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深浦康市六段(当時)「困った顔をして欲しい北浜君」

将棋世界1999年9月号、深浦康市六段(当時)の第18回早指し新鋭戦決勝戦〔対 北浜健介六段〕自戦記「6年振りの新鋭戦優勝」より。

―今日、眼に映ったもの―

 目覚まし時計。今にも降り出しそうなくもり空。鏡。自分の顔。ロールパン。グレープフルーツジュース(100%)。優優。60%。27℃。21℃。ドキッチ。ルナッチ。G連敗。ペイオフ。「ふげん」。イタリア行っても大丈夫かよ、の名波。日本0-4パラグアイ。リモコン。


 最近は新鋭と呼ばれる事はまずなくなった。それもそのはず、もう27歳になる。6年前には新鋭戦優勝の自分が居たとはなかなか信じ難い。決勝の相手は四段同期の豊川五段(現段位)だった。2手目に△3二金と指されたので、滅多(めった、とは何故こういう字を書くのだろう?)に指さない振り飛車を指した。そして勝った。少しばかりまぶしい。

 その年は当たり年でもあった。全日本プロ優勝に始まり、早指し新鋭戦と早指し選手権戦のW優勝。まさに三段リーグの呪縛から解き放たれた勢いの産物であろう。これを実力だと思い込んでしまうと火傷を負ってしまう。当時はそれだけを自分に言い聞かせていたのだが、時が経った今、それは正解だったとの確信がある。

 ここでやはり考えてしまう事は、21歳の自分と、27歳の自分ではどちらの実力が上かという事。地道に培ってきた部分もあれば、失った部分もあったんじゃないか、そんな気がしてならない。

 まあこんな事を考えるのも原稿を書いている間だけ。これからは生き残りを懸けた、厳しい中堅の戦いが待っている。何事も保守的に考えるようになったらもうダメである。

 今回の決勝進出は、6年前を思い出しただけでも良かった。そう思うようにした。


 パソコン。盤と駒。北浜-□□戦。詰将棋の本。昨日から用意していたスーツ。黒のくつ。梅雨らしい雨。傘。First Love。焼肉丼。コンビネーションサラダ。アイスコーヒー。東武東上線。池袋駅。土曜日に居そうなカップル。コントのような厚底のくつ。なぜか新宿駅。線路に落ちた傘。こちらに話しかける少年。マジックハンドを持った駅員さん。恵比寿駅。東京タワー。浅香光代。島田紳助。島田良夫。二上会長。ヒロスエ並の出席率を誇るとの噂の現役ワセダの北浜君。


第18回早指し新鋭戦決勝
平成11年7月3日
於・東京都港区「芝公園スタジオ」
(持ち時間各10分)
▲六段 北浜健介
△六段 深浦康市

▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七角

(中略)


 テレビ東京の収録後には旦那が迎えにくるという高群さん。「ナナナナ角」の発音がいつも言えないので、発声練習をしている和ちゃん(ウソ)。「深浦だから長いよ」と言っている副音声室。輝企画の(仮想)マスコットガール、ちっちゃいまゆちゃん。藤井竜王。矢内女流三段。困った顔をして欲しい北浜君。


 北浜六段とはVS(1対1の研究会)で教えて頂いている。攻めに特徴のある棋士だと思うが、B2に上がってからはしぶとい受けも身につけたようだ。数多くの番数をこなしたと思うが、本局の作戦は▲7七角からの変則角換わりで、VSではなかなかお目にかからない作戦だ。決勝戦のために温めておいた作戦だろうか?

(中略)

 現在、小学館発行の週刊誌「少年サンデー」で”歩武の駒”という将棋マンガの監修をさせていただいている。サンデーさんでも将棋マンガは初の試みだそうで、期待の懸かる連載である。

 描いているのは新人の村川和宏さん。当初は棋譜の譜号もなかなか伝わらず四苦八苦していたが、現在ではお手のもの。しかも教えたものをどんどんと吸収していくので幹が太くなっている感じがする。絵質は底抜けに明るく、小、中、高校生にはぜひ見てもらいたいマンガ。これから歩武君は奨励会入会し、プロを目指していく。

 話がそれたついでに、本局の対局前は久々の決勝戦という事もあって、緊張していた。そこへ前回優勝者の野月四段が差し入れの久保田(この久保田は後で野月四段の師匠の勝浦先生を喜ばせる事になる)を持って陣中見舞い。和ちゃんも加わって国際フォーラムの話を聞いていたら、気分がほぐれてきた。持つべきものは日本酒、ではなく友達である。

 ▲2五歩から開戦。△9五歩も微妙なタイミングで、すんなり香交換するのも先手は有力だった。

(中略)

 危機が去り、飛車を入手してからは後手が優勢になった。雀刺しの9筋がこの形になって初めて活きてきたので、更に△8四桂と端を狙う。

 ▲9五馬と香を喰いちぎった手に、北浜六段の本局への意気込みを感じた。これに動揺し、△7七桂成は時間ギリギリの着手。「ヒヤッとしましたよ」というスタッフ皆の言葉に反省。

(中略)


 耳がまっ赤な北浜君。「中盤は面白いかと思ったんですが」と話す北浜君。表彰式。打ち上げ。約50名程の人。サングラスをかけた忠幸さん。赤ワインの似合う中倉宏美ちゃん。ヒロスエの事でからかわれる北浜君。するするとすり寄って、いきなり頭を下げる編集部のNさん。


(中略)

 満足できる様な内容では決してないが、6年振りの優勝をいう結果が出せた事と、久し振りの本戦出場が決まって(準優勝を含め2名)嬉しかった。

 2次会は20名程で。今回異動になるプロデューサーのサッカー好きの松本さんらと隣で飲んだが、遠くで北浜六段の陽気な声も聞こえる。少し救われもしたし、また、彼とはいい将棋を指せる、そんな気持ちもした。

 やはり後先の事を考えなくて良い、決勝の舞台は最高で、今日はすがすがしい決勝戦だった。

 もちろんこれからが勝負ではあるが、6年前と今日の日。心の勲章を1つでも多く増やして行きたい、そんな事を思わせる様な夜だった。

——–

1999年7月3日(土)、この日の深浦康市六段(当時)の、起きてから眼に映ったもの(緑色の部分)も書いているユニークな自戦記。

当時の時代背景などもあるので、理解を深めるために注釈を付けてみた。

  • ロールパン。グレープフルーツジュース(100%)…この日の朝食と思われる。コンチネンタルブレックファストっぽい。

(ここからはテレビで見たこと)

  • 優優…輝優優という女子プロレスラーもいたのだが、これは佐渡トキ保護センターで誕生した「優優」のことだと思われる。
  • 60%。27℃。21℃…この日の天気予報での湿度、最高気温、最低気温。気象観測データによると昼から雨が降っている。
  • ドキッチ…エレナ・ドキッチ。ユーゴスラビア出身のオーストラリアの女子プロテニス選手。この頃の全豪オープンでベスト8まで勝ち進んだ。
  • ルナッチ…いくら調べても分からない。
  • G連敗…7月1日の対ヤクルト戦(1-5、敗戦投手ガルベス)、2日の対横浜戦(3-9、敗戦投手ホセ)
  • ペイオフ…どこかの銀行が破綻したわけではなく、ニュースで話題になっただけだと思われる。
  • 「ふげん」…福井県敦賀市にある原子力発電所。調べてみると、この頃に特に大きな動きはない。
  • イタリア行っても大丈夫かよ、の名波…名波浩選手はセリエAのACヴェネツィアに移籍する。しかし、翌年クラブはセリエBに降格。契約上、クラブが降格すれば退団ということで、深浦六段の読みは当たった形。
  • 日本0-4パラグアイ…7月2日コパ・アメリカ。監督はフィリップ・トルシエ。
  • リモコン…テレビを消したと思われる。
  • パソコン。盤と駒。北浜-□□戦…対戦相手である北浜健介六段(当時)の棋譜を検索して、それを盤に並べる。
  • 詰将棋の本…対局に向けてのウォーミングアップと思われる。
  • First Love…宇多田ヒカルの3枚目のシングル。1999年4月28日発売。
  • 焼肉丼。コンビネーションサラダ。アイスコーヒー…家での昼食。さすが気合が入ったメニュー。
  • 東武東上線。池袋駅…深浦六段の家の最寄駅から東上線に乗る。目的地はテレビ東京の芝公園スタジオなので日比谷線神谷町。池袋で山手線に乗り換え恵比寿で日比谷線に乗り換えるというのが定跡。
  • 土曜日に居そうなカップル…ツッコミどころ満点。
  • コントのような厚底のくつ…ガングロ、ヤマンバの子を中心に履かれていた。
  • なぜか新宿駅…なぜ新宿駅で途中下車したのか謎。
  • 線路に落ちた傘。こちらに話しかける少年。マジックハンドを持った駅員さん…深浦六段が、新宿駅のホームで傘を線路に落としてしまって困っている少年を助けた(駅員さんに声をかけた)ことは確かなようだ。
  • 恵比寿駅。東京タワー…恵比寿で日比谷線に乗り換え神谷町下車。スタジオは東京タワーの麓。

(ここからはテレビ東京)

  • 浅香光代。島田紳助。…テレビ東京芝公園スタジオですれ違ったと思われる。
  • 島田良夫…早指し新鋭戦の司会。局アナ。”島田紳助。島田良夫”と島田姓で続けているところが深浦六段の芸の細かいところ。
  • 二上会長…二上達也日本将棋連盟会長(当時)。テレビ将棋決勝戦にはなくてはならない顔。パーティーなどでの乾杯の音頭では、「乾杯は完敗につながるので」ということで「おめでとうございます」の発声が多かった。
  • ヒロスエ並の出席率を誇るとの噂の現役ワセダの北浜君…広末涼子さんがこの年の4月に北浜六段と同じ早稲田大学に入学。しかし仕事が忙しく初登校は6月26日。「ヒロスエ並の出席率」とは3ヵ月に1日、1.3%とみられる。
  • テレビ東京の収録後には旦那が迎えにくるという高群さん…棋譜読み上げと記録は高群佐知子女流二段(当時)と高橋和女流初段(当時)。「旦那が迎えにくるという高群さん」の旦那とは、当然のことながら塚田泰明八段(当時)。結婚前、二人の仲が多くの人に知られてしまったのは、テレビ東京早指し戦がきっかけ。→南の島事件
  • 「ナナナナ角」の発音がいつも言えないので、発声練習をしている和ちゃん(ウソ)…「7七角」の発音がうまく言えない高橋和女流初段、ということ。たしかに「ナナナナ」が結構難しい。伸ばしたときの母音が5文字「あ」が続くのも影響があるかもしれない。
  • 「深浦だから長いよ」と言っている副音声室…「深浦六段は粘り強い棋風なので放送時間に収まらない可能性が高いよ」という意味。そうなった場合、時間を短く編集する必要が出てくる。
  • 輝企画の(仮想)マスコットガール、ちっちゃいまゆちゃん…(仮想)なので現実世界の女性ではなく二次元キャラクターかもしれない。輝企画は番組制作会社。
  • 藤井竜王。矢内女流三段…当日の解説と聞き手。
  • 困った顔をして欲しい北浜君…真面目で温厚で紳士的で優しい深浦九段でもこのようなことを考えるんだ、と嬉しくなる。
  • 耳がまっ赤な北浜君。「中盤は面白いかと思ったんですが」と話す北浜君…耳がまっ赤というところで感傷的になってしまう。
  • 表彰式。打ち上げ。約50名程の人…テレビ棋戦版の就位式。
  • サングラスをかけた忠幸さん…観戦記者の故・田辺忠幸さん。怪老と呼ばれ、本人も気に入っていた。
  • 赤ワインの似合う中倉宏美ちゃん…20歳の中倉宏美女流1級(当時)。この頃はまだハーレーではなく、250ccのヴィラーゴに乗っていた。
  • ヒロスエの事でからかわれる北浜君…広末涼子さんの初登校の日は3,000人も集まったと報道されている。北浜六段にとっては時期が悪かった。
  • するするとすり寄って、いきなり頭を下げる編集部のNさん…この自戦記の原稿を頼まれた瞬間。

 

 

加藤一二三九段と森下卓八段(当時)の文体を模写した日浦市郎七段(当時)の自戦記

将棋世界2001年12月号、日浦市郎七段(当時)の「自戦記・日浦市郎風」より。

 僕の好きな作家に清水義範という方がいる。たくさんのオモシロ小説を発表しているのだが、彼の得意としているものにパスティーシュ(文体模写)というのがある。

 いろんな有名作家の文体をマネているのだが、これを将棋の観戦記や自戦記に使ったら面白いのではないか、とわたくしは思ったのである。というわけで無謀だとは思いつつ将棋界初(だろうな。確かめたワケじゃないけど)のパスティーシュ自戦記をやってみるのだ。

 中には「オレ、こんなこと絶対書かんぞ」と抗議するヒトもいるかもしれないが、そういうヒトは僕に抗議せず僕に原稿を依頼した編集部に抗議してください。

(中略)

〔その1 加藤一二三九段風〕

 中川七段と私とは平成元年の新人王戦の決勝で顔を合わせた。このときの第1局で中川七段は角換わり棒銀できた。苦しい将棋だったが終盤で中川七段に見落としが出て私が勝った。第2局は相掛かりの将棋となり、私が快勝して優勝を決めた。

 これは私にとって非常に喜ばしいことであった。このときに中川七段は粘り強い将棋だという印象を受けた。

 本局は振り駒で中川七段の先手となり▲2六歩と突いてきた。私は△3四歩と角道を開けた。対して▲7六歩ときたので△4四歩と角道を止め振り飛車を目指した。

 数手後に△4二飛として四間飛車の戦型となった。最近私が多く用いる指し方である。

 中川七段は▲7七角として持久戦を目指してきた。棒銀でこられることを心配していた私はこれを見て少し安心した。

(中略)

1図以下の指し手
△9六歩▲同歩△9七歩▲同銀△6五歩▲8八銀△6六歩▲7七金△1三桂▲1七桂△1五歩▲4五銀△1六歩▲4三歩△同飛▲4四歩△4一飛▲3四銀△4七歩▲4三歩成△4八歩成▲5二と△6七歩成▲3三銀成△7七と▲同銀(2図)

〔その2 森下卓八段風〕

 実は1図の局面で4筋の位は取り返されたものの、自陣は銀冠の堅陣になったのでいい勝負だと思っていた。

 ところが読み直してみると、ここで思わしい手がなく、すでに形勢不明になっていることに気付き愕然とした。

 1図までの指し方に問題があったわけなのだが、序盤戦といえど一手一手慎重に指し進めなければいけないのに、漠然と指してしまっていた。これでは棋士として失格である。

 仕方がないので△9六歩と端にアヤを求めたが、△9七歩に対する▲同銀が全く読みになかった。▲同香の一手と思い込み、△8五桂と攻めて難しいと思っていたのだからヒドイ。▲同銀は指されてみれば当然の一手で、△6六歩と取り込めたものの、逆に自陣にも▲6四歩のタタキが残ることになってしまった。

 △1三桂と跳ねるときの30分の長考は読んでいたというより自分の大局観の悪さ、将棋に対する集中力のなさにア然とし、あきれ果てていた時間である。

(中略)

 実は対局中は▲5二とのところで先に▲3三銀成を中心に読んでいて、以下△4三銀▲4二歩△8一飛▲4三成銀△4七飛で難しいと思っていたのだが、▲5二とと指されてみるとハッキリ苦しいことに気づきボウ然。自分の読みの甘さにホトホトいやになってしまった。

 全くヒドイ将棋を指したものだ。自分自身に対して怒りがこみあげてくる。明日からは禁酒をして1日15時間将棋の研究をしなければ、と心に誓った。

〔その3 遊駒スカ太郎氏風〕

 オイラは2図の局面を眺めながら「もうダメかあ……。オイラにはやっぱり将棋は向いていないんだ。田舎で畑を耕していた方がよかったかにゃあ……」という世紀末人類絶望的悲観に陥っていた。

 何せ△4七飛成でも△3九飛でも▲6四歩がムチャクチャ厳しく、ハッキリ負けなのである。

 しかし、何かないかと読み直していると、あったのだ。

 それが△9七歩から△5八飛である。

(中略)

 本譜は△5六飛成と歩を取った手が味良く、今度こそ本当に勝ちになった。

(以下略)

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加藤一二三九段風も森下卓九段風もスカ太郎さん風も、みな特徴がよく出ていて、面白い。

加藤一二三九段の自戦記の特徴は、

  • その対戦相手と以前に戦った時の戦型に触れる
  • 「私は」が多く用いられる
  • 「私は▲3八飛と寄った。すると○○九段は△2二角と引いた。ここで私はいったん▲9六歩と様子を見た。これに対し○○九段はすぐに△9四歩と突いた」のように一手一手が丁寧に述べられる

橋本崇載八段も、 NHK将棋講座 2013年 01月号の自戦記(対 羽生善治三冠戦)で加藤一二三九段の文体模写をしている。

森下卓八段(当時)の自戦記は「自分に厳しい」ということが最大の特徴と言えるだろう。

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私が文体模写を初めて見たのは大学3年の時、和田誠さんの『倫敦巴里』という本でのことだった。(今年に入ってから、初版の『倫敦巴里』に未収録作を加えたものが発売されている)

いろいろな作家の文体模写による、川端康成の『雪国』の出だし。

パロディの一種になるのだろう。読んだことのない作家の文体模写までも笑って読めた思い出がある。

出だしの例としては、

  • 野坂昭如 「国境の長いトンネル抜ければまごう方なきそこは雪国。夜の底深くなり…」
  • 星新一  「国境の長いトンネル。そこを抜けると雪国の筈だった」
  • 井上ひさし「トンネルを抜けると雪国であった。ケンネルで寝るのは白犬であった」
  • 谷川俊太郎「トンネルでたら ゆきぐにだった ゆきのなかには うさぎがいてね」
  • 筒井康隆 「国境の長いトンネルを抜けると、そこは隣国だった。国境を超えたのだから隣国であることに間違いはない。この小さな国は四年前まで新潟県であったのだが、今では独立した新興国である」
  • 横溝正史 「金田一耕助のすすめで、私がこれから記述しようとするこの恐ろしい物語は、昭和十×年×月×日、国境の長いトンネルを汽車が通り抜けたところから始まった」

実際には1ページの半分に和田誠さんによるその作家の似顔絵イラスト、もう半分にその作家の文体模写の構成。作家によって、それぞれ途中からストーリーがそれらしく変わっていく。

『倫敦巴里』の紹介は国際基督教大学図書館のブログ、和田誠さんによる文体模写の中から数人の作家に焦点を当てて掘り下げた早稲田大学リポジトリに収録されている論文、がとても良い。

和田誠『倫敦巴里』(国際基督教大学Library Blog)

パロディーの楽しみ―「雪国」を用いた和田誠による文体模写―(水藤新子さん 早稲田大学リポジトリ)

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8年近く前になるが、私もブログの文体模写をしたことがある。

神奈川県三浦市で毎年12月に行われる「マグロ名人戦」について、船戸陽子女流二段、アカシヤ書店の星野さん、バトルロイヤル風間さんがブログで記事を書いたらどうなるだろうと作ってみたもの。

一つの記事に6~10時間かかった記憶があるので、文体模写をやり遂げるのは本当に大変だと感じた。

物真似(船戸陽子女流二段篇)

物真似(アカシヤ書店の星野さん篇)

物真似(バトルロイヤル風間さん篇)

 

 

 

先崎学八段(当時)が「1年間温め続けてきた秘策があります」と話して指した戦法

将棋世界2001年9月号、佐藤康光九段のJT将棋日本シリーズ2001(1回戦 対先崎学八段)自戦解説「変則ひねり飛車の秘策を討ち破る」より。

 私は、日本シリーズでは過去に第19回で準優勝してはいるものの、トータルで見ると通算成績は負け越しています。厳しい相手が続きますが、出来れば5割以上勝ち越したいな(笑)というのが希望です。毎年「優勝、優勝」と言ってもう3回くらいになるので、今回はあまり意識しないようにしています。

 先崎八段は、早指し戦ではNHK杯戦で優勝している実績があるので、強敵です。当日は、どんな将棋になるか想像できませんでしたが、対局前に先崎八段が「1年間温め続けてきた秘策があります」と観客の皆さんに言っていました。先手番の私の▲7六歩に、先崎八段はいきなり△9四歩。そして▲2六歩にはさらに△9五歩と端を突き越してきました。これが先崎八段の秘策なのでしょうが、後手番の上に2手駒組みが遅れる勘定になるので、ずいぶん思い切った作戦といえます。こういう指し方があるということは知っていましたが、実戦でやってこられたのは今回が初めてです。

 この戦型は、本譜に見られるように△9二飛~△9四歩以下ひねり飛車にしようという狙いです。ひねり飛車になれば、端を突き越していることと、相掛かりと違って8三の歩が突いていない分、得なのです。ただ、飛車の転回に手数が掛かるので、こちらとしては、ひねり飛車にされる前にうまく対応すべきでした。具体的には▲6八銀(1図)が甘かったです。

 後手はもう、ひねり飛車しかない形なので、▲3六歩△3四歩▲3七銀と後手の飛車を不自由にさせる指し方が有力でした。対局中は対応がよく分からず、また中終盤が勝負と思っていたので、序盤は割と穏やかに指しました。

 ▲6六歩にすかさず△3五歩と突かれ、以下ひねり飛車にされました。先手が悪くなったわけではありませんが、気分的に面白くない将棋です。私は▲3八金~▲2七金と棒金の狙いでポイントをかせぎにいきました。

 △1三角(途中図)では、△2五桂を予想していました。以下▲3六歩△同歩▲同金△2四歩。ここで▲2六歩と打つと、△3六飛▲同銀△3七金という露骨な手があり先手自信がありません。だから▲2六歩では▲3八飛と回るような展開が予想されますが、この順もあったと思います。

 1筋を破った2図は、一見私が良さそうに見えますが、続く△3五角が先崎八段狙いのさばき。一応先手が駒得になったものの、△1四飛(途中2図)と回られた局面は意外と大変です。

(中略)

 4図から▲8四銀と桂を取ったのが好判断でした。ただ対局中は、△8四同銀のときにどうやるのかよく分かっていなかったのですが、▲7四桂△9二玉のとき▲3六角と打つのが次の一手のような好手で先手勝ちです。以下△同角成は▲9四香~▲8二金で詰みなのです。また、放っておいても次に▲9四香△同角成▲8一角成△同玉▲8二金でやはり詰み。

 本譜は△8四同歩と歩の方で取りましたが、▲8三銀と打って勝ちを確信しました。先手玉はまだ詰まない形です。

(以下略)

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飛車を9二→9四→3四と動かして石田流の形にする先崎流の変則ひねり飛車。

通常のひねり飛車は、初手▲2六歩に対し後手が△8四歩と突く相掛かり模様の出だしでなければ実現することができない先手の戦法であるが、この方式なら後手番でも、なおかつ(2手目に▲9六歩とされない限り)相手がどのように出てこようがひねり飛車模様にすることができる。

端を突き越していることと、相掛かりと違って8三に歩があって囲いが固いことが、通常のひねり飛車と比較してのメリット。

しかし長所の裏返しが短所、短所の裏返しが長所。通常のひねり飛車は持ち駒に歩があって、また2筋を圧迫することもできるのだが、この方式ではそれがない。

また、升田式石田流経由の石田流本組に比べても手数がかかっているため、棒金で待ち構えているところに△3四飛と回るのが心理的に厳しいところ。

とはいえ、非常に斬新で、一度は試してみたくなる戦法でもある。

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1図の▲6八銀のところ、▲3六歩△3四歩▲3七銀だったならどのような展開になるのだろう。相居飛車になるのか、ひねり飛車貫徹か。そのような戦いも一度見てみたい。

 

 

 

 

五つ星の自戦記

将棋世界2001年5月号、藤原直哉五段(当時)の自戦記「四段昇段の一局 甘さと厳しさ」より。

 棋士になって13年。35歳。

 人生の折り返し地点を過ぎた。

 四段になってから現在までを振り返ると、順位戦は7連勝から3連敗で昇級できなかったことがある。

 王位戦予選決勝では、4度負けてリーグ入りを逃している。対アマ戦は1勝2敗。

 プロ棋士となって将棋人生を昇華しなければいけないが、五分の成績を残すのが精一杯である。

 対局もなく家でぶらぶらしている僕に、妻が「あなたの仕事はなあーに」とからかわれても、僕は冗談も言えない。

 たまにあった対局も、負ければ酔って帰ってくるしかない。

 チェッ、なんてあの男は俺の時だけ強いんだ。

 などと妻にうだうだと愚痴をこぼすが、アホくさと言って妻は相手にしてくれない。

 昭和54年、14歳6級で奨励会に入会した。

 同期には井上慶太、長沼洋がいる。東西で20人が合格したが、結局3名しか四段になれず不作の年だった。

 1年で2級になった。

 四段は近いと思ったが、それから低迷し、17歳初段だった。

 嬉しくはなかった。

 井上さんはもう四段になっていた。

 20歳で三段になった。

 その前後からか、お金が手元にあると、アルコール、または一瞬の快楽のためにお金を使うようになった。

 楽しいはずの行為も、後で空しさばかりが残り、後悔するばかりだった。

 僕の気持ちは暗く沈んでいった。

 三段になった当時の規定では13勝4敗の成績で四段になれた。

 しかし思うように勝てず、半年ぐらいたった頃、村山聖の四段昇段の一番に当たった。

 先輩の意地にかけて、何としてでも阻止したかった。

 A図で投了。二転三転した将棋も、終わってみれば大差の将棋だった。

  盤面には彼の駒ばかりで、茫然と僕は局面を見ていた。

 将棋に対する、志の高さに負けたと思った。

 三段になって1年が過ぎた頃、三段リーグが復活した。

 順位戦制度改革のため、四段昇段者を、年間4人に絞ったのだ。

 弱い者いじめじゃないか。

 勝手に制度を変えてもいいのか。

 僕は将棋連盟に対して憤りを感じた。

 第1回リーグ戦は9勝7敗だった。昇段した中川大輔や先崎学には、正直な所、かなわないなと思った。

 第2回リーグ戦は5勝10敗。

 僕は頭をかかえた。奨励会で負けた時、帰る足取りは重かった。家の明かりが見えてから、何べん家の周りを徘徊しただろう。両親に会わせる顔がなかった

 四段になれる保証がない世界で、僕はむだ飯を食っているのではないか、退会しても就職はあるのだろうか。絶望の日々だった。

 その頃、奨励会有段者が参加できる若駒戦では好調で、関西代表になった。東の森内俊之四段と優勝をかけて戦った。将来有望と聞こえていた森内さんに、自分の力がどこまで通じるのか、全力で立ち向かった。相矢倉戦から、伸び伸びと指した僕は、優勢を築き必勝へ。

 B図の局面で詰みと思い、相手の投了を待った。

 △5二合駒は▲5三桂以下、△3一玉は▲3二金の一手詰だと。なんだ、森内もたいしたことはない、と思っていると手が出てきて、3一へ玉を寄せた。

 僕は吹き出しそうになった。飛車の横利きがあるではないか。耳が熱くなっていくのが分かった。僕はこれが運命なのかと悟った。外を見た。5階の対局室から僕の体が地面に落下するのを意識した。

 第3回リーグ戦は、前半5連勝と良かったが11勝7敗。悔しい気持ちもあったが、手応えを感じた。

 第4回リーグ戦を前にして、二点注意した。勢いのある指し方をする。もう一点は、持ち時間を残すよう心がけた。終盤、非力な僕は秒読みでミスが目立った。

 早指しで決断よく指したのが良かったのだろう。僕は勝ち星を重ねた。中盤戦の山場、郷田真隆戦では相手がスキーで足を捻挫か骨折。彼本来の力が出なかった。そして残り4局となった。これが最初で最後のチャンスだと思った。

 2月14日、僕は山口県で行われたタイトル戦の記録係を終えて、広島駅に途中下車した。一度、原爆記念館を見学したかった。悲惨、地獄、そんな言葉では語り尽くせないほどの光景を目にし、僕は大きな衝撃を受けた。打ちのめされた気持ちのまま、広島駅へと向かうバスを待っていた。そこへ突然、大粒の雨が降ってきた。屋根のなかったバス停は、僕を容赦なく濡らした。

 2月27日の大一番、杉本昌隆戦を前にして僕は風邪で寝込んでしまった。

 本格正統派四間飛車と言われている杉本君に、過去3回のリーグ戦では歯が立たなかった。

 杉本君は序盤から細心の注意を払い、中盤過ぎから1分将棋になるも崩れることがなかった。杉本対策を考えなければいけなかったが、体調を元に戻すため、ひらすら眠った。

 対局日朝、目覚めは良かった。体は軽かった。駅へ向かう時、自然と小走りになっているのに気がついた。今日2連勝して、昇段できる予感がした。盤の前に座って考えた作戦は左美濃だった。

 1図、普通に指すなら▲9八玉からの米長玉、または▲7七角から▲5九角の転換が考えられる。僕は踏み込んだ。

 ▲2四歩~▲6五歩、良くいえば大胆な指し方だが、まあ無茶苦茶である。数手後、勢いに押されたのか杉本君が誤る。

(中略)

 2図、先手玉は詰めろだが▲8三香から▲8二桂成が決め手。受けなしとなった。大一番を制して、残り3局のうち、1勝で昇段できることになった。次で決めようと思った。

 午後からの2局目は村田登亀雄三段。僕は気楽に指した。66手、△3二金。午後2時57分。早い終局だった。

 感想戦を終えると電話口へと急いだ。

「上がったよ」とお袋さんに言うと、今日昇段するとは思っていなかったらしく、「えっ」と言って沈黙が長く続いた。そして「ありがとう」と言われた。

 夜、井上さんと本間博さんが付き合ってくれた。その時に食べたすき焼きの味は今でも忘れはしない。次はどこへ行きたい、の声に待ってましたとばかり「キャバクラ」と答えていた。

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藤原直哉七段が書いた文章は、その数は少ないけれども、まず間違いなく面白い。

この自戦記も、私の中では五つ星クラス。

以前紹介したエッセイでも個性が絶妙に発揮されている。

藤原直哉五段(当時)「奥さん、一緒にラーメンの汁をすすりませんか」

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どのような時にも、大阪での夜の飲む場には顔を出すことが多い本間博四段(当時)。

本間博五段(当時)の怒涛の二日間

先崎学五段(当時)「さっき郷田に電話したんだけど、今から出てこいって言っても出てこねえんだよ。ヒドイ奴だ!」

この時も、すき焼き→キャバクラ→朝まで居酒屋のようなコースだったことが想像されるが、同門ではないにもかかわらず、本間四段が参加してくれている様子が嬉しい。

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1989年2月のこの当時、キャバクラはまだ珍しかった。

後に日本最大級のキャバクラ激戦地として有名になる東京・中野にもまだ一軒もキャバクラがなかった時期だ。

そういう意味でも、藤原三段(当時)のキャバクラに対する期待は非常に大きかったものと思われる。

 

 

初代・対局中外出禁止令

将棋世界1984年3月号、米長邦雄三冠(当時)の王位戦予選(対武者野勝巳四段)自戦記「トン死で勝つ」より。

 本局は王位戦の予選で、勝った方がリーグ戦入りをかけて武市四段と戦うという一番である。相手の武者野四段は花村門下の30歳。

 彼は去年の春、総務担当理事に推され、千日手のルール改正など八面六臂の活躍をしている。四段で理事というのは前例が無く、それだけ彼の人望が厚いという事だろう。

 人柄も良く、何より積極的なのがいい。

 私も出来るだけ応援してやりたいと思っておった。

(中略)

 この将棋は年の瀬も押し詰まった12月30日に行われた。当然去年の最終局。誰でも気持ち良く新年を迎えたい所だろう。

 当日は王将リーグの最終日で、挑戦者の行くえを見る意味からも望んでこの日に対局をつけてもらったのだが、森、青野の両八段が同率となり、1月10日のプレーオフまでおあずけという事になった。

 ちなみにプレーオフの結果は森八段が勝って、挑戦者の名乗りをあげた。

 ミネラルウォーターのお仁とは初めてのタイトル戦。面白い将棋が期待できそうだ。

 各棋戦とも予選は振り駒で、その結果武者野君の先手。局面は相矢倉の進行。どうやら最近流行りの飛先不突矢倉の作戦らしい。

(中略)

 ▲7九玉、△7二玉とお互いに玉を寄り合った所で一日塾生が昼食の注文に来た。

 最近、対局者は対局中に将棋会館から外に出てはいけないという規定ができた。そこで食事も出前を取るか、もしくは会館のレストランの物を食べなくてはならない。

 私は常々この様な細かい規則で棋士という物を縛るのは極めて宜しくないと考えている。

 それで対局中でも相手の了解を得て外に食べに行く事もある。この日もそうしようと思い、武者野君に「今日は陽気もいいし、外に食べに行ってもいいか」と聞いたところ「規則でいけないことになっております」という答えが返ってきた。これには温厚な私も少しばかりカチンときた。この事について断られたのは初めてであり、またその初めての相手が自分よりはるか後輩の男とあってはなおさらである。しかしながら相手がダメだと言っている以上、公式戦の対局中に先輩だからといって怒るわけにもいかず、腹は立ったが注文することにした。

 対局中に外に出てはならないと言うならば、対局中は理事の理事室への出入りもいけないという規則も作って、さらに徹底してもらいたいものだ。

 全く、くだらん理事どもめが。

 局面に戻る。

 △7二玉に37分考えて▲4五銀とやって来た。ここはこう指すと所だろう。なぜかというと、先手の方はこれ以上待っていてもそれ程有効な手が無いのに比べ、後手の方はこの後△5一飛~△6二金~△7三桂とやりたい手がいっぱいある。ということは先手は待てば待つ程、条件が悪くなると思われるからだ。

 怒りのおさまらない私はノータイムでこの銀を取り、わざと△8八角不成と叩き付ける様に取ってやった。

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(中略)

 ▲8八同玉は当然の一手。玉のコビンがあいていて気味が悪いが▲同金と取る形は、かべ金と言って悪形の見本。将来必ず弊害が出る。△4四歩もこう指す所で、4五桂に威張られていては後手の優勢はあり得ない。

 ここで昼食休憩になった。仕方なく会館の中で食事を取ったのだが、この時考えた事は、このままの精神状態ではマズイのではないかという事だ。この日の様に感情を著しく乱している時は、えてして指し手に勢いがつきすぎて勝敗がおもわしくないものだ。そこで、この後は出来るだけ慎重に指すことを心掛けようと思った。

(中略)

 6図までお互いに大した長考もなく(武者野君の37分が最長)比較的早いペースで進んでいる。まだ3時前だ。

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 もうすぐ終わるのかと思っていたのだが、武者野君は仲々手を下さない。どうやっても負けの局面で何を考えているのかと思い、相手に「早く指したらどうか」と催促した所、「いえ折角教えて頂くのだから、ゆっくり考えさせてもらいます」という返事だった。

 そこで私も改めて局面を見てみると、成程これは難しいという事がわかった。しばらくして、自分の負けに気付いた。

 やっぱりヤラレタかと観念して、長考中は他の対局を見たりしてブラブラしていた。

 結局99分考えて▲6二成桂とやって来た。この▲6二成桂が敗着。

(中略)

 武者野君はこれで自玉に詰みが無く、勝ちだと思っていたようだが……。

 私は7図で11分考えて即詰みを確認した後、相手に「悪いけど詰ますが、いいか」と聞くと、今度は「どうぞ」と了解を得る事ができた。それならというわけで△7九銀と王手を掛けた。バラバラにして△6九金~△5七桂。これでどこに逃げても詰んでいる。

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(中略)

 △6九金で投了となって、普通はこのあと感想戦に移る。しかし、この日の私はそういう気分ではなかったので、すぐに席を立とうとした。

 ところがその瞬間に、ちょうどそこに居合わせた大山会長より「あそこ(6図)じゃ武者野君に勝ちがあったんじゃないの」という発言が出た。すると遠くから「そうそう」と言って中原十段も近よって来た。見る見るうちに、大山、中原、加藤(一)、二上というそうそうたる顔ぶれがそろって、ついに私は席を立てなくなった。

 行きがかり上、「いやあそこではこちらの勝ちです」と言い張ったのだが、諸先生方の意見は6図では▲5八金と上がる手が最善で武者野君の勝ち。中原十段は「▲4八金もあり、どちらが良いかにわかにはわからない」というものだった。

 中原十段には一応「人の将棋よりも自分の将棋を一生懸命やったらどうか」と、切り返しておいた。

 確かに▲5八金が絶妙手で、私も相手の長考中に、そう指されたら負けになる事を読み切っていた。なぜ▲5八金が絶妙手かというと、△同馬と取った形は、先手の玉に絶対詰みがないからだ。

(中略)

 すなわち、こう指されれば私の負けだったわけである。

 何やら、モヤッモヤッとした一日であった。

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1982年のある日の昼食時の千駄ヶ谷の寿司店。

若手棋士二人が譜号を言いながら会話をしていた。

たまたま少し離れた席で寿司を食べていたのが、ある愛棋家。

その人が大山康晴日本将棋連盟会長(当時)と会った際に、一般論として、「将棋会館の外での食事だと、対局中の棋士に別の棋士が指し手の助言をすることができるのではないか」と懸念を示した。

大山会長は、そのようなことは考えられないとしながらも、外部からそのような疑いを受けてはいけない、と考え、李下に冠を正さず、理事会で、「対局中に外出することを禁止しましょう」と提案をする。

当時の大山会長の権勢は凄く、(それはちょっとやり過ぎでは……)と感じた理事もいたかもしれないが、とても反対できるような雰囲気ではなく、対局中外出禁止令がすぐに決まった。1982年度のことだった。

ドラマ『ドクターX』の「御意!」「御意!」「御意!」のシーンが頭の中に浮かんでくる。

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米長邦雄王将・棋聖・棋王(当時)は、「それで対局中でも相手の了解を得て外に食べに行く事もある。この日もそうしようと思い、」と書いているが、これは最高速度が時速100kmの高速道路で同乗者に「これから時速120km出してもいいよね」と聞いて了解を得てスピードオーバーするようなもの。

対局相手が同意してくれたとしても、残念ながら、明らかな規定違反となってしまう。

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更に、米長三冠は聞く相手を間違っていたとしか思えない。

武者野勝巳四段(当時)は総務担当理事で、まさに対局中外出禁止令を主管しているような立場。

仮に武者野四段が個人的には「対局中外出禁止令なんて不自由で嫌だなあ」と思っていたとしても、立場上「規則でいけないことになっております」と答えざるを得ない。

「このままだと友人の結婚式に間に合いそうにないので、これから少しだけスピード違反しますけど、いいですよね?」とわざわざ警官関係の人に聞いたら「絶対にダメです」と言われるのと同じ世界。

また、百歩譲って米長三冠にOKを出したとしても、絶対にそのようなことを言うタイプではないものの中原誠十段や谷川浩司名人(当時)から同じように「外に食べに行ってもいいですか」と聞かれた時に断れなくなり、これでは規定の根幹が揺らいでしまう。

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松本博文さんはこのことについて、

米長は、自分がどう扱われるかについて敏感だった。誰よりもプライドが高く、そのプライドを傷つけられたと感じれば、すぐに頭に血が上った。

と書いている。

三浦弘行九段、ソフト指し不正疑惑はなぜ生じたのか(cakes)

たしかに、そのような規定がある上で、理事がどのような対応を自分にとってくれるか試すような含みもあったのかもしれない。

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武者野勝巳四段(当時)が理事になったのは1983年6月からのこと。

そういう意味では前理事会で決まったことを米長三冠にこのように書かれたわけで災難だったに違いない。

現代流には、米長三冠の武者野四段に対する公開パワーハラスメントとも言えるだろう。

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武者野勝巳七段は理事時代に、千日手規約の改正、研修会の設立、棋譜用紙の改訂(1枚80手だったものをレイアウトを変えて150手に)などを行っているが、この対局の頃(1983年12月30日)は、研修会(1983年12月4日~)が立ち上がったばかりの時。

研修会を作った棋士

丸山忠久九段の研修会時代

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この将棋世界の自戦記を読んだ大山会長は、自分が導入した制度が原因で武者野理事が攻撃され、あまりにも気の毒と思ったのだろう。大山会長は米長三冠に電話をした。

そこで、米長三冠からあらためて対局中外出禁止令について「細かい規則で棋士という物を縛るのは極めて宜しくない」と意見が出され、さすがの大山会長も折れて、すぐに対局中外出禁止令はなくなった。

これが1984年の2月頃のこと。

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米長三冠の自戦記、「全く、くだらん理事どもめが」など、通常では見られない過激な言葉が出てくるが、当時、米長三冠と非常に近かった棋士の話によると、この対局の日、米長三冠は昼食休憩時間に親しい女性と千駄ヶ谷で1時間のデートをする約束だったという。

12月30日なので、その年の最後の挨拶ということになるのだろうか。

もしそうならば、それはそれで非常に人間的で、この自戦記を最初から最後まで微笑ましく読めるというものだ。