「自戦記」カテゴリーアーカイブ

中村太地四段(当時)「頭の疲れを将棋で癒やすのも棋士の性であろう」

近代将棋2007年10月号、「旬の棋士をピックアップ 若手棋士リレー大特集 中村太地四段」より。

 今回の若手特集は私、中村太地が務めさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。

 十代最後の年となる今年は私生活の面でも早稲田大学に入学するなど様々な変化があった。学業との両立は簡単なことではないと思うが、これが奨励会時代からの自分で選んだ道なので最後まで貫き通したい。

 大学では政治経済学部の政治学科に所属していて、今は主に政治哲学を学んでおり、毎日哲学者の思想の英語文献とにらめっこするとても充実した(笑)日々を送っている。

 これからの大学生活では幅広い知識を身に付け、また常に向上心を持ち続けて人間的に成長していきたいと思う。

 それでは、7月に対局した順位戦、対佐藤紳哉五段戦を今回解説させていただきます。

 佐藤五段と対戦するのは今回が二局目、一局目はNHK杯の予選で、そのときは完敗だった。本局は順位戦の初戦を落としていたこともあり、絶対に勝たなくてはならない対局だと感じて臨んだ。

 局面は1図。前回の対戦では私は向飛車で挑んだが、本局は矢倉で挑んだ。

 私は振り飛車党であるが、最近では多くの戦型を指しこなせるようになりたいという思いから居飛車の将棋を積極的に指している。とはいえ、まだ全然指しこなせておらず勉強中で、経験不足であることは否めず公式戦でも痛い目に多くあっている。ちなみにこの1図までは、順位戦は対局前に先後が決まっていて作戦が立てやすいために予定どおりの進行であった。

(中略)

 投了図は先手玉に詰めろが続かないため先手の勝ちとなっている。

 全体的に形勢の悪い局面が長く、苦しい将棋だったが幸い勝つことができた。感想戦が終わった後は心地よい疲れの中で他の対局の検討をしながら始発電車を待ち帰途についた。頭の疲れを将棋で癒やすのも棋士の性であろう。

 私は今年、棋士になって2年目に入ったのだが、振り返って見ると地方の将棋ファンの方々との交流や自分とは違う世界にいる方々との出会い、またお世話になった方々との再会など様々な人との出会いや再会があった。

 それらを通じて、自分が多くの人に応援していただいていることや支えていただいていることを改めて感じた。そしてそれは今後自分が生きていく上でかけがいのない財産となることだろうと思い、大きな励みとなっている。これからも感謝の気持ちを忘れずに自分らしく成長していきたい。

 次回は私が昔から通っていた八王子将棋クラブの先輩、伊藤真吾四段にバトンタッチします。

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中村太地六段が19歳の時の自戦記。

近代将棋、10年前の今頃に出された号。

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私は2013年、NHK杯戦 中村太地六段-松尾歩七段(当時)戦の観戦記を書かせていただいた。

解説は木村一基八段(当時)。

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対局前の控え室、話題の中心は木村一基八段だった。

木村「中村くんはこの夏はどこかに行った?」

中村「はい、仕事で北京に3泊行ってました」

木村「本場の中国料理はやっぱり美味しかった?」

中村「うーん、、、日本の中国料理のほうが美味しく感じますね」

対局は中村太地六段が勝った。松尾歩七段に悪手らしい悪手はなく、敗因のわからない熱戦だった。

対局後、木村一基八段の誘いで、両対局者ともNHKの近所の蕎麦屋で昼食。蕎麦が出てくるまでビール。

木村八段と松尾七段は研究会も同じで元からの飲み友達。

松尾七段が「森さんも酒は結構飲まれるんですか」と聞いてくる。

「はい、かなり」と答えると、松尾七段は100年来の知己に出会った時のような嬉しそうな顔になりながらビールを注いでくれた。

木村「中村くん、君は少食だと聞いてるけど、そうなの?」

中村「いえ、僕は定食屋でいつも大盛で頼んでいるんですよ。結構大食いなんです」

何気ない会話を聞きながら、中村六段は、会社でいえば、顧客に信頼され、先輩に可愛がられ、後輩に尊敬されるような魅力を持った若手社員、という雰囲気だなと感じた。

テレビで見ると、完全無欠で隙がないように見えるが、良い意味で血液型B型的とでも言うのだろうか、やっぱり血液型B型からは逃れられないと言ったほうが良いのか、隙もあってユルさもあって非常に人間味溢れる人柄。

ちなみに松尾歩八段もB型だ。

松尾七段の、上着を脱いでネクタイをはずして、ビールを美味しそうに飲んでいる姿も忘れられない。

 

 

 

増田裕司四段(当時)「誰かがテレパシーを送ってくれたように…。そういえば8月8日は兄弟子の村山九段の命日だった」

将棋世界2001年12月号、増田裕司四段(当時)の第32回新人王戦準決勝〔対久保利明七段〕自戦記「14年の月日」より。

久保「もう苦しいです。食べられません」

増田「ギョーザ1人前しか食べてないやん」

 当時小学6年生で、5歳年下の久保さんと食事に行った時は、小柄でかわいい少年だった。

 あれから14年が経ち、盤の前には名人経験者をなで斬りにして王座挑戦を決めた久保七段が座っている。どこまで自分の力が通用するのか?不安もあったが対局できる楽しみの方が強かった。

(中略)

 久保さんとは、研修会からずっと一緒に修行をしてきた。研修会は私が一期生で、久保さんは少し遅れて入会してきた。奨励会入会は、私が昭和60年6月で、久保さんは昭和61年10月入会。三段の昇段の一番は久保二段(当時)が相手で、その将棋に勝って三段になった。しかし、三段リーグで途中参加できなかったので半年近く待っている間に、久保さんも三段になって結局、三段リーグは同時スタートとなる。

(中略)

 初参加の三段リーグは32名の中から2名が四段になれるリーグ戦。ちなみに私が三段になった日に、東京でも行方尚史さんと松本佳介さんが三段になったので、3人とも同じ順位だった(大きなお世話だと思うが3人とも負け越した)。

 その中で、久保三段がなんと初参加で、あと1勝すれば四段という所まで行った。

(中略)

 久保三段は昇段の一番を負けたが、次の三段リーグでは見事四段に昇段。私はこの後、9期(4年半)三段リーグを戦うことになる。

(中略)

 私が三段リーグを9期戦っている間に久保さんは、順位戦昇級、勝率第一位賞と勝ちまくり、東京に移籍する等、遠い存在になってしまった。

 △6五同飛には意表を突かれた。私は、△6五同銀を予想していた。△6五同飛の狙いは▲6六歩なら手順に△6一飛と引いての一手得である。本当に軽快な将棋だと思った。弱気に▲6六歩も考えたが、大阪に帰ってから畠山鎮六段に「そんな手は将棋の手じゃない!!」と言われそうなので、怖いが踏み込んでいった。

(中略)

 棋士という職業のいい点は、サラリーマンと違って上司とかの人間関係等、全く関係なく、すべて自分の力だけで出世が決まる所だと思う。悪い面は、成績が公表されるので負けが多くなった時は、ごまかしがきかない所で、人間全体が劣っているかのように思われることも多い。

 いいか悪いかは微妙だが、60歳になっても18歳の新四段と同じ土俵で戦わなくてはならない時もある。普通の会社では、社長と新入社員が対等で戦うとか、社長が新米に頭を下げることはまずない。

(中略)

 本局の数日後、クーラーを入れっぱなしで寝てしまったために、熱を出して4、5日間寝込んでしまった。完治するのに2週間かかった。自己管理も実力のうちだと思う。最近は週に一局のペースで対局がある。次の対局が気になって、心から休める日は1日もない。対局が終わって寝るまでの間だけは解放される気分だ。

 三段リーグを戦っている時は、例会の2週間前に友人と遊んでいても将棋が気になって、先に抜け出して帰ったりもした。2週間後の例会では負け…。

(中略)

7図以下の指し手
▲6四香△6三香▲同香成△同銀▲6五香△7二銀▲5五角△5四金▲4六角△6五金▲同歩△4三香▲1三角成△4七香成▲6四歩△1七竜▲3一馬△4一歩(8図)

 正月に師匠(森六段)の家で新年会があり、弟子一人一人が今年の目標を言っていくのが恒例になっている。私の目標は、同じ門下で3人目の新人王(棋界初)を目指しますと言った。師匠と弟弟子の山崎君が新人王になったので冗談半分に言ったのだが…。

 ▲6四香に△4一香とすると、手筋の▲5二歩がある。▲5五角のところで▲6三銀と指そうとした瞬間、△同銀▲同香成△6七銀の筋が見えた。誰かがテレパシーを送ってくれたように…。そういえば8月8日は兄弟子の村山九段の命日だった。

 ▲5五角は次に▲6二銀△同歩▲7一竜の筋を狙っている。

(中略)

8図以下の指し手
▲8八銀打△1四歩▲4二馬△同歩▲3三角成△3七竜▲6三金△4六角▲7二金△同金▲6三銀△7一金▲7二金△9五歩▲7一金△同銀▲6一竜△9六香▲7一竜△9八香成▲同玉△6四角▲8二銀(投了図)
まで、127手で増田の勝ち

 ▲8八銀打として勝利を確信した。この手で▲3三角成も、△1一竜なら▲同馬でうまそうな手に見える。しかし▲3三角成には△同金とされ、▲1七竜に△4四角が王手竜取りになる。▲8八銀打は王手竜取りを消した手だ。

 以後は、両者ほとんどノータイムで終局となった。

(中略)

 本局は運良く勝ったが、本当に勝ったとは思っていない。久保七段は5図から2手後の▲5二竜を軽視していたようで、その後は力を出せる局面がなかった気がする。次に対戦した時に勝てれば、本当の勝利だと思っている。

 久保七段はB級1組で、棋王戦、王座戦と挑戦者になり、猛スピードで走り続けている。彼の後ろ姿が見えない。

 自分なりに走り続けて、いろんな景色を見てみたい。棋士になったのだから…。

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村山聖九段は、19年前の今日、亡くなっている。

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悪手は指した瞬間に気がつく場合が多いので、指そうとした瞬間に気がついたということは、たしかに、非常に珍しいケースと思われる。

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「対局が終わって寝るまでの間だけは解放される気分だ」。

多くの棋士がこのように感じているのかもしれない。

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解放感は、味わおうと思ってもなかなか味わえるものではない。

曜日で言うと、土日休みの場合であれば、一番解放感があるのが金曜日の夜。

遠足の前夜が一番楽しい理論。

土曜日は、やや解放感が減少し、日曜日は午後になると一気に解放感がなくなる。

多くの方がそうかもしれないが、『笑点』のテーマ曲を聞くと、かなり憂鬱な気分になってしまう。

個人的には午後6時を過ぎると諦めがつくのか、『サザエさん』のテーマ曲はあまり気にならない。

月曜日にどのような楽しいことが待っていても、日曜日に解放感がない、というのが私の日曜日だ。

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増田裕司六段と村山聖九段→増田裕司四段(当時)「この日は師匠から、村山さんが心配なので終わるまで待機している様に言われていた」

 

 

神谷広志七段(当時)「そんなの俺の知ったことではない」

将棋世界2003年2月号、旬の棋士の熱闘自戦記【第19回】神谷広志七段(当時)の「6度目の正直」より。

 最初にお断りしておくが、今月あるいは今年から当欄の表題が「とうの立った棋士の自戦記」と変わった事実はない。

 また旬という字の意味が180度変わったということも当然ながらない。まあ編集部が何人かの棋士に声をかけて全て断られたということはあるかもしれないが、そんなの俺の知ったことではない。

(中略)

 勝った方が棋聖リーグに入れるというこの一局。森下八段とは過去5戦して5敗。しかも優勢になったことさえ?というくらい一方的にカモにされている。

 大事な将棋を前にこの対戦成績では気が滅入ってしまうのでは?と思われる読者もいるかもしれないがこれは全く逆。

 俺の経験ではこちらが対戦成績でかなりリードしている相手の方が「今度も負けられない」とガチガチになってしまうことが多い。本局の場合も「負けて元元」とは少し違うと思うけれど、かなり気楽な精神状態で盤の前に座ることができた。

 お気楽ついでというか気楽+気まぐれという感じで、ほとんど指したことのない3手目▲7八金を選択。対して△3四歩からのウソ矢倉模様はやや意外だった。

(中略)

 10年くらい前だったと記憶しているがある日突然、自分は序盤のセンスがないのでは?と気づいた。

 それまではまあ人並みには序盤の研究をして、自分なりに工夫はしていたつもりだったのだが、その自分なりの工夫というのがかなりの確率で裏目に出るのだ。

 また、序盤の研究というのが「楽に勝つための研究」になっていることが非常に多いということも気づいた。

 いろいろ考えた末、序盤巧者を目指すのはやめ、日頃将棋盤に向かうのも詰将棋を解いたりすることが多くなった。

 これの是非はいまだにわからないが、年をとってくるとそういうタイプが増えるのではないかという気はする。

(以下略)

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嬉しくなるほど神谷広志八段らしい文章。

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神谷広志八段の『禁断のオッサン流振り飛車破り』(マイナビ出版)が、今回の将棋ペンクラブ大賞技術部門大賞となった。

マイナビ出版の新刊案内にもある通り、この著作も神谷八段らしい文章が随所に出てくる。

私は自分のことをオッサンとは思っていないが、読んでいてとても楽しくなれる本だ。

ただし、願わくは、振り飛車党である私と対戦する人が、この本を読んでいないことを祈るのみ。

新刊案内「禁断のオッサン流振り飛車破り」 ~いにしえの戦法、鳥刺しを学ぶ~(マイナビ出版将棋情報局書籍編集部ブログ)

 

 

大山康晴十五世名人「困った相手が出てきたもんだ」

将棋世界1971年1月号、大山康晴名人の十段戦〔中原誠八段-大山康晴十段〕第3局自戦記「三転、四転、トン死負け」より。

 2連敗した。しかも、錯覚したり、攻めの常識を見損じるやらで、さんざんのていたらくである。振り飛車を指しながら、二番も続けて100手以内で負けたことは、経験がない。

 気持ちを引き締めて盤に向かってはいるのだが、中原さんの顔を見ると、なぜか闘志の火が燃えさからなくなってしまう。

 困った相手がでてきたもんだ、と思っている。しかし、3連敗しては、タイトル保持も難しくなる。3戦目は、土壇場に立つ思いで、立ち向かうことにした。

 ところが、なんとも指し手がギコチなく、勝ちが見えながら、キメることができず、もたつきを繰り返しているうちに、トン死負け、というはずかしい結果になってしまった。

 3連敗しては、もう後がない。徳俵の一角に、剣ガ峰ででこらえる自分の姿を客観的にながめるほどの余裕を持って、4戦目を戦う覚悟でいる。

(中略)

 大事な一番なので、振り飛車の中でもっとも好きな四間飛車を指す気になった。これも一つのとらわれといえるものだが、人情でしかたがない。また負けても納得のいくことなのでもある。

 先に7二銀としたのは、中原さんは位で押し込んでくるのが得意なので、玉頭に金銀を盛り上げる作戦に備える意味であった。

 この用心深さが長続きすればいいのだが、このごろは、肝心なところで、その気持を忘れ気味になる。

 ”年かな”とも思う。

(以下略)

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大山康晴十五世名人47歳、中原誠十六世名人22歳の時のこと。

たしかに、25歳の年齢差は親子でも不思議がないわけで、闘志がなかなか湧かないのも無理はない。

更には、相手に闘志を燃やさせない中原十六世名人のキャラクター的な要素も追い打ちをかけている。

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現代に当てはめてみると、羽生善治三冠は今年の9月に47歳になるが、その頃に22歳なのは阿部光瑠六段、青嶋未来五段、佐々木大地四段、梶浦宏孝四段。

ただし、羽生三冠は闘志をエネルギーにするタイプではないので、大山十五世名人ほど年齢差による心理的な影響は無いものと思われる。

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大山十五世名人が「”年かな”とも思う」と書いているが、これは、棋士全員に油断をさせようという、自戦記を通した盤外戦術である可能性が高い。

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藤井聡太四段はあと9日で15歳となる。

といっても、まだ15歳。

藤井聡太四段も相手に闘志を燃やさせないタイプ。

本当に凄い棋士が現れたものだと、あらためて強く感じる。

 

 

佐藤康光二冠(当時)「中村選手と似てるんですよ、私が」

将棋世界2003年2月号、佐藤康光棋聖・王将の自戦記「堅さが生きる」より。

 11月に対局が少なかったということもあるのだが、トルコとイタリアに行ってきました。

 トルコには現地に駐在している同級生が居り、いる内に一度、ということで今回実現した。

 ヨーロッパとアジアのかけ橋と言われる本国、顔を見ているとやっぱりアジア、という感じがするのだが、大多数のトルコ人はヨーロッパ人と思っているという。何となく突っ張った感じで面白い。

 イスタンブールはさすがに歴史を感じさせる街で素晴らしい。

 またカッパドキアの有名な奇岩。一体どうすればこういう形になるのか。自然の風化によるものだそうだが不思議だ。そういうもの程美しいはずなので、我々の目の方がおかしいのかもしれない。

(中略)

 イタリアへは観光もあったのだが主な目的はW杯以降興味をもったサッカー観戦。どれにするか行く前に迷ったが中村俊輔選手を見に、南部のレッジョ・ディ・カラブリアへ。海もきれいで過ごしやすい街かと思っていたのだが最近火山が噴火したり、結構大変そうだ。

 アタランタとの一戦だったがさすがにサポーターの熱気がすごい。活気があっていい空気を吸うことができた。ブーイングもすごいが隣の人に仲間と分かると抱きつかれ参った。結構怖い人が多いから気を付けて、と言われたのだが全然。親切な人ばかりであった(笑)。運がいいのか、はたまたナカムゥラー(こちら的に表現)の影響か。これは分からない。

 しかし最近になって何でこれが見たかったのか理由が分かった。

 中村選手と似てるんですよ、私が(顔じゃないですよ)。置かれている立場、環境、プレースタイル、とかね(どこが?と言われそう)。僕の方が年長だからいい手本にならないとね!(張り合ってどうする!)

 ともあれ楽しい旅であった。

 しかし10回も飛行機に乗ったのはやや度が過ぎた。あまり値段が変わらなかったのでついつい。さすがに疲れる。皆さんも気を付けましょう(誰もいないよ!)。

 今月は南九段との朝日オープンの一戦を振り返ってみたい。

(以下略)

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あの佐藤康光九段が書いたとはすぐには信じられないような、はじけ飛んだ文章。

読んでいて嬉しくなってしまう。

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カッパドキアと聞いてとても懐かしい感じがした。きっと高校時代の世界史の授業で習って以来、何十年ぶりかに目にする地名なのだと思う。

世界史の授業で頭に残った言葉といえば、「アウストラロピテクス」「テニスコートの誓い」「カノッサの屈辱」「ヌルハチ」ぐらいという情けない状況。

「カッパドキア」は、その次にランクされる言葉になるので、頭には残っていなかったけれども聞けば思い出す、という位置付けだ。

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中村俊輔選手の2002年の頃について、Wikipediaには次のように書かれている。

2002年5月、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAのレッジーナに移籍、レギュラーを確保しプレイスキックを任され、7得点をあげてセリエA残留に貢献した。

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私はサッカーについてあまり詳しくないので、佐藤康光二冠(当時)と中村俊輔選手の置かれていた立場、環境、プレースタイル面での共通点は説明ができない。

きっと奥深いものがあると思うのだが。