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大野源一八段(当時)「振飛車の指し方を知らんな。一つワシが教えたる」

将棋世界1986年10月号、田辺忠幸さんの「観戦記 心に残るこの人、この局面」より。

(1968年の)5月末には大野源一八段(当時)-熊谷達人八段の一戦を担当した。日本最強者決定戦の3回戦である。明治44年9月生まれの大野八段は当時56歳。なにしろ、升田幸三九段、大山康晴十五世名人の兄弟子であり、A級在位通算16年の強豪とあって、関西棋界ではだれもが一目置く大看板であった。

《ベテラン大野八段が自他共に許す振り飛車名人なら、熊谷八段も名前のように振り飛車の達人である。振り飛車の名人と達人が戦ったら、いったいどういう将棋になるのだろうか。興味はしんしんである。》

この将棋は出だしから風変わり。先手の大野八段は▲7六歩△3四歩に▲5六歩と突いた。△5七角の打ち込みを歓迎する大野八段好みの指し方。それも百も承知の熊谷八段は△5四歩▲4八銀に△4四歩と角道を止めて振り飛車を目指す。すると大野八段は▲2六歩と突き、3図まで進んだ。

 振り飛車名人が居飛車で戦うのが珍しいばかりか、その指し方がすこぶる奇妙なものだった。ここまでの消費時間が0分だったところをみると、予定の行動だったらしいが……。

 実はこの指し方こそ、灘蓮照八段(当時)が得意にしていた対振り飛車戦法で、「灘方式」と呼ばれた代物なのだ。

 大野八段は3図以下、灘方式にしたがって駒を右翼に集めた。29手目の▲2九飛が4図

《この灘式はあえて敵の飛車の正面に本陣を構築する。そして▲2九飛と引き、機を見て飛車を左翼に転じようというものだ。一理も二理もある作戦だが、難点は玉の囲いが中途半端なことだろう。熊谷の表現を借りれば「あんまり威張れない王様」なのだ。》

 4図で熊谷八段が△5五歩▲同歩△同飛と動く。▲7七角△5一飛に、大野八段は▲6九飛と転じた。「飛車を振らんと気持ち悪くてかなわん」と、うれしそうに言ったと観戦記にある。

 この灘流は東京では見られない戦法であり、どのような展開になるのか見当もつかなかったが、▲6九飛に△4三銀で昼食休憩の後、大野八段は▲6五歩と開戦に踏み切った。

《午後1時再開。大野は3分で▲6五歩と突っかけ、▲5六銀直と立つ。そして「相手は弱いからな」とデモンストレーション。大先輩大野の毒舌に慣れっこになっている熊谷は、微笑を浮かべながら鼻歌混じりで読みふけり、△3五歩と逆襲に出る。》

 その△3五歩をきっかけに大激戦が続き、夕食休憩後の夜戦に入った。73手目、大野八段は42分も使って▲1六角(5図)と遠見の角を放った。

 この種類の角打ちは好手が多いものだが、この場合は悪手と断じてもよいほどの疑問手だっが。味よく△5一歩と受けられて、角のさばきがつかなくなってしまった。▲1六角では▲3四歩が正着だった。△5一歩に▲4四歩と取り込んだものの、△1五金と打たれて角がご臨終になった。

 これで大勢は決し、108手で大野八段が投了した。

《大野は「下手な将棋を指した」とつぶやいて駒を投げた。午後11時19分であった。飛車が最後までさばけなくては大野の敗戦もやむを得ない。隣の有吉道夫八段-大友昇八段(A級順位戦)は一足先に終わり、感想戦たけなわ。大野は「振飛車の指し方を知らんな。一つワシが教えたる」と首を突っ込んだ。》

 大野八段は振り飛車に対し、いかにも関西風の「灘方式」を採用したが、結果はむなしいものに終わり、熊谷八段が4回戦に進出した。

 思えばあのころ、熊谷八段も、大野八段も、そして灘八段も元気だった。それが皆さん故人になってしまった。

 難病との戦いに疲れた熊谷八段は、1977年4月12日、脳腫瘍のため46歳の若さで世を去った。1974年に九段に昇った大野先生は、重病を克服しながら1979年1月14日、不慮の事故で亡くなった。67歳だった。灘八段も1976年に九段に昇進したものの、1984年4月26日、脳梗塞のため57歳で天国へ。

 そのほか二見敬三七段、本間爽悦八段、北村秀治郎八段、角田三男八段と、大阪転勤で親しくしていただいた棋士の方々は、大半不帰の客となってしまった。どうして関西の先生方はあの世への旅立ちを急ぐのだろうか。

 どうも話が湿っぽくなったと思ったら今は旧盆の真っ最中である。

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大野源一九段に「振飛車の指し方を知らんな。ひとつワシが教えたる」と言われたら、私は感動のあまり3日間くらい眠れなくなってしまうだろう。

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大野源一九段 は江戸っ子で洒脱な人柄、その悪気のない毒舌は漫談家のようだったと言われている。弟が漫才師の故・あしたひろしさんだった。

大野源一九段とあしたひろしさん

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灘方式をよく見てみると、現代の糸谷流右玉に似ている。また、清野静男八段の岐阜戦法も対振り飛車右玉だ。

糸谷哲郎八段が50年ほど前の灘方式や岐阜戦法を研究していたとも思えない。

それぞれ形は似ていても、その後の指し方や方針が違ってくるのだろうが、時代が変わっても、対振り飛車右玉をオリジナルで考え出す棋士が登場するというところが面白い。

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対振り飛車右玉は強いて言えば居飛車に分類されるのだろうが、大野源一九段が指せば振り飛車の展開になる。

しかし、振り飛車は美濃囲いの堅陣を前提とした強い捌きが可能だが、対振り飛車右玉は陣形が弱く、強い捌きに出るのは危険が伴う。

大野九段の持ち味が発揮できない戦型だったのだと思う。

 

 

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38手の大激戦

将棋世界1986年9月号、内藤國雄九段の「自在流 スラスラ上達塾」より。

 近頃は長編小説は初から敬遠する。

 小説を読むなら短編でピリッとしたものをという気持ちである。

 将棋に短編、長編の呼び名はないが、鑑賞する場合短手数の方が面白い。

 仮に短編将棋という呼び方をするとしたら何手までとすればいいのだろうか。

 将棋の平均手数は前回申し上げたように116手強である。100手程で終わるものは、短いとは云えるが短編と呼ぶには抵抗がある。

 といって50手や60手では内容的に問題があって鑑賞に耐えるものを探すのは至難の業となってしまう。

 中をとって80手ではどうかーーと思った。

 連盟で用いている記録用紙一枚が丁度80手であった。(現在は150手となっているが、これは経費節減のため)しかし、もう一手足して81手とするのもハッと思う。

 ”盤寿”という言葉があり、これは将棋盤の目数だけの年齢、つまり81歳を意味している。81手はこの盤寿と一致する。

 このあたり(80手前後)の一手の違いは非常に大きく、たとえば81手とすることで前々回(第43期)名人戦の第2局が短編将棋に仲間入りする。

(中略)

 いま名人戦という言葉が出てきたが、大勝負中の大勝負といっていい名人戦の手数はどうであろうか。

 一般に大勝負というものは手数が非常に長くなるか、逆に極端に短くなる傾向がある。

 第43期(谷川-中原戦)の場合、全5局のうち101手以下が3局、146手以上が2局で、平均手数は122手強となる。特に第1局は188手の長手数、最終局(第5局)は89手の短手数であったのは面白い。

 勿論、手数の長短は対局者の棋風による所が大きい。

(中略)

 故。塚田正夫名誉十段の棋風は、特に若い頃、今の谷川将棋に似た激しさがあり勝っても負けても異常に手数が短いという傾向がみられた。

 第6期名人戦の最終局では63手という超短手数で木村名人を倒し名人位を手中におさめた。次に、現在に至るまで破られていないこの名人戦最短手数記録局をみてみることにしたい。

昭和22年6月6日
第6期名人戦第7局
▲八段 塚田正夫
△名人 木村義雄

▲7六歩△3四歩▲2六歩△5四歩▲2五歩△5五歩▲2四歩△同歩▲同飛△3二金▲3四飛△5二飛▲2四飛(1図)

 この戦型は余り見かけなくなったが完全に消えてしまったわけではない。

 先手も後手も色々工夫を加えた形で、現在でも時折り登場してくる。

 この戦法は、このあとの指し方をご覧になれば分かるようにあらゆる戦法の中で最も激烈であるといえる。

 というのは大抵の場合50手或いは精々60手台で勝負がついてしまうという過去の事実がそのことを雄弁に物語っている。

 振り飛車や矢倉しか指さない向きにはこの戦型は無縁であるが、序盤からいきなり終盤に突入してしまうこういう戦法を見ておくことは頭の体操、感覚の養成にいいのではないかと思う。

 さて1図、▲2四飛では▲3六飛と引く手もありこれだと手数の長い勝負になる。

 ▲2四飛はこのまま▲2八飛と引けば歩得で指しやすくなるのは明らかである。

 ここから激戦の幕が切って落とされる。

1図以下の指し手
△5六歩▲同歩△8八角成▲同銀△3三角(2図)

 △5六歩、この一手に木村名人は4時間13分を費やしている。

 ▲同歩はこの一手だが、これに対して角交換から両取りの△3三角を放つ。

 △8八角成の手で単純に△5六同飛と走る手もある。

 これは後に△7六飛と歩を取り返しほぼ互角の展開となる。今から10年近く前に初めて指された手だが、以前からこの戦型を研究してきた私にもこの手が思い浮かばなかった。

 先入観があって、激しい方へと頭が走ってしまうのである。

2図以下の指し手
▲2一飛成△8八角成▲7七角△8九馬▲1一角成△5七桂(3図)

 何とも激しいここ数手のやりとりが、この戦法の見せ場である。

 あっという間に駒を取り合って竜や馬が出来てしまった。序盤から忽ち中終盤に突入した感じである。

 △5七桂の両取りでは△6七馬、或いは△4四桂といった手も指されている。

 特に△4四桂は私が研究した手であったが実戦では以下▲2三桂△4二銀打▲3五香△3三歩▲同香不成といった風に先手に攻め経てられ73手で敗北を喫した。

 さて3図、△5七桂も厳しい手で次に△5六飛や△6七馬という手が控えている。

 第一感、あなたなら先手、後手のいずれを選びますか。

3図以下の指し手
▲5八金左△5六飛▲6八桂△4九桂成▲同玉(4図)

 どちらを選ぶか―これが大問題。

 名人位を賭けて木村名人は後手方を選び挑戦者の塚田八段(当時)は先手方をとった。

 実はこの対局の前に、両者は全く同形の戦いをし、木村名人が勝っている。

 その時の手数が何と38手という短いものであった。

 参考3図は4図に至る指し手中先手▲6八桂とせず▲4八金直としたもの。

 金当たりを避けつつ次に桂取りをみた▲4八金直は一見好手にみえるが、これが大悪手。

 次の一手で先手の塚田陣は忽ち崩壊してしまったのである。

 参考3図、後手方の次の一手を考えていただきたい。(解答は末尾に)。

 本譜に戻って魅力的に見える▲4八金直ではなく▲6八桂と打つのが先手の最善手。

 4図、後手の飛車はどう動くか。

4図以下の指し手
△5八飛成▲同玉△6二玉▲5三歩△7二玉▲5五馬(5図)

 △5八飛成は止むを得ない。△5二飛は▲5三歩~▲5四歩から香打ちが待っている。

 これで飛桂香対金金銀の交換となった。

 この駒割りからだけでは俄に優劣はつけ難い。しかしこのままでは▲5三桂という厳しい手があり差し当たって後手はこれを防がなければならない。

 △6二玉は▲5三桂を防ぎながら玉を安全地帯へ運ぶ考え。▲5三歩は▲3二竜から▲4二飛、或いは▲5二金の早い寄せを狙っている。

 そして△7二玉に対する▲5五馬は攻防の位置に馬を据えたもの、今ならノータイムで指す手だが第一発見者は96分の考慮を払っている。この一手で、漸く先手良しの形勢が浮かび上がってきたといえる。

(中略)

 投了図以下は△8四同玉と応じても△7二玉と逃げても、簡単な王手詰めがあることを確かめていただきたい。

 かくして名人位を決する重大な一番が、序盤から終盤に一気に駆け込む激しいやりとりの後、最短の寄せという結末をみて僅か63手という短手数で終わったのであった。時に木村名人は43歳、塚田新名人は33歳であった。

 木村名人は2年後に、この同じ相手から名人位を奪回する。その時の最短手数は93手であった。

 さて、途中参考3図の後手方の次の一手は△7九馬である。▲4八金直はこの手を見落とした一手バッタリの手であった。

 参考までに38手で投了するまでの指し手をあげておく。

図以下の指し手
△7九馬▲5七金直△同馬▲4九玉△5八金▲同金△同馬▲3八玉△2六歩▲2七歩△4八銀(参考投了図) 
 まで、38手で後手の勝ち

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38手で先手の投了となった塚田正夫八段-木村義雄名人戦は、同じ年の別の棋戦での対局。

再掲3図以下、△7九馬は詰めろ。▲5七金直のところ▲5七金右は、△同馬▲同金△同飛成▲4九玉△4七竜で詰み。

参考投了図以下、▲4八同銀なら△同馬▲同玉△5九銀▲3九玉△3八金▲同玉△5二飛成で詰み。

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1図までは後手ゴキゲン中飛車の出だしに似ているが、戦前から終戦後にかけては先手の横歩取り戦法と呼ばれていた。

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63手で終わったこの第6期名人戦第7局は、長い間、名人戦最短手数記録局だったが、2015年の名人戦第1局〔行方尚史八段-羽生善治名人〕が60手で、68年ぶりに記録が塗り替えられている。

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3図から3手目の▲6八桂は、戦前、加藤治郎名誉九段が発見した手。

中学生の時に見た「全棋士会心の一手」のような付録があり、加藤治郎八段(当時)が会心の一手として挙げていたのが3図から3手目の▲6八桂。

長い間、どうして金を逃げずに▲6八桂なのだろうと思っていたが、これで長年の疑問が氷解した。

 

 

藤井猛九段の相振り飛車、絶妙の攻撃手順

将棋世界2004年10月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 この日行われたA級順位戦の、藤井九段対久保八段戦は、昼間から重苦しかった。それは藤井九段が、序盤の駒組勝ちに勝負をかけていたからである。

 1図は先手が▲8六歩と突いたのに対し、後手が△8四歩と対抗した場面。

 藤井九段の意図は明らかで、△8二銀と上がった手を生かして、次に△8三銀とし、△7二金から銀冠に組もうとしている。

 普通、銀冠はまず美濃囲いを作り、そこから発展させて組む。また、玉の移動に合わせて囲いを作っていくのが手順とされる。

 しかし、そうした常識に従って、1図で△8四歩と突かずに、△6二玉と上がったりすると、先手に▲8五歩とすぐ突かれてしまう。

 つまり、1図が藤井流にとっては勝負所である。そして、銀冠に組み、後から玉を囲いに入れることができれば、作戦成功というわけだ。

 相振り飛車には、銀冠が有効、というのが藤井九段独特の感覚で、多分正しいのだろう。

(中略)

 大広間でもう一局戦われていた、三浦八段対井上八段戦は井上快勝。残ったのは、A級順位戦の一局だけとなった。

 夜の9時。局面は9図のように進んでいた。銀冠の囲いが完成し、藤井九段の構想通りとなっている。

 久保八段は攻め手がなく、4筋の歩を突き捨てて▲5七金と動いたところだが、藤井九段はこの一瞬を逃さなかった。

9図以下の指し手
△1六歩▲同歩△3六歩▲同歩△1六香▲4五歩△1九香成▲4四歩△2九成香▲同銀△2七飛成(10図)

 持歩の二歩を活用すべく、△1六歩と端を攻めたのが鋭い。

 1、3筋を突き捨て、いきなり△1六香と走ったのにはびっくり。△1七歩とタラすならわかるが、ここは△1六香が早いのだった。

 △1六香を▲同香は、△3七歩で、▲同桂は△1七角成だし、▲同銀は△2七飛成で突破される。

 久保八段は、仕方なく▲4五歩と打ったが、ここでは、いかん、と思っていたと言う。

 角取りにかまわず△1九香成は読み筋。以下△2七飛成の10図まであっさり後手勝勢となった。

 まったく見事な攻めで、控え室で経過を見ていた三浦八段も、ここで帰ってしまった。

 10図で先手が粘る筋は▲2八銀だが、△1八竜▲1九歩△3七香▲3八香△2七桂で寄り。

 実戦は▲2八歩△3六竜▲3八歩と緩んだ手順で受けざるを得ず、△4五香で一方的になった。

 終了は午後11時1分。早い終局で、感想戦はもっぱら9図に至る前の、実戦とは離れた形が研究された。見ていて升田名人の感想戦と同じだと思った。後手に銀冠に囲わせてはだめ、というわけで、ヒゲの大先生の口調を真似れば、△8四歩で、この将棋は終わっとる、ということになろうか。

 ともあれ藤井九段には大きな1勝だった。これで気分よくお盆休みを楽しめることだろう。

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後手の持ち駒が歩が2枚だけなのに、9図から数手で先手陣が崩壊してしまうのだから驚いてしまう。

普通なら、△3三桂としてから△1六歩▲同歩△1七歩のような攻め手順を考えるところだが、藤井猛九段の機敏な仕掛けがあまりにも見事。

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相振り飛車には銀冠が有効とあるが、向かい飛車にされた時だけは、格好の攻撃目標になってしまうので有効とは言えない場合が多い。

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現在は雁木が流行しているが、相振り飛車を左右反転させれば相居飛車力戦の将棋。相振り飛車でも雁木が有効なのかどうか、これは全くわからない。

 

 

「これがコテコテの関西将棋だ」

将棋世界2004年4月号、増田裕司五段(当時)の「関西将棋レポート」より。

 エピソードといえば、関西将棋会館で掃除、洗濯、奨励会員にアドバイス等々、お母さん的存在の楢原嘉子さんに話を聞いてみた。

Q.何年前から連盟で働いているのですか?

A.17年めになるのかなあ

Q.初めての連盟の印象は?

A.一番最初、ビルの中に対局場(江戸城を真似て作った)があるのがビックリしてねえー

Q.対局中に、おしぼりを出していただきましたが…

A.対局場に入ると、いつも緊張の連続で…。4、5年前かなぁー「失礼します」って対局場に入ったら米長先生が上座に座っておられて、鼻歌で「ちっとも失礼じゃあ~ないですよぉ~」って言われて吹き出しそうになったけど、それから気分がほくれたわ。

 話が変わるけど、一番つらいのは、奨励会の子が辞めていく時やねー。ほんとにいい子達が辞めていくのは心が痛むわ。何年か経って「楢原さーん」って連盟に会いに来てくれる時は、すごくうれしいけど。

 楢原さんがいると心が和むのは私だけではないだろう。

 1図は児玉-伊藤戦で、伊藤六段が△2七飛と打った局面。ここからの手順がすごかった。

 1図以下▲5八金!!△2五飛成▲4八桂!!△1五歩▲5五歩△4五竜▲6七銀△4三角▲6五歩△同角▲6六飛!!△4三角▲6五歩(2図)

私はこの棋譜を並べて、これが関西将棋だと感動したが、児玉七段の手順は力強く、自分をさらけだした人間臭さが感じられる。

 3図はその最終盤。

 伊藤六段の△7三同銀に▲8五桂!!△7二歩▲8六銀!!△2五竜▲3五歩△同竜▲7四歩!!△4六竜▲7三歩成△同歩▲7五銀まで児玉七段の勝ち。

 手順中、▲8六銀に△6六金は▲9四桂△9二玉▲7三角成で寄り。▲7四歩に△同金は▲3五角で竜がタダ。

 児玉七段の会心譜であった。

 終局後、両者は練習将棋を。

 伊藤「練習将棋はゆるめてくれるからなぁー。けど気持ちがちょっとは楽になったわ」

(以下略)

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楢原嘉子さんが今もご勤務されているのかどうかは分からないが、このような方が思い出話を書けば、良い話や面白い話がたくさん出てきそうだ。

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児玉孝一七段(当時)の▲5八金~▲4八桂が、何もさせないぞという手順。

形が乱れるし桂を手離して専守防衛させるのだから、感覚的には指しづらいところ。

そして、目標は後手の6四桂を殺しにいくことであることがわかる。

3図からの▲8五桂(△同金なら▲7四歩)~▲8六銀も凄い食いつき。

関西将棋と呼ばれる発端は阪田三吉なのだと思うが、本当に力強く感じられる。

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対局が終わった後も練習将棋をするところが、児玉孝一七段と伊藤博文六段(当時)の仲の良いところ。