「将棋の旅」の大酒豪

近代将棋1983年4月号、小池重明読売日本一(当時)の連載随筆「酒と将棋」より。

 今回酒友(失礼)である七條兼三氏の御厚意で長崎、雲仙将棋の旅にお供させて頂いた。もう何度もこういう旅行に参加している七條氏は旅慣れている。こんな具合である。

「船の中の飲み屋はたしか11時頃で閉まる。酒を用意して持っていこう」。一升か二升だと思っていたら原酒の一升徳久利4本である。「これだけ持って行けば大丈夫だろう」、ぎょっ、である。これでは九州に着く前に私の体がこわれそうである。2月10日午後5時半乗船6時出航である。何故か七條氏と同じ船室である。嫌な予感がする?まだ船が動かないうちから酒盛りである。やっと動きだしたと思ったらもう一升徳久利が横になっている。「オレ生きて東京に帰れるのかな?」船の中じゃ逃げる訳にもいかないし、一ヶ所あるとすれば真冬の海の中、これはずいぶん寒そうだ……。そうこうしているうちに2本目が空になった。もう駄目、一瞬のスキをみつけ逃げ出す。酒の酔いと船の揺れとで足元がフラフラする。いや船は揺れてなかったかもしれない。娯楽室で大山会長達の麻雀を見学、それも終わり残るは私一人、今部屋に戻るとまだ七條氏がおきていそうだ。そのままゴロリと横になる。2~3時間たち目が覚めるとかけた覚えのない毛布がかかっている。いるんですねー、優しい人が。きっと女性に違いないなどと気楽なことを考え部屋に戻ると七條氏はぐっすり、1日目無事通過。

 2日目関西、四国班と合流、大田学氏の顔も見える。広島の高木達夫氏も元気な姿を見せる。このときは真夜中に高木氏の襲撃があるなどとは夢にも思っていなかった。早速七條、高木両氏と私の3人で酒盛りである。これで用意した原酒四升すべて空になる。おつぎはウイスキーである。体の状態が段々悪くなってくるのが自分でもわかる。早く陸に上がりたいと思う。夜8時頃まで3人で飲み散会となる。布団に倒れ込むようにして寝る。

 午前2時頃起こされる。ねぼけまなこでみると両氏が飲んでいる。高木氏曰く「小池君、起きて一緒に飲もうや」。ウイスキー1本の他に缶ビール30本程空になる。再びダウン。翌朝気がついてみたらパジャマの上に背広を着てバスに乗っていた。自分で乗った記憶がまったくない。どなたかにご迷惑をかけたようで……。船の中での損害、買ったばかりのカーデガンとプレゼントに貰ったライター。助けてくれー、饅頭恐いじゃないが酒恐いよー。後はもうバスの中で昏々と眠り続け死人と同じ。グラバー邸記憶がないよー。もう酒やめた!次の日一日だけでした。お粗末。

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七條兼三さんは秋葉原ラジオ会館の設立者であり社長、高木達夫さんは飯干晃一著『仁義なき戦い』にも名前が出てくる元・テキヤの親分(この頃は引退してからかなりの年数が経っている)。

二人とも将棋界の大旦那で、将棋会館建設時など大きな支援があった。

近代将棋1998年6月号、湯川博士さんの「アマ強豪伝 七條兼三 その2」の中で掲載された写真。左から、高木達夫さん、最後の真剣師・大田学さん、湯川恵子さん、七條兼三さん。撮影は湯川博士さん。

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小池重明さんが「長崎、雲仙将棋の旅」と書いているのは「第3回名将戦まつり 大山十五世名人と将棋の旅」のこと。

旅行の日程等は以下の通り。(近代将棋に掲載された広告)

行きはフェリーで帰りは飛行機。

2月10日の将棋会館集合15:30、出発16:00のワクワク感がたまらない。

当時の将棋世界には、そのレポートが載っている。

船で行く3泊4日「大山十五世名人と将棋の旅」

 

この2年後の1985年の旅についても書かれた記事がある。

大山十五世名人と将棋の旅

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このような個性的な酒豪が乗船しているかいないかは別としても、今の時代にこのような旅があっても面白いだろう。