「この間、トイレで○○三段が”たのむ、俺を殺してくれ”って言うんですよ。わかりますか。俺たち、命かけてるんです」

将棋世界2001年9月号、テレビ番組制作ディレクターの岡美穂さんの『「愛」について語りたい』より。

 私は鳩森神社の境内で、震える手を合わせながら祈った。神様、お願いです。午後の将棋も勝たせて……。

 この日は女流アマ名人戦。一手目から私の指は震えていた。かろうじて2勝したあと、昼食休憩で箸を持つ手がまだ震えている。「鉄の神経を持つ女」と呼ばれる私が、すがるような思いでこの神社にやってきたのだ。そのとき、ある映像が脳裏にフラッシュバックしてきた。今から6年前、この場所で私は一人の奨励会員のために祈っていたのだった。

 

 1995年2月、私の人生は一変した。羽生対佐藤の竜王戦を追ったドキュメンタリー番組を偶然見た瞬間から、自分のまわりの風景が将棋一色に染まっていった。通うバーも、読む本も、つきあう人々も。

 ことに奨励会三段リーグの壮絶な戦いは私の心を突き動かした。世の中にこれほどまでに純粋で残酷なときを生きている若者がいるということを、多くの人に伝えたかった。羽生善治が次々とタイトルを取り、脚光を浴びている陰で、黙々と指しつづけている若者たちがいることを知ってほしかった。「昼の光に、夜の暗闇の深さがわかるものか」という言葉がある。その暗闇で、人知れず美しく輝く男たちを世に知らせたい、その一心でテレビ局に企画を売り込んだ。

 さいわいNHKで放送が決まり、撮影がスタートした。主人公は愛達治三段(現指導棋士四段)。当時30歳の愛さんは年齢制限のため、次の三段リーグで勝ち抜かなければ、プロ棋士になるためにひたすら耐えてきたこれまでの15年が無駄になるという、まさに人生の崖っぷちに立たされていた。私たち取材スタッフは1995年10月から96年3月まで、戦いの最中の貴重な半年間を愛さんとともに過ごさせてもらった。

 取材中には、スタッフが将棋に対して無知だったこともあって、さまざまなところからクレームがついた。将棋会館での初日の取材が終わると、奨励会幹事からは怒鳴られ、『週刊将棋』には「取材に配慮が足りない」と批判され、奨励会員からも抗議を受けた。100人以上の奨励会員の前で「みなさん、本当に申しわけありません。でも、あなた方のひたむきな姿を記録に残すことが、私の使命だと信じています。どうか協力してください」とお詫びをし、懇願したこともある。

 ある三段からはこんなことも言われた。

「この間、トイレで○○三段が”たのむ、俺を殺してくれ”って言うんですよ。わかりますか。俺たち、命かけてるんです。あなた方の取材はこの半年で終わるかもしれないけど、俺たちは人生がかかってんすよ」

 愛さんの自宅に伺ったある日。愛さんはひとりで「人生ゲーム」をしていた。「ひとりじゃ寂しくない?」と訊ねると「相手がいないから」と言うので、撮影を中止してゲームを始めることになった。しなやかで美しい愛さんの指から振り出される賽の目はつねに鋭く、「さすが勝負師」と感心したものだ。当然、愛さんが圧勝した。そして「ゲームならうまくいくんだけどなあ」と独り言のように呟いた。それが人生についてなのか、将棋についてなのかは今もわからない。

 あの半年間、愛さんのために私たちができたことといえば、鳩森神社で祈ることだけだった。何の助けにもならないとわかっていても、私たちはひたすら祈りつづけた。神様、お願いです。どうか愛さんがプロ棋士になれますように……。

 愛さんの夢は結局かなうことなく、奨励会を去ることとなった。テレビの取材など受けるから駄目だったんだと囁かれたりもした。それを知ってか知らずか、最後の日に愛さんはこう言ってくれたのだ。

「今まで応援されることなんかなかったから、みなさんに応援されて本当に嬉しかったっす。みなさんがいてくれて心強かったっす」

 愛さんの優しさが心に沁みた。あの過酷な状況下、撮影を承諾してくれた愛さんに対する感謝の気持ちは今も忘れない。この番組は『次の一手で人生が決まる』というタイトルで、1996年3月に放映された。

 

 午後の対局が始まろうとしていた。私は鳩森神社で平静を取りもどしていた。「大丈夫、命を取られるわけじゃないでしょ」、そう自分に言いきかせた。

 今、私の部屋には「女流アマ名人戦(Bクラス)優勝」と刻まれたトロフィーが燦然と輝いている。そして「これからも将棋、がんばりなさいね」と微笑みかけてくれるのだ。

—————-

岡美穂さんと初めてお会いしたのは(と言っても新宿の酒場「あり」で遭遇したわけであるが)1996年の初夏の頃のことだった。

岡さんは、今の言葉で言えば、女子力が高くかつ男気に溢れた大人の女性、というのが私の印象だ。

その岡さんが、『次の一手で人生が決まる』の撮影でこれほど苦労されたとは、この記事を読んで初めて知った。

—————-

瀬川晶司五段の『泣き虫しょったんの奇跡』のあとがきには、

 最後に、本書の執筆にあたり、取材その他すべての面でいつも僕をサポートしてくれた岡美穂さんと講談社の山岸浩史さん。対局に負けたあと、食事につきあってもらったことも多々ありました。このお二人がいなければ本書の完成はありえなかった。心から感謝しています。本当にありがとうございました。

と書かれている。

岡さんの、『次の一手で人生が決まる』の制作の過程で積み重なった思いが、年齢制限で奨励会を退会してその後プロ編入試験にチャレンジをする瀬川晶司アマ(当時)へのサポートという形として表れたのだと思う。

—————-

岡さんをOさんとして、1998年の近代将棋に記事を書いたことがある。

料亭へ行こう!

この2010年のブログ記事で「店によく来る大物プロ棋士にこの対局の立会人をお願いしてOKをもらうなど」と書いているが、これは「あり」のママが中原誠十六世名人に立会人のお願いをしてOKの返事を得たということ。

「盛り上がりは更に増したのだが、それぞれの人が忙しくなったりして、対局は実現されなかったと思う」と書いているが、これは、直後に林葉直子さんの関連で週刊文春に記事が出たり、私の平穏な私生活に危機が訪れたり、などのことがあったということ。週刊文春とも私とも関係なく、料亭行きが懸かった対局は行われていない。

—————-

岡さんは英国人男性と結婚をして、現在は英国在住。

月に一度、現地の日本人学校で将棋を教えている。