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初代・対局中外出禁止令

将棋世界1984年3月号、米長邦雄三冠(当時)の王位戦予選(対武者野勝巳四段)自戦記「トン死で勝つ」より。

 本局は王位戦の予選で、勝った方がリーグ戦入りをかけて武市四段と戦うという一番である。相手の武者野四段は花村門下の30歳。

 彼は去年の春、総務担当理事に推され、千日手のルール改正など八面六臂の活躍をしている。四段で理事というのは前例が無く、それだけ彼の人望が厚いという事だろう。

 人柄も良く、何より積極的なのがいい。

 私も出来るだけ応援してやりたいと思っておった。

(中略)

 この将棋は年の瀬も押し詰まった12月30日に行われた。当然去年の最終局。誰でも気持ち良く新年を迎えたい所だろう。

 当日は王将リーグの最終日で、挑戦者の行くえを見る意味からも望んでこの日に対局をつけてもらったのだが、森、青野の両八段が同率となり、1月10日のプレーオフまでおあずけという事になった。

 ちなみにプレーオフの結果は森八段が勝って、挑戦者の名乗りをあげた。

 ミネラルウォーターのお仁とは初めてのタイトル戦。面白い将棋が期待できそうだ。

 各棋戦とも予選は振り駒で、その結果武者野君の先手。局面は相矢倉の進行。どうやら最近流行りの飛先不突矢倉の作戦らしい。

(中略)

 ▲7九玉、△7二玉とお互いに玉を寄り合った所で一日塾生が昼食の注文に来た。

 最近、対局者は対局中に将棋会館から外に出てはいけないという規定ができた。そこで食事も出前を取るか、もしくは会館のレストランの物を食べなくてはならない。

 私は常々この様な細かい規則で棋士という物を縛るのは極めて宜しくないと考えている。

 それで対局中でも相手の了解を得て外に食べに行く事もある。この日もそうしようと思い、武者野君に「今日は陽気もいいし、外に食べに行ってもいいか」と聞いたところ「規則でいけないことになっております」という答えが返ってきた。これには温厚な私も少しばかりカチンときた。この事について断られたのは初めてであり、またその初めての相手が自分よりはるか後輩の男とあってはなおさらである。しかしながら相手がダメだと言っている以上、公式戦の対局中に先輩だからといって怒るわけにもいかず、腹は立ったが注文することにした。

 対局中に外に出てはならないと言うならば、対局中は理事の理事室への出入りもいけないという規則も作って、さらに徹底してもらいたいものだ。

 全く、くだらん理事どもめが。

 局面に戻る。

 △7二玉に37分考えて▲4五銀とやって来た。ここはこう指すと所だろう。なぜかというと、先手の方はこれ以上待っていてもそれ程有効な手が無いのに比べ、後手の方はこの後△5一飛~△6二金~△7三桂とやりたい手がいっぱいある。ということは先手は待てば待つ程、条件が悪くなると思われるからだ。

 怒りのおさまらない私はノータイムでこの銀を取り、わざと△8八角不成と叩き付ける様に取ってやった。

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(中略)

 ▲8八同玉は当然の一手。玉のコビンがあいていて気味が悪いが▲同金と取る形は、かべ金と言って悪形の見本。将来必ず弊害が出る。△4四歩もこう指す所で、4五桂に威張られていては後手の優勢はあり得ない。

 ここで昼食休憩になった。仕方なく会館の中で食事を取ったのだが、この時考えた事は、このままの精神状態ではマズイのではないかという事だ。この日の様に感情を著しく乱している時は、えてして指し手に勢いがつきすぎて勝敗がおもわしくないものだ。そこで、この後は出来るだけ慎重に指すことを心掛けようと思った。

(中略)

 6図までお互いに大した長考もなく(武者野君の37分が最長)比較的早いペースで進んでいる。まだ3時前だ。

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 もうすぐ終わるのかと思っていたのだが、武者野君は仲々手を下さない。どうやっても負けの局面で何を考えているのかと思い、相手に「早く指したらどうか」と催促した所、「いえ折角教えて頂くのだから、ゆっくり考えさせてもらいます」という返事だった。

 そこで私も改めて局面を見てみると、成程これは難しいという事がわかった。しばらくして、自分の負けに気付いた。

 やっぱりヤラレタかと観念して、長考中は他の対局を見たりしてブラブラしていた。

 結局99分考えて▲6二成桂とやって来た。この▲6二成桂が敗着。

(中略)

 武者野君はこれで自玉に詰みが無く、勝ちだと思っていたようだが……。

 私は7図で11分考えて即詰みを確認した後、相手に「悪いけど詰ますが、いいか」と聞くと、今度は「どうぞ」と了解を得る事ができた。それならというわけで△7九銀と王手を掛けた。バラバラにして△6九金~△5七桂。これでどこに逃げても詰んでいる。

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(中略)

 △6九金で投了となって、普通はこのあと感想戦に移る。しかし、この日の私はそういう気分ではなかったので、すぐに席を立とうとした。

 ところがその瞬間に、ちょうどそこに居合わせた大山会長より「あそこ(6図)じゃ武者野君に勝ちがあったんじゃないの」という発言が出た。すると遠くから「そうそう」と言って中原十段も近よって来た。見る見るうちに、大山、中原、加藤(一)、二上というそうそうたる顔ぶれがそろって、ついに私は席を立てなくなった。

 行きがかり上、「いやあそこではこちらの勝ちです」と言い張ったのだが、諸先生方の意見は6図では▲5八金と上がる手が最善で武者野君の勝ち。中原十段は「▲4八金もあり、どちらが良いかにわかにはわからない」というものだった。

 中原十段には一応「人の将棋よりも自分の将棋を一生懸命やったらどうか」と、切り返しておいた。

 確かに▲5八金が絶妙手で、私も相手の長考中に、そう指されたら負けになる事を読み切っていた。なぜ▲5八金が絶妙手かというと、△同馬と取った形は、先手の玉に絶対詰みがないからだ。

(中略)

 すなわち、こう指されれば私の負けだったわけである。

 何やら、モヤッモヤッとした一日であった。

——–

1982年のある日の昼食時の千駄ヶ谷の寿司店。

若手棋士二人が譜号を言いながら会話をしていた。

たまたま少し離れた席で寿司を食べていたのが、ある愛棋家。

その人が大山康晴日本将棋連盟会長(当時)と会った際に、一般論として、「将棋会館の外での食事だと、対局中の棋士に別の棋士が指し手の助言をすることができるのではないか」と懸念を示した。

大山会長は、そのようなことは考えられないとしながらも、外部からそのような疑いを受けてはいけない、と考え、李下に冠を正さず、理事会で、「対局中に外出することを禁止しましょう」と提案をする。

当時の大山会長の権勢は凄く、(それはちょっとやり過ぎでは……)と感じた理事もいたかもしれないが、とても反対できるような雰囲気ではなく、対局中外出禁止令がすぐに決まった。1982年度のことだった。

ドラマ『ドクターX』の「御意!」「御意!」「御意!」のシーンが頭の中に浮かんでくる。

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米長邦雄王将・棋聖・棋王(当時)は、「それで対局中でも相手の了解を得て外に食べに行く事もある。この日もそうしようと思い、」と書いているが、これは最高速度が時速100kmの高速道路で同乗者に「これから時速120km出してもいいよね」と聞いて了解を得てスピードオーバーするようなもの。

対局相手が同意してくれたとしても、残念ながら、明らかな規定違反となってしまう。

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更に、米長三冠は聞く相手を間違っていたとしか思えない。

武者野勝巳四段(当時)は総務担当理事で、まさに対局中外出禁止令を主管しているような立場。

仮に武者野四段が個人的には「対局中外出禁止令なんて不自由で嫌だなあ」と思っていたとしても、立場上「規則でいけないことになっております」と答えざるを得ない。

「このままだと友人の結婚式に間に合いそうにないので、これから少しだけスピード違反しますけど、いいですよね?」とわざわざ警官関係の人に聞いたら「絶対にダメです」と言われるのと同じ世界。

また、百歩譲って米長三冠にOKを出したとしても、絶対にそのようなことを言うタイプではないものの中原誠十段や谷川浩司名人(当時)から同じように「外に食べに行ってもいいですか」と聞かれた時に断れなくなり、これでは規定の根幹が揺らいでしまう。

——–

松本博文さんはこのことについて、

米長は、自分がどう扱われるかについて敏感だった。誰よりもプライドが高く、そのプライドを傷つけられたと感じれば、すぐに頭に血が上った。

と書いている。

三浦弘行九段、ソフト指し不正疑惑はなぜ生じたのか(cakes)

たしかに、そのような規定がある上で、理事がどのような対応を自分にとってくれるか試すような含みもあったのかもしれない。

——–

武者野勝巳四段(当時)が理事になったのは1983年6月からのこと。

そういう意味では前理事会で決まったことを米長三冠にこのように書かれたわけで災難だったに違いない。

現代流には、米長三冠の武者野四段に対する公開パワーハラスメントとも言えるだろう。

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武者野勝巳七段は理事時代に、千日手規約の改正、研修会の設立、棋譜用紙の改訂(1枚80手だったものをレイアウトを変えて150手に)などを行っているが、この対局の頃(1983年12月30日)は、研修会(1983年12月4日~)が立ち上がったばかりの時。

研修会を作った棋士

丸山忠久九段の研修会時代

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この将棋世界の自戦記を読んだ大山会長は、自分が導入した制度が原因で武者野理事が攻撃され、あまりにも気の毒と思ったのだろう。大山会長は米長三冠に電話をした。

そこで、米長三冠からあらためて対局中外出禁止令について「細かい規則で棋士という物を縛るのは極めて宜しくない」と意見が出され、さすがの大山会長も折れて、すぐに対局中外出禁止令はなくなった。

これが1984年の2月頃のこと。

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米長三冠の自戦記、「全く、くだらん理事どもめが」など、通常では見られない過激な言葉が出てくるが、当時、米長三冠と非常に近かった棋士の話によると、この対局の日、米長三冠は昼食休憩時間に親しい女性と千駄ヶ谷で1時間のデートをする約束だったという。

12月30日なので、その年の最後の挨拶ということになるのだろうか。

もしそうならば、それはそれで非常に人間的で、この自戦記を最初から最後まで微笑ましく読めるというものだ。

 

 

滝誠一郎五段(当時)の絶妙な自戦記(対 小池重明アマ戦)

将棋世界1980年1月号、滝誠一郎五段(当時)のアマプロオープン戦〔小池重明アマ-滝誠一郎五段〕自戦記「これがプロの実力だ!」より。

陽の当たる場所

 いよいよ五段陣の登場となりました。

 アマ強豪のお手並み拝見といきましょう。

 この「強豪」の看板には偽り無し、とは皆さん先刻御存知のところでしょう。

 この日が来るのを首を長くして待っていた私でした。私のような下級棋士、しかも三十の声を聞き、いつまでも若手ではない、との事実を知ってしまった男を、陽の当たる場所に出してくれた編集部に感謝しなければなりません。

 しかし、それは重大な過失でもありました。初めて陽の当たる場所に出た私は、興奮のあまり、この自戦記を軽薄色に塗りつぶすことになりそうだからです。

アマの限界

 私はアマトップクラス(自称トップクラスが多すぎる気もしますが―)の実力を高く評価する者でありますが、皆一様に限界に突き当たるようです。

 二度目のアマ名人位を獲得した加賀六段にしても、昔の方が強かった、と断言できます。何故加賀さんは弱くなったのか?(名人になった人にこう言うと、不思議がる方もいらっしゃるでしょうが、軽薄な私は断言してしまうのです)答えは簡単です。

 自分より強い人と指せないからです。

 もっとも強くなり過ぎた本人が悪いという説もありますが……。

 その意味でこの企画は将棋界のために大いに有意義と言えましょう。

 しかも滝五段の登場ともなれば、相手のアマの方も、これ以上の勉強の場はない、と大喜びのことでしょう。

 もっとも、あまり喜ばれるのが不愉快な意味もありますが……(笑)。

アマ連盟

 相手のアマの方は小池重明五段。その活躍の程は省略しますが、アマ将棋連盟の目玉商品ともいえる人です。

 アマ連とプロ連は現在、悲しいかな冷戦状態にあります。とすれば、絶対に負けられぬ一番なのですが、小池さんと私は酒を飲んではカラオケ合戦に熱中する仲なのです。

 対局前夜になっても、どうしても燃え上がらない自分を感じました。

(中略)

私の決意

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 序盤の図面を掲載しても面白くない、と思われますので長手順進めました。

 振り駒で後手番になり、正直言って良かったと思いました。この心理は容易に理解してもらえるでしょう。

 小池さんの四間飛車は、おそらく得意戦法と思われます。その指し手から気合が伝わってきました。

 殺気を感じた私は、こそこそと香の下に玉を隠して、この駒だけは取られまいと決意しました。

 御存知居飛車穴熊戦法。この戦法には、いろいろと批判もあるようですが、プロで30歳を超えたら解禁に、というのが私の持論。

 アマ強豪やプロの若手にこんな優秀な戦法を使われたらかなわんもの。

 ▲3七桂の応手にちょっぴり知恵を使いました。ほっておいて▲4五桂の両取りをくらうような甘い私ではありませんが、△4四銀では△4四歩も考えられます。

 もちろんそれも一局ですが、あえて▲4五歩を誘う△4四銀を選びました。

1図以下の指し手
▲2七銀△4二角▲8八飛△7四歩▲3八金△7二飛▲6八角△7五歩▲同歩△同飛▲7六歩△7四飛▲9六歩△3二金右▲7八飛△9四歩▲4五歩△3三銀引▲1八香△2四歩▲6五歩(2図)

プロ棋士の陰険さ

 小池さんは誘いに乗らず▲2七銀ですが、▲4五歩も一局です。△5三銀と手損で引いておいて、後に△7四歩から△6四銀をねらいます。角道が開いているだけに迫力があります。

 わざと手損をしておいて、後でみてろという訳で、プロ棋士の陰険さの一端をお見せしました。

 また本譜の進行なら、3三の地点に銀を引けることになり、これはこれで、えらく堅固な要塞ができます。

 まずまず思い通りの進行となりましたが、△7五飛の瞬間が気持ち悪かったのです。

 (中略)

 優劣の判断はともかく、臆病者の私は、いきなり玉頭に火の手が上がるのがこわかったのですよ。

 無事に一歩を入手しほっと一息というところ。△3二金右から△3三銀引と玉も固まり、これで戦闘準備完了です。

 ▲1八香は意外。意味不明。

 ▲6五歩と小池さんも動いてきました。

 しかし、もっと早く動けなかったのでしょうか。

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(中略)

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 3図の局面となっては、小池さんは味良く馬を作ったものの、私も飛車のサバキに成功し、穴熊の固さがものをいって私の優勢です。小池さんが、どこで間違えたか、私にも分かりません。

 いつのまにやら優勢になっている―これがプロの実力なのだ。

(中略)

 小池さんは、転ばぬ先の▲3九香と正解手。このあたりから俄然本気を出すのが小池流とは聞いておりました。

 そして4図。ついに恐れていたもの―相手の好手―が出ました。

 読者も考えてみてください。

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4図以下の指し手
▲6七飛△同馬▲同銀△6九飛▲5六角△8七竜▲7九桂(5図)

 ▲6七飛が好手。読者の中にも発見した方は少なくないと思います。

 私だってうっかりしていた訳ではないのです。

 対して、何とかの一つ覚えで△5八桂成では▲6八飛△同成桂となって、自慢の成桂が逆方向に行くのが気に入りません。

 しかし、こうしてじっくり成桂を使う手もあったかもしれません。気は進まないが―。

 飛をむしり取って、どうだとばかり△6九飛と打ちつける。恐怖の二枚飛車じゃ。

 ▲5六角と頑強な抵抗。やってくるとは思っていました。

 せっかくの二枚飛車。▲6六銀から▲8九角と抜かれてたまるかと、△8七竜。

 さあさあ受け方が難しいじゃろと思っていたら……。

 ▲7九桂には驚きました。全く考えていなかった好手です。

 私の動揺もお察しください。

 ここ▲5七金なら、以下△7八桂成▲同銀△5七竜▲6九銀△5六竜で楽勝。まさか、この順になるとは思っていなかったものの、先手に巧い受け手があるとも思っていませんでした。

 小池さんの底力を見せつけられた▲7九桂でした。

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5図以下の指し手
△同飛成▲6六銀△7六竜右▲5五馬△5一香▲5七銀△4二桂▲4六桂△5八歩▲3五歩△5四桂▲同桂△同香▲同馬△5九歩成▲3四歩△同銀▲3三歩(6図)

 ▲5五馬と引かれたところでは、優勢とはいえあやしい雰囲気を感じました。

 相手の顔を見る余裕なんぞは無かったのですが、さぞ迫力のある表情をしていたと想像できます。カラオケの時には仏様。将棋の時には鬼。二つの顔を持つ小池さんではあります。

(中略)

 ▲5七銀は当然とはいえ好手。△4二桂は悪手とはいえないものの、本手ではなかったよう。単に△5八歩が正解でしょう。この△4二桂から一分将棋になりました。相手は50分程残しています。これが、あやしい雰囲気の最大の原因です。

 外野席の奨励会の悪童によれば、「滝さんが、負けるとすれば、一分になって小池さんのアッパーカットをくらうとき」とは、小生意気ではあるが、正しい意見。

 △5八歩から△5九歩成と待望のと金づくりですが、▲3五歩と、さすがに急所を突いてきます。一本▲1五歩と突く手も考えられますが、手抜きもあり得て難しいところでしょう。▲3三歩は手筋の叩き。返事の仕方に迷いました。

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6図以下の指し手
△同桂▲4六桂△3五桂▲3四桂△5八と▲4四歩△4七桂成▲2二桂成△同金上▲2三香(途中図)△5六竜▲同銀△1九角▲1七玉△2三金右▲4一飛△2一香(7図)

悪手、また悪手

 △3三同桂は悪手。金で取ってしばらくは、相手の面倒をみて指す手でしょう。

 とはいえ、まだ優勢は続いています。

 桂の打ち合いから、いよいよ寄せ合い勝負です。

 私がと金の活用を図れば、小池さんも▲4四歩と馬を活用してきます。これを△同歩などと相手をしているのは論外。

 華々しい駒の取り合いから、小池さん、必殺の気合を込めて▲2三香(途中図)

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 この気合に負けました。

 こんな香車は「只ですね」と、わざと大きな声を出してから(意地悪こそが喜び)同金右と取ってしまえば、良かったのです。

 小池さんも指した後で気付いたと局後言っておられたが、素直に「アッ間違えた」と、対局中に白状してくれても良さそうなもの。知らぬ同士でもあるまいに……。

 必殺の気合に焦った私は、△5六竜の大悪手を指して、一挙に敗勢に転落しました。

 アマを相手に自分で転ぶとは……。

 これも実力と言わざるをえません。

 △2三同金右に▲同角成△同金▲4三歩成は、△3八成桂以下詰みます。

(中略)

 敗勢の7図、運命の女神は、私の美貌に惑わされ、突然こちらにウィンクしました。

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7図以下の指し手
▲4三歩成△3八成桂▲同銀△3九竜▲2七馬△1五歩▲同歩△1六歩(投了図)  
 まで、130手で滝五段の勝ち。

エアポケット

 ▲4三歩成が小池さんいわく「読みのエアポケットに入った」一着。つい何となく(誰しも経験のあることですが)指してしまったのでしょう。

 ここは▲4七銀と成桂を取って勝ちです。

 以下△3九竜▲3五桂△3七角成▲2三桂不成△同金▲2一飛成△同玉▲3二銀△同玉▲4三歩成△2二玉▲3三と以下詰みです。

 これを逃してからは、一手一手となりました。

 いやはや、何はともあれ勝ってほっと致しました。

 感想戦が短かった為、私の感覚による解説となり、小池さんには異説があるかと存じます。御容赦ください。

 その夜のカラオケ合戦では、小池さんに将棋の仇を取られ、この日は合わせて1勝1敗の痛み分けとなりました。

——–

滝誠一郎八段の剽軽なキャラクターがよく表れている楽しい自戦記。

しかし、二度目に読んでみると、指し手の意味、その時の心理などがそれぞれ描かれていて、非常にオーソドックスな、自戦記の王道を行くような構成であることに気が付く。

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この頃の小池重明さんは、真剣師の世界では「新宿の殺し屋」と呼ばれトップクラスの真剣師となっていたが、アマ棋界では名前を売り出していた時。

この翌年から2年連続でアマ名人を獲得することになる。

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小池重明さんの指し手を見ると、私などの棋力では中盤までは全くやる気のない振り飛車に見えるのだが、終盤近くになって急に妖気が漂うというか、殺気を帯びてくるように感じられる。

こういうところが、真剣師らしいところなのだろう。

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この2年後、広島の村山聖少年は奨励会入りを強く希望する。

その思いは広島将棋センターの本多さん→本多さんが幹事を務める広島将棋同好会支部の師範の下平幸男八段→東京奨励会幹事の滝誠一郎六段(当時)と伝わり、滝六段は、この話を弟弟子である森信雄四段(当時)に持ちかけ、村山少年が森信雄四段門下になることとなった。

——–

1995年から東京に出てきた村山聖八段(当時)を弟のように可愛がった滝七段(当時)。

『聖の青春』で書かれているように、派手なアロハシャツとサングラスという装いを村山八段にさせたのも滝七段だ。

11月に公開される映画『聖の青春』で、諸々の設定は異なるかもしれないが、安田顕さん演じる橘正一郎が、滝誠一郎八段をモデルにしているものと思われる。

安田顕さんは、『下町ロケット』では三度の飯より実験好きの熱血漢技術開発部長を、つい最近の『必殺仕事人2016』では超悪役の大目付預かりを演じているが、どのような橘正一郎を表現してくれるか、とても楽しみだ。

 

 

「ワシの戦法を使ってくれた」と感謝された谷川浩司五段(当時)

将棋世界1980年4月号、谷川浩司五段(当時)の新アマプロオープン戦〔田中雅典アマ-谷川浩司五段〕自戦記「敗者への想い」より。

 対局場所は関西本部。わざわざ広島から上阪される田中さんには、御気の毒なことであり、申し訳ないと思う。

 私の家から関西本部まで、たっぷり1時間40分はかかる。これは、対局数日前から気にかかっていたことだが、この長い車中でも、「穴熊」の二文字が、どうしても頭から離れなかった。

(中略)

 私は、どちらかというと対穴熊は苦手である。昨年4月~今年1月迄、公式戦は32勝9敗だが、対穴熊に限っては2勝3敗、普通なら嫌だと思うところだが、本局については、穴熊対策を用意していたので、ためらわず1四歩~1五歩と突き越した。

(中略)

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1図からの指し手
△8五歩▲7七角△4四角▲1九玉△2二銀▲2八銀△3三桂▲3八金△1三銀▲4六歩△2四銀▲5六銀△4二金直▲4八金左△2五銀(2図)

 1図。ここで私は5分程考えた。そして、8五歩を決めてから、ねらいの4四角を決行した。

 単純すぎてプロらしくない、と言われそうだが、単純で良ければそれに越したことはない。元来、一箇所に勢力を集中させる攻め方は、かわされるとまずいのだが、穴熊だけに玉の早逃げができないのである。

(中略)

 実はこの戦法、経験があるのだ。昇降級リーグ、Y七段との一戦がそれで、

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(B図)以下、
▲9四歩△同歩▲同銀△同香▲同香△9三歩▲同香成△同銀▲9八香△8二玉▲9三香成△同桂▲9四歩(C図)

と有利に展開したのである。

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 余談だが、この対局の後、この戦法の創始者である角田三男七段に、

「ワシの戦法を使ってくれた」

と、えらく感謝され、恐縮したものである。感謝しなければいけないのは、こちらの方なのだが……。

(中略)

 これは推測だが、田中さんは4四角と出られて、嫌な感じがしたのではないだろうか。実際、

「仕方がないな」

というつぶやきも聞かれた。

 それはそうである。穴熊というのは、玉を固めて攻め(さばき)に専念しよう、という作戦である。その穴熊が、玉頭にねらいをつけられ、いつ攻められるか、とビクビクしているのでは穴熊の意味がない。

 やや無責任な言い方だが、振り飛車穴熊で一方的に攻められている方には、是非この角田流を試して頂きたい。少なくとも、手つかずで負けることはありません……。

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(以下略)

——–

角田三男八段は木見金治郎九段門下で、大野源一九段の弟弟子、大山康晴十五世名人、升田幸三実力制第四代名人の兄弟子にあたる。

また、阿倍野区にあった当時の「関西将棋会館の主」としても知られている。

将棋会館今昔

——–

角田八段は角田流ひねり飛車の創始者として有名だが、振り飛車穴熊退治でも新戦法を編み出していたことを、この谷川浩司五段(当時)の自戦記を読んで初めて知った。

B図から▲9八香と上がり、飛車を9九に持って行った形が地下鉄飛車だが、地下鉄飛車の原型となっているのが角田流ということになるのだろう。(将棋世界最新号では、所司和晴七段が地下鉄飛車の紹介をしている)

角田流は地下鉄飛車に比べれば飛車1枚分攻撃力が劣るが、逆に手軽に組める利点がある。

穴熊の頭上に爆弾をぶら下げておいて、反対側から仕掛けるという方法もあるようだ。

——–

谷川五段が角田流を指したのが角田八段が70歳の時。

孫のような年齢の超天才棋士が自分が考えた戦法を指したのだから、角田八段も本当に嬉しかったことだろう。

「感謝しなければいけないのは、こちらの方なのだが」と書いている谷川五段も立派だ。

角田八段は75歳、現役のままで亡くなっている。

 

 

大山康晴十五世名人の欲望

将棋世界1979年1月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 充実のとき」より。

 昭和40年の1月ごろは、王将、棋聖の両タイトル戦を戦っていた。棋聖戦は勝てば永世棋聖になれる。王将戦は通算10期の記録をつくれる。それに五冠王は守りたいというわけで、三つの欲望にからまれた私は、勝負の鬼になっていた。まだ若かったので、欲望が張り合いとなり、充実した日々でもあった。

 若さはいいものだと、いまさらながら、つくづく思う。

 幸いにも棋聖戦には勝って、永世棋聖になったが、王将戦はこの一戦に勝たないと、10期の記録はおあずけになる。欲望の実現に向かって、一段と闘志を駆り立てた思い出がある。

——–

将棋世界1979年2月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 思い出が悲しみに」より。

 昭和40年代に入って、二上八段(当時)を先頭に加藤一二三八段、故山田道美八段など、一群の新人が、大山退治を宣言する様子で、私に迫ってきた。

 天才と称される連中ばかりだから、私の五冠王も、いつまでつづけられるやら、と内心では覚悟を決めていた。中でも山田さんは、”おれが大山名人をやぶる”と豪語していることを伝え聞くほどであった。

 人柄は立派。研究熱心。それに天分豊かであるから、よほどの自信を持っていたにちがいない。しかし、私も負けず嫌い。とくに新人に対しては、一度はたたいておかないと調子にのるから、というわけで、一段と闘志を燃やしてぶつかることにしていた。

 それはとにかく、山田さんが健在でいたら、プロ将棋界の様相もよりよいものになっていたのではないかと考えられ、残念でならない。

——–

将棋世界1979年4月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 思い出が悲しみに」より。

 がんばって五冠王を守った。こんどもどうやら五冠王の地位を保つことができた。運にも恵まれて、まだ五冠王でいられる。こんな状態がつづいてくると、自信がめばえる。が自信はちょっと変われば、うぬぼれになる。

 うぬぼれは安易な着想や、指し手を生みやすい。精進を忘れさせるからだ。この十段戦も三対一とリードしたとき、そのトリコになって、三対三と、二上さんに追い上げられてしまった。常に精進努力、それに前進を心がけていなければ、現在の地位は保てない。

 私はやっとその気持ちを取り戻して、第七戦に立ち向かった思い出がある。棋譜を振り返りながら、プロ棋界の繁栄をつないでいくのも同じ気持ちであらねばならん、と会長の自分に云い聞かせている。

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将棋世界1979年7月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 経験は貴い、といまも思う」より。

 昭和38年の3月に、私は王将位を失って、1年間四冠王でいたことがある。かなりのショックだったが、持ち前の負けず嫌いが出て、こうなったら、どんな棋戦でも勝ちまくってやる、と張り切った思い出がある。

 なにごとでも、絶頂期にはそうした気魄が自然に湧き出てくるように思えてならない。

 それをとくに感じたのは、広津八段の一戦である。広津さんも一番充実していたころで、ある棋戦に優勝し、私と記念対局で顔を合わせた。ふつうなら、それほど勝負に執念を燃やす一戦でもないはずなのに、負けてなるものか、と闘志をかきたてた記憶がある。

 広津さんは器用な棋士で、特異な棋風が感じ取れた。また行政手腕もすぐれていて、現在も日本将棋連盟の専務理事をつとめている。私は会長。しかもおないどし。いまなら、会長、専務の一戦ですね、と笑いあえるところだ。

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将棋世界1979年12月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 五冠王を失う」より。

 形あるものは必ずくずれる。力で取った地位は、いつかは失う。天地自然の理である。

 とは知りながらも、できるだけその地位にとどまりたいのも、自然の感情といえる。

”なんとも思いませんね”などの言葉もたまには聞くが、本音として伝わってはこない。

 私も血のにじむ思いをしてかち取った五冠王の地位を一時も長く保持するためにがんばった。

 いま考えると、人生をそれにかけていた。しかし、天地自然の理には勝てず、五冠王を失うときが来た。負けることはあってもすぐ取り返せる、の自信は持っていたけれど、現在まで二度と五冠のタイトルは戻ってこなかった。

 最初に失ったのは棋聖位だが、奪ったのは故山田九段である。山田さんは、まれに見る立派な棋士で、生きていたら、プロ棋界はいっそうの繁栄を見ていたかも知れない。

 私としては忘れ得ぬ一局なので、なき山田さんをしのびながら、思い出をたどってみる。

 また半生記の区切りでもあるので、半生記はこの号で打ち切らせていただくつもりだ。

(中略)

 四間飛車が気に入って振り飛車党になったが、その後いろいろな形の振り飛車が指されるようになった。

 となるとすこしは経験しておかないと振り飛車党としては、あまり大きな顔ができなくなる。

 その意味で、大きな一番ではあるが、当時かなりはやっていたツノ銀中飛車を用いることにした。

(中略)

 全盛期はふりかえって、初めてわかる。

 棋聖位を失っても、すぐ取り返せると考えていたが、いまではすべてのタイトルを失っている。

 五冠王にある時が私の全盛時代といえるようだ。

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将棋の勝ち負けについては達観して淡々としているように見えた大山康晴十五世名人だが、五冠王に対してこのような熱い思いを持っていたと初めて知る。

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Wikipediaでの記述によると、大山十五世名人の五冠王(全冠制覇)の時期は次の通り。

1962年棋聖戦(後期)から1962年王将戦まで約60日
1963年王将戦から1966年棋聖戦(前期)まで約870日
1966年棋聖戦(後期)から1967年棋聖戦(前期)まで195日
1970年棋聖戦(前期)から1970年十段戦まで147日

「棋聖位を失っても、すぐ取り返せると考えていたが、いまではすべてのタイトルを失っている」

は、

「棋聖位を失っても、すぐ取り返せると考えていたしすぐに取り返すことができて五冠王に復帰できたが、いまではすべてのタイトルを失っている」

が正確な言い方だろう。

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大山十五世名人、この時56歳。

この後、1980年に王将位を奪還、1981年と1982年に2年連続で防衛を果たしている。

 

 

大山康晴十五世名人のほとんど遠慮のない棋士紹介

将棋世界1979年1月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 充実のとき」より。

 加藤博二八段は、私と同年で、誠実な人柄は仲間の信頼も厚く、”博ちゃん”の愛称で呼ばれている。棋風も好守にバランスの取れた大型だが、おてんとうさまは意地わるで、すべてをよくしてくれない。

 若いときから体調がすぐれないため、大出世までには至っていない。同年代だから、私もくやしく思うが、本人もさぞかし残念なことだろう。しかし、この王将戦は大出世するためには絶好の機会。表面はいつも静かな様子の博二さんだが、内心に燃える闘志の火が音を立てているように感じられた。

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将棋世界1979年8月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 あまりのマジメさゆえに」より。

 以後、まずは顔を合わせることはないであろう、と思われる相手との対戦は忘れがたいものである。山川八段(当時七段)との一戦もその一つである。山川さんとは、いまでも深いつき合いをしているが、誠実な人柄には、時に胸打たれることがある。

 ズルさ、うまいかけひき、図太さ、冷徹な判断などは、よい意味で勝負に不可欠の条件である。棋理に通じ、研究熱心な山川さんではあったが、盤に向かうと、あまりにも生マジメな性分が勝負にはマイナスするかに見え、大棋士になり得なかったのはいまでもざんねんでたまらない。

 この勝負も山川さんの堂々たる布陣に圧倒され気味だったが、山川さんは時間をなくして、ポッキリ折れてしまった。これもマジメさゆえの勝負ミスであったようだ。

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将棋世界1979年9月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 どたん場で綱渡り」より。

 下平七段は30年余りも、本誌の販売、経理の仕事を務めてきている。プロ棋士としては、縁の下の土台石みたいな役目をつづけているわけだ。

 若い頃、”縁の下の石がお日さまをながめたくなったら、家はこわれますよ”と知り合いのおじいさんに聞かされたことがあるけれど、下平さんの顔を見るたびに、あの古老の言葉を思い出す。

 しかし、土台石は芯が強くないと、家は支え切れない。下平さんの棋風に、これは、と驚かされるほどの強気が秘められているのも、土台石の強さであるような気がする。

 それほどの力もないくせに、すぐ陽の当たる場所に群がろうとする人達の多くなったいまの世の中には貴重な存在に思えてならない。

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将棋世界1979年11月号、大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記 一手、一手に汗する終盤戦」より。

 約30年前、プロ棋界は全棋士が一丸となって再生の道を歩き始めていたが、関東、関西の対抗意識はまだかなり強かった。

 名人位、箱根の山を越すか、などのタイトルも価値あるものとして大きな活字で取り上げられていた。私も関西方のホープと期待され、負けてはならじ、と闘志を燃やしたものである。といっても、関東方の棋士については、よく知らなかった。

 天才松田茂行八段の名は、よく聞かされていたが、他の若手花形の名はあまり聞かない。

 だから五十嵐八段と初めて顔を合わせたときは、ちょっとおどろき、年齢から考えて将来強敵になるのは、この人ではないか、と思うようにもなった。

 しかし、その後五十嵐さんは、長くAクラスにいながら、なぜか伸び足をにぶらせて、いまは不本意な地位にいる。最近酒席をともにする機会があって、昔話をにぎわせたが、”酒を愛してしまったからな”と春風が吹き抜ける顔つきに笑みを浮かべて五十嵐さんはポツリと云った。いつもあったかい姿勢をくずさない五十嵐さんだが、盤上に凄みをたぎらせていたころの棋譜をふりかえってみる。

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それぞれの棋士の人間性を褒めるが、将棋のことについてはほとんど褒めていない大山康晴十五世名人の「棋譜で綴る半生記」。

タイトルを複数回獲得するようなトップクラスの棋士、になるのに足りなかった点を遠慮なく書いている形だ。

大山十五世名人だからこその世界。