「人間は誤りを犯す動物である」という信念が打たせた大山康晴十五世名人の▲6九銀

将棋マガジン1991年5月号、河口俊彦六段(当時)の「対局日誌」より。

 特別対局室の最上席は、内藤-米長戦。そのとなりは大山-真部戦。大山は一仕事終えて(残留が決定している)今日は立会人、といったかっこうだ。米長は正面だけでなく、右ななめ前も意識することになるが、この三角関係はおもしろい。

 内藤は大山にまったく勝てぬかわり、米長には相性がいい。大山は、米長にわるいと、三すくみみたいだが、人間連絡でもいわく因縁がある。本欄の読者は、その辺のあやはよく承知していらっしゃるはずだ。

 一人仲間外れになっているのが真部。私は、真部は運がないな、と思った。

 もし、大山-青野戦で大山が負けていれば、今日の戦いに引退がかかる。これこそ注目の一番である。スポットライトを浴び、負けて損のない勝負となれば真部は強い。鋭い大刀さばきで斬ったのではないか。すると、大名人の現役最後の対戦者として棋史に名が残る。そういうめぐり合わせに、なりそうでならなかったところにツキのなさがある。

 大広間はふすまで三つに仕切られ、奥の間に谷川-高橋戦、まんなかに、有吉-青野戦、手前の間に、南-塚田戦という配置。うるさい人は、最高の位の谷川がなぜ最上席でないのか、気になろうが、米長のところは挑戦権に直接関係があるから、テレビに映る席にしたもの。こういうサービスはありがたい。

 例によって第2対局室に継ぎ盤が5面用意されているが、昼間は閑散としている。

 特に書くこともないので、大山-青野戦にふれておきたい。

 この勝負で、今期のA級順位戦の興味は半減した。私事になるがこの勝負を見ることができなかった。締切に追われていたとはいえ、一生の不覚、二度とない場面を見損なってしまった。

 数日後会館へ行くと、みんな口々に「どうして来なかったんですか」なかには「河口さんもついにボケたか、の噂もありましたよ」などと言う。「あの銀打ちを見なかったとはねえ」気の毒がられもした。

 さっそく並べてみたが、なるほど凄い。夢を見ているような将棋だ。対内藤戦と対青野戦の2局は、大山後半生の傑作というべきだろう。

 ドラマはもちろん最後に起きるのだが、序盤から異常だった。

 1図、▲5五歩と仕掛けたのに対し、青野が△6五桂と飛んだ場面。しょっきり将棋みたいで順位戦らしくないが、最近の大山の将棋はこんな感じになることが多い。

1図からの指し手
▲9五角△8六歩▲同歩△6四角▲8五歩△8六歩▲同角△同角▲同飛△5七桂成(2図)

 1図は▲5九角しか思いつかぬ局面である。魔がさしたのだろう、大山は▲9五角と出てしまった。もし△8三飛と受ければ▲5四歩でよし、と読んだのなら、あまりに虫がよすぎる。そんな手を青野が許すはずがない。

「うますぎるときは注意せよ」いい手が浮かんだ瞬間、待てよの注意信号を発するのがプロの習性である。特に大山は、だまされることを極端に嫌うから、まちがってもうまい話に飛びつかぬ人のはずである。それがこの誤り。実戦心理ははかりかねない。

 青野は目を疑ったろう。まさかという手を指してくれた。読み筋をたしかめたが間違っていない。こちらはやる気をしずめて△8六歩。これで後手有利になった。

 ▲7三角成なら、△8七歩成以下飛車を取り合って後手よし。玉の堅さが違う。▲8六同歩はやむをえないが、△6四角の好手があって、端角の退路がなくなった。次、▲6六歩は、△9四歩▲6五歩△5五角が飛車取りになる。

 ▲8五歩から△5七桂成の2図までは仕方のない手順。これは先手がひどい。大山は唇をかみしめただろう。昨年も青野に同じような目にあった。自分に肚を立て、ここから大駒一枚強くなる。

 大量失点にめげず、1点ずつ返し、9回には同点に追いついた。しかし、そこで青野に好手が出てつき放され、もはやこれまで、と思われたのが3図である。

 戦うこと200手。残り時間は青野1分、大山16分。

 問題は青野玉が詰むかどうかだが、▲6四飛と打っても△4五玉と逃げられ、上部が広くて詰まない。時間に追われながらも、青野はそこだけはしっかり読んでいた。そして、詰みがなければ勝ちだ、と。

 大山は指さない。その間青野もいっしょに読む。逃げ方をくり返したしかめていたろう。

3図からの指し手
▲6九銀△9五桂▲8八玉△8九と▲9八玉△9九と▲8八玉△8九と▲9八玉△9九と▲8八玉△8九と▲9八玉△8七桂成▲同玉△8八飛▲9六玉(4図)

 やがて大山に残り2分が告げられると▲6九銀と打った。控え室にどよめきが起こったそうである。

 この銀打ちは、プロが指せない手である。受けることは浮かんでも、すぐ無駄だ、と思ってしまう。そもそも、詰むや詰まざるやの局面で、受けに回るのは、詰まない、と認めたことになる。読み負けた屈辱感にたえられないが、詰まぬと判って王手をかけてもしようがない。

 つまり、負けと観念することになる。あきらめれば急に冷静になり、手がよく見えて自分の玉の寄り形も読める。▲6九銀なんて、一時しのぎ、単なるわるあがきに見えてしまうのだ。

 並の棋士はそう考えるが、大山はちがう。「人間は誤りを犯す動物である」という確たる信念がある。その哲学が▲6九銀を打たせた。

 青野は▲6九銀を見た瞬間、ホッとしただろう。やはり詰みはなかったのだ。勝ったぞ、と思う半面、読んでいない手を指されて動揺した。それをさとられまいと△8九と、△9九と、と要領のよい時間稼ぎをしたが、これがかえってまずかった。

 中級の読者ならご存知だろうが、△8九と、△9九と、は「連続王手の千日手」の禁手で、3回繰り返せば反則負けとなる。2回まではよいというのは、いってみれば法の抜け穴で、本来指してはならぬ手なのだ。

 とはいえ合法的な手段だから、この場面になれば、だれだって2回はやってみる。たとえば加藤(一)なら、やっているうちに嬉しくなり、頭が冴えてくるだろう。加藤がせこい人柄というのではないが、人それぞれのタイプがある。

 青野は絶対に他力を恃まない。昇降級争いをしていたのて、競争相手の星を気にしない唯一の棋士である。すべては自分が勝てばよいのだ、といってはばからない。

 そういう潔い人柄に、せこい時間稼ぎは似合わなかった。観戦記に3回やったか、まだ2回か、など混乱している有り様が書かれていたが、なまじ、半端に考えたために、あらゆる面で迷いが生じた。

 △8七桂成が敗着。△7八歩成▲同銀△8七桂成▲同玉△7八成銀なら簡単に勝ちだった。

4図からの指し手
△9四歩▲8七桂△9五歩▲8六玉△6六成銀▲7四飛△4五玉▲4七金△4六金▲3七桂まで大山十五世名人の勝ち。

 3図の▲6九銀については、一般誌に何回か書いた。あらためて書き、まだ感動をおぼえた。

 そのくらいの妙手なのに、週刊将棋、観戦記のどちらにも一言もふれていない。それこそ、銀が泣いている、というものではないか。そればかりでなく、いまわの際になっても、己の哲学を信じ、執念を持ちつづける大山の恐ろしさを伝えていない、ということにもなる。あえて観戦せざる観戦記を書いた理由である。

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3図からの▲6九銀は、正しく応接されれば、受けにはなっていない手。

ほんの数手、先手玉の寿命が延びるだけの効果しかない。

棋譜だけを見れば、いくらこの一局に負けるとA級残留が厳しくなるとはいっても、大山康晴十五世名人らしからぬ、悪あがきの一手のように感じられる。

しかし、これは大山十五世名人が、相手の青野照市八段(当時)の様子、その時のその場の空気を全身に感じて13分の考慮の末に指した一手。

「人間は誤りを犯す動物である」という確たる信念。本当に恐ろしい。

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1992年に大山十五世名人が亡くなり、その時の将棋世界(大山康晴十五世名人追悼号)で、羽生善治棋王、森下卓七段、先崎学五段(タイトル、段位は当時)による座談会「大山将棋を大いに語ろう」が行われている。

その中で、この▲6九銀が取り上げられている。

非常に読みごたえのある内容。

羽生善治棋王、森下卓七段、先崎学五段の「大山将棋を大いに語ろう」(最終回)