将棋世界2004年3月号、鈴木輝彦七段(当時)の「古くて新しいもの → 無くて七癖」より。
今回は棋士の対局中の癖について考えてみたい。そこには、コンピュータとは違う人間的な勝負があるからだ。
対局に集中してくれば、自ずと癖は出るものだ。私自身で言えば、悪手に気づくと顔が赤くなる。これでは「悪手を指しました」と相手に言っているようなものだ。実は、局面の形勢判断よりも、相手がどう見てるか、の方が大切な場合が多い。諦めている、と判れば本当は難しくても決めにいけば決まるのだ。
谷川浩司王位は光速流の寄せで「何十局かは損をしてます(笑)」と言っていたが、恐らく、その倍以上は寄らない玉を寄せている筈だ。私などは、谷川さんが「寄せに来た」と思っただけで、帰り支度を始めてしまう気の弱さなのだから。
楽観してるな、と思えば、多少悪くても技が掛かり易い。攻め合いにいかず粘っていて、勝負手を放つといった要領だ。これで損をしているのは、石田和雄九段だろう。良くなると急に愛想も良くなり、対局を見に来た棋士に「お元気ですか」と遠くから言ったりする。逆に悪いと「何やってるんだ」とか独り言をいって、近くに来ても話をしない。
これで損ばかりしているかといえば、そうでもない。「ヒドい」「頭が悪い」といって扇子で頭をポコポコ叩いているので、良くなったと安心していると逆にヒドい目に遭わされる。終わってから石田さんに「ずっと良かったでしょ、私が」と言われて口をアングリする棋士も多い。扇子で叩くのは気合いを入れていたのだ。反省と気合いを入れる、ではかなり違う。
相手の癖を見抜く名人は何といっても大山康晴十五世名人だろう。注意深く相手の所作を観察されていた。棋士は同じ相手と生涯にわたって対局することを知り抜いていたのだ。これは、意外とうっかりしてしまう事実だ。私との初対局の時は、好きなようにさせてもらって、ギリギリの一手違いで私が負けた。2局目、3局目は受けつぶされた。4局目は終盤で必勝だったが、勝ち目の無い入玉策を取られ、大錯覚から敗れた。今から思うと終盤での癖を見抜かれていたのだと思う。面白いのは、森下卓新九段との対局では粘ることもしなかった。慌てない彼の癖を知っていたのだろう。
盤上没我で有名な加藤一二三先生は、訊けば「癖は無いですね」と言われそうだ。全く御自身の癖には気づかれていないのだと思う。対局中は将棋と一体化して将棋の権化となる。
対局中に対局者の後ろに立ったりするのは、対局者も眼中にないのだろう。しかし、誰と戦っているのか。
一分将棋になってからも加藤先生は「残り何分」と訊く。これは、膨大な変化を読む為の調子を取っているのだろう。私が記録係の時も「30秒残り一分です」と読み上げるが、途中で「残り何分」と訊かれた。その都度「残り一分です」に「はい」と答え、終盤の緊張感に加えて益々ヒートアップする。私は結構このスリルが好きだった。壮絶な勝負をする空間ここにありで、むしろ、あこがれでもあった。
ある時は、取った駒を手に持って加藤先生が着手すると、その指が完全に離れる前に大山先生が右手で奪って指していた。もう駒台もいらない世界だった。闘志と闘志、正しく男の戦場だが、感想戦になれば「どこがいけなかったですか」に「私が悪かったよね」と急に平和が訪れるのが世の戦場とは違う所かもしれない。
ただ、こうした”熱さ”も今は受け入れられないのかもしれない。何年か前、加藤先生の「残り何分」に「一分だよ」と答えた奨励会員がいた。何度も答えるうちにイヤになったのだろう。その数カ月後にこの少年は退会したと聞いた。この選択は良かったと思う。プロの世界で一番大切なのは辛抱することである。この程度のことに辛抱出来なくては、とても四段にはなれないだろう。しかし、この勇気が役立つ世界はきっとあるに違いない。
他にも、独り言を呟くとか、時計を見るとか、枚挙に暇がない。最近の若手では郷田真隆九段の癖は面白い。四段になったばかりの頃は、序盤で三時間位の長考はめずらしくなかった。その長考で一時間を超すと身をくねらせる。それでなくても細面の美男子だから、女形のような仕草に見えてくる。恐らく、長距離ランナーに来る、ランナーズハイのようなものが起こってくるのだろう。
これは、私も経験していて、一時間を超して長考していると、読んでいるのが楽しくなってくる。技がドンドン決まる。もちろん頭の中だけだが。脳中麻薬と呼ばれるベータ・エンドルフィンが出ているのだと思う。
郷田九段はあれだけ身を捩っているのだから苦しんでいるのかもしれないが、棋悦(これは造語)の中にいるのだと思う。
(以下略)
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石田和雄九段のボヤキ、加藤一二三九段の数々の癖、郷田真隆五段(当時)の長考時の身のこなし、それぞれが結果的に様式美になっていると言っても良いだろう。
対局時の癖は楽しい。
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私が社会人団体リーグ戦で指している時のクセは何だろうと考えてみた。
- 序盤から中盤の入り口までとにかく早指しで、相手の持ち時間が自分の持ち時間よりも10分以上少なくなると、少しだけ嬉しくなる。
- 好手だと思っている手を指す時は、駒音を立てずにそっと駒を置く。
……何かつまらない。
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徹夜明けの朝は勢いとして、昼頃に少し眠くなって、夕方から不思議とハイになって元気になったような気分になることがある。
これもベータ・エンドルフィンによる作用なのかもしれない。
徹夜の場合は「オールナイト・ハイ」か。なんか変だ。