「ヤグちゃん登場」

将棋世界1990年2月号、「ケンケンの奨励会散歩」より。

 先月のゴジラ立石に続いて、そのライバルで、今月1級に昇級した矢倉君をご紹介しよう。

 もう、この欄では、すっかりおなじみの彼だが、ここへ来て連続昇級を果たし、久保・立石両初段にヒタヒタと迫ってきた。棋才という点では、前の二人に劣らない彼も、一時期スランプに陥り、その間に差をつけられていたのだが、昇級宣言をして、その通り上がってくるのはやはり力の証明だろう。

 彼の将棋は典型的な感覚派で、対局中はいつもキョロキョロと、あたりを見回し、相手が指すと、すぐに着手するという、まるで落ち着きのない子供のようである。

 日頃も何かと頼りなく、手合課のオジサンに怒られたり、日本語がうまく通じず(彼の日本語のヘタさは有名である)、苦しんでいるが、そんな折に見せる彼の照れた笑顔はなんともいえず愛くるしく、先輩からもかわいがられている。また彼は勝負事で才能があるらしく、何でもルールを覚えるとすぐに強くなるらしい。もっとも、その前に、仲間の誘いに乗ってしまい、痛い目にあっているようだが・・・。こんな矢倉君だが、こと将棋に対する思いは強く、修学旅行が奨励会とぶつかった時には、例会の後に夜行列車で追いかけていった。そんな思いを忘れずに今一歩、本気になれば、ヤグちゃんの未来は明るい。

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矢倉規広六段が15歳の頃の話。

この記事から3年後、矢倉六段の三段時代については昨年のブログ記事で紹介している。

勝つまで止めない、勝っても止めない

矢倉規広六段が皆に愛されていることがよくわかる。

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私が中学の時の修学旅行は、日光・東京の2泊3日だった。

仙台から宇都宮まで特急列車に乗って、あとはバスで日光へ。

東照宮や華厳の滝を見て、一日目は日光に宿泊。

矢倉六段は大阪府で時代も異なるが、私の修学旅行に当てはめると、夜、仙台から宇都宮まで一人で東北本線に乗り、宇都宮から日光線に乗り換え日光へ行き、鬼怒川温泉の旅館で修学旅行に合流ということになる。

中学生なので、一人で長距離列車に乗る機会もなかったし、私なら涙が出るほど不安になっていただろう。

夜行列車で一人追いかける矢倉少年、ものすごい根性だ。

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私の修学旅行二日目は、日光からバスで東京へ。

生まれて初めての東京だった(日光も初めてだったが)。

バスは羽田空港に直行。成田空港ができる前の国際空港だった時代だ。

空港というと華やかなイメージがあるが、羽田空港といえば、東京タワーとともに怪獣映画の草刈り場だ。

特に、東宝映画「サンダ対ガイラ」では、海から上陸したガイラが羽田空港をメチャクチャにし、人まで食べてしまう。

小学校低学年の時に見た「サンダ対ガイラ」は、私にとってトラウマとなるほど怖い映画だった。


YouTube: 1080p フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ (1966) 予告編 BD HD trailer

国際空港を見ながら海外に思いを馳せるのではなく、羽田空港に現れたガイラのことばかりを考えていたと思う。

その後、東京タワーへ。

一日目の最後は、代々木体育館前で集合写真を撮っている。

その夜の宿泊は六本木の修学旅行専用宿泊施設のようなところ。

当時は自由行動などなかったので、決められた通りのコースだった。

東京の第一印象は可もなく不可もなく。

期待していたよりも都会っぽくないという感じだった。

東京二日目。

私は将棋連盟のある千駄ヶ谷に一番行きたかったのだが、当然そういうコースではなく、国会議事堂や銀座、浅草方面。最後に国際劇場でSKD(松竹歌劇団)のレビューを見せられた。

中学生になぜそのようなものを見せたのかはいまだに理解できていないのだが、エンディングで、上條恒彦と六文銭 の「出発の歌」でSKDが踊っていたのを記憶している。

上野駅で、仙台へ帰る列車を待っている時、「特に面白いことはなかったけど、もう少し東京に残っていたいな」と感じていた。

東京という街のオーラがそうさせたのかもしれない。

頭の中では朱里エイコの「北国行きで」が何度も流れていた。