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かなり野蛮な将棋座談会(後編)

将棋ジャーナル1984年2月号、新春おもしろ座談会「善玉と悪玉が居てこそ面白い!!」より。

―では83年のプロ棋界を総まとめして、印象をひと言ずつ。

D ひと言、ひどかった(笑)。

C おもしろい将棋が少なかった。

D 全部並べてますけど、去年の将棋のほうが断然良かった。

C 森安、中原戦が少しおもしろかったけど、他は名局ゼロ。

F 感動した棋譜は、ひとつもなかったね。

E 一番大きな印象は、谷川、高橋という若い選手がタイトルを獲ったこと。今まで長い間定着してきた体制みたいなものが、少しずつ崩れてきて、今後この傾向はもっと広がりそうな予感がしますね。

B それは確か感じるね。

E それが良い方へ行くか悪い方へ行くか。5年ぐらい経って、大山、二上が消えて、塚田、脇、田中あたりが八段になってくると、これといった年寄りがいない状況になる。内藤、米長らはその時に現在の大山、二上さんみたいには勝てないんじゃないかと。

F 僕の印象は、とにかくこの1年は一体誰が強いんだかわからない年だった。名人の谷川でさえ強いんだか弱いんだか。

D 結局本当に指せば中原さんが強いんでしょ。

F 僕もそう思うけど。しかし将棋というゲーム自体が大きすぎてこのようにちょっと波が立つともう、わからなくなってくる。そういう感じを受けた1年でしたね。

A 今までは大山時代の次に中原時代があって、わかりやすかったね。

C 戦国時代というよりも、長期低成長時代の幕開けじゃないかという予感がしますね。実は中原さんに、もっと勝ってもらいたいというのが本音なんですが。このままじゃ、タイトル戦に対して全然魅力が湧かないですもんね。

A 棋戦が多すぎるせいなのか。昔のような世紀の一戦とか、殺してやるっと叫んで戦う遺恨試合みたいな、観衆の心を湧き立てる勝負がすっかりなくなったね。

B そう、だからつまらないのよ。現在のプロ棋界は、たとえば谷川浩司の出現に対して、ヨイショしすぎてる面があるでしょう。こういう上等なタマをかかえているんだぞという感じでネ。この現状は、勝負の世界じゃ最も恥ずべきことのはずよ。他の勝負界を見りゃわかることだけど。プライドがなさ過ぎる。

F 完全な運命共同体になってますね。

B 「谷川みたいなあんな小僧っ子に、名人とらせてたまるか」って叫ぶ男が、一人ぐらいいてもいいんじゃない?内藤、米長あたりは叫ばなきゃウソよ。谷川なんて子供でしょ?手合違いでぶっ飛ばさなくちゃ。その点米長に可能性感じるから、だから挑戦者になってもらいたいんだ。

A とにかくこの暖かい現状では手に汗握る名勝負なんて出っこないと言う人もいるくらい。

B そう、野球界で一番の功労者は誰だと思う?

全員 江川。

B 今の将棋界に江川は一人もいないもんね。

A 善玉(ベビーフェイス)ばかりで、ダーティーヒーロー(悪玉)がいない。

B ベビーフェイスにみんなして逆ギマ擦ってんだ。だからプロ全体に魅力がない。

C 佐藤大五郎が勝ってくれればおもしろくなるけど。(笑い)

―では女流プロを少々。

A マスコミ界では林葉直子が谷川浩司を上回る人気だった。

B 直子ちゃんの場合は、ただ存在するだけで意味あるよ。

―マガジン誌の「ただ今修行中」で米長先生からの手紙のことを書いてましたが……。

F あの手記は良かった。

A ウン、最近の大ヒットだね。

C 僕が女流プロで感じることが、20人も数があるのに、一人一人の人柄が全然伝わって来ないのが残念ですね。観戦記を読んでも。

A 記者が書きづらいんだろうな。

C 将棋が弱いことは仕方ないことで、どうでもいいんです。ただ将棋を指す女性ってのは他の女性にはない魅力がきっとあるはずですから、それをもっと前面に押し出してもらいたい。

B 連盟は女流プロのことなんて何も考えてないんじゃないかなあ。女流プロ担当理事なんていないし、せめてあの弱さを隠すようなことしないで、もっと世間にさらした方がかえって高く売れると思うんだが。

(中略)

C グラチャンが谷川優勝、2位加部さん。朝日アマが加部、奥村。アマ王座は河原林、田中保。支部名人野藤、沢野。レーティングは赤木と谷畑。読売が谷川、加部。アマ名人は菱田、藤森。赤旗が大木、中藤。八ヶ岳は神吉プロ優勝で、関、小滝の順。学生名人が新井田、赤畠。

A おもしろいねえ。1位2位で名前が重なっているのは加部さん一人、しかも1回だけ。ということはアマ棋界は誰が出てくるか見当つかない年だった。

C 小池重明という名がひとつも出てないんですが……。

B オット、それがこの1年で最も象徴的な出来事だ。

C 知りません。私は付き合いがありませんから(爆笑)。

B いやホントにどうしてるかな、今。誰も知らないの?

A C君は先日彼に会ったんだろ。

C はい、話しました。彼が言ってました。とにかく自分から将棋を取ったら何も残らない。ただ生きてるだけの廃人同様だって。そこに気付いたんなら彼はきっと立ち直るだろうと、僕は思いましたけど。

A 将棋に戻る気はあるわけね、本人は。

C ええ。ですから今後1年間真面目に働いて、迷惑をかけた方々に少しでもお金を返して、一所懸命おわびをしていきたいと。許してもらえるならばぜひ将棋界に戻りたいそうです。そしてジャーナルにも謝罪文を載せたいと…。いろいろ書かれている事に対しても、事実と違うこともあるらしいし。例の近代将棋のレポートなんか。

B 小池重明のキャラクターを、こよなく愛する人間の一人として、とにかく早く復活してほしいね。

C 僕も同感です。あんな大きなアマチュアはいなかったですよ。

B しかしね、復活するその前に禊(みそぎ)をしなきゃ。日本の社会で生きていくには、必ず禊が必要だよ、けじめがね。それを乗り越えた上なら、将棋ファンの心の中にはあの小池将棋は強烈な印象として残ってるはずだから…。

C あんな魅力的な将棋を指せる人は、そうはいないですからね。強さじゃなくてね、棋譜のキャラクターがね。

B 銭の取れる将棋よ。悪玉としても最高だし、アマ界のブッチャーかな(笑)。

A そう、何か、メラメラっとするものがある。さっき話に出た、今のプロになくなりつつあるものが、彼の将棋にはある。

B 将棋のキャラクターもそうだし、このような事件を起こしたことも含めてね。小池重明の名は将棋界史上永久に不滅よ(笑)。彼は見えっ張りなんだ。好人物の証拠だよ。しかもプロ入り問題でつまづいてから、拍車がかかったんだろうね。

E 好人物ではなくて、単に精神異常でしょう。プロ入り問題なんて意味ないです。実際そうだったとしても、その時点でその程度の判断力もなかったというのは、ハッキリ彼自身が悪い。僕は絶対に許せないな。

A ウーン。現実にひどく迷惑を被った人が多いからねえ。ボクも立場上困ったもの。

C しかし将棋世界誌があの投稿を載せたことは、裏がありそうな気がするけど。プロ入り問題は連盟側から見れば意味ないことだったけど、アマファンの世論が一方に根強くありました。それがあの記事一発で、世論鎮火の効果が出たわけですから。もし彼のプロ入りウンヌンの問題が全くなかったら、わざわざ活字にしなかったんじゃないかと思いますが。

A 大山会長はあの記事を出したくなかったらしいね。

D それは要するに自分の名前が出るからですよ。大山個人の損得でしょ。あの件はとにかく、将棋界全体のことを考えて動いた人間なんか一人もいない。

B 裏のことはどうでもね。とにかく読売新聞が一面の記事にして週刊誌が特集を組み、御本尊の雑誌にも出た。つまりそれだけの価値あるキャラクターだってことですよ、彼は。A級棋士相手に一番手直りで平手まで勝った事件。これは絶対異常なことでね、それが皆の脳裏に焼き付いてるからこそ記事になり得るんだ。

(中略)

―今日は、皆さん言いたい事を言ってもらって、ヒヤヒヤしました。(笑)どうもありがとう。

☆出席者は、将棋評論家の今福栄氏、本誌の湯川、横田、下村、中野、専属ライターの新井田基信の皆さんでした。

(リライター 桂子)

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将棋ジャーナル1984年3月号の湯川博士さんの編集後記には、

2月号新春座談会のメンバーを推理したハガキをいただいた。
A 湯川
B 今福
C 横田
D 新井田
E 下村
F 中野
というものだが、ずいぶん近いのでビックリ。よく読んで下さってありがとう。

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21歳の谷川浩司名人が誕生した年度、中原誠十六世名人が不調に陥っている期間、という時期の座談会。

1983年のプロ棋界の総まとめが非常に厳しい。

”将棋界の太陽”と呼ばれていた中原十六世名人がまだ36歳で、もっともっと活躍してほしいという思いが強くあったのだろう。

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将棋界の第一人者である時代が10年以上続いたという条件で見れば、

大山時代→中原時代→羽生時代

という歴史。

この座談会が行われた1984年初頭以後、中原名人の復位、昭和55年組を中心とした若手棋士の台頭(1985年度:中村修王将誕生、高橋道雄王位復位、1986年度:高橋道雄棋王誕生、福崎文吾十段誕生、1987年度:高橋道雄十段誕生、南芳一棋聖・王将誕生、塚田泰明王座誕生、1988年度:島朗竜王誕生、南芳一棋王誕生)の時期を経て、そして、1989年、羽生善治竜王の誕生とともに羽生時代の幕開けとなる。

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羽生善治四段の誕生は、この座談会の2年後のこと。

羽生四段が登場してからのこの座談会をぜひ聞いてみたかったものだが、その頃にはこのような座談会は行われていなかったようだ。

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この1984年は、林葉直子女流名人・女流王将の人気が上昇中の時期。

下の写真は1984年の将棋マガジンに出稿された三菱電機のパソコンの広告の一部。

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「しかし将棋世界誌があの投稿を載せたことは、裏がありそうな気がするけど」のあの投稿とは、読者からの投稿欄に掲載された、子供教室を作ると言って多くの人からお金を集めておきながら雲隠れしてしまった小池重明氏を糾弾するアマ強豪氏からの投稿のこと。

将棋ジャーナルと小池重明氏は直接的な関係はないものの、小池重明氏を売り出したのは将棋ジャーナルなのだから、ということで将棋ジャーナルにも抗議があったいう。

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それにしても、すごい座談会があったものだと、つくづく思う。

 

 

 

かなり野蛮な将棋座談会(中編)

将棋ジャーナル1984年2月号、新春おもしろ座談会「善玉と悪玉が居てこそ面白い!!」より。

C 何かがあるって感じの人ですね。話違いますが今一番色っぽい男って、森安さんですね。

A また、気持ち悪いねえ。

F いや、少し前の内藤さんの方が色っぽかったよ。

E 内藤さんて欲のない人でね。

C 先日調べていてわかったことですが、おもしろいことに彼が今まで勝ち越してる相手ってのは、米長、森安、淡路さん等、仲いい友達ばっかりなんですよ。

A どういうこと?

C つまり、盤に向かって楽しい相手とはじっくり指して勝ち越すけど、楽しくない相手とは、盤の前に長く座っているのがイヤんなっちゃうんじゃないですか。

F でしょうね。特に大山さんと指す時なんか、早く終わらそう早く帰ろうって将棋ばっかりよ。

D そうそう。僕はわかるな、その気持ち。

C でも王位戦の舞台でね、若手のタカミチさん(高橋道雄五段)相手に簡単に負けてしまうようでは、ちょっと情けないなあ。

A ある種の恰好良さ、みたいなものが、内藤将棋の美しさであり、もろさなんだろうね。

C 将棋も、人生も?

E 自分の人生哲学がハッキリしてる人だから。それを壊して勝つよりは、負ける方が美しいと…。

C いやあ、対タカミチ戦の負けは、イメージ崩したんじゃない?

D それは違いますよ。

F ウン、これがね相手がヨネさんだったらイメージ崩したけどタカミチさんだったから、いいの。

C 本気出せば勝てるって余裕があるわけね。

A 将棋指しで頭の良さそうな人って、皆そういうところがあるね。他の奴は将棋しか知らないけど俺は違うんだって―

―高橋五段は、プロ間での評価はどうですか。

C 悪く言いづらい人ですね。

A 口数が少ないだけに憎まれるってことはないんじゃない。

D しかし、周囲に対するサービス精神ゼロだから、もっと勝ちが込んで来ると何かと言われるタイプ。

C 加藤さんみたいにね。

F 若手の中では一人孤立してるみたい。他の人がのけ者にしてるんじゃないかな。

C A紙のI記者が興味深いことを言ってました。彼は対局終了直後は何もしゃべってくれないので困るけど、ただし2、3日後に取材すると、指し手の解説でも何でも非常に理路整然と分析して話してくれて、こんなにありがたい棋士はいないって。つまり終了直後ってのは、負けた時はくやしくてたまらないから話せないし、勝った時は相手への遠慮があって何もしゃべれないのだと、そういうことらしいですよ。

A 照れ屋で恥ずかしがり屋で、だからしゃべれないんだろうな。

E あの人の奨励会時代の、負けた時のくやしがり方ってのは凄かったです。持ってる本をいきなり床にたたきつけたりしたこともあったし。

C そういうタイプの方が伸びるんですかね。

―若手の名前が出てきた所で、他の若手のめぼしい人は。

A 東京では塚田、新人王の中村、田中寅あたり?

F タナトラはもう若手という感じじゃない。

E 塚田、中村は絶対伸びます。ものすごーく素直だから。

C 塚田君も?彼は服装のセンスが凝っているから、真部さんタイプかと思ったけど。

F 顔とか目つきが違います。

E 一番大きな長所は、塚田が酒を飲まないことです。

A それは強い。飲むと飲まないとじゃ選手寿命がえらく違う。

C 関西だと、南、脇ですか。

F 福崎文吾も入りますが。結婚したらひどくなっちゃったね。

D そのうち落ち着けば、元に戻るんじゃないかな。タイトル取ってもおかしくない人だ。

B プロ棋士ってのは、いずれにせよ女房がすごい重要なポイント占めるよ。あまり目立たない方がいい。

C 田中寅ちゃんは…。

B あれはタレントだもの。しかし寅ちゃんの将棋はいいね。アマチュア界に与えた影響力は抜群だよ。

C 居飛穴ブームを作った。

A そう。プロの将棋の価値は、かつて升田が築いた創造性と、もうひとつはアマ界に対する影響力だよね。

B 全くそう。自分だけ勝ってちゃ意味ないのよ。現実にさ、強くても、おもしろくも何ともない棋士もいる。

A 大山将棋はアマ将棋に貢献しているかなあ?

F というよりも、大山将棋を真似したら絶対負けますね。銀が逆へ動いたり金がソッポ行ったり。攻められると後からベタベタ埋めていくような……。

D 中原さんの将棋は我々真似しやすくて、その点で参考になる。

―話を若手の話に戻して南六段のことを。

F 僕は実は彼の将棋が一番好き。かつて振り飛車をやってた頃の、大山を弱くしたような棋風がね。

A その人も大人しいね。

E タカミチを、もう少しひねったような(笑い)化物です。最近棋風が変わってきたでしょ。

F 棋力自体が、強くなってきた。

C あと中村新人王ね。

E 指していてなんとなく負けちゃうって相手だろうネ。

F なんとなくフトコロが広い。中原タイプですね。

C 人柄も素直で謙虚で中原ソックリ。

D コバケン(小林健二)って名前は出ないの?

F ちょっと影が薄いなあ。四、五段の頃はスゴイ勢いだったけど。

D おもしろい将棋よ、やっぱり。

C おもしろいね。終盤が特におもしろい。

A 人間もひょうきんでしょ。

E 大昔の、コバケンが6級の時の話ですけど。完全負けで、詰まされてる途中でね……。

C あっ、歩を3回中合いしたとか。

E じゃなくて金です。金の連続中合いをして、次々同竜、同竜って取られて投了したの。(笑い)

C それがいい奥さんをもらって幸せになっちゃったので、暗さが消えちゃったのかな。(笑)

―十段戦は……中原、桐山、現在2-2ですが。

C 桐山さんってわからない人ですね。安定した強さの割に、目立たない。

B 一度、対アマ角落ちを観戦したことがある。関さんが相手の時ね。関さんはもう、気合いで負けたら勝負にならないってんで、はじめからアグラをかいて、烈迫の気合いで立ち向かった。そういうムードは、たいがいのプロは敏感に感じて多少は顔の表情が変わるもんでしょ。ところが桐山さんは、全く変わらない。平然として、何も気がつかない風に指し始めたよ。その時僕は、ああ桐山さんてのは大きい人間だなあと感じた。

A たとえば森雞二さんだったら、意識するね。カーッと来るか、あるいは笑ってしまうか、とにかく何かしら反応を示すよね。

B そうそう。桐山さんてのは、あくまで自然なんだ。まあ彼が将棋で天下取るかは別にしてさ、人物は、かなり上質な人間の部類に入るんじゃないかな。

C 大ポカが多い将棋。王手飛車とか駒をタダ素抜かれたなんてポカは、一番多い人でしょう。

D 実戦不足じゃないの。例えば子供時代に夢中で100円の真剣に熱中したって経験はないんじゃない。

F たしかにその感じを受けますね。

D 昔、彼が振り飛車やってた頃、たまに居飛車を指すとすごくいい将棋だったんで、僕は、桐山さんが居飛車に転向したらいい棋士になるんだがって、あちこちで言ってたんだけど。

F 現在ほとんど居飛車になってますね。じっさい強くなった。

A タイトルはどうなのかな。

D 中原を破って王座1回。それから朝日の全日本プロ優勝。

A えっ、そうなの?目立たないねえ。

F だいたい名人戦の挑戦者になったことも忘れてる人が多いです。

D あの将棋あまりにヒドかったから。

C 1局目のポカがひどい。

D いや全部ヒドかった。

A あの人の場合不思議なんだ。負けた将棋は我々よく覚えてるけど、勝ったやつは印象薄い。

C 華やかな所がひとつもない。

F しかし強かった頃の中原に2連勝したのはスゴイ。

D 翌年2連敗しました(笑い)

C つかみ所のない人ですねえ。

―この時点で十段戦の予想をしときましょうか。

B 僕は桐山がデカイ人物と思うんで、直感で桐山奪取!

C 僕も中原が完全に復調していない点で、桐山乗りを宣言しとこう。

B 名人戦挑戦者の予想はどうなったの?

C 大山で決まりという調子で話をして来たんですが。

E 森も一応、まだ1敗です。

F 万が一、森さんに決まったら、谷川ってのは恐ろしい強運と言わざるをえない(笑い)。

B 僕は米長って気もするなあ。2敗ぐらいじゃまだまだわかんないよ。誰がなるにしたって1敗のままなんてあり得ないでしょう。

C 僕は大山です。

B 倍層振ってくれるんだったら僕は絶対米長乗りだね。(笑い)

(つづく)

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将棋ジャーナル1984年3月号の湯川博士さんの編集後記には、

2月号新春座談会のメンバーを推理したハガキをいただいた。
A 湯川
B 今福
C 横田
D 新井田
E 下村
F 中野
というものだが、ずいぶん近いのでビックリ。よく読んで下さってありがとう。

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『将棋ジャーナル』という雑誌を振り返ってみたい。

近代将棋1993年7月号、湯川博士さんの「好きこそものの」より。

 将棋ジャーナルがついに休刊になるがついては団鬼六オーナーを慰める会をやるから来ないか、とのお誘いを受け、某日、下北沢の小さな飲み屋に行った。森雞二九段、真部一男八段ほか編集者、ライター、カメラマン、新聞記者など親しい人が十数人集まって狭い店内は貸切状態となった。席上、団さんは「奮闘したが刀折れ矢尽きた」と語った。

 思えばジャーナル誕生は1977年の夏だから16年生きてきたわけだ。こいつは誕生して半年目にしてすでに休刊説が出たかわいそうな奴だった。

 雑誌が誕生してまもなくのころ、同じ町の奥山紅樹さんの家に遊びに行ったとき、この雑誌が部屋に置いてあった。なにげなくパラパラとめくって見て、今まで見たこともない雑誌であることに気づいた。将棋連盟になにやら楯突いて頑張っているようなのだ。私が熱心に見ていると奥山さんが、「持っていってけっこうですよ。なかなか元気があるでしょ、その雑誌…」

 半分苦笑いのようだったと記憶している。ともかく家で隅から隅まで読んで、これなら私の原稿を載せてくれそうだと思った。そのころ、近代将棋や将棋天国に投稿して喜んでいた私はさっそくエッセイを投稿したら、すぐに載せてくれた。

 これが縁で次号には6本(友人に頼んで)も原稿を入れた。編集長がいなくなって困っていることも知った。アマ連の役員会に出て休刊説も聞いた。ちょうど会社を辞めて暇があったので各地の取材など手伝っているうち、編集をやってくれないかという話になった。収入面では話にならなかったが、なにか男の血を騒がすようなものが雑誌のなかに感じられ、少考の末やることにした。それが第7号だから、ちょうど誕生1年目(隔月発行だった)に当たる。

 入って驚いたのは想像以上に将棋連盟との関係が悪く、その分各地のアマ強豪や連盟に不満を持っている人には支持を受けていた。当時の記事に「読売日本一に出たものはアマ名人戦に出られないようにするという論調が連盟内で出ている」とあるからその間の事情は察しがつく。本邦初のアマ賞金大会だったのと、読売がアマ連(日本アマチュア将棋連盟・将棋ジャーナルの発行元)に味方するのは反対という理由だったろう。アマ連では朝日アマ名人戦と読売日本一戦が主力で、今までセミプロ(将棋でお金を稼ぐ人)を締め出していたアマ棋戦になんでも有りという風穴を開けた。のちにアマ名人戦(連盟主催)もそのようになった。

 私は1984年に辞めたから6年間やったことになる。生活がかかっていたから隔月刊を月刊誌にし、売上を伸ばすために営業・販売も力を入れた。最盛期には1万部近く出た。その後は後輩の横田稔氏が編集を引き継ぎ2年間やった。ここまでがジャーナルらしい誌面だったと思う。すなわち清濁合わせて呑むアマ強豪のパワーで進んでいたわけだ。

 このあと矢口勝久→団鬼六とオーナーが代わり、当然誌面も変わった。

 将棋ジャーナルは誕生の時から鬼っ子で祝福されざる奴だったが、アンチ勢力のパワーで強引に突っ走った。そしていくつかの成果も将棋界にもらたした。その後はパワーが失われ、それに替わるものを見付けないまま雑誌を出し続け、ついには力尽きた。二度ほど(団氏と後援者に)編集を手伝ってくれと言われたことがあるが、将棋ジャーナルの編集というのはとても片手間に出来る代物ではなく、24時間その気でやらないといけない。ライターになっている身では不可能ですとお答えしておいた。

 しかし生まれたとたん殺す相談をされた奴にしてはしぶとく生き延びたほうかもしれない。また違う雑誌に生まれかわって暴れてほしいと願う。そのとき私が暇ならやるかもしれないなあ…。

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まだ『将棋ジャーナル』が元気だった頃、書店で『将棋ジャーナル』を立ち読みしたことがあった。

アマ強豪の記事が圧倒的に多く、内容が中・上級者向きで、(こんな本を買う人って本当にいるのかよ)と思ったほどだった。

本を開くと濃い空気が漂ってくるようなイメージ。

アマ三段の私が見てもそうだったのだから、今から考えると、読者ターゲットを極限にまで絞り込んだ雑誌だったのだろう。

今回、たまたま当時の『将棋ジャーナル』が数冊手に入ったのでじっくり読んでみると、これが結構面白い。(今後、このブログに将棋ジャーナルの記事が登場することが増えるかどうかは別として)

ものすごいパワーが感じられる誌面だったことが理解できる。

湯川博士さんと知り合ってから21年。数え切れないほど一緒に酒を飲んでいるが、初めて『将棋ジャーナル』の内容を肴に酒が飲めそうで、今から楽しみだ。

 

 

かなり野蛮な将棋座談会(前編)

将棋ジャーナル1984年2月号、新春おもしろ座談会「善玉と悪玉が居てこそ面白い!!」より。

―まずプロ棋界から振り返ってみましょう、1月から順に。

A 森、中原の棋聖戦。1-3で中原勝ち。

C 森さんは小池アマ名人に鍛えてもらって(本誌企画の一番手直り三番勝負)から、すぐ棋聖を獲ったんですが。初タイトルは半年しかもたなかった。

A 中原はその前に十段を獲っていて、これで二冠王、そろそろ不調脱出のきざしが見えたんだ。

F 棋聖戦の内容は、ハッキリ力が違う感じを受けた。

C ウン、不調の中原でさえ、やっぱりって感じだったね。

D 最終局なんか、確かすごい早い時間に終わっちゃったんでしょ。飛車交換のやつだったかな。

A 中原さんがからむのは、最近早く終わっちゃうのがよくあるね。カメラマンが間に合わないで浴衣姿を撮るしかないような……(笑)

―次に米長と大山の王将戦。

C 例の、王将棋王ダブルタイトルですよ。これは事件だったでしょ。現役引退か…なんて思われていた大山さんですからねえ。

F 片足つっ込んでましたよ。棺桶に。

C 順位戦(57年度)の、対二上戦を負けてA級陥落が決まってれば、あり得なかったことでしょう。

D 会長決戦と言われた一局。あれはヒドかった。

F 途中から、全然将棋になってなかった。なんか、変でしたね、二上さん。

C あの一戦を負けた、二上さんを恨みたい。勝ってくれれば二上残留、大山降級でたぶん会長交替だったでしょう。

A とにかく、ここ5年間ぐらいの重要なポイントになる一戦だね。

F というより、この先10年分ぐらいの棋界に影響をもたらした。

A プロ間ではどう見てたのかな。

E やっぱり、大山があの一戦を負けたら、降級よりは引退、という話が多かったです。本人もきっと、引退したでしょうね。じゃなきゃ、引退する時がない人だ。

F ホントに強いもんね。

E まあ、本気出したら一番強いんでしょう。

A まあ、強いことは分かるけど、あんまりいつまでも頑張られるとちょっとネェ。

―大山さんに関してはこの辺でおわりですか。まだありますか。

C ああ、朝日「リベルタン」誌に載った事件がありました。「大山の女を知らない記者はモグリだ」と升田が言ったとか。

F あれにはビックリしましたね。将棋界を知らない記者だからできたんでしょうね。

E でも面白かったなあ…(笑)

A そうねェ。升田さんが酒飲んで言ったこと、そのまま活字にしちゃうんだからねェ。

―ではそろそろ、明るい話題の名人戦に移りましょう。

A 谷川名人誕生は、予想外の明るいニュースだった。

C 挑戦者が決まってからは希望的予想も含めてだいぶ谷川乗りは多かった。中原、谷川のプレーオフの結果が、予想外でした。中原さんはあの時タイトルを二つ獲って復調してましたから、まさか負けるとは。名人戦自体は、加藤さんが変調気味と言われてましたから、それほど意外ではなかったでしょう。

D それでも僕は加藤が勝つと思ってた。

F 3連敗のあと2連勝した時は、僕もそのまま加藤が勝つと予想していた。

C ああ、あの時はそう思った。すっかり波が変わったぞという気がしましたねえ。

F てっきり谷川負けて、加藤さんと同じ運命をたどって10年位はダメじゃないかと思った。

A 結局勝ったねえ。

―谷川さんは他の棋戦では全く活躍してないのですが……。

E たとえば中原さんは、いま、棋聖戦も決勝、名将戦も決勝、その他ほとんどの棋戦の上位に名前が出てるんですが、谷川の名前はどこにもひとつも出てないです。

C そうですねえ。それは去年も、その前も、そうだった。

E ますますその傾向がヒドくなってます。

C 体力の問題もひとつあるんじゃないかなぁ。あまり丈夫そうじゃないから。順位戦一本に絞ってきたということが、多少あるんじゃないかなあ。

A 他を捨てて?

C 捨ててと言うほどロコツではないんでしょうけど。体力があればね。中原さんみたいにあちこち頑張れるんだけど。彼は細身ですし。

A Y紙のYさんだったかな、ジャーナルの記者座談会で、ちょっとその件に触れてたね。怒ってるってほどじゃないけど、まあ、他の社の担当者は不満を持っても無理ないよね。不満て言うか、淋しいじゃないの、一本に絞られちゃったらさ。

C そうですけどねえ。

A それとも、単に恐るべき強運で名人獲ったか。(笑い)

F 単に恐るべき強運だけで順位戦あんなに勝つんですか。同率決戦も中原に勝ち、名人戦も勝ち、オニ強運?

A 一本調子でつい勝っちゃったという……。

D 絞ったにしても、もうちょっと他でも勝ちそうなもんだけど。

F なんかねえ、恐ろしくよっわい人にやたら負けるんですよ。

C 一体なんなんでしょうねえ、あの人は。

E わかりません(笑い)

A まだまだ未確認物体UFOというところか。谷川の勝ちよりもむしろ、加藤が負けたってことが意表をついたね。

F 2局勝って、そのあと勝てなかったのは、ヘンだったね。自意識過剰に陥ったみたいな……

A 前代未聞のマスコミ攻勢も、加藤さんに微妙に影響してる。

F 1回名人獲ったから、もうこれでいいっていう、目標を失った所もあるかな。1回でも獲ればすごくうれしいですからね。

A まだ1回も獲ってない人、たとえば米長、内藤クラスなんかは、谷川君みたいな若い子が何の苦労もなくいきなり名人獲ったの見て、どうだろう。内心忸怩たるものがあるだろうねえ。

F 気ィ狂っちゃいますよ、もう。自分の人生に疑問持っても不思議はないね。誰だって死ぬほど名人になりたいんだから。

―名人戦以後の加藤さんは…。

C こないだ30分で投了したのは、秋の珍事。

F 2、3回やってますよ、その後すぐまたやってた。

C えっ、そうなんですか。

F はい。なんかもう、王将戦は捨ててるって感じ。

C よほど毎日新聞にウラミでもあるんかな。獲られた「名人」も毎日だから。

D まあ、そんなこともないだろうけどね。

―次は、森安新棋聖について。

A オッ、2連敗のあと3連勝、これはおもしろかった。森安さんの初タイトル。

C ジャーナルの一番手直りに登場した人はすぐその後のタイトルを獲るという…(笑い)

A 森安将棋は、ハッキリおもしろい。あのしつこさ。

F しつこくいて、ただのネバリ将棋じゃない。

B 同じ将棋でも、なぜこんなにおもしろく指せるかと感動するね。

D 思わず笑っちゃうおもしろさがある。

C 今までにない、変わった棋風ですね。新しいタイプの将棋。

F あの、コレ絶対に書かないで下さいネ。

―ハイ書きません、何ですか?

F 2勝2敗になったあと、某所で機会あって森安さんと指したんです。角落ち。で、その指しっぷりに接し、うーん強いなあ、これは棋聖を獲るなと確信したんです、僕は。

A なんだそりゃ。(一同爆笑)

D しかししかし、このF氏を角落ちで負かすプロがいるなんて、信じられない話ですねェ。(笑)どんな感じを受けました?

F その日の森安さんが他の人と指してる将棋も見ましたが、かなり充実してるなあという印象を受けました。

C 居飛車本格派とか正統派って言葉がありますが、森安将棋は、言わば振り飛車正統派じゃないかって思います。大山さんを別格とすれば、振り飛車一本でタイトルを取った人は森安さんぐらいでしょう。あ、大内さんがいたかな。とにかく森安はA級も上のグループに入れていい人だ。

A それと、人物がおもしろいね。特に酒を飲んだ時は最高だ。

C 何か暗い少年時代を送った(笑)って感じしません?

E 森安さんの、奥さんに対する溺愛の仕方を見てると、きっと何か不幸な過去があると感じる(笑)

F 不幸かどうか知りませんけど、若い頃、非常に苦労してた人とは聞いてます。クリーニング屋さんだったか、あ、お菓子屋さんだったか、とにかく仕事をしながら奨励会時代をしのいだ人ですよ。

C 何かがあるって感じの人ですね。話違いますが今一番色っぽい男って、森安さんですね。

A また、気持ち悪いねえ。

(つづく)

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「新春おもしろ座談会」と銘打たれているが、非常にワイルドな雰囲気漂う座談会だ。

『将棋ジャーナル』にしかできない、『将棋ジャーナル』ならではの座談会。

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この座談会の最後に、

☆出席者は、将棋評論家の今福栄氏、本誌の湯川、横田、下村、中野、専属ライターの新井田基信の皆さんでした。
(リライター 桂子)

と書かれている。

桂子は湯川恵子さんで、編集長だった湯川博士さんの奥様。「報酬なしで原稿起こしをさせられた」と語っている。

将棋評論家の今福栄さん(1944年-2006年)は、講談社の村松卓さんのペンネーム。村松さんは『月刊現代』編集長時代に「プロアマ角落ち戦十番勝負」を誌上で企画、将棋ジャーナルでは小池重明アマ対森雞二八段戦(角落ち)の観戦記「地獄の太鼓が鳴り出した」などを書いている。

新井田基信さんは、全国学生名人、朝日アマ名人戦準優勝などの実績のあるアマチュア強豪であるとともに、北海道将棋連盟で将棋の普及を献身的に行ってきた。2010年、48歳の時に亡くなられている。この座談会は新井田さんが早稲田大学を卒業したかしないかの頃のもの。

編集部の横田稔さんは、湯川博士さんがフリーのライターとして転出後、その後を継いで編集長となっている。近代将棋での観戦記や棋書執筆などでも活躍をしたが、1992年に34歳の若さで亡くなられている。

編集部の下村龍正さんは、元学生強豪で学生時代に小池重明さんを破っている。後に週刊将棋などの記者。

編集部の中野雅文さんは丸田祐三九段門下の元奨励会員。この頃28歳。ペンネームは才谷梅太郎(坂本龍馬の偽名のひとつ)。

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将棋ジャーナル1984年3月号の湯川博士さんの編集後記には、

2月号新春座談会のメンバーを推理したハガキをいただいた。
A 湯川
B 今福
C 横田
D 新井田
E 下村
F 中野
というものだが、ずいぶん近いのでビックリ。よく読んで下さってありがとう。

とある。

ずいぶん近い、ということは当たっていると考えて良いだろう。

(つづく)

 

 

 

杉本昌隆六段(当時)「双方秒読み、延々続く泥仕合、相手が羽生、という極限状態の中で、自分の中に眠っていた何かが引き出されたのかもしれませんね」

将棋世界2004年3月号、元NHKアナウンサーの中林速雄さんの「棋士たちの真情 明日は今日より強くなれる―杉本昌隆六段」より。

 実際、杉本六段は30歳前後から強さを発揮し始めた。平成10年、NHK杯と銀河戦で準決勝まで進出。14年、朝日オープン準優勝。15年、竜王戦3組優勝。順位戦ではB級2組に昇級。六段には、勝数の規定を満たし、12年に昇段している。

―好調を自分でも意識していますか。

「あ、いや、ありがとうございます。やっと結果が出始めてくれたということでしょうか」

―それも四間飛車一本で。

「ほんと、そうですね。実は奨励会に入るまで居飛車一辺倒だったんですけどね。本来、我が板谷一門では振り飛車はご法度ですから。香落ち上手を指しているうちに振り飛車が好きになりました。15歳、奨励会3級の頃から完全な振り飛車党でした」

―そういえば、小林九段が言ってました。スーパー四間飛車は、杉本先生のおかげだって。あれ、満更冗談でもなかったのかな。

「それはジョークですけど、ただ四間飛車では私の方が早くから指していましたから、一緒に研究出来ました。その研究を前進させ実を結ばせたのは、兄弟子というか師匠代わりの小林九段の実力です」

―そうか、あの名人戦の直前、昭和63年2月24日に、杉本さんの師匠の板谷進八段(贈九段)がクモ膜下出血で急逝され、当時大阪で一人暮らしをしながら三段リーグを戦っていた杉本さんにとっては、小林さんは頼りになる存在だったのでしょうね。

「はい、私はその2年後の平成2年に四段になったのですが、最後に直接対決の相手となったのが、ゴキゲン中飛車で今や有名な近藤正和現五段。それまでの3年あまり、昇段出来るチャンスを一度ならず逃していただけに、プレッシャーに押しつぶされそうでした。そんな私の精神状態を見透かしたように小林さんが、相手にも同じプレッシャーがあるんだよと言ってくれたんです。それで気分がスッと楽になりました」

(中略)

 先程平成10年からの実績を紹介したが、実はその前年平成9年は、年間勝率が全棋士中第2位だった。しかも第1位とはたった1厘差、惜しいところで年間賞を逃している。

 その年は銀河戦でも準決勝戦まで進んでいた。つまり2年続けてベスト4になったわけだが、準決勝戦での相手は、たまたま同じ羽生四冠(当時)だった。2年続けて同じ相手に苦杯を嘗めさせられたことになるが、インタビューが進むうち、杉本六段が実は、その先の方の対局で、予想もしない経験をすることになったという話を聞かせてくれたのである。

―一体どういう将棋だったんですか。

「200手を超える長い将棋でした。終盤で勝ち筋を逃して敗れたのですが、この局面を見てください。

 1手前▲1六歩に△同とと取ったところです。次が151手目で▲2七金。以下△同と▲1六香△同玉▲2八桂△同と▲同銀△3七桂▲3八玉△2九銀▲4七玉と進みます。双方、ずっと前から秒読みです。

 私の▲1六歩からは会心の手順だったのですが、△3七桂がさすがの凌ぎ。羽生さんの攻めと受けのバランスが絶妙で、一手一手が目新しく、また勉強になりました。

 150手を超えたあたりからでしょうか。自分の中にある将棋観、いや、脳の奥にあるもっと根本的な物の考え方までが変わっていくように感じられました。

 何といえばいいのか、プロになって何年も経つのに、どうしても見えなかった部分、ずっと霞がかかっていた状態が、だんだん晴れてきて鮮明になっていくような…ああ、将棋ってこういうものだったのかと得心出来るような、不思議な感覚でした」

 思いがけない話のなりゆきに、聞き手も息を詰めて、言葉の続きを待った。

「秒読みの中で頭をフル回転させながら、今まで勉強してきたのは一体何だったんだという思いに捉われていました。目が醒めたような気分でした。同時に、今後これで勝てるようにならなきゃ嘘だ!とも思いました。ほんとに、不思議な、初めての経験でしたね」

 しばらく沈黙があった。

―それって、一種の悟りではありませんか。

「でしょうか。今から思えば、双方秒読み、延々続く泥仕合、相手が羽生、という極限状態の中で、自分の中に眠っていた何かが引き出されたのかもしれませんね」

―以来、何か具体的に変わったことがありますか。

「ええ、一言で言うと、決断がよくなりました。元々かなりの長考派だったのですが、それまでは10分かけて指していた手が、10秒で指せるようになったということがあります。指し手に対する判断も変わりました。前例がないから指さないのではなく、前例がないからこそ指してみようと考えるようになったんです。いろいろな面で柔軟になったと思います」

―では、あの年間勝率2位も偶然ではなかった。

「それは何とも言えませんが、ただそれまでは、将棋は技術が全てで、事前の研究で勝つんだという頭しかなかったように思います。しかしあれ以来、どんな研究も、それを使いこなすクリアな状態を、最後まで保ち続けられなければ無意味だと分かりました。それに、研究だけで勝負がついてしまうのでは、人に感動は与えられないでしょう。将棋が強くなるには技術を磨くしかありませんが、将棋に勝つには、精神力・体力・持久力の全てが必要です。そのことが、理屈ではなく身体で、身体の心底で分かったのです」

(以下略)

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羽生善治四冠(当時)との対局中の極限状態で得たこと。

杉本昌隆六段(当時)のそれ以降の戦績を見れば、非常に大きなことであったことがわかる。

自分の中に眠っていた何かを引き寄せた杉本六段も凄いし、そのきっかけとなった羽生四冠の存在感も凄い。

杉本六段が身体の心底で分かったこと、これが弟子の藤井聡太四段にも、言葉には出さないけれども、無意識のうちに伝わっていることだと思う。

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今日発売される「NHK将棋講座12月号」に、杉本昌隆七段の「師匠から弟子へ」が掲載されている。

板谷進九段-杉本昌隆七段-藤井聡太四段の系譜の、師匠と弟子の物語。

藤井聡太四段について書かれた記事、著作は多いが、師匠の杉本昌隆七段によって書かれた文章は少ないと思う。

読みながら心を揺さぶられ、読み終わった瞬間に言葉にできない感動を覚える、非常に素晴らしい内容。

皆様にもぜひご覧いただきたいと、自信を持ってお勧めできます。

 

NHK 将棋講座 2017年 12月号 [雑誌] (NHKテキスト)

 

 

 

深浦康市八段(当時)「C級の将棋は若くて勢いがある。B級は殺し屋的存在が多い。これがA級になると、バランスが取れているんです」

深浦康市九段が11月3日の王将戦挑戦者決定リーグ戦、対斎藤慎太郎七段戦に勝ち、19人目となる公式戦通算800勝(将棋栄誉敢闘賞)を達成した。

深浦康市九段、800勝(将棋栄誉敢闘賞)達成(日本将棋連盟)

公式戦通算800勝を達成した棋士は次の通り。( )内は棋士になってから800勝を達成するまでの年数。

大山康晴十五世名人 1972年(32年)
加藤一二三九段 1982年(28年)
中原誠十六世名人 1986年(21年)
二上達也九段 1987年(37年)
有吉道夫九段 1987年(32年)
内藤國雄九段 1987年(29年)
米長邦雄永世棋聖 1992年(29年)
谷川浩司九段 1997年(21年)
桐山清澄九段 2000年(34年)
大内延介九段 2000年(37年)
羽生善治棋聖 2003年(18年)
森雞二九段 2009年(41年)
佐藤康光九段 2009年(22年)
森下卓九段 2010年(27年)
森内俊之九段 2011年(24年)
丸山忠久九段 2014年(24年)
高橋道雄九段 2014年(34年)
郷田真隆九段 2015年(25年)
深浦康市九段 2017年(26年)

今日は深浦康市九段に迫る。

将棋世界2004年4月号、「棋士たちの真情 深浦康市朝日オープン選手権者」より。聞き手・構成は浅川浩さん。

 ここまでの道のりですか?とても長かったです。一番惜しまれるのはC級2組に6年もいたことです。後悔はしていませんが、もっとやり方はあったと思っています。

 ぼくはスロースターターなんです。そもそも奨励会でもかなり出遅れていて、6級に1年もいました。昭和59年の入会で、1年後輩に屋敷さんがいましたが、屋敷さんは光のように速く抜けていった。3年未満で四段になっていますよね。

 ようやく三段になったときも、いきなり「半年の空白」がありまして…。ぼくが三段に上がったのは10月の第1週でしたが、次にリーグにエントリーできるのが9月末までなんです。まだ始まってもいない三段リーグを半年間黙って見てるしかなかった。

 三段リーグの成績は、プロになってからの成績と似ているかもしれません。たとえば全18局、13勝が昇段ラインとしましょう。するとぼくは、必ず10勝はできるんですよ。ところがあと3勝がなかなかできない。結局12勝6敗で上がれない。そんな感じです。だから、全体の勝率を見ると、これは群を抜いていいんです。でも、結果としては何も残っていない。ぼくの人生はそういう人生なのかもしれませんね。

 安定はしているけど、なかなか抜け出せない。それがぼくの悩みでした。順位戦でもC級で1回、B級で1回、2回も頭ハネを食らっていますし…。

 阪神大震災が起こった日は、ぼくが順位戦で手痛い1敗を喫した日でした。ぼくは東京で対局、大阪の対局は当然延期です。そういう状況で、菊地常夫先生に軽く飛ばされ、自分で転んでチャンスを逃してしまった。同じように痛い星を落とした先崎さん、当時「週刊将棋」にいた観戦記者の加藤久康さんと中野のホストクラブに行って、朝まで吠えてました。吉野家で朝定食を食べて、先崎さんの家で、1日たった神戸の焼け跡をテレビでぼうっと見ていました。あの1日はなんだったんだろう、と思いますね。

 佐世保から東京に出てきたのは中学1年の4月です。3年間という条件付きで、親戚の家にお世話になりました。

 ところが入門してすぐ、5月に花村師匠が亡くなりまして…。短い間でしたけど、花村師匠にはずいぶんかわいがってもらいました。怖い印象はまったくありません。とにかくいつもニコニコしていましたね。「音楽でいい成績をとりました」と師匠に報告すると「そうか。将棋にはリズム感が大事だからな」と、そんな感じです。きっと何を言っても誉めてもらえたんでしょうね(笑)。

 中学を出てからはひとり暮らし。高校には行きませんでした。得意だったのは数学と理科です。高校ではどんなことを勉強しているんだろうと興味があって、数学の教科書を買ってきて、ちょっと勉強したりしたこともあります。音楽も好きでした。音符を覚えたのがよかった。

 ひとり暮らしを始めてからの生活は、ビデオテープのように再現できます。朝7時には必ず起きる。朝ごはんを食べて、9時から12時まで将棋の勉強です。昼食後に昼寝をして、2時から午後の勉強を3~4時間。夕食後、夜8時から2~3時間勉強して寝る。記録でも取らない限り、この繰り返しです。

 遊びの誘惑ですか?いろいろ話を聞いていましたから、手を出したら終わりと思っていました。

 勉強内容は今と同じです。詰将棋、棋譜並べ、自分の研究です。特にだれかの将棋に憧れたということはありません。

 奨励会を抜けたときは、長い長いトンネルを抜けて、ようやく光が差し込んできたような感じでした。地元で応援してくれている方も大勢いましたから、もちろんホッとした気持ちもある。これまでの人生で一番うれしいことをひとつだけあげろと言われたら、やっぱり四段になったときです。奨励会時代が一番勉強したし、一番努力もした。一番苦労もしましたから。

 でも、プロになったときは、ものすごく危機感も感じていました。ぼくは19歳で四段になっていますから、常識的には悪くないペースのはずです。でも、目標にしていた丸山さんや屋敷さんはすでにバリバリに活躍していて、自分ではかなり遅いスタートと思っていたんです。いかにしてその遅れを取り戻すか、そういう危機感のほうが強かった。

 羽生世代との接点ができたのは、プロになってしばらくしてからです。当時は背中も見えませんでした。ぼくにとっては、郷田さんが遠くに見える、かろうじて丸山さんのシッポくらいを追いかけている、そんな感じです。

 そういうことはあるんですけど、島さんでしたか、四段になったら「青春の取り戻し行為」をしたい、というようなエッセイをお書きになっていましたけど、そんなこともボチボチやりまして…。

 そういう下積みが私の原点です。それがあって、プロ2年目で全日本プロで優勝することができたのだと思います。米長先生が相手であるということ、フルセットまで行って勝てたということ、この二つが大きかったと思います。すぐあとに米長名人が誕生していますから、これが自信につながらないわけはありません。

 ただ、冷静に見ると、やっぱり米長先生の将棋のほうが圧倒的に強いんです。これは「今から見れば」ではなく、当時からはっきり思っていたことです。だから、実力で優勝したとは思っていません。

 ぼくがダメなのは、この優勝を生かせなかったことです。そこでいったん緩んでしまう。活躍が「点」で終わってしまって、なかなか「線」にならないんです。ずっとくすぶっているような感じで、早く完全燃焼したい、という気持ちが強くありました。

 1年ほど前から、自分とひとまわりも違う若手たちと研究会をやるようになりました。若手たちと接すると、勉強量がダンチと痛感します。もちろん私のほうが少ないという意味です。若手は、持っている時間のすべてを将棋にぶつけています。彼らを見ると、31歳としては心が動かないわけがありませんよね。修行時代の真摯な気持ちを思い出します。

 若手の将棋は、最初は驚きの連続でした。「そんな手があるのか」とびっくりすることばかりでしたが、そのうち眼が慣れてきたのでしょうか、「なるほど、そういう考えもあるということなのか」と感じ方が変わってきました。

 C級の将棋は若くて勢いがある。

 B級は殺し屋的存在が多い。極端に受けが強かったり、ものすごい攻め将棋があったりします。B級は「強い個性」とぶつかる感じです。しかもその個性にいろんなタイプがあって、どれか苦手をつくったら決して上がれない。それがB級の難しさですね。

 これがA級になると、バランスが取れているんです。「強い個性」はもちろんあるんですが、それより先にバランスがある。

 もちろん名人挑戦は目指していきたいと思っています。私は夢を見ない人間ですが、それでも、「まずは残留を目指す」とは言いたくありません。

 そのためにも、一日も早く「A級の空気」に慣れたいですね。見て感じるのと肌で感じるのでは、おそらく違うと思うんです。羽生さんにしろ谷川さんにしろ、これまでも何度も対局してきましたが、きっと違うはずです。

 谷川さんは得がたい存在です。現代将棋の草分け的存在でもあり、人格者でもある。谷川将棋が花開いたのは私が奨励会に入る前ですから、第一線で活躍している時間がものすごく長い。ぼくがプロになって今年で13年目なんですが、これから先どれだけよい将棋が指せるかと考えたとき、谷川さんのすごさがわかります。谷川さんは「棋士の模範」かもしれません。

 羽生さんが最強の棋士であることは間違いないですが、最近は波が大きいですね。ますますとらえどころがなくなってきました。

 森内さんはとにかく充実しています。過去の実戦を踏襲しているイメージから脱却し、独自路線を突き進みつつあります。

 佐藤さんは、こと将棋に関しては、自分だけを信じるという信念を持っています。その意味で、加藤一二三先生と似ています。佐藤さんはA級では珍しいタイプなんですよ。

 こういう人たちと比べると、ぼくはダメですね。ぼくの将棋は甘いんですよ。いえいえ、ホントです。波もありますし…。とにかく、こんなにフワフワしていてはいけません。

 でも、前に進んでいるという実感はあります。少なくとも、自分の実力のピークは過去にはないです。これははっきり言えます。

(中略)

 プロとしては、ファンの方がお金払ってでも見たいと思うような将棋を指したいと思っています。「ゼニの取れる棋士」と言えばいいんでしょうか。深浦康市という棋士がいて、それを見て感動してくれるファンがいれば最高です。

 それができるプロが一流なのでしょうね。そうした一流を目指すなら、強い個性が必要です。最近、こう思うんですよ。「深浦君、その手はダメだよ」と言われると、修行時代は萎縮するものです。ところが、そういう手こそ、大事にしなければならないのではないか。それこそ個性かもしれない。おそらく、上に行けば行くほど、それが大事になってくる。自分なりの感性に頼るしかない、そういう領域が増えてくるような気がしています。

 これからの将棋は、研究と実戦の間で大きく揺れると思います。研究はしているんだけれど、実際に戦っている盤上では、まったく別のことをやっている。そんなふうに、研究と実戦が乖離するような現象が起こってくるでしょう。たとえば力戦が増える。相振り飛車が増える。こうした動きはすでに始まっていますよね。もちろん新戦法も出てきます。

 磁石のS極とN極のように、研究と実戦が正反対を向く。研究レベルでは定跡がどんどん進化するんだけれど、プレイヤーとしては定跡形ではなく力戦で戦う。研究していることが、そのままの形では実戦に出ない。

 たとえば、コンピュータで解析されたことは、プロの盤上には出ません。そう考えれば、わかりやすいかもしれません。

 いずれ人間に勝てるコンピュータは必ず出てきます。でも、それでプロ棋士の指す将棋がなくなるかといえば、そうはならないと思います。コンピュータが答を出すのは「絶対」のレベルのものですが、それができるのは将棋のごく一部分に限られるでしょうし、そもそも、コンピュータの指す将棋に、はたして感動できるのかどうか…。

(以下略)

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深浦康市九段というと「根性」という言葉が連想される。

「ガッツ」ではなく「根性」。

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「遊びの誘惑ですか?いろいろ話を聞いていましたから、手を出したら終わりと思っていました」

深浦九段の四段時代までは特にストイックだった。

ストイックだった深浦康市少年

兄弟子と食事に行っても、2次会へ行くのは「行ったら終わりですから」と絶対に断っていた深浦少年。

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通常、若い頃にここまでストイックだと、その後もその尾を引くものだが、現在の深浦九段は非常に温厚なバランス感覚に優れる紳士。

人生相談をしたら、とても有益なアドバイスをしてくれそうな頼りがいのある雰囲気を持っている。

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B級は殺し屋的存在が多い。

インパクトのある言葉だ。

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「『音楽でいい成績をとりました』と師匠に報告すると『そうか。将棋にはリズム感が大事だからな』と、そんな感じです。きっと何を言っても誉めてもらえたんでしょうね」

弟子に何があっても誉めてくれそうな花村元司九段。

ちびまる子ちゃんのおじいさんのさくら友蔵を彷彿とさせる。

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「島さんでしたか、四段になったら『青春の取り戻し行為』をしたい、というようなエッセイをお書きになっていましたけど、そんなこともボチボチやりまして…」の『青春の取り戻し行為』については、以下のブログ記事に詳しく載っている。

島朗九段のルーツ

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最後の、研究と実戦とコンピュータとの関わり。

13年前に見事に現在の姿に近いことを予測している。

非常に見事だ。