野獣流の名言

将棋世界1993年4月号、武者野勝巳五段(当時)のC級1組順位戦ラス前「佐藤康、余裕の昇級」より。

C1というクラス

  対局室にファンの観戦入場があったときに、あわてて座り直してネクタイを整える姿を思い出すと笑ってしまうが、一方でプロ棋士が普段控え室で仲間とかわす会話は、何の衣も着せることもせず実に遠慮がない。

 私が「あんなに勝っていたX君がこのところ連敗なんだけど、体でも壊したのだろうか」と心配すると、すかさず「女でもできたんだろう」と誰かが声を上げるといった具合。

 「連盟に一週間顔を見せないと、合同結婚式に行き保険金殺人に遇ったことにされてしまうよ」と控え室の常連が苦笑していたが、率直なだけに、茶化した会話の中にも辛辣で「なるほど!」と感心させられることも多い。

 「C級1組って言うけど、実質は昇級戦と降級戦を争う2クラスのメンバーに分かれているんだよ」。これなどはその代表作で、昇級戦メンバーが降級戦メンバーをパクパク食べるから、自然と昇級レベルが高くなり、降級点レベルは下がってくるという理由になる。それが証拠に、あの大所帯のC級2組ですら9勝1敗で昇級できなかった者はいないのに、このC1では前々期が所司、前期が井上と連続して9勝1敗で涙を飲むハイレベルな結果となっている。その反動で降級点争いは低くなり、ここ3期連続3勝ながら、謀ったように降級点を免れている「順位戦の鬼」もいる。C1とはそういうクラスなのだ。

棋士仲間の目

 ファンにとっての注目は、ここまで8連勝と快走してきた泉と佐藤康のB級2組昇級が今日決まるかだろうが、同クラスのプロ棋士間には、各棋戦にA級並みの大活躍を続ける佐藤康の、B2昇級はしかたがないという空気がうかがえる。二人とも後続に星2つの差をつけ当確ランプの点灯待ちなのだが、あえて不安を探すとすれば泉の方で、順位戦ここ数局の内容が辛勝続きの上に、残る対戦相手もかなり手強いからだ。

 ともあれ今日のラス前は二人のお手並み拝見。それよりも大半のプロ棋士にとって興味の中心は、選手寿命にもかかわる切実な降級点争いで「中でもメインイベントは佐藤大-宮田戦でしょう」と誰かが言い放つ。なるほど2勝同士の直撃戦で、相手の星まで勘案するとこの一局の勝利は1.5勝、降級点1回、ひいては選手寿命1年にも匹敵する大勝負なのだ。

プロ棋士魂

 佐藤康-小野敦戦は、小野の四間飛車に佐藤の居飛車穴熊。泉-有森戦は、有森の中飛車に泉の棒銀。宮田-佐藤大戦は、佐藤の四間飛車に宮田の玉頭位取りという戦型で進行している。居飛車・振り飛車の対抗戦が多いのは、小野、有森のように、最近になって振り飛車党への転向組が多いからで、居飛車穴熊や四枚美濃のように玉の堅い囲いが流行し、猛威をふるえばふるうほど「オレが退治してやる」との対抗心が首をもたげてくるのが、プロ棋士魂という奴らしい。

 このメンバー中、普段は宮田、有森というのは控え室の常連で、相手の手番のときはサッと席を立って控え室に陣取り、政治経済から棋士仲間の噂話まで何でも一刀両断にして話題を提供する、報道陣にとってはこの上なくありがたい存在なのだが、重大な一線とあって盤の前に張り付いていたきりで、しかたがないので夕食休憩のときに記録用紙を全対局コピーして研究することにした。

夕食休憩後

 居飛車穴熊の佐藤康だが、玉を固めるばかりではなく▲4六銀と出て相手の角頭目指して先制攻撃し、かなり積極的に戦っている。

(中略)

 一方の泉は中飛車の守備駒を相手にせず、巧みに金銀を転換して玉頭戦に持ち込んでいる。こうなると中飛車の3二金と4三銀がやや取り残された感じで、控え室の検討も「泉の作戦勝ち」で一致。「今期の昇級戦線は波乱なく終わるんですよ。さあさあその分加熱してきた宮田-佐藤大戦を並べましょう」と催促される。

(中略)

深夜戦

 深夜と呼べる午後10時過ぎ、宮田-佐藤大戦は1図になっていた。

(中略)

 佐藤大の上機嫌の顔を見ようと腰を上げると、突然有森が「将棋が好きになっちゃった」とか言って晴れやかな顔で控え室に現れた。局面はまだ中盤戦たけなわだったハズ。将棋が好き、晴れやかな顔、この2つでピンとくるのは指し直しなので「千日手になったの?」と聞くと「これで大阪の井上君にも怒られないでしょうね」と笑った。

 そんな頃、佐藤康は2図を前に考え込んでいた。というよりこれは読み切りだった順で、最後の確認をしていたというのが正しいだろう。やがて▲7一角と打ち込むと指し手はバタバタ進み、5五金を攻めの軸としてきれいに詰み上げ。昇級を決めた。

 泉の指し直し局が始まったのは、千日手成立から30分後の10時35分。

 前局の少ない残り時間を引き継いで行う指し直し局は、1時間ほどでたちまち3図へと進展し、これも控え室では「泉指し良し」の声が上がった。駒損もなく玉の堅さが違い過ぎる上に、手番を握っているのだから後手優勢は間違いないところ。泉は酒を飲んでの武勇伝には事欠かない人材なのだが、今日ばかりはそれもご愛敬と、明け方の祝賀会に参加しに来たらしい応援団にも力が入る。

 ところが3図から泉が指したのは、(中略)という複雑な手順だった。これは飛車も成りましょう、と金も作りましょうというわがままな構想で、数合の後4図となってみると、飛車成りとと金、そのいずれも間に合わない不思議な局面となってしまったのだ。

 中終盤はA級並みの怪力と評判の有森はこうなっては誤らず、泉必死の粘りをねじふせて、昇級に待ったをかけた。

 泉は残念会に変わった席で私の向かって何度も「早見え早指しのあいつが一生懸命指してくれて、有森って本当にいい奴ですよ」と何度も訴えた。その意気やよし。翌日大阪より「井上敗れる」の報が入ったが、栄冠は自力でつかみ取れ。

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本当は深夜戦の部分だけの抜粋をしようと考えていたのだが、武者野勝巳七段の文章が面白く、それ以外の部分も載せることにした。

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野獣流・泉正樹六段(当時)の言葉がいい。

きっと酔っ払いながら、何度も何度も同じことを言ったのだと思う。

勝負師としての一面以外の、プロ棋士としての気概を見せられたような気持ちになる。

この期、泉六段は最終戦に勝ち、自力でB級2組へ昇級を決めている。