「インタビュー・対談」カテゴリーアーカイブ

塚田泰明七段(当時)「実は僕はフジテレビに来るのは二度目なんです。5つの時のピンポンパンと今日」

将棋マガジン1987年9月号、「夢の対談 塚田泰明VS国生さゆり」より。

国生 本をお書きになったんですか?(と『攻めっ気100%』を手に取り、ページをパラパラとめくる)

塚田 ええ。

国生 これは、どういう本なんですか?

塚田 将棋の本だから、あまりわからないと思うんですが、まあ、そのー、いわゆる将棋の本ですね、やっぱり(笑)。ただ、将棋のことだけじゃなくて、僕の修行時代に書いたものなんかがのっていまして、今は七段だから比較的いい状態なんですが、その頃の抜け出さなきゃ駄目という苦しい立場で書いたものには愛着がありますね。よかったらそっちの方を重点的に読んで頂ければと……。

国生 あらっ。ピンポンパンに出てたんですか?のってますよ(笑)。

塚田 はっは。実は僕はフジテレビに来るのは二度目なんです。5つの時のピンポンパンと今度(笑)。

国生 へえー、そうなんだ。私、見てたんですよ、大好きで。

塚田 えっ、いくつぐらいの時?

国生 3つぐらいかな。

塚田 ということは、僕が5歳ぐらいだから、国生さんに見られていた可能性が。僕の方が、テレビデビューは早いんだ(笑)。

(以下略)

* * * * *

この頃の将棋マガジンでは、高橋道雄王位(当時)と斉藤由貴さんの対談もあり、塚田泰明七段(当時)と国生さゆりさんの対談はその第2弾で、塚田泰明七段(当時)が王座を獲得する少し前のタイミング。

アイドル絶頂期だった頃の国生さゆりさんが登場したのだからすごい。

当時、毎日新聞の将棋担当であった加古明光記者が芸能も担当しており(日本レコード大賞選考委員でもあった)、そのようなルートでこれらの対談が実現したと書かれている。

* * * * *

フジテレビが台場に移転する前の河田町にあった時代。

『ママとあそぼう!ピンポンパン』は1966年から1982年まで放送された子供向け番組。

NHKの『おかあさんといっしょ』、日本テレビ系の『ロンパールーム』とともに、当時の三大子供番組と言ってもいいだろう。

塚田泰明九段が出演した5歳の時は、有名な「ピンポンパン体操」がまだできていなかった頃。

お姉さん役は初代の渡辺直子さんだった。

* * * * *

『ママとあそぼう!ピンポンパン』は高校生の頃に夕方の再放送をよく見ていた。

二代目お姉さんの石毛恭子さんのファンだったからだ…

 

「僕がAクラスにいようがBに落ちようが、そんなことを知らない人のほうが一億人以上です」

近代将棋1983年1月号、「新春放談 棋界よもやま話 王位 内藤國雄 VS 推理作家 斎藤栄」より。

楽しいなと自己暗示

斎藤 内藤さんや米長さんは、指しながら将棋を楽しんでいるな、という感じがするのですがいかがでしょう。

内藤 僕の場合は「将棋楽しいな」と自分に暗示をかけているところがあります。しんどい、苦しいと思えば何でも苦しいですよ。歌を歌うにしても、しんどいと思えば本当にしんどい。ライトは当たるし、後ろの楽団はやかましいし、頭下げにゃならんしね。だけど、自分は小さい頃から歌が好きだった、聞いてくれる人がいる、ありがたいな楽しいな、とこう思うようにします。将棋も同じで、明日は対局か、一日将棋だけ考えていられる、ああ楽しいなとね。

斎藤 なるほど。それはいいですね。

内藤 その道一筋ということを日本人は尊びますが、一筋であろうと何筋であろうとようするに内容が問題だと思います。一筋でやっていると、特に将棋などは、自分の世界が一番厳しいとつい思いがちなのですよね。サラリーマンや商人は楽でいい、自分のやってることがいかにも大変だと考えてしまうのです。しかし実際に他のことをやってみると、何でも大変だということが分かります。

斎藤 その意味では、他の世界に足を踏み入れるのは本当に良い経験になりますね。もっとも、その道一筋でやっている人は、他の世界も大変なのだろうな、との推量が働かなければいけないのでしょうけれど。

内藤 我々の仲間にも、一芸に秀でた者は全てに通じるなんて言う人がいて、それは自分で言ってはいかん、いうて笑ったことがあります。(笑)気がいいんですね。

普及について

斎藤 僕は本誌に「天野宗歩」を連載しているのですが、今年度は盲人棋客、石本検校の話からスタートする予定です。それにちなんで思うのですが、タイトル戦の一つに盤無し棋戦を設けたらどうでしょうか。プロなら誰だって目隠し将棋は指せる。この点は碁と違って将棋の特権です。これをやったらかなり迫力が出て面白いと思うのですが、可能性はどうでしょう。

内藤 やるとすればテレビでしょうね。別室で大盤解説をしながらね。しかしテレビの新棋戦についてはスポンサーを捉まえるのが難しいですね。僕は五年前に澤之鶴というお酒のコマーシャルを一年間やりました。その時、将棋のスポンサーになりませんかと持ち掛けたことがあります。将棋番組は区切りがあるからかけっぱなしの番組とは違う、見る人は男だからお酒の宣伝にはもってこいだ、また視聴率が低いといっても近所の将棋好きが一箇所にかたまって見ている、といった具合にね。

斎藤 なるほど、なかなかうまいですね。(笑)

内藤 しかしなかなか簡単には行きません。やはり視聴率が高くないし、将棋は男ばかりだけれど、実際に酒屋さんへ買いに行くのは奥さんであるとか言ってね。(笑)ですから斎藤さんもおっしゃっていましたが、これからの普及には女性が欠かせないでしょうね。

斎藤 まさにそうです。これまで将棋界はずいぶん隆盛してきましたが、この調子が続くわけではなく、むしろ限界にきていると思います。他の娯楽がどんどん増えているのですから。これからは女性しかありませんよ。ゴルフだって何だって女性で盛り上ってきましたし。それでその方法ですが、何といっても小学生か中学生の若い女の子を、連盟が出費しても育てる必要があると思います。特に肝腎なのは一人のヒロインを作ることです。ヒロインが居れば女性は自然に増える、それにつれて男性も増えます。百人の主婦よりも若くて強い一人のヒロインを育てることが、普及に何よりも効果的でしょう。

内藤 現在、女流プロは奨励会と別ものになっていますが、一緒にして鍛えるわけですか。

斎藤 もちろんそうです。奨励会に入ってやっていれば、朱に混じわれば赤くなる、というわけで強くなるはずです。今のやり方では伸びませんよ。普及という観点からすれば、一人の一人前の女性棋士を育てることは十人の男性棋士を誕生させることに匹敵します。今は将棋が盛んになって安心している面がある、が本当は頭打ちになっているのではないかと心配なのです。

内藤 将棋連盟の観客動員力をもっとつけなくては駄目ですね。たとえば東京、大阪で月に一度将棋の催しをして、二千円ぐらいの入場券で千名分の客席が八割がた埋まるようになれば大したものですが、今は何年に一度の有料の催しで人を集めるのが大ごとですもの。

斎藤 大衆化という点で遅れをとっていますね。

内藤 僕が八年前から脱線したことの一つには、将棋に関心を持っている人が意外に少いということがあります。ノイローゼ寸前までカリカリやっていっていても、世間はどうということはない。僕がAクラスにいようがBに落ちようが、そんなことを知らない人のほうが一億人以上です。また十年前は対局料も格段と安かった。それでも頑張らねばとの使命感でやってきましたが、そこへレコード会社から声が掛かって。

斎藤 なるほど、そうでしたか。僕は内藤さんのように将棋界以外の世界を体験されたのは貴重だと思います。僕自身二足の草鞋でしたからね。これは人間としての広がりを持つうえで非常にプラスです。そしてそういうあなたがカムバックされてお目出度い。こういう人にどんどん発言して貰いたいですね。

進歩

内藤 僕は八年間ほとんど棋譜を並べませんでした。A級の座を保持しようと思ったら一日四時間のトレーニングが必要だとか言われますが、そういうことも全くしませんでした。それが去年から、よしやろうという気になって、今年の正月、地元の神戸新聞、デイリースポーツ、関西テレビ、NHKの四つの報道機関に「今年はタイトルを取ります」と宣言しました。というのは、去年の暮れ頃から人の将棋の棋譜を並べ出したのですが、八年前と較べて少しも進歩していないのです。それだけ将棋は難しいのですね。これならいける、と思いました。芸術という言葉を使うのは好きではないのですが、将棋には芸術的なところがある。科学の進歩というのは実にめざましいですね。どんどん進む一方です。ところが芸術には退歩したり止まったりするところがある。将棋にもそんな要素があるのかもしれません。

斎藤 科学は進歩しすぎて悪い、かえって人間そのものを壊しているところがある。それは別にして、将棋大辞典のようなものを連盟で作って貰えないものでしょうか。現在、将棋の本はたくさん出版されていて、定跡も多くの人によって様々な解説がほどこされています。しかし系統的なものがない。A八段はこう書いている、B九段はこう言っているといった状態にしておかずに、プロ棋士達が研究班を組み、時間を割いて、本当の意味の研究書を作って欲しい。東京と大阪に新将棋会館が開館した今、容れ物が出来上ったのだから、次はそこに入れる中味の仕事に着手しなければいけない。これにて形勢互角、一局の将棋という結論の部分があってかまわない、とにかく昭和58年なら58年現在、プロの知能を集めてこの局面はこう結論が出ている、ということを調べられる大辞典が欲しいのです。プロが驚くようなものがね。

内藤 ぶ厚いものが何冊も並ぶでしょうね。たとえば今期王位戦の二局目で、僕は横歩取りの中の一番厳しいのをやりました。これについては、アマチュアの沢田多喜男さんが「横歩取りは生きている」という本を書いています。中味の濃い読みごたえのある本ですが、それなどを見ても、あの限定された一番単純な横歩取り4五角の戦法の中にいくらでも手がある。新手の可能性がまだまだあるのです。ですから将棋大辞典はそれこそ非常な大冊になるでしょうね。

斎藤 そうなるでしょう。しかしぜひやって欲しい。言ってみれば科学的な事業ですね。

内藤 今の将棋は科学的というより勝負本意の感じです。辛くてドロドロしているような気がします。一方、詰将棋は科学的と言うのか、ずいぶん進歩していますよ。

斎藤 詰将棋は、大がかりなものは別として、五手か七手から十五手くらいの短編は限界がないものでしょうか。

内藤 それはあるでしょう。たとえば端に桂、香が配置されている実戦型などは真新しいものはほとんどなくて、変化、紛れ、誘い手の配分などでどう表現するかという問題になっています。推理小説の方でも密室殺人事件などで同じことが言えませんか。

斎藤 密室の場合は建物の構造がどんどん変って行きますから、それに応じて新手筋が出てくるということがあります。

内藤 なるほど。私は年間、三百題ほど発表していますが、やはり本当の新題というのは無理ですね。職場で働いている人が気分転換に頭を捻ってくれればそれでいいのです。時には難しいものも出題しますが、普段はそういうふうにちょっとしたパズルを楽しんで貰えば、と思っています。

斎藤 短編詰将棋などはコンピューターに記憶させておいて、発表済みであるか否かを簡単にチェックできるようにしておくとよいでしょうね。詰将棋はミステリー小説に似ていますよ。いかがですか内藤さん、やってみたら。(笑)

内藤 やってみたいですね。完全犯罪の可能性はあると思います。しかしそれをどうやって膨らまして小説にするかが難しい。ドラマを見ていると時々結末のないのがありますが、あれはずるいですよ。あれなら僕にも書ける気がする。

斎藤 人生というのは実は終りも始まりもない。僕らが産まれた時からすでに始っているし、死んだ後もまだ続いているのですから。その意味で終りのない小説というのを提唱した作家もいましたが、やはりそういうのはうけないですね。皆が求めているのは現実ではなくてロマンですからね。まだ続きがあるかもしれませんがここで一応筆を置きます、というのはやはり感動しませんよ。

観戦記

内藤 斎藤さんは将棋の観戦記をお書きになりますが、観戦記に関してはどのような御意見をお持ちですか。

斎藤 私達作家が書く観戦記というのは観戦記者のものとちょっと違うのですが、その辺を誤解されがちですね。観戦記者というのは観戦記を専門とするそれなりのプロであって、指し手の解説を十分にするわけです。僕らは将棋には素人であるから深いヨミがない、と同時に深いヨミに触れて書こうとも思っていません。私が書こうとするのは人間のドラマの部分です。タイトル戦の中で見せる、棋士達の様々な強さ弱さなどね。感想戦での手の解説ばかり書いても仕方がないですもの。書くとすれば、実際にはこの手を指したけれども、もう一つ考えた手があった、それは何だったか、これを考えさせるようにするとか。まあいろいろ工夫するわけです。一つには、書いている本人の人柄などが出るようにもする。

内藤 新聞の観戦記を読む人の多くは棋譜を飛ばして読んでいるようですよ。プロの僕でも棋譜を飛ばして読むことがあるくらいです。簡単に言えば、敗因になった手、そして変った手などがあればその手が書いてあればそれでいいのでしょう。

斎藤 僕ら作家としては、対局者と自分との三人で雰囲気を作り上げているつもりでいる。観戦記者はどちらかと言えば将棋そのものを、それに対して作家は人間的な部分を書こうとするわけです。実際、将棋の指し手を知りたくて観戦記欄を読む人は少いですよ。ところで内藤さんは厄年ですか。

内藤 もう終りました。43歳ですから。

斎藤 ああそうですか。42歳の厄年というのは言ってみればスキーのジャンプですよ。踏み切りを失敗すると無様なことになりますが、うまくやれば非常に大きな飛躍へつながります。42、43歳というのは頑張れば大きく伸びられる時です。僕自身役所をやめたのが40歳で、すぐに厄年を迎えましたが、この辺の踏み切りが非常に良かったように思います。ですから内藤さんも、今年は大いに頑張って伸び伸びと躍進して欲しいと思います。

内藤 どうもありがとうございます。斎藤さんも一層御活躍してください。

* * * * *

「去年の暮れ頃から人の将棋の棋譜を並べ出したのですが、八年前と較べて少しも進歩していないのです。それだけ将棋は難しいのですね」

この辺が変わったのも羽生世代の登場以降。

序盤から神経を使う将棋へと世界が変わっていった。

先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」

* * * * *

「昭和58年なら58年現在、プロの知能を集めてこの局面はこう結論が出ている、ということを調べられる大辞典が欲しいのです」

これは、あれば便利なのだが、年に一度の発刊としても、毎日読んでも1年では読み終えることができないほど膨大なページ数になることだろう。

このようなサイトができればもっと便利だけれども、更新が非常に大変になりそう。

ある戦型に絞った「定跡最前線」のような電子書籍があって、初期費用○○○○円、年間更新費用○○○円のような課金形態で、内容に変化がある都度加筆していく方法も考えられる。

もちろん、形勢不明の局面がたくさんあって、すっきりとした読後感にはならないだろうが。

 

「将棋で負けて困るのは端的に言って僕と女房だけです」

近代将棋1983年1月号、「新春放談 棋界よもやま話 王位 内藤國雄 VS 推理作家 斎藤栄」より。

斎藤 今月はお正月号ですので、将棋よもやま話を大いにやりたいと思います。内藤さんは現在、王位、王座と絶好調ですね。これは私とすれば嬉しいことです。ところで将棋界は今、戦国時代ですね。大山、中原の安定時代が十年ほど続いたのですが、これが崩れ、タイトル保持者が分散して群雄割拠の時代になりました。これはアマチュアの立場から見て、将棋界にとって、よいことだと思えるのですが、内藤さんはプロとしてどうお考えになりますか。

内藤 大山さん、中原さんが勝つと記事も地味になります。話題提供という意味では群雄割拠の方が面白いですね。

斎藤 見る方の立場から言えば、野次馬根性かも知れないけれど、唯かが山に登るとまた他の者が追い落すといったほうが面白い。

内藤 大山さん中原さんの時代が長かったということは、二人が強いということですね。それと、あの二人にタイトルを持たしておけばよい、という心理が仲間内にある。今の世の中は役人意識で動いていると言った人がいますが、プロの内にも、大山さん、中原さんが勝つと、まあいいや、というところがある。普通は勝った者は憎まれるのですがね。僕達が挑戦者になった時も、相手が大山さん、中原さんなら負けてもいいや。という気分がどこかにある。僕自身はこれまでダブルスコア以上に負け越していますが、このような気分も一因しているようです。

斎藤 内藤さんは現在すこぶる好調の波に乗っていますね。ある雑誌にはビッグ2などと書かれたりして。(笑)内藤さんなんかにはもっと早くナンバー1を目指して欲しかったですね。

内藤 結局やる気ですね。一般には、二十歳で基礎を作り、三十歳でタイトルを取るようでないと、超一流にはなれないとされているでしょ。続いて四十歳を過ぎればいかにして力を衰えさせず、強さを持続するかという具合にね。けれども四十になろうが五十になろうが、要はやる気だと思います。

斎藤 これまで二足の草鞋を履いてきたりもしたが、今はやる気が出ている。(笑)

内藤 そうなのです。これまでの成績はとかく歌のせいにされるのですが、芸能界というのは確かに厳しいですね。たとえば月に一度ステージに立つとすると、その一度にものすごく神経を使う。歌詞を覚えたり体の調子整えたりね。むしろ本物のプロのように、一と月、北海道廻りとか九州廻りした方が楽かもしれない。普段からそうした生活の中でリズムを作れますから。僕はこの八年間、芸能界の人との付き合いばかりで、将棋仲間と飲むことはほとんどなかったのですが、将棋関係者はとかく歌をやめろ、みっともない、と言うのです。みっともないなどと歌手の人が聞けば怒りますよ。(笑)一方、歌の関係者は将棋も頑張って下さいと言う。その方が正直言って嬉しいですね。

斎藤 僕も以前二足の草鞋を履いていました。役人と小説家です。両方できるならば本当はそうしたほうがいいと思います。しかし内藤さんが歌で出たという背景には、将棋で出たから、というところがある。つまり本質はプロ棋士なので、将棋の成績は良いものを残して欲しい。ファンとしてね。

内藤 芸能界という所はなかなか広がりがありましてね。作詞家、作曲家、編曲者、レコードの宣伝関係者、レコード店、楽団の人達といったふうにね。だから一曲ヒットした時の波及がものすごい、と同時にいい加減なことをした時に迷惑を被る人がたくさんいる。一方、将棋で負けて困るのは端的に言って僕と女房だけです。(笑)その辺を知らぬ将棋関係者はごく軽く考えている。たとえば、紅白歌合戦に出場するためには、なにもペコペコ頭下げて歌わなくてもNHK杯戦に優勝すればよいのではないかと言う。これはとんでもない暴論で、紅白歌合戦に出場すればNHK杯戦に優勝させて貰える、というようなものです。

斎藤 以前僕のテレビドラマ「殺人の棋譜」で、内藤さんに名人の役で出て貰いましたね、この間あれをもう一度見なおしたのですが、あなたはカッコいいですよ。(笑)あれをファンとして、実現して欲しいと思うのです。「名人」というのは、率直に言って他のタイトルと違います。やはり歴史と伝統がありますから。将棋を知らぬ人でも、王位とか十段とかは分からなくても名人といえばすぐにピンとくる。

内藤 確かにそうですね。もっとも辞書によると名人というのは大したことがない、王位とか聖(ひじり)が最高で、名人の方は、居眠りの名人とかね。(笑)でもやはり「名人」というのは別格ですね。特に碁に較べれば将棋の名人はね。

斎藤 とにかくタイトルが分散している現状はいいですね。これがすぐに誰かに統一されずに、戦国時代が続いたほうがいい。名人戦といえば一定の人が出てきて一定の将棋、矢倉なら矢倉ばかりするというよりも、内藤さんの空中戦だの横歩取りだのと、様々な人によって様々な将棋が指されるほうが興味深い。そういう時期が来ているように思います。

アマプロ戦

斎藤 アマプロ戦の話題が大きくなってきましたね。最近ではアマ名人がA級八段を角、香、平と三連覇したりしてね。これは僕は好ましいことだと思う。こうした舞台にプロが登場することが大切、というよりそういうことがあって普通ではないでしょうか。アマプロの一体感が生まれる機縁にも、普及のためにもなりますし。

内藤 将棋人口が増えていると言われる割には一般世間での反響は少ないですよね。たとえばスナックへ入れば、野球だのボクシングだのの話題は盛んですが、将棋の話はほとんど聞きません。我々の仲間は付き合いが狭いからいつも将棋の話を耳にしていますが、外へ出ればそういうわけではありません。これは一つには、アマチュアのファンの批評の有無によると思います。テレビ将棋を見て「何だあんな手指して」といった具合に、勝手に批評するファンが出てくるほうが盛んになるでしょう。アマとプロの差が最も大きいのが将棋なのだ、と言われ続けて長いのですが、これは自慢になりません。むしろ層が薄いということの現れでしょう。実際、アマチュアは随分強くなっていますね。僕は仲間と一杯やる時にこんな話をするのです。仮にプロ側がアマ名人戦に毎年一人のプロ棋士を派遣するとします。たとえば僕でしたら神戸地区から出場するわけです。勝ち抜いて神戸代表になれば次は兵庫県大会です。これで県名人になって、全国大会に出てくる。こうした過程を経てアマ名人になれるかということです。もしアマ名人になれたら賞金五千万円出そう、そのかわりアマチュアに負けるようなら即退会だ、ということにする。そうするとプロは誰も出ませんよ。アマチュア名人になかなかなれるものではありません。プロのトップになれば、アマチュアのどの歴代名人を呼んで来ても負けはしませんが、しかしアマ名人になってみろということになれば、これは大変です。ですから沖さんだの小池さんだのというのは、あれだけの成績を残して立派だと思います。

斎藤 一番勝負となると別問題ですものね。

内藤 アマチュアのトップはこの間までプロの初段と言われ、今は五段ぐらいあるのではないかと言われています。僕はこれはどちらも正しいと思います。アマの超一流なら、プロの五、六段、あるいは七、八段と指してもいい勝負ですよ。しかしそれなら、初段で奨励会へ入って五段になってみなさいと言われたら、これは容易ではない。

斎藤 プロとアマの違いを言う時に。アマチュアなんか将棋が分かっていないと言う某八段がいます。俺達だって分からんような難しいものをアマが分かるかというわけですが、僕はこれは将棋をスポイルするものだと思います。将棋は結局は大衆娯楽でしょ、大衆がなきゃ意味がないのですよ。仮りに僕なりが自分の小説は難しくて大衆なんかには理解できないと広言するとすれば、こんなナンセンスなことはない。分かるということの意味が違うのです。深い手をヨミあえばそれはプロが優るに決まっています。けれどもだからといって、アマチュアには分からないということではない。アマも楽しめるということが大切なのでしょう。これはアマのほうにも責任がある。なにかというとプロの将棋は難しくて分からない、という言い方がよくないと思います。ところでプロもアマも参加できる棋戦は無理でしょうか。

内藤 近い将来できると思います。新聞は無理としても、週刊誌などで可能でしょう。プロの内には、アマチュアの方が得ではないかなどとやきもちを焼く人がいますが、それなら自分も出ればよい。アマの大会に賞金はよくないという声もありますが、賞品に冷蔵庫だミシンだといったって、今の世の中はもう品があまっていますしね。

(つづく)

* * * * *

「とにかくタイトルが分散している現状はいいですね。これがすぐに誰かに統一されずに、戦国時代が続いたほうがいい」

これは意見の分かれるところで、少なくとも1995年以降の羽生善治七冠フィーバー以降は時代が変わったと思う。

* * * * *

「相手が大山さん、中原さんなら負けてもいいや。という気分がどこかにある」

こう思われるようになれば歴史に名を残す棋士。

将棋の強さという信用力のみならず、人格的な要素も加わってくる。

 

升田、大山に好かれた男

将棋世界1993年8月号、炬口勝弘さんの「素顔を拝見 剱持松二八段」より。

十九年目の昇段

 早くから八段の器と謳われ、昭和48年に順調に七段になりながら、それから十九年。今年の一月中旬、七段以来、190勝目を挙げて、やっと八段昇段を決めた。

 そのお祝いの会が銀座のサッポロライオンで催されたのが四月五日。筆者は当日、出席できなかったが、来会者は150人を超え(うち棋士仲間50人余)、立錐の余地もないほどの大盛会だったと聞く。

 ちなみに読売新聞の盤側欄によれば、『”ようやく引退に間に合った。これも皆さまのおかげです”最後の一言は棋士が多かっただけに大受けだった』とある。

 今回、インタビューで高田馬場の将棋教室を訪ねたら、開口一番、飛び出したのも、晴れの祝賀会のことだった。それも、お客様に駒落ち将棋を指導しながら、当夜のスナップ写真のアルバムをめくってはこれは誰、どういう人と熱弁を振るうのであった。なんだか、こっちはお客さんに悪いような気がして尻こそばゆく落ち着かなかったが、先生は平然と喋りつづける。ちなみに教室は毎週水、金、土曜日と、第一、第三日曜日に開かれていて、この日はウイークデーの昼下がり。お客さんはたまたま一人。弟子の松本佳介三段(21)が、隣の和室で、パソコンに向かい、将棋の研究をしていた。

「ちょっと話しながらで悪いけどね、私、話しながらでも将棋はピシッとやりますから。こういうときは、私強いんですよ(笑)。こういうときの方が強い。そうそう連盟の対局のときだって、話しながらのときは強いんですよ。真剣になってくると震えてくるんですが」

 パチリと指してはその合い間に、来会者の説明をしてくれたが、すごいメンバーばかりだったのに驚かされた。

 財界のお歴々。テレビ将棋のスポンサーだった大企業の元社長や会長。そして、七段としての1勝目をあげた当時の連盟会長加藤治郎名誉九段をはじめ二上現会長、タイトルホルダー、新鋭棋士まで、関東のそうそうたる棋士が勢揃いしている。

「米長さんも挨拶で言いましたよ。升田、大山に好かれた男。こんな棋士は剱持さん以外にいない!要するに、升田さんに好かれて、大山さんに好かれるって絶対ない。この二人に好かれたのはホントに珍しいっていうか、不思議な人だって。会の後、また米ちゃんに会ったとき、あれも剱持先生の人徳です、って彼も言うわけです。ホントにね、あれだけメンバー集めるったら、まず集まらないですよ。ほとんどの人が来てるわけですよ。あれ来てないのはトップクラスじゃないですからね(笑)。二上会長も挨拶で、私のときはこんなに棋士が来てくれるかどうかなんてね。

 名人戦の始まる一週間前です。米長さん、気合が凄いときだったんですよ。ところが椿事が起こってね。うちの教室のと、稽古先の若いのとがね、十人ぐらいで米長君を囲んでトグロを巻いてると思ったら、米長名人バンザイ!ってやるんですよ。中原名人もいるのにさ。升酒持ってね。中原名人がいなけりゃいいけどね、私はビックリして飛んで行ったですよ。なんてこと言ってくれるんだ!って。米長さんの顔みたら、さすがにバツ悪そうだったですけどね。あれはちょっとマズかったですよ。まあそれだけ米ちゃん気合いが入ってたというわけでしょうけどね」

 二人は翌日、竜王戦を戦い、米長がな中原得意の5九金戦法を逆に用いたが敗れた。さらにその週、全日プロで新鋭深浦四段にも敗れている。ただし、名人戦は、ご承知の通り、4-0で中原を破り、悲願の名人を奪取した。

力道山と升田幸三と

昭和九年七月二十一日、東京都に生まれたが、育ったのは母親の里がある茨城県。石岡市から入ったところ、現在、自衛隊百里基地のある小川町であった。荒巻三之八段に入門したきっかけは、「田舎へ教えに来てた。当時はもう食うにも困って、だから、ウチの村へ来ちゃ、将棋やっちゃ、米貰って帰ったりしてたもんで」

 昭和三十一年四段。前年には、賀集、芹沢、関屋、大村、大原の五人が四段になっていた。「これじゃ堪らないってんで、総会で予 備クラス作られたんです。そのために私は三回以上損してる。なければ、もっと早く抜けられたんですよ。まあ九勝一敗でポンと抜けたけどね。その予備クラスの第一期の卒業生が私なんです」

 順位戦は、昭和三十二年度の第十二期から参加している。同期は佐藤大五郎(21)。剱持は二十三歳だった。特筆すべきは、この期、B1の加藤一二三七段が、四年連続の昇級昇段の快記録で、十八歳という史上最年少の若さで、A級八段入りしたこと。もう遠い昔のことのように思える。剱持八段も、今では五本の指に入る最古参組の棋士。

(中略)

 五段になったのが昭和三十七年と、五年かかっているが、翌三十八年にはB2六段と、連続昇級昇段している。四段の最後の年、三十六年には、東西対抗勝継戦で六人抜き(優勝)しているから、この頃が、最も脂が乗っていた時期といえるかもしれない。

「力道山とね、将棋世界にね、載ったことあるんですよ。私と写真撮ってね。三段の免状出したとき、グラビアですよ。私が二十二ですからね、当時。今、五十九だから、三十六年ぐらい前。十一月号かな、多分、十一月。写真バーンと載ってます。四段になって、先妻と一緒になったときでした」

 力道山といえば時代のヒーローだった。そして若き剱持八段も光り輝いていた。それで、本誌のバックナンバーをひもといたが、三十二、三年のには載っていない。実は五年の違いで、昭和三十七年だった。あえてデテールにこだわるのは、人間の記憶のあいまいさ、いい加減さを検証しておきたかったからに外ならない。記憶力抜群とされる棋士でさえそうなのである。

四段C2入りの年でなく、五段C1入りの年だった。二十八歳のとき。ただし十一月号というのだけはドンピシャだった。

 ”棋士とファン”という一頁の連載グラビアで、せっかくだから以下に引用させていただく。

―今年C1入りした新鋭剣持松寿五段はプロレス好き。またプロレスの王者力道山さんも将棋ファンということで三菱電機の大久保謙氏の紹介で、プロレスを見たり、将棋を指したりとなった仲。このほど力道山さんに三段が贈られた。テレビ将棋にゲストとして出ると大ハリキリ。右から力道山さん、剣持五段、大久保謙氏。

「凄い話があるんですよ。あるとき升田幸三の写真を力道山に見せたら、こいつはバケモンだ!って言ってね。あっそうだ、力道山から聞いた話だけど、東急のある人の結婚式に升田さんが行ってね、女の方が偉い立場にいて、旦那の方に力がない、それでみんな来賓が新婦ばかり褒めるわけです。そのときに。升田さんがね、東急の五島、お前はなんだとね、始まっちゃったんですよ。世話になる女の方を褒めるとは何事だ!当時の超一流の政・財界の大物連中、もうみんなびっくりしちゃってね。力道山も、オレなんか口も利けないような人をコケにして凄かった。それまでガヤガヤ騒いでたのが、シーンとなったって。そのときに、三菱電機の社長が、君、いい男だ、凄い奴だ、私も将棋習いたいということになって、私が先生で行くようになったわけです。升田さんのところには、当時私が出入りしてましたんで、まだ二十歳か二十一ぐらいでしたかね。升田さんは、今のと一緒になったときの仲人なんですよ」

 指導将棋が終わると、丁寧な解説が始まった。『一気に希望段位まで。責任指導』という教室のキャッチフレーズ通りで、最初にながら指導を心配したのが、まったくの杞憂だったのを知ってほっとした。さすがプロだと思った。

 感想戦が終わると、今度は弟子の松本三段(他に弟子は弟の秀介初段、野島崇広4級がいる)が平手で稽古を変わった。

縁の下の力持ち

 剱持八段は、連盟の手合係を長く務め、その後、昭和五十年から五十一年にかけては、将棋会館建設委員会で、募金事業にあたった。しかし、その前に、テレビ東京の早指し戦創設にも大きな功績をしている。

「私は育ての親みたいなもんです。競艇と大倉屋という不動産屋を関屋君(喜代作六段)が最初にスポンサーとして決めたんだけど、それだけだと要するにイメージがちょっとということでね、テレビ局も困るわけです。難航してたんですよそれで私が一流企業の三菱電機の大久保さんを説得して、直談判でね、決まった
のはテレビ始まる一週間前でしたよ。三菱が入ってくれたんで、はじめて12ch(東京12チャンネル=現在のテレビ東京)の将棋番組ができたんです。私は、その後で12chの重役が接待してくれましてね、タキロン(やはりスポンサー)の会長と、料理屋でご馳走になりましたよ。

 とにかく、私のお弟子さんが、随分テレビのスポンサーになってくれて、一時は、あそこの12chの船舶振興会以外のスポンサー全部、私が揃えたんです。三菱電機と、それからタキロン、呉羽化学。僕は九社会っていうね、会があるんですよ。タキロンから始まりまして、どんどん増えて、その中にサッポロが入ってるんです。みんな教えに行ってたんです。今度のパーティーにはみんな来てくれましたがね。

 とにかく、三菱電機のお蔭でね、今のテレビ将棋があるというようなもんですよ、うん。私はね、縁の下の力持ちをやりすぎちゃったんですよ。うん。だから将棋これだけ勝てなくなって、あれやってなきゃあね、私だってもっと上へ行ってたんですけどね、ま、これも運命でね。

 昔、西武デパートで将棋まつりやってたでしょう。あれも私がやったんです。当時は東急一本だったんですが、おかしいんじゃないか、他のデパートでやってもいいんじゃないかという話で、私が西武をまとめたんです。池袋の。東急の権限がすごかったんです。私が作って、それで連盟にあげたんですよ。ほんとは自分でやってりゃ、私のもんなんです。うん。でも三年ぐらいで終わっちゃった」

 会館建設でも口八丁手八丁、敏腕を振るった。

「当時、私も連盟の事務員やってた。手合と営業の方やってたんですけど、それで会館の方やってくれないかということで、会館部っていうの作ったんですよ。建設委員のメンバーには総理大臣の福田赴夫さんも名を連ねているんだけど、千日手模様になって、一年ぐらい金が集まんなかったんですよ。当時の寄附行為っていうのはね、銀行と鉄鋼と電力の三つの団体がね、OKしないとなかなか寄附が集まんなかったんですよ。それで大山さんが、なんとか三菱電機をね、説得してくれないかっていう話でね、困るからってんで。それで名人を連れて行ったわけです。

 そしたら三菱重工と電機で七百万、金が入ったわけですよ。暮れにね。そしたら正月明けにはどんどん金が集まっちゃってね、五月にはね、七千万ぐらい余っちゃったんですよ、あれだけ金が集まんなかったのにね。

 だから大山さんは私には頭はね、上んないんですよ。大山さん立ててるけど、内助の功は私ですよ。升田幸三さんが、もともと三菱系列の先生だったんですが、あれは剱持がやったんで大山名人じゃないって言うんですよ。それで、升田さんと大山さんが喧嘩になっちゃったこともあるんですよ。大山さん、升田さんのウチへ乗り込んで行ったんですよ。こんなこと喋るとまずいかな」

 もはや二人ともこの世になく、裏をとるのも不可能だが、とにかく会館建設に奔走したことは否めない。

「先生、スミマセン。終わりました」

 次の間で対局していた生徒さんから声が掛かった。

「あっ、どうもどうも。負けちゃった?」

「でも結構いい将棋でしたよ」

 と青年は答えた。

「うん。だんだん強くなる、あなたは。あのね、将棋に対する情熱がいいから。うん。まあ、あんまり負けるの気にしないで、もう少しやれば、必ずね、定跡覚えたら勝てるようになるから。だから定跡こつこつ覚えなさいよ。力は、力は大丈夫、うん」

幸せ?

「あれっ、どこまで話したかな」

 青年が帰った後、先生は教室の厳しさを語り始めた。

「華やかなりし頃もあったけど、ま、ここへ来てからじゃちょっとみじめな話になっちゃうからね。やっぱりこのバブルでお客さん減りましたよ。薄利多売ですからね、人数が減るとね。私ほど安くやってるのいないですよ。今のままだと将棋界つぶれちゃう。今の状態、勝負勝負でしょう。みんな研究してるからね。きのうもね、中原名人と話したんだけど、あれだけ名人になった人でもね、どっかへ行くとかサービスする気とかにならないって。一日一日が勝負で必死に勉強しなきゃ駄目だと。あの辺がそう言うんですからね。そんなに勝負だけきつく争ってもね、ファンが減っていけば、収入減るんですよ。だから、トーナメントプロはトーナメントプロ、レッスンブロはレッスンプ、分かれてね、それで将棋界をもり立てなきゃ」

 もう十年も前になるが、かつて教室があった新宿副都心のマンションに、佐藤大五郎九段に連れられて訪ねたことがある。16坪。52.48ヘーベーの2DKだった。夫人や親戚の反対を押し切り借金して三千万で購入したということだったが、それから何年かして会ったときには、「二億以下じゃ売らない」とすごい鼻息だった。驚き、そしてうらやましく思ったものだ。変哲もないマンションだが、都庁(予定地ー当時)の隣というロケーションがよかった。

「三千万で買ったやつがね、四年後には三億五千万になったんですよ。ただ売ると、儲けの85%が税制上税金で持っていかれますから、三千万もないんだよね。いくらも残んない(笑)。で、五年経つのを待ったわけ。一年待ったために、いくらになったと思います?八千万ですよ。この話は面白い話ですよ。だけど私はもう株のために億の借金をしちゃってたから、なんとしても返さなくっちゃいけない。でも役者なんですよ(得意気な顔をして言った)。私は、とにかく焦った顔一切しないで、とにかく二億四千万で売ったんだから。坪1500万で16坪、ピッタリでしょう(電卓を叩いて数字を見せてくれた)。神業なんですよ。売れなければ、もうメチャメチャになってたところです。四億ぐらいの株やってましたからね。一日の勝負がね、百万単位でしたよ。暴落で、一日に八百万やられたこともあります。まあ、そういう面白い話が、まだまだいっぱいあるんですけどね、キリキリするんですよ、対局してても。いや、私はね、あんまりお金欲しくないんですけどね」

 マンションの売り上げで大儲けしたと思ったら、どうやら株では大損をしたらしい。さしもの強気でなる八段も、さすがにダメージが大きく、某棋士と飲みながら、ボロボロ涙を流したという噂も耳にしたことがある。

 いずれにせよ、人間的な希有な棋士である。ゴルフもうまいが、歌もうまい。しかも、前夫人がママの店へ行って歌うのである。以下は田舎の同級生の談。

「私は将棋は指さないから分りませんが、ウチの店にきた、”おゆき”を歌ってる棋士、なんて名でしたか、彼も変わってるからな、と言って笑ってましたよ。とにかくヅケヅケ言う。大法螺を吹く。今回の祝賀会、田舎の同級生にも声を掛けたんだけど、敬遠するのが多くて。私みたいに、長く付き合った人は、その良さが分るんですがね。なんせ、同窓会でも、この中で千人斬りやったのは俺ぐらいだろうなんて威張ったりするもんだからね」

 幸せな人だと思う。

 去年の夏、大山十五世名人の通夜の日、たまたま駅から斎場まで一緒に歩いたものだったが、そのときの八段のセリフが、今でも奇妙に耳の奥に残っている。「大山さん、幸せだったのだろうか、そりゃ間違いなく歴史に残る巨人だけれど、人間としてね」

 いろんな棋士がいて、将棋界は、やはり面白いなと思う。

* * * * *

このブログには剱持松二九段の記事がいろいろとある。

それほど個性的で面白い棋士だったということになる。

この炬口勝弘さんの記事も、今までに出てきたエピソードなどの裏話が語られていて、やはり面白い。

* * * * *

下の写真は、同じ記事に載っていた炬口勝弘さん撮影の写真。

二上達也九段が歌って、西村一義九段が手をたたいて、剱持松二八段(当時)がカウンターの中でマラカスを振る。

たまらなく貴重な写真だ。

* * * * *

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1)

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(2)

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(最終回)

剱持松二九段逝去

剱持松二四段(当時)と力道山アマ三段

人情の教室

愛しきK七段(当時)

怒涛の剱持松二七段(当時)

 

 

福崎文吾八段(当時)「あるような、ないような。ないかなと思ったらあるし、あるかなと思ったら、たいしてない」

将棋世界1994年1月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 福崎文吾八段」より。

戦意がすべて

 米長邦雄に挑戦した十段戦七番勝負は、皆さんご承知のように4-2で福崎が勝ち、タイトル初挑戦で十段位を獲得した。四勝のうち振り飛車穴熊は三局で、そのすべてに勝って「福崎穴熊」の威力をまざまざと見せつけたシリーズだった。

 だが、翌年の防衛戦では、高橋道雄の挑戦を受けて四連敗という不名誉なスコアで、ビッグタイトルをあっさり手放してしまう。

 最も不可解だったのは、福崎が穴熊を一局も指さず、全局、高橋のお家芸である矢倉で通したことだ。その理由を福崎は「気分的なもの。そのときは矢倉をやりたいという心境だった」と説明した。

 ところが一昨年、王座戦で谷川浩司に挑戦したときは、いきなり振り飛車穴熊を指して、私たちを驚かせた。

 福崎は、この王座戦での穴熊採用も僕に「気分的なもの」と言い、そのあとで「谷川さんとは、穴熊でまだ決着がついてなかったですからね」と付け加えた。

 作戦は理ではなく、気分で選ぶ。これはかつて十段戦挑戦のときに語った「僕は自分の好きな手を指す」と、ほとんど同じ意味である。福崎はちっとも変わっていない。

 さて、福崎将棋とその光の部分をざっと紹介してきたけれど、ここまでは単に”昨日の夢”のおさらいでしかない。

 いま、福崎は何を考え、何を求めているのか。現在の心境と”明日の夢”を率直に語ってもらった。

 インタビューしたのは十一月十三日で三時間にも及んだ。もちろんそのすべてを再現することは不可能なので、ここではその核心部分(=勝負にかかわる内容)だけを要約して紹介する。

―福崎さんは最近よく関西将棋会館に「顔を見せますね。何か心境の変化でも?

「A級に上がれるようにと思ってね。家でゴロゴロしてたら睦美に怒られるから」

―A級昇級が当面の目標ですか。

「そうですね。ずっとA級に上がるまでの目標でしょうね。それと、相手に関係なく、タイトルがほしい」

―将棋会館に来るのはプラスですか。

「プラスといえばプラス。でも、来てない人より明らかにプラス、とは言えませんね。純粋に強くなろうと思ったら、受験勉強じゃないけど、家で棋譜並べたり、詰将棋解いたりするほうがいいんじゃないかな。だけど子供いてるし、なかなか家では難しい。ちょっとしか強くならない。だけど、そのちょっとが大事かなと思って……」

―昔と比べると、いまのほうが少しずつ強くなってると。

「どうなんですかね。強さ自体はそんなに変わってないと思うけど、強さの質が違うんですよ。昔は一本道の順をどこまでもずーっと読んでやってたけど、最近は変化に対応する指し方になってる。戦い方がガラッと変わったんです。いまは第二、第三の受けを考えたり………。だから将棋が厚くなっていると思う」

―昔の「深く読む」棋風を、そのまま通したらまずいんですか。

「通せないですね。ピッチャーが直球だけでやっていけないのと同じで、スライダーを覚えないとダメやね。いまは昔と違って、形で判断するでしょう。いちいち考え込まなくても形でわかるんですよ。直感だけで危ないところは避けるし、あらゆる点で昔よりは良くなってるんですよ。例えば、走りでもね、コーナー、コーナーで曲がるでしょう。だんだんうまくなると、コーナーでスピードをわざと緩めるんですよ。曲がりやすいために。たとえていうとね。だから瞬発力だけでいうと昔のほうが強くても、勝負はいまのほうが勝つという……ね。昔は腕力しかないから、それだけで頑張ってたんだけど、それでいったら損だとわかってきた。だから強い弱いといっても、そのときの境地によるんですよ。本音でいうと、僕はほとんど読んでないですよ。序盤も中盤も終盤も」

―冗談を。けっこう時間を使ってるじゃないですか。

「時間は使ってるけど、局面状況を把握してるだけなんですよ。それをやるだけで、ほとんど手を読んでない」

―それで失敗したら「しまった」と思わないですか。

「まるっきり思わない。だから精神力が強くなったと思いますね。長くやってると精神力が強くなる」

―昔はそうじゃなかった。

「そうですね。気持ちが高揚したり落ち込んだり。ドキドキしたりハラハラしたり。負けたときは感情のコントロールが難しい。いろんな意味で自分を制御しきれない。負けたら”なんで負けたんや”と。自分が悪い手を指し、相手がいい手を指して負けるんだから、いってみれば当たり前の現象なのに、自分でそういう状況を受け入れなくなるでしょう。若いときは」

―そういう心境に、いつごろからなったんですか。

「王座を取られてから(笑)。いや、十段を失冠してからかな。それまでは穴熊にして、相手に将棋を指させないというか、相手の長所を認めない指し方というか、自分だけ主張して勝つという、そういう感覚でしたからね」

―そういうのって、いい面もあるんじゃないですか。

「いまだと村山君や阿部君が、自分のペースでやってるほうですね。とくに村山君はその勝負の感覚が強い。僕の場合は”力が抜ける”という状態ですね」

―それだったら、昔よりもっと勝たなくちゃダメじゃないですか。

「そうですねェ……。きょうの話、ボツにしましょう(笑)。実際、自分でもよくわからないんですよ。はっきりしてるのは、いまの羽生さんや谷川さんは相当なレベルだということ。終盤なんか見ててもね。そりゃあ研究すれば”これでギリギリ勝ちだ”というのはわかりますけど、それをなぞっていくだけでもすごいと思う」

―その谷川さんに、福崎さんはよく勝ってるじゃないですか。

「それは谷川さんが指し方を変えてるから。勝負するところが違うんですよ。谷川さんは、羽生さんとだったら自分の将棋をかけて、という感じだけど、僕とやるときは将棋に対するウデ比べみたいな感じです。指し方が全然違うんですよ」

―よくわからないな。例えば、対福崎の場合はどう違うんですか。

「緩めてくれるんですよ」

―えっ?

「つまり矢倉でね。だれもわからないぐらいの微妙な駆け引き、なんていうのを僕はまるっきりしない。そういうのは向こうもしないんですよ。例えば、いつも一円、二円の細かい計算をしてる相手だと自分も細かくなるわけですよ。相手次第ですけどね。千円、二千円とか言ってる人は一円、二円をねぎったって話が通じないでしょう(笑)。僕の場合、ワザが決まるか、みたいな感じでやってるから、そうすると谷川さんも”じゃあ、そっちの勝負でいきましょう”と指し方を変えてくれるんですよ、微妙にね。
現代矢倉の最先端とかいったって、僕にはわからへんしね。ちょっと打って引くとか、引いてから打つとか、そういうところにウェートを置いてない。僕は激しい戦いになっても自分で損得がわからないままに戦ってるから、相手も別段そこまではしないわけですよ。例えば池崎さんが、将棋を覚えたての人と平手で指すとするでしょう。相手は当然、めちゃくちゃやってくるわけですよ。初手から▲7六歩△8四歩に、▲6八金とか、▲5八金左とか。そうしたら”えっ?”と思うでしょ。そういうときに現代矢倉をしますか」

―しません(笑)。する必要もない。

「それと同じようにね。相手の指し方が違うと、ガラッと変わりますよ。相手が現代矢倉の第一人者で、その一手一手に意味があり、”あなた、知ってますか?”みたいにやってこられたら、谷川さんだったら「何でも知ってますよ」という感じでやるわけですよ。だけど、初めから石田流みたいな感じできてたら、サバキを消すか、ぐらいのもんでね。あとは気合と気合のぶつかりあいみたいな勝負になるわけですよ。最後がジャンケンポンみたいなね」

―谷川-福崎の場合は、福崎さんからそういうふうに持っていく?

「僕のほうが粗いんでしょうね(笑)」

―最近は研究会は?

「やってませんね。連盟で平藤君と一対一でやるくらい。研究会は、別にやる必要もないみたいな感じですね」

―昔はやってましたね。

「やってたけど、あんまり役に立ちませんね、僕の場合は。僕は、無理な仕掛けをやっても、別に平気だしね。悪手だろうが何だろうが、いいんですよ、勝負手だから……。実際、それで行けるんだから。そういう感覚さえあれば十分でね。これがいいとか、悪いとかの問題じゃない。そのとき、その相手に通用するかどうかが勝負で、通用できるという勝負観が大事なんですよ。だれとやっても勝てるんなら、だれよりも頭がよく、だれよりも記憶力がよくて、あらゆる変化に精通してとなっちゃうんですよ、最後は。それはコンちゃん(コンピューター)の将棋ですよ。だれが来たってメチャクチャ速い球を投げて、いつでも三振を取るそういう練習の仕方というのは、僕はナンセンスだと思う。そんなことないと思ってる。全然違うわけですよ、相手によって。ハッタリでも何でも、通用すれば、それは立派な手であってね。プロに通用するんだから、立派な手なわけですよ。勉強して手筋を覚えるとかいうんじゃなくて、そのときの相手に通用するかどうかが勝負なんです」

―じゃあ、家で棋譜を並べて相手の棋風を研究してるわけだ。

「いや、棋譜はあまり並べてませんけどね。勉強そのものより、戦意のほうが大事ですよ。戦意が高揚してるときのほうが強いし、いい手が指せる。

―戦意は、棋士ならだれでも持ってるでしょう?

「いや、みんなマチマチですよ。初めから自信がないとか、絶対勝つしかないとか、絶対負けるとか……。境地としては似たようなもので、かたくなな気持ちで凝り固まっている、ということに関しては共通してる。それと、執念がないとダメですね。

―福崎さんは、執念あるでしょう。

「あるような、ないような(笑)。ないかなと思ったらあるし、あるかなと思ったら、たいしてない(笑)」

―棋風が変わってきてないですか。

「池崎さんから見て、どうですか」

―穴熊時代と比べると、かなり変わってると思う。例えば、昔は鬼手がいっぱい出たけど、最近はちょっと減ってる。

「棋風はだんだん変わるんですよ。やってる戦法も変わってるし。昔は刺し違いで、手抜きして攻めることが多かったけど、いまは受けに回るようになってる。取ったらどうなるか、もう一手待ったらどうか、と考える。だから最近は、イビアナをやってても受けを考えてる。ただ、受けというのはなかなかマスターできませんけどね」

夫人の予感

 このインタビューの前後、福崎は対局ラッシュだった。前日は村山聖との順位戦B級1組。翌日は「将棋の日」で谷川浩司との記念対局。そして次の日は米長邦雄との棋聖戦準決勝が控えていた。

 対村山戦は福崎の快勝だった。

 妻の睦美によると「あの順位戦の日、朝、送り出すときに顔を見て、きょうは絶対勝つと思った」そうだ。「私、勝つときは何となくわかるんですよ。私の体調が悪いときに、負けてくることが多いんです。私ね、対局の前の晩は緊張して眠れないんです………」

 元女流棋士の悲しい性か、それとも夫への愛ゆえにか。

 そんなの、僕にわかるわけもないが、これだけははっきり言える。妻もまた、夫とともに勝負の世界を生きている、と。

 対米長戦は関西将棋会館であった。その日、僕は福崎が家を出たあと、こっそり睦美に電話で聞いた。「きょうの勝負はどうですか?文吾さんは勝ちますか、それとも負けますか」

「それがね………」と睦美は言った。「きょうはよくわからなかったんです。順位戦のときは、はっきりわかったのに・・・」

 僕は関西将棋会館に行って控室のテレビで米長-福崎戦を見た。結果は福崎が勝ったが、最後までかなり危なっかしい将棋だった。最初は福崎が優勢だったのに、終盤、米長が摩訶不思議な手順を見せてから流れがだんだんおかしくなり、一瞬だが、逆転した局面もあったのだ。

 うーん。こんな危なっかしい勝ち方では、妻が「よくわからなかった」のも無理はないな、と僕は思った。

* * * * *

「初手から▲7六歩△8四歩に、▲6八金とか、▲5八金左とか。そうしたら”えっ?”と思うでしょ。そういうときに現代矢倉をしますか」は非常に説得力がある。

* * * * *

「僕は、無理な仕掛けをやっても、別に平気だしね。悪手だろうが何だろうが、いいんですよ、勝負手だから……。実際、それで行けるんだから。そういう感覚さえあれば十分でね。これがいいとか、悪いとかの問題じゃない。そのとき、その相手に通用するかどうかが勝負で、通用できるという勝負観が大事なんですよ。だれとやっても勝てるんなら、だれよりも頭がよく、だれよりも記憶力がよくて、あらゆる変化に精通してとなっちゃうんですよ、最後は。それはコンちゃん(コンピューター)の将棋ですよ」

人間同士の対局の魅力、面白さの原点が端的に言い表されている。

コンピュータソフトによる研究が進んだとしても、このような部分は非常に大切だと思う。

* * * * *

「そうですねェ……。きょうの話、ボツにしましょう(笑)」が、嬉しくなるような福崎流。

* * * * *

近代将棋1982年6月号グラビアの写真。撮影は弦巻勝さん。