「インタビュー・対談」カテゴリーアーカイブ

大の苦手を克服した加藤一二三九段

将棋世界1981年2月号、読売新聞の山田史生さんの「第19期十段戦終わる 加藤、4-1で十段位奪取!」より。

 加藤一二三・九段が、常勝・中原誠十段から、堂々4勝1敗で、十段位を奪い取った。第7期(昭和43年度)以来、実に12年ぶり、二度目の十段位である。

 それにしても、今回の七番勝負で見せた加藤の、積極果敢な攻撃ぶりは見事であった。かつては慎重な上にも慎重、石橋を叩いてもなお渡らず、そのため千日手もけっこう多かった加藤だったが、今回はそんな弱気さはみじんも感じられなかった。

 対局前のインタビューで、加藤は私に言った。

「ひところ対戦成績が極端に悪かった(加藤の1勝20敗)のですが、そのころ私は中原さんの将棋を通り一辺の見方しかしていなかったんですね。浅い見方しかせず、突っ込んだ見方をしていなかった。でも気持ちを込めて見るようになると、中原さんの長所がよくわかるようになりました」

 私はあえてダメを押す。「短所も見えてきたということですね」

 加藤「ええ、まあ。以前に比べ戦い易くなってきたといえますね」

 加藤の満々たる自信を見ることができる。ほかに時間の使い方については「時間にも少し気を使うようになってきました。だから秒読みにはなっても、以前より、秒読みになる時間が遅くなってきていますね。でも、難しくて、面白い所では、たっぷり時間を使ってしまいます」

 ”面白い”という所に注目したい。加藤の長考は、苦吟ではなく、むしろ”楽しみ”であるらしい。これでは相手になる棋士はたまらない。

(以下略)

——–

長所がよくわかるようになるとともに短所も見えてきた、何と奥の深い言葉だろう。

たしかに、相手に真剣に向かい合えば、そのようになるものなのだろう。

勝負に勝つための鉄則と言っていいのかもしれない。

だからと言って、私がキュウリと真剣に向かい合って、キュウリの長所や短所を知っても、苦手なキュウリを克服できるとは思えない。

食べ物や恋愛の初期段階への適用は難しそうだ。

 

 

木村一基五段(当時)「君は丸山と違って行かないだろうな、って言われました」

将棋世界2000年3月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 人生のパートナー 木村一基五段」より。

鈴木 行方君のつもりが、1ヵ月早まったけどよろしく頼みます。

木村 電話がありました。野月の次では濃すぎる、と(笑)。

鈴木 今の26歳組に興味がある。仲がいいんだね。

(中略)

鈴木 奨励会受験はいつでした。

木村 小学5年の時です。アマ四段になってました。59年と60年が多くて80人位受けて17、8人合格でした。試験者と5-1で奨励会員が1-2でした。師匠(佐瀬勇次名誉九段)が大丈夫、というのでお祝いをしました。

鈴木 6勝3敗は立派です。6級なら当然ですね。

木村 そうでしょう。ところが不合格。「落ちました」と師匠に言ったら「あ、そう」の一言でした(笑)。

鈴木 1年浪人するんだね(笑)。小学生名人戦は。本来奨励会のレベルだから良かったの。

木村 これが人生の汚点です(笑)。その年は野月が優勝で僕はベスト8でした。

鈴木 他のレベルも上がってたんだね。ブームの頂点を感じる。今は34、5人でしょう受けるのは。

木村 小学6年が4-2、2-1で同期が屋敷、野月、金沢です。屋敷さんは18歳でタイトルを取り、未だに同期と思っていませんね。

鈴木 昇級はどうでしたか。

木村 ここが野月と違って(笑)、2年で初段、2年半の15歳で二段でした。それまでの貯金でしたね。

鈴木 小学2年からだからね。それから高校へ行くんだね。師匠は反対したでしょう。

木村 「君は丸山と違って行かないだろうな」って言われました。丸山流で笑って「はい」と言って行きました(笑)。

鈴木 丸山流は面白いね。大学も行くんだね。僕の時代は師匠の言葉は絶対だったけど

木村 丸山さんがいなかったらダメでしたね。規則正しい生活で、7時前に起きます。2年の17歳で三段でした。

鈴木 将棋の勉強は出来るの?

木村 夜詰将棋を2、3時間やりました。勉強はしなかったですね。将棋を知らない友人と話すのが楽しかったです。

鈴木 プロ生活のマンネリなのかな。中学卒業で来て来る人とどこか違う。普通の生活は欲張りかもしれない。

木村 序盤の研究なんかもしません。力で勝ってましたから。このまま自然に強くなると。小学2年からずっとそうでしたから。

鈴木 それが年齢制限を気にするようになるんだね。ある意味、戦場が平事に思えてしまうんではないだろうか。

木村 平事も有事も判りません(笑)。物心ついた時からプロですから。

―木村君が大学に行ったのは正解だと思う。非日常の奨励会生活を日常と思う人生だからだ。四段昇段を逃して、泣いた時の話になったら、本当に目に泪が溜まっていた。この対談中に泣いたのは彼が始めてである。私も半分もらい泣きをしそうになった。彼と将棋の関係を垣間見た瞬間でもある。

鈴木 三段リーグは何期指したの。

木村 13期、6年半です。前半は負け越しで、後半は勝ち越してました。

鈴木 特に上がれなかった理由は?

木村 上がる2年前くらいからです。序盤の研究をしたのは。半年が無機質に過ぎていきます。このまま将棋を辞めるのかな、て思ったりしました。

鈴木 君にとって将棋は、人生のパートナーだよね。同じ諦めるでも、他の人とは少し違うと思う。

木村 考えられないです。ここまでやったんだから胸を張って辞められる、と思うまで努力しようと思いました。

鈴木 「限界までの努力」は大切です。どうなっても、いつかその力を発揮して頭角を現すことができる。

木村 週1回、大学に行っている以外は上がれない理由はない、と思いました。それでも、2度最終局に負けて上がれない時はショックでした。

鈴木 野月君は、頑張れ木村と書いていたね。

木村 その時は沼さんと飲んでいて、泣けて泣けて、ただ泣いてました。負けた野月が入ってきて、外に出たんです。そのまま連盟に歩いて、野月が上がったことを知りました。彼は知りませんから、知らせに行って後は覚えていません。

鈴木 絶望の淵だよね。でも、その苦労はきっと活きる。僕は財産も何もないけれど、苦労が財産だと思っている。だから、どうなっても負けないつもりです。

木村 次のリーグが14勝4敗で上がりました。大学も同時に卒業しました。

鈴木 11年半だね。内心こんな筈ではなかったと。

木村 いや、嬉しかったです。どんなにお金を積まれても、三段リーグはもういいやです(笑)。

(以下略)

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鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平、この前の号に登場したのが野月浩貴四段(当時)だった。そして、この号は行方尚史六段(当時)の予定だったが、行方六段が「野月の次では濃すぎる」と辞退したという流れ。

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佐瀬勇次名誉九段は、弟子が高校へ進学することをあまり推奨しなかった。

しかし、一番弟子の故・米長邦雄永世棋聖がそれを破って大学まで行っている。

とはいえ、米長永世棋聖は佐瀬一門の中では別格であり、遠い昔の話でもあったため、高校へは行きづらい雰囲気が濃厚に残されていたのだと考えられる。

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棋士を目指している上で、高校や大学へ行ったほうが良いのか、あるいは高校には進学せず将棋100%の環境にした方が良いのか、これは正解がなく、人それぞれケースバイケースということになるのだろう。

どちらにしても大切なことは、悔いのないようにすることだと思う。

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木村一基三段(当時)が三段リーグ最終戦に敗れて昇段を逃し、師匠代わりの沼春雄六段(当時)と飲みながら泣いた時のことは、次の記事にも出ている。

1996年三段リーグ最終局

木村一基四段(当時)「あの恥ずかしく悔しい思いは、今も忘れることができない」

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木村一基八段が三段時代の自戦記→木村一基三段(当時)の自戦記「生意気小僧」

 

 

2001年の新春特別ドラマ『聖の青春』

将棋世界2001年2月号、『聖の青春』が正月ドラマで登場!!「あの感動をもう一度……。」より。

大反響を呼んだ『聖の青春』が新春特別ドラマとしてTVに登場します。

 難病と闘いながら名人を目指し、29歳で夭折した、故・村山聖九段の生涯を通して、師弟愛、親子愛、友情を描いた物語。主人公・聖役の藤原竜也、師匠森役の小林稔侍、本誌編集長の大崎役の寺島進ほか、多彩な出演陣で、観る者を再び感動の渦に巻き込みます。(平成13年1月6日午後2時よりTBS系にて放送)


インタビュー「激しさとデリケートさ」
演出の今野勉氏に聞く

―「聖の青春」をドラマ化するにあたって、ストーリーのどんなところに惹かれたのですか。

今野 ぼくは将棋が好きで、村山さんがTVに出てる映像はよく見ていたんですが、わりと礼儀正しくておとなしい、繊細な感じがしていたんです。でも、原作を読んでビックリしたのは、実際はすっごく激しい面を持っているんですよね。物凄い喧嘩をしたり、激しい言葉を投げつけたりとかね。そこが非常に驚きました。みんなが知ってる村山さんのイメージとはまた別の面をこの人は持っているなあと。多面性というものをね。想像以上に小さい頃から死の影を背負っていて、激しさの裏にはそういう苛立ちみたいなものがあったんじゃないかと。それで友達とか両親に激しくあたっていたという。もちろん、病気と闘っているというのは大筋でありますが、そういう激しさとデリケートな部分を出したいなあと思っています。

―主人公の村山聖役に藤原竜也さんを選んだ理由は?

今野 いま言った激しさとデリケートな感じが一緒に出せる、そういうキャラクターであるという点がひとつ。そして13歳ぐらいから亡くなる29歳までを一人の俳優でやりたい。すると、(役者には)少年の顔を持ちながら青年の顔も持っていることが必要で、それを最優先しました。実際の村山さんの顔に似ているか似ていないかというのは、見る人にとってはどうでもいいことです。むしろ、どういう人間だったかが大事なわけだから。あと、村山さんのお父さんが、もしドラマで聖の役を誰か俳優が演じるとしたら、藤原竜也がいいなあと実は思っていたそうなんですよ。聖が病気しないであのまま大きくなったら、竜也君のような青年になったんじゃないかと思っていたらしいです。そういう意味でも、選択は間違いなかったと思っています。

―村山さんの人生もそうですが、森さんとの師弟関係が、なぜこれほど世間の共感を呼んだのでしょう。

今野 森さんの生活もそうだし、村山さんの大阪での生活もそうなんですが、現代のような物が溢れてリッチな時代に、ああいう素朴な生活というか、いわば”貧乏暮らし”ですよね。そういう生活をあえて選んで生きている青年がいるっていうのが、ぼくなんかにとっては驚きなんです。これはきっと世間の人にとっても驚きなんじゃないかなあ。強い棋士というとね、最近は割と結構ブランド物を着て派手っていうイメージがあるんです。でも村山さんは、森先生を真似したのかもしれないけれどもそういう都会的な生活にこだわらないですよね。お金のことはどうでもいいみたいなところがあるし、汚い部屋をずっと手放さなかったりしてね。ぼくはそういう若者たちが今でもいるとは思ってなかったんです。

―このドラマを通して視聴者の皆さんにどんなことを訴えたいですか。

今野 人生何がやりたいか。その目的がはっきりしていれば、お金とか豊かさに関係なく、人間は幸せになれるっていうことです。彼は病気だったけど、ある面で目標を見つけたんでね。まっしぐらに行ったし。森先生っていう人は、自分は将棋はそんなに強くないかもしれないけれども、村山さんにただ将棋を教えたんじゃなくて生き方を教えたんだと思うんですよね。単に一生懸命になるんじゃなくて、世の中にはいろんな生き方があるんだよと。そういうことを村山さんは教えられて、生きる目標を定められたんだと思います。


今野勉 演出家

昭和11年4月2日秋田県出身。34年東北大学文学部卒。同年ラジオ東京(現TBS)入社。テレビ演出部に所属。ドラマ「土曜と月曜の間」で日本初のイタリア賞グランプリ受賞。「七人の刑事」を約50本演出。放送作家協会演出家賞受賞。45年テレビマンユニオン創立に参加。以降、ドラマ・舞台の演出のほかドキュメンタリー番組など数多く手がけ、数々の賞を獲得。著書も多数。平成12年よりテレビマンユニオン取締役相談役、武蔵野美術大学映像学科主任教授。

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将棋世界2001年3月号、森信雄六段(当時)の「風景110 中山寺に初詣に行く」より。

 1月6日にテレビドラマ「聖の青春」が放映された。切なさがしみてくる。広島の橋での「死を認めたくない」と言うセリフのシーンが私には印象的だった。

 大阪のロケで2日間立ち会わせてもらったが、寒さで凍えながらも、主演の藤原竜也さん、小林稔侍さん、制作スタッフの皆さんの真剣さと暖かさに溶け込ませてもらえて、うれしかった。

 ありがとうございました。

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新春特別ドラマ『聖の青春』、私はリアルタイムでは見逃してしまっているが、Youtubeに10分ほどの映像がアップされていた時期があり、それを見たことがある。

ちょうど、関西将棋会館で森信雄四段(小林稔侍さん)が母に連れられた村山聖少年(藤原竜也さん)と初めて会う前後のシーン。

病気のことを話し、弟子入りできるかどうか不安そうな母と村山少年

森四段「ええよ」

ほっとしながら喜ぶ母と村山少年

森四段「顔を見ればわかるんや」

この、「ええよ」と「顔を見ればわかるんや」と言う時の小林稔侍さんがたまらなく優しくて、見ていて涙が出そうになる。

森信雄七段と小林稔侍さんではイメージが随分違うよなあ、と見る前は思っていたのだが、このシーンを見ただけでも小林稔侍さんが絶妙のキャスティングであることを理解できた。

その前の、森四段が初めて登場するシーンは雀荘で麻雀を打っている場面。カップ焼きそばを食べながら打っているのだが、ソースをそばにからませようとしているのか、ひとくち食べるまでに何度も箸で焼きそばを掴み直すのが印象的だった。

このドラマが、映画『聖の青春』の封切り日と同じ11月19日(土)と11月25日(金)にTBSチャンネル(CS放送)で放映される。

11/19(土)午前7:00~午前8:40
11/25(金)午後5:50~午後7:30

聖の青春(TBSチャンネル)

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11月2日に行われた東京・神楽坂で行われた、森信雄七段と大崎善生さんのトークショー「村山聖という天才がいた」。

森信雄七段と大崎善生さんが登場した後、冒頭に映画『聖の青春』の予告編が流された。

森七段は、顔だけ後ろ向きになり、その映像をずっと見ていた。森七段にとっては、もう何十回、あるいは100回以上も見ているであろう映像を。

村山九段に対する森七段の思いがそのまま現れているようで、私は胸が熱くなった。

 

 

二上達也九段を偲ぶ

将棋ペンクラブ会報2007年春号、二上達也九段(当時・将棋ペンクラブ名誉会長)と作家の高田宏さん(当時・将棋ペンクラブ会長)の新春対談より。

文字起こしは私が担当しました。編集前のバージョンなので多少冗長になっている部分があるかもしれませんが、お二人の話がほとんど全て盛り込まれているバージョンでもあります。

=6人兄弟の末っ子=

高田 二上さんと私は同じ昭和7年生まれなんですよね。二上さんは早生まれだから、学年は一つ上ということになりますが。終戦の日はいかがされていましたか?

二上 当時、ラジオのある家は少なかったのですが、家にはあったので「謹んで聞きなさい」と言われて玉音放送を聞きました。聞き取りづらかっし、言葉も難しかったので「最後まで頑張れ」という内容かと思っていました。周りにいた人達は結構喜んでいましたね。

高田 私は、陸軍幼年学校に入ろうと思っていたのですが、試験日の前に終戦になってしまいました。あの日は海洋訓練(潜水海底歩行)があったのですが、12時に着くように家に帰れと言われて、ラジオの前に直立不動になって聞きました。終戦の頃はすでに将棋を指されていましたか?

二上 はい。仲間同士でやっていました。あの頃は、はさみ将棋でも山崩しでもない本将棋のできることが自慢になりましたからね。函館に将棋会所がありまして、ここは駅前旅館もやっていたのですが、主人が海産物のブローカーで、東京や大阪へ海産物を持っていった帰りに、色々な物を仕入れてくるんですね。それが将棋大会の景品になったりしていました。

高田 ご実家は網元をなさっていたんですよね。

二上 ええ、でもせっかく財をなしたのにインフレでパーになりました。とは言え、生活は楽でしたが。

高田 ご兄弟は?

二上 8人兄弟の末っ子です。姉が6人で一番上の姉とは23歳、途中の兄とは17歳離れています。兄は保護者的な存在で当人も意識していました。

高田 それだけ女性に囲まれてお育ちになられていかがでした?その後、女性には頭が上がらないほうになるのか、似たような意味で、本当のフェミニストになられるのではないかと思うのですが。

二上 どうでしょうかね。とにかく可愛がられたということは自覚していますね。もっとも、私がお袋に可愛がられるのを見て、兄弟でやきもちを焼いていたのか、特に歳の近い姉にはいじめられたという覚えがあります。

高田 弟ばかり可愛がられて。

二上 母親にいつもべったりくっついている感じですからね。

高田 少々悪さをしても怒られない。

二上 そうですね。怒られた記憶はないですね、

高田 お母様はおいくつで。

二上 私はお袋が41か42のときに産まれたのですが、40そこそこで亡くなりました。

高田 やはり、優しい、美しい母親というのがずっとそのままですよね。皺皺になったお母さんなんて想像ができない。

二上 ええ。 

高田 母親像というのは小説家にも結構あるんですよ。若いうちに母親を亡くした作家は女性、特に母親に対して、若くて美しいイメージをずっと持っていますからね。女性に対する尊崇の念というか、もう女神ですね。谷崎潤一郎などがいい例です。僕の母親は84まで生きまして、老いたる母を見ていますから、若いときの母はイメージできない。ある意味では二上さんのように、若いうちのお母さんがそのままずっと胸の中に生きておられるのはうらやましいです。今、お姉さまがたは?

二上 一番上の姉と兄が亡くなりましたが、あとは元気です。

高田 一番下のお姉さまでも76か77ですか。二上家は長生きのご家系かもしれませんね。記録更新で百歳いってください。

二上 我々だと盤寿(81歳)、まずそれを目標にして、それをクリアしたら次の段階で、じゃあいこうかと。

高田 やはり81を欠かすわけにはいきませんね。将棋人として。

二上 理想的なのは81歳で将棋の日にお亡くなりになった木村名人ですね。

=大山、升田、加藤(一)=

高田 木村名人のお名前が出たところで、何人かの棋士についての、二上さんのとっておきのエピソードを教えていただければと思います。まずは升田さんから。二上さんは対升田戦29勝23敗1持将棋と大きく勝ち越しておられるんですね。

二上 升田さんとは割に指しやすいというのか、勝負に関しては相性が良かったです。

升田さんは言うことはキツイんですが根は気が優しいんですね。対照的なのが大山さんですね。当時の升田さんの腰掛銀とかね。同じ腰掛銀でも私は飛車先を交換する腰掛銀が得意だったんですが升田さんは角換わり腰掛銀が得意。私が先手番のことが多かったですから、得意な指し方ができるんですよ。先手のときはほとんど作戦勝ちになりました。また升田さんもそのように指してくれるんですね。

高田 升田さんから見れば、何と指しにくい相手だと思われたんじゃないですか。

二上 むしろ、どんと向かって来いというような、受けて立つ感じだったのかもしれません。

高田 対升田戦、第一戦は覚えておられます?

二上 内容は覚えていませんが、最初勝ったんですね。最初勝つと、何か指しやすいと感じるようになるものです。

高田 そうすると星勘定としては、どんどん勝ち星が先行されたんですか。

二上 そうですね。やはりこちらは上り坂にあるわけですし、当時の流行の指し方をより多く吸収していますから。それを升田さんが受けて立つ。

高田 いなしたりはしないんですね。相撲でいえば突き出しという感じですか。

二上 そうですね。

高田 升田さんは二上さんよりも14歳年長、年長者としては闘志を燃やしにくいということもありますかね。

二上 そうでしょうね。頑張れるのは10歳違いまででしょうね。それ以上になるとちょっと駄目だなという感じになります。

高田 対升田戦、そんなにいい成績の方は大山さん以外でいらっしゃいませんよね。

二上 その半面で、大山さんには酷い目にあったんです。

高田 大山さんとのタイトル戦をなんと20回も戦っておられるんですね。これもすごいことだと思いますが。

二上 大山さんも最初は対戦成績良かったんですよ。でも途中から、こいつには油断できないと思ったんでしょうね。だから、ことさら私とやるときは力を入れてきました。心理的なもので、全くこっちのやっていることをやればいいと、コツを読み取られてしまったんですよね。前の日の麻雀で、相手がやろうといえば私も逃げないほうですから、ところが、前の日の麻雀の結果が将棋に影響するんですね。私の師匠の渡辺東一先生は麻雀が好きだけど弱いんですが、大山さんが麻雀に引っ張り込んで、当然大山さんが勝って渡辺先生が負けます。ところが大山さんはお金を取らないんですね。私が払うわけではないのですが、何となく引け目を感じてしまうんですね。

高田 でも最初のうちはそうでもなくて、大山さんからタイトルを奪取されたのは割と早い時期だったんですね。対大山タイトル戦の2回目くらいですか。

二上 はい。内容的にもずっといいんですよね。番勝負でもはじめ2局くらい続けて勝つんですね。こっちも甘いのかなあ、もうこれはいただきと思ってしまうんですね。ところがどっこい…

高田 そうか、2連勝4連敗というのがいくつかあるんですね。

二上 精神的な弱点をつかまれてしまったんですね。それから、大山さんは健啖家ですし、私は酒飲みで、酒を飲んで休むというのが私のペースなのですが、大山さんが「あなたは飲めるんだから飲みなさい」と言って酒をどんどん注いでくれるんですね。しかも大山さんは、夕食が済んだのにステーキを注文して目の前でどんどん食べるんですね。見ているだけで嫌になってしまうんですね。

高田 それはちょっとこたえますよね。

二上 こっちはマイペースで酒を飲みたいのに後半はマイペースじゃなくなっちゃうんですよね。

高田 大山さんの最盛期に二上さんはぶつかられたんですね。

二上 はい、反面それで鍛えられたというのはありますね。だからAクラスに27年いれた、これだけが私の自慢です。今だってAクラス20年も頑張れる人はいないでしょう。

高田 その大山さんがいらしたから二上さんがそうなれたとも言えるけれど、歴史に「たられば」はないというけれど、大山さんがいらっしゃらなかったら、二上さんが大山さんの場所を占めておられた可能性は非常にあると考えてみると、楽しいというか、ちょっとそれが残念だともいえるけれど。

二上 どうでしょうね、自分で甘いところがあると思っているわけですから。

高田 それから、ご本読んでいて面白いのは、加藤一二三さんと百局近く対戦なさって、これはわずかに勝ち越していると。加藤さんとは9学年違うんですね。大山さんとも9学年。若手に勝ち越すのはすごいですよね。

二上 加藤さんの場合には当時の若手で最新鋭ですね。こっちも血気盛んな頃だから「この若造め」という思いもありましたから。

高田 記憶に残る対局は?

二上 千日手模様で手を変えて負けた対局ですね。もともと千日手は大嫌いなんですが、手を変えても勝てるとちょっと甘く考えたんですね、ところが加藤さんにきっちりと受けられて。

高田 ほとんど千日手はないですか。

二上 意識して千日手にしたのは升田さんとの名人挑戦がかかった一戦だけです。その頃、名人戦の挑戦者にだけはなったことがなかったんですね。それで千日手でもいいやと。

高田 二上さんの性格とか好みからいうと、あまり千日手にはしたくなかったんですね。

二上 ええ。まだその頃は千日手に対して批判的な人も多かったですし。

高田 それ以外に加藤さんとの思い出の対局はありますか。

二上 京都新聞の肝いりで、南口門下になって間もなかった頃の加藤さんとのお好み対局があったんですね。まだ加藤さんは学生服姿でした。そういう場面だとこちらも気が楽だし、接待されてお酒も飲めるし。

=理事、会長時代=

高田 連盟の理事として、そして会長としての時代について色々おうかがいしたいと思いますが。会長は14年なさっておられるんですよね。

二上 これも妙な意地なんですが、大山さんが会長12年務めているので、それ以上務めようという。理事選挙については、今は立候補方式になりましたが、昔は互選方式でした。互選方式だとA級棋士を役員にしたがるわけなんですが、山田道美さんが「将棋を頑張りたいから辞退させてくれ」と言って辞退したんですね。私も山田さんが辞退できるのだから自分も大丈夫だろうと思って辞退しようとしかけたんです。そうしたら、雰囲気でわかるものなのか、加藤治郎先生がやってきて大きな声で「お前ダメだよ」と。

高田 理事の期間も相当長いですよね。

二上 その頃は、私も稼ぎ頭の頃ですから。当時は賞金制ではないので、Aクラスにいて、九段戦、王将戦、王位戦、全部のリーグ戦に入っていて、懐がいいからついつい人に奢るというか、またそれを当てにして集まるのがいるんですね。芹沢さんなんかその最たるものでした。脇が甘いんですね。

高田 会長になられた時はまだ現役でいらっしゃったんですよね。

二上 現役生活40年というのに意味があるんですね。将棋の駒が40枚ですから。こじつけですけれども。

高田 でも、そこでスパッと引退なさって。

二上 もう羽生が出てきて、本音言いますと、羽生と順位戦指したくなかったんですね。順位戦だと本場所、他の棋戦では何回かやっていますが、本場所で負かされてはかなわないですから。

高田 40年で潔く引退されて、引退というのは難しいですね。野球選手もそうですが、ボロボロになっても続けるというのもひとつの生き方だけれども、スパッとお辞めになるというのは美学ですものね。奥様にはご相談はされましたか。

二上 相談というより、辞めるよと言っただけです。

高田 奥様はどうおっしゃいました。

二上 「あ、そう」でした

高田 奥様の胸の内を察するに、ホッとされる面もあるのではないですか。厳しい勝負の世界だけの何十年でいらしたわけですからね。やはり大事な勝負に負けてお帰りになったら機嫌が良くないでしょうから。

二上 そういうところを見せたくないという部分もありますよね。

高田 腫れ物に触るような。

二上 そうだと思いますね。いかにも負けたというのは見せたくありませんから、かえって元気なところを見せたりして。

高田 それはきっと、奥様は気が付いていたでしょうね。

二上 最近わかったんですが、新聞で将棋に関係することをよく読んでいるんですね。将棋のこと、ここに出てるよなんて。

高田 現役時代は口に出されなかったんですね。お互いが素知らぬ振りをするすごく素敵なご夫妻という感じがしますよ。お子様がたも、そういうご両親を見て育たれたんでしょうからね。

二上 子供は皆独立してやっています。女女男男で皆50過ぎになったかな。孫は一人います。昔から一姫二太郎といいますが、やはり女の子のほうが育てやすいですね。しかし女が二人だと男も欲しいなということになって。

高田 一姫二太郎×2ですね。お子様4人というのはいいですよね。

二上 はじめは子供をつくるなら、野球のチームが作れる9人がいいなと思っていたんですが、初め女の子でしたので野球を教えるのもどうかなと。

高田 野球がお好きなんですね。

二上 はい、立教大学に将棋の関係で友達がいまして、その頃の野球部が優勝候補で長島さんもいた時代です。立教に将棋部ができたころで、そのメンバーとは今でも付き合いがあります。

高田 話は戻りますが、連盟の会長、理事時代に一番ご苦労なさったことは何ですか。

二上 やはり名人戦問題ですね。朝日新聞が名人戦を持っていた頃で私が渉外担当の時です。その時は碁がからんでくるんですね。その年は名人戦の契約金が三千万から三千三百万に一割上がって円満に契約更新したのですが、後になって囲碁の名人戦を朝日が一億三千万でやることが判明したんです。その年は仕方がないけど、来年は将棋のほうも一億出してくれと頑張りました。それで先方からの回答が七千五百万でした。向こうは今までの倍以上出すんだから文句あるかみたいな態度なんです。でも碁に一億以上出しているわけですからね。もう一声あるとこっちも悩んだんですけれど。

高田 九千万と言われたら。

二上 そう、それだと悩む。これも後からわかったことなのですが、予算の出場所が部単位だったらしいですね。今は会社単位ですが。

高田 それで決裂して、やはり名人戦問題が一番の難題だったわけですね。棋士からは突き上げられ、新聞社の矢面に立つ。板挟みですね。

二上 当時の担当部長には気の毒なことをして、その後朝日を辞められました。ただ「コロンブスの卵みたいなもので、やってみれば後からわかりますよ」と言われましたが、こちらとしては実際の数字を示してもらわないことには判断のしようがありませんので。

高田 どういう意味なんでしょうね。

二上 よくわからないんですよ。

高田 他に大きな問題といいますと。

二上 加藤治郎会長時代の新会館建設のための募金活動ですね。募金活動には大山さんの力が必要なのですが、大山さんをどうやって説得するか、大山さんを担ぎ出すのには苦労しました。大山さんが理事会を非難するんですよ。あれがいるから駄目、これがいるから駄目と。それで理事会が総退陣したんです。さすがにそうなると大山さんも嫌だとは言えなくなるんですね。建設委員には大山、升田、塚田の三巨頭を入れないといけませんから、三人に集まっていただいて私がお願いしました。会長も引き受けてくれるようお願いしました。大山さんか升田さんが会長を引き受けるかなと思ったのですが、お互いに牽制しあって「うん」と言わないんですね。会長を誰がやるかすったもんだしている中で、塚田さんは正直なのか「僕はやらないとは言ってないよ」の一言で塚田会長に決まりました。

高田 どこで会談されたんですか。

二上 東中野の小料理屋でした。

高田 これは将棋界にとって非常に重要な会談だったんですね。三巨頭のお名前があれば募金活動も進めやすい。

二上 一番大山さんの力が大きいですね。岡山県の財界にも顔が広かったですし。

=師匠として=

高田 師匠として二上さん、羽生さんが出世頭ですが。

二上 羽生とは思い出らしい思いではないのですが、八王子に奨励会の初段までやった私の弟子がいたんですね。寿司屋さんをやっていますが、その弟子が小学生名人になった時の羽生を私の家に連れてきたんですね。

高田 直接教えることはあったんですか。

二上 いえ、直接は教えてないです。正月に年賀に来た時に指したことがあるくらいですね。

高田 お弟子さんの華々しい活躍は嬉しいものですよね。特に七冠の時とか。

二上 ええ、七冠になる前の年に七冠目前で負けているんですよね。不思議なものでそれがいい薬になったのだと思います。最初にすんなりなっちゃうと、そうは長く持たない。でも、もう七冠は出ないでしょうね。将棋指すだけならいいのですが、間に旅行日や催しがありますから大変です。

高田 羽生さんは早くから永世名人を取るだろうと言われて、まだ獲得には至っていませんが、これはいかがですか。

二上 それでいいんですよ。何でもかんでも目標を達成するのはいいことではありませんから。

高田 それはそうだと思いますよね。全部達成したら、それこそ燃え尽き症候群にならないとも限りませんものね。棋戦によって相性というものはありますか。

二上 ありますね。体調の具合もあるし精神的なものもあるし、それがうまい具合に合うといいんですね。私の場合は調子の波が3ヵ月毎に来るんです。その時にはまるといいんです。

=王将会=

高田 土曜日に王将会という教室を開かれていらっしゃるんですね。本気でアマチュアを負かしているという噂があるんですが。

二上 いえ、そんなことはないですよ。緩めていますよ。でもやっぱり自分で将棋が好きなんだな。

高田 やっぱり、負けるのが嫌いなんじゃないですか。

二上 そうそう、見え透いたことはできませんからね。

高田 察するに、アマチュアを指導なさって負けると、子供に負けたような嫌な気分がおありなのではないですか。

二上 とにかく負けるということは嫌なものですね。

高田 やっぱり勝負師なんですよ。

二上 僕が見ていて、羽生は負け方が上手です。相手の力量を測れるんですね。私は自分だけで目一杯ですから。

高田 手加減したつもりが相手を踏み潰していたということですね。

二上 王将会は今年で30年を迎えまして、記念の会を新年に催しました。

=酒と歌=

高田 酒は若い頃から飲まれたんですか?

二上 はい、渡辺先生の代稽古で恵比寿の日本麦酒(現サッポロビール)に行っていたんです。ビール会社なので将棋指しながらビールが出てくるんですね。今でいう生ビールです。これがうまいんですね。それで酒好きになりました。

高田 ビールは僕の大学生時代、一度も飲んでいませんよ。手が出ない。はるか雲の上のアルコールでね。焼酎やドブロクばかりでした。

二上 昔は酒屋さんの店頭で飲む人も多かったですね。おかずはそのへんの缶詰で。昔は新宿将棋センターのあるビルの1階がそういう酒屋でした。

高田 今は日本酒が中心ですか。

二上 今は、やっぱりビールですね。でも頂き物の洋酒が家に山ほどありまして、それを片付けなければならないんです。

高田 奥様もご一緒に。

二上 いや、飲まないですね。そういえば昔はウイスキーといえばハイボールで飲んでいました。あれはクラブなんですね。高いんだな、1杯千五百円でした。

高田 猛烈に収入が多かった頃ですよね。

二上 当時は対局料もその日に現金払いでしたから。

高田 酔っ払って落としたことはないですか。

二上 あります。

高田 それから、カラオケがお好きなんでしょう。

二上 カラオケにはちょっとうるさいです。

高田 お得意の曲を3曲あげていただけますか。

二上 まず「いい日旅立ち」です。

高田 山口百恵が歌って、鬼塚ちひろも歌って…

二上 あと谷村新司ですね。音楽関係の知人によると私の場合は谷村新司バージョンを歌うといいらしいのです。

高田 あとお好きな曲は。

二上 あと、自分の職業柄、石原裕次郎の「王将・夫婦駒」。「王将」は歌わないな。それから五輪真弓の「恋人よ」です。ところで、私は小唄の名取なんです。岩井延達という名で。「のぶたつ」なのですが「エンタツ」と言われたりしたり。「マイク二上」とも呼ばれていますが。

高田 マイクを離さないマイク二上のお話が出たところで、今日は本当に有り難うございました。

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高田宏さん(高田尚平六段のお父様でもある)が亡くなられたのが昨年の11月24日、そして二上達也九段が今年の11月1日。

二人のこの対談に同席できていたということだけでも、私にとっての心の財産となっている。

 

 

山崎隆之四段(当時)から森信雄六段(当時)への報告

将棋世界2001年1月号、「山崎新人王に、”直撃”インタビュー」より。

―優勝おめでとうございます。一夜明けましたが、ぐっすり眠れましたか?

山崎 はい、よく眠れました。

―プロ3年での初優勝ですが、改めて心境を聞かせてください。

山崎 優勝というものがどういうものなのか分からないので、、まだ実感がありません。ただ、番勝負が初めてだったので、それが終わっちゃったんだなあっていう気持ちです。

―山崎さんにとっての三番勝負はいかがでしたか。

山崎 1回負けてもまだ指せるので、随分とたくさん将棋が指せるなあと思って楽しかったです。もちろん負けるのは嫌ですけど(笑)、3局指せればいいなあと思っていました。

(中略)

―そして第3局は振り駒。先手で三たび角換わりになりましたね。

山崎 ぼくが先手なら、角換わりで行こうと思っていました。第2局を負けたので、第3局は逃げられないぞって。もう一度やってやろうと。

―▲8三銀不成~▲7二銀不成~▲8三銀成という銀の使い方に控え室はびっくりしていました。特に▲8三銀成の手は北浜六段は全然見えていなかったそうです。

山崎 ▲8四銀は北浜六段が長考しているときに”もしかしたら、あるかな”と考えていました。▲8三銀成は▲8三銀不成としたときからの予定で、指した瞬間”まだ何かありそうだけど、こちらが良くなったかな”と感じました。ただ、(▲8三銀不成からの構想は)実際には▲5六歩というもっといい手がありましたからね。

―どのあたりで勝ったと思いましたか。

山崎 ▲5二成銀と寄ったところですね。”間違いがなければ勝てる”と思いました。

(中略)

―羽生五冠以来の十代での新人王です。

山崎 新人王というよりも、ぼく自身がまだ新人という感じなので(笑)。

―歴代新人王の中に、師匠(森信雄六段)の名前も見られます。テレビのインタビューで「真っ先に師匠に優勝を知らせたい」とおっしゃっていましたね。

山崎 師匠には、打ち上げの時に電話したのですが、「連絡が遅いから、負けたかと思うたやないか」とおっしゃっていました。自分にしては早く知らせたつもりだったんですが(笑)。

―山崎四段の戦い振りに、関西では大変盛り上がっていたそうです。先輩棋士や関西ファンの皆さんにひと言。

山崎 ぼくは、研究よりも実戦が主なので、先輩の方たちには、これからも実戦をたくさんお願いしたいと思います。ファンの皆さんには「最後まであきらめるな」とか「油断するな」とかいろいろアドバイスをしていただいたのが励みになりました。ありがとうございました。

―プロ3年目の今期は、勝率が7割を超えています。調子はどうですか?

山崎 例年に比べればいい方でしょうか。ぼくは、あまり調子のことは考えていません。それよりも、今期は対局をたくさん指したいです。勝率ももちろん7割は超えたいですけど、とにかく対局をたくさん指したいです。

―対局が好きなんですね。

山崎 昨年度は、対局がない時期がありましたので、つらかったです。

―つらい?どういうつらさなんでしょうか。淋しいんですか。

山崎 淋しいどころじゃないですね。棋士として生きている実感がないっていうつらさです。

―これで、棋士として一つキャリアができたわけですが、次の目標は?

山崎 目標はたくさんありますが、まず、タイトルに挑戦したいです。そして、タイトルがほしいです。

―これをきっかけに活躍を期待しています。ありがとうございました。

 

yamasaki
将棋世界2001年1月号掲載の写真の一部。新人王戦第3局の時の山崎隆之四段(当時)の気合の入った表情。撮影は中野伴水さん。

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「連絡が遅いから、負けたかと思うたやないか」と言いながらも、電話の向こう側で本当に嬉しそうな顔をしている森信雄六段(当時)の姿がすぐに頭に浮かんできて、ほのぼのとしてしまった。

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この対局は東京の将棋会館で行われているので、感想戦終了後、すぐに打ち上げとなる手順。

もし師匠に電話をするとしたら、4階の対局室から5階の打ち上げ会場まで行く間に3階の事務室へ降りていって電話をする、ということになるが、このタイミングを逃すと、打ち上げの最中に電話をすることになる。

19歳の山崎隆之四段(当時)が、4階から5階へ向かうこの怒涛の流れを振り切って3階へ行くのはかなり難しい雰囲気だったかもしれない。

そういう意味では、山崎隆之四段の「自分にしては早く知らせたつもりだったんですが(笑)」は、かなりベストを尽くした結果だったとも考えられる。