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福崎文吾八段(当時)「あるような、ないような。ないかなと思ったらあるし、あるかなと思ったら、たいしてない」

将棋世界1994年1月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 福崎文吾八段」より。

戦意がすべて

 米長邦雄に挑戦した十段戦七番勝負は、皆さんご承知のように4-2で福崎が勝ち、タイトル初挑戦で十段位を獲得した。四勝のうち振り飛車穴熊は三局で、そのすべてに勝って「福崎穴熊」の威力をまざまざと見せつけたシリーズだった。

 だが、翌年の防衛戦では、高橋道雄の挑戦を受けて四連敗という不名誉なスコアで、ビッグタイトルをあっさり手放してしまう。

 最も不可解だったのは、福崎が穴熊を一局も指さず、全局、高橋のお家芸である矢倉で通したことだ。その理由を福崎は「気分的なもの。そのときは矢倉をやりたいという心境だった」と説明した。

 ところが一昨年、王座戦で谷川浩司に挑戦したときは、いきなり振り飛車穴熊を指して、私たちを驚かせた。

 福崎は、この王座戦での穴熊採用も僕に「気分的なもの」と言い、そのあとで「谷川さんとは、穴熊でまだ決着がついてなかったですからね」と付け加えた。

 作戦は理ではなく、気分で選ぶ。これはかつて十段戦挑戦のときに語った「僕は自分の好きな手を指す」と、ほとんど同じ意味である。福崎はちっとも変わっていない。

 さて、福崎将棋とその光の部分をざっと紹介してきたけれど、ここまでは単に”昨日の夢”のおさらいでしかない。

 いま、福崎は何を考え、何を求めているのか。現在の心境と”明日の夢”を率直に語ってもらった。

 インタビューしたのは十一月十三日で三時間にも及んだ。もちろんそのすべてを再現することは不可能なので、ここではその核心部分(=勝負にかかわる内容)だけを要約して紹介する。

―福崎さんは最近よく関西将棋会館に「顔を見せますね。何か心境の変化でも?

「A級に上がれるようにと思ってね。家でゴロゴロしてたら睦美に怒られるから」

―A級昇級が当面の目標ですか。

「そうですね。ずっとA級に上がるまでの目標でしょうね。それと、相手に関係なく、タイトルがほしい」

―将棋会館に来るのはプラスですか。

「プラスといえばプラス。でも、来てない人より明らかにプラス、とは言えませんね。純粋に強くなろうと思ったら、受験勉強じゃないけど、家で棋譜並べたり、詰将棋解いたりするほうがいいんじゃないかな。だけど子供いてるし、なかなか家では難しい。ちょっとしか強くならない。だけど、そのちょっとが大事かなと思って……」

―昔と比べると、いまのほうが少しずつ強くなってると。

「どうなんですかね。強さ自体はそんなに変わってないと思うけど、強さの質が違うんですよ。昔は一本道の順をどこまでもずーっと読んでやってたけど、最近は変化に対応する指し方になってる。戦い方がガラッと変わったんです。いまは第二、第三の受けを考えたり………。だから将棋が厚くなっていると思う」

―昔の「深く読む」棋風を、そのまま通したらまずいんですか。

「通せないですね。ピッチャーが直球だけでやっていけないのと同じで、スライダーを覚えないとダメやね。いまは昔と違って、形で判断するでしょう。いちいち考え込まなくても形でわかるんですよ。直感だけで危ないところは避けるし、あらゆる点で昔よりは良くなってるんですよ。例えば、走りでもね、コーナー、コーナーで曲がるでしょう。だんだんうまくなると、コーナーでスピードをわざと緩めるんですよ。曲がりやすいために。たとえていうとね。だから瞬発力だけでいうと昔のほうが強くても、勝負はいまのほうが勝つという……ね。昔は腕力しかないから、それだけで頑張ってたんだけど、それでいったら損だとわかってきた。だから強い弱いといっても、そのときの境地によるんですよ。本音でいうと、僕はほとんど読んでないですよ。序盤も中盤も終盤も」

―冗談を。けっこう時間を使ってるじゃないですか。

「時間は使ってるけど、局面状況を把握してるだけなんですよ。それをやるだけで、ほとんど手を読んでない」

―それで失敗したら「しまった」と思わないですか。

「まるっきり思わない。だから精神力が強くなったと思いますね。長くやってると精神力が強くなる」

―昔はそうじゃなかった。

「そうですね。気持ちが高揚したり落ち込んだり。ドキドキしたりハラハラしたり。負けたときは感情のコントロールが難しい。いろんな意味で自分を制御しきれない。負けたら”なんで負けたんや”と。自分が悪い手を指し、相手がいい手を指して負けるんだから、いってみれば当たり前の現象なのに、自分でそういう状況を受け入れなくなるでしょう。若いときは」

―そういう心境に、いつごろからなったんですか。

「王座を取られてから(笑)。いや、十段を失冠してからかな。それまでは穴熊にして、相手に将棋を指させないというか、相手の長所を認めない指し方というか、自分だけ主張して勝つという、そういう感覚でしたからね」

―そういうのって、いい面もあるんじゃないですか。

「いまだと村山君や阿部君が、自分のペースでやってるほうですね。とくに村山君はその勝負の感覚が強い。僕の場合は”力が抜ける”という状態ですね」

―それだったら、昔よりもっと勝たなくちゃダメじゃないですか。

「そうですねェ……。きょうの話、ボツにしましょう(笑)。実際、自分でもよくわからないんですよ。はっきりしてるのは、いまの羽生さんや谷川さんは相当なレベルだということ。終盤なんか見ててもね。そりゃあ研究すれば”これでギリギリ勝ちだ”というのはわかりますけど、それをなぞっていくだけでもすごいと思う」

―その谷川さんに、福崎さんはよく勝ってるじゃないですか。

「それは谷川さんが指し方を変えてるから。勝負するところが違うんですよ。谷川さんは、羽生さんとだったら自分の将棋をかけて、という感じだけど、僕とやるときは将棋に対するウデ比べみたいな感じです。指し方が全然違うんですよ」

―よくわからないな。例えば、対福崎の場合はどう違うんですか。

「緩めてくれるんですよ」

―えっ?

「つまり矢倉でね。だれもわからないぐらいの微妙な駆け引き、なんていうのを僕はまるっきりしない。そういうのは向こうもしないんですよ。例えば、いつも一円、二円の細かい計算をしてる相手だと自分も細かくなるわけですよ。相手次第ですけどね。千円、二千円とか言ってる人は一円、二円をねぎったって話が通じないでしょう(笑)。僕の場合、ワザが決まるか、みたいな感じでやってるから、そうすると谷川さんも”じゃあ、そっちの勝負でいきましょう”と指し方を変えてくれるんですよ、微妙にね。
現代矢倉の最先端とかいったって、僕にはわからへんしね。ちょっと打って引くとか、引いてから打つとか、そういうところにウェートを置いてない。僕は激しい戦いになっても自分で損得がわからないままに戦ってるから、相手も別段そこまではしないわけですよ。例えば池崎さんが、将棋を覚えたての人と平手で指すとするでしょう。相手は当然、めちゃくちゃやってくるわけですよ。初手から▲7六歩△8四歩に、▲6八金とか、▲5八金左とか。そうしたら”えっ?”と思うでしょ。そういうときに現代矢倉をしますか」

―しません(笑)。する必要もない。

「それと同じようにね。相手の指し方が違うと、ガラッと変わりますよ。相手が現代矢倉の第一人者で、その一手一手に意味があり、”あなた、知ってますか?”みたいにやってこられたら、谷川さんだったら「何でも知ってますよ」という感じでやるわけですよ。だけど、初めから石田流みたいな感じできてたら、サバキを消すか、ぐらいのもんでね。あとは気合と気合のぶつかりあいみたいな勝負になるわけですよ。最後がジャンケンポンみたいなね」

―谷川-福崎の場合は、福崎さんからそういうふうに持っていく?

「僕のほうが粗いんでしょうね(笑)」

―最近は研究会は?

「やってませんね。連盟で平藤君と一対一でやるくらい。研究会は、別にやる必要もないみたいな感じですね」

―昔はやってましたね。

「やってたけど、あんまり役に立ちませんね、僕の場合は。僕は、無理な仕掛けをやっても、別に平気だしね。悪手だろうが何だろうが、いいんですよ、勝負手だから……。実際、それで行けるんだから。そういう感覚さえあれば十分でね。これがいいとか、悪いとかの問題じゃない。そのとき、その相手に通用するかどうかが勝負で、通用できるという勝負観が大事なんですよ。だれとやっても勝てるんなら、だれよりも頭がよく、だれよりも記憶力がよくて、あらゆる変化に精通してとなっちゃうんですよ、最後は。それはコンちゃん(コンピューター)の将棋ですよ。だれが来たってメチャクチャ速い球を投げて、いつでも三振を取るそういう練習の仕方というのは、僕はナンセンスだと思う。そんなことないと思ってる。全然違うわけですよ、相手によって。ハッタリでも何でも、通用すれば、それは立派な手であってね。プロに通用するんだから、立派な手なわけですよ。勉強して手筋を覚えるとかいうんじゃなくて、そのときの相手に通用するかどうかが勝負なんです」

―じゃあ、家で棋譜を並べて相手の棋風を研究してるわけだ。

「いや、棋譜はあまり並べてませんけどね。勉強そのものより、戦意のほうが大事ですよ。戦意が高揚してるときのほうが強いし、いい手が指せる。

―戦意は、棋士ならだれでも持ってるでしょう?

「いや、みんなマチマチですよ。初めから自信がないとか、絶対勝つしかないとか、絶対負けるとか……。境地としては似たようなもので、かたくなな気持ちで凝り固まっている、ということに関しては共通してる。それと、執念がないとダメですね。

―福崎さんは、執念あるでしょう。

「あるような、ないような(笑)。ないかなと思ったらあるし、あるかなと思ったら、たいしてない(笑)」

―棋風が変わってきてないですか。

「池崎さんから見て、どうですか」

―穴熊時代と比べると、かなり変わってると思う。例えば、昔は鬼手がいっぱい出たけど、最近はちょっと減ってる。

「棋風はだんだん変わるんですよ。やってる戦法も変わってるし。昔は刺し違いで、手抜きして攻めることが多かったけど、いまは受けに回るようになってる。取ったらどうなるか、もう一手待ったらどうか、と考える。だから最近は、イビアナをやってても受けを考えてる。ただ、受けというのはなかなかマスターできませんけどね」

夫人の予感

 このインタビューの前後、福崎は対局ラッシュだった。前日は村山聖との順位戦B級1組。翌日は「将棋の日」で谷川浩司との記念対局。そして次の日は米長邦雄との棋聖戦準決勝が控えていた。

 対村山戦は福崎の快勝だった。

 妻の睦美によると「あの順位戦の日、朝、送り出すときに顔を見て、きょうは絶対勝つと思った」そうだ。「私、勝つときは何となくわかるんですよ。私の体調が悪いときに、負けてくることが多いんです。私ね、対局の前の晩は緊張して眠れないんです………」

 元女流棋士の悲しい性か、それとも夫への愛ゆえにか。

 そんなの、僕にわかるわけもないが、これだけははっきり言える。妻もまた、夫とともに勝負の世界を生きている、と。

 対米長戦は関西将棋会館であった。その日、僕は福崎が家を出たあと、こっそり睦美に電話で聞いた。「きょうの勝負はどうですか?文吾さんは勝ちますか、それとも負けますか」

「それがね………」と睦美は言った。「きょうはよくわからなかったんです。順位戦のときは、はっきりわかったのに・・・」

 僕は関西将棋会館に行って控室のテレビで米長-福崎戦を見た。結果は福崎が勝ったが、最後までかなり危なっかしい将棋だった。最初は福崎が優勢だったのに、終盤、米長が摩訶不思議な手順を見せてから流れがだんだんおかしくなり、一瞬だが、逆転した局面もあったのだ。

 うーん。こんな危なっかしい勝ち方では、妻が「よくわからなかった」のも無理はないな、と僕は思った。

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「初手から▲7六歩△8四歩に、▲6八金とか、▲5八金左とか。そうしたら”えっ?”と思うでしょ。そういうときに現代矢倉をしますか」は非常に説得力がある。

* * * * *

「僕は、無理な仕掛けをやっても、別に平気だしね。悪手だろうが何だろうが、いいんですよ、勝負手だから……。実際、それで行けるんだから。そういう感覚さえあれば十分でね。これがいいとか、悪いとかの問題じゃない。そのとき、その相手に通用するかどうかが勝負で、通用できるという勝負観が大事なんですよ。だれとやっても勝てるんなら、だれよりも頭がよく、だれよりも記憶力がよくて、あらゆる変化に精通してとなっちゃうんですよ、最後は。それはコンちゃん(コンピューター)の将棋ですよ」

人間同士の対局の魅力、面白さの原点が端的に言い表されている。

コンピュータソフトによる研究が進んだとしても、このような部分は非常に大切だと思う。

* * * * *

「そうですねェ……。きょうの話、ボツにしましょう(笑)」が、嬉しくなるような福崎流。

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近代将棋1982年6月号グラビアの写真。撮影は弦巻勝さん。

福崎文吾七段(当時)「タイトル戦は死力を尽くして頑張ります。そうでなければ、リーグ戦で僕を勝たせてくれた先生方に申し訳ないですからね」

将棋世界1994年1月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 福崎文吾八段」より。

 福崎文吾を初めて見たのは、関西将棋会館がオープンして一、二年たったときだから、もう十年以上も昔のことになる。

 当時、サラリーマンだった僕は、日曜日になると、時折、関西将棋会館の二階道場へ通っていた。その日、会館内はどこも超満員で(たぶん「将棋の日」だったと思う)、道場に行くと何人かの棋士たちがアマチュア相手に指導将棋を指していた。その中に福崎がいたのである。

 そのころ、僕が個人的に知っている棋士といえば、森信雄、東和男、青木清、脇謙二の四人だけで、彼ら以外の棋士たちは、将棋まつりとNHKテレビと将棋雑誌のグラビアページでしか見たことがなかった。東とは関西本部がまだ阿倍野区にあったころからの古い付き合いで、その縁で他の三人と知り合うようになったのだ。

 もっとも、僕は将棋雑誌はめったに買わなかったから、福崎が「穴熊の名手」ということも、また福崎が谷川浩司、小林健二と並んで「関西若手三羽ガラス」と呼ばれていることも、当時はまったく知らなかった。どこかで見覚えのある顔が、たまたまそこにあったから視線を止めたのである。

 観戦客の背中越しに盤面をのぞくと、下手の勝勢で、よくみると上手の玉に即詰みがある。簡単な5手詰みである。下手の若い男は少考してから、王手をかけた。駒を持つ手が少し震えていた。どうやら詰みを発見したらしい。

 指し手は僕の予想通りに進み、最終手▲4五銀が指された。局面は正確には覚えていないけれど、部分的にはA図のようになっていた。

 上手が最後まで指したのは意外だったが、ともあれ、これでゲームセットである。ところが―。

 ▲4五銀が指された瞬間、福崎が4四の玉をパッとつかんで5五へ出ようとしたから、僕は一瞬、心臓が止まりそうになった。下手が「えっ!」と大声を上げると、福崎は玉を持ったまま、ニヤッと笑い、「あ、歩がいたんですね」とケロリとして言った。

 こんな終局の場面、生まれて初めて見た。もちろん、福崎はわざとやったのだ。つまりはチャメである。

 僕は面白い男だなァと思い、フクザキの顔と名をしっかり脳裏に焼き付けた。

 一、二年たって、また福崎を見た。

 関西将棋会館に行ったら、偶然、東がいて、「いま、森さんのマンションで研究会をやっています。のぞきますか?」と声をかけられた。

 森のマンションは徒歩数分のところにあり、1DKの狭い部屋で八人の若者がチェスクロックを使って将棋を指していた。そこにあの「面白い男」がいた。

 ここでもフクザキは一番目立つ存在だった。というのも、他の人たちが黙々と将棋を指しているのに、一人、この男だけが、一手指すごとに「ヒャー」とか、「ウワー」と奇声を発していたからだ。なんとも、にぎやかな男だった。

鬼手の源泉

 僕は昭和五十九年の十二月に会社を辞めてフリーの観戦記者になった。仕事があろうとなかろうと、毎日のように関西将棋会館に通った。「連盟職員以上の出勤率」というのが当時の僕の自慢だったが、それでも福崎と顔を合わせることは数えるほどしかなかった。一つには、福崎が自分の対局のときしか出勤してこなかったせいである。

 福崎は僕の知らない間に女流棋士の兼田睦美と結婚し、一児のパパになっていた。いま育児に専念していますよ、マイホームパパですね、と親しい棋士たちが教えてくれた。

「妖刀」「怪力」「独特の感覚」と喧伝される棋界きっての異能派棋士に、「マイホームパパ」という言葉ほどそぐわないものはないが、しかしそれは事実で、本人も「オシメを替えたり、風呂に入れたり……。結構忙しいです」「睦美が対局のときは留守番をしなくちゃいけないし」「結婚して、子供が生まれてから人生観が変わりました」と語っていた。

 ただ、当時、しばしば書かれたり言われたりした「異常感覚」「感覚破壊」といった評語に対しては、福崎ははっきり嫌悪感を示していた。

 例えば十段リーグの対有森浩三戦(六十一年七月)。この将棋は劣勢の福崎が終盤、馬のタダ捨てというスゴイ鬼手を放ち、結果的にはこれが逆転劇を生む遠因になるのだが、感想戦のとき、負けた有森が「感覚破壊の手に負けた」と何度も同じセリフを繰り返すものだから、最初は聞き流していた福崎も、しまいには怒ってこう言った。

「どっちもどっちやないか。最初はこっちが勝ってたんだからな」

 福崎が本気で怒った顔を、僕はこのとき初めて見た。

 僕が初めて福崎とじっくり話をしたのは、同年九月、福崎が十段リーグで桐山清澄を破って、初のタイトル挑戦を決めた日の深夜だった。

 この桐山戦もすごかった。福崎は矢倉の負け将棋を、角捨ての鬼手を放って千日手に持ち込んだ。そして指し直し局は十八番の振り飛車穴熊で快勝。

 感想戦が終わってから福崎と酒を飲んだ。中原名人、谷川棋王、桐山棋聖、高橋王位と、六人中四人もタイトルホルダーがいる最強のリーグ戦で、二位以下を大きく引き離しての挑戦権獲得だったから、感激もひとしおのはずなのに、二十六歳の青年棋士の口から出る言葉は非常に謙虚で、こちらが拍子抜けするほどだった。

「今期はラッキーでした。タイトル戦で挑戦するのは夢でしたから、大舞台に出られただけでもうれしいです」

「勝ってはいけない人が挑戦者になったみたいです」

 かつて僕が見た「面白い男」「にぎやかな男」は、ここにはいなかった。僕が

「挑戦者がそれじゃダメです。もっと威勢のいい言葉を吐いて」とからかうと、福崎は笑って「タイトル戦は死力を尽くして頑張ります。そうでなければ、リーグ戦で僕を勝たせてくれた先生方に申し訳ないですからね」と言った。

 これはおそらく、精一杯のリップサービスだったと思う。エネルギーは内でたぎらせ、外に向かっては「モナリザの微笑」が、棋士福崎の生き方の流儀で、その逆では断じてないからだ。

 一週間後、僕は改めて福崎に取材を申し込んだ。終盤戦で突然飛び出す、あの「鬼手」の源泉は何だろう。その一端だけでも知りたいと思った。

 福崎はこう語った。

 例えば”最善手”について。「ある局面で候補手が五つあるとして、それぞれの変化を順番に読んでから”これでいこう”というコンピューターみたいな指し方を、僕はしない。直感で二手ぐらい選び、それを深く読む。読み直しはあまりしない。

 僕は自分の好きな手を指す。たとえ棋理に合った手が他にあったとしても、自分がイヤな手は指したくない」

 例えば、プレッシャーについて。

「以前は、たとえ弱くても勝負は何が何でも勝たなくてはいけないと思っていた。このため対局前、眠れないとか体調をくずすことがあったけど、いまはそういうことはない。結局、勝負は強ければ勝つし、弱ければ負ける。そう考えるようになってから気分的に楽になった」

 ”僕は好きな手を指す”という一言に、福崎将棋のすべてが凝縮されているような気がする。

(つづく)

* * * * *

池崎和記さんの連載「昨日の夢、明日の夢」の第1回。

池崎さんが一番書きたいことを第1回に持ってきたのではないかと思う。

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福崎文吾七段(当時)の棋風が「異常感覚」「感覚破壊」という形容になったのは、1984年の谷川浩司名人(当時)の自戦記がきっかけ。

谷川浩司名人(当時)「感覚を破壊された」

福崎八段(当時)自身はその表現を嫌がっていたと初めて知る。

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「タイトル戦は死力を尽くして頑張ります。そうでなければ、リーグ戦で僕を勝たせてくれた先生方に申し訳ないですからね」

なかなか言える言葉ではない。感動的な名言だ。

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1982年の福崎七段(当時)。

池崎さんと初めて会う2年前。22歳、七段になったばかりの頃。

近代将棋1982年6月号グラビアの写真。撮影は弦巻勝さん。

森雞二九段と郷田真隆九段が大好きだった師匠

将棋世界1996年8月号、「棋士それぞれの地平 大友昇九段」より。聞き手は鈴木輝彦七段(当時)。

 今回は大先輩である大友九段にお願いした。引退された棋士の中から大友先生を考えたのには理由がある。それは、A級復帰の森九段や今をときめく郷田六段の師匠だから、という訳ではない。

 心に残っていたのは二年程前の一枚の葉書だった。正しくは、気になっていたというべきかもしれない。

 その葉書の数日前に、先生の九段昇段パーティーがホテルニューオータニで開かれた。引退されて8年以上もたつのに棋士関係者は中原、米長の両先生を始め多数見えられていた。当然ながら、多くの棋士は大友先生の昇段を喜んでおられたが、「26年とは遅すぎる」と昇段の時期を嘆かれる声も聞かれた。これは、先生のお人柄が伝わってくるいい話だと思った。

 私自身は記録係をしたくらいで、大友先生との付き合いはない。むしろ、お弟子さんの関係で出席させて頂いたといった方が分かり易いだろう。そして、パーティー自体が楽しい物で大満足の一日だった。その後の団鬼六先生等数人で楽しく飲んだのは付録の様なものであった。

 その日から数日たち、大友先生から丁寧な直筆の葉書が送られてきた事には驚かされた。棋士のパーティーには今まで数多く出席しているが、こんな事は初めてだったのである。むしろ、逆の印象を持つことも少ないがあったりした。

 新四段の昇段祝い等、出来るだけ出席するようにしているけれど、本人等より師匠関係だったりする場合も多い。義理ではないにしても、背広にネクタイを締め、お祝いを持参するのは、そうたやすい事ではない気がする。それが、本人と後日会館で会っても挨拶一つしないことがあり、やや残念に思っていたのだ。

 行方君の時は、「他の人は当然として、先輩棋士には『先日はありがとうございました』と言うんだよ」と言ったりもした。ともあれ、その時の「ゆっくり話をしたい」とあった事を実現できて嬉しい出会いとなった。

奨励会の頃は

鈴木 ごぶさたをしております。二年半振りになりますか。

大友 あの時はよく来てくれたね。

鈴木 お弟子さんのことは存じ上げているんですが、先生の事はあまり知らないので失礼があるかもしれませんが、よろしくお願いします。

大友 引退して24年たつからね。今日はなんでも聞いてよ。

鈴木 奨励会の頃をまず。

大友 僕は20歳と遅かった。仙台では強かったんだけどね。飯塚先生(勘一郎八段)に強く勧められてね。

鈴木 10代はどうされていたんですか。

大友 高校が火災で焼けてしまって、中退したんだ。それから家庭裁判所で働いていた。どうもこの頃から裁判所に縁があるんだな(笑)。

鈴木 やはり、今とは全然違いますね。その裁判所の事は後で伺いますが(笑)。

大友 入会試験は二段の付け出しで、2勝2敗だった。山田君(道美九段)にトン死で勝ったのが大きかった。

鈴木 そうした強運が誰にもありますね。同期はどなたですか。

大友 山田君と、宮坂、関根、北村が一緒だった。

鈴木 その後は順調に上がっていった訳ですね。

大友 いやいや、三年で四段になるんだけど、生活が大変だった。一年は飯塚先生の内弟子だったけど、後は道場に住み込んでね。

鈴木 昭和26年入会ですから日本全体も貧乏だったと思います。

大友 浅草の国際劇場の地下の道場で津村さん(常吉七段)と一緒に手合い係をしていたけど、一日にパン一枚なんてこともあった。

鈴木 津村先生も御苦労されていたんですね。

大友 津村さんはその道場主の娘さんと結婚したんだよ。今思い出せば楽しい時代だったような気もする。その後は、加藤恵三先生の家の道場にいたんだ。

鈴木 加藤先生は僕も覚えています。本当にやさしい先生で。

大友 大変にお世話になった先生なんだ。

鈴木 この頃で何かエピソードは。

大友 恥ずかしいんだけど一番の思い出はケンカでね。街で会った女の子に誘われて一杯500円のコーヒー屋に入ったんだ。ところが、何万円も請求されてしまったんだ。

鈴木 それは今でも若手が引っ掛かったという話ですよ。キャッチバーですね。

大友 大ちゃん(佐藤大五郎九段)が俺がいるからというんで(笑)、国際の道場で会って、イスで男の頭を打ってしまったんだ。 軽い脳震盪を起したんだな。

鈴木 それは大変な事に。

大友 警察に連れていかれて、「こら、大友」と怒られたんだけど、検事の所にいったら警官が「大友先生ですか」となったんだ。当時は検察庁の将棋部の師範をしていてね。どうも(笑)。

―先生の話を伺っていると、そのまま昭和20年代の日本を映しているような気がした。棋士を目指した多くの人が似たような生活をされていたのだろう。棋士も社会的に認知されず、皆貧しさの中で戦っていたのだと思う。先生の言う「先輩の恩を忘れてはいけない」は体験から生まれたものでもあるだろう。

現役時代は

鈴木 四段になってからはどうでしたか。

大友 現役が18年かな。四段になった時は、まあA級までいくと思った。

鈴木 順位戦は順調なペースで。

大友 C2が2年。C1が2年、B2が1年でB1が少し長かった。

鈴木 五段時代の大阪新聞での14連勝は今でも語り草になっています。

大友 これは不思議でね。結婚前の女房が京都に住んでいて、会いたい一心で大阪の将棋を頑張った結果なんだ。

鈴木 婚約時代は強いですね。僕にも少し経験があります(笑)。

大友 それとは別にして、この時の事は今でも頭に来ているんだ。

鈴木 それはどうしてですか。14連勝は立派過ぎますが。

大友 この時は、5連勝、10連勝で賞金が出たんだ。それで15人目を指したかった。ところが14人目の塚田正夫九段で終わってしまった。後は大山名人しか残っていない。どうしても大山名人と指したかった。

鈴木 それは指せば話題になりましたね。

大友 ダメだって言うんだ。大山名人に傷がつくとね。当時の執行部は本当に良くなかった。これが、後年、山田君達とのクーデターの話につながるんだ。

鈴木 若手に理事会に対する不満があったんですね。後、山田先生との順位戦も最近知りましたが。

大友 あれはB2の順位戦だった。向こう(山田九段)は昇級が決まっていて、将棋盤の中に玉がないんだ。僕は当時四畳半の部屋に女房と住んでいて、夜全く眠れなかった。

鈴木 それはよく判ります。

大友 対局になったら眠くなり出して、こっぱみじんにやられてしまった。ところが、先輩の金高先生(清吉八段)が有吉君に時間一杯使って頑張ってくれたんだ。有吉君は勝てば上がりでね。

鈴木 はあ。それでどうなったんですか。

大友 信じられない事に、金高先生が勝って僕が昇級したんだ。あんなことがあるんだね。

鈴木 劇的なドンデン返しですね。それと、B2で四畳半とはビックリします。

大友 その頃はそんな物だった。対局料も安くてね。27歳でB1になったけど、体を悪くしてしまった。で、図面の方は引退する前の八段の時のにした。

鈴木 自慢の図は勝浦六段との十段戦ですか。

大友 新鋭に勝ち、次も勝ってリーグ入りした。1図から▲4六銀が一時間の長考で発見した自慢の一手。△4四角は▲8八角で指せている。

鈴木 確かにじっと▲4六銀は指しづらいですね。もう一図は。

大友 もう一図は思い出の図でね。弟子の森君と指した将棋。どうでもいいんだけど、2図から125分も考えたんだよ森君は。他の人とは早いのに、師匠に対して失礼だよ(笑)。ギリギリ詰まないんだね。この2局はいい思い出になっている。

鈴木 その辺が、現役と引退の違いかもしれません。

引退とその後

鈴木 43年(37歳)にはNHK杯優勝とA級八段になられました。

大友 B1時代に胃の手術をして、途中休場したんだ。6勝1敗だったけどAクラスでの活躍が目標だったから体を治してからと思ってね。

鈴木 それは辛い時期でもあったですね。

大友 入院している間は山田君が無料で検察庁の稽古に行ってくれたりして、人の恩を感じたよ。

鈴木 47年、40歳の時に先生は突然B1のまま辞められたんですね。今でも驚くほどの早さです。

大友 又、身体を悪くしてね。2年休場する気にはなれなかった。女房の事を言う人がいるけど、44年には離婚してるんだ。A級の一年は離婚裁判で将棋が指せなかった。

鈴木 誰かのエッセーでそんなことを読んだ気がします。

大友 もう一つは責任を取りたかった。僕は升田将棋が好きで升田さんに肩入れしてた。升田さんが「新聞社の苦しいのは僕が一番識っている」というのを信じていたんだ。棋士が苦しかったのは僕の責任でもあるからね。八段だし。

鈴木 契約金は確かに上がらなくて、51年位でしたか急激に上がりだしたのは。

大友 もし続けていたら、芹さん(芹沢九段)のように死んでいたと思う。全力でやるタイプだから。

鈴木 早く引退して苦労はありませんでしたか。

大友 それはあった。運送屋に勤めて、荷物運びをしたこともある。

鈴木 え、将棋の八段がですか。

大友 いや。逆にこれが良かったんだね。身体が丈夫になった。将棋は楽そうだけど、負けると体に本当に悪い。酒を飲むかバクチを打って気を晴らすしかないから。

鈴木 練馬で道場をされていた時期があったと思いましたが。

大友 道場と雀荘をやっていた。ここで田畑君(指導棋士四段)と郷田君が習いに来てた。小学6年と小学3年だったと思う。

鈴木 それは大変に意味のある道場経営と言えますね。

大友 ところが、雀荘は2年で止めるつもりで止めたんだけど、道場もだめになってしまったんだ。

鈴木 それはどうしてですか。

大友 使うお金が違うんだね。麻雀には2万使う人が将棋では500円だから。これはゲームの質かもしれない。

鈴木 雀荘の方はもうかったのですか。

大友 雀荘はもうかったね。ただ、身体が少しきつい。

鈴木 その後はどうでしたか。

大友 百石に一年行ったり、ただ青森は寒くてね。四谷で道場をやったりした。

鈴木 先生の一生は「道場と共に」ですね。森さんも確かどこかの道場で知り合われたと。

大友 やはりアマ出身だからね。森君とは五反田の道場でだった。飛車落ちで勝てないのに何番も挑戦してきて根性だけはあると思った。

鈴木 郷田君はどうでしたか。

大友 小学3年で母親と来た。平手で指したいと言って、途中で「先生投げて下さい」と言うんだ。本に書いてあるって。八段の先生に平手でしかも投げてくれとはなまいきな子だと思ったよ(笑)。

鈴木 それでも、二人ともタイトルを取ったのですから師匠冥利といえますね。

趣味とこれから

鈴木 現在の心境は如何ですか。

大友 一番が普及で二番が趣味の碁と野球観戦。三番は酒かな。特に野球は大洋ファンで、優勝した年に洋と付けたんだ。

鈴木 大洋が優勝してから随分たちますね。今は横浜ですが。先程伺った道場は最近ですか。

大友 3月からね。御茶ノ水駅から5分位で「妻恋坂将棋指南所」と言うんだ。無料で教えてるから紹介しておいて。

鈴木 道場というよりも、畳敷きでサロンといった感じですね。それにとてもきれいですね。

大友 ここで、アマの指導と子供達に教えていきたい。

鈴木 他に夢とかはありますか。

大友 郷田君が入門する時、「名人になります」と言ってくれたからね。生きてる内に実現してほしい。森君は才能があるけど、ギャンブルを止めてほしい(笑)。本人は本も出してるようだけど、あれはいけないな。

鈴木 先生は早く辞められましたが、その分お弟子さんが頑張ってくれますから自分の事のように楽しみですね。先生の話は人生同様に多くて楽しいのですが、全部は書ききれないかもしれません。本日は貴重なお話を伺いありがとうございました。

対談を終えて

 喫茶店に入るなり、「ジンフィーズはある?」と訊いたのでウェートレスさんも私も驚いてしまう。座ったらまず一杯というのが大友流であるようだ。酒類はなく少し辛抱して頂くことになった。

 話は私が将棋界に入る以前の事もあり、初めて聞く話題も多かった。山田先生が亡くなる前に年齢の近い加藤(一)先生や大友先生に皆で理事になる話をしていたそうだ。これが、本文中のクーデターの話になるが、実現するというよりも、若手らしい改革を願っての物のようだ。ただ、今よりもずっと貧しかっただけにより深刻ではあったと思う。

 3時に始まった対談も5時近くなると、時計を見て「あっ、ビールを飲まなければいけない」とおっしゃった。きっとそんな決りがあるのだろう。

 待ち合わせをした道場に戻り、先生はビールを幸せそうに飲まれた。私も先生ほどではないにしても、おいしく頂いた。幸せとは案外身近にあるものだと妙に感心したものである。

 この日は、偶然西村八段も来られていて、お手伝いをされる女性と碁を打っておられた。その碁が終わると、「それでは」と先生は言って西村先生と碁を打ち始めた。

 その姿を見ていると、老境に入られた仙人のようにも感じられた。そして、今日はお会いできて本当に良かったと思った。

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郷田真隆少年の「先生投げて下さい」は、以前このブログで取り上げているが、今回は大友昇九段が語ったことを中心に。

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「街で会った女の子に誘われて一杯500円のコーヒー屋に入ったんだ。ところが、何万円も請求されてしまったんだ」

年代は20年ほど違うが、小池重明さんもやや同じような手口で高額なお金を請求されている。

それにしても、昭和20年代の500円とは相当に高い。現在の4,000円~5,000円に相当するようだ……。

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大友昇九段が五反田で道場を開いていた時期と練馬で道場を開いていた時期が逆だったら、森雞二青年とも郷田真隆少年とも出会えていなかったわけで、運命的なものを感じてしまう。

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郷田九段は、大友九段が亡くなる2年前の1998年に棋聖位を奪取している。

師匠が生きている間に、師匠への大きな恩返しをもう一つ加えたことになる。

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郷田九段はNHK将棋講座2014年7月号で大友九段の思い出を語っている。郷田九段が大好きな師匠だったことがわかる。

郷田真隆NHK杯の記憶に残る、大友昇九段の「将棋の筋をかみしめる手つき」(NHKテキストview)

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上記のNHK将棋講座での記事で、郷田九段は、

「私が出会ってからも、外出するときは帽子をかぶってちょっとした洒落者の雰囲気があった。お酒が好きで、最後に師匠のお相手をしたのは、恐らく森九段、田畑良太六段、師匠と私の4人で、小さな一門会のようなことをしたときだったと思う。寂しがり屋の師匠が、最後まで帰ろうとしなかった。そのときの、やはり帽子をかぶった師匠の後ろ姿が、胸に残る」と結んでいる。

将棋世界1996年8月号「棋士それぞれの地平 大友昇九段」には帽子をかぶった大友九段の写真が載っている。

郷田九段の談話にあった帽子姿の大友昇九段(将棋世界1996年8月号)
将棋世界同じ号に掲載された大友昇九段の写真。

 

佐藤康光棋聖(当時)「森内さんの方が気になりますね」

将棋世界2005年10月号、「第76期棋聖戦 佐藤康光棋聖が振り返る棋聖戦五番勝負」より。

―羽生四冠はライバルですか?

 影響は受けていますね。羽生さんは常に前を走る存在ですから。自然に引っ張られていると言うか。

 競争するという意味では、森内さんの方が気になりますね。勝ち星や昇段のペースも同じくらいですし。ただし向こうが私をライバルだと思っているかどうかはわかりませんけど(笑)。

(以下略)

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森内俊之九段も十分すぎるほど、佐藤康光九段のことをライバルだと思っている。

ライバル物語

もともと二人は仲が良いが、その二人が昨年から日本将棋連盟の会長と専務理事を務めているわけで、とても感慨深く思うとともに、心強く感じられる。

 

佐藤康光棋聖(当時)「私自身はまだ年齢的な限界を感じていません。限界を感じるには弱すぎる」

昨日の続き。

将棋世界2005年8月号、鈴木宏彦さんの第76期棋聖戦五番勝負「佐藤康光、羽生善治インタビュー 五番勝負を前に語る」より。

―羽生さん(佐藤さん)との対局の思い出は。

佐藤 記憶力が悪くて…。一度棋王戦のインタビューに応えて、「公開対局は初めてです」と言ったら、羽生さんに「2回目です」って言われたくらいなので(笑)

羽生 第7期竜王戦のパリ対局で自由時間にルーブル美術館に行ったら、中でばったり佐藤さんに会ったこと。広いんで、普通はなかなか会いそうにないんです。

―現在の自分と25歳の時の自分を比べて、記憶力は?

佐藤 落ちましたね。感想戦で持ち歩の数を思い出せないことがある。

羽生 衰えました。それに、必要のないところは切り捨てていかないと。

―体力的には?

佐藤 ちょっと不安かも。対局のあと寝ないでゴルフに行くのは平気だけど、通常モードに戻るのに時間がかかるようになった。

羽生 あまり変わっていません。2日制のタイトル戦は消耗するけど、それは若い時でも同じこと。

―将棋の技術は?

佐藤 上がっています。

羽生 読みの量は広く浅くなった。考え方の幅は広がった。

―では、今25歳の自分と対局したら勝てますか?

佐藤 まあ、勝ちます。

羽生 序盤の知識を含めれば、現在の自分が勝つ。

―1日制と2日制のタイトル戦はどちらが好き?

佐藤 基本的には考える時間は長ければ長いほどいい。

羽生 1日制と2日制は全然違う。4時間はあっという間。好き嫌いはない。それに合わせていかないと。

―この棋聖戦第1局が85局目の佐藤-羽生戦です。

佐藤 100局目指して頑張りたい。

羽生 もうそんなに、という感じ。

―今回の棋聖戦は自分にとって、どのような意味を持っていますか。

佐藤 タイトル戦は厳しいもの。そして、毎回特別なもの。大きい勝負です。

羽生 佐藤さんとタイトル戦を戦うのは久しぶり。戦いながら手応えを感じたい。

―羽生世代の天下はいつまで続くか。

佐藤 羽生世代という言い方は適当じゃない。羽生さんと他の人は区切るべきと思う。私自身はまだ年齢的な限界を感じていません。限界を感じるには弱すぎる。

羽生 王位リーグを見ても順位戦を見ても全体的に競り合いが増えている。安閑としてはいられない。

―いくつまでタイトル争いができそうですか。

佐藤 この2年くらい棋聖戦以外勝っていないし、どうなるか想像がつかない。このところ波が多かったので、今年はそれを上向きにしたい。

羽生 これは分からない。ただ、50歳になって今の対局日程を続けるのは大変かもしれない(笑)。

―棋聖戦に向けての意気込みを。

佐藤 十分な準備をして、十分な思いを込めて防衛したい。羽生さんは最強だが、その人と戦える喜びを感じながら、自分の力を出し切りたい。

羽生 佐藤さんとの対戦は久しぶりだが、棋譜は常に見ている。作戦は直前に考えますが、最終的にはその時々の局面に対処していくしかない。

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「第7期竜王戦のパリ対局で自由時間にルーブル美術館に行ったら、中でばったり佐藤さんに会ったこと」

ルーブル美術館の展示場所の面積は60,600平方メートルであるという。

東京ドームの建設面積が46,755平方メートルなので、ドームの内野席・外野席・グラウンド・外周部も含めたよりも30%広い所で二人が遭遇するようなもの。

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「私自身はまだ年齢的な限界を感じていません。限界を感じるには弱すぎる」

格好いい。あまりにも格好いい。感動的だ。