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木村義雄十四世名人「御趣旨は誠に有難いが・・・だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」

将棋世界1982年7月号、大修館書店の山本茂男さんの「茅ヶ崎だより ―最近の木村十四世名人―」より。

他人に分かりますかい!

 茅ヶ崎は東海道線を下りで一時間。夏は海水浴客でにぎわうところである。駅を左手に降り、タクシーに乗って「木村名人の家」と告げれば、まちがいなく出口町のお宅の前までつれていってくれる。

 白い塀の門が開かれていて、庭を通ると季節の花木が美しい。松林が奥に見える広い庭である。「やあ、もっさん」、名人は山本の名をこんな風に呼ばれる。

「この松林はいい松で、昔はショーロが出ました」不勉強でまことに申し訳ないことだが、ショーロというものを知らない。「丸いきのこみたいなものです」と”松露”を教えていただいた。「松はこれでずいぶん手がかかるものです」ともつけ加えられた。

 名人はおだやかで、話し好きな人である。

「温厚な方ですね」と、ご子息の木村義徳八段に感想を述べると、「あなたは昔の父を知らないから」と、笑っておられた。当方、棋書の編集は初めてで、将棋界のことは何も知らない駆け出しである。

 そう言えば一度、怖い目に会った。昭和52年の初夏「木村名人実戦集」を全三巻として出版する計画をたずさえてうかがったときのことである。棋書研究科の越智信義氏に同道を願って、茅ヶ崎のご自宅へ伺候した。

 当初の考えは、既に発表された新聞や雑誌の解説によって木村将棋を集成してみようというものであった。菅谷北斗星氏、金子金五郎氏の観戦記、それに名人御自身の筆になる自戦記もある。あれこれ集めれば、150局にはなるだろう。脳血栓という病の予後のことであり、書き下ろしの解説など思いもよらないことであった。

 ところが、この話をじっと聴いておられた名人、「御趣旨は誠に有難いが」と、ここでいったん言葉を切り、続けて「だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」と言うと、口を一の字に結び左端をきっと引きしめて、はったと両名を見すえたのである。越智さんも私も一瞬ことばを失って、ははと平伏した。この恐ろしさは、後々まで二人の間の語り草となっている。

 瓢箪から駒がでたような具合だったが、結局、名人の御希望ということで、全巻書き下ろし自戦記という空前の企画がここに成立することになった。

「今はほら、録音器っていう便利なものがある。あれでやりましょう」

 これも名人の提案である。数度の打ち合わせで内容が定まり、巻数が最初の三巻から五巻乃至七巻、最終的には八巻というように増えてきた。大修館書店としては、前の『将棋名人戦全集』に続く大出版である。

 録音を速記にとると、名人がその原稿に朱書を入れる。校正で加筆もする。気がるに、「やりましょう」とは言われたが、一体、健康がもつだろうか。関係者がもっとも恐れたのはこのことである。もしものことがあっては、とりかえしがつかない。しかし、名人がやると言っている以上、こちらもできる所までやってみようと性根がすわった。

 越智さんが、自宅の資料だけでは足りず国会図書館に通いずめで棋譜をさがしてくる。名人が選局して、一局一局並べなおす。棋譜の間違いがよくあるからである。恐らく誤植か誤記なのであろう。そして、解説しやすいように、これも名人が一局を数枚の局面に割る。割った譜を、途中図、第一図、第二図、というように作図するのだが、「私がやりましょうか」と申し出たところ、「いえ、これは義徳にやらせます」と、きっぱりおっしゃった。

 御子息の義徳先生(当時B2の七段であった)に、譜面の浄書と全巻の校正をさせるというのである。失礼ながら、高段者のやる仕事ではないと思った。しかし、これを義徳先生は、忠実に、正確にやってのけられた。そして御存知のように、その間、B1、A級八段と一気に駆けのぼったのである。名人は、義徳七段に何が不足しているのかを知っておられたのであった。

義徳八段の霊魂論

 木村義徳八段といえば、大学院を出られたインテリ棋士として知られている。本誌の連載「嵐山だより」でも麗筆をふるっておられるように、相当の理論家である。といって、決して気むつかし屋でなく、名人に似て話ずきの陽気な人である。

 一局教えていただいたことがあるが、いきなり「平手でいきましょう」と言われて、びっくりした。(当方、初段ちょぼちょぼ。勿論アマチュア)こんなに誰とでも平手で指す人めずらしいんじゃないか。夜の新宿、天狗酒場でのことである。(誰ですか、どっちが勝ったかなどと言う人は)

 あるとき二人、京都は四条河原町の小料理屋で盃を重ねていた。あれこれ話しているうちに義徳先生が、”死後の世界”なんてことを言いはじめた。理論家は行きつくところ、こういう超自然に関心がおもむくものとみえる。フグの季節だったから、夏の夜話というのでもないが、ひとしきり、”霊の再生”とか”霊魂の質量”ということが話題になった。そのうち義徳先生、いたずらっぽい目をして、近頃、奨励会の人たちの間でこんなことが言われています、と話してくれたのは―

 同じような才能をもった棋士に、なぜ強いのと弱いのができるのか。その解答は、強い人は前世でも棋士をやっていた人。すでにそこで何段かになるまで修行をつんだ人。一方、いくら努力しても上がらない人は、今の世が初めての棋道修行の人。中原名人なんか、もうこの世とあの世を何回も行ったり来たりしているんだから、かないっこない……。

 この話を、よせばいいのに、茅ヶ崎の木村十四世名人にしてしまった。先日、義徳先生に面白い話をうかがいましたって。名人は、しばし憮然としておられたが、「義徳のやつ、まだそんなことを言ってやがる」と、一言。私は話のつぎ穂に困ってしまった。

 木村名人は心の優しい人である。第一回配本にむけて原稿整理に大わらわのころ、私事であるが、病院で父を亡くした。十五年にわたる長わずらいの果であった。その折、仕事の様子を知りたいからと茅ヶ崎へ呼ばれ、いろいろと御親切にしていただいた。

「やあもっさん。あなたのお父さんは、さぞ御立派な人だったでしょう」

 こう慰められて、私は「はい」と答えたが、東北の炭鉱夫で凡そを終えてしまった父をおもって、胸がいたんだ。名人が父思いであられたのは有名な話だと、後に人から教えられた。

休まず1500字

 さて、ついに『名人木村義雄実戦集』全八巻、総ページ数四千三百余に及ぶ自戦記、故人著作集は完結した。この実戦集につぎこまれた、名人のエネルギーは莫大なものである。

 興がのると、徹夜をして翌朝まで棋譜を並べておられることもあったそうである。「この仕事には命を賭けています」と言われるのだが、本当に命と引きかえにされては一大事である。何とか徹夜だけは止めていただくよう奥様にも申し上げるのだが、これは、昔から言いだしたらきく人ではないのだそうである。

「病は気からです。私はこの仕事のおかげで、毎日が楽しくてしかたがない」と名人はおっしゃる。仕事で張りが出たせいか、食欲も増し血色もよくなりましたと奥様も不思議がられるほどである。この年で八巻もの著作を行う人は、めったにあるものではない。

 超人とはこういう人のことであろう。将棋が強いだけではない。この人は、文壇、画壇、名筆、名優、角界、銀幕界、財界、政界、あらゆることがらに通じているのである。中でもおどろくべきは、その膨大な読書量である。三国志、水滸伝は何種類よんだかわからない。「三軍の将」の意義が版によって異なることを指摘される。水滸伝の登場人物を、空で全部列挙する。それを出身県別に分類することもできる。神田山陽先生もびっくりにちがいない。

 漢文が得意で、若い頃は春本まで漁って読んだそうである。聖書も読んだ。ドストエフスキーも読んだ。ロシアものはどうも陰惨でいけねえ、と感想をもらされる。暇ができたら読もうと思って、和書、漢籍をずいぶんと買いためていたのだが、全部戦災で焼いてしまいました、と残念そうに語られた。

 若いうちに頭をつかえ。いろんなことをやってみることだ。頭はちょっとやそっとでこわれるものではない。使えば使うほどよくなるもの、だそうである。六段時代から二十年間、ずっと報知新聞の観戦記を担当しておられた。今のように新聞に休日はない。買っても負けても、毎日1500字(原稿用紙約四枚)の記事を書く。さすがに、負けた朝の出稿はつらかったそうである。しかし、一日も休まなかった。

 スポーツ選手は、毎日のロードワークで基礎体力をつける。名人は自ら一日1500字を課して、あの強靭な精神力を養ったのではあるまいか。

 先日、また茅ヶ崎へうかがった。最終巻の校正刷を前にして、いかにもうれしそうにしておられた。

「おかげ様で将棋界も繁栄を極めている。若い人にもどんどん強いのがでてきて、楽しみなことです」

 近頃、相撲で良いのが千代の富士。まれに見る逸材と評された。将棋では加藤(一)十段がよい。昔の将棋と違ってきている。それと谷川八段が強い。加藤の若いころより強い。できるなら盤上で対面してみたい、とこの七十七翁は熱っぽく語るのである。

 かたわらには、常の如く奥様がにこにこと笑っておられる。老後がこのように素晴らしいものと知る人は少ないだろう。

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木村義雄十四世名人は、将棋の普及や棋士の社会的地位向上にも大きな役割を果たしてきた。

私の子供時代、将棋を知らない私の母でさえ「将棋には木村名人と大山名人という偉い人がいる」と教えてくれるほど、木村義雄十四世名人の名前は一般の人に知れ渡っていた。

「木村の将棋が他人にわかりますかい」

何とも深い言葉で、十四世名人としての矜持を感じさせる。

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表現や意味合いは異なるものの、佐藤康光王将(当時)、山田道美九段も、自分の言葉で自分の将棋を表現したい旨を書いている。

佐藤康光王将(当時)「我が将棋感覚は可笑しいのか?」(その2)

佐藤康光九段と山田道美九段

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木村義雄十四世名人が築き上げてきた将棋は、相掛かり、角換わり腰掛銀、後手ゴキゲン中飛車の形に似た横歩取りなど、戦前から昭和20年代まで流行った戦型。

これらは昭和30年代~昭和40年代は斜陽戦法と呼ばれ、完全に過去のものとなっていたが、現在は相掛かり、角換わり腰掛銀、横歩取りはメジャーな戦法となっている。

流行戦法の変遷は本当に面白いものだと思う。

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木村義雄十四世名人が亡くなる前年の歴史的にも非常に貴重な対談。

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(1)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(2)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(3)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(最終回)

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木村一基五段(当時)「いやあ、ひどい目に遭いました」

将棋世界2002年1月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 大崎善生君が『将棋の子』で講談社ノンフィクション賞を受賞し、東京會舘で授賞式があった。

 出かけると、例年とちがって将棋界関係者がやたら多い。文壇のパーティーのつもりで来たので、面食らってしまった。大崎君も今や文壇のスター作家である。作家へ転じたのは大成功だった。

 その翌日、今度は新宿の京王プラザホテルで「宮田敦史君の四段昇段を祝う会」があった。主催している所司六段もよく頑張っている。時節柄、こういった会を開くのは大変なのである。

 すこしでも応援になればと行ったら、木村五段も来ていた。たしか、昨日も顔を見かけたので「ご苦労さん」と声をかけたら「いやあ、ひどい目に遭いました」と苦笑した。ひどい目に遭った、は棋士の口ぐせだが、話を聞くと、本当にひどかったらしい。パーティーの後、知り合いの編集者と銀座で飲んだら、その編集者の具合がわるくなり、築地の病院にかつぎこんで、結局朝までつきそった。

「だから背広も替えてないんです。そしてここに来たら、松尾君のお祝い(新人王戦優勝)もやってるじゃないですか。2局目に私が勝ってれば、今日が第3局のはずだったのに……。参ったな」

 木村君の泣く気持ちもわかる。しかし将棋界では、こうした付き合いが、後になって物を言うのである。

(以下略)

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木村一基五段(当時)は、この年の9月の竜王戦挑戦者決定三番勝負で羽生善治四冠(当時)に1勝2敗で敗れ、その後の新人王戦決勝三番勝負では松尾歩四段(当時)に0勝2敗で敗れている。

木村一基五段(当時)「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」

木村一基五段が「2局目に私が勝ってれば、今日が第3局のはずだったのに……」と言っているのは、この新人王戦決勝三番勝負のこと。

死んだ子の年を数える、ではないが、このように思う気持ちは痛いほどわかる。

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昭和の終盤の頃のこと。

私は仕事で、毎週月曜日の夜、あるテレビ局の生番組が行われるスタジオに詰めていた。私が番組に出演するわけではなく、番組内の1コーナーで利用されるシステムの担当営業として、生番組に立ち会っていたのだった。

システムの提案段階から様々な意味で思い入れのある仕事だった。

番組が始まったのが4月の桜の花咲く頃。

5分間ほどのコーナーだったが、生放送の中で何事もなく無事に動いてほしいという緊張感は想像以上のもので、番組が終わった後は必ずそのまま飲みに行ってクールダウンさせていたものだった。

半年間の放送予定だったので、最終回は9月24日の振替休日。

最終回の日は、休みの日なので一人で飲みに行ける店は開いていないことだし、テレビ局から自宅まで感傷的な気分になりながら歩いて帰ろうと予定を立てた。秋の入口の頃だし、頭の中で流れる音楽はカーペンターズの「スーパースター」が最適だと思った。

・・・しかし、全盛期の『水戸黄門』の裏番組ということもあったのだろうが、その番組の視聴率は良くなく、6月で放送は打ち切りとなってしまった。

6月の最終回の日の番組が終わった後、寂しい気分になりながら飲みに行ったと思う。

放送局には幽霊がよく出るという噂があったが、この時の私のように、夢半ばで(私は夢を持っていたわけではないが)スタジオから離れていった俳優、女優、モデル、ミュージシャンなど、それらの思いを残した人達の生霊が放送局内を憑依しているのが幽霊の実態なのではないか、と考えながら酒を飲んでいた。

どちらにしても、「スーパースター」を頭の中で流し続けながら家まで感傷的になりながら歩いて帰る、という目論見は崩れた。

それから3ヵ月後、9月24日(月曜・休日)はやってきた。

家でゴロゴロしながら(ああ、今日だったな)と思い出す。

これからスーツに着替えて、テレビ局の近所まで行って、そこから歩いて家に戻ってみようかとも一瞬考えたが、あまりにも酔狂すぎると思ったし、モチベーションも上がらなかったので、そのまま家でゴロゴロしていることにした。

自分は、死んだ子の年を数えるタイプなんだな、と気付いた時でもあった。

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その後、(今日は本来は○○があるはずの日だったんだな)と思いようなことは起きていない。

しかし、この時の、「スーパースター」を頭の中で流し続けながら家まで感傷的になりながら歩いて帰る、という思いは深層心理に残っていたようで、数年後、思わぬところで「スーパースター」と口走ってしまうことになる。

今の私なら、ブロンディの「コール・ミー」と言うだろうなと思う。

香港夜総会

 

 

将棋ペンクラブ関西交流会のご案内(2017年)

将棋ペンクラブ関西交流会が5月4日(木・祝)に行われますので、ご案内いたします。
(参加申込み等は必要ありません。会員でない方の参加も大歓迎です)

〔日時〕
2017年5月4日(木・祝)13:00から
(何時からでも参加可能です)

〔場所〕
関西将棋会館 4階
大阪市福島区福島6-3-11

〔参加費〕
2,000円
夕方からの二次会は別料金

〔内容〕
自由対局、リレー将棋など。

☆森信雄七段、船戸陽子女流二段もご参加くださいます。

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昨年までと場所が変わり、関西将棋会館での開催となります。

私も、東京から行く予定です。

翌日の森一門祝賀会にも出席させていただきます。

よろしくお願いいたします。

 

 

3分で理解できる大山将棋と升田将棋の違い

将棋世界2002年1月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

4図以下の指し手
▲9七歩△3五歩▲同角△9七香成▲同香△同角成▲同桂△9六歩▲9八歩△3四香▲4五桂△3五香▲3三桂成△同金寄▲3五銀△3四歩(5図)

 ▲9七歩は至当だが、そこで△3五歩が升田かねてのネライであった。

 ▲同角と取らせ、△9七香成と突撃し角をも切って返す刀で△3四香が一連の読み筋。このような荒技で局面を自らの意志で造ってゆくのが升田将棋の特長である。だがこれは、大山にとっても読みの中で、▲4五桂の軽手で切り返す。対して△同歩もあるが、▲7一角成△3六香▲8三角△9七歩成▲同歩△4二飛▲7四角成となって、これは自玉も安全だが敵玉も見えなくなり、升田の好む行き方ではない。

 派手なやり取りがあり5図。

 ここが本局の流れを決める重大なポイントであった。銀の始末をどうするか。

  1. ▲2四銀と吶喊し△同歩▲同歩と玉頭に迫る。
  2. ▲3四同銀△同金▲3七香と歩切れにつけ込む。
  3. 駒得を生かし▲2六銀と収める。

 さあ大山の次の一手は?

5図以下の指し手
▲2六銀△4七角▲2八飛△6九角成▲6八金引△4七馬▲8三角

(中略)

 ▲2六銀は拍子抜けのようだが、これぞ大山の将棋観、ひいては人生観にもつながる一手だと思う。駒得という確実な利に絶対の信を置き、必ず相手の攻めを余して見せるという自信の表れでもあろう。本局ではそれが裏目に出たが、大山はこうした行き方で長い間、天下を平定したのであった。升田は自分ならば▲2四銀と指すと述べていた。

(以下略)

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1957年第16期名人戦第1局、大山康晴名人-升田幸三王将・九段戦。

本局は、終盤に升田王将・九段に見落としが出るものの大事には至らず、升田王将・九段が勝っている。

この七番勝負を制して、升田幸三三冠王の誕生となる。

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真部一男八段(当時)が書いている「荒技で局面を自らの意志で造ってゆくのが升田将棋の特長」が、非常に端的に升田将棋を言い表している。

1971年の名人戦第3局で指された天来の絶妙手△3五銀に至る手順などはその典型例だ。

△3五歩~△9七香成~△9七同角成~△9六歩~△3四香が、大きな構想を描いたうえでの仕掛けだと、見ているだけで感じ取れる。

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対する大山康晴名人の5図からの▲2六銀。

私なら▲2四銀も▲3四同銀も思い浮かばないので▲2六銀と下がるしかないが、プロ的には拍子抜けのように感じる手。

休日の前の夜の銀座。憧れている女性と一緒に楽しく飲んでいて、その女性から「もう一軒、六本木に飲みに行こうよ」と誘われたものの、「いや、今日はこれからブログを書かなきゃいけないから」と家に帰ってしまうような展開。

升田将棋なら「これから熱海に行って、朝日を見ながら酒を飲もう」になるだろう。

大山流の▲2六銀と升田流の▲2四銀の対比が面白い。

 

 

二上達也棋聖(当時)「10回目てのは危ないんですよ」

将棋世界1982年5月号、「名人戦、私はこう見る 各界予想アンケート」より抜粋。

 第40期名人戦の挑戦者はいよいよ加藤一二三十段に決まった。現在の中原誠名人にとっては最大の難敵といって過言ではあるまい。戦いを前にして中原名人は意外に余裕の発言。一方の加藤十段はインタビューも断って無言の闘志を表わす。両雄の師匠、A級棋士、各界将棋通の見る名人戦はさて……。

質問1 勝敗予想、○対○で○○勝ち。その理由は?
質問2 あなたが挑戦者なら、中原名人攻略にどんな手を考えますか?

中原誠名人

 加藤さんが挑戦者になりましたが、これは去年の暮に加藤-内藤戦で加藤さんが勝った時から予想してましたからね。加藤さんというと以前はカラ咳などのクセが気になったこともありますが、最近はそれほどでもありません。タイトル戦で顔が合うのは一昨年の十段戦以来ですが、加藤さんは今絶好調のようなので私としてもうまく第1局に向けて調子を持っていきたいですね。まあマイペースで自分の力を出せればと思っています。

大山康晴十五世名人

  1.   中原さんも加藤さんも今が指し盛りで、気力、体力すべてに充実した時で実力を十分出しきる好勝負になるでしょうね。中原さんのほうが名人戦のひのき舞台は慣れているという意味はありますけど加藤さんも好調ですからね。いい勝負でしょう。

藤沢桓夫(作家)

  1.  4-3で中原。最近の加藤一の充実は素晴らしい限りだが、中原もひと頃の不調を脱したと見る。そこで両者間の過去のデータが物を言って、中原が僅かの差でタイトルを守るでしょう。
  2.  正直なところ、この顔合わせは、また全局似たような相ヤグラに終始して、ファンをうんざり退屈させるのではないかと憂えられる。大内や森みたいに中原を苦しめ、ファンをハラハラさせたいのだが、加藤一は振り飛車は指さないし、ハテ困った。桐山か森安に出て来てほしかった。中原を倒すのはやはり振り飛車、私はそれで行く。

石堂淑朗(脚本家)

  1.  四対三で加藤の勝ち。木村、大山両名人とも在位中に一度ずつ塚田、升田に名人位を奪われています。中原名人にも一度は生じましょう。人の子ですから。中原名人から一度は名人位を奪いそうな人、それは、精進の人加藤十段です。今年の加藤氏はラスト・チャンスと最後の力を振りしぼります。稀に見る大勝負です!
  2.  対局場に入る前に”勝つと思うな、思えば負けよ”と三度、呪文のように唱えます。

高木彬光(作家)

  1.  四-三にて中原名人の勝ち。
  2.  わかりません。もしわかったら今ごろは挑戦者になっているでしょう。

リーガル秀才(漫才師)

  1.  4対2で中原名人の勝ち。演芸家名人戦やその他の件で色々とお世話になってる個人的熱望で……?
  2.  名人に精神的動揺を与えるより他に手段はありません。ただ毒薬入りのレモンやオレンジはいけません。下らないシャレを連発して集中力を欠かせるのが一番だと思います。

永六輔(タレント)

  1.  ○対△で□□の勝ち。(勝負ですから)
  2.  いきなり張り倒します。

川谷拓三(俳優)

  1.  4-2で中原名人。よゆうか…!
  2.  無手勝流

二上達也棋聖

  1.  4-3で加藤十段の勝ち。つまりね、加藤さんの調子そのものより、中原さんの調子が問題なんですよ。それと中原さん9連覇でしょ。10回目てのは危ないんですよ。
  2.  中原さんは相手のことを気にするようなところがある。だからそういう面を逆用してなにか気を使わせるようなことを考えるのがいい。森さんみたいに頭剃ったりしてね。フフ。

米長邦雄棋王

  1.  4-2で加藤十段の勝ち。加藤一二三十段の勝ち。尊敬する大好きな加藤さんに勝って欲しいから。
  2.  これが思いつかないのでいつも苦戦している。

高橋健二(独文学者)

  1.  四対三で加藤十段の勝ち。加藤十段は安定した強味と粘りを高めているから。
  2.  名人に攻めさせる策戦をとる方がよいと思う。

遠藤周作(作家)

  1.  加藤4-3中原。まさに今期の加藤(一)は絶好調である。加えて対内藤戦、石田戦等苦しい将棋をひろったツキを重んじたい。
  2.  左美濃をやらないという約束なら振り飛車、他には考えつかない。

森雞二八段

  1.  4対3で中原の勝ち。接戦だとは思うが、やはり今までの実績がものをいうんじゃないの。いや、逆の目もあるかもしれないね(笑)
  2.  これは軍の機密だから教えられない。秘密にしとかなきゃ(笑)。挑戦者になったらバンバン私が教えます。

内藤國雄九段

  1.  4-3で加藤勝ち。運勢上加藤さんが一度名人になると思う。それは今年である。
  2.  私も名人をねらっている一人だから、ちょっと言うわけにはいきませんね。

小松方正(俳優)

  1.  四対二で中原名人。
  2.  無手勝流(勝てる手なんてあるんですか?)

湯川恵子(女流アマ名人)

  1.  4-3で中原勝ち。中原不調、加藤絶好調のようですから、七局までいって、「最後の一番に強い」中原が防衛でしょうか。
  2.  銀多伝定跡(二枚落ち)でせまります。もし、私がプロで名人戦の挑戦者ならという意味でしたら、それはあなた、そうなってみなければわかりません。

北杜夫(作家)

  1.  四勝二敗で中原名人の勝ち。加藤十段も好調ですから、先勝すればもっともつれるかも。
  2.  大山流のふり飛車。

吉田拓郎(歌手)

  1.  4対3で中原氏の勝ち。「口で言えない、中原の強さ」
  2.  仕方無いので、私の場合、6枚落ちでお願いするでしょう。

市川海老蔵(歌舞伎役者)

  1.  四対三で中原名人の勝。
  2.  私が挑戦者なら―相やぐら。

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ここに抜粋した以外に、倉島竹二郎さん、桐山清澄八段、土岐雄三さん、南芳一五段、赤木駿介さん、中村修五段、林秀彦さん、田中寅彦六段、鈴木輝彦六段、東公平さん、蛸島彰子女流名人・王将、高橋道雄五段、豊田穣さん、冨士眞奈美さん、淡路仁茂七段、つのだじろうさん、福崎文吾七段、山田良一さん、森安秀光八段、高柳敏夫八段、南口繁一八段が予想を述べている。

集計をすると、

中原誠名人の勝ち 18人(うち棋士3人)

加藤一二三十段の勝ち 8人(うち棋士4人)

わからない 13人(うち棋士9人)

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加藤一二三名人が誕生することとなるが、二上達也棋聖(当時)と内藤國雄九段の予想が特に冴えている。

二上棋聖の「10回目てのは危ないんですよ」は、それまでの事例としては、大山康晴十五世名人が王将戦で9連覇(1963年~1971年)、この後には、羽生善治三冠が王位戦で9連覇(1993年~2001年)、渡辺明竜王が竜王戦で9連覇(2004年~2012年)のケースがある。

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10連覇目を見事に乗り切ったのは、

羽生善治王座 19連覇(1992年~2010年)
大山康晴名人 13連覇(1959年~1971年)
大山康晴王位 12連覇(1960年~1971年)
羽生善治棋王 12連覇(1990年~2001年)
大山康晴十段 10連覇(1958年~1967年)

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映画『ニューシネマパラダイス』で、一人の女性に恋をしている主人公トトに、トトが父のように慕っているアルフレードが聞かせる物語がある。

昔々、王様がパーティーを開いた。その時に護衛の兵士が王女を見て、一瞬のうちに恋に落ちてしまった。

ある日、兵士は王女に話しかける。王女なしでは生きていけぬ、と。

王女は彼の深い思いに驚いて、次のように言った。

「100日の間、昼も夜も私のバルコニーの下で待ってくれたら、あなたのものになります」

兵士はすぐにバルコニーの下に行く。2日…10日 20日たった。毎晩、王女は窓から見たが兵士は動かない。

雨の日も風の日も雪が降っても、兵士は動かなかった。

そして、90日が過ぎた。兵士はひからびて真っ白になった。眼から涙が滴り落ちた。涙をおさえる力もなかった。眠る気力さえなかった。王女はずっと見守っていた。

99日目の夜、兵士は立ちあがり、椅子を持って行ってしまった

トト「最後の日に?」

アルフレード「そうだ、最後の日にだ。なぜかは分からない」

そして、アルフレードは「分かったら教えてくれ」と言ってトトと別れる。

二上棋聖の「10回目てのは危ないんですよ」とは意味するところは異なるが、9連覇、19連覇という数字を見ると、この話を思い出してしまう。

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兵士がなぜ最後の日に去っていったのかは、本当に分からない。

映画の前後関係から判断すると、主人公のトトが愛している女性とトトは結ばれない運命(彼女の親が身分の高い銀行の重役で、家柄的にトトとの交際には非常に否定的)であることを、いずれはトトに気付いてほしい、そして、彼女のことは忘れて自分の進むべき道に邁進してほしい、というアルフレードの思いから語られた物語のようだ。