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「弟子が師匠に勝つことが恩返しになるとは限らない」

将棋マガジン1990年6月号、「名棋士、二上よさらば」より。インタビュアーは田辺忠幸さん。

 昭和の名匠が一人、盤上から消えた。日本将棋連盟会長の二上達也九段である。人間の寿命が伸びたのにつれて棋士生命も長くなった今、58歳で第一線から退くのは早すぎるし、B級1組を確保したのだから、もったいない感じもするが、余力を残しての引退は、いかにも、さっぱりした性格のガミさんらしい、いさぎよさ、さわやかさではある。

 引退表明の記者会見が行われたのは3月26日。それから1週間後に、将棋会館で改めて引退の弁をうかがった。

―現役40年、お疲れさまでしたが、まだ若いのに、という感じをぬぐい去ることは出来ません。現に長年のライバルだった加藤一二三九段あたりの棋士たちからも惜しむ声があがっています。引退の決断をされたのはいつごろなのですか。

「3年ほど前から成績は振るわなくなり、そろそろ年貢の納めどきかな、と思っていました。それで、去年の5月に会長になったとき、どうしようかなと悩みましたよ。その後、11月17日の「将棋の日」に勤続40年の表彰を受けて、ちょうどいいや、と心に決め、年度末まで待って、順位戦のけりがついたところで表明したわけです。もっとも、40年まであと1年あると思っていたんですがね。もちろん、順位戦では、A級カムバックを目指してはいましたけど、一度そろそろなんていう考えになると、頑張る気力が衰えますね」

―奥様には、いつ打ち明けられましたか。

「今年に入ってから、そう、年の始めでした。やめるよっていったら、アッソウ、なんて感じで、あっさりしたもんでした。すっかり拍子が抜けましたよ」

―記者会見で「弟子の勝てなくなった。将棋のことは弟子にまかせたい」といわれましたが、羽生善治竜王の成長も引退と関係があるんでは。

「いくらかはあります。今度、羽生がB2に上がり、私はB2に落ちそうになりましたが、弟子と同じクラスで戦うのは嫌ですからね。羽生と当たったのは、日刊ゲンダイ一局だけです。相撲界では、稽古をつけてくれた先輩に勝つのを恩返し、といいますが、私は、恩を返されても弟子に負けるのは、はっきりいって面白くありません。羽生は思ったより強くなっています。今度も谷川名人に(全日本プロ・トーナメント決勝三番勝負)でなんとなく勝ってしまいましたね。このままいけば心配される壁もなさそうです。羽生は私の物差しでは計れないところがあります。もっと大きい物差しじゃないとね。羽生に関連していえば、10代の棋士ばかりというか、一部の天才だけが活躍する将棋界では駄目です。もろい面があり、かえって薄く、危ういような気がします。

<二上-羽生の唯一の対戦は、1989年3月10日、日刊ゲンダイ主催のオールスター勝ち抜き対抗戦。125手で羽生五段が勝ち、5人抜きを果たした>

(以下略)

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「相撲界では、稽古をつけてくれた先輩に勝つのを恩返し、といいますが、私は、恩を返されても弟子に負けるのは、はっきりいって面白くありません」

いつ頃から将棋界で「恩返し」という言葉が使われ始めたのだろう。

たしかに、弟子が師匠に勝つこと=恩返しとは、感覚的にピンとこない。

そもそも師匠がそう思っていなければ、その一門においては、師匠に勝つことが恩返しにはならなくなる。

師匠よりも将棋が強くなること、師匠よりも将棋界で活躍すること、などは全ての師匠が喜ぶだろうが、直接対決となると話は変わる。

恩返しには様々な形態がある。

羽生善治九段は、その活躍、実績自体が二上達也九段への恩返しになっている。

弟子が師匠に勝つことは必ずしも恩返しにはならない、と結論付けて良いだろう。

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久保利明二冠の師匠への恩返し

弟子から師匠への本当の恩返しとは(NHKテキストビュー)

「将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします」

近代将棋1985年3月号、「名棋士と語ろう 大内延介九段の巻」より。聞き手は小杉英夫さん、金子猛雄さん。

小杉 大内さんは週刊誌に、木村十四世名人が揮毫した「書」について尋ねたけれども、うまい具合にはぐらかされてしまった、という内容のエッセイを書いておられましたね。

大内 ええ。

小杉 私も木村名人に、他の教員と3人で揮毫をお願いしたことがありまして。その文字が今はっきり憶い出せないのですが、難しかった……。

大内 難しいのですよ、木村名人のは。名人は中国の歴史などをお調べになっているから、故事にならった言葉などが出てきましてね。おっしゃられたことはその通りで、私が質問しても答えてくれなかった。読めないのですよ。(笑)私の木村名人の思い出といいますと、まず小学校4,5年の時ですが、将棋大会に優勝して頭を撫でられて、「頑張りなさい」と言われました。それが強烈な印象ですね。もう一つ、私が奨励会の時に、引退された名人と二上七段(当時)の対局があって記録係を務めたのですが、その折に「君は誰の弟子だ」と訊かれました。「土居先生です」と答えたのですが、そしたら「人様に自分の師匠を言うときは、土居です、でいい」と怒られた。ですから誉められたことと怒られたことがありまして。(笑)江戸っ子でしてね、しゃべる口調が私と似てます。

小杉 共通していますよ。

大内 歯切れがいいですね。江戸っ子らしく見栄っ張りで、その見栄っ張りのところが現在の将棋界の土台になっていると思います。例えば相撲も桝を持っていたりしてね。収入を全部将棋の社会的格上げのために費やしたのでしょう。僕は非常に尊敬しています。

(中略)

金子 大内先生の修行時代に辛かったことというと、どのようなことでしたか。

大内『僕は楽天的な方で、それほど辛かった思い出はないのですが、強いて言えば三段から四段になる時です。3年ちょっとかかりましたね。現在よりもはるかに厳しい予備クラス制度というのがありましたから。これは東京と大阪のそれぞれの奨励会で三段リーグを行い、優勝者同士の決戦によって勝者が一人だけ四段になれるものでした。例えば11勝1敗の成績をあげても、12連勝の人がいればその年は駄目だというわけで、実に過酷な制度です。その頃は、将棋連盟というのは随分みみっちい制度を作るな、と思ってましたよ。つまり、才能があって強い人はどんどん上がれる制度にするのが本当で、こんなことではいまに将棋界が滅びてしまう、というわけです。で、六段になって奨励会幹事になった時、亡くなった山田道美さんと二人で改革しました。9勝3敗とか12勝4敗とか、7割5分以上の勝率をあげれば昇級しても不思議ではなかろうとの考えのもとにね。それで今、奨励会員が百何十人にもなりました。僕らの時は2、30人でしたよ。ピラミッド形というか、三角形の底辺の拡がりが大きければ大きいほど、その社会は脚光を浴びるのですから。

(中略)

金子 昭和50年の名人戦では大内先生が中原名人に挑戦されて、最後、新名人誕生間違いなし、という局面になりましたね。それを落としてしまったわけですが、時間が経った現在の感想はどのようでしょうか。

大内 あれから人生が狂っちゃいましたよ。(笑)運命論者ではないのですが、人生というのははじめから決まっているのではないか、との気持ちにあの頃なりましたよ。ゴルフで言えば、目をつぶっても入る10センチのパットをその時に限って失敗したわけで、こういうのは実力とか何とかではない別の何かの作用ではないか。こう思ってちょっとぞっとしました。

小杉 関根十三世名人以降、木村、塚田、升田、大山、中原、加藤、谷川、各氏それぞれはじめから名人になることが決まっていた……。

大内 そう、運命的にね。雷電為右衛門があれほど強くても横綱になれなかった……。

(中略)

大内 名人の交代劇というのは、結果から見るといとも簡単に行われたようでも、内容は実にドラマチックですよ。大山さんが中原さんに奪られた時も、精密機械と言われた大山さんが終盤でとんでもない錯覚をしていました。あの大山さんが、と考えると、将棋の技術では割り出せないものを感じます。またそのシリーズでは、最後の二番、何故か中原さんが普段指さない振り飛車をやった。

金子 私もよく憶えておりますが、最終局は定跡書に書いてある通りの形になりましたね。私達アマチュアから言えば、中原さんは居飛車で勝てなくて、たまたま振り飛車にしたら勝った、との感じを持ちました。

大内 そうそう。得意な居飛車を止めて振り飛車で名人戦を戦う、というのはちょっと考えられないでしょ。非常に無欲で、今回は勉強させていただくという気持ちで指していたのだと想うのですが、それによって大山さんが転んでしまった。しかも大錯覚で。これは将棋界の奇跡ではないでしょうか。宗教の方を見れば、空海にしろ日蓮にしろ、キリスト、釈迦にしろ、皆奇跡で人を救ったり国を動かしたりしています。同様に、将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします。

(中略)

小杉 木村名人の読書好きは有名ですね。一方、大山名人や中原名人はその道一筋ではないでしょうか。

大内 そういうところがありますね。その一筋が偉さですよ。宗教で言えば、煩悩を断ち切って修行にひたすら邁進するわけです。すべて煩悩との闘いでしょうが、これに打ち勝つのが大変なことで、打ち勝った人がその道で一流になっていますね。その点僕は落伍者です。

金子 そんなことはありませんよ。ところで、ゴルフの集中力も将棋のそれも突き詰めれば同じことではないでしょうか。

大内 似てる部分もありますが、将棋とゴルフは異質なものでしょうね。ゴルフの集中力は一時的なものですが、将棋はトータルなものですし、それにゴルフの明るさに較べて将棋は陰湿ですよ。

金子 ゴルフも集中している状態だと、長いパットが入ったりします。局面に埋没している時に好手を発見するみたいで……。

大内 もちろん共通する部分はあります。僕も山に登りますが、山はもっと将棋に似ていますよ。登っている時には様々な雑念が頭を掠めて行きます。頭の中に去来することを考えながら登って行くわけで、そこに昔の修験者が山に登るということの哲学もあったのではないでしょうか。ゴルフに哲学はありませんね。逆に何も考えさせないスポーツがゴルフのわけで、そこにゴルフの良さがある。将棋では、専門家なら局面を一目見てパッとわかるのですが、そこでいろんなことを考え、大長考して悪手を指すことがある。ノータイムで好手を指すのがゴルフの世界で、長考してポカをするのが将棋。

(中略)

大内 集中力という物事を煎じ詰めるようなイメージですが、本当は「無」という状態だと思います。相撲取りが大技を放って勝った後アナウンサーに、あそこでどうしましたか、とインタビューを受けて、いやあ、何も覚えていません、と答えることがよくありますが、あれですね。これは身体に備わっているものが、いざという時に出てくるわけで、普段の生活や修行によるものです。人間的なことは別にして、こと将棋ということでは、こういうことをずうっとやり遂げている大山さんや中原さん、若手では田中寅彦君みたいな行き方が一番素晴らしいのでしょうね。その点僕は野次馬で駄目なのですよ。

(中略)

金子 最近穴熊はどうですか。

大内 少ないですよ。西村さん、剱持さん、また居飛車穴熊では田中寅ちゃんとか、大勢穴熊をする人が出て来ましたから。こうなっては他のことをした方がいい。(笑)ただ、僕は穴熊が好きでやったわけではありません。以前は振り飛車は大野(故人・九段)の専売特許でした。そこに松田(九段)流ツノ銀中飛車が出て、あとの人はまず居飛車しか指しませんでした。腰掛け銀が全盛の時代でね。そんな時、大山、升田両名人が振り飛車をやり出した。強い人がやるから振り飛車の勝率が上がります。そうなると、それに対抗して居飛車の新戦法が登場してきました。5七銀左とか玉頭位取りとかね。で、玉頭位取りは美濃囲いに強いことが判って来まして、今度は振り飛車側が穴熊という新対策を採用するようになった。技術の進歩というのはこのように相対的なものです。そして振り飛車穴熊を居飛車が負かそうと、左美濃とか居飛車穴熊が出て来た。今はそういう時代です。

金子 穴熊はしなくても、やはり振り飛車が多いですか。

大内 多いですね。一つ大野先生の言葉で、印象深いものがあります。僕が記録係を務めていた時に聞いたのですが、俺は振り飛車だと思われているが矢倉だってやるよ、しかし家を出る時に”大野流三間飛車で勝ってください”とのファンレターを読むと、どうも居飛車はできん、とね。これはすごいプロ根性です。感動しましたよ。僕が飛車を振る理由の中には、大野先生に続く振り飛車党がいなければ駄目だ、との気持ちもだいぶあるのです。僕だって矢倉も他の戦法もできますよ。(笑)それと、修行時代に松田先生に一番よく教わりましたから、これも大きな要素ですね。

(以下略)

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対談をしたい希望の棋士名を書いて読者が対談応募をする企画。

小杉さんは元小学校校長、金子さんは繭生糸問屋を経営。

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大内延介九段が奨励会時代に「人様に自分の師匠を言うときは、土居です、でいい」と木村義雄十四世名人に叱られたことは、4月7日のブログ記事でも取り上げている。

木村義雄十四世名人「酒が好きで、女が好きで、バクチが好きなら、最低でも八段になれる」

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「六段になって奨励会幹事になった時、亡くなった山田道美さんと二人で改革しました。9勝3敗とか12勝4敗とか、7割5分以上の勝率をあげれば昇級しても不思議ではなかろうとの考えのもとにね」

この対談は、現在の三段リーグの制度(1987年度から)ができる前のこと。

本当は、この大内・山田方式が続けば良かったのだろうが、奨励会員の人数が増えるとともに四段昇段者が更に増えることが予想され、財政面から三段リーグに変わったのだと考えられる。

(大内・山田方式だった時代の四段昇段者の人数)

  • 1974年度 3人
  • 1975年度 8人
  • 1976年度 7人
  • 1977年度 1人
  • 1978年度 4人
  • 1979年度 4人
  • 1980年度 8人
  • 1981年度 5人
  • 1982年度 5人
  • 1983年度 4人
  • 1984年度 6人
  • 1985年度 6人
  • 1986年度 7人(5月の森内俊之四段を入れると8人)

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「ゴルフで言えば、目をつぶっても入る10センチのパットをその時に限って失敗したわけで、こういうのは実力とか何とかではない別の何かの作用ではないか。こう思ってちょっとぞっとしました」

ゴルフの世界で「オーガスタには魔物がいる」という言葉があるように、「名人戦には魔物がいる」ということができるのだろう。

「将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします」

名人に挑戦した棋士だからこその実感。

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振り飛車名人・大野源一九段は、戦前は居飛車を中心に指していた。居飛車で八段になっている。

戦後、持ち時間が短縮されたのを機会に、序盤に時間を使わなくて済む振り飛車を指すようになった。

江戸時代以来、振り飛車は受けに徹して相手が間違うのを待つ消極的な戦法だったが、大野九段は独自の工夫を加えて「攻める振り飛車」を確立した。

「”大野流三間飛車で勝ってください”とのファンレターを読むと、どうも居飛車はできん」

中学生の時、地元紙は最強者決定戦(棋王戦の前身)を掲載していた。

待ちに待った大野八段(当時)が紙面に登場した時のこと。

大野八段先手(後手は板谷進七段・当時)で、▲7六歩△3四歩▲6六歩△4二玉

すると大野八段はなんと▲2六歩。

板谷七段が振り飛車と決め打ちして△4二玉と早く上がったのが、大野八段の反骨精神を燃え上がらせたのだろう。急遽居飛車にしたのだった。

大野ファンである私は、全身から血の気が引くような感じがした。

まあ、この対局を大野八段が勝てば、次は振り飛車にしてくれるだろう、と思って毎日観戦記を見ていたのだが、結果は大野八段の負け……

かなり落ち込んだ思い出がある。

”大野流三間飛車で勝ってください”というファンレターを出す人の気持ちが本当によくわかる。

 

「この頃はもう、奨励会の将棋指してて”なんで王様が二つあるんだろう”と、フッと不思議に思う時があるんですよねえ。そのぐらい異常でした」

将棋マガジン1987年2月号、「若手棋士訪問記 米長邦雄のスーパーアドバイス 浦野真彦の巻」より。

米長 あれっ、今日は妹さん来てないの。

浦野 ええ、仕事をしてましてね。残念だと言っていました。

米長 本当にそう言ってたのか?

浦野 いや、聞けばそう言うと思ったんですけど(笑)。

米長 ハッハッハ。ダメじゃないか、自分で勝手に決めちゃ。ちゃんと聞いといてくれ。こっちはそれが楽しみで、わざわざ大阪まで来てるんだから。

浦野 でもこの間「米長先生と対局だ」と言ったら、サインをもらってきてくれとか言われましたよ。

 浦野真彦四段は関西将棋会館のすぐ近く(徒歩1分)の1DKのマンションに一人住まい。家賃は5万円との事。一人住まいとは言っても、茨木にある実家での生活と半分半分だという。また、歯科衛生士をしているハタチの妹さんがなかなかの美人らしく、若手棋士数人が狙っているとかいないとか。

 訪問すると自らコーヒーを入れてくれそして一言「まさか砂糖を入れるような人はいないでしょうね」いかにも棋界最軽量(42キロ)のマッチらしい意見。

米長 茨木っていったら、全然遠くないわけだろ。関西会館からどのくらい?

浦野 45分ぐらいですね。

米長 それじゃあ俺の所と同じようなもんだ。それでここを借りてるというのは何か理由があるの。

浦野 しんどいんですよね、対局の朝、早く起きて連盟に行くのが。

米長 ウーン、しかし、それを普通のサラリーマンの方々に言ったら怒られそうだね。対局開始は10時だからね。

浦野 それと、家の方はスペースがないんですよ。僕の部屋が四畳半で、そこにベッドがおいてあったりして。

米長 なるほど。でもいいね、こういう部屋があると。じゃあ、対局の前の日と対局の日はここに泊まるわけだ。

浦野 いえ、対局の前というのは、ほとんど順位戦のときだけですね。

米長 奨励会を卒業して何年だったっけ。

浦野 10月に昇段しましたから、ちょうど3年です。

米長 今期はどうだい、順位戦は?

浦野 ええ、なんとか5連勝です。

(中略)

米長 ここに越してからはどのくらい?

浦野 ちょうど1年ですね。

米長 奨励会の時は親元にいたんだ。

浦野 いえ、15の時にアパートに。

米長 あっ、そう。それはなんで?

浦野 前の関西本部は遠かったんですよ。2時間近くかかって。それで、連盟の近くに借りて、天王寺将棋センターの手合係をやらせてもらってたんです。それから3年程たって、連盟が今の所に来 たんで、家に帰ったんですけど。ちょっと体もおかしくなりまして。

米長 結構、きつかったのかい。

浦野 でしょうね、後から考えたら。手合係が12時から10時まで。片付けやって帰ったら、もう11時ぐらい。それが月のほとんどでしたね。月に20何日。で、奨励会が2日、記録係も2日、稽古も1件あって、休みがゼロだったですね。

米長 手合係やって、アマチュアの将棋を見てても勉強になるわけはないよね。そうすると何で強くなったの?

浦野 遅番というのがありまして、夕方からというのが。そういう時は連盟に行って棋譜並べたり、将棋指したり。あと手合係というのもそんなに忙しくなかったんですね。だから、そこで棋譜を並べたりとか。とりあえず、なんか将棋にからんでた、というのはあったと思うんです。それで二段までは良かったんですけどねえ。二段になって1年くらいの時ですね、1勝11敗というのがあって。

米長 それは思いきった負け方だね。

浦野 その頃ちょうど規定が変わるという話が出た時で、それまでは2勝8敗を2回やって降段しても3勝3敗で戻れるというシステムだったんですが、今度からは本当に落とすという事になったんです。その話が出た時に僕はBに落ちて4連敗してるんですよ。あと4番負けると初段に落ちるんですよね。その時はあわてましたね。その頃ですね、詰将棋を始めたのは。詰将棋の創作ですね。

米長 詰将棋を。それはどうして?

浦野 将棋から離れたかったんでしょうね。その頃はセンターから帰ってきて、フロの最終に入って、それから、夜の12時頃から朝6時頃までラジオを聞きながら詰将棋。ラジオが終わると寝るんですよ。で、昼に起きてセンターに行って。そういう生活を2ヶ月半位続けました。その頃は全然勝てませんでしたね。奨励会で対局するのも嫌でしたし。

米長 その頃に作った詰将棋、今ある?

浦野 ええ、ありますけど、人に見せられるようなものではないんですよ。作り始めの頃ですしね。

米長 いやいや、それが良いんだよ。おう、おう、これ!(3図)。面白いじゃないか。こういうのを16、7の少年が寝ずに作ったっていうんだから。

 3図は初形が市松模様になっている趣向作。市松模様にするために双玉になっている。もち論、無意味な駒が置いてあってはいけない。詰ますのは2一の玉。詰め手順を記すと、▲3二と左、△同竜▲同と(中略)△6四玉▲6三竜まで61手詰。

浦野 この頃はもう、奨励会の将棋指してて”なんで王様が二つあるんだろう”と、フッと不思議に思う時があるんですよねえ。そのぐらい異常でした。

米長 こういうものを考えていて、実戦には当然役立たないわけだよね。

浦野 関係ないですね。むしろマイナスだと思ってました、当時は。

米長 それでも好きでやってたわけだ。

浦野 ちょっとヤケクソ気味もあったんでしょうね。全然将棋、勝てないし。

米長 ヤケクソというのとはちょっと違うんだろうけどね。しかし、そのハケロが詰将棋に来るというのは変わってるね。普通は他の所に行くけどね。

浦野 本当は煙詰を作りたかったんですよ。しばらくして、それができたんですね。それで、納得ができたので詰将棋やめたんですよ。”四段になったらまたやろう”っていうんで。

米長 なるほど、一つの区切だったんだ。

浦野 そうですね。で、今はまたボチボチやってますけど。

米長 それはやっぱり長編?

浦野 まあ、いろいろ。7手詰とかも。面白いな、と最近わかったんで、そういうのとか。あと、煙詰はいつもやってます。煙詰はどうしてもいいやつを作りたいんですよ。後世に残るようなやつを。

米長 そうすると、10代はとにかく将棋に明け暮れたわけだ。将棋にしろ、詰将棋にしろ、手合係にしろ、ね。で、現在はどんな生活をしているの。

浦野 今は、まあ、詰将棋と将棋ですよね。あと、麻雀、トランプ、読書、こんなのが生活のほとんどですね。今一番楽しいのが、勝負をしている時なんですよ、将棋でもトランプでも何でもいいから。

米長 ああ、そういう時が一番将棋に乗ってる時なんだ。将棋に乗ってる時はね将棋が一番楽しいからね、なんたって。

浦野 今は特に順位戦が楽しいですね。

米長 まあ、頑張って「昇級者の喜び」というので、またマガジンに出てくれよ。

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「あれっ、今日は妹さん来てないの」
「ええ、仕事をしてましてね。残念だと言っていました」
「本当にそう言ってたのか?」
「いや、聞けばそう言うと思ったんですけど(笑)」

の会話が絶妙だ。

「本当にそう言ってたのか?」というツッコミをぜひ見習いたいところだ。

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「まさか砂糖を入れるような人はいないでしょうね」

コーヒーをブラックで飲むという人の比率を調べてみた。

すると、ある調査(サンプル数4,479)では、なんと47%もの人がコーヒーには何も入れないという結果が出ていた。

コーヒーはブラック派が47%と約半数! 入れるならミルクという結果(niftyニュース)

これほどブラックの比率が高いとは思わなかった。

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「この頃はもう、奨励会の将棋指してて”なんで王様が二つあるんだろう”と、フッと不思議に思う時があるんですよねえ。そのぐらい異常でした」

それくらい詰将棋に打ち込んでいたということだから、すごいことだと思う。名言だと思う。

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それにしても、玉が1つしかない将棋があったとしたら、これはこれで目的意識を持つのが非常に困難なものになるだろう。

相手玉がなかったとしたら虚しさの極致、自玉がなかったとしたらアイデンティティの喪失。

やはり玉は2つあるのが良い。

大山康晴十五世名人「長所は即欠点につながる。長所のある人間はトップになれない」

将棋マガジン1990年4月号、バトルロイヤル風間さんの突撃マンガインタビュー「大山康晴十五世名人 66歳の棋王位挑戦!!」より、大山十五世名人への質問。

自分は天才だなーと思うのはどんな時ですか?

「ない。思わなかったほうだね。だから不調の時期が短い。そういう人(天才と思う人)は長いんじゃないかな」

好きな駒は?

「ない。第一人者は好ききらいをなくすものなんだ。食べ物も人も船酔いもなんもかんも。長所は即欠点につながる。長所のある人間はトップになれない。だから面白みがなくなるんだ。面白みがあるうちは天才なのだ」

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大山康晴十五世名人は常々「天才と言われているうちは本物(トップ)ではない」と言っている。

そういうわけなので、大山十五世名人にとっての「天才」は、決して手放しで良い意味というわけではない。

「長所は即欠点につながる。長所のある人間はトップになれない。だから(トップは)面白みがなくなるんだ」

これは大山十五世名人自身のことを語っている。

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バトルロイヤル風間さんは、この時にいろいろな質問をしているが、大胆にも次のような質問もしている。

  1. 好きな食べ物は?→ないようにしている
  2. 好きな色は?→同上
  3. 好きなケーキは?→並べられればシュークリームをとる
  4. 好きな女優は?→テレビなど見てないのでわからない
  5. 好きな動物は?→無答
  6. 好きな町は?→カナダのバンクーバー
  7. 好きな山は→なし(大山っていったら面白いと思った僕)
  8. 好きなプロレスラーは→無答
  9. 将棋の世界以外でライバルと思った人は?→なし
  10. 50年以上将棋を続けてこられた励みは?→時代によって違うが升田さんを目標にしてきた時代が長い
  11. 自分は棋界で何番目くらいに強いと思いますか→計算したことない。比較するものじゃない
  12. ”リトル大山”南といわれていますが、似てると思いますか?→もっと似た人たくさんいますよ。湯川秀樹や鈴木健二
  13. 選挙に出ようと思ったことは?→ばかばかしいし当選しても歩じゃないの。王ならいいけど
  14. 今後の将棋界はどうなるか?→子供と会社のトップを大事に
  15. ものまねができるか?→できない

(以下略)

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なごやかな雰囲気のなかでインタビューは行われたということだが、質問の回答だけについて言えば、まさに「だから面白みがなくなるんだ」を体現している。

しかし、「ものまねができるか?」に真面目に答えているところが面白い。

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選挙出馬についての「ばかばかしいし当選しても歩じゃないの。王ならいいけど」は、ある世界でトップをとった人が議員になったとしても、始めは会社で言えば新入社員の扱いになるということ。

大山康晴十五世名人「我慢するのは真似しにくいでしょ」

近代将棋1984年4月号、「名棋士インタビュー 大山康晴十五世名人の巻 まだまだ若い者には・・・」より。インタビュアーは谷川俊昭さん。

―早速ですが、先頃”勝負五十年”という本を出されましたね。私も読ませていただきましたが、名人ご自身でも、よく続けてこられたなあと、感慨深いことでしょうね。

「昭和10年の3月14日に木見先生の門を叩いてから、正確には49年間、自分でもよくやってきたと思います。ただ、あまり知られていないけど誇りにしているのは、今まで一局も不戦敗がないことで、これは他に、花村さん、佐瀬さんぐらい。まあ、これは時には風邪をひいたりして苦しくても、自分の立場上休めないという意地っ張りの気持ちがあったからでしょうね」

(中略)

―名人は内弟子生活は随分と長かったようですね。

「12歳から21歳ぐらいまでだから9年と3ヵ月、まあ、これも戦争があったからで、戦争がなければ、八段まで内弟子でいたでしょうね(笑)。まあ、私も名人になって、ここまで頑張ってこれたのは、この頃の内弟子の経験が一番役に立っていると思いますね。あの頃は、今と違って、田舎から出てくる時は丁稚奉公という感じで、一人前になっても、しばらくはその家のために御恩返しをする。のれんを分けてもらうのはずっと先というような感じですよ。まあ、世の中全体がそんな考え方だったから、内弟子生活はそれが当たり前といった感じで、辛くはなかったですね。まあ年が経つと家族のような親しみも出てきますし」

―若い頃の9年3ヵ月だけに、名人のその後の土台になったと思いますが、棋風はその頃どんな感じでしたか。

「これはね、私が15歳位で中将棋と出会ったんです。あの、盤面が大きくて、駒がたくさんある将棋ですね。当時は指す人が結構いて、私もかなり強くなったんだけど、中将棋は派手な動きがなく、駒の関連を考えながら、少しずつ盛り上がっていく。これが、今の私の棋風にある程度影響しているようです。まあ、強くなるためには、このようなものを一通りやるべきじゃないかと思いますね」

(中略)

「昭和21年末には名人戦も復活し、金先生の家を事務所にして、麻布のお寺に寝泊まりして、対局したもんです。まあ、寝るといっても、布団がないから、寝る訳にいかない。だから、麻雀台があれば宿代が4人分浮くんじゃないかということで麻雀台を置いたりしました。それでも寝たい時は、横に将棋盤を置いて、風がこないようにし、上に額をおろして、新聞を体に巻いたりしたものです。今では考えられないけど、そんなにまでしても、将棋が指したかったんですね」

(中略)

―世間では升田さんのことを”宿命のライバル”とか言っていたようですが……

「新聞などでは、”高野山の決戦”とか、二人をライバル扱いしたけど、本人は別にライバルなどとは思ってなかったですね。当時は、関西は東京と較べて経済的に苦しかったこともあって、”打倒東京”という気持ちが強かった。木村さんは雲の上の存在で”打倒木村”という気運はあまりなかったね。まあ、升田さんとは167番指しましたが、やっぱり指してて一番面白い相手でしたね。これは闘志が湧くとかいうんじゃなく、純粋に技術的に接近してるからなのね。その意味で怖さがあるというか、張り合いのある相手でした。”ライバル”と言ってしまうと、どうしても感情的なものが入ってくるけど、将棋が終わったら先輩として立てていたし、言い争ったりすることは殆どなかったですね。勿論感想戦は別で、技術のことだからお互い譲らなかったですが」

―167番指して、結局名人の方が少し勝ち越された訳ですが、これはやっぱり棋風によるものでしょうか。

「これはね、升田さんが私の兄弟子だったのが辛かった。兄貴というものは、弟に負けると素直に負けたと言えないでしょ。どうしても何か理由をつけたがる。その点、弟は負けても”ああ、うちの兄貴は強いや”と言ってればいいから気楽ですよ。升田さんはいろんな意味で負担がありました。まあ、これも兄弟弟子だったからで、門下が違ってたらもっと激しい競り合いがあったかもしれませんよ」

(中略)

―名人は会館作りに際しては大変なご苦労をされたと聞いておりますが、能智映さんが”コートを着ない名人”ということを書いておられましたね。

「あれは、コートを着てると動きがにぶいでしょ。それから会社にお願いに行けば、コートを脱いで受付に預けたりすると、その度に2分位ロスが出る。それで1日10社位訪問すると20分になって、それならもう1社行けるじゃないか。大体会社を回れるのは、11時から4時頃までで、昼休みがあるから実際には4時間位しかない。4時間のうち20分は大きいじゃないかと思った訳です」

(中略)

―こうして名人のお話をうかがってますと、普段はスケジュールの空き時間を見つけては仕事をされているのに対し、将棋は”忍の一字”といった感じで、一体本当の名人はどちらかなという気がしますが。

「これはね、自分でもよくわからないです。ただ、性格的にはせっかちで慌て者ですね。ただ、将棋はそれだけでは勝ちきれないから、人に真似のできない強さを身につけようと思いました。我慢するのは真似しにくいでしょ。昔の大山流はだからかなり意識して作られたものですね。まあ、最近忙しくなってからは、そんなに辛抱もできなくなりましたね(笑)」

(以下略)

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「戦争がなければ、八段まで内弟子でいたでしょうね」

木見金治郎九段門下だけのことなのか、関西での通例だったのか、あるいは戦前は全国的にこうだったのか、はわからないが、四段になって一人前になってからも八段になるまでは師匠の家に住んで、対局料の一部を師匠に納めていたということ。

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「布団がないから、寝る訳にいかない。だから、麻雀台があれば宿代が4人分浮くんじゃないかということで麻雀台を置いたりしました」

将棋界で麻雀が盛んだったのは、この辺が基礎になっているのかもしれない。

勝負が終わった後の高揚感を鎮めるためにも宿代を節約するためにも、麻雀は有効だったと言えるだろう。

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「これはね、升田さんが私の兄弟子だったのが辛かった。兄貴というものは、弟に負けると素直に負けたと言えないでしょ。どうしても何か理由をつけたがる。その点、弟は負けても”ああ、うちの兄貴は強いや”と言ってればいいから気楽ですよ」

兄弟で将棋をはじめると、弟の方が強くなるケースが多いと聞いたことがある。

兄と弟の関係なので一概に兄弟弟子には適用できないかもしれないが、このような背景があるということがわかる。

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「あれは、コートを着てると動きがにぶいでしょ。それから会社にお願いに行けば、コートを脱いで受付に預けたりすると、その度に2分位ロスが出る。それで1日10社位訪問すると20分になって、それならもう1社行けるじゃないか。大体会社を回れるのは、11時から4時頃までで、昼休みがあるから実際には4時間位しかない。4時間のうち20分は大きいじゃないかと思った訳です」

これは、すごい。

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「我慢するのは真似しにくいでしょ。昔の大山流はだからかなり意識して作られたものですね」

大山流の真髄。これもすごい。