「インタビュー・対談」カテゴリーアーカイブ

藤井猛四段(当時)「好きな食べ物は肉類。嫌いな食べ物は納豆」

将棋マガジン1991年10月号、「ひと口メモ 藤井猛四段」より。

 スポーツは、特に、これといってはやりませんが、プロ野球の観戦は大好きで、中日ドラゴンズの大ファンです。

 映画はビデオでよく見ます。洋画がほとんどですが、カンフー映画も好きです。

 読書は、何でも読みます。

 今はまだ将棋一本槍なので、特に趣味と言えるようなものはありません。

 好きな食べ物は肉類。嫌いな食べ物は納豆。

 ためになった将棋の本は特になし。

 出身地は群馬県沼田市。現住所は東京都三鷹市です。

(談)

* * * * *

藤井猛四段(当時)がデビューしたばかりの頃の談話。

* * * * *

「好きな食べ物は肉類。嫌いな食べ物は納豆」

Wikipediaを見てみると、現在の藤井猛九段は、好きな食べ物はうどん、嫌いな食べ物は納豆と梅干し、と書かれている。

たしかに、一番好きな食べ物は年齢とともに微妙に変わっていくこともあるが、嫌いな食べ物はまず変わることがない。

* * * * *

納豆は、平安時代には既にあったとされている。

「初めて納豆を食べた人と、初めてナマコを食べた人、どちらが勇気があるか」という問題があったら、かなり悩むと思う。

さらに、これに飯寿司、筋子、たらこなどが加わったら、相当な難問になる。

* * * * *

カンフー映画の代表的作品といえば『燃えよドラゴン』、中日ドラゴンズのファン、そして竜王3期獲得と、藤井猛九段は「竜」と非常に縁が深いということがわかる。

 

森信雄五段(当時)「村山君、身体が弱かったんでね。同僚というか、棋士仲間という感覚で、気ィ遣うたということはありますけど……師匠とか、そういうことやない」

将棋マガジン1990年2月号、奥山紅樹さんの「棋界人物捕物帖 森信雄五段の巻」より。

 森信雄プロといえば。もう一つ聞きたいことがある。それは愛弟子・村山聖五段への面倒見の良さである。聞くところによると、病気がちの村山プロをかばい、入院したときパンツを洗ってやったこともあるとか。

「いやいや、そんなこと……」

 銭湯へつれていって、頭を洗ってやる?

「それはありません」

 でも、目撃者がいますよ。食事をつくってやるとか。

「村山君、身体が弱かったんでね。同僚というか、棋士仲間という感覚で、気ィ遣うたということはありますけど……師匠とか、そういうことやない」

「面倒見やとか、献身的やとか、そんなこと書かれると、ゾクッとするほど気持ちが悪い。かれは身体が弱いのに、性格はきついところがあるから……ヤケクソになられたらあかん、元も子も無しにしてしまう。それで仲間として気ィ遣うた……それだけのことです」

 10代半ばのころ、村山少年は今よりずっと病弱であった。奨励会の対局にもドクターストップが掛かるほどの。

 「つぎの対局休みィ」「いや、ぼくは将棋指します」「そんなんしたら、身体参ってしまうで」「参ってもええです」「アホなこというたらあかん」「いえ、将棋指せればイノチなんかどうなってもええです」「止めんか、いうのに」「いえ、止めません」

 森師匠と村山弟子のあいだに、大要このようなやりとりが続き、「休め」「休めません」の激論がしばしばのことであった。

 それが近年「散髪に行ってこい」「いやです」「頭が臭いてな、つまらんことで人に嫌われるのはアホらしいやないか。髪の毛、切ってこい」「いやです」の激論へとエスカレートする。

 「ぼくもガンコやけど、村山君もガンコ者やから……それで、かれが20歳になってからは本人の自己管理にまかせています」

 こう言いながらも、森プロは弟子の生活管理のありようと、その才能開花を、しんそこから気にかけているようだった。

 終盤に入って異常な冴えを見せる村山将棋の魅力。それはまた、師匠の忠告をハネつける頑固さ、主体性の強さと結び着いている。

 「けど、社会を見る目。人間を見る目。村山君の方がぼくよりずっと、しっかりしている。リアルに物を見てます。教えられます」

 「この夏、北海道へ(村山五段が)一人旅をして、帰って来てから人間が明るくなった。たくましくなった。人を頼る時には、だれでも謙虚になりますからね、頭を下げて『下』から物を言う経験を積めば、自分のガンコさの中にある甘えが分かってきますから。そのことに気付けば、人間はたくましく、明るくなりますよ。かれを見て、そう思います」

(以下略)

将棋マガジン同じ号、インタビューを受けている時の森信雄五段(当時)

* * * * *

「村山君、身体が弱かったんでね。同僚というか、棋士仲間という感覚で、気ィ遣うたということはありますけど……師匠とか、そういうことやない」

森信雄五段(当時)の無上の優しさ。

* * * * *

昨年、森信雄七段のご自宅に遊びに行った時のこと。

ヨウムの金太郎と戯れている最中の森信雄七段が、ふと独り言のように、

「千田君、ちゃんとご飯食べてるやろか。心配やなー」

と奥様に語りかけた。

千田翔太七段が大阪から東京へ引っ越して間もなかった頃で、千田六段(当時)が将棋の研究に夢中になり過ぎて食事をきちんととっていないのではという心配。

この時、あらためて森信雄七段の優しさに感動するとともに、『聖の青春』の物語の中にいるような感じがしたものだった。

村山聖四段(当時)「親以上ですから」

将棋マガジン1987年12月号、「若手棋士訪問記 米長邦雄のスーパーアドバイス 村山聖の巻」より。

将棋マガジン同じ号のグラビア。村山聖四段(当時)の部屋にて。撮影は弦巻勝さん。

マンガだらけの部屋

米長 さすがにすごい部屋だね。これ、パンツだけはしまえよ。あとは俺も何も言わないから。ハッハッハ。ここで写真をとって、それで近くの喫茶店に行って話をしよう。この部屋の中に漫画の本は何冊ぐらいあるの?

村山 2,000から3,000です。

米長 『週刊将棋』に掃除をしたとか書いてあったけど、お母さんが来て片付けたのかい。

村山 ハア。

米長 ダメなんだよ、そんな事しちゃあ。そのままの状態にしといてもらわないと。これ、座れるじゃないか。

村山 (笑)。

米長 漫画には傾向があるのかな。

村山 いえ、別にないんです。何でも。

米長 『キャンディー・キャンディー』『夢見てごらん』こういうのも読むのか。『白衣の天使と呼ばれたい』(笑)。

村山 ええ、何でもあるんです。

米長 そこに電気釜があるじゃないか。

村山 お金がなかったら、これでご飯を炊いて、おかずを買ってきて……。

米長 フフフフ、面白いね。無精でも、食うのをやめるというわけではないんだな。背広もちゃんと持ってるんだねえ。

村山 師匠が買ってくれまして。

米長 非常にいい師匠のようだなあ、森信雄先生は。森君はどこに住んでるの。

村山 ここから10分くらいの所に。

米長 彼氏は結婚してるのかな。

村山 してないです。

米長 森君も面白い男だよね。まあ、この師匠にこの弟子あり、という感じだね(笑)。驚いたよ、とにかく驚いた。それじゃあ、将棋盤を持って、近くの喫茶店に行こう。

☆ ☆ ☆

 村山聖(むらやま・さとし)四段は森信雄五段門下、18歳。昭和58年12月に奨励会入会、61年11月四段。2年11ヵ月で四段昇進は近来にないスピード記録。特に6級からのスタートでは三指に入る記録であろう。奨励会時代からいろいろとエピソードが多く、例えば、フロが嫌いで月に1回入るかどうか、歯も磨かない、など。その上、髪、爪は伸ばし放題にしていて、異色の人というイメージがある。マンガ狂いも有名で、『将棋年鑑』の棋士名鑑に棋士アンケートがあって、62年度の目標という質問に”マンガ1億冊”と答えている。ちなみに、一番嫌いなものという質問に対する答えは”将棋”。住まいは関西将棋会館から歩いて10分位の所。61年度の成績は12勝1敗。

師匠は親以上

米長 詰将棋が得意なのかい?

村山 いえ、そんなにやらないんですけど、いつのまにかそういう事になってまして……。

米長 詰将棋を解くのは速くて、連盟で将棋の研究をしていても、君が詰むと言ったら詰むし、詰まないと言ったら詰まない。とにかく君の結論が絶対だ、と何かで読んだけど。

村山 いや、あれも皆で「詰まない」と言ってたんですけど、いつのまにか僕一人が言った事になってるんです。

米長 まあ、一応は定評があるわけだ。

村山 師匠に「詰将棋だけはやれ」と言われまして。

米長 俺と同じような事を言ってるわけだな。森信雄の次の一手も難しいね。前に将棋世界の付録か何かであっただろ。あれを考えていて俺は頭がおかしくなった。

村山 そうですね。やけに難しい。

米長 君が見ても難しいかい。

村山 検討とかやるんですけど、危ない筋がいくつもあって、僕がそれに引っ掛かると喜びはるんですよ(笑)。「これでつぶれじゃないですか」と言うと「それはこうやってダメなんや」とニコニコしながら。

米長 検討の手伝いをしとるんだ。

村山 僕がやればタダですから(笑)。

米長 ハハハハ、森君との出会いというのはどういう縁だい?

村山 奨励会の入会試験を受けるのに誰か師匠になってもらわないといけないので、道場の人に紹介してもらったんです。名前だけの師匠で、試験を受けた時は顔も知らなかったんですけど。

米長 だけど、今となっては、師弟の結び付きというのは、よその所より深いね。

村山 親以上ですから。

米長 親以上か。それは非常にいいね。君はお酒なんか飲むの?

村山 いえ、師匠に「絶対に飲むな」と言われてますから。

米長 今日は背広を着てるけど、背広を着る日というのは1年で何日位あるの。

村山 奨励会の時は全くなかったんですけど……。

米長 四段になってから何日あるの?

村山 40日くらいです。

米長 どんな時、着るんだい?

村山 森先生が着ろという時と対局の時。

米長 師匠はできるだけ君をそういう格好にさせたいわけだ。そんな努力がありありと見えるようだね。

村山 ハア(笑)、そうですね。

米長 森先生が放っておくと、君はどういう事になるんだい?

村山 髪が下まで伸びて……。

米長 下まで!?女みたいにか。どの位まで伸ばした事があるの?

村山 いや、伸ばしたいんですけど、森先生がどうしても切れと言うんで。

米長 ハッハッハ。

将棋は嫌い

米長 漫画のどういう所がいいのかな。

村山 目が疲れないから。前は推理小説とか読んでたんですけど、目が痛くなって。一日、ずっと読んでますから。

米長 それは賢いかもしれんね。今は頭と神経、目が疲れる事が多いからな。で、あとは将棋に打ち込んでいるのか。

村山 いや、まあ、打ち込んでるかどうかはわからないですけど(笑)。

米長 大体、連盟に行って棋譜を並べたり、という感じかい?

村山 いえ、並べるんじゃなくて、誰かが並べてるのを見てるんです。自分で並べると疲れるから。

米長 なるほど、それは賢いね。今期は何勝何敗だい?

村山 10勝6敗です。よく負けます。

米長 よく負ける?勝ち越してるじゃないか。今、いくつだい、歳は。

村山 18歳です。

米長 これから!!っていう歳だなあ、本当に。スタートに立った所だ。稽古にはほとんど行ってないんだろ。それで原稿を書くなんて事はあるの。

村山 いえ、書きたいんですけど……。

米長 書きたいけど、今は書いてない。そうすると、漫画を読み、将棋の研究をし、対局に打ち込む、という生活かい?

村山 ええ、まあ。

米長 将棋は面白いかい?

村山 いえ。

米長 えっ、面白くない!!珍しいね、新四段で将棋が面白くないというのは(笑)。初めて聞いたよ、このシリーズ、12人話しを聞いたけど。面白くない?

村山 はい。

米長 何が一番面白い?

村山 音楽を聞いたり漫画を読んでる時ですね。

米長 音楽はどんなのが好きなの。

村山 一番好きなのはニューミュージックで、あとは演歌でも何でも聞きます。

米長 ほう!!音楽が好き、漫画が好き、将棋はあんまり面白くねえ、と。

村山 あんまりじゃなくて嫌いなんですけど(笑)。

米長 ウーン。将棋が嫌いでそれだけ指せるというのは珍しいねえ。普通は好きでないと強くならないわけだけどなあ。考えるのが辛いのかい。

村山 勝ち負けがあんまり好きじゃない。

米長 要するに勝負事が嫌いなのか。

村山 ゲームとかならいいんですけど、職業となると……。

米長 ああ、なるほど。他にゲームなんかはやる事あるの。

村山 トランプとかなら。

米長 それは、お金を賭けるのかい。

村山 ええ、ちょっと賭けて。

米長 でっかいギャンブルは好きではないわけだな。

村山 趣味ならいいんですけど、生死にかかわるやつはちょっと。

米長 なるほど。命を賭ける職業だからなあ。だけど、将棋をやってるからには、将棋が好きだった時もあるんだろ。

村山 ええ、最初は。奨励会に入った頃までは好きだったんですけど。

米長 だけど普通は、若くて勝てるから、それで将棋が面白いという事になるわけなんだけどなあ。

村山 いや、勝っても面白くないし。

米長 ハッハッハ。不思議な男だね。非常に面白いね。今後の希望というのはあるのかい。早く昇段したいだとか、タイトルを取りたいだとか、そういうのはないのかい。

村山 ありますけど……。

米長 やっぱりあるのか。

村山 まあ、早く将棋をやめたいな、と。

米長 やめたい!!ハッハッハッハッハ。

対桐山棋聖戦

米長 君は顔は丸いけど将棋は鋭いという評判だねえ。この間、二上さんとの将棋見たけど、鋭い上に手厚いじゃないか。受ければ手厚いし、攻めれば鋭いし、おまけに寄せが早いだろ。勝つわけだよな。それじゃあ、将棋を見せてもらおう。盤と駒、持ってきただろ。

村山 たぶん、駒が足らないと思います。

米長 足りない!?(笑)。ああ、桂馬が1枚足りないのか。しかし、それで平気という所が面白いね。ちょっと待てよ。オジさんが10円玉を出すからな。

村山 朝日の桐山先生との将棋です。

(中略)

米長 △3八金▲1八玉に△1五銀と打ったのか。これ、詰めろじゃないんだろ。それじゃあ当然、おかしな事になるよな。逆転しちゃったのか。しかし、詰ましそうなもんじゃないか。頭が変になっちゃったんだな。摩訶不思議な将棋だねえ。いつもはこうじゃないんだろ。もっと厳しく勝つんだろ。悪くなったから粘ったという将棋なんだな。その粘り方が不思議流だったんだ。あの桐山がイライライラしちゃって。”もう叩き切ってやれ”と△7八飛成とな。面白いね、あの桐山でもイライラするという所が。最終回を飾るにふさわしい人材だったよ。面白かった。物怖じしないというか、無頓着というか、非常にいいよ。なかなかこうは生きられんのだよねえ。将棋が嫌いで早くやめたい、そうではあっても、できるだけ早くタイトルが取れるように頑張ってくれよな。そのつもりではいるんだろ。

村山 ハア。そうですね。

米長 早いうちにやめるのもまた一局だけどね、まあ、できるだけ頑張ってな。

* * * * *

全編、村山聖四段(当時)らしさと、師匠の森信雄五段(当時)を慕う気持ちに溢れていて、今の時代に読むとより強く心打たれる。

* * * * *

「検討とかやるんですけど、危ない筋がいくつもあって、僕がそれに引っ掛かると喜びはるんですよ(笑)」

このようなシーンこそ、映画やテレビドラマ版『聖の青春』に取り入れてほしいところだが、将棋を知らない視聴者向けの映像的には難しいかもしれない。

* * * * *

「この師匠にこの弟子あり」

まさに、その通りだと思う。

 

「弟子が師匠に勝つことが恩返しになるとは限らない」

将棋マガジン1990年6月号、「名棋士、二上よさらば」より。インタビュアーは田辺忠幸さん。

 昭和の名匠が一人、盤上から消えた。日本将棋連盟会長の二上達也九段である。人間の寿命が伸びたのにつれて棋士生命も長くなった今、58歳で第一線から退くのは早すぎるし、B級1組を確保したのだから、もったいない感じもするが、余力を残しての引退は、いかにも、さっぱりした性格のガミさんらしい、いさぎよさ、さわやかさではある。

 引退表明の記者会見が行われたのは3月26日。それから1週間後に、将棋会館で改めて引退の弁をうかがった。

―現役40年、お疲れさまでしたが、まだ若いのに、という感じをぬぐい去ることは出来ません。現に長年のライバルだった加藤一二三九段あたりの棋士たちからも惜しむ声があがっています。引退の決断をされたのはいつごろなのですか。

「3年ほど前から成績は振るわなくなり、そろそろ年貢の納めどきかな、と思っていました。それで、去年の5月に会長になったとき、どうしようかなと悩みましたよ。その後、11月17日の「将棋の日」に勤続40年の表彰を受けて、ちょうどいいや、と心に決め、年度末まで待って、順位戦のけりがついたところで表明したわけです。もっとも、40年まであと1年あると思っていたんですがね。もちろん、順位戦では、A級カムバックを目指してはいましたけど、一度そろそろなんていう考えになると、頑張る気力が衰えますね」

―奥様には、いつ打ち明けられましたか。

「今年に入ってから、そう、年の始めでした。やめるよっていったら、アッソウ、なんて感じで、あっさりしたもんでした。すっかり拍子が抜けましたよ」

―記者会見で「弟子の勝てなくなった。将棋のことは弟子にまかせたい」といわれましたが、羽生善治竜王の成長も引退と関係があるんでは。

「いくらかはあります。今度、羽生がB2に上がり、私はB2に落ちそうになりましたが、弟子と同じクラスで戦うのは嫌ですからね。羽生と当たったのは、日刊ゲンダイ一局だけです。相撲界では、稽古をつけてくれた先輩に勝つのを恩返し、といいますが、私は、恩を返されても弟子に負けるのは、はっきりいって面白くありません。羽生は思ったより強くなっています。今度も谷川名人に(全日本プロ・トーナメント決勝三番勝負)でなんとなく勝ってしまいましたね。このままいけば心配される壁もなさそうです。羽生は私の物差しでは計れないところがあります。もっと大きい物差しじゃないとね。羽生に関連していえば、10代の棋士ばかりというか、一部の天才だけが活躍する将棋界では駄目です。もろい面があり、かえって薄く、危ういような気がします。

<二上-羽生の唯一の対戦は、1989年3月10日、日刊ゲンダイ主催のオールスター勝ち抜き対抗戦。125手で羽生五段が勝ち、5人抜きを果たした>

(以下略)

* * * * *

「相撲界では、稽古をつけてくれた先輩に勝つのを恩返し、といいますが、私は、恩を返されても弟子に負けるのは、はっきりいって面白くありません」

いつ頃から将棋界で「恩返し」という言葉が使われ始めたのだろう。

たしかに、弟子が師匠に勝つこと=恩返しとは、感覚的にピンとこない。

そもそも師匠がそう思っていなければ、その一門においては、師匠に勝つことが恩返しにはならなくなる。

師匠よりも将棋が強くなること、師匠よりも将棋界で活躍すること、などは全ての師匠が喜ぶだろうが、直接対決となると話は変わる。

恩返しには様々な形態がある。

羽生善治九段は、その活躍、実績自体が二上達也九段への恩返しになっている。

弟子が師匠に勝つことは必ずしも恩返しにはならない、と結論付けて良いだろう。

* * * * *

久保利明二冠の師匠への恩返し

弟子から師匠への本当の恩返しとは(NHKテキストビュー)

「将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします」

近代将棋1985年3月号、「名棋士と語ろう 大内延介九段の巻」より。聞き手は小杉英夫さん、金子猛雄さん。

小杉 大内さんは週刊誌に、木村十四世名人が揮毫した「書」について尋ねたけれども、うまい具合にはぐらかされてしまった、という内容のエッセイを書いておられましたね。

大内 ええ。

小杉 私も木村名人に、他の教員と3人で揮毫をお願いしたことがありまして。その文字が今はっきり憶い出せないのですが、難しかった……。

大内 難しいのですよ、木村名人のは。名人は中国の歴史などをお調べになっているから、故事にならった言葉などが出てきましてね。おっしゃられたことはその通りで、私が質問しても答えてくれなかった。読めないのですよ。(笑)私の木村名人の思い出といいますと、まず小学校4,5年の時ですが、将棋大会に優勝して頭を撫でられて、「頑張りなさい」と言われました。それが強烈な印象ですね。もう一つ、私が奨励会の時に、引退された名人と二上七段(当時)の対局があって記録係を務めたのですが、その折に「君は誰の弟子だ」と訊かれました。「土居先生です」と答えたのですが、そしたら「人様に自分の師匠を言うときは、土居です、でいい」と怒られた。ですから誉められたことと怒られたことがありまして。(笑)江戸っ子でしてね、しゃべる口調が私と似てます。

小杉 共通していますよ。

大内 歯切れがいいですね。江戸っ子らしく見栄っ張りで、その見栄っ張りのところが現在の将棋界の土台になっていると思います。例えば相撲も桝を持っていたりしてね。収入を全部将棋の社会的格上げのために費やしたのでしょう。僕は非常に尊敬しています。

(中略)

金子 大内先生の修行時代に辛かったことというと、どのようなことでしたか。

大内『僕は楽天的な方で、それほど辛かった思い出はないのですが、強いて言えば三段から四段になる時です。3年ちょっとかかりましたね。現在よりもはるかに厳しい予備クラス制度というのがありましたから。これは東京と大阪のそれぞれの奨励会で三段リーグを行い、優勝者同士の決戦によって勝者が一人だけ四段になれるものでした。例えば11勝1敗の成績をあげても、12連勝の人がいればその年は駄目だというわけで、実に過酷な制度です。その頃は、将棋連盟というのは随分みみっちい制度を作るな、と思ってましたよ。つまり、才能があって強い人はどんどん上がれる制度にするのが本当で、こんなことではいまに将棋界が滅びてしまう、というわけです。で、六段になって奨励会幹事になった時、亡くなった山田道美さんと二人で改革しました。9勝3敗とか12勝4敗とか、7割5分以上の勝率をあげれば昇級しても不思議ではなかろうとの考えのもとにね。それで今、奨励会員が百何十人にもなりました。僕らの時は2、30人でしたよ。ピラミッド形というか、三角形の底辺の拡がりが大きければ大きいほど、その社会は脚光を浴びるのですから。

(中略)

金子 昭和50年の名人戦では大内先生が中原名人に挑戦されて、最後、新名人誕生間違いなし、という局面になりましたね。それを落としてしまったわけですが、時間が経った現在の感想はどのようでしょうか。

大内 あれから人生が狂っちゃいましたよ。(笑)運命論者ではないのですが、人生というのははじめから決まっているのではないか、との気持ちにあの頃なりましたよ。ゴルフで言えば、目をつぶっても入る10センチのパットをその時に限って失敗したわけで、こういうのは実力とか何とかではない別の何かの作用ではないか。こう思ってちょっとぞっとしました。

小杉 関根十三世名人以降、木村、塚田、升田、大山、中原、加藤、谷川、各氏それぞれはじめから名人になることが決まっていた……。

大内 そう、運命的にね。雷電為右衛門があれほど強くても横綱になれなかった……。

(中略)

大内 名人の交代劇というのは、結果から見るといとも簡単に行われたようでも、内容は実にドラマチックですよ。大山さんが中原さんに奪られた時も、精密機械と言われた大山さんが終盤でとんでもない錯覚をしていました。あの大山さんが、と考えると、将棋の技術では割り出せないものを感じます。またそのシリーズでは、最後の二番、何故か中原さんが普段指さない振り飛車をやった。

金子 私もよく憶えておりますが、最終局は定跡書に書いてある通りの形になりましたね。私達アマチュアから言えば、中原さんは居飛車で勝てなくて、たまたま振り飛車にしたら勝った、との感じを持ちました。

大内 そうそう。得意な居飛車を止めて振り飛車で名人戦を戦う、というのはちょっと考えられないでしょ。非常に無欲で、今回は勉強させていただくという気持ちで指していたのだと想うのですが、それによって大山さんが転んでしまった。しかも大錯覚で。これは将棋界の奇跡ではないでしょうか。宗教の方を見れば、空海にしろ日蓮にしろ、キリスト、釈迦にしろ、皆奇跡で人を救ったり国を動かしたりしています。同様に、将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします。

(中略)

小杉 木村名人の読書好きは有名ですね。一方、大山名人や中原名人はその道一筋ではないでしょうか。

大内 そういうところがありますね。その一筋が偉さですよ。宗教で言えば、煩悩を断ち切って修行にひたすら邁進するわけです。すべて煩悩との闘いでしょうが、これに打ち勝つのが大変なことで、打ち勝った人がその道で一流になっていますね。その点僕は落伍者です。

金子 そんなことはありませんよ。ところで、ゴルフの集中力も将棋のそれも突き詰めれば同じことではないでしょうか。

大内 似てる部分もありますが、将棋とゴルフは異質なものでしょうね。ゴルフの集中力は一時的なものですが、将棋はトータルなものですし、それにゴルフの明るさに較べて将棋は陰湿ですよ。

金子 ゴルフも集中している状態だと、長いパットが入ったりします。局面に埋没している時に好手を発見するみたいで……。

大内 もちろん共通する部分はあります。僕も山に登りますが、山はもっと将棋に似ていますよ。登っている時には様々な雑念が頭を掠めて行きます。頭の中に去来することを考えながら登って行くわけで、そこに昔の修験者が山に登るということの哲学もあったのではないでしょうか。ゴルフに哲学はありませんね。逆に何も考えさせないスポーツがゴルフのわけで、そこにゴルフの良さがある。将棋では、専門家なら局面を一目見てパッとわかるのですが、そこでいろんなことを考え、大長考して悪手を指すことがある。ノータイムで好手を指すのがゴルフの世界で、長考してポカをするのが将棋。

(中略)

大内 集中力という物事を煎じ詰めるようなイメージですが、本当は「無」という状態だと思います。相撲取りが大技を放って勝った後アナウンサーに、あそこでどうしましたか、とインタビューを受けて、いやあ、何も覚えていません、と答えることがよくありますが、あれですね。これは身体に備わっているものが、いざという時に出てくるわけで、普段の生活や修行によるものです。人間的なことは別にして、こと将棋ということでは、こういうことをずうっとやり遂げている大山さんや中原さん、若手では田中寅彦君みたいな行き方が一番素晴らしいのでしょうね。その点僕は野次馬で駄目なのですよ。

(中略)

金子 最近穴熊はどうですか。

大内 少ないですよ。西村さん、剱持さん、また居飛車穴熊では田中寅ちゃんとか、大勢穴熊をする人が出て来ましたから。こうなっては他のことをした方がいい。(笑)ただ、僕は穴熊が好きでやったわけではありません。以前は振り飛車は大野(故人・九段)の専売特許でした。そこに松田(九段)流ツノ銀中飛車が出て、あとの人はまず居飛車しか指しませんでした。腰掛け銀が全盛の時代でね。そんな時、大山、升田両名人が振り飛車をやり出した。強い人がやるから振り飛車の勝率が上がります。そうなると、それに対抗して居飛車の新戦法が登場してきました。5七銀左とか玉頭位取りとかね。で、玉頭位取りは美濃囲いに強いことが判って来まして、今度は振り飛車側が穴熊という新対策を採用するようになった。技術の進歩というのはこのように相対的なものです。そして振り飛車穴熊を居飛車が負かそうと、左美濃とか居飛車穴熊が出て来た。今はそういう時代です。

金子 穴熊はしなくても、やはり振り飛車が多いですか。

大内 多いですね。一つ大野先生の言葉で、印象深いものがあります。僕が記録係を務めていた時に聞いたのですが、俺は振り飛車だと思われているが矢倉だってやるよ、しかし家を出る時に”大野流三間飛車で勝ってください”とのファンレターを読むと、どうも居飛車はできん、とね。これはすごいプロ根性です。感動しましたよ。僕が飛車を振る理由の中には、大野先生に続く振り飛車党がいなければ駄目だ、との気持ちもだいぶあるのです。僕だって矢倉も他の戦法もできますよ。(笑)それと、修行時代に松田先生に一番よく教わりましたから、これも大きな要素ですね。

(以下略)

* * * * *

対談をしたい希望の棋士名を書いて読者が対談応募をする企画。

小杉さんは元小学校校長、金子さんは繭生糸問屋を経営。

* * * * *

大内延介九段が奨励会時代に「人様に自分の師匠を言うときは、土居です、でいい」と木村義雄十四世名人に叱られたことは、4月7日のブログ記事でも取り上げている。

木村義雄十四世名人「酒が好きで、女が好きで、バクチが好きなら、最低でも八段になれる」

* * * * *

「六段になって奨励会幹事になった時、亡くなった山田道美さんと二人で改革しました。9勝3敗とか12勝4敗とか、7割5分以上の勝率をあげれば昇級しても不思議ではなかろうとの考えのもとにね」

この対談は、現在の三段リーグの制度(1987年度から)ができる前のこと。

本当は、この大内・山田方式が続けば良かったのだろうが、奨励会員の人数が増えるとともに四段昇段者が更に増えることが予想され、財政面から三段リーグに変わったのだと考えられる。

(大内・山田方式だった時代の四段昇段者の人数)

  • 1974年度 3人
  • 1975年度 8人
  • 1976年度 7人
  • 1977年度 1人
  • 1978年度 4人
  • 1979年度 4人
  • 1980年度 8人
  • 1981年度 5人
  • 1982年度 5人
  • 1983年度 4人
  • 1984年度 6人
  • 1985年度 6人
  • 1986年度 7人(5月の森内俊之四段を入れると8人)

* * * * *

「ゴルフで言えば、目をつぶっても入る10センチのパットをその時に限って失敗したわけで、こういうのは実力とか何とかではない別の何かの作用ではないか。こう思ってちょっとぞっとしました」

ゴルフの世界で「オーガスタには魔物がいる」という言葉があるように、「名人戦には魔物がいる」ということができるのだろう。

「将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします」

名人に挑戦した棋士だからこその実感。

* * * * *

振り飛車名人・大野源一九段は、戦前は居飛車を中心に指していた。居飛車で八段になっている。

戦後、持ち時間が短縮されたのを機会に、序盤に時間を使わなくて済む振り飛車を指すようになった。

江戸時代以来、振り飛車は受けに徹して相手が間違うのを待つ消極的な戦法だったが、大野九段は独自の工夫を加えて「攻める振り飛車」を確立した。

「”大野流三間飛車で勝ってください”とのファンレターを読むと、どうも居飛車はできん」

中学生の時、地元紙は最強者決定戦(棋王戦の前身)を掲載していた。

待ちに待った大野八段(当時)が紙面に登場した時のこと。

大野八段先手(後手は板谷進七段・当時)で、▲7六歩△3四歩▲6六歩△4二玉

すると大野八段はなんと▲2六歩。

板谷七段が振り飛車と決め打ちして△4二玉と早く上がったのが、大野八段の反骨精神を燃え上がらせたのだろう。急遽居飛車にしたのだった。

大野ファンである私は、全身から血の気が引くような感じがした。

まあ、この対局を大野八段が勝てば、次は振り飛車にしてくれるだろう、と思って毎日観戦記を見ていたのだが、結果は大野八段の負け……

かなり落ち込んだ思い出がある。

”大野流三間飛車で勝ってください”というファンレターを出す人の気持ちが本当によくわかる。