10年前の将棋界の一番長い日(加藤一二三九段編)

来週はA級順位戦最終局が行われる。

今日から数回、ちょうど10年前のA級順位戦最終局の模様を振り返ってみたい。

10年は短いようで長く、長いようで短い。

近代将棋2001年5月号、笹川進さんのA級順位戦最終局密着レポート「将棋界の一番長い日」より。

笹川さんは週刊誌のアンカーを務める文章のプロ中のプロであり、将棋ペンクラブの幹事だった。

2001年3月2日金曜日、午後10時56分。東京・千駄ヶ谷の将棋会館4階控室のテレビが、森下卓八段投了の模様を映し出した。間髪を入れず20人近い報道陣が「高雄」の間に殺到する。先頭のテレビクルーが襖を開けて部屋に入ろうとした瞬間、加藤一二三九段がものすごい勢いで飛びだしてきた。その迫力に気押されて、道を空けると、加藤は周囲の混乱に目もくれず、足早に廊下を歩き去った。(家に勝利報告の電話をしたらしい)

呆気にとられていた報道陣が、気を取り直して対局室に入ると、頬を紅潮させた森下が一人、盤に向って端座していた。すぐにテレビカメラが撮影を始め、ストロボが容赦なく浴びせられる。誰も何も喋らない。数分間の残酷な時間が流れたあと、やっと加藤が戻ってきた。こうして第59期A級順位戦最終局の五つの対局のうち最初の一局の決着がついた。この結果、加藤は残留を決めると同時に、通算1200勝の偉業を達成した。

この日、朝、コートと背広の前をはだけ、走るようにして将棋会館にやってきた加藤は、対局室に入ると、まず座布団を取り替えた。どこに違いがあるのか、本人以外、誰にもわからない。次いで将棋盤を右にズラした。そのため、加藤の駒台がテレビ画面からはみ出してしまい、NHKのスタッフが頭を抱えることになった。さらに、

「電気ストーブを買ってきてください」と注文をつけた。

暖房の騒音が気になったらしいが、「借りてくる」のではなく、「買う」というところがすごい。結局、事務室にある電気ストーブを持ってきて事なきを得たが、対局後、隣室の青野照市九段が、「なんか背中が暑いと思って隣をのぞいたら、ストーブが赤々とついているんだもの」と、呆れていた。誰かが、「森下はストーブに負けたね」と笑ったが、加藤の勝負に賭ける執念に圧倒された一面はあったかもしれない。

(中略)

局後、「1200勝を意識しましたか」と聞かれた加藤は、「いえ、全然知りません。ホーッ、そうでしたか」と、まるで幼児が予期せぬ褒美をもらったような表情で答えた。この天才九段の純真に、誰が疑いをさしはさむことができよう。

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この期、ラス前までの勝敗は次の通り。

佐藤康光九段 6勝2敗

森内俊之八段 5勝3敗

羽生善治五冠 5勝3敗

森下卓八段  4勝4敗

谷川浩司九段 6勝2敗

加藤一二三九段2勝6敗

田中寅彦九段 2勝6敗

島朗八段   3勝5敗

青野照市九段 4勝4敗

先崎学八段  3勝5敗  

最終局が佐藤-谷川戦だったので、この勝者が挑戦者になることになり、降級争いは、加藤九段、田中(寅)九段、島八段、先崎八段だった。