発見したのだろう。