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升田幸三実力制第四代名人「木村、生きとれ」

将棋世界1991年6月号、「さらば、升田幸三 ―傑作語録集」より。

近代将棋1991年6月号表紙より。
「名人に香車を引いて勝つまで帰らん」

 昭和7年13歳の時、母親が毎日使っている物差しの裏に書き置きを残して家出する。ただ将棋界の情報に詳しくなかったため本当は、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」と少々意味不明の言葉を書いている。

「落ちるのがいいんや」

 駒台から駒が落ちやすい、というので三方にカキを作ろうと提案した人に対して阪田三吉師の話「勝負というのはいつすべり落ちるかわからん。すべり落ちるところにええところがあるんや。落ちない将棋なんて将棋やない」。これがよほど気に入ったらしく色々な所で升田も語っている。

「木村、生きとれ」

 第2次世界大戦時応召を受け南方ポナペ島に行き、連日激しい爆撃を浴びる。その中にも打倒木村の念はつのり、ある夜歩哨に立ち、月を見て「木村、生きとれ」と心に叫んだ。「月が連絡してくれるなら通信将棋で木村名人と戦ってみたい」と思ったともいう。

「錯覚いけないよく見るよろし」

 昭和23年3月3日。塚田名人への挑戦権を弟弟子の大山七段と争った”高野山の決戦”の第3局。必勝の局面で終盤に受けを誤り、トン死をした時の言葉。おどけがまた悲しい。

「将棋は日本の精神」

 終戦後GHQに呼ばれ、チェスとの比較での言葉。「チェスでは王様が助かるために女王をタテにする。女を犠牲にして王様は逃げ出す。日本ではそんな民主主義は通じない。日本将棋では最初から女は戦場にはつれてゆかぬ。また敵の駒を取った時、銀なら銀で格下げせずに使う。これが日本の精神だ」。GHQの係員が困ったという。

「攻めは責めだ」

 ”攻めの升田”といわれた。ただ前に進むだけが攻めではない。

「山より大きなイノシシはいない」

 何ものにも怖れる必要はない、と続く。

「どっちが勝つか、青酸カリをそばに置いて負けた方が飲むことにして勝負をしようじゃないか」

 塚田正夫九段との会話。当時の升田は、常にこの激しさで対局に向かっていた。

「名人なんてゴミみたいなもんだ」

 打倒木村に燃える升田は盤外でもことごとく突っかかった。昭和24年6月8日金沢市「つば甚」で。全日本選手権で対局。総手数210手。打ち上げの席上で、前日豆腐は絹ごしがいいか木綿ごしがいいかの論争がむしかえされ、「名人なんてゴミみたいなもんだ」と放言。木村名人も色をなし、「名人がゴミなら君はなんだ」とやり返し、こたえた升田八段は「ゴミにたかるハエみたいなもんだ」といった。

「ゴマシオ論争」

木村「大山君には悪いが、今度は君に来てもらってよかった」

升田「おとなしい女房の味にあきてキャンキャン芸者もたまにはいいというわけですか。とにかく枯淡の味の出てきた名人に挑戦できてくれしいです」

木村「君はそういうが、枯淡な味が出たらおしまいじゃないか」

升田「ゴマシオ頭にいつまでも名人でいてもらっては困るというのが本音です」

木村「ゴマシオ頭でも負けたくないからな。とにかく風邪を治しなさい」

 昭和26年、名人戦への挑戦権を得て直前のラジオ対談で。なおこの時は升田2勝4敗で惜敗。

「強がりが雪に轉んで廻り見る」

 昭和26年、木村名人との第1期王将戦で升田は4勝1敗と圧倒し、王将を取ると同時に念願の名人を香落ちに指し込むことに成功した。その香落ち番は「陣屋」で行われることになっていたが、前日升田が行ったところベルに故障があったか玄関に誰も出て来ない。升田は腹を立て隣の旅館で酒を飲み対局拒否を告げた。陣屋事件である。時の理事会は升田に1年間出場停止を通告、大もめにもめた。この後、木村名人の裁定で処分取り消しが決まった。騒動が一段落した後、升田は友人と陣屋に出かけたが、その場で書を求められ、即興の句を作った。なお半香に指し込まれたことが木村名人の棋士生命を縮めたか、この後第11期名人戦で大山九段に屈し、現役を退いた。

「たどり来て、未だ山麓」

 昭和32年、第16期名人戦で大山名人を破り、名人位に就く。”世間は名人だのなんだのと騒ぐけれども、自分では騒いでくれる名人らしい心境などではなかった。名人らしい感想みたいなことを求められるけれどもそんな容易なものではなかった。実際に道をきわめるなどというのは容易なものではない。道は果てしない”

「きみはタケゾウだ」

 吉川英治氏が升田に言った言葉。”どうして先生はこんなに僕たち未熟なものを親身になってヒイキされるのか、といったら、完成されたものには魅力がない、とおっしゃった。焼き物でも粗削り的にできているものがいい、きみはそれなんだ、そういう意味での魅力なんだ、といわれた” 升田はこの後、宮本武蔵の研究を続け、一家言を持つようになる。

「動くと働く」

 動く、は動物的、働くには人意がある。この人意が大切なのだ。香車の使命は静止にある。それがもくもくと動いて上にあがっては働きがなくなる。

「定跡は不定」

 定跡をまる覚えにして、定跡によしと書いてあったが、やったら負けた、ということがある。定跡を過去のものとして見てはいけない。200年、300年前の定跡を鵜呑みにする姿はまちがいである。定跡の本を読んで弱くなったというのは過去をいっているからである。定跡とは不変のものではない。

「着眼大局、着手小局」

 升田の好きな言葉で、色紙にもよく書いた。”眼は大局にこらし、実行は己の足元から固めてゆく。これは将棋に限らず、人の世のすべてに共通する哲学だと思う”

「足りない、足りない」

 ”未熟なものほど、余分なものを欲しがる。そしてそれを持っているがゆえに負ける。僕はいつも足りない、足りないと思って仕事をしている”(対談の中で)

「平心好術、好妻好局」

 やはり好きな言葉。”僕のような短気者は欠点が多いからあえて平心と書く。なりたいという夢があるわけだ。妻の方はのろけでいい妻だという意味だが、なおこれ以上になればいいという欲もある”

「私は病気ではない」

 名人も2年で手放し、その後はしばしば病に倒れたが、「私は気がやんでいるわけではないから病気ではない、病体だ」と闘病時にも気弱になる事がなかった。

「六十で名人になる」

 随筆集「新手一生」より。”実際になれるかどうかはもちろんわからない。しかし40代の名人はありうるが、50代で天下をとることは将棋の世界では不可能だとされてきた。それをさらにのばして60代の名人になってみようというもので、升田的だと思っている。咲いては散り、咲いては散るかもしれないが、そのたびに根を深くおろせば、なれないことはないであろう”

「升田は升田に負けた」

 昭和38年、第22期名人戦に登場したが1勝4敗で敗退。”4年ぶりの名人戦をやってみて、相手に負かされたという感じがちっとも湧いてこないのはなぜだろう。自分で自分に負けた、自分で自分の王様を詰めてしまったという感じばかりが強い。首をさしのべている相手に、ヤッとうちおろした刀が、横にすえてある地蔵さんを切れば刃もボロボロにこぼれようというものである。自分の相手は自分以外にない。升田の敵は升田だけだと、毎日自分にいいきかせている”

「新手一生」

 升田は多くの新手、新構想を盤上で発表したが、常に新しいものへの挑戦からこの言葉を生んだ。”私は青年時代からつねに新しいものを創り出す努力をつづけてきた。大きな勝負でもしばしば新手を打ち出すということをしてきたが、「ここで一つ新手を出してやろう!」と思っても決していい発想が浮かぶものではない。つねづね考えていることが、その場になってばっとひらめくのである”

「肩書きはいらない」

 僕は本当は肩書きとか政府がくれる勲章みたいなものは欲しくもなんともないんだ。わかるだろう。僕は将棋指しだ。死んで、後世に遺るものは対局棋譜だけだ。しっかりまとめて下さい。(朝日新聞社が「升田幸三選集」を出版するにあたっての言葉。

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1日1つの言葉で23日分のブログ記事にしようかと一瞬思ったが、それでは日めくり名言カレンダーのようになってしまうので、一気に掲載。

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「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」

升田少年が家出をしたのは、母親に将棋指しになることを大反対されたため。

この頃の升田少年は各県に名人がいると勘違いしていて、広島の名人に香を引いたら、今度は大阪へ出ていく、という意味ではなかったかとも言われている。

お金も持たず家出したその晩、升田少年は広島の繁華街に出ていた大道詰将棋を解いて獲得した賞品をお金に換え、それでハヤシライスを食べている。この時のハヤシライスの美味しさは一生忘れられないと後に述べている。

しかし、ハヤシライスについては「だから今でも、それを思い出してときどき食います。詰将棋つめて食ったハヤシライスが恋しくてね。しかし、どんないいのを食っても、記憶のなかの、あのときのうまさにかなうものがない。ちょうど徳川家康が金山を視察した帰りに安倍川餅を、うまいうまいと食った、あれですよ。あれは空きっ腹だったからうまいんで、ふだんはそんなにとびきりうまいもんじゃない。それと同じです。人間、何がウマイとかマズイとかいうが、やはり心ですな」と著書『勝負』には書かれている。

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「木村、生きとれ」

ポナペ島は現在はポンペイ島と呼ばれている。

この地は、太平洋戦争の時に侵攻したわけではなく、第一次世界大戦の際に日本軍が無血占領し、1920年に国際連盟によって日本の委任統治が認められていた。

太平洋戦争では、西にあるトラック島にあった海軍の一大拠点の防備を担うのがポナペ島の部隊の主な役割だった。

ポナペ島には1944年3月からアメリカ軍による大規模な空襲が開始されたが、トラック島の基地が空襲で機能を失った6月以降は、アメリカ軍の攻撃目標がサイパン島、硫黄島などに移ったため、以前に比べ規模の小さい空襲はその後も毎晩続いたものの、アメリカ軍の上陸はなかった。

とはいえ、補給路が完全に絶たれたため、食糧事情は悪く、様々な苦労があったという。各部隊、畑に芋(甘藷)を植えるなどしたが、収穫は数ヵ月後。タピオカのすいとんなどが食事の主で、栄養失調になる人が続出した。カタツムリ、カエルなどを食べなければならないほどだった。

升田幸三実力制第四代名人が体を壊したのは、この時期に食べたトカゲが原因ではないかとも考えられている。

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「動く、は動物的、働くには人意がある」

これは、動くに人偏(にんべん)をつけると働くになる、ということ。

このようにコメントをつけていくと、たしかに23日分の日めくりカレンダーのようになりそうだ。

数年後、ネタがなくなるようなことがあった時に、この続きをやってみたいと思う。

 

大山康晴十五世名人「さようなら、升田さん」

升田幸三実力制第四代名人は、1991年4月5日に亡くなった(享年73歳)。

将棋世界1991年6月号、大山康晴十五世名人の「さようなら、升田さん」より。大山十五世名人による追悼文。

 升田さんとの出会いは、私が木見先生のところに弟子入りしたその日、昭和10年3月14日のことです。試験将棋ということで、角落ちで指してもらったのが、一番最初でした。結果は、当然下手のわたしの負け。

 これは余談ですが、あとから木見先生に「今日はどうだった?」と、その将棋の結果を訊かれ、「本に書いてあった通りに指したのに負けました」と答えると、「本に書いてある通りには、なかなかうまくいかないものだ。とにかく頑張りなさい」と言われたことが、強く印象に残っています。

 あれから56年……思えば長い長い付き合いでした。いろんなことは二人の間にはありましたが、懐かしい思い出がたくさんあります。

 入門して3ヵ月ほどたった頃、大阪で弁護士をされていた岸本晋亮さんという愛棋家のところへ、升田さんに連れていってもらいました。岸本さんは岡山県出身、私と同郷ということで、それなら一度―ということだったようです。

 大阪の街へ出たのは、この時が初めて。升田さんにいろいろな所を案内してもらいました。またこの折、岸本さんから3円頂きましたが、これが内弟子に入って最初の収入でもありました。むろんこのお金は、木見先生に差し出しました。

 当時の木見道場(といっても先生の自宅の2階)には、すでに大野さん(源一九段)、角田さん(三男八段)、そして升田さんの三人がいました。

 家の中の(木見家の)仕事や、事務的なことは角田さんが、外へ出ての稽古は大野さん、内での(道場での)稽古は升田さん、とそれぞれに分担していたようですが、升田さんの稽古は、アマチュア相手といえども手厳しかったようです。お世辞で負ける、などということは一切なかったようで、「升田さんは強いなあ」「一番も勝たしてくれないなあ」などと、感心したような、恨めしいような声を、よく聞いたものです。

 それだけ升田さんには常に向上心があり、「勝負は勝たねばならぬ」という強い気持ちがあった、ということでしょう。

 その木見家の2階、道場で、5年間、私達は寝起きを共にしたのです。

 その間、将棋は、私の方から積極的にお願いして、升田さんによく教えてもらったりしましたが、囲碁の方は、逆に升田さんの方から積極的に教えてくれたものです。

 たしか入門して2年、数え年の15歳の時に、初めて升田さんに碁を教えてもらいました。一番最初は、何と25目置かされて、全部石を取られてしまった思い出があります。それでも、1年くらいのうちには、先で戦えるくらいに、私の腕も上がりました。

 ちょうどその頃、毎日新聞社で親善囲碁会が催され、私と升田さんも参加したことがありました。

 二人とも成績は4勝1敗。そこで賞品として日本酒「菊正宗」特級一升ビン、1本ずつもらい、意気揚々として帰ってきたものです。

 私はその頃はまだ未成年でしたので、升田さんに差し上げようとしたところ、「オレも今から冷や酒を飲んでもしようがないからな、よし、オレに任せておけ。売ってきてやる」と升田さん。

 当時、特級酒一升は約1円、升田さんのお蔭で、こちらも配当金を受け取ることができました。

 ところが、お酒、特に「菊正宗」は、木見先生の大好物。先生の奥さんは当然、二人がお酒を持って帰ってきたのを知っていましたから、これでお酒を買っておく必要なし、と思われたようです。

 そして二人に「あのお酒、お前達どうした?」

「売ってきました」

「先生にこれだけお世話になっておきながら、お前達には、感謝しようという気持ちもないのか」と、当然の如く、二人そろって叱られてしまいました。

 私の入門した頃の升田さんは、何故か皆から「オッサン、オッサン」と呼ばれていました。本人も自分で「オッサンは」などと言ってたくらいです。若い時から、そんな風貌があったようで、独特の雰囲気をかもし出していたのでしょう。

 升田さんと私は宿命のライバルなどとよく言われましたが、私が毎日新聞の、升田さんが朝日新聞の、それぞれ嘱託になったということなどもあってか、これはむしろ周囲の人達が作り上げたような関係で、私自身としては、常に「兄弟子という升田さん」「将棋がもの凄く強い升田さん」といった存在でした。

 昭和17年、名人戦の挑戦者予備手合いで、当時五段の私は五、六段戦で優勝。七段戦も突破し、八段戦でも二番勝ち進みました。この時、広島で軍隊生活を送っていた升田さんからハガキが届きました。「斎藤八段をねじ伏せたのは、天晴れである」文面はこの一言だけ。他には何にも書かれてなかったのですが、「ああ、弟弟子のことを気にかけてくれていたのだ」と、非常に嬉しかった思い出があります。

 三冠王になった頃の升田さんは本当に強かった。世間では「受けの大山」「攻めの升田」となっていますが、升田さんが本当の力を発揮して、強いのは、じっと我慢する時、受ける時で、「受けの升田」だと、私は感じていましたし、升田さん自身もそう語っていたものです。

 最後に戦った第30期の名人戦。升田式早石田は、「新手一生」をモットーとしていた升田さんらしい豪放な指し方でした。「こんな手で負かされるもんか」と最初は軽視していたのですが、なかなかどうして。

 最終的にはやや無理筋の作戦とは思いますが、升田さんならではだったと、今では懐かしく思います。

 二人だけでじっくり話し合う機会を得たのは、一昨年の棋士総会の時。今後の将棋界について20分ほど、しみじみと話し合ったのですが、それが最後となってしまいました。

 3月1日の全日本プロトーナメント決勝で、元気そうな姿を新聞等で見て、安心していたのですが……。

 非常に残念で寂しい思いです。ご冥福を祈ります。

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写真は、将棋世界の同じ号より。

1971年、第30期名人戦第6局。撮影は清水孝晏さん。
1971年名人戦第7局。
非常に珍しい、一緒に昼食を食べている写真。
1957年名人戦第2局。
1989年2月24日、米長邦雄九段邸で。撮影は中野英伴さん。

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岸本晋亮弁護士から小遣いをもらった時のこと、日本酒をお金に換えた時のことなど、よく知られるドラマチックな話題ではなく、このような二人しか知らない出来事が書かれているところに、兄弟子を思う気持ちが現れている。

二人は仲が悪いと報じられる時もあったが、本質的な部分では昔から何も変わっていなかったのだと思う。

大山康晴十五世名人は、升田実力制第四代名人に呼ばれるように、翌年の7月26日に亡くなっている。

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晩年の二人の対局の模様

ゼニになる将棋(前編)

ゼニになる将棋(中編)

ゼニになる将棋(後編)

 

羽生善治前竜王(当時)「カナダ、ヨーロッパなどがいいかな。フランクフルトへもまた行きたいと思っています」

将棋マガジン1991年5月号、羽生善治前竜王(当時)の「懸賞 次の一手」より。

 順位戦がひと区切りつく4月頃、たいがいの棋士はその時期に旅行をするようです。

 私は昨年オーストラリアに行ってきましたが、今年はまだ予定も立てていません。

 よく一緒に行動するメンバーが、そうした話を話題としないからでしょうか。

 行くとしたらまた海外に、と思っています。それも大自然を楽しむという、そんな感じのところへ。

 カナダ、ヨーロッパなどがいいかな。フランクフルトへもまた行きたいと思っています。

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McArthur,Lake
無料写真素材 風景 カナダ「レイク オハラエリア」エメラルドブルーの湖(釣りと自然をこよなく愛す写真家)https://actual-nature.com/

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この時の羽生善治前竜王(当時)は海外へ2回行っている。

1回目が森雞二九段のオーストラリア、2回目が竜王戦フランクフルト対局。

大自然を楽しみたいというのが、とても健康的だ。

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二人にしか聞いていないけれども、海外を何度も旅した人に、一番良かった国はと聞くと、一人はインド、一人はネパールということだった。

現地での思い出と連動することなので、人それぞれ、好きな国は分散するのだろう。

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海外はほとんどが会社の出張でしか行ったことがないので、訪問地数は少ないが、そのなかで個人的に好きなのは、アメリカのカーメル

サンフランシスコから南に約190km、クリント・イーストウッドが市長を務めたこともあるカリフォルニアの小さな街だ。

町並みが綺麗で、1日中、何もせずに海を眺めていたくなるような雰囲気。

この街で生まれ育っていたら、ミュージシャンか画家を志していただろうな、と自然と頭の中で思ってしまうほどだった。

3、4時間ほどの滞在だったが、昼食で食べた地元の小さなレストランのハンバーガーが、美味しくもなく美味しくなくもなく、よくぞこのような全く中庸の味に仕上げたものだと、妙な感心をした記憶がある。

カーメルと正反対なのがニューヨークで、昼はガンガン仕事をして、夜はとにかくたくさん遊びたくなるような雰囲気。

ニューヨークも好きな都市だ。

満腹になって食べきれなかったリブロースステーキ(ウェルダン)があまりにも絶品で、いまだに残したことが心残りとなっている。

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以前は、いろいろな国へ行った気分になれた映画が「007シリーズ」だったが、2006年にシリアス路線に変わってからは、「ミッション・インポッシブル」シリーズが、最も海外を旅行した気分になれる映画になっていると思う。

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ふとGoogleマップを見ていて、このような場所にまさか人は住んでいないだろう、と思った北極海にある島。

調べてみると、人が住んでいて、なおかつ観光コースだと知ってビックリした。

3連休で(?)弾丸スヴァールバル諸島(4travel.jp)

将棋と同じように、知っていることは知っているけれども、まだまだ埋もれている場所(手)がたくさんあるのだと感じさせられる。

 

先崎学五段(当時)「竜王を獲ったときより、うれしそうな顔をしている」

将棋マガジン1991年6月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:羽生善治 独り立ちの勲章」より。

 いま考えると、四、五段時代の羽生は、将棋の常識を変えかねない一面をもっていた。序盤の作戦勝ちとか、中盤、指しやすそうだとかの常識が、この少年には通用しなかった。控え室の面々が、もうサジを投げたような局面から、不可思議な手を指して、しばしば逆転勝ちした。

 いつか”終盤の羽生マジック”という呼称も生まれた。が、羽生自身は、終盤のマジックで勝つといわれるのが、気に入らなかったようだ。これまで無我夢中で勝ちまくってきた少年が、多少、大袈裟にいえば、自我意識に目覚めはじめたのである。

 羽生が竜王位を獲ったとき、師匠の二上達也は、そんな弟子の気負いを見抜いてか、やんわりとこう書いている。

<当分はタケゾウで結構、やがては武蔵へ、人間武蔵へと思うのが現在の私の心境である>(将棋世界増刊号)

(中略)

 その数ヵ月後、故・芹沢博文九段が羽生と対戦した。芹沢と会った機会に、手応えのほどを訊いてみた。

「まだ、将棋がどうのといえる段階じゃないですね。ゴチャゴチャ指しているうちに、勝ってるというだけだもの」

 谷川浩司とくらべたら―

「谷川の将棋は、つねに踏み込んでいく。羽生には、谷川ほどのスケールの大きさはないですね」

(中略)

 つい芹沢の話が長くなってしまったが、芹沢は羽生の将棋を高く評価していなかった。要するに、芹沢好みの将棋ではなかったということだろう。

 芹沢の評価とはべつに、羽生は序盤がヘタクソだ、という声はよく聞かれた。これは、将棋がまだ幼い、といわれているに等しい。

 将棋が強いのは、負けん気の強い証拠でもある。青年期にさしかかった羽生が、なにくそ、と反発したくなって、当然かもしれない。

 少年期の羽生は、好球を見逃して、すぐカウントを追い込まれるバッターにたとえることができる。が、そのあとがしぶとい。ファールで粘り、ピッチャーが根負けして投げた球を、きわどく右中間あたりに落とす。だから、”いやらしい打者”ではあっても、強打者とはいいかねる。

 かくてはならじ、と羽生は、真の強打者を目ざした。フォームも変え、好球必打に徹した。そのため、クリーンヒットはふえたが、打率は落ちた。打ち気にはやるあまり、追い込まれると、あっさり三振することもめずらしくなくなった。

 じっさい、竜王になってからの羽生は、終盤、クソ粘りして、逆転勝ちする将棋が、めっきり減った。序盤を研究した成果で、きれいに勝つかわりに、きれいに負ける将棋もふえた。正々堂々として、かつてのいやらしさが消えた。

 私も、いちど、そんな場面を目撃したことがある。

 羽生の手番で、詰むや詰まざるやの局面を迎えた。駒台には、あふれんばかりに詰め道具が揃っている。羽生が考えはじめたので、私は、とうぜん、詰ましにいくものとばかり思っていた。ところが、熟考のすえに、羽生は投了してしまった。

 たしかに、詰みはなかったのだが、かなりきわどかった。拍子抜けしたのは、私だけではない。控え室でも「王手をかけてから、投了したっていいじゃないか」と納得しかねる声が出ていたそうだ。

 こんな具合に、羽生のモデルチェンジは進行した。やがて、竜王戦の挑戦者に谷川を迎える。結果はご承知のとおり。羽生は、中盤では谷川をしのぐほど、踏み込みのよさをみせながら、終盤でつまずいた。

 この竜王戦で”羽生マジック”の神通力は、あらかた消えた観がある。私は、モデルチェンジが完成するには、まだまだ時間がかかりそうな気がした。羽生が棋王戦の挑戦者に名乗りを上げたときも、こんどはむりだろう、と予想した。

 羽生が2勝しても、私の予想は変わらなかった。これでおもしろくなった、くらいに思っていた。

 新潟で行われた第3局を、私は観戦した。初めて見る和服姿の羽生は、ふだんより格段に大人っぽかった。着付もおぼえたという。着付はたのんだものの、およそ和服に関心のなさそうな南芳一棋王(当時)にくらべると、羽生のほうが、いくぶんか颯爽としていた。

 将棋のほうは、羽生が行儀よく指して負けた、という印象が強い。南が脳味噌をゴシゴシとこすりつけてくるのに、羽生の脳味噌がたじろいだようにみえた。竜王戦のときに感じた羽生のひよわさも、いぜんとして、私は払拭できなかった。

 第4局は東京の将棋会館で行われたので、外出したついでもあって、控え室をのぞきに行った。これは、一種の怖いものみたさといえないこともない。

 終盤で、羽生らしい鋭い一着が出た。この手がモニターテレビに映し出されたとき、控え室は騒然となった。土壇場でヒヤッとさせたが、羽生が勝って棋王のタイトルを奪った。

 私の予想はみごとに外れた。どうやら、シロウトがとやかく心配するまでもなく、羽生のモデルチェンジは順調に進行しているらしい。

 竜王と棋王の振り替わりでは、ソロバン勘定は合わないけれど、羽生にとって、このタイトルの意味するところは大きい。独り立ちの勲章をもらったようなものだ。

 打ち上げ会での羽生は、さすがにいい顔をしていた。羽生と親しい先崎学が、「竜王を獲ったときより、うれしそうな顔をしている」といっていた。

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「ほっと一息、頬がふくらむ羽生新棋王」とキャプションがついている。近代将棋1991年5月号、撮影は甲斐栄次さん。

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「少年期の羽生は、好球を見逃して、すぐカウントを追い込まれるバッターにたとえることができる。が、そのあとがしぶとい。ファールで粘り、ピッチャーが根負けして投げた球を、きわどく右中間あたりに落とす」

非常にわかりやすい例えだ。

切り口は違うが、勝つ時は非常に鮮やかで負ける時は最初からボロボロになっていることが多い人のことを、大物外人バッター(ホームランを打つ時以外は三振が多い)と呼んでいる人がいた。

これもわかりやすい。

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「かくてはならじ、と羽生は、真の強打者を目ざした。フォームも変え、好球必打に徹した。そのため、クリーンヒットはふえたが、打率は落ちた。打ち気にはやるあまり、追い込まれると、あっさり三振することもめずらしくなくなった」

現在の羽生善治九段も、AIで研究している棋士達に対するためのフォーム改造中なのだと思う。

改造を成し遂げた頃、再びタイトル戦で活躍をし続けることだろう。

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「竜王を獲ったときより、うれしそうな顔をしている」

順調に進んで行ってタイトルを獲得した時の喜びよりも、一度挫折をしてからタイトルを再び手にした時の喜び。

気持ちがわかるような感じがする。

近代将棋1991年5月号、甲斐栄次さんの本局の観戦記では、次のように書かれている。

 打ち上げは立会人の佐瀬八段に中原名人、その他、若手棋士や関係者が多く集まって賑やかだった。

 大仕事を仕上げ、晴れやかな笑顔を振りまく羽生は「この恰好で帰りますから」と、和服姿のまますっかりリラックス。なみなみと注がれたビールは格別うまそうだった。

 

大山康晴十五世名人「次に何があるんかね。110番(警察)117番(時報)119番(救急)と目標をつくってきたが」

将棋世界1991年4月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。

 優勝回数が119回になったとき、大山は「次に何があるんかね。110番(警察)117番(時報)119番(救急)と目標をつくってきたが」とつぶやいた。

 その大山が次に目標としたのは”70歳A級”だった。

(以下略)

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将棋マガジン1991年5月号より。文化功労者顕彰祝賀会。林葉直子女流二冠、中井広恵女流王位と一緒に。撮影は弦巻勝さん。

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大山康晴十五世名人の優勝回数(タイトル戦の獲得期数と一般棋戦の優勝回数の合計)は最終的には124回となるが、なるほど、このような目標設定の方法もあるのかと感心させられる。

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電話の3桁番号サービスは次の通り。

104 番号案内
110 警察への事件・事故の急報
113 電話の故障
114 お話し中調べ
115 電報のお申し込み
116 電話の新設・移転・各種ご相談
117 時報
118 海上の事件・事故の急報
119 火事・救助・救急車
136 ナンバーお知らせ136
159 空いたらお知らせ159
171 災害用伝言ダイヤル
177 天気予報
188 消費者ホットライン
189 児童相談所虐待対応ダイヤル

136番と159番は2000年から、171番は1998年から開始されたサービスなので、大山十五世名人の時代は、119番の次は177番だった。

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羽生善治九段の優勝回数は現在144回。

177回は、大変かもしれないけれども、目標としてほしい数字だし、実現してほしい数字だ。