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木村義雄十四世名人「御趣旨は誠に有難いが・・・だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」

将棋世界1982年7月号、大修館書店の山本茂男さんの「茅ヶ崎だより ―最近の木村十四世名人―」より。

他人に分かりますかい!

 茅ヶ崎は東海道線を下りで一時間。夏は海水浴客でにぎわうところである。駅を左手に降り、タクシーに乗って「木村名人の家」と告げれば、まちがいなく出口町のお宅の前までつれていってくれる。

 白い塀の門が開かれていて、庭を通ると季節の花木が美しい。松林が奥に見える広い庭である。「やあ、もっさん」、名人は山本の名をこんな風に呼ばれる。

「この松林はいい松で、昔はショーロが出ました」不勉強でまことに申し訳ないことだが、ショーロというものを知らない。「丸いきのこみたいなものです」と”松露”を教えていただいた。「松はこれでずいぶん手がかかるものです」ともつけ加えられた。

 名人はおだやかで、話し好きな人である。

「温厚な方ですね」と、ご子息の木村義徳八段に感想を述べると、「あなたは昔の父を知らないから」と、笑っておられた。当方、棋書の編集は初めてで、将棋界のことは何も知らない駆け出しである。

 そう言えば一度、怖い目に会った。昭和52年の初夏「木村名人実戦集」を全三巻として出版する計画をたずさえてうかがったときのことである。棋書研究科の越智信義氏に同道を願って、茅ヶ崎のご自宅へ伺候した。

 当初の考えは、既に発表された新聞や雑誌の解説によって木村将棋を集成してみようというものであった。菅谷北斗星氏、金子金五郎氏の観戦記、それに名人御自身の筆になる自戦記もある。あれこれ集めれば、150局にはなるだろう。脳血栓という病の予後のことであり、書き下ろしの解説など思いもよらないことであった。

 ところが、この話をじっと聴いておられた名人、「御趣旨は誠に有難いが」と、ここでいったん言葉を切り、続けて「だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」と言うと、口を一の字に結び左端をきっと引きしめて、はったと両名を見すえたのである。越智さんも私も一瞬ことばを失って、ははと平伏した。この恐ろしさは、後々まで二人の間の語り草となっている。

 瓢箪から駒がでたような具合だったが、結局、名人の御希望ということで、全巻書き下ろし自戦記という空前の企画がここに成立することになった。

「今はほら、録音器っていう便利なものがある。あれでやりましょう」

 これも名人の提案である。数度の打ち合わせで内容が定まり、巻数が最初の三巻から五巻乃至七巻、最終的には八巻というように増えてきた。大修館書店としては、前の『将棋名人戦全集』に続く大出版である。

 録音を速記にとると、名人がその原稿に朱書を入れる。校正で加筆もする。気がるに、「やりましょう」とは言われたが、一体、健康がもつだろうか。関係者がもっとも恐れたのはこのことである。もしものことがあっては、とりかえしがつかない。しかし、名人がやると言っている以上、こちらもできる所までやってみようと性根がすわった。

 越智さんが、自宅の資料だけでは足りず国会図書館に通いずめで棋譜をさがしてくる。名人が選局して、一局一局並べなおす。棋譜の間違いがよくあるからである。恐らく誤植か誤記なのであろう。そして、解説しやすいように、これも名人が一局を数枚の局面に割る。割った譜を、途中図、第一図、第二図、というように作図するのだが、「私がやりましょうか」と申し出たところ、「いえ、これは義徳にやらせます」と、きっぱりおっしゃった。

 御子息の義徳先生(当時B2の七段であった)に、譜面の浄書と全巻の校正をさせるというのである。失礼ながら、高段者のやる仕事ではないと思った。しかし、これを義徳先生は、忠実に、正確にやってのけられた。そして御存知のように、その間、B1、A級八段と一気に駆けのぼったのである。名人は、義徳七段に何が不足しているのかを知っておられたのであった。

義徳八段の霊魂論

 木村義徳八段といえば、大学院を出られたインテリ棋士として知られている。本誌の連載「嵐山だより」でも麗筆をふるっておられるように、相当の理論家である。といって、決して気むつかし屋でなく、名人に似て話ずきの陽気な人である。

 一局教えていただいたことがあるが、いきなり「平手でいきましょう」と言われて、びっくりした。(当方、初段ちょぼちょぼ。勿論アマチュア)こんなに誰とでも平手で指す人めずらしいんじゃないか。夜の新宿、天狗酒場でのことである。(誰ですか、どっちが勝ったかなどと言う人は)

 あるとき二人、京都は四条河原町の小料理屋で盃を重ねていた。あれこれ話しているうちに義徳先生が、”死後の世界”なんてことを言いはじめた。理論家は行きつくところ、こういう超自然に関心がおもむくものとみえる。フグの季節だったから、夏の夜話というのでもないが、ひとしきり、”霊の再生”とか”霊魂の質量”ということが話題になった。そのうち義徳先生、いたずらっぽい目をして、近頃、奨励会の人たちの間でこんなことが言われています、と話してくれたのは―

 同じような才能をもった棋士に、なぜ強いのと弱いのができるのか。その解答は、強い人は前世でも棋士をやっていた人。すでにそこで何段かになるまで修行をつんだ人。一方、いくら努力しても上がらない人は、今の世が初めての棋道修行の人。中原名人なんか、もうこの世とあの世を何回も行ったり来たりしているんだから、かないっこない……。

 この話を、よせばいいのに、茅ヶ崎の木村十四世名人にしてしまった。先日、義徳先生に面白い話をうかがいましたって。名人は、しばし憮然としておられたが、「義徳のやつ、まだそんなことを言ってやがる」と、一言。私は話のつぎ穂に困ってしまった。

 木村名人は心の優しい人である。第一回配本にむけて原稿整理に大わらわのころ、私事であるが、病院で父を亡くした。十五年にわたる長わずらいの果であった。その折、仕事の様子を知りたいからと茅ヶ崎へ呼ばれ、いろいろと御親切にしていただいた。

「やあもっさん。あなたのお父さんは、さぞ御立派な人だったでしょう」

 こう慰められて、私は「はい」と答えたが、東北の炭鉱夫で凡そを終えてしまった父をおもって、胸がいたんだ。名人が父思いであられたのは有名な話だと、後に人から教えられた。

休まず1500字

 さて、ついに『名人木村義雄実戦集』全八巻、総ページ数四千三百余に及ぶ自戦記、故人著作集は完結した。この実戦集につぎこまれた、名人のエネルギーは莫大なものである。

 興がのると、徹夜をして翌朝まで棋譜を並べておられることもあったそうである。「この仕事には命を賭けています」と言われるのだが、本当に命と引きかえにされては一大事である。何とか徹夜だけは止めていただくよう奥様にも申し上げるのだが、これは、昔から言いだしたらきく人ではないのだそうである。

「病は気からです。私はこの仕事のおかげで、毎日が楽しくてしかたがない」と名人はおっしゃる。仕事で張りが出たせいか、食欲も増し血色もよくなりましたと奥様も不思議がられるほどである。この年で八巻もの著作を行う人は、めったにあるものではない。

 超人とはこういう人のことであろう。将棋が強いだけではない。この人は、文壇、画壇、名筆、名優、角界、銀幕界、財界、政界、あらゆることがらに通じているのである。中でもおどろくべきは、その膨大な読書量である。三国志、水滸伝は何種類よんだかわからない。「三軍の将」の意義が版によって異なることを指摘される。水滸伝の登場人物を、空で全部列挙する。それを出身県別に分類することもできる。神田山陽先生もびっくりにちがいない。

 漢文が得意で、若い頃は春本まで漁って読んだそうである。聖書も読んだ。ドストエフスキーも読んだ。ロシアものはどうも陰惨でいけねえ、と感想をもらされる。暇ができたら読もうと思って、和書、漢籍をずいぶんと買いためていたのだが、全部戦災で焼いてしまいました、と残念そうに語られた。

 若いうちに頭をつかえ。いろんなことをやってみることだ。頭はちょっとやそっとでこわれるものではない。使えば使うほどよくなるもの、だそうである。六段時代から二十年間、ずっと報知新聞の観戦記を担当しておられた。今のように新聞に休日はない。買っても負けても、毎日1500字(原稿用紙約四枚)の記事を書く。さすがに、負けた朝の出稿はつらかったそうである。しかし、一日も休まなかった。

 スポーツ選手は、毎日のロードワークで基礎体力をつける。名人は自ら一日1500字を課して、あの強靭な精神力を養ったのではあるまいか。

 先日、また茅ヶ崎へうかがった。最終巻の校正刷を前にして、いかにもうれしそうにしておられた。

「おかげ様で将棋界も繁栄を極めている。若い人にもどんどん強いのがでてきて、楽しみなことです」

 近頃、相撲で良いのが千代の富士。まれに見る逸材と評された。将棋では加藤(一)十段がよい。昔の将棋と違ってきている。それと谷川八段が強い。加藤の若いころより強い。できるなら盤上で対面してみたい、とこの七十七翁は熱っぽく語るのである。

 かたわらには、常の如く奥様がにこにこと笑っておられる。老後がこのように素晴らしいものと知る人は少ないだろう。

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木村義雄十四世名人は、将棋の普及や棋士の社会的地位向上にも大きな役割を果たしてきた。

私の子供時代、将棋を知らない私の母でさえ「将棋には木村名人と大山名人という偉い人がいる」と教えてくれるほど、木村義雄十四世名人の名前は一般の人に知れ渡っていた。

「木村の将棋が他人にわかりますかい」

何とも深い言葉で、十四世名人としての矜持を感じさせる。

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表現や意味合いは異なるものの、佐藤康光王将(当時)、山田道美九段も、自分の言葉で自分の将棋を表現したい旨を書いている。

佐藤康光王将(当時)「我が将棋感覚は可笑しいのか?」(その2)

佐藤康光九段と山田道美九段

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木村義雄十四世名人が築き上げてきた将棋は、相掛かり、角換わり腰掛銀、後手ゴキゲン中飛車の形に似た横歩取りなど、戦前から昭和20年代まで流行った戦型。

これらは昭和30年代~昭和40年代は斜陽戦法と呼ばれ、完全に過去のものとなっていたが、現在は相掛かり、角換わり腰掛銀、横歩取りはメジャーな戦法となっている。

流行戦法の変遷は本当に面白いものだと思う。

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木村義雄十四世名人が亡くなる前年の歴史的にも非常に貴重な対談。

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(1)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(2)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(3)

「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(最終回)

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木村一基五段(当時)「いやあ、ひどい目に遭いました」

将棋世界2002年1月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 大崎善生君が『将棋の子』で講談社ノンフィクション賞を受賞し、東京會舘で授賞式があった。

 出かけると、例年とちがって将棋界関係者がやたら多い。文壇のパーティーのつもりで来たので、面食らってしまった。大崎君も今や文壇のスター作家である。作家へ転じたのは大成功だった。

 その翌日、今度は新宿の京王プラザホテルで「宮田敦史君の四段昇段を祝う会」があった。主催している所司六段もよく頑張っている。時節柄、こういった会を開くのは大変なのである。

 すこしでも応援になればと行ったら、木村五段も来ていた。たしか、昨日も顔を見かけたので「ご苦労さん」と声をかけたら「いやあ、ひどい目に遭いました」と苦笑した。ひどい目に遭った、は棋士の口ぐせだが、話を聞くと、本当にひどかったらしい。パーティーの後、知り合いの編集者と銀座で飲んだら、その編集者の具合がわるくなり、築地の病院にかつぎこんで、結局朝までつきそった。

「だから背広も替えてないんです。そしてここに来たら、松尾君のお祝い(新人王戦優勝)もやってるじゃないですか。2局目に私が勝ってれば、今日が第3局のはずだったのに……。参ったな」

 木村君の泣く気持ちもわかる。しかし将棋界では、こうした付き合いが、後になって物を言うのである。

(以下略)

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木村一基五段(当時)は、この年の9月の竜王戦挑戦者決定三番勝負で羽生善治四冠(当時)に1勝2敗で敗れ、その後の新人王戦決勝三番勝負では松尾歩四段(当時)に0勝2敗で敗れている。

木村一基五段(当時)「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」

木村一基五段が「2局目に私が勝ってれば、今日が第3局のはずだったのに……」と言っているのは、この新人王戦決勝三番勝負のこと。

死んだ子の年を数える、ではないが、このように思う気持ちは痛いほどわかる。

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昭和の終盤の頃のこと。

私は仕事で、毎週月曜日の夜、あるテレビ局の生番組が行われるスタジオに詰めていた。私が番組に出演するわけではなく、番組内の1コーナーで利用されるシステムの担当営業として、生番組に立ち会っていたのだった。

システムの提案段階から様々な意味で思い入れのある仕事だった。

番組が始まったのが4月の桜の花咲く頃。

5分間ほどのコーナーだったが、生放送の中で何事もなく無事に動いてほしいという緊張感は想像以上のもので、番組が終わった後は必ずそのまま飲みに行ってクールダウンさせていたものだった。

半年間の放送予定だったので、最終回は9月24日の振替休日。

最終回の日は、休みの日なので一人で飲みに行ける店は開いていないことだし、テレビ局から自宅まで感傷的な気分になりながら歩いて帰ろうと予定を立てた。秋の入口の頃だし、頭の中で流れる音楽はカーペンターズの「スーパースター」が最適だと思った。

・・・しかし、全盛期の『水戸黄門』の裏番組ということもあったのだろうが、その番組の視聴率は良くなく、6月で放送は打ち切りとなってしまった。

6月の最終回の日の番組が終わった後、寂しい気分になりながら飲みに行ったと思う。

放送局には幽霊がよく出るという噂があったが、この時の私のように、夢半ばで(私は夢を持っていたわけではないが)スタジオから離れていった俳優、女優、モデル、ミュージシャンなど、それらの思いを残した人達の生霊が放送局内を憑依しているのが幽霊の実態なのではないか、と考えながら酒を飲んでいた。

どちらにしても、「スーパースター」を頭の中で流し続けながら家まで感傷的になりながら歩いて帰る、という目論見は崩れた。

それから3ヵ月後、9月24日(月曜・休日)はやってきた。

家でゴロゴロしながら(ああ、今日だったな)と思い出す。

これからスーツに着替えて、テレビ局の近所まで行って、そこから歩いて家に戻ってみようかとも一瞬考えたが、あまりにも酔狂すぎると思ったし、モチベーションも上がらなかったので、そのまま家でゴロゴロしていることにした。

自分は、死んだ子の年を数えるタイプなんだな、と気付いた時でもあった。

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その後、(今日は本来は○○があるはずの日だったんだな)と思いようなことは起きていない。

しかし、この時の、「スーパースター」を頭の中で流し続けながら家まで感傷的になりながら歩いて帰る、という思いは深層心理に残っていたようで、数年後、思わぬところで「スーパースター」と口走ってしまうことになる。

今の私なら、ブロンディの「コール・ミー」と言うだろうなと思う。

香港夜総会

 

 

3分で理解できる大山将棋と升田将棋の違い

将棋世界2002年1月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

4図以下の指し手
▲9七歩△3五歩▲同角△9七香成▲同香△同角成▲同桂△9六歩▲9八歩△3四香▲4五桂△3五香▲3三桂成△同金寄▲3五銀△3四歩(5図)

 ▲9七歩は至当だが、そこで△3五歩が升田かねてのネライであった。

 ▲同角と取らせ、△9七香成と突撃し角をも切って返す刀で△3四香が一連の読み筋。このような荒技で局面を自らの意志で造ってゆくのが升田将棋の特長である。だがこれは、大山にとっても読みの中で、▲4五桂の軽手で切り返す。対して△同歩もあるが、▲7一角成△3六香▲8三角△9七歩成▲同歩△4二飛▲7四角成となって、これは自玉も安全だが敵玉も見えなくなり、升田の好む行き方ではない。

 派手なやり取りがあり5図。

 ここが本局の流れを決める重大なポイントであった。銀の始末をどうするか。

  1. ▲2四銀と吶喊し△同歩▲同歩と玉頭に迫る。
  2. ▲3四同銀△同金▲3七香と歩切れにつけ込む。
  3. 駒得を生かし▲2六銀と収める。

 さあ大山の次の一手は?

5図以下の指し手
▲2六銀△4七角▲2八飛△6九角成▲6八金引△4七馬▲8三角

(中略)

 ▲2六銀は拍子抜けのようだが、これぞ大山の将棋観、ひいては人生観にもつながる一手だと思う。駒得という確実な利に絶対の信を置き、必ず相手の攻めを余して見せるという自信の表れでもあろう。本局ではそれが裏目に出たが、大山はこうした行き方で長い間、天下を平定したのであった。升田は自分ならば▲2四銀と指すと述べていた。

(以下略)

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1957年第16期名人戦第1局、大山康晴名人-升田幸三王将・九段戦。

本局は、終盤に升田王将・九段に見落としが出るものの大事には至らず、升田王将・九段が勝っている。

この七番勝負を制して、升田幸三三冠王の誕生となる。

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真部一男八段(当時)が書いている「荒技で局面を自らの意志で造ってゆくのが升田将棋の特長」が、非常に端的に升田将棋を言い表している。

1971年の名人戦第3局で指された天来の絶妙手△3五銀に至る手順などはその典型例だ。

△3五歩~△9七香成~△9七同角成~△9六歩~△3四香が、大きな構想を描いたうえでの仕掛けだと、見ているだけで感じ取れる。

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対する大山康晴名人の5図からの▲2六銀。

私なら▲2四銀も▲3四同銀も思い浮かばないので▲2六銀と下がるしかないが、プロ的には拍子抜けのように感じる手。

休日の前の夜の銀座。憧れている女性と一緒に楽しく飲んでいて、その女性から「もう一軒、六本木に飲みに行こうよ」と誘われたものの、「いや、今日はこれからブログを書かなきゃいけないから」と家に帰ってしまうような展開。

升田将棋なら「これから熱海に行って、朝日を見ながら酒を飲もう」になるだろう。

大山流の▲2六銀と升田流の▲2四銀の対比が面白い。

 

 

将棋世界編集部(1982年当時)「本誌ではできない企画」

将棋世界1982年3月号、「メモ帖」より。

本誌ではできない企画

 1月上旬に出た週刊読売に1982年の各界受賞者予言が発表されていた。

 文壇受賞者や囲碁タイトルと共に将棋六大タイトルの獲得者予想が掲げられていた。正月のお遊び的なものだが、目を通してみたら―

名人 加藤一二三
十段 加藤一二三
王将 中原誠
王位 中原誠
棋聖(前半)二上達也
棋聖(後半)米長邦雄
棋王 米長邦雄

 というわけで、棋聖位の前半はすでに的中した。さて、ほかは?当たるも八卦、当たらぬも八卦。

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たしかに、将棋世界をはじめとする将棋月刊誌や週刊将棋ではできない企画だ。

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週刊読売がこの予想をした時点でのタイトル保持者は次の通りだった。

名人 中原誠
十段 加藤一二三
王将 大山康晴
王位 中原誠
棋聖 二上達也
棋王 米長邦雄

結果は、

名人 加藤一二三
十段 中原誠
王将 大山康晴
王位 内藤國雄
棋聖(前半)二上達也
棋聖(後半)森雞二
棋王 米長邦雄

つまり、週刊読売予想(予想時点保持者→結果)の形式でまとめると、

名人 加藤一二三(中原→加藤)○
十段 加藤一二三(加藤→中原)✕
王将 中原誠(大山→大山)✕
王位 中原誠(中原→内藤)✕
棋聖(前半)二上達也(二上→二上)○
棋聖(後半)米長邦雄(二上→森)✕
棋王 米長邦雄(米長→米長)○

中原誠名人の不調(この年の秋以降復調する)が予想を狂わせたことがわかる。

加藤一二三名人誕生を当てたのはお見事。

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予想というものはなかなか当たらない。

昨年でいえば、英国EC離脱の国民投票結果、トランプ大統領の誕生、がマスコミの予想(あるいは願望)の逆を行っていた。

現地時間の今日は、フランス大統領選挙が行われる。

過半数の票を得る候補がいなければ、5月7日に上位2人による決選投票が行われるということだが、アンチグローバリズムの勢いが増す中で、どのような結果となることか。

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藤井聡太四段がいつタイトルを獲得をするだろうと予想してみた。

今期中(中学3年末)の獲得確率10%。

来期末(高校1年末)までの獲得確率20%。

2020年3月(高校2年末)までの獲得確率20%。

2021年3月(高校3年末)までの獲得確率20%。

2022年3月(高校卒業後)までの獲得確率80%

酔っ払いながら考えれば今期中の獲得確率はもっと高くなるのだが、冷静に考えると「高校を卒業してから迎える年度」という予想になる。

これは、

  • 中原誠十六世名人が四段に昇段したのが高校3年の秋で、高校1、2年の間は奨励会で足踏みが続いていたこと
  • 羽生善治三冠の初タイトル獲得が高校を卒業してから迎える年度であったこと

など、高校卒業間際あるいは高校卒業後に一気に花開くという展開であったので、中原誠十六世名人-羽生善治三冠の超王道路線を引き継ぐ可能性の高い藤井聡太四段も、同様の展開と読みたい。

昼食予想さえあまり当たらない私の予想だから、当たったら奇跡に近いかもしれないが。

 

 

古き良き時代の雰囲気が濃厚なA級順位戦最終局

将棋世界1982年5月号、毎日新聞の加古明光さんの「名人戦挑戦リーグ最終戦(東京) 明暗3月15日」より。

 東京・千駄ヶ谷、将棋会館の午前10時。どこか、いつもと違う雰囲気がある。3月15日。A級の最終日である。この日をきっかけに、各クラスの”大晦日”が続く。棋士の哀歓が集中する。最もドラマチックな季節である。

 A級10人。名人・中原に続き、頂点のさらに頂点に立つ彼らにも、香、誰かが笑い、誰かが泣く。笑うより、泣くものにドラマがある。それをさぐる雰囲気が、午前10時に漂っていた。

 東京で泣くものはいない。大山対加藤、米長対大内。4人とも安泰だ。関心は加藤がここで一気に決めるか、で、他の関心は大阪の方を向いている。

 特別対局室。正座の加藤はすぐ腕時計をはずし、ヒザの横に置いた。「さあ、これから深夜までだぞ」の意思表示。大山も淡々とした表情で上座に着いた。

 隣の部屋は米長対大内の一局だけ。大内は和服で座っている。スポーティな姿で会館に着いた米長だが、着いてすぐこれまた和服に着替えた。今日の対局のうち、一番気楽なのがこの対局のはずだ。挑戦も降級もない。かかっているのは来期の順位だけだが、ここにその姿勢で臨むところに、順位がいかに大きいかが分かる。

 10時20分、カメラマンが来て対局写真を撮り出す。大山-加藤戦を撮る段になって、急に米長が「私も入れて」と記録係の横に座り立会人のようなポーズ。大山も加藤も一瞬ポカンとしていたが、米長はマジメそのものの顔。この人の”突然変異”には、いまさらながら驚かされる。あきれる。だが、どこかにウィットがある。

 戦型は大山が四間飛車、大内が中飛車と最も得意な形をとった。11時、加藤が早くも3五譜と仕掛けて出た。大山は階下に行って盤前にはいない。突然、加藤が「パン、パン」とカシワ手のように手を打った。棋士のしぐさを見ていると、どこかに稚気あふれるものがあるが、ピンさんだってよく見ていると面白いことをする。

 今日は観戦子も忙しい。二つの部屋を行ったり来たり。米長-大内戦をのぞくと、二人ともいない。やがて戻ってきて、新聞小説談義に入る。毎日新聞連載、渡辺淳一氏の「ひとひらの雪」のポルノ度について話がはずむ。

 「ああいうのは、オジンたちには興味あるんだろうな」と大内。米長が「オレたちだってもうオジンなんだぞ」。二人ならではの会話で、この時、大阪ではとてもそんな雰囲気ではないだろう。今日は、大阪とも連絡を密にしなければならない。のちに分かったことだが、大阪では内藤-勝浦戦を真中に二上-桐山、森安-石田が”川の字”で対局していた。さぞ複雑な対局だったに違いない。

(中略)

 盛岡からの帰途という中原名人が顔を出す。午後3時。中原はこのあと、東京での終局までつきあった。

(中略)

 夜戦。大阪の3局を秘書室の机の上に並べる。対局中の大内、大山ともに「大阪、どうなってますか」と尋ねる。「階下に並べてあります」と言ったら、二人とも「じゃ、ちょっと見てこよう」と盤前を離れた。自分の将棋を劣勢と見ていたか。

 大阪3局の中原の診断は、森安-石田戦は「勝負が一番早くつくでしょう。あと戻りできない将棋だから」二上-桐山戦は「長くなります」内藤-勝浦戦については「内藤さんが攻めてますけどねえ」

 夜に入って、控え室は超満員。座る余裕もないので階下の理事室と秘書室を借用。ここで大阪の情勢やこちらの検討をはじめる。カムバックなった森雞二八段、あと一歩の青野照市七段などの顔がある。さらに奨励会員も大挙控え室に。

 加藤がどんどん時間を使う。優勢ながら「大丈夫かな」。米長-大内は進行が早い。米長が快調に攻めまくっている。

(中略)

 9時前に大内が投了した。盤側にいるものの立場からすれば、敗者に悲壮感のないのが救われる。

 大内、米長そろって5勝4敗の相い星。順位には少し動きがあるが、残留が決まっているだけ明るい。5局中、これが一番早い終局かと思ったら、ちょうど10分前に、大阪の森安-石田戦が森安の勝ちで終わっていた。

 さあ、残るは、特別対局室の一局。9時46分。加藤の残り時間が10分となる。駒音が激しくなり、脇息など用いない、とばかりに、離れたところに置いてある。目元が赤い。大山も怒ったような表情。しかし、攻めに転ずるには駒不足だ。

 10時半から、5階の和室で恒例の打ち上げ会を開く。米長、大内、それに中原、森らが談笑をはじめた。大山-加藤戦よりも、話題は「その後、大阪どうなりました?」ばかり。焦点は降級の一人に絞られてきた。去年の打ち上げで、残った森安がはしゃぎ、降級の板谷は、会にも出ずに自室に戻ったことが思い浮かんだ。

 10時48分、大山が「こりゃ、負けましたね」といって投了、加藤の夢が現実になり、森安のそれは夢のままに終わった。検討が終われば対局時の興奮も消えている。加藤が例の早口で9年ぶりの挑戦権について語った。

「リーグで8連勝などしたことがなかったから、森安さんに負けても、それほど苦にならなかったです。まず挑戦者になることが先決でしたので、名人戦のことは、これから考えます」と言いながらも、さすがに嬉しさは隠せない。大山も加わって、打ち上げ会は2時近くまで続いた。そのころ、大阪では二上が笑い、勝浦が泣いていたのである。

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この日、加藤一二三九段が挑戦者に決まり、この年の名人戦で中原誠名人から名人位を奪取することとなる。

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昭和の古き良き時代の雰囲気濃厚な対局室。

このような時代に、現在のようなニコ生なりAbemaTVのような中継が入っていたら面白かっただろう。

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棋士の使命は、将棋に対して己が持つ力を最高に発揮することにある。

適当に離席をした方が力を更に発揮できるなら、この頃のように離席は自由にした方が良い。

外に食事に行った方が力をより発揮できるのなら、外へ食事に行った方が良い。

それが本来のあるべき姿であると思う。

しかし、そうもいかなくなってきているのが現在の将棋界の辛いところ。

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「大内は和服で座っている。スポーティな姿で会館に着いた米長だが、着いてすぐこれまた和服に着替えた。今日の対局のうち、一番気楽なのがこの対局のはずだ。挑戦も降級もない。かかっているのは来期の順位だけだが、ここにその姿勢で臨むところに、順位がいかに大きいかが分かる」

まさに、順位は次の期に非常に影響をおよぼすもの。

冤罪を被った三浦弘行九段が順位戦A級11位というのも、いまだに理解できない。

9位ならともかく、B級1組からの昇級者よりも下の順位になる理由がないと思う。