銀座の詰将棋

将棋世界1971年1月号、倉島竹二郎さんの「南海の巨匠(13) -将棋界の御意見番大崎熊雄伝-」より。

 関根新名人が誕生した翌年―大正11年の暮れのことである。

 その日は、大崎七段が将棋師範をしている交詢社の稽古日であったが、暮で忙しいのか常連もいつもより少なく、大崎七段は交詢社の将棋部の世話役石山賢吉氏と一緒に早目に西銀座の交詢社ビルを出た。石山氏が夕食がわりに大崎七段を京橋の「幸寿司」に誘ったのだった。幸寿司はその頃天婦羅の「天金」や鰻の「竹葉」と同様、稍々高級な大衆向き寿司屋として有名で、私なども大正末期から昭和初期にかけての大学生時代に「銀ブラ」のついでによく足を運んだものである。良いネタがふんだんに使ってあって気持がよかったが、中でも分厚く切った「中とろ」が素晴らしく、いまだに舌に蕩けるようなとろりとした味が忘れられない。

 それはともかく―

 当時、大崎七段は亡くなった井上八段に代わって将棋同志会を統率し、直門には飯塚勘一郎四段、平野信助三段等を擁して、関根名人、土居八段と並んで東都棋界を三分する大立者になっていた。また石山賢吉氏は一介の雑誌記者からのし上がり、今は千代田区霞が関に200坪の土地を買い求め、そこに木造ながら2階建て延べ100坪の家屋を新築し、旬刊誌「ダイヤモンド」と日刊紙「ダイヤモンド日報」を発行して、文字通り一国一城の主であった。

 銀座の表通りでは、街路樹の柳の黄いろく細い葉が一面に散り敷き、その上に夜店の仕度がボツボツ始められていたであろう。が、二人は裏通りを京橋の方に向かって歩を運んだ。二人がとある町角に差しかかった時、そこにちょっとした人だかりがあった。銀座辺にはめずらしい大道将棋が出ていたのだ。石山氏は目ざとくその人だかりの中に知人らしい人物の後姿を見つけた。その知人らしい人物はどうやら詰将棋をやっている様子だった。石山氏は大崎七段に合図をすると、大道将棋の方に近寄っていった。

 その頃の大道詰将棋は普通1回50銭で、詰ませば敷島というタバコ2箱と、詰将棋の本を賞品としてくれることになっていた。傍に寄って覗き込むと、当節流行の派手なホームスパンの背広にこれも派手なハンチングを被り、顔を真赤にして詰将棋をやっている人物は、案の定石山氏や大崎七段がよく知っている萬朝報記者の三木愛花氏であった。三木氏はすでに数回やって取られっぱなしのようだったが、大崎七段は一目見てその詰将棋が三木氏の棋力では何回やっても解けそうにない難物であることが分かった。で、大崎七段は「三木先生、詰物はそれ位にして、一緒に幸寿司に行きませんか?」と声をかけた。

 詰将棋屋はムッとした表情で大崎七段をにらんだが、年輩者だけに顔を知っていた様子で表情を柔げ

「大崎先生でしたね。こちらは三木愛花先生でしたか?存じないもので―」と愛想笑いをし

「またこの次ごゆっくりお遊びを」と云うと、置いてあった敷島を一ト箱三木氏に手渡そうとした。

 当時のこういう連中は、なかなか仁義を心得たものであった。三木氏は苦笑しながらタバコを受け取ったが、その代わり細かくたたんだ1円札をソッと皆に分からぬように詰将棋屋に握らせた。

(以下略)

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大正時代の銀座の、さりげなく粋な話。

倉島竹二郎さんは三木愛花氏について次のように書いている。

三木愛花氏は本名を貞一と云ったが、非常な愛棋家で、各紙に先駆けて「萬朝報」に将棋欄を創設したのは三木氏であり、将棋が新聞棋欄を原動力として今日の隆盛をきたしたことを思えば、三木氏は棋界の大恩人である。

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「萬朝報」は「よろずちょうほう」と読む。”よろず重宝”が語源と言われている。

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この時代の東京では、京橋の「幸寿司」と日本橋の「吉野鮨本店」が有名寿司店だった。

ちなみに、トロを初めて出したのが「吉野鮨本店」で、トロは当初は吉野鮨本店のメニューの固有名詞だった。

江戸前の総本山 日本橋「吉野鮨」(朝日新聞DIGITAL)

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天ぷらの「天金」は、国文学者で慶應義塾大学教授だった故・池田弥三郎さんの実家がやっていた店で、歴史は古く、徳川慶喜がお忍びで店に来ていたと言われている。

銀座4丁目の現在の和光がある場所に店があったが、大正11年のこの当時は、銀座の別の場所が店舗。1971年に閉店している。

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鰻の「竹葉」は、幕末に江戸で創業した老舗鰻料理店で、関東大震災までは京橋寄りの新富町に本店があった。その後、本店は現在の銀座8丁目へ移転。

現在の「竹葉亭」は、本家株式会社竹葉亭が経営する3店のほか、名古屋、阪神に株式会社東京竹葉亭の5店、大阪、奈良に株式会社大阪竹葉亭の5店がある。

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大正11年頃の1円が現在の何円に相当するかには諸説あるが、日本銀行の企業物価戦前基準指数によると、大正11年が1.266で平成26年が735.4。735.4÷1.266=580.9なので、大正11年の1円は現在の580円に相当すると考えられる。

しかし、大正時代の公務員初任給が70円とも言われており、580倍すると現在の40,662円。

昔の1円を現在価値に置き換えるのはなかなか難しい。