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羽生善治四段(当時)「これで、とりあえずほっとして夏休みを迎えることができます」

近代将棋1987年10月号、羽生善治四段(当時)の順位戦C級2組〔対 田辺一郎六段〕自戦記「うまく指せた一局」より。

近代将棋同じ号掲載の写真。

 昼食休憩の後、僕は千日手にすべきかどうか迷っていた。局面はA図。自分では少し模様がいいと思っていただけに千日手にはしたくなかったのですが、指し直しが先手になることや、消費時間が田辺六段の方が1時間多く使っているため、千日手にすることにしました。

(中略)

 指し直し局も振り飛車を予想していたのですが、矢倉とは意外でした。そして、△5三銀右も予想外でした。自分はこのような急戦調の矢倉はあまりやったことがないので少し不安になりました。さて、普通の対局は午前10時から始まるのですが、午前中はまだ駒組みの段階のためか、雑談をしている先生もいますが、午後に入り、戦いが近づいてくると、口数も少なくなり、夜戦に入ると誰も口を利かなくなります。そしてこういう時間になると、順位戦を指している気分になります。

(中略)

 ところで、田辺六段には、僕が小学生の頃、よく夏休みに開催される将棋まつりでお世話になった記憶があります。もっとも田辺六段の方は僕のことを覚えていないとは思いますが。将棋は入玉が得意という一風変わっています。このあたりは消費時間の差があるので、田辺六段は比較的早指しです。

(中略)

 そして迎えた5図。仕掛けるべきか、一回待つべきか迷いました。対局室からは、新宿の高層ビル群の夜景が見えますが、もうそれを見る余裕もなくなって来ました。

(中略)

 これに対して△2三玉として来ました。この手の意味は攻めを催促し、場合によっては入玉を狙う意味です。田辺六段は入玉を得意とされているので少し嫌な気分になりました。そして、仕掛けたのは失敗だったかもしれないと弱気な気持ちになりました。今、冷静に考えてみるとそれほど悪いとは思えません。実戦心理とは不思議なものです。そして、対局中は飛角銀桂香で攻めているのだから、悪いはずがないと、自分を勇気づけました。

(中略)

 △3七銀に対して▲5七金と応援部隊を送ります。以下田辺六段も頑張られましたが、何とか寄せ切ることができました。

(中略)

 これで2勝目をあげることができました。田辺六段にとっては大変不本意な将棋だったと思います。投了図の田辺六段の飛車がそれを物語っているようです。これで、とりあえずほっとして夏休みを迎えることができます。

* * * * *

「夜戦に入ると誰も口を利かなくなります。そしてこういう時間になると、順位戦を指している気分になります」

昔は対局中の雑談も珍しくなかったので、四季の移り変わりのごとく、時間帯によって対局室の風情も変わっていったのだろう。

* * * * *

「もっとも田辺六段の方は僕のことを覚えていないとは思いますが」

このような場合、「僕のことを覚えていますか?」と聞くのも微妙に変なので、なかなか真相にはたどり着けないものである。

* * * * *

「対局中は飛角銀桂香で攻めているのだから、悪いはずがないと、自分を勇気づけました」

対局中に自信がない場面でも、この言葉(香はなくても構わない)を思い出せば、勇気が出てきそうだ。

本当に飛角銀桂を使って攻めている場合に限られるが。

* * * * *

「これで、とりあえずほっとして夏休みを迎えることができます」

羽生善治四段(当時)は高校2年生。

対局と学校の両方をこなしていたわけなので、学校が長期の休みとなる夏休みには、格別な思いがあったかもしれない。

「私は夢は99%かなう可能性がなく、残り1%を追うものだという考えを持っている。なぜなら、努力すれば何とかなるなら、それは”目標”になるからだ」

このような自戦記も楽しい。このような自戦記がもっとあってもいい。

将棋マガジン1991年10月号、中井広恵女流王位の第14期女流王将戦A級リーグ(対 清水市代女流三段)自戦記「夢と目標」より。

 今年の夏はかなりいそがしかった。各地で行われる将棋まつりや日本シリーズでスケジュールが埋まってしまい、おかげで主人と8日間顔を合わせない時もあった。

 でも人間というのは本当にわがままな生き物だと思うのは、結婚前は一緒にいたいなぁと思っていたのに、最近では、たまには一人になりたいと思う事もある。

 まぁ、主人も私のそんな気持ちを察してか、麻雀で帰ってこない日があるので、結構自分の時間には不自由していないのだが……。

 札幌・大阪・長野・大宮と将棋まつりに出演したのだが、大阪近鉄将棋まつりで内藤先生の聞き手をさせていただいた時のこと。

 急に内藤先生が、

 ”どうして林葉、清水、中井はあんなに下ネタの話が好きなんや”

 とおっしゃるのだ。これもすべて林葉先生のおかげと感謝している。

 私はあわてて

”清水、中井は違います”

 と訂正したが、結婚してその手の話題が多くなったのは確かだ。誤解されては困るが、決して自分から話をしてるわけではない。人妻といってもまだ花もはじらう22歳なのだから、赤面してしまうような話題は勘弁してほしい。思わず喜んでしまうではないか……。

(中略)

 私はかなり不器用な人間だから、二つ以上の事を同時にできない。料理も今でこそミソ汁と野菜いためを一緒に作れるようになったが、それ以外はちょっとつらい。

 4月にマンションを購入し、引っ越しをしたのだが、その間何も手につかなかった。

 当然将棋の方がおろそかになり、研究会などはできるだけ参加するようにしたが、対局は集中力に欠け女流名人位戦前半を2勝3敗という最悪のスタートになってしまった。

 まあこれは言い訳にすぎないが。

 しかし、その中でも市代ちゃんと指した将棋は必勝の局面から王手竜取りをかけられるという、自分でも信じられない負け方をして、これが結構尾を引いた。

 しばらく将棋を指す気にはなれなかった。

(中略)

 今、研究会に入って勉強するのが主流となっているが、女流棋士にとってこれが一番良い方法だと思う。

 研究会に入っていれば、自分で相手を見つける必要がない。

 プロ棋士や奨励会員に、

”将棋教えてください”と言うのはちょっとした勇気がいる。

 私も何度か頼んだ事があるが、

”将棋はちょっと”

 とかわされる事も多かった。

 中には家に泊まった人が一宿一飯の恩義を感じて将棋を指してくれる。

 市代ちゃんに王手竜取りを喰った日も某関西棋士が家に泊まりにきていて、落ち込んでいる私に、

”将棋でも指しますか”

 と言ってくれた。

 普段こういってくれる人が少ないので、たまに言われるとうれしさのあまり、思わずその人に抱きつきたくなる。

 私にとって一番の誘い文句だろう。

(中略)

 先日、ある雑誌の編集者の方から”夢”という原稿を依頼された。今まで私の夢はプロ棋士の四段になる事だったが、奨励会を退会すると同時にその夢も儚く消えた。

 奨励会をやめて、1年が過ぎたが、その間、私は夢を持たずに生活していた。それは現在も続いている。

 私は夢は99%かなう可能性がなく、残り1%を追うものだという考えを持っている。なぜなら、努力すれば何とかなるなら、それは”目標”になるからだ。

 だから女流名人になるのが夢だと言った覚えは一度もない。タイトルを取る事は目標だったし、”絶対女流名人になるんだ”という強い意志もあったはずだから。

 そう考えてみると、いつもまにか私はすべての事を目標というものに置き換え、現実だけを追い続ける、文字どおり夢がない人間になってしまったのかと思うと、何だかさびしかった。

(中略)

 最近、主人が好調で将棋も麻雀も勝っている。この本が出る頃まで続いてほしいと思う。

 春から夏にかけては二人とも調子がいいのだが、夏バテがはじまり秋から冬はボロボロというパターンが多い。

 今秋またヨーロッパに行く予定があるので、気分よく海を渡りたい。

 去年は直子ちゃん達も一緒だったので心強かった?が、今年は二人なので不安だ。

 こんな時のために英会話も習いたかったなぁ……とよく後悔する。

 私はわりと趣味が多くて、何でもかじりたがる方だ。何でも興味を持ち、好奇心も強い。ただ「広く浅く」で、どれも中途半端が多い。

 気がつくとお金だけが減っている。

(中略)

 10月に神田真由美さんが結婚式をあげるが、女流棋士も適齢期となる乙女がわんさか?いる。

 年齢からいくと、関西の姐御(Kさん)がネクストバッターなのだが……。

 女流棋士同士で結婚の話をしても、市代ちゃんは簡単に口を割らない。将棋と同じでかわすのがうまい。

 品行方正な彼女は(他の女流棋士が悪いとは思わないように)上手なおつき合いをしてるに違いない。

(中略)

 縁がない女流王将戦だが、直子ちゃんも二冠持ってると対局が少ないらしい。

 女流王将リーグに戻って東京に来る機会を作り、大ファンの中原先生に会うチャンスを増やしてあげようというこの親友の心遣い、わかるでしょ。直子姫❤

* * * * *

Wikipediaで野菜炒めをあらためて調べてみると、

ナス、キャベツ、タマネギ、モヤシ、人参、ピーマン、セロリ、ニラ、青梗菜、白菜、椎茸

が入るらしい。もちろん、このうちの数種類だけという野菜炒めがほとんどだろうが、個人的にはナスというのが意外だ。

* * * * *

「市代ちゃんに王手竜取りを喰った日も某関西棋士が家に泊まりにきていて、落ち込んでいる私に、”将棋でも指しますか”と言ってくれた」

この某関西棋士は阿部隆五段(当時)であった可能性が高い。

「今、森内がウチに来てるんだよ。後から康光も来て、明日になれば郷ちゃんも来るんだけど」

植山悦行七段・中井広恵女流六段の家は、1990年代、若手棋士が何度も泊まりに行っていた。

* * * * *

関西の姐御(Kさん)は、もちろん鹿野圭生女流1級(当時)のこと。

* * * * *

「私は夢は99%かなう可能性がなく、残り1%を追うものだという考えを持っている。なぜなら、努力すれば何とかなるなら、それは”目標”になるからだ」

「そう考えてみると、いつもまにか私はすべての事を目標というものに置き換え、現実だけを追い続ける、文字どおり夢がない人間になってしまったのかと思うと、何だかさびしかった」

これは名言だと思う。たしかに、夢と目標は別のものだ。

自分がいつの間にか夢のない人間になっていることを自覚させられる。

* * * * *

最後の3行は、ドキッとするような3行。

 

大優勢時の大雑念

近代将棋1984年4月号、田中寅彦七段(当時)の第2回朝日・全日本プロトーナメント戦決勝〔対谷川浩司名人戦〕第3局自戦記「敵以上に弱かった」より。

 第2回全日本プロトーナメント戦では、ここまで振り返ってみると幸運な勝ち星を重ねてこれたような気がします。谷川名人との決勝三番勝負では、1局目は行き過ぎでやられたものの、2局目は優勢な将棋をおかしくしてしまった後、最後は運良く勝ったという感じでした。

 決戦の3局目を迎え、対局直前までは、ここまで来たら無欲でやるだけ……と思ってはいたのですが、どうも局面が良くなってからダメになりました。勝負の結果は朝日新聞の報道でご存知の通りです。残念ながら敗戦の記とはなりましたが、”大勝負初体験の記”にちょっとお付き合いください。

(中略)

念力をかける

 番勝負の最終局では先後を決めるのにあらためて振り駒が行われます。攻めを身上とする私としては是が非でも先番が欲しいところです。記録係が駒を宙に舞わせた瞬間、『うらが出ろ』と念力をかけました。

 首尾よく先番となり、こうなれば作戦は第2局で勝利を収めた飛先不突矢倉です。

 谷川名人の対応策が注目されるところですが、名人は大方の予想にない陽動振り飛車を採用してきました。私の得意とする飛先不突矢倉と居飛車穴熊を共にさけるうまい作戦です。対して私は▲2六歩~▲2五歩と早めに飛先を伸ばしました。

 こちらとしては、すでに▲7七銀と上がってしまっていても穴熊に囲えば囲えないことはなく、実戦例もあるのですが、今日は一つ積極的に行ってみようという気分です。

1図以下の指し手
△7四歩▲6八銀△4四歩▲4六歩△2二飛▲3六歩△5二金左▲3七銀△7一玉▲3五歩△同歩▲2六銀(2図)

ときめき

 1図の局面で谷川名人がちょっと考え込んだのでドキッとしました。というのは、ここまでの将棋は今期のB1組順位戦で丸田祐三九段と指したものと寸分たがわぬもので、ちょうどこの1図となった場面で同じように考えられた丸田九段は、先手の位取りをきらって△7四歩と指してきました。そこで私は、この構想をとがめる意味で急戦に出、それがまたうまく行き過ぎるほどの効果を発揮して快勝したのでした。本誌1月号の本欄で紹介しましたのでご承知の方も多いと思います。

 果たして名人は△7四歩と指してきました。……もしかしたら谷川名人は田中-丸田戦の順を知らないのではないか……。不思議な胸のときめきを覚えたものでした。

 後で分かったのですが、谷川名人はこの順は読んではいたものの、対局時には忘れていたとのことでした。

 私が▲3七銀から▲3五歩と火の手を上げたところで谷川名人の表情がおかしかったような記憶があります。確か名人はトイレにも立ちました。ここで、谷川名人は田中-丸田戦を思い出したのでした。このコースは先手よし。後手としては逃れようがないところまで局面は進んでしまっています。

2図以下の指し手
△4五歩▲3三角成△同桂▲3五銀△4六歩▲3四歩△4二飛▲3三歩成△4五飛▲3四銀△3五飛▲4三銀成△6四角(3図)

楽勝の順

 △4五歩と谷川名人が手を変えて、対丸田九段戦とは別れをつげました。しかし、この順も、1月号の自戦記にあるように、▲3五歩と仕掛けるに当たって心配はしたが読んでみて大丈夫と自信を持った変化なのでした。その時は本譜と全く同じに進めて▲4三銀成に△3九飛成と飛車を成ってきても▲5二成銀△同金▲3八金(参考1図)で先手よしと解説したはずです。

 本譜は▲4三銀成の後、谷川名人の△6四角となりましたが、成れる飛車が成れないのですから後手が良いわけはなく、先手楽勝と言ってもいい分かれです。

3図以下の指し手
▲5二成銀△同金▲4三金△6二金▲5三金△同金▲4三と△同金▲2六角△3四歩▲4八飛△8二玉▲3五角△同歩▲6六桂△4四角▲7七銀△6五銀▲4五飛△7三桂(4図)

雑念

 3図に至ったのが昼食休憩の30分程前だったでしょうか。まだ午前中では優勢になる時間としては早すぎますし、腰を落ち着ける意味もあって昼休みまで指すのをやめにしました。しかし、こういう下手な考えが浮かぶこと自体、変調の始まりだったのかもしれません。

 心の一方では、余計なことを考えてはいけないと思いながら、大優勢な将棋なのだから絶対に負けてはいけないことはもちろん、きれいに勝たなくてはならない、とか、名人ともあろう者が、こういう将棋を指している、とか、この程度で名人になれる、とか……。

 昼休みをはさんで40分ですから、相当に手を読んだつもりでしたが、今、反省してみるに、どうも対局時の私の読みは大局的な思考を失ったものであったようです。敵には何も与えずに勝とうとした結果が本譜であり、ある程度の優勢は保持しているものの△4四角と打たれたあたりでは道中が長くなっているという感じが否めません。

 3図での私の第一感は、▲2七飛でした。以下、△3八飛成なら▲3七飛とぶつけて△2九竜▲5二成銀△同金▲4三と△同金▲3一飛成△6一桂▲8三桂△同銀▲5二角(参考2図)で先手楽勝です。

 この順は、相手にも何かやらせるというものです。大体、勝負において自分だけは無キズで終わらせようなんてことはできっこないのですから、普段の私だったら当然こう指していたはずなのですが、この時は、正直言って、△3八飛成と飛車を成られて△2九竜と桂を取られるというのが恐かったのでした。全く我ながら情けないと言う他はありません。

(中略)

 ああ、しかし、名人の手から水がもれたというのに、私の指した次の一手▲3一銀は何という一手でしょう。この▲3一銀こそが本局の決め手になった敗着でした。絶好球を目の前にしながら、あたらこれを見送ってしまったのです。

(中略)

 今まで、こうした大舞台に出たことはなく、いろいろなタイトル戦の将棋を研究したりしていると、何故こんな強い者同士がヒドイことになるのか、と不思議でしかたがなかったのですが、それがようやく分かりました。大勝負に名局なし、といいます。私も途中からはカチカチになっていましたし、その前の開き直る前の谷川名人の序盤はヒドイものでした。この将棋においては、おそらく、将棋の神様も「困った子供たちだな」という気持ちでいたのではないでしょうか。

 負けたことはくやしいけれど、まだ先は長い道のりです。相手に勝つよりまず自分に勝たなければならない。ということを肝に銘じることができたことは大きな収穫でした。それに、大舞台の上でもそこそこ戦えるというそこはかとない自信をうることもできました。

 これまで谷川将棋を弱い弱いと思っていたのですが、勝負師は悪くなっても動じないというのが大事なことで、彼はその気持が備わった人だと思います。特に、この将棋では、午前中にあのような局面になってしまい、私がもし向こう側に座っていたらどうなっていただろうか、と考えると空恐ろしい気がします。その点において非常にうるところがありました。私も谷川名人のような勝負師になれるように頑張りたいと思います。この次に顔を合わせる時は、相手に勝つ前にまず自分に勝つよう心がけて臨みたいと思います。

* * * * *

近代将棋1984年6月号、「名棋士インタビュー 谷川浩司名人の巻 普通にしているのが一番ですね」より。インタビュアーは谷川俊昭さん。

―朝日はだいぶエキサイトしたようだけど、とにかく優勝おめでとう。

「あ、どうも(笑)、今度はね、普通に指して勝とうと思ったんです。だから振り飛車もやめたのね。でも、1,2局は比較的冷静だったけど、だんだんそうでもなくなっちゃった」

―それは例の田中さんの”あれぐらいで名人になる男もいる”という挑発的発言が原因なの。

「いや、まあそうでもないんだけど。田中さんも、文章で読む感じと、会った感じはかなり違うでしょ。ある程度サービスマンシップでやってるんじゃないかな。終わった後の打ち上げの席でも言われたんですね。”今回はどうも挑発的なことを言ってすみませんでした。まあ、こうやった方が盛り上がるし”ってね。だけど正直言って、あの記事を読んだ時は、ちょっとカチンときましたね。だってあれは米長-田中戦の自戦記でしょ。私が出てくる筋合いはないもんね。一瞬、何が始まったのかと思いましたよ。まあ、今回は痛み分けですね。将棋は1勝2敗、勝負は2勝1敗ということで。結局、二人には優勝経験という点で差がある。その違いが出たんでしょうね」

―2局目はたまたま都合がついたので感想戦はのぞいたんだけど、自信のあるはずの終盤戦でせり負けただけに辛そうだったね。ところで3局目、あの将棋はどうだったの。

「あの将棋は、考え過ぎて、一番悪い順を選んでしまった。陽動振り飛車は、後手番になった時の作戦だったけれど」

―ああいうのは、谷川理論からいうと構わないわけ。

「ああ、そういう話ね(苦笑)、まあ、ひとつの戦法だけど、ある程度のうしろめたさはありましたね。普通の振り飛車なら挑戦だけど、あれじゃ逃げだもんね。まあ、後手番の作戦としてはかなり優秀だけれど。そのあたりうしろめたさが、あのまずい序盤戦につながったのかもしれませんね」

「まあ、いろいろあったけど、やはり素直に喜びたいですね。名人になってからも、柄にもなく”何かタイトル戦に出たい”と言ったでしょ。そう言いながら、すべてのリーグ戦から落っこっちゃった、今回はどうしても勝ちたかった」

(以下略)

* * * * *

「まだ午前中では優勢になる時間としては早すぎますし、腰を落ち着ける意味もあって昼休みまで指すのをやめにしました」

腰を落ち着けようと考えるのは厳密には雑念には入らないかもしれない。事実、この時点では快調に進行している。

* * * * *

「心の一方では、余計なことを考えてはいけないと思いながら、大優勢な将棋なのだから絶対に負けてはいけないことはもちろん、きれいに勝たなくてはならない、とか、名人ともあろう者が、こういう将棋を指している、とか、この程度で名人になれる、とか……」

「敵には何も与えずに勝とうとした結果が本譜であり」

この部分がこの対局での雑念の中枢部分ということになるのだろう。

・大優勢な将棋なのだから絶対に負けてはいけない

・きれいに勝たなくてはならない

・敵には何も与えずに勝とう

形勢が大差になった時は、優勢な側がこのようなことを考えてしまう場合が多い。

その結果、完璧を自分の中で求めるがゆえに、手が伸びずに、逆転されてしまうケースも多い。

これは、プロにもアマにも共通する心理だと思う。

* * * * *

谷川浩司名人(当時)の「あの記事を読んだ時は、ちょっとカチンときましたね」は次の記事を指している。

田中寅彦七段(当時)「一方、あのくらい!?で名人になる男もいる」

「谷川先生が怒っているんですよ」

屋敷伸之棋聖(当時)「奇跡が起こった」

将棋マガジン1990年10月号、屋敷伸之棋聖(当時)の第56期棋聖戦五番勝負第5局自戦記「奇跡が起こった」より。

 今年の6月は、いろいろとひどいめにあった。竜王戦の5組決勝で敗れて、本戦出場とフランクフルトへの夢を断たれた。

 そして、中旬からはこの棋聖戦。相手は、名人に返り咲き、ますます勢い盛んな中原誠名人・棋聖・王座。三冠を持っているので、一つくらいはゆずってくれないかと思っていたが、その考えは甘く(当たり前だが)出だしにあっさり2連敗してしまった。結局、この6月は1勝4敗だった。

「月が変わるのを待つしかない」

 そう思って、7月は暑いなかでがんばった。3局目、そしてないと思っていた4局目で勝って、2-2のタイになって、正直いって自分でも驚いていた。特に4局目は途中でほぼあきらめていただけに、勝てると思わなかった。

 そんなわけで、もっとないと思っていた5局目がめぐってきた。月の変わりはじめの8月1日。運命の日はついにやってきた。

(中略)

 手数は長くなったが、安全にと思っていた。それにしても最後の△1二角には驚いた。どうすればいいかわからなかったが、補充の▲2五銀があった。

 △2五同銀▲同飛で、中原先生が投了を告げられた。自分でも信じられなくて、ボーッとしてしまった。

 今回、また挑戦できたということで嬉しい半面、不安な面もありました。なんといっても、名人に復帰されたばかりで、乗りに乗っている中原先生との対決です。

 ふたを開けてみますと、第1局、第2局は策を凝らしたにも関わらずに完敗しました。見事に包みこまれたという感じで、自分の将棋は通じないのかと正直いってショックでした。

「一番悪いときに当たってしまった」

 そんなことをちらっと思い、ほとんど勝負を捨てていました。しかしそんなときに救いになったのが、いろいろな方々の励ましでした。あのときは本当に人の暖かさを感じました。

 そうして捨鉢のつもりが、開き直りに変わり、3連敗だけは免れたいと思いました。3局目は難しい内容でしたが、なんとか勝たせていただきました。次の一局が指せるのがとても嬉しかったです。

 その次もなんとか勝てまして、第5局を指せるのは夢のようでした。

  そして……奇跡が起こりました。

 中原名人は、名人戦から激闘続きで、7月に入ってからは調子を崩されていたようで、そうでもなければ万に一つも勝ち目はなかったと思います。そのへんも運が良かったです。

 最後になりましたが、応援してくださった方、祝電をくださった方、皆さん、ありがとうございました。

 誌上をお借りして、御礼申し上げます。

 本当に、ありがとうございました。

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将棋マガジン1990年8月号、1990年5月29日、棋聖戦挑戦者決定戦に勝った翌朝の屋敷伸之五段(当時)

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屋敷伸之九段が18歳の時のタイトル獲得。

この時のタイトル獲得最年少記録は破られていない。(それまでは前年の羽生善治九段の19歳が新記録)

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2連敗後の3連勝。やはり、第3局を前に開き直ったのが良い方向に向かった。

中原誠十六世名人が1972年名人戦で2勝3敗後に慣れない振飛車を連採して自身初の名人位を獲得したのも、渡辺明二冠が2008年竜王戦で3連敗後に4連勝して竜王位を防衛したのも、開き直りが出発点。

* * * * *

「三冠を持っているので、一つくらいはゆずってくれないかと思っていたが」

そう思ってしまう気持ちはわからないでもない。

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上の写真は、挑戦者決定戦翌日の写真で、棋聖位奪取翌日の写真ではない。

そもそも、屋敷九段の普段の顔が笑顔だ。

林葉直子女流王将(当時)「私、植山さんにずっと嫉妬していたんですよ」

将棋マガジン1990年8月号、中井広恵女流王位(当時)の第1期女流王位戦五番勝負(対 林葉直子女流王将)第3局自戦記「彼女のこと……」より。

 それは、いつもとかわりない目覚めだった。朝の強い日差しに加え、長袖のチェックのパジャマは、もう暑すぎる。

”リリーン、リーン”

「もう、朝っぱらから、誰!!」

 眠い目をこすりながら電話に出る。

「おめでとう、よかったね」

 そうだ、タイトルを取ったんだと。

(中略)

 彼女は言う。

「私、広恵がうらやましい」と。

 きれいで、多才な彼女が、そう思ってくれてる事が一つあるらしい。それは何でもズバズバ言う性格。人にたのまれると”イヤ”と言えない彼女には、信じられない事なのかもしれない。

 何から何までまるっきりタイプの違う彼女と私。なのに10年間もつき合っていられるのは、今まで歩んできた道のりが似ているからだと思う。対局が終わってから、何もなかったかのように二人で遊んでいられるのも、彼女だからだろう。

(中略)

 トレンディーな街、神戸―。

 ガラス張りで、つけ根からポッキリ折れてしまいそうな位細い、新神戸オリエンタルホテルは”いかにも”という感じがする。フロントでキーをもらい、エレベータに乗ったまではいいのだが、さて困ってしまった。私の泊まる30階を押したが、ランプがつかないのだ。仕方なく、1階下の29階で降りて、聞いてみた。

「30階へ行きたいんですけど…」

「どういう御用ですが?お泊りの方とはロビーで…」

「あの、私今日、30階に泊まる事になっているんですけど」

「あっ、失礼しました。エレベータに乗られますと、左側にカギを差し込む所がありますので、お部屋のキーを使ってください」

 話を聞くと”30階、31階、37階”はVIPルームになっていて、部屋のキーを持っている人でないとその階には行けないらしい。

 もちろん彼女は31階に泊まった。

(中略)

 神戸での前夜祭は、いつになく賑やかだった。立会いの若松先生、内藤先生をはじめ、神戸の棋士の方々が盛り上げてくださったおかげと感謝している。谷川名人も”勉強に来ました”とジョークを言っていたが、名人戦の最中なのに来ていただき、うれしかった。

 この日は買い物をして、早く床についた。彼女はホテルのバーでカクテルを楽しんでいたようだ。部屋のカギは……と……。

 あれは第2局の福岡での対局の時だったろうか?前夜祭が終わり、外へ出たのだが、気がつくと部屋のカギがない。かなり捜したが見つからずフロントへ行った。

「中井様でございますね。カギがトイレに落ちていました」

「あっ、…すみません…」

 ハッキリ言って私はドジだ。家で”ドジ恵”と呼ばれるのも納得できる。そういう意味では、10年間のつき合いで、どうやら彼女も似た様な部分があるらしい。

「部屋のカギが―」

 と叫んでいるのを何度も聞いている様な気がする。

 彼女はこの袖飛車を愛用している。

「いつも同じ戦法であきないの?」

「あら、だったら勝ってみなさいョ」

 口には出さないが、こんな会話をしているように、お互い顔を見合わす。

 対策を立ててきたつもりが、すぐ作戦負けになってしまったのにはあきれた。もちろん勝ちたかったが、いい将棋を指そうと思っていたのに……。

 彼女はマティーニを3杯飲んで寝たという。

(中略)

 彼女は言う。

「第1局を負けたのが……」

 確かにそう思う。あの将棋をあのまま負けていたら、3連敗ということもあり得たと。さすがに感想戦でもいつもより言葉少なだった。が、夜には明るい彼女に戻り、薄野まで一緒にでかけた。みんなに気をつかい、明るくふるまってたと察するが、そんな気のやさしい彼女が好きである。

 薄野へは記録の高群さんと三人で行った。飲みに行く予定が、1時間歩き回った挙げ句、コーヒーに変わってしまった。

 札幌の夜はつかれた―。

(中略)

 この第3局を勝てた原因は、いろんな意味で気分がハイだったという事もあるが、なんといっても神戸新聞社の方のイキなはからいのおかげである。

「対局中、二度のおやつの差し入れがありますが、何がいいですか?」

私…「メロンとメロンジュース」

彼女…「私も同じので」

「2時の方は?」

彼女…「イチゴを」

私…「あの…メロンとメロンジュースを…」

 私は世界中のどんな食べ物よりもメロンが好きという人間である。こんなぜいたくも1年に1回しかできないと思い、わがままを言わせてもらった。小さい頃から”本物のメロン”なんて食べた事がなかった。本物のメロンとは、いわゆるシワのついているマスクメロンの事。普段はプリンスメロンばかりだった。

 二度のメロンとメロンジュースのおかげで、すっかり気分を良くした私は、何ともゲンキンなやつだ。

 対局中に出たのは、もちろん”本物”のメロンだった。

(中略)

 彼女の外人好きは有名である。おまけにミーハー。まあ、ミーハーという部分では私もどうやら人の事を言えないようだが……。今年の初めクイーンエリザベス二世号で香港まで将棋の旅をしたのだが、エリザベス号での彼女のはしゃぎぶりを想像していただけると思う。どうりで日本人男性には見向きもしない訳だ。

 彼女には早くステキな彼を見つけてほしい半面、いつまでもみんなのアイドルでいてほしいという気もする。かといって、

「私の恋人は女流王将です」

 などと言われて、9年間も独占されても、また困るのだが……。私も何度か恋路のジャマをしていたのだが、5回も失敗してしまった。女流王将と彼女の結婚式は私が仲人をしたい位だ。

 私と彼女は、スキな男性のタイプは全く違うが、スキな棋士のタイプは似ている。つまり、条件が同じなのである。一番好きなのは将棋を教えてくれる人、二番目はごちそうしてくれる人だ。

 ただ、棋士は紳士が多いので、私達が一応払おうとしても、女性にお金を出させてくれないのである。こんな事ばかり言ってるから最近お誘いが少ないのか……。

(中略)

 奨励会を今年の4月で退会する事になった。在籍6年半―。いろんな事があった。2級までしか上がれなかったのは本当に残念だが、一時8級に落ちてからよく頑張ったと自分自身でも思う。

 やめる時に奨励会員の友達にあいさつしたが、みんな、

「もう少しがんばらせてあげればいいのに……」と言ってくれたのがうれしかった。逆にその分、みんなに四段になってほしいと思う。

(中略)

 先日、私のだんな様から聞いたのだが、彼女が、

「私、植山さんにずっと嫉妬していたんですよ」

 と言っていた。男ができると、デートばかり。女の友情なんて儚いんだと思ったにちがいない。でも、こんなうれしい事を言ってくれるのは彼女だけだ。彼女とは、いつまでもこんなつき合いを続けて行きたいと思う。

 ああ……また一日がすぎた。いつもと何の変わりもなく……

将棋マガジン同じ号より。

* * * * *

第1期女流王位戦五番勝負第3局、中井広恵女流王位(当時)が初代女流王位を獲得の一局の自戦記は、棋譜と図面はあるものの、棋譜の解説のない非常にユニークなものだった。

大親友でありライバルの林葉直子女流王将(当時)への思いが鮮やかに描かれている。

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将棋マガジン同じ号の西村みどりさんの「盤側から……」には、

感想戦の後、やっと緊張がほぐれた笑顔を見せて、手をつけるのも忘れていたメロンをほおばった中井さん。”第4局が行われる予定の徳島では、大好物のメロンを用意して待ってますと言って下さってますが、私はここで決めてしまいたい”という前夜祭の言葉を思い出した。

と書かれている。

非常な激闘であったことがうかがえる。

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中井広恵女流六段はキュウリが苦手。

私もメロンは大好きでキュウリは大の苦手。スイカは問題なく食べられるけれども、それほど好きではない。

メロンやキュウリやスイカなどのような瓜系の香りなら、メロンのような味であるべき、という思いが根底で強いのだと思う。

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メロンジュースを初めて飲んだのは、大学2年の時、銀座の資生堂パーラーでのことだった。もちろんメロン100%のジュース。

ところが、女子大生と一緒だったので、極度の緊張感から、味がほとんど感じられなかったという記憶がある。

対局中の食事と背景は全く異なるが、似たような現象。

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大学4年の夏休み、伊豆半島のとある街の喫茶店(夜はスナックになるような店だった)でメロンジュースを頼んだのが、人生2度目のメロンジュース。

ところが出てきたのは、かき氷のメロン色のシロップを水で溶かしただけのもの。クリームソーダをアイスクリーム抜きにして、炭酸を水に変えたようなもの、と思えば間違いない。

期待を大きく裏切られたが、飲んでみると、これがかなり飲みづらい(あまり美味しくないということ)。

メロンソーダ、あるいはクリームソーダは、長年の試行錯誤の末にできた素晴らしい飲み物なのだと理解できた。

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その後の人生でビックリしたのが、札幌で食べた夕張メロンの美味しさ。

今までの人生でその美味しさに衝撃を受けた食べ物は、小学生の時のサラミソーセージと生クリームの入ったシュークリーム、中学生の時のハンバーガー、そして社会人になって5年ほどした時の夕張メロンと夕張メロンゼリーだった。

よくよく考えてみると、子供が好きなものばかりだが……