「インタビュー・対談」カテゴリーアーカイブ

米長邦雄九段「将棋というのは100mを何秒で走れるかよりもフルマラソンを走り切れるか、ということの方が大事なんです。25歳の時タイトル戦に出たけれど、40歳になっても出られるかい、というね」

将棋世界1989年1月号、特別座談会〔米長邦雄九段・森雞二王位・田中寅彦棋聖・森下卓五段・鈴木宏彦氏〕「89年も激動の1年に」より。

田中 数年前、私なんかの目標であった中原、米長のお二人からタイトルが少しずつ減っていって、戦国時代とか言われるようになりましたよね。それがこの1年は輪をかけるようにタイトル保持者10連敗ということで、最高におもしろくなってきたんじゃないかな、という気がしますね。それと、20代というより独身が一時的にせよタイトル独占を果たしたのは棋界始まって以来と思いますが、年の後半に入って妻帯者が逆襲に転じたという言い方もできると思いますね。

(中略)

米長 谷川にしても高橋、南にしても、皆25~26ぐらいかな、光り輝く歳というのがあるんですよ、その年代の誰かがね。この年代の人達は互いに引っ張られるように輝いちゃった。ここ1、2年はそんな現象でしたね。それでその年代の中でこれからまず1回目のふるい落としがある。これは必ずあるはずなんです。タイトルを奪った取られたという一時的な面よりもその方が20代にとっては深刻で熾烈なんじゃないかな。ライバルというのは同世代の中にいると思うし、その中で誰が「舞台」へ登場できるかという戦いが今始まったばかりという気がしますね。具体的には一人、谷川は抜けたかなと。あと一人か二人、これは20代の場合ですけれどもね。10代は10代で、また40代、30代も別にこれから誰かが世代を代表して絡んでくるでしょうが。だから今は準決勝の将棋を指しているという感じかな。

司会 それがタイトル戦であっても、という感じですか?

米長 そうですね。

(中略)

米長 だからこれから本当に強いのが出てくるんだね、20代は。私も彼らとすいぶんやっているけれど、高橋には4連敗だとか谷川には3連敗だとか、40代VS20代は極端になるケースが多いんですよ。この間の谷川-森戦は珍しいケースでね。波長が合わないというか、戦いそのものが短距離競走なんですね。ところが、将棋というのは100mを何秒で走れるかよりもフルマラソンを走り切れるか、ということの方が大事なんです。25歳の時タイトル戦に出たけれど、40歳になっても出られるかい、というね。こちらの方がより大事なんですよ。つまり今はその時に残れる選手がフルイにかけられている。数字的にいっても、10年後、今の20代の有望株5、6人がそのままトップにいて、しかも羽生、森内もいる、なんてことはありえない訳で、必ず淘汰がある。

(以下略)

* * * * *

タイトル戦において、タイトル保持者10連敗(挑戦者側が10回連続でタイトル奪取)という時代があった。

羽生善治五段(当時)をはじめとする羽生世代の棋士がタイトルを取りはじめる少し前の頃。

昨年から今年にかけての傾向とやや似ている。

* * * * *

「将棋というのは100mを何秒で走れるかよりもフルマラソンを走り切れるか、ということの方が大事なんです。25歳の時タイトル戦に出たけれど、40歳になっても出られるかい、というね」

羽生善治九段の「才能とは続けられること」という言葉があるが、まさしくこのようなことにも結びついているのだと思う。

「升田、内藤 棋界を斬る」

将棋世界1988年1月号、「新春対談 升田、内藤 棋界を斬る」より。

升田門下になる?

―本日はどうもお忙しい中、ありがとうございます。お酒など飲みながら、ざっくばらんにお話をいただければ。

内藤 先生は今は焼酎ばかりですが、昔はビールからはじまって調子が出てくると日本酒でしたね。

升田 今は焼酎だけだね。ビールは冷たいとお腹によくない。量も、飲んでる時間も大分少なくなったね。

内藤 先生は2、3年前にも企画物で出ておられますね。

本誌 『名棋士を訪ねて』というコーナーでお宅にお邪魔してインタビューをさせていただきました。今日は福本さんに進行役をお願いしております。

福本 どうぞ宜しくお願いします。それでこの対談が始まる前にいろいろと升田先生から聞いていたんですけれど、昔、藤内先生から升田先生に「うちの内藤を預かってくれないか」という話があったんですってね。

内藤 そう、いつ頃だったかなぁ、私が酒を飲み過ぎるのを師匠が心配してくれましてね。もっとも初めは酒は師匠が勧めたんですが。

福本 ほおー。

内藤 本当は四段になってから、というのを待ちかねて3日後に東京で四段になる決戦を控えていた日に師匠と飲んだのが最初でした。酒席で『勝って帰れよ』と何回も言われて、今、思えば、王将の唄の三番の歌詞”明日は東京に出ていくからは何が何でも勝たねばならぬ”の心境でガブガブ呑みました。無事、四段になってから酒量がどんどん増えましてね。師匠がそれを心配してくれたんです。『自分と呑むのはいいけれど他の人とも呑みすぎる』というわけでお願いしようということになったんです。一番怖い先生に預ければ安心だろうということで。

福本 升田先生が断った理由というのがね、「藤内さん、内藤はやがて名人になる器だ、あなたは大変な存在を手放そうとしている」というんだね。

内藤 (笑)。私が初めて先生にお目にかかったのは、奨励会に入るちょっと前、アマチュアの初段ぐらいで14歳の時だったかな。ワイシャツ姿で藤内先生の所へ見えられて、藤内先生があまりペコペコするので升田八段か、と気がつきました。今から33、4年前のことですよ。雲の上の人でしたね。

升田 そんなことがあったかね。

福本 その升田先生に才能を認められた訳だ。

内藤 当時、私が6級で奨励会へ入る時に同い年の加藤一二三さんが三段。私みたいなのは他にもいっぱいいたから才能なんてのはね。ただ師匠は八段まで行く、と言ってくれましたけれども。奨励会の時に升田先生の将棋は一局だけ記録を採らさせていただきまして。有馬での王将戦で先生が2連勝された後の3局目だったですが、2日目の昼休みの直後に一手も指さず投了されて、いかにも升田先生らしいな、という事がありましたね。それで帰りに神戸新聞で講演をされて「二度香を引いてもしょうがない」というくだりが印象的でしたね。

升田 どうも覚えとらんなぁ(笑)。

福本 藤内先生が升田先生に内藤さんを預けるという話は初めて聞くエピソードでしたね。

内藤 桐山君はもっと後なんでしょ。

升田 あれば(昭和)32年頃かな、弟子入りしたのは。まだ小さくて1年もおらんかったけれども。あなたよりも随分と若かった。桐山は若いからねぇ。

内藤 私なんか記録を採ってくれた人はいつまでもそのイメージが残ってしまいます。

福本 桐チャンもすっかり貫禄がついてきて。少々頭の方は薄くなったけれど。

升田 桐山君も随分と頑張っているようだね。

内藤 そうですね。

『升田将棋』こそ本当の”将棋”!

福本 内藤さん達の年代にとっては升田将棋というのはひとつの憧れでしたか。

内藤 そうです。思い切って誉めさせていただくと、升田将棋こそ”将棋”という感じですね。腰掛け銀、矢倉、振り飛車、それぞれ代表的な棋譜を残しておられる。私は対振り飛車の”▲3八飛打”という自陣飛車の将棋が素晴らしいと思うのですが。升田先生の若い頃に穴熊が流行っていたら、これを相手にどういう指し方をされるのか見てみたかったですね。昼休みに将棋を指している光景が少なくなったというのも、多少、穴熊が関係していると思うんですよ。

福本 升田先生は穴熊についてどう思われますか。

升田 あれが流行りだしたのは時間が短くなってからだね。時間が長ければそんなことはない。テレビの将棋ならそれもいいだろうけれど、長いやつだと必ず不利になる。ただ穴熊の一番の欠点は、将棋がおもしろうない。おもしろうない将棋を選ぶんじゃ普及する必要がない。どっちも入玉してと金を回りにつけてから指したらええ(笑)。

福本 時間が長いとだめですか。

升田 そうね。これはひとつの理屈ですよ。

内藤 それと、将棋も相撲や野球のようにファンが直接対局を見にくるゲームなら穴熊は減りますけれどもね。今どき人気を無視するゲームは珍しいですよ。ところが勝負師は勝たんといかんという面もあって、これが難しい。アマプロ戦なんかでもプロが穴熊に囲っているのを見るとどうもね。

升田 アマチュアの人が穴熊をするのは別にかまわん。責任がないんだから。アマや弱いプロにあれしちゃいかん、これしちゃいかん言うのは可哀想だよ、将棋を知らんのだから(笑)。

福本 厳しいですね。

プロがアマとの対戦を逃げるようでは…

内藤 最近はプロの稽古先が少なくなりましたね。うちの師匠なんか稽古名人とか言われて、負かすんだけれども相手を誉めるんですよ。力が強いとか早見えがするとか、それでどうにも誉めようがない人をどう誉めるんかな、と見ていると、「あんたの将棋は銀の出足がいい」(笑)と。勉強になりますよ。今の若い人は黙ってコンピュータかなんかとやっている調子でね。升田先生は盤上ではキツかったようですが、口ではうまく誉め上げたほうじゃないですか。

升田 いやぁ私は誉め言葉が苦手でね、稽古がだんだん減る(笑)。社交クラブとか行くでしょ、社長連中が集まる。私の時はひとりくらいしか待っていない。私は誉めないばかりかいらんこと言うから。例えば緩い手指すでしょ、「そりゃなんや、2階から目薬や」とか言って。つく訳ないんだよね。師匠なんか上手でしたよ。「含みのある手ですね」(笑)とかね。ただ、それ以上は言わない。無茶苦茶くるようなのも、「厳しい手ですね」。それから駒落ちの時は定跡通りきたらわざと負けるんですね。昔の人は。ところが私は力で負かしてしまう。師匠からおこられましたよ、「定跡通りきた時は負けなきゃいかん」と。若かったですから、木見先生と何ですかいうて「両桂(四枚落ち)です」いうと、それじゃ金銀(六枚落ち)でこい、てなもんです。これじゃお客は逃げてしまう(笑)。

福本 先生らしいエピソードですね。ところで先生は常々プロは定跡を作るものだと、そしてアマチュアは定跡を習うものだと。確かにその通りなんですが、今はアマチュアがものすごくレベルアップしてきたでしょう、それで定跡を通っていくようなプロが少なくなってきているように思えるんですが。プロとアマの差が縮まっているのか、それともプロがちょっと衰退しているのか、どうなんでしょう。

内藤 私はプロの底辺は強くなって、トップは強くなっていないと思いますね。確かに今の四、五段は強いのがいっぱい出てきて、特にこの間も中平邦彦さんが「なんで羽生君にコロコロ上は負けるんだろう」と話してましたが、もうすでに一番強い時期にさしかかっているかもしれない。これから結婚とか生活とか考えたらそうは勝てなくなるかもしれない。上に昇れば皆、チョボチョボという可能性もありますよ。

福本 昔は将棋のプロはアマを歯牙にもかけないというものがあったでしょう。

升田 そりゃそうです。アマチュアというのはお客さんですからね。七段にもなった人がアマとの対戦を逃げたりしちゃいかん。九段といっても実力は三段ぐらいしかないんだから、アマチュアが銭でも賭けるいうたら相手をするのがおらんようになる。今日は忙しいとかね(笑)。

内藤 アマチュアのレベルが上がったんでしょうね。

升田 アマチュアの将棋を新聞に掲載したのが大きいですね。それが影響大でしょう。

福本 将棋界が社会的な取り上げ方をされたり、棋士志望の子供が増えたのも大きい事じゃないですか。

升田 そうですね。私なぞは親が将棋を指しちゃいかん、あれは陪堂(乞食)だからと、母親がえらくおこりました。今は母親が子供を連れて弟子入りさせにくるよるらしい。

内藤 学校の先生とか、町とかをあげてね。私の頃にも少しありましたよ、遠慮して指すゆう雰囲気がね。親父が勝負事嫌いで、兄なんかよく将棋盤隠されてましたよ。私は四男坊であまり期待されてませんでしたからそんな事もあまりなかったですが。だから谷川以下の若い人達は幸せですね。

福本 確かにそうですね。そういう意味では今の若い人達はどんどん強くなるでしょう。

升田 勉強さえすればね。

負けたやつには何もやるな!

内藤 この頃のタイトル戦は、こちらの情熱が冷めたんかもしれませんが、二へん並べる気がしない。一ぺんで充分。

升田 (笑)。

内藤 どうかすると一ペンも並べたくないのがある。やはり升田-大山の将棋は、味わせてもらいました。今はタイトル戦が多いからかもしれないけど、興奮するような顔合わせがない。

福本 自分に得るものがないということですか。

内藤 戦い方もそうだけれど人生観が違うということもあるでしょう。橋本宇太郎さんにあってその事を話したら、「そうですね」と一言だけでしたけれど、碁の方も似たようなもんですとも話してましたね。

福本 なるほどね。

内藤 先生は雑誌などでたまには棋譜を見ることはありますか。

升田 棋譜はわざわざ見ませんね。

内藤 こいつは有望だとか、まだまだとか感じることはありませんか。

升田 たよりないと感じることは事実ですがね。

内藤 羽生がやはりたいしたもんだと思いますよ。タイトルホルダーをあれだけ負かしたり、テレビでも勝ってるしね。

福本 その羽生君は弟の浩司君には3連勝しているけど、この間お兄さんの俊昭君に負けちゃったらしいんですよ。判らないですよ。

升田 なんにしても、四段くらいになったら日本中の素人が相談してきても吹き飛ばさなきゃいかん。

福本 だんだん飛ばせなくなってきているんでしょう。

升田 プロが進歩すりゃいいんだが…。つまるところは力のない者がどんどんやめていけばいいということです。

内藤 そういう意味では将棋もプロスポーツのようになっていきますかね。

升田 スポーツの世界はもっと厳しい。

内藤 格闘技のように肉体的に痛くないでしょ、将棋の場合は。痛くないからなんぼでもくるからね。ボクシングのようなのはダメージが大きくて、1回1回の比重が大きいですもの。

升田 将棋だって負けりゃ痛いよ。痛い以上に大きな勝負だったら厳しいんじゃないかな。プロが負ける場合は。

内藤 昔、本間さん(故爽悦八段)がアマに負けた時、恥ずかしくて家から表に出なかったらしいですよ。

升田 当然でしょう。そういう気構えじゃなきゃいかんのだよ。

内藤 極端な言い方をすると、将棋も今は麻雀みたいな考え方になってきているらしいんですね。つまり100回やれば必ず強い奴が勝つ、トータルでね。将棋にもそんな考えが出てきて、アマとやる場合プロは10回、100回やれば8割は勝つと、一番ぐらいは負けることもあるわいと。

升田 将棋だろうが碁だろうが、例えば100mを10秒で走るのがプロ、9秒台で走るのがプロ中のプロ。今は15秒ぐらいで走るのがプロだと言っているのがいる。話にならん。責任というものがないんですね。段ばかり高いのをほしがる。

福本 今の棋界は随分と棋戦が増えているでしょう。

升田 いい事じゃないですか、修行だと思えばいい。

福本 それはそうなんですが、昔のように数が少ない時のほうがより真剣味があったような、そんな気がするんです。

升田 ならば、減らしたらいい。

一同 (笑)。

福本 その辺のところも影響していると思いますが。

内藤 棋士は毎年新聞社の契約金が上がるのを当然のように思っている人が多いけれど、これはもっと有り難いと思わなきゃいかんですよ。それでもっと将棋を真剣に指すということね。読者に対しても失礼ですし。

福本 同感ですね。

升田 新聞社側にも責任がある。

福本 新聞社としては、将棋界をよくしたいんですよ。契約金を上げていって、少しでも全体をレベルアップし、いい将棋を指す環境にしたいという、そうすればいいものができる、というね。順位戦が改革されたり、読売で大型棋戦が出来たりと、昭和62年の棋界は大きく揺れ動いていたと思うんですが。

内藤 前から思っていたんだけど、例の勝ち星昇段ね、あれはあれでいいんだけれど、負け越しとるもんが昇段というのはねぇ、おかしいでしょう。それと新聞棋戦なんかも数が多くて、勝手な言い方かもしれないけれど全員参加というのも見直した方が、と思いますね。今年は王位を取りに行く、だからこっちの棋戦は休ませてくれとかね。話題提供でもあると思うんだけど。

升田 弱いのに段をくれるから変なことになる。

福本 新聞社側でも出ると負けを繰り返す棋士にはペナルティを出すとかね。 

升田 それ位はしていいね。

内藤 逆に新聞掲載になるような棋譜には賞金を出すとか。いい意味での刺激はあるべきでしょう。

升田 負けたもんには、対局料を払わんとか。

内藤 う~ん。厳しなるなあ(笑)。確かに回りがよかれと思って進めているものが悪い風潮に流れる危険性はありますね。

新人類棋士達の最大の強敵は女!

福本 先生の著書の中で感心した部分がありましてね。戦争で外地での思いを綴った所なんですが。

升田 あの頃は、夜空の星に向かって月が通信してくれるなら木村と指してみたいとか、木村よ生きとれ、俺が負かしてやるからと思っていましたね。怨念と言ってもいいでしょう。当時は東京に比べ大阪は不遇でしたから。木村を倒さにゃいかんという思いでいっぱいでした。

内藤 それで先生に聞きたいのは、私なんかの年代は食べたい時に食べるものがなくて兄弟で取り合いをするとかしたので、食べたい時に食べたいものがあるという今の状況は、すごく有り難い事だと思うんです。新人類達は生まれた時から冷蔵庫を開ければなんでもあるから、食べ物に対する感謝の念が薄い。私なんか食べ物で苦労した分、幸福な思いをすることがあるんです。先生は兵隊に行かれたことで、後から思うと幸福だったなというようなことがありましたか。

升田 やはり人生観が変わりましたね。少々の事では動じなくなった。たとえ将棋連盟がつぶれても驚きませんね。却ってにこにこっとしたりして。

一同 (爆笑)。

内藤 戦争とはあまり関係ないじゃないですか。

福本 確かに動じなくなるでしょうね。

升田 いや、動じる事もありますよ。女房の機嫌が悪い時とか(笑)。

内藤 嫁さんには気をつけんとね。

升田 寝とる時が一番危ない(笑)。

内藤 そういう意味では男は外でえらい目に遭っても、嫁さんさえにこにこしてくれていたらなんでもない。嫁さんが怒り出すと始末が悪い。

升田 特に勝負師はね。だから勝負師をりっぱな人に仕上げるのは女房の心掛け次第だね。

福本 サラリーマンにも言えますね。

内藤 今活躍している新人類棋士達の強敵は女ですよ。恋愛していっしょになって、結婚生活であれがほしいの、どこそこへ行きたいのが当然出てくるし、棋士は毎日働いてる訳じゃありませんからね。大変だと思いますよ。

勝負師に必要なものは運・勘・技・根!

福本 内藤さんと升田先生の初対局はどうだったんですか。

内藤 最初は棋聖戦だったと思うんですが、軽く捻られました。2局目は拾わせてもらったように覚えています。ところで私はどうも若い頃生意気に見られて嫌われていたようで、先生に挨拶しても応えてもらえなかったんですよ。

升田 覚えとらんねェ。

内藤 ようやく応えていただいたのはA級に昇った時だったかな、「こんにちは」に「ヨッ」と一声返ってきたのは。

升田 そうだったかね。

内藤 知らん振りしとったでしょう。親しくお酒の席にご一緒させていただいたのは板谷君が七段に昇った時かな。

升田 中野の行きつけの店だったね。内藤君と板谷君とがホラ吹いてね、酒が強い言うて。私はその頃体をこわしてそんなに飲めんようだったんだが、板谷は途中で逃げ出してしまって、内藤君は頑張ったよ。家に連れて帰って朝酒飲ましたらビックリしていた(笑)。

内藤 明け方の4時頃ですよ。ノドがかわいて枕元を見たら水じゃなくてビール瓶が置いてある、3本も。ビックリしますよ。後で聞いたら、東京は水が悪い、これは愛情だよ内藤君、と。二日酔いでこれはもうおそれ入りました。そんなことをしながらも豪快な将棋で勝ってましたから、その辺が魅力でしたね。才能がケタ違いにあるなぁと。

福本 なんといっても才能の世界なんですね。

升田 あのですね、勝負の世界に入ってつくづく思うことがあるんです。運、運ですね。これは勝負の世界でなくともあるけれども。勘、それと技と根ですね。勘というやつは甚だしい力と書く。これは大変なもんです。それと運ですが何通りも解釈ができる。軍を動かすとも読めるし、ただ我々のようにひとりでやっている商売は、動く車に人が乗せられている、というように解釈します。体をこわすのも運が悪いとね。いくら運がよくて勘がよくても技がだめではいけない。技術は大事です。ここまでそろっていてもそれだけではだめで、最後に根がなければいけません。体力がなくてせっかく九分九厘勝っていたものを負けてしまうことはよくある。この四つがうまくいって初めて大成するんです。どれひとつ欠けても一時はうまくいっても、永続きしない。運・勘・技・根、この四つが勝負師にとって必要な要素でしょう。

内藤 ところがね、根だけで結構、物事はいく時があるんですわ。

升田 根だけの人は例えば穴のあいたバケツで水を汲むようなもんですぐに溜まりようもないけれど、何万回かやっているうちにしずくで水も溜まるようになる。努力は大事であるという教訓にはなるが、私は面倒くさいからやめてしまう(笑)。

新旧の闘いはこれから3年間が勝負!

内藤 この間人間ドッグへ入りましてね、その時、会社の社長していた人やら医師、坊さん、80歳くらいの人達と、いっしょだったんですが、最初の人には男は今や頑張らなアカン言われまして、次の人には今遊べ、70、80になったらよう遊べんから言われまして。どちらも正しいから迷います。私はね、人生に最善の一手というのはないのとちゃうかと思うんです。

福本 確かに、ただ、遊べと言われて遊び切れるもんじゃないから。

内藤 生活もあるからね。先生はどう思われますか。

升田 私はね、遊びが出来る間は遊んだらええと思う。将棋指しはね、遊びたいのもよう遊ばんのは勝負師じゃないと思う。なんのために勝負しとるか。そして勝った時は素直に喜ばなきゃいかん。謙虚な事を言うのもりっぱだけれどもね。「わしゃ強いだろう」でいいだろう。

内藤 負けた時はどうしますか。

升田 負けたら潔くしとりゃいい。

内藤 最近の若手はこの辺は如才ないというか、取りようによっては慇懃無礼なのもある。もっと素直に嬉しそうにすればいいんですよ。森安みたいに(笑)。

升田 それが一番いい。人間らしくて。

福本 升田、大山の時代があって中原、米長、内藤の時代がある。

内藤 私には時代はございませんよ。

福本 そこでポーンと飛んで今や20代、10代の若手が棋界を席捲した感があるのでしょう。この辺を外からご覧になっていかがでしょう。

升田 内藤君も大いに責任があるでしょう。

福本 将棋はそんな情報だけで勝てるもんじゃないでしょう。ところが上がコロコロ負けている。

升田 胸貸してるからじゃろ。

内藤 それは皮肉ですか。いや私はね、中原の将棋は信用している。米長は人間は信用しているけれども将棋はあんまり信用していないんで(笑)。だから、中原がコロコロ負けると不思議でしょうがない。負けにくいタイプだからね。中原が四段に負けるのはどう思います?

升田 別に不思議でもなんでもないでしょう。

内藤 私は高橋に負けていて言うのはおかしいですが、加藤一二三や米長が同じ負けるにも4タテ喰うのは絶対変ですよ。高橋の実力は買ってはいますけれど、おもろうないですよ。

福本 判らないんですね、混沌としていて。

升田 まだ中原は大丈夫ですよ。内藤君ぐらいの年になると、ちょっと老いを感じますがね。

内藤 いやいやまいりましたね。

升田 米長君も数えで45でしょ、ここでシャンとしなければこれもまた老いを感じることになる(笑)。

内藤 将棋界もこれからの3年間が非常に面白いんではないかと思うんですが。

升田 それには内藤君ももっとがんばらんといかんね。

福本 升田節が冴えわたってきましたが、この辺でお開きにさせていただきましょう。

(東京 阿佐ヶ谷「福八」)

升田幸三実力制第四代名人。将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は中野英伴さん。

* * * * *

往年の升田幸三実力制第四代名人と比べるとおとなしい感じがするが、それでも升田節は健在。

「ただ穴熊の一番の欠点は、将棋がおもしろうない。おもしろうない将棋を選ぶんじゃ普及する必要がない。どっちも入玉してと金を回りにつけてから指したらええ」

「アマや弱いプロにあれしちゃいかん、これしちゃいかん言うのは可哀想だよ、将棋を知らんのだから」

「将棋だろうが碁だろうが、例えば100mを10秒で走るのがプロ、9秒台で走るのがプロ中のプロ。今は15秒ぐらいで走るのがプロだと言っているのがいる。話にならん」

などが、まさに升田流だ。

* * * * *

「運・勘・技・根、この四つが勝負師にとって必要な要素でしょう」

電通、共同通信、時事通信の元となる会社(日本広告株式会社・電報通信社→合併して日本電報通信社)を1901年に創業した光永星郎は「健・根・信」を社員の心得としていた。

(たまたまだが、升田幸三実力制第四代名人のご子息は電通に勤務されていた)

広告会社や通信社ではあるが、「健・根・信」は多くの会社でも適用できそうな心得だ。

勝負師と会社員の共通の必要な要素は「根」ということになる。

内藤國雄九段の「ところがね、根だけで結構、物事はいく時があるんですわ」、升田幸三実力制第四代名人の「根だけの人は例えば穴のあいたバケツで水を汲むようなもんですぐに溜まりようもないけれど、何万回かやっているうちにしずくで水も溜まるようになる。努力は大事であるという教訓にはなるが、私は面倒くさいからやめてしまう」。

とはいえ、会社員も「運」と「勘」はあった方が良いだろう。

もちろん、社是に「運」とは書けないが。

 

森内俊之四段(当時)「新四段の奢りでしょ」

昨日からのつづき。

将棋世界1988年1月号、炬口勝弘さんの「ズームアップ・話題の棋士 森内俊之新人王」より。

㉙新人王記念対局で、中原名人と対局する森内新人王。昭和62年11月9日、朝10時。東京将棋会館の特別対局室。昨年度、塚田泰明新人王が負かした以外は、ここのところ新人王の6連敗。果たして今年はどうなるか。40歳の名人にチャイルドブランドがどこまで通用するか?「中原研」で指してもらったことはあるが、公式戦では初めて。

㉚同日、同所の新人王記念対局控え室。日も暮れて終盤が近い。立会人の石田八段、共同通信の田辺記者らが継ぎ盤で検討している。

石田「子供は強い。少年はしぶとい。しかし淡路、森安ほどにはしぶとくない。いさぎよさもある。この手は形作りか?」

田辺「新人王、名人に善戦するも、わずかに届かず(笑)」

赤旗記者「いやあ、見出しまで作ってもらって、どうも」

㉛再び特別対局室。感想戦も終わりに近い。赤旗の奥山紅樹観戦記者が名人に尋ねる。

奥山「名人、ご自分の17歳のときと比べて、森内新人王はどうですか」

名人「ふふふ、僕はこんなには……。もっと弱かったですよ。17歳のときは、まだ三段だったし、うふふふ」

㉜自宅の自室。ベッドにひっくり返って『少年ジャンプ』を読んでいる。壁には南野陽子(好きな歌手)のピンナップが貼られており、机の側にはスケジュールがぎっしり書き込まれたカレンダーが掛かっている。

1987年11月
8日(日)島研 AM10~(島六段マンション)
9日(月)新人王記念対局 AM10~連盟
10日(火)学校
11日(水)AM10:30 将世編集部インタビュー、
     PM1 週将アマプロ戦(橋本喜晴アマ王将)
12日(木)AM10 ハチ公研
13日(金)AM10~竜王戦(小林庸俊朝日アマ名人)
14日(土)学校、県下一斉テスト
15日(日)将棋の日、渋谷NHKホール
16日(月)連盟、天王戦(対関浩四段)
(今週は特に過密スケジュールで、登校したのは火曜と土曜の2日のみ) 

㉝竜王戦の感想戦風景。連盟。大きな手で駒を動かす。敗者小林アマも、以外にさっぱりした表情、口元に笑みを浮かべている。隣でもやはり先崎・小島一宏戦の感想戦が続いている。同じ17歳の佐藤康光も天王戦(中田功四段に勝ち)を終え、途中から顔を出して両方の局面を遠くから覗き込んでいるがまったく口をはさまない。なおこの日は対局が多く、宿命のライバル羽生四段(棋王戦で神谷五段に敗れる)もいて恐るべき子供たちが全員集合していた。

(中略)

㉞晩秋の早朝。千駄ヶ谷の将棋会館の玄関。

先崎「(森内に)エエッ?これから学校へ?偉い。だけど進級できるの?こんなに休んでいて…」

森内「……」

先崎「オレも高校生になりてえや。代々木高校がいいな。入学金5万だって?いいよな高校生は」

森内「……」

先崎「学割が効くんだから。映画も、ビデオのレンタルも、ボウリングも、それに旅行するのも、みんな安くなるんだから、いいよな」

㉟森内、苦笑しながら仲間たちと別れる。朝日を受けて明るくなりかけた街を、地下鉄の表参道駅に向かって一人で歩く。ちょっと遠いが、乗れば、一本で渋谷を通り、自宅の最寄駅、田園都市線青葉台まで帰れる。駅前には通勤、通学用の自転車が停めてある。

㊱森内家食堂。同日朝7時。テニスの練習で小麦色の肌をした妹・洋子はすでに食事を終えている。制服に着替えて入ってきた兄を見て、明るく

洋子「オッハヨー。アレ帰ってきたの」

俊之「……」

洋子「寝てないのね。大丈夫?」

俊之「試験だから…。それに今日はカメラマンが授業風景をわざわざ撮りに学校まで来るというんだから、行かなくちゃ(父親に)お父さん、ネクタイの結び目を大きくするのはどうするの?」

 父親身振り手振りで教える。175cm67キロ。息子の方がはるかに大きい。かたわらで、母親と祖母が笑みを浮かべて眺めている。

㊲青葉台駅改札口。朝8時20分。黒いスーツ、濃紺のネクタイ姿の中・高生が次々とはき出されてくる。男ばかり。みなひき締まった顔の秀才タイプ。

㊳坂道を登る高校生の長い列。学校までは歩いて10分の距離。丘の上に学校が見え、朝日を浴びて校舎の上の白い十字架が光っている。

㊴学校正門。ミッションスクールである。右手に川崎サレジオ中学校、左手にサレジオ高等学校と書かれている。男子普通高。

少年A「よお、珍しいじゃん」

森内「やあ」

少年B「おはよう。おめでとう。朝刊で見たよ、読売の勝ったんだってな」

森内「まあね」

少年A「また将棋おせえてよ。紙と鉛筆で昔みたく……」

森内「フフフフ」

㊵休憩時間、教室の机の上で将棋を指す少年二人。ノートに線を引き、駒は動かすたびに消しゴムで消したり書いたりを続けている。周りで囃し立てる同級生。森内側に持ち駒がどんどん書き加えられていく。

㊶社会の授業を受ける森内。一学年、130人ほどで、しかも2年生からは、進学指導のため、習熟度別クラス編成をとり入れ、3クラスが4クラスの少人数になっている。今日の授業は20人ほどしかいない。席は一番前。若さだろう、いや勝ったためだろうか、昨夜の疲れを少しも見せず、黙々とノートをとっている。

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

㊷校長室。長沢幸男校長。

校長「昨年まで、調布の方にいまして、教会へはよく加藤一二三さんご夫妻が礼拝に来ておりました」

㊸応接室。担任の続木唯道先生(36)

担任「とにかく言葉少ないですね。必要なことをポソポソと言うだけで。すごく温厚というか、おだやかな感じで。ふつう、欠席なんか多いとね、クラスの中で接触がないものだから浮いてしまいがちなんですが、彼には、全然そういうことはないですね。むしろ友達も結構いるし。それにもう大人の中で、立派な業績を打ち立てているから、クラスの誇り、学校の誇りでもあるんです。生徒としても立派ですね。自分に厳しい。決して甘くならない。勉強面ではハンディがあって遅れるのはやむを得ないけれど、表面にはちっとも出さず、限りある時間の中で精一杯やってる。お母さんも心配していますが、卒業できるように、追試など学校でもできるかぎりの便宜を計ってやりたいですね。ええっ?今日は一睡もしていない?いや彼なら性格からして寝ないでも学校へ来ますよ、きっと。実は、私、高校時代、やはりプロ棋士の森信雄クンと同級生だったんです。愛媛の伊予三島高でした。彼もよく欠席して対局に出かけてましたね。元気になってますか?今度会われたら是非よろしく言っといてください」

㊹校内、受付の横に昨年度の大学合格状況が貼り出されている。99%が進学。東大、京大の各1人をはじめ、6人に1人は国公立へ進んでいる。

㊺晩秋のウイークデー。渋谷将棋センター。初老の北山和佑席主がお客さんと将棋を指している。側から新しく入ってきた馴染客が話しかける。

㊻客「やっぱり先生の言うことは本当だったですね。森内君、新人王取って」

席主「でしょう。みんな羽生羽生って言うけど、森内君の方が強いよ。そりゃ身びいきもあるかもしれないが、このまま行けば、森内君の方が、器として大きいんじゃないか。日本一ですよ」

(中略)

㊾奥の方で対局していた研究会(ハチ公研)のメンバーが帰り支度を始める。石川、森内、中川、先崎の四段、そして奨励会の小池裕樹三段(20)や愛達治二段(22),長岡俊勝初段(20),岡崎洋初段(20)の8人がカウンターに近づいてくる。

客「ちょっと成績表見せてよ。(ノートをめくる)やっぱり森内君強いね。4-1が森内と小池。ふうん。石川、先崎3-2ね……。どう先崎君、今も噂してたところだけど、森内代先生の将棋はどうかね」

先崎「えーと、ですね。ズルイ将棋でね。フフフ。勝負に辛いといいますか、いつも優勝賞金持っていかれるんですよ。粘りがある。僕とは正反対。目をつぶって突進して来るようで目があいてる将棋、実は薄目をあけてしっかり読んでるんですよ。ズルイですよ」

客「だいたいズルくないと勝てないのが将棋でしょうが。ハハハ」

 ハチ公研の面々はおしなべておとなしい。8人一緒にニヤニヤ笑いながらエレベータに乗り込む。

㊿渋谷駅前の雑踏。家路を急ぐ勤め帰りのサラリーマンやOL。その群を抜けて盛り場へと向かうハチ公研の面々。

石川「今日は新人王のおごりだな。ねえ森内先生」

森内「(苦笑して)新四段のおごりでしょ」

先崎「ありえない。新人王の一手に決っているでしょう。稼ぎが違うよ」

中川「……」

 道玄坂、ネオンが猥褻に光を増す。

(以下略)

* * * * *

「壁には南野陽子(好きな歌手)のピンナップが貼られており、机の側にはスケジュールがぎっしり書き込まれたカレンダーが掛かっている」

この1年以上先の近代将棋1989年7月号で、森内俊之四段(当時)は、好きなタレント・歌手ということで「南野陽子、Wink」と答えている。Winkは1988年4月27日デビューなので、この記事の頃にはまだデビューしていなかった。

森内四段の部屋にWinkのポスターも加えられた可能性は高い。

* * * * *

1987年11月13日(金)は、B級1組順位戦の板谷進八段-大内延介九段戦が21:41に千日手成立、指し直し局終了が1:32。勝浦修九段-塚田泰明王座戦が0:55に千日手、指し直し局終了が4:38と、控え室で検討をしていれば自然に朝になる展開。

土曜日の早朝とはいえ、一睡もせずに学校へ行くのは凄いことだ。

* * * * *

「オッハヨー。アレ帰ってきたの」

森内九段の妹である洋子さんは、この後もたびたび、いろいろなエピソードの中に登場してくる。(とはいえ、本人自身の登場は一度だけ)

羽生善治五段(当時)「いえ、森内君の妹にはかないません」

「私、森内の妹です」

先崎学五段(当時)の「森内六段(当時)の好きなところ」

* * * * *

「私、高校時代、やはりプロ棋士の森信雄クンと同級生だったんです。愛媛の伊予三島高でした。彼もよく欠席して対局に出かけてましたね。元気になってますか?今度会われたら是非よろしく言っといてください」

森内四段の担任だった続木唯道さんと森信雄七段が高校時代の同級生だったというところが嬉しい縁。

森信雄七段が奨励会入りするのは高校卒業後なので、学校をよく欠席していたのは対局以外の理由と考えられる。この辺も森信雄七段らしいところだ。

ところで、 続木唯道さんと森信雄七段は今年の5月、49年ぶりに再開をしている。

* * * * *

森内九段が高校卒業後、1989年の全日本プロトーナメント優勝表彰式に聖サレジオ学園の校長先生がお祝いに駆けつけている。

羽生善治五段(当時)「いやあ、あいさつって結構上がるんだよね

* * * * *

「新四段のおごりでしょ」

新四段は、先崎学四段(当時)と中川大輔四段(当時)のこと。

ハチ公研。将棋世界2002年8月号に掲載された写真、撮影は炬口勝弘さん。

 

森内俊之少年(当時)「ショーギレンメー」

将棋世界1988年1月号、炬口勝弘さんの「ズームアップ・話題の棋士 森内俊之新人王」より。

①白黒のニュース映画。昭和35年、国会議事堂前の安保反対デモと警官隊との乱闘。

②昭和35年4月。第19期名人戦・東京渋谷の羽沢ガーデン。大山名人に20歳の学生、加藤一二三九段が挑戦している。

③東京・世田谷、三軒茶屋。春5月。遠くから流行歌が流れてくる 黒い花びら静かに散った あの人は帰らぬ…『京須将棋道場』と看板の出ている建物に<忌中>の紙。奥の祭壇には故人の京須行男七段(後に八段・享年46才)の写真が飾られ、親族の席には未亡人のたみ(46)、一人娘の節子(16)が並んで座っている。

(中略)

⑦万博のニュース映画。 こんにちはこんにちは…賑やかな歌の中で、ココの声をあげる俊之。

⑧東京調布、アパートの一室。若い母が片隅で乳飲子をあやしている。生後1ヵ月。テレビには三島由紀夫の演説姿が何度も映る。食い入るように見つめる父親。昭和45年秋、11月。

⑨昭和54年7月7日。神奈川県川崎市郊外の田園都市みたけ台の一軒家。昼下がり、白い短パン姿の少年俊之(横浜市立みたけ台小3年、8歳)が子供用自転車に乗ろうとしている。近所から友達がその姿を見て声をかける。友達「俊クン、どこ行くの?」少年はサドルにパッとまたがり、誇らしげに、そして大きな声で叫ぶ。俊之「ショーギ、ショーギ、レンメー」友達「え?どこ?」俊之「ショーギ、レンメー」自転車、遠ざかっていく。光る銀輪、蝉の声。

(中略)

⑫同じ居間。ただし10年の歳月が流れ、ピアノの上には、かつてはなかった大きな「王将」の飾り駒が置かれている。部屋にはシャレた花瓶に切り花が活けられていてあたりに住む人の床しさ、気品が漂う。晩秋の昼下がり。髪の毛がモジャモジャな貧相な中年記者が、祖母・はな(73)と母・節子(43)にインタビューしている。

節子「あの子が将棋連盟に初めて行った日のことは、私、今でもよーく憶えているんです。3年生の7月7日だったんです。私、この日の事、きっと忘れないだろうなと思って、よく憶えているんです。なにしろ将棋に熱中しちゃってましてね、習いに行くっていうのがそれはもう嬉しくって。土曜日だったんですけど、学校から、もう飛ぶようにして帰ってきましてね。その日はオバアちゃんと渋谷駅で待ち合わせてたんです。母が一足先に出かけていて、渋谷で一緒にご飯食べて、それから連盟の土曜教室に行くことになってたものですから。私、家の中で聞いておりましたんですが、「ショーギレンメー」ってそれは大っきな声を出してね、それにあんな嬉しそうな声聞いたの初めてなんでね、なんか、もしかしたらあの子、将棋の世界に行っちゃうのかなと思って、今日の日にち憶えておこう、なんて思ったものでした」

 節子の目にうっすらと涙が滲んでくる。

(中略)

節子「それまでは、絵やピアノ、それからポニー牧場の乗馬とか、いろんなところに出していたんですが、いつも、なんか馴染まないで、つまんなさそうな顔して帰ってきてたもんで……。この人、いったい何をアレしたらほんと目が生き生きするのか、喜ぶのか……。それが本当に将棋に熱中するようになってその稽古に行く日は嬉しそうでしたので……」

記者「やはり血なんじゃないですか。オジイさんがプロ棋士だったから、やはり環境的にも…」

祖母「いえ、主人は35年に亡くなり、あの子が生まれたのは45年。10年も経っていましたし、道場も辞め、盤も駒も棋書なんかもほとんど処分して残っておりませんでしたし…。ええ、勿論道場を開いておりました頃には、私も手伝っておりましたが、まったく駒の動かし方も知りませんし、ただお客さんにお茶をお出しするぐらいでして」

母「ごく普通の家庭でした。ただあの子が将棋を知る前に、オジイちゃんが将棋指しだったってこと、ちょっと話したことがあった程度で、ほとんど環境としては将棋に縁がなかったですね。まさか自分の子が、父のようにプロになるなんて夢にも思いませんでした」

(中略)

記者「駒の動かし方はお父さんから教わったと聞きましたが、お父さんはなんですか大内棋道会に入っていらっしゃるとか、本当はお強いんでしょう?」

父「いえいえ、ほんの駒の動かし方を知っている程度でして。私は、小学校の頃に、兄がやっておりまして、ひと通り覚えたんですが、熱中したこともなくて…。大内さんとは、たまたま私の勤め先の近所に大内さんが住んでいて、それで知り合ったような訳でして」

母「主人は若い頃、弁護士さんの書生をしておりまして。そちらの弁護士さんと大内さんのお父さんと仲がよくて、それで大内さんもしょっちゅういらっしゃってたんです。(笑いながら)私、主人とお見合いしました時も、たまたま大内さんを共通に知っているということでまとまったようなぐらいで……」父親の職業は司法書士、行政書士。現在渋谷区役所近くのビルに事務所を持っていて、毎日通勤している。どちらかと言えば、子息と同じく口数の少ない方だが、子供の幼少期、将棋以前の頃を振り返り、懐かしそうに語り始める。

⑭俊之、幼稚園の頃。部屋いっぱいにブロックの玩具を広げている。くっつけたりはずしたり夢中になっている。

「レゴと言いましたか、あれが好きでね、乗り物を作り、線路を部屋中にバーと広げまして、もう開けても暮れても、そればっかりでした」

⑮俊之小学校3年の夏休み。東京駅新幹線ホーム。父親の郷里、奈良へ向かう一家。ベンチに座った瞬間、少年はカバンの中から小さな折りたたみ式の磁石盤を素早く取り出し、目を輝かせて「お父さん、やろう」。父親は苦笑しながらも付き合う。

父「とにかく好きなことをやると楽しそうで、そればっかりやるんですね。やりだしたら止まらない。子供連れの旅行の時はいつもそうでした。ちょっと休憩しようと言っても”イヤダ”と言ってね。そういうところありました」

⑯東京千駄ヶ谷の将棋会館。土曜教室で対局中の子供たち。その中に俊之の姿も見える。講師は京須門下の準棋士・工藤浩平五段。

母「とにかく将棋を指したがりましたね。毎日毎日。たまたま母のところに、父が亡くなりましても将棋世界を毎月送っていただいていたので、それが何冊かありまして、こんなものあるわよ、と渡しましたらね、何冊もこう畳の上に並べまして、何時間でも分かっているかどうか、とにかくあっちこっちと頁を繰っては、かわるがわる見ているんです。あんまり熱心なものですから、工藤先生のところへお電話して、近くでちゃんと教えてくれるところないかしら?そしたら、自分が連盟で教えているから、そちらへいらっしゃい。その初めての日が、最初にお話しました7月7日だったのです。それからは、工藤先生のところの支部、西東京支部にも入れていただいたり。ほんとに工藤先生にはずいぶんお世話になりました。家に泊めて下さったり、青森への将棋旅行なんかにも連れて行っていただいたり。ほんと、工藤先生に育てていただいたようなものです」

⑰太陽がギラギラと照っている。昭和56年夏。神奈川県藤沢市の駅前。デパート、藤沢さいか屋には「将棋まつり」の垂れ幕が下がっている。会場では小学生将棋大会の決勝戦が終わりに近い。対局する二人の少年。ともに昭和45年生まれの小学5年生。羽生少年が投了。ちょっと内気な森内少年、優勝ではにかんでいる。羽生9月27日、森内10月10日生まれ。ともに天秤座。この翌日、また別の将棋大会の会場で二人は会う。

⑱東京渋谷のNHKスタジオ。翌年の昭和57年春3月。煌々と輝くライトの下で小学生名人を争う少年達、その中に俊之、羽生の二人の顔も。片隅で、京須門下だった北山和佑(道場経営者)が、かたずをのんで見守っている。俊之は3位で涙を呑み、一方、羽生は優勝。羽生にはフラッシュの雨。

⑲千駄ヶ谷・将棋会館、同年秋10月。俊之、すでに小学6年生になっている。2階の研修室は、さながら学習塾のおもむき。短パン少年の姿もちらほら。刈り上げた髪から、大きめの特徴のある耳が突き出している。奨励会入会試験の会場である。答案用紙を配る現役奨励会員の姿が大きく見える。

⑳明日の名人を夢見て集まった受験者は関東だけで71人。うち合格は17人。5年後の現在、晴れてプロ四段になれた者とは裏腹に夢破れて去っていった仲間も少なくない。なお関西ではやはり天才の誉れ高い佐藤康光がこの年、受験していた。

将棋世界同じ号、1982年奨励会試験風景。撮影は炬口勝弘さん。

※受験者へのアンケート調査

森内俊之(12歳・神奈川・6級・勝浦)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕………
〔勉強方法は〕将棋道場(渋谷将棋センター)、連盟の土曜教室、詰将棋を解く
〔学校での得意科目は?〕算数
〔将棋以外の趣味は?〕なし
〔受験の動機は?〕プロになりたい

羽生善治(12歳・東京・6級・二上)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕57年小学生名人
〔勉強方法は〕将棋道場(八王子将棋クラブ)、詰将棋を解く
〔学校での得意科目は?〕算数
〔将棋以外の趣味は?〕なし
〔受験の動機は?〕プロになりたいから

中川大輔(14歳・宮城・6級・米長)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕第7回中学生名人戦優勝
〔勉強方法は〕将棋道場(東北将棋道場)、詰将棋を解く(詰むや詰まざるや)
〔学校での得意科目は?〕美術
〔将棋以外の趣味は?〕なし
〔受験の動機は?〕べつになし

郷田真隆(11歳・東京・6級・大友)
〔受験は〕はじめて
〔アマチュア大会の成績は〕勝負どきに弱く、あまり良い成績をおさめていない。
〔勉強方法は〕将棋道場(練馬将棋道場)、棋書(将棋大観)

(つづく)

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映画かドラマの脚本のような構成で書かれている。

森内俊之九段の祖父である京須行男八段が亡くなる頃から話が始まっている。

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「遠くから流行歌が流れてくる 黒い花びら静かに散った あの人は帰らぬ…」

これは、第1回日本レコード大賞を受賞した水原弘さんの「黒い花びら」の出だし。

ちなみに水原弘さんというと、昭和の頃のアース製薬の殺虫剤「ハイアース」のホーロー看板に出ている人だ。(もう一人は由美かおるさん)

古いホーロー看板3ハイアース・水原弘・大塚企業物・非売品

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ここには書かれていないが、森内九段の師匠の勝浦修九段は、奨励会時代に京須家に下宿していた。

勝浦修九段「子どもを弟子にしてくれませんか、と頼まれたんですよ。その子どもが小学生の森内くんでした」

* * * * *

「レゴと言いましたか、あれが好きでね、乗り物を作り、線路を部屋中にバーと広げまして、もう開けても暮れても、そればっかりでした」

森内九段は鉄道ファンだが、この頃からその萌芽を見ることができる。

森内俊之名人の乗り間違い

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奨励会受験者へのアンケート調査、将棋以外の趣味を持っていないという回答がほとんど。

小学生高学年の段階では、やはり将棋一筋、趣味が分散していては奨励会合格は難しいのかもしれない。

* * * * *

中川大輔6級(当時)の得意科目が美術なのはとても意外だ。

郷田真隆6級(当時)の『将棋大観』、格調の高さはこの本などの影響もあったのかもしれない。

将棋大観 (プレミアムブックス版)

米長邦雄九段「プロとアマの差が大きい程プロの収入が少なくなるんですよ」

将棋世界1987年1月号、「新春ビッグ対談 中原、米長 大いに語る」より。

司会 将棋ファンが注目している、ということについてなんですが、どうなんでしょう、将棋とか囲碁は、スポーツ、例えば野球のように一億総評論家的な部分がありませんよね。将棋ファンの層で一番多いと思われる級位者はもちろん、上級者にしてもプロの将棋は解らないと言えなくありませんか?

米長 私もね、将棋以外いろんなことを見たりやったりしてきましたが、一番難しかったのは女性だね(笑)。それと、株の本を出したでしょ、あれは大分売れてね、1ヵ月で9万部かな。将棋の方は2年かかって2万部くらい(笑)、それはともかく、株の評論はできそうな気がするんですよ、碁は、誰かにちょっときけば何とかね。能は難しいね、能だけはできそうにないね。歌舞伎とか芝居も難しいね。音楽は全然ダメ。中原先生なら詳しいだろうけれど。

中原 そんなことはありませんよ。

米長 そんな中にあって将棋とは何かといったら、能に匹敵するぐらい難しいものだと思うんですよ。一番評論しにくいものなんじゃないかと思うんですよ。能より上かな。専門家だってわからないんだから。中原先生の将棋を解説しろったって誰にもできるってもんじゃないでしょう。

中原 手の解説とか、悪手好手のたぐいならばできるでしょうけれどもね。評論になると、僕の将棋云々ではなく、難しいでしょうね。

米長 何故とかどうしてを説明するのが難しいわけで、そうなると二通りの方法が出てくるわけですよ。できるだけかんで含んで解説するか、あるいは将棋というものは難しいものなんだ、と。どうにもならないんだということで押し通してしまうかどちらかでしょうね。後者を採るならその結果ついてこれないファンが出来るわけで、それはそれで仕方ないような気もしますね。プロとアマの差が大きい程プロの収入が少なくなるんですよ。それはスポーツでもなんでもそうだけど、差が少ないほどよくわかるし、逆に多い方がわかる人が少ないんだから。ゴルフが人気で中島や青木はすごいけれど、将棋はちがうからね。プロとアマの差は。

中原 それはいえるかもしれませんね。

米長 将棋にはそういった欠点というか弱点はあるけれども、押し通しちゃえばいいと思いますよ。媚びる、とかいうのは好きじゃないな。観戦記なんかでもできるだけ易しく書いて欲しいんですけれど将棋は難しいものなんだ、ということはどうにもならない事実ですね。

中原 将棋担当の人達なんかは、永年、将棋を見てますけれども、見方はかなりのものになっていいと思いますけれど、こと将棋の話になると踏み込めない部分があるみたいですね。

米長 そうですね。観戦記を何十年書いてる人でも将棋になるとやっぱりぐっと入ってこれないものね。おもしろいもので。

中原 野球なんかだとね、監督ぐらいできるんじゃないか(笑)なんて思ったりもして。

司会 将棋ファンが一千万人とも二千万人とも言われることに関してはどうでしょう。実際はそんなには、という声もありますが。

米長 将棋を知ってるとか指すとかいうんではなく、将棋というのは難しいもんだとか素晴らしいもんだとか、思っている人は増えていると思いますよ。

司会 先生がいろいろな所で活躍していることが大きいですか。 

米長 そんなことはないですけれどね。私はできるだけ将棋を知らない人に接するようにはしてますけれども。

(以下略)

* * * * *

「中原先生の将棋を解説しろったって誰にもできるってもんじゃないでしょう」

どこまで解説するかにもよるが、過不足なく厳密な正しい解説・評論をしようとしたら、本人以外にはできない領域であることは間違いないようだ。

木村義雄十四世名人が、既に発表された新聞や雑誌の観戦記などによって木村将棋を集成する「木村名人実戦集」発行の打診を受けた時、次のように答えており、全巻、木村十四世名人による書き下ろし自戦記になったという事例もあるほど。

木村義雄十四世名人「御趣旨は誠に有難いが・・・だが、木村の将棋が他人にわかりますかい」

* * * * *

「できるだけかんで含んで解説するか、あるいは将棋というものは難しいものなんだ、と。どうにもならないんだということで押し通してしまうかどちらかでしょうね。後者を採るならその結果ついてこれないファンが出来るわけで、それはそれで仕方ないような気もしますね」

昨日の記事「矢倉を好きになれるかなれないかのリトマス試験紙のような自戦記」の米長邦雄八段(当時)の自戦記で触れられているような領域まで解説しようとすると、棋書2冊分くらいの解説が必要なのかもしれない。

「観戦記なんかでもできるだけ易しく書いて欲しいんですけれど将棋は難しいものなんだ、ということはどうにもならない事実ですね」

どこまで掘り下げて書くか、どこまでが読者から求められているのか、というバランスの問題になってくると思う。

* * * * *

「プロとアマの差が大きい程プロの収入が少なくなるんですよ。それはスポーツでもなんでもそうだけど、差が少ないほどよくわかるし、逆に多い方がわかる人が少ないんだから」

これは正しいことなのかどうなのかはわからない。

ちなみに、プロとアマの差が大きいと言われる相撲の力士の収入の体系は次の通り。十両と幕下の間が大きな境目のようだ。

力士の給料(大相撲ドットコム)