花村元司九段「軌道はずれの将棋人生」(後編)

将棋世界1971年10月号、連載対談「軌道はずれの将棋人生」より。

ゲストは花村元司八段(当時)、聞き手は石垣純二さん(医事評論家)

石垣「ところであなたがプロになったのは各地が空襲にあい、もうバクチや賭け将棋が出来なくなったからじゃないんですか?」

花村「いや、そういうわけじゃないんです。戦時中、木村名人と関根十三世名人が豊橋に来られたことがあるんです。その時、稲垣さん(花村八段を引き立ててくれた人、木村名人の後援者で七段)が、非常におもしろい男がおる。もう勝負事ならなんでもやり、囲碁なら素人で四段は堅い。将棋は五段ならピンと指す。バク才にたけている。花札を持たせたら天下一品だと宣伝したんです。まんざらホラでもなかったんです。その頃、木村名人は産業戦士慰問で各地を回っておられた」

石垣「大政翼賛会でしょう。あの方は講演がうまいから―」

花村「その時、そこで去年亡くなられましたが、一丁半なら名人といわれ、この手合いならプロ高段者の誰とでも真剣で指す半名人の中村市太郎さんという方に、私がなんと四枚落ちでものの見事に真剣で指しているのを両名人がごらんになったんです」

石垣「ほほう―。素人の将棋を天下の両名人が、光栄ですねえ」

花村「それがすんだあと、稲垣さんがちょっと来いというので木村名人と碁を打った。当時、私の方が三目くらい強いんですよ。将棋界では木村名人、平野信助七段(故人)、中井捨吉八段らが最高峰だったんですが」

石垣「木村さんとの手合いはなんでした」

花村「その時、私は黒を持って―」

石垣「ほお、なんでそんなことをしたんですか」

花村「相手は将棋の名人だし、私は一介のセミプロですから……」

石垣「将棋と碁では全然関係がないじゃないですか。もちろんお勝ちになったと思うがそれが縁になって……」

花村「稲垣先生が将棋のプロになれと奨めてくれて、木村名人に頼んでくれたわけなんです」

石垣「稲垣さんがどうしてプロになれと奨めたんですかね。賭け将棋などで一生終わらせるのはもったいない才能だと思ったんでしょうか」

花村「勝負に徹している男だから将棋界が盛んになるかも知れないと―それから木村名人がこういう強い男をアマ棋界におくのは棋界の発展のためにならないと、他の棋士の反対もあったのですが、検定試験を受けさせてくれることになったんです」

石垣「異例だったそうですね、突き出し五段というのは―」

花村「六番勝負で指し分けならパスということで、最初和田庄兵衛五段(故人、木村名人門、後六段)と平手で指しました」

石垣「和田さんは才能豊かな人だったそうですね。それで―」

花村「序盤がヘタだから形勢不利になり、中盤で多少盛り返すんだが、うまくゆかずやっつけられて―次が奥野五段(現七段)だが序盤がうまいもんだからコロコロとやっつけられて……」

石垣「これで2敗―」

花村「負かした側が花村の将棋は強い、という。3局目からがまた話がおもしろい。花村の将棋は賭けなけりゃだめだと―」

石垣「誰がいいだしたんです」

花村「私を木村名人に紹介してくれた稲垣さんで、昭和19年の8月3日に湯河原の山海荘で、東京と豊橋から落ち合って真剣勝負をしようということになった」

石垣「相手はどなたでした……」

花村「小堀六段(現八段)で、半香で戦いましたが、全部で1万5千円くらい賭ったんじゃないですかね」

石垣「そんな金、あったんですか。当時の大成会(将棋連盟の前身)にはなかったでしょう」

花村「個人、個人でわれもわれもと乗ったわけです。持ち時間7時間で、小堀さんは長い将棋ですからね。小堀さんが指すと私はポッとやる。そうこうしているうちに、隣の隣の隣の部屋あたりでバクチが始まる。オイチョカブで、これはまあ考えているうちはどうにもならんと、一つやってこようかといって私がオイチョカブに加わる」

石垣「将棋を指しながら(呆然の態)」

花村「そして儲けちゃ戻ってみると、まだ指していない」(笑)

石垣「アルバイトしながら将棋ですか―で、勝負は?」

花村「半香二番とも勝っちゃって2勝2敗になった。その次が大和久七段(故人・贈八段)で香落ち二番。これは東京でやり、湯河原でやったんだから、地元の豊橋でということになった」

石垣「昔は棋士もけっこう賭け将棋をやったんですかねえ」

花村「いや、棋士はやりません。本人は知らないんです。私は賭け将棋しかやらんので土台だけはガッチリ賭けますが、あとは20人、30人と集まってくる観戦者が乗る」

石垣「なるほど、馬券のようなもんですねえ。で、大和久さんとの勝負は……」

花村「私が2連勝したんです。結局、4勝2敗でプロ入り合格と―」

石垣「あなたはいつも種金だけは持っていて、財布の底をはたくことはないそうですね」

花村「セミプロ当時からです。一銭なしにしない」

石垣「昭和19年からあなたはプロにおなりになった。しかし、賭け将棋が出来なくなり、大変な減収じゃないんですか?」

花村「いや、その頃はだんだん相手がいなくなり、いいカモが見当たらなくなりましたから―賭け将棋はせいぜい昭和25年くらいまででしょう」

石垣「2千万円も持って賭け将棋をした方が……いまの将棋連盟の給料は少ないでしょう。よくそれでご満足ですね」

花村「満足はしていませんが、賭け将棋の時代は終わったんですから、あきらめるしかないでしょう」(笑)

石垣「しかし、あなたのファンは升田さんに次いで多いということですが、どのくらいおられますか?」

花村「あっちこっち居りますが、延べで500人くらいでしょうか」

石垣「500人の後援会があれば区会議員くらいならいつでも当選できる」

石垣「ところで、あなたの碁というのは、病気中、本を読んで覚えたということですが本当ですか?」

花村「新聞碁です。少年の頃、学校を卒業してすぐ浜松の鋳物屋の見習いになって、7月12日ですが、その日は曇りで、職場は煙でもうもうとしていました」

石垣「いまから思うと似ても似つかない職業を選ばれた―」

花村「鋳型に銑鉄を溶かして流す作業で、取柄というのがある。煮湯を入れるもので、その残った分を持っていて柱にぶつけたわけです」

石垣「パンツ一つ、裸の作業ですね」

花村「そうです。それがパッとこぼれ、タビの間から右足に入っちゃった。大やけどで、なんとか全快するのは4ヵ月もかかった」

石垣「いまでも跡、残ってるでしょう」

花村「残っています」

石垣「第三度火傷というやつで跡が残る」

花村「浜松付近では、足を切らなけりゃ駄目だというのを、飯倉さんという名医がいましてね。なんとか治るというので、湿布一点張りで、とうとう切らずにすんだ」

石垣「おいくつでしたか」

花村「満で16歳。数えで17でした。その時、将棋や碁を覚えたんです」

石垣「何がどうなるか、ほんとうに判りませんね。やけどしなかったら、将棋もそれほどやらなかったでしょうね。その頃の、将棋の力は何級くらいでしたか?」

花村「さあ、前にもいった通り一日一日、一手一手強くなるんですから……村で一番強くなり、町で一番強くなり、浜松で一番強くなるといった具合で―」

石垣「なるほど―」

花村「そして兵隊検査で名古屋に出かけたとき、数えの21歳ですが、その頃名古屋でも相当指し手はおったけれど、半年もたつと花村が一番強いということになった」

石垣「兵隊検査の頃、どのくらいの棋力だったでしょう。四段くらいですか?」

花村「いや、そんなに指せません。プロでいえば初段半くらいです」

石垣「ところであなたが、なん銭でも賭け出したのは、何歳ぐらいからですか?」

花村「これは記憶があるんです。ベルリンのオリンピックで”前畑ガンバレ、前畑ガンバレ!”の放送の日ですから。たしか8月15日で、田舎では月おくれのお盆で、私のいた町は祭礼と盆と正月は、寄ってたかって賭け事をやる」

石垣「いくらお賭けになったんです」

花村「私は5円賭けましたが、観ている者は、おれは3円だ、2円だ、10円だと両方に乗るわけです」

石垣「勝てば賭け金は倍になり、乗った人から祝儀がもらえるわけですね。その金でまた中村遊廓へ―」(笑)

花村「いや、いまから35年前でまだ18でしたから―中村は21の6月からで徴兵検査後です」

石垣「奥さまに内緒にしておきますが、今日まで何人斬りぐらいですかね」(笑)

花村「女房にはお前は201人目だといってあるんです。女房もわたしは201人目の女だということを知っているんです」

石垣「それは内輪に見積もってあるんじゃないですか(笑)目下、どのへんまで―」

花村「いや、いまは謹慎中です。しいていえば、ケイ(競)ちゃんとリン(輪)ちゃんの二人です」

石垣「国会答弁のようであやしいが、信用しておくことにしましょう。しかし奥さんは連盟にお勤めになっていたそうじゃないですか。それをかっさらっておいて201番目だなんていうのは失礼じゃないんですか」

花村「女房は若い男が嫌いなんでね。齢は違っても、禿げた頭の方がいいと―先見の明があるんだね」

(中略)

石垣「ところで花村元司という人はマージャンや花、あるいは競輪で見せる冷静、沈着で絶対勝つというトバク師の精神を持っている人か、将棋に見られるアマチュア型の勝負師か、ということを、お仲間にきいたんですが、誰も首をかしげ答えてくれない。そこで読者にかわって聞いてみたいんですが、どっちが本当の花村さんですか?」

花村「冷静ということは、沈着、精神力とつながりますが、これはいまの中原十段のような人をいうんです。私の場合はすべて欠けています。ないわけじゃないが……。私は色紙に揮毫をたのまれると<断>の字を使います。英断、勇断、果断といったように―。勝負に徹し速断するわけです。疲れないという長所はありますが、そそっかしさもあるわけで、冷静、沈着とはいえない」

石垣「あなたはいくつぐらいまで、現役で指せると思っておられますか?」

花村「60くらいまででしょう。満7年ありますが但し、B1組以下なら健康の許すかぎり、いつまでも指せると思っています」

石垣「60には間がありますね。B級1組は1年だけで、来年はA級復帰ですな」

花村「復帰を確信しています」(笑)

石垣「来年のいま頃はお祝いしましょう。どうも失礼なことをいろいろ―」

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来年の今頃、というわけにはならなかったが、この7年後、花村元司九段は1977年度の60歳の時にA級への復帰を果たしている。

これは、現在でも全クラスを含めた最高齢昇級記録となっている。

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東海の鬼と呼ばれた花村九段だが、見かけと違って酒が飲めなかった。

戦前の幾多の修羅場を切り抜けることができたのも、大金を獲得しても身も体を持ち崩さなかったのも、酒が飲めなかったことが大きいと思う。

花村九段は、多くの弟子を育て、また師匠思いでもあった。

木村義雄十四世名人は、「東海の鬼-花村元司九段棋魂永遠記-」に、非常に温かな追悼文を寄せている。

木村義雄十四世名人が語る花村元司九段

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昨日の記事に、花村元司九段門下の片山良三さん(銀遊子さん)から貴重なコメントをいただきました。

片山良三です。花村の門下生でした。
奨励会に入って一年にもならない頃、武者野先輩に連れられて京王閣競輪場に行ったときの思い出です。現地でトイレに行くと、これがコンクリートの打ちっぱなしで上からホースで水を流すタイプのワイルドな構造。左右の仕切りさえないすごいものでした。それだけでも圧倒されそうだったのに、隣にスッと近づいてきた帽子をかぶったオジさんが、よく見ると花村先生。こちらは16歳か17歳でしたから、これは絶対に叱られると首をすくめたものでした。ところが先生は「勝ってるか?」とニコニコ。「勝負事はなんでも勝たないといかん」と、それだけ言うとサッとどこかに行ってしまいました。
先生との一番の思い出がそれ、というのもどうかと思いますが、いまも鮮明に情景が浮かんできます。

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花村元司九段がとてつもなく格好いい。

武者野勝巳七段と片山良三さんは同じ花村門下で、高校生になってから奨励会入りしたという共通点も持つ。

片山良三さんはSNSでの自己紹介欄に、「日本将棋連盟奨励会花村元司門下に在学中」と書かれている。