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谷川浩司名人(当時)「どうも性格で、このような派手な手を発見すると、どうしても盤上に表したくなるのである」

将棋世界1989年7月号、谷川浩司名人(当時)の「名人と読みの大局観」より。

将棋世界1989年6月号、第47期名人戦第1局の時の写真。撮影は中野英伴さん。

 正直言って、最初はあまり気合いが乗らない対局だった。

 王将リーグを3勝3敗で終了した後の残留決定戦。4名のうち3名まで残留できるし、たとえ2連敗で陥落したとしても、次期の二次予選で2連勝すれば、またリーグに復帰できるのである。

 休日で対局も少なく、和やかな雰囲気で対局開始。

 ただ、だからといって、新しい戦型を試してみよう、という気にもなれないものである。

 先番、中村修七段の飛先不突矢倉、早囲い模様に対し、こちらが急戦を匂わせる。

(中略)

 ▲4八銀からの変化は非常に難しいのだが、本譜に戻ろう。4図からは攻めが続いているようである。

 以下、▲5八飛△6六角成(!)▲同金△8六飛▲8八角△5七歩で5図。

 角損の攻めだが、どうも性格で、このような派手な手を発見すると、どうしても盤上に表したくなるのである。そのために、▲4八銀の一手を軽視した、とも言える。

 △8六飛の十字飛車に、▲6五金△8九飛成▲7九金△9九竜と敵陣で暴れられてはひどいので、▲8八角は当然。

 対して△5七歩、と好調な攻めが続く。

 わざわざ叩かれる5八へ飛車を逃げるのも癪なのだが、かといって、4図で、▲1八飛は△5七桂成、▲3八飛は△5七角成があるのである。

(中略)

 5図からは、▲2八飛△8七歩▲7七角△同桂不成▲同銀△5八角▲6八玉△8四飛で6図。5図で▲5七同銀だと△同桂成▲同飛の時、手筋教室のような△7七歩で綺麗に決まる。

(中略)

 ただし、この△9四角成、前々からの読み筋だったわけではなく、直前になっての発見である。3図と7図の2ヵ所。結果オーライという感じで、読みの内容には不満があった。

 感想戦の後は必然的に、ちょっと一杯、ということになる。

 残留決定戦ではあっても、やはり勝てば嬉しい。名人としては、最低限リーグに残っていたい、とも思う。

「最近、あんまり調子良くないんですよね」

 と中村七段。実はお互いに何としても勝ちたい一番だったのである。

* * * * *

「休日で対局も少なく、和やかな雰囲気で対局開始」

この王将戦リーグの残留決定戦は、七番勝負が終わってからかなり経った5月5日に行われている。

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「たとえ2連敗で陥落したとしても、次期の二次予選で2連勝すれば、またリーグに復帰できるのである」

この自然に湧き出る自信が、”勢い”と言えるだろう。

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「残留決定戦ではあっても、やはり勝てば嬉しい。名人としては、最低限リーグに残っていたい、とも思う」

棋士にとって勝利は何にもまさるエネルギー源。

気合いが乗らないという思いを持っていた対局前とは、考え方が結構変化している。

* * * * *

「ただ、だからといって、新しい戦型を試してみよう、という気にもなれないものである」

新しい戦型を試したくなるタイミングは、棋士によってそれぞれ異なる。

升田幸三実力制第四代名人は、B級1組の七段に新しい戦型を最初にぶつけることが多かった。

「升田新手の被害者第一号にはB級1組の七段あたりがよく選ばれていた」

* * * * *

「どうも性格で、このような派手な手を発見すると、どうしても盤上に表したくなるのである」

△6六角成など、普通ではとても思いつかない。

光速の寄せとともに、このような「性格」が、華麗な谷川将棋の源泉となっているのだと思う。

 

森内俊之四段(当時)の非常に謙虚な自戦記

将棋世界1989年4月号、森内俊之四段(当時)の第7回全日本プロトーナメント決勝〔対 谷川浩司名人〕第1局自戦記「勉強になった一局」より。

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は中野英伴さん。

 昨年の暮れから今年のかけてどん底状態、順位戦も昇級の望みがなくなり、新聞棋戦でも負け続け。しかしそんな状態の中、このトーナメントだけは幸運が続き、ここまで勝ち残る事ができた。

 こういった舞台にでるにはまだ早いと思ったが、回はいろいろと勉強の意味で、とても嬉しく思っている。

 特に相手が谷川名人なので、将棋はもちろん、対局態度や、和服の事などいろいろ学べるし、勝負にこだわらずに指せるので良かったと思っている。

(中略)

対局前夜

 前日の5時半頃、連盟から対局場である羽沢ガーデンに入った。やはりこういった場所で指すのは初めてという事もあり、けっこう緊張していた。

 特に前夜祭では、新聞社の偉い方が見えていて、何か場違いな所にいるような気がしていた。

 私のような子供に対し、こんなにいろいろとしてもらって、明日はいい将棋を指さなくては申し訳がたたないと強く感じた。

 午後9時頃に前夜祭も終わり、12時に床についたが、対局前の緊張か、前日に寝すぎのためか、なかなか寝つかれなかった。

 谷川名人がホテルに戻ったのに、家が近い私だけここに泊めてもらって悪かったかなあという気もしていた。

 いろいろな事を考えていると、いつのまにか眠っていた。最後に時計を見たのが2時だったから、それからすぐに寝てしまったのだろう。

(中略)

対局前

 対局当日は7時半に目覚まし時計の音で目が覚めた。外を見ると、どんより曇った空で少し雨が降っていた。谷川名人に大敗する夢は見るし、天気も悪いし、初めから縁起が悪いと思ったが、人に見られて恥ずかしくないような接戦の将棋を指せれば満足だと思っていたので、気にしないようにした。

 今回は和服を着る事にしたのだが、初めてという事もあり、着方もよくわからないし、わからない事だらけだった。

 仲居さんに着せてもらったが、どうもお腹のところが少し苦しかったし、慣れないので落ち着かない感じだった。

 10時少し前に対局室に入り開始時間を待ったが、こういうところにいられるだけで幸せな気分だった。

(中略)

対局開始

 10時ジャストに立会人加藤一二三九段の合図で対局が始まった。振り駒で後手番になったが、これは良かったと思った。初手は写真撮影があるので、谷川名人の指すのを見ておきたかったし、1局目を負けた時に、次に先手番なら少しは気が楽だからだ。

 将棋の方は2図までの進行はある程度予想していたので、早く進める事ができた。

(中略)

観戦者

 この対局に伴い、何人か観戦に見えた方がいらっしゃった。

 午前中に島竜王と一緒に見えた講談の神田紅さん、歌手の谷山浩子さん。(このお二人は谷川名人の応援だったかもしれませんが)

 あと私が奨励会の級の頃からお世話になっている方で、青森の村上さん、鈴木さんも見にこられた。

 わざわざ将棋を見に、遠い所から来て下さる方がいらっしゃるというのは非常に有り難い事だが、もっとオープンな形で将棋というものができればもっと良いのではないかという事も感じた。

(中略)

 相手は谷川名人なのでひょっとしたら飛車を逃げないで攻めてくる事もあるのではないかと思っていると案の定そういう展開になった。

 ▲6五銀に対する次の一手は?

6図以下の指し手
△2八馬▲5四銀△同歩▲3四桂△1三玉▲8一飛成△1二金▲6三と△同金▲2二銀(7図)

名人の貫禄

 △5五銀と立つ手が正解手。私も△2八馬と飛車を取る時は嫌な予感がしたのだが……。

 △5五銀と立つと▲3四桂△1三玉▲8一飛成と手順良く攻められて、飛車と角と両方取れる状態なだけにすごく嫌だった。取れるのに嫌だというのは、矛盾していると思われる方もいらっしゃるだろうが、駒というのは取られる前の状態が一番働いていると教わっているので、本能がそれを避けた。

 谷川名人が相手でなかったら、△5五銀と指せたかもしれない。谷川名人の落ち着きはらった態度を前に、残り5分ではそうは指せなかった。

 そして△2八馬と飛車を取り、最後のトイレに立った。 

 私は残り5分、谷川名人は残り22分、当然局面は進んでいると思っていた。谷川名人の指す手は決まっているはずである。

 しかしトイレから戻っても局面は動いていなかった。

 私は慣れない和服だし、結構時間がかかるのはわかっていたはずである。

 私が席を外した時に谷川名人が手を進めた事があったかな、という気持ちがちらっと頭をかすめ、名人の貫禄、余裕というものを感じた。

 ▲5四銀の考慮時間2分。残り5分と3分の差は大きかったか。

ピンチ脱出

 私としては仕方なく7図の局面を迎えた。▲2二銀と打ち込まれたが、1分将棋では寄っているのかどうか全然わからなかった。

 結果的にはどちらで取っても寄っていたようだが、次の一手は指がいい方に行った。

(中略)

責任を果たす

 △3五玉と逃げ、△1三桂と打った時に勝利を確信した。以下なんとかゴールインに成功した。

 終局後、塚田八段から袴は広げて座るように、と教えていただいたが、塚田八段が初めてのタイトル戦の時に私が記録係で高柳先生に注意されていた事を思い出し、ちょっとおかしかった。

 今回は何から何まで初めての体験で、関係者の方には相当迷惑をかけたと思うが、私自身ずいぶん勉強になった。

 特に谷川名人の対局態度には、とても感心した。

 これで一応3局目まで行く事になり、私としては責任を果たせたと思っている。

 こういう舞台で指せる事はめったにないだろうから、あと2局思いっきり楽しんで指したい。

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は中野英伴さん。

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この対局は、谷川浩司名人(当時)が寄せを誤って、森内俊之四段(当時)が勝っている。

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「特に前夜祭では、新聞社の偉い方が見えていて、何か場違いな所にいるような気がしていた」「私のような子供に対し、こんなにいろいろとしてもらって、明日はいい将棋を指さなくては申し訳がたたないと強く感じた」「谷川名人がホテルに戻ったのに、家が近い私だけここに泊めてもらって悪かったかなあという気もしていた」など、これは森内俊之九段の四段時代の自戦記の特徴だが、非常に初々しさが溢れている。

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「谷川名人に大敗する夢は見るし」

夢は意外と逆夢になることが多い。

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「振り駒で後手番になったが、これは良かったと思った。初手は写真撮影があるので、谷川名人の指すのを見ておきたかったし、1局目を負けた時に、次に先手番なら少しは気が楽だからだ」

この考え方がユニークで面白い。

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「飛車と角と両方取れる状態なだけにすごく嫌だった。取れるのに嫌だというのは、矛盾していると思われる方もいらっしゃるだろうが、駒というのは取られる前の状態が一番働いていると教わっているので、本能がそれを避けた」

”駒というのは取られる前の状態が一番働いている”は有名な言葉だが、自ら敵の複数の駒を取られる前の状態にするのは危険と、本能的に感じたということだ。

結果的に本譜では、そのようにする方が良かったわけだが、この感覚も参考になる。

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「私が席を外した時に谷川名人が手を進めた事があったかな、という気持ちがちらっと頭をかすめ、名人の貫禄、余裕というものを感じた」

当然と思われた6図から2手目の▲5四銀を、森内四段がトイレから戻るまで指さなかった谷川名人。谷川流の作法だ。

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「これで一応3局目まで行く事になり、私としては責任を果たせたと思っている。こういう舞台で指せる事はめったにないだろうから、あと2局思いっきり楽しんで指したい」

この時点で森内四段の1勝。三番勝負なのであと1勝すれば優勝ななのに、”あと2局思いっきり楽しんで指したい”と、この上ない謙虚な抱負だ。

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結果は、森内四段が2勝1敗で優勝している。

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この対局の時、升田幸三実力制第四代名人が羽沢ガーデンに訪れている。

下の写真は、立会人の加藤一二三九段との控え室での光景。

「名人がC級2組に負けちゃいかん」の一言を残し帰っていったという。

谷川浩司名人(当時)の隣に座った受験生の少女

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は中野英伴さん。

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終局後、谷川名人は、塚田泰明八段(当時)、応援に来ていた谷山浩子さんと3人で新宿に飲みに行っている。

「羽生君や森内君をやっつけるには、もう女性で人生を狂わせるしかないよ」

 

谷川浩司名人(当時)「色々と刺激を与えてくれる男である」

将棋世界1989年4月号、谷川浩司名人(当時)の第38回NHK杯戦準決勝(対 羽生善治五段)自戦記「十代の強さ」より。

将棋世界同じ号のグラビアより。
心構え

「相手は五段だが、実力はA級。だから、やりにくい事はない」

 羽生五段とのNHK杯戦準決勝。

 局へ向かうタクシーの中。和服に着替えている最中。二人並んでメークをしている時。そしてリハーサル。

 勝たなければいけない、などとプレッシャーを感じていては、絶対に勝てるわけがない。

 18歳の五段だと思うから指しにくいのであって、A級八段だと思ってしまえば普通に指せるはずだ。

 気持ちを楽にするため、自分に言い聞かせて対局に臨んだわけだが、そのように考える事自体が、意識過剰になっていた証拠かもしれない。

 この対局がテレビで放映されたのは、3月5日。皆さんの記憶にも新しいはずである。

 ご存知のように、私はこの将棋に負けてしまった。というわけで、今月は反省の自戦記である。

前期のNHK杯

 ここまで、羽生五段との対戦成績は1勝2敗。将棋まつりの非公式を含めると2勝4敗である。

 この中で、一番ショックを受けた敗戦はと言うと、やはり前期のNHK杯戦である。

 指せる将棋を盛り返されたが、まだまだと思っていたところ、全く読み筋になかった▲6八角(A図)を打たれる。これが決め手となり、以下は惨敗だった。

 実を言うと、A図から後は殆ど粘る気力もなかった。秒を読まれているのにも関わらず、相手の強さに呆れるだけの時間だったのである。

 もっとも、この敗戦で、緩んでいた気持ちを引き締めることができ、以降20勝2敗という快進撃を呼ぶのだから、彼には感謝しなければいけない。

 色々と刺激を与えてくれる男である。

序盤作戦

 振り駒で先手番となる。公式戦では初めての先手番である。

 飛車先不突矢倉を予定していたのだが、▲7六歩△3四歩。いきなり外された。

(中略)

羽生五段の強さ

 羽生五段の将棋は殆ど並べているつもりだが、戦法のレパートリーの広さにはいつも驚かされる。

 相矢倉、角換わり、振り飛車、対振り飛車も急戦と持久戦、など―。

 そして、一般的にはやや指しにくい、とされている横歩取りの後手番も、△3三桂型、△3三角型、そして本譜の相横歩取りも指しこなすのである。

 対局が始まる前から作戦が判っているよりも、作戦範囲が広い方が、相手に不安感を与える効果がある。

 本局の場合も、2回予想を外されてしまった。時間が短い将棋なので、こちらもそ知らぬ顔で、3図まで消費時間2分で飛ばしたが、実は少々意表を突かれたのである。

(中略)

早見えの終盤

 既に双方30秒将棋だが、直前の羽生五段の動きに少し無理があり、ここでは良くなったと思っていた。

(中略)

 5図で私は、30秒将棋なのにも関わらず、ホッと気を抜いてしまったのである。

 この将棋は勝ちになったと―。

 今冷静に考えると、先手有利とは言え形勢は微差である。とても、気を緩める局面ではなかった。

 5図から、▲5四歩△8五飛▲5三歩成△同銀▲5四歩△4二銀▲3四歩△5五馬(!)で6図。一瞬の逆転だった。 

 本譜の順は最悪である。▲5四歩では▲3四歩が有力だし、△5三同銀に対する▲5四歩でも、▲5四銀△6五飛▲同銀。または単に▲3四歩なら、5六に歩が打てるので△5五馬とは指しにくい。

 強手△5五馬であえなくダウン。6図から▲同馬△同飛は、△5九飛成と△5七角が受からない。

 本譜は▲7七桂だが、△6五飛▲同桂△同馬▲3三歩成△7六馬▲4二と△同金▲3四桂△7五馬で7図。

 手順に王手で詰めろを消されては、勝負ありである。以下いくばくもなく投了。

 それにしても、30秒将棋でどうして△5五馬のような手が見えるのだろう。

二連敗のショック

 今期の私、結構活躍しているようで、実を言うと、優勝はまだ名人位の1回だけである。

 そういうわけで、あと2勝で優勝まで進んでいたNHK杯での敗戦は、後輩に負けた事とも重なってショックだった。

 そして、4日後の全日プロ第1局でも、森内四段に負け。

 まさにダブルショック。こうなると、さすがに考えざるを得ない。

 対羽生戦、対森内戦。何れも、終盤になってから、秒に追われての競り負けである。

 5年ほど前、私が中原先生と米長先生に全く勝てなかった頃、終盤における絶対的な自信が揺らいだ事があったが、今回の方が事態は深刻かもしれない。

 対策はまだ判らないが、彼らの集中力が凄い事だけは確実に言えそうだ。

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「18歳の五段だと思うから指しにくいのであって、A級八段だと思ってしまえば普通に指せるはずだ。気持ちを楽にするため、自分に言い聞かせて対局に臨んだわけだが、そのように考える事自体が、意識過剰になっていた証拠かもしれない」

たしかに、この当時、いかに谷川浩司名人(当時)が10代の棋士を意識していたかがわかる。

* * * * *

「対羽生戦、対森内戦」。

この文字を見ただけで、恐ろしさを感じるほど迫力満点だ。

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「色々と刺激を与えてくれる男である」

棋士に対しても、ファンに対しても、将棋ファン以外の人達に対しても、羽生善治九段は現在に至るまで、そしてこれからも、良い意味での刺激を与えてくれる存在だ。

 

羽生善治五段(当時)「防戦一方で諦めの悪い僕もさすがに負けを覚悟しました」

近代将棋1988年8月号、羽生善治五段(当時)の第38期王将戦予選〔対 大山康晴十五世名人〕自戦記「大名人との一局」より。

将棋世界同じ号掲載の写真。

 僕の連勝が18になった後、大山十五世名人と対戦することになりました。

 以前、某将棋雑誌の企画で対戦しましたが、全く歯が立たずボロ負け。

 今回は前回よりも内容のあるものにしたいと思ったのですが結果は同じでした。

 では、さっそくその対局を見てまわりましょう。なお、この対局は青森の百石町で行われたのでかなり変則的な進行で行われることになりました。

(中略)

中飛車

 振り駒で僕が先手と決まり対局が始まりました。大山名人が飛車をどこに振るか注目していましたが、中飛車になるような気がしました。

 理由は別に無いのですが、何となくそう思ったのです。

 今度は僕が作戦を決定する番なのですが、予定としては急戦で行くつもりでした。

 1図の△7二銀は少し意外で△9四歩と受けてくれるとばっかり思っていました。

 この局面で▲9五歩と突き越したいのですが、中央の戦いで立ち遅れる事も考えられます。

 この対局の最初の分岐点を迎えました。

1図以下の指し手
▲3六歩△5四歩▲2五歩△3三角▲5七銀△3二金▲4六歩△5三銀▲6六歩(2図)

1日目終了

 1図の局面で▲9五歩、▲3六歩どちらでも一局ですが、気合からいって当然▲9五歩でした。

 この手は確かに怖いのですが、やってみる価値はありました。

 あの時の軟弱な考えを後悔しています。

 本譜は、△5三銀と上がられた所で急戦で行く事を断念しました。

 そして、▲6六歩と指した所で昼食休憩になり1日目が終了しました。

 形勢はまだどちらとも言えないでしょう。

 昼食後、羽田から飛行機で青森へ旅立ちました。

 この場所は昨年の若獅子戦以来2回目という事になります。

(中略)

左美濃

 午前9時から再開され、封じ手は△5五歩でした。

 これで特に戦いが始まるというわけではなく、一歩持って駒の働きを楽にしようという事だと思います。

 穴熊にするか左美濃にするか少し迷ったのですが、穴熊にしても金銀2枚が浮いていてあまり堅くならないのであきらめました。

 3図の局面からの指し方として、▲5九角~▲2六角と▲3八飛の2つが有りますが、どちらも有力なので非常に迷う所です。

3図以下の指し手
△7三銀引▲3八飛△2二飛▲3五歩△同歩▲同飛△3四歩▲3八飛△2四歩▲2八飛△2五歩▲3七桂(4図)

開戦

 △7三銀引に対して▲3八飛といよいよ行動を起こしました。

 ここでは前にも言ったように▲5九角△1四歩▲2六角も一局と思いますが、そこで△2二飛と角頭を狙われて指されるのが嫌でした。

 平凡に3筋の歩交換を許してはまずいので、△2二飛と2筋からの反撃を見せます。

 ▲3五歩はこの一手。

 ▲2八飛と戻っているのは手損しただけになります。

 ▲3五歩以下必然の手順が続き、4図の局面になりました。

 手の広い局面で色々な手が考えられる所です。

4図以下の指し手
△2六歩▲2五歩△5一角▲2六飛△3三桂▲6五歩△6二角▲5五歩△8三銀▲5六銀△7二金(5図)

持久戦

 4図の局面で思い浮かぶ手は、△5一角、△3五歩、△2六歩位ですが、△5一角は▲2五飛△2四歩▲2六飛でつまらないですし、△3五歩も▲2五飛△2四角▲2六飛△2五歩▲同桂で難しい。

 ただ、この手順は感想戦で大山名人に指摘されたもので、僕がこの手順を発見できる自信は全然ありません。

 そこで本譜の手順ですが、局面が落ち着いて持久戦模様になりました。

 ▲5五歩~▲5六銀は△4五歩の仕掛けがいつでもあるので、気が進まなかったのですが、他に手が解りませんでした。そして、しばらくすると不安が現実の事になるのです。

5図以下の指し手
▲1五歩△2一飛▲6六角△4五歩▲2九飛△4六歩▲4九飛(6図)

敗着

 ▲1五歩は緩手でした。

 本譜を見れば解るようにこの一手は全く働いていないのです。

 この大事な中盤戦で一手パスをしているのでは良くなるはずがありません。

 ▲6六角に対して△4五歩と二度目の開戦です。

 ▲1六飛は△2六歩で困るので▲2九飛の一手ですが、あまり自信が持てない所です。

 そして、▲4九飛が自然に見えて実は敗着だったのです。

 ▲5四歩が正解でまだまだ難しかったと思います。

6図以下の指し手
△3五角▲5四歩△2五桂▲同桂△同飛▲1一角成△5七歩▲6六馬△5八歩成▲同金△2八飛成▲4八歩(7図)

辛い一手

 △3五角が好手で困りました。

 何か指さなくてはいけないので、遅まきながら▲5四歩と指しましたが、”証文の出し遅れ”もいい所で△2五桂から気持ち良く捌かれてしまいました。

 しかし、▲1一角成とした局面はまだ粘れると思っていました。

 ところが、△5七歩と指されてみると、いくら考えても駄目だということが、解ったのです。

 以下△2八飛成まではほぼ必然の手順ですが、そこで受ける形がないのです。

 仕方無く▲4八歩と受けましたが、何とも辛い一手です。

7図以下の指し手
△5四金▲5五歩△5三金▲7七桂△4四桂▲8七香△5六桂▲同馬△4七銀▲同金△同歩成▲同馬△4六金(8図)

負けを覚悟

 △5四金~△5三金とされてまた困ってしまいました。

 そして△4四桂も厳しい一着で▲4五銀とすると△4七歩成▲同金△4六歩以下”ダンスの歩”を決められてしまいます。

 そこで▲8七香と8筋に狙いをつけますが、あまり響いていないようです。

 そして、迎えた8図。

 防戦一方で諦めの悪い僕もさすがに負けを覚悟しました。

8図以下の指し手
▲2九馬△2七竜▲8五歩△同歩▲2八歩△3七竜▲6九桂△5六歩▲同金△同金▲同馬△3六竜(9図)

壁は高く、そして厚かった

 8図以降は全く勝負所を失ってしまいました。

 本局を振り返ってみると序盤~中盤の始めごろまではまあまあだったのですが、戦いが始まってすぐに間違ってしまい、そのまま押し出された様な将棋でした。

 これで連勝も止まり非常に残念ですが、たぶんここまで来るのが出来過ぎだったのでしょう。

9図以下の指し手
▲3四馬△6八角成▲6七馬△同馬▲同銀△6八金▲8五桂△8四歩▲7三桂成△同桂▲7八金△6七金▲同金△5八角▲7八銀△4九角成(投了図)まで、124手にて大山十五世名人の勝ち

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「以前、某将棋雑誌の企画で対戦しましたが、全く歯が立たずボロ負け」

これは、将棋世界の新春お好み対局として企画されたもので、将棋世界1988年1月号に観戦記が載っている。

羽生善治四段(当時)と大山康晴十五世名人の初めての対局

本局は、羽生善治五段(当時)と大山康晴十五世名人の公式戦初対局ということになる。

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△5三銀~△6四銀と動く中飛車は古くからあって、振り飛車名人と称された大野源一九段が指す中飛車は、この形が多かった。

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1日目が東京将棋会館で、2日目が青森県百石町(現・おいらせ町)という、羽生五段にとっては慣れない環境の中での対局だったものの、大山十五世名人を破ることができなかった。

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「防戦一方で諦めの悪い僕もさすがに負けを覚悟しました」

羽生九段が「諦めの悪い僕」と書いたのは、この自戦記だけではないかと思われる。

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「これで連勝も止まり非常に残念ですが、たぶんここまで来るのが出来過ぎだったのでしょう」

がっかりしていることが強く伝わってくる文章だ。

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若き羽生善治さんが晩年の大山康晴十五世名人と初めて対戦したのは…(毎日新聞)

 

森内俊之四段(当時)「二人ともまだ小学校4年生で、羽生五段は広島カープの帽子をかぶった小さな少年であった。外見はどうみても強そうには見えなかったが、将棋を指してみると、人は外見だけで判断してはいけない、と感じた」

将棋世界1988年12月号、森内俊之四段(当時)の第19回新人王戦三番勝負第1局〔対 羽生善治五段〕自戦記「甘さを痛感した一局」より。

将棋世界同じ号より。撮影は中野英伴さん。

 10月5日、連盟の3階の手合課にいると、将棋世界の小泉さんが立ち寄ってきたので、原稿を頼まれるのではないかと嫌な予感がしていたのだが、その予感があたってしまった。手合の人に25日に対局があると聞いて、小泉さんはいやそうな顔をしたので、これはなんとか逃げられるのではないかと思ったが、(締切りの関係で1ヵ月掲載が遅れる)その考えは甘く、「大変申し訳ありませんが、27日迄にお願いできませんでしょうか」というお言葉。

 粘って28日までにしてもらったものの結局はものを頼まれると嫌とは言えない性格のためか?引き受ける事になってしまった。

(中略)

 朝9時40分頃連盟の前に行くと、NHKのテレビカメラが待ち構えていたので、少し緊張したが、新人王戦の決勝は去年もやっていて、だいたいどんな感じかわかっていたので、やりやすかった。

 9時50分頃、羽生五段も入室。

 駒を並べ終え、振り駒で、と金が4枚出て僕が先手になり、10時ちょうどに対局が始まった。

 将棋の方は予定通り矢倉に進めたが、1図の△5三銀はやや意外であった。

 というのは、10日程前に王座戦で同じ将棋を指しており、その時も△5三銀と上がられてので、今度は違う事をやって来ると思ったからだ。

 どうも勘がさえない。

(中略)

 今回、決勝で対戦する事になった羽生五段と初めて会って、将棋を指したのは確か昭和55年1月4日、新宿小田急の将棋まつりと記憶している。

 二人ともまだ小学校4年生で、羽生五段は広島カープの帽子をかぶった小さな少年であった。

 外見はどうみても強そうには見えなかったが、将棋を指してみると、人は外見だけで判断してはいけない、と感じた。

 確かその時は勝ったが、3日後の準決勝で再び対戦して、しっかり負かされて、羽生五段が優勝、僕は3位だった。

 それ以来、羽生五段とはいろいろな将棋まつりで戦い、57年に二人とも奨励会に入った。

 常に、僕の少しずつ前に羽生五段がいた。

 それが僕にはかなりプラスであったと思っている。

 今回の対戦、6,7年前までは、デパートの将棋コーナーでやっていたのが、今回はこういった舞台でできて非常に嬉しく思っている。できる限りいい将棋を指したい。

(中略)

 △6七銀不成▲同桂△6八竜ともう一枚銀をもらっても、後手玉が全然詰まないのにはあきれた。

 以下数手王手を続けて投了した。

 まったくこの将棋は、駒に申し訳ない指し方をしたものだ。第2局ではもう少し人に見せられる将棋を指したい。

 追い込まれた事のない自分が、次にどんな将棋を指せるのか自分でも興味がある。

* * * * *

森内俊之九段の四段時代の自戦記は、初々しさに溢れ、非常に味がある。

* * * * *

「外見はどうみても強そうには見えなかったが、将棋を指してみると、人は外見だけで判断してはいけない、と感じた」

下の写真は、1982年、羽生善治九段が小学生名人位なった時のもの。

どうみても、将棋が強そうに見えるのだが……

近代将棋1982年6月号グラビアより。小学生名人戦で優勝した時の羽生少年。

* * * * *

「常に、僕の少しずつ前に羽生五段がいた。それが僕にはかなりプラスであったと思っている」

感動的な言葉だ。