将棋界の大旦那「七條兼三」(5)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の5回目。

今日は、七條兼三氏の幅広い交友について。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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将棋に文化勲章を

将棋を文化としてとらえていたせいだろう、よく話に出たのが、

「歌舞伎の役者がなぜ人間国宝なんかで、囲碁・将棋のような伝統芸がなにもないのはおかしい。文化勲章をもらう人が出なくてはいけません。ぼくは、芸術院院長のAさんを料理屋に招いてご意見を伺いました。どうしたら獲れるかっていうことを。そうしたら、あれは推薦するものだから黙っていたら獲れないそうです。ですからぼくは推薦運動を始めたのですが、囲碁・将棋の人たちはあまり乗ってこないのが不思議です。現時点では、囲碁・将棋界を見渡して、大山さんが適任でしょう」

(中略)

文化勲章をとる前提として、文化功労者というのがあり、そのまた前提に東京都の文化賞というのがある。現実には、大山さんは文化功労賞まで行って、あと一息で文化勲章という射程距離まで行って惜しくも亡くなられた。将棋を文化とは世間が考え付かない時代から運動し、関係者を扇動してきた力が影響したのだろう。東京都文化賞の受賞パーティーでは七條さんの持ち駒(芸人)をフル活用し、自らも詩吟を吟じて会を盛上げた。

ひいきにしたのは、プロ棋士ばかりではない。詰将棋作家や真剣師、やくざの親分まで七條さんを慕ってきた。

通天閣の真剣師・大田学さんを、「きれいな人だね」と誉めたのは、世俗的な欲がない人だったからだろう。

広島のテキヤの親分(中国高木会)、高木達夫さんも、七條さんが可愛がった一人だ。彼の稼業はともかく、将棋に対する純な気持ちをよしとしたのだ。

高木さんはときどき上京してくるが、二人とも六十歳を過ぎた年配者なのに、まるで若者同士のようにじゃれあっていた。

「高木君。君は広島のやくざの親分らしいがオレは上野の親分だ。オレの言うことが聞けないと、香港から呼んだ殺し屋に頼んで、東京湾に浮んでもらうぞ~」

まるで昔の日活無国籍映画みたいなセリフを嬉しそうに言うと、高木親分も心得ていて、

「ははあ、七條先生の言うことには一切逆らいましぇん…」

こういって土下座をしては、また嬉しそうに呑み直すのである。高木さんは若いころは大阪の木見門下生(アマとして)だった腕自慢で、「わしゃ、大山名人と同門じゃけえ」というのが自慢で、大山旅行会にも欠かさず参加していた。広島で全国初の高額賞金大会を開き、連盟支部も造ったほどの熱心家だ。彼のそういう一途なところが気に入られ、七条邸にお出入りが叶ったようだ。この人もメチャメチャ酒が強く酒癖もきついが、七條さんにはかなわない。私も酒が多少強い時期もあったが、まったくの手合い違いだった。

将棋ファンは、知識人から真剣師からテキヤまで、幅広く付き合い可愛がっていたが、いずれも純な人間で、自分の芸に打ち込む生き方を好んでいた。純な生き方といえば、詰将棋作家がことにお気に入りであった。

(つづく)

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この中で出てくる広島の高木達夫さんが、昨年の将棋ペンクラブ大賞優秀賞だった「広島の親分」の主人公。

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「香港の殺し屋」は、七條兼三氏が酔った時のお得意の冗談だった。

それにしても”香港の殺し屋”、なんと雰囲気のある言葉なのだろう。

いかにも只者ではない妖しげな殺し屋のような感じがしてくる。

例えば「ヨハネスブルグの殺し屋」では迫力がないし、「テキサスの殺し屋」ではプロレスラーになってしまう。

「サンクトペテルブルグの殺し屋」「イスラマバードの殺し屋」「ケイマンの殺し屋」もイメージが湧かない。

今ではそういう印象が希薄になったが、当時の香港には、近代都市と魔窟が同居しているというオーラがあった。

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香港の魔窟といえば、今では取り壊された九龍城砦。

過去の歴史的経緯から、1999年までの香港の中では九龍城砦だけが中国領土だった。

当時の香港政庁(英国)も手出しができず、かといって中国政府がメンテナンスをするはずもなく、九龍城砦は難民や犯罪者が逃げ込む格好の無法地帯となった。

このような状況から、「アヘン窟」、「東洋のカスバ」などと呼ばれ、一度中に入ったら生きては戻れない場所とまで言われていた。

後年は九龍城砦内に自治団ができて、そのようなことが起きる環境ではなくなったらしい。

当時の香港の玄関口であった啓徳空港の極めて近所に九龍城砦があった。

1985年頃に九龍城砦に住んだ人のサイトがあり、九龍城砦に興味のある方にはぜひお勧めしたい内容だ。

九龍城砦探検記