郷田真隆7級-中井広恵女流二段戦

昨日の続き。

将棋世界1983年12月号、八尋ひろしさんの「超難関!昭和58年度奨励会入会試験」より。

 この二次試験は10月19日、奨励会の対局日に行われた奨励会員にとっても成績となる対局。おいそれと負けるわけにはいかない。気合の入った雰囲気となった。

 広恵ちゃんは少し堅くなっている感じだった。仲良しの久美ちゃんがいなくて少しさみしい様子。1図は郷田7級との将棋。得意としている相横歩取りの戦型を郷田君にかわされ、ひねり飛車を受けてたつ格好となった広恵ちゃん。今のところ右翼の金銀に働きがなく、また4五の位を取られているのが大きいのだ。▲3五銀と郷田7級がでてきたところ。

奨励会5

 次に▲2三歩がきびしい。広恵ちゃんは△3三銀と受け、▲2四銀△同銀▲同角△8一飛▲8四歩と進む。ここで△2三歩と打って受けたのが広恵ちゃんが悔やんだ手。ここへ歩を打っては先手陣に恐いところがない。ここは苦しくとも△3四金と強く戦うべきだったという。これなら4五の位に対しても金がかわしているという意味もある。△2三歩以下は▲5七角に△6七銀と打ち(この銀も7六の金に働きかけるのでつまらない)▲4四銀△4二金▲2四歩と郷田7級にうまく攻められて敗局となってしまった。

(中略)

三次試験へ19名

 二次試験の対戦成績は受験者の29勝52敗。勝率3割5分8厘はまあまあの成績といえるであろう。この第2関門を突破したのは次の19名である。

(中略)

 この19名に次の一般教養試験と面接試験が待っている。(11月3日)

 面接試験のチェックポイントは、身だしなみ、言葉使い、意欲、熱意などが対象となる。

 これには将棋連盟会長、大山十五世名人をはじめ、理事、記者そして医師の立ち会いもあり、近来にないきびしさである。

 この試験を全部通過した者がはじめて奨励会員となり、四段から八段、そして、名人への道が続いていくのである。

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 第一期研修生が募集される。

 対象は今期奨励会受験者で惜しくも不合格となった者。(第二期以降は随時募集)月2回の研修日に対局を行い奨励会幹事他による技術的、精神的な指導を受けるという。ここで技術的、人格的にも認められた者は奨励会に編入されるようになるとのことである。

 

詰将棋解答

①▲1一金△同玉▲2一と△1二玉▲1一と△2二玉▲4二竜△3二銀▲4四角△2三玉▲3三角成△同銀▲1二竜まで13手詰。

②▲3二桂成△同角▲1四桂△同飛▲3三銀△1二玉▲2二金△1三玉▲2三金△同角▲3一馬△1二玉▲2二馬まで13手詰。

次の一手解答

①▲3二銀△同玉▲2二金

②▲2五金△同桂▲3六飛

消費時間

▲323分 △317分(図面は誌面の都合上省略します)

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この年に奨励会に合格した19名のうち棋士になったのは、

櫛田陽一1級(18歳)
中川大輔6級(14歳)
勝又清和6級(14歳)
近藤正和6級(12歳)
村山聖6級(12歳)
畠山成幸6級(14歳)
中井広恵6級(14歳)

この時の様子が「弦巻勝のWeb将棋写真館」に掲載されている。

奨励会(弦巻勝のWeb将棋写真館)

面接試験に立ち会った医師は、「弦巻勝のWeb将棋写真館」の写真にも写っているように、精神神経科医師の春原千秋さん。

春原千秋さんには20年以上、将棋ペンクラブの監査役をやっていただいている。

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郷田真隆7級12歳、中井広恵女流二段14歳、の時の対局。

最近のブログ記事『郷田真隆棋聖(当時)「それよりも何よりも一人の人間として、私はムラヤマヒジリが好きでした」』で、郷田真隆棋聖(当時)が、「村山君と初めて出会ったのは、昭和五十八年、彼が奨励会入会の二次試験で他の奨励会員と対局している時でした。私は多分近くで対局していたのだろうと思います。あの独特の風貌に詰め襟の学生服姿が印象的でした」と書いているのは、まさにこの時のこと。

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この時の奨励会入会試験で丸山忠久少年が不合格となり、第一期研修会員となっている。

丸山少年が奨励会に入会するのは、このほぼ1年後のことになる。