「インタビュー・対談」カテゴリーアーカイブ

福崎文吾王座(当時)「途方にくれてます」

将棋マガジン1992年1月号、池崎和記さんの新王座・福崎文吾に直撃インタビュー「矢倉と穴熊に磨きをかけたい」より。

―福崎さんは十段位を取ったころは穴熊が多かったですよね。それまでもよく指していたから、世間一般のイメージでは「穴熊の福崎」というのが相当ある。ところが1年後、高橋さんとの防衛戦のときは全局矢倉でした。あれはどういう理由で?

福崎 気分的なものですよ。そのときは矢倉をやりたいという心境だった。

―穴熊が嫌いになった?

福崎 穴熊は嫌いじゃないし、飽きたということもないけど、そのときはなぜかやる気がしなかった。でも急に嫌いになることもあるんですよ。

―けっこう気分屋なんですね。

福崎 矢倉は前から面白いと思ってたんです。でも、ちょっと怖かった。ギリギリの一手違いになるしね。

―一手違いは穴熊も同じですよ。

福崎 そうですけど、穴熊は考え方で2,3手空くときがあるんですよ。

―もともとは振り飛車党ですね。

福崎 アマチュア時代は振り飛車党でした。奨励会試験は穴熊で受かって、奨励会に入ってからも3局に1局くらい穴熊をやってましたね。矢倉をやったのは棋士になってからです。

―現在は純粋な居飛車党。

福崎 5年も居飛車をやってたら、居飛車党ですよ。

―矢倉だと、福崎さんの良さが出にくいということはありませんか?

福崎 そんなことない(笑)。

―僕らアマチュアには、矢倉はみんな同じように見えてしまうんです。昔、僕は森下六段に「矢倉ほど個性の出る戦法はない」と言われたことがあります。「みんなが同じような戦型をやっている。だからこそ、そこで個性が出るんだ」って。

福崎 アマチュアで矢倉がわかる人って、相当棋力が高い人でしょう。ちょっとした違いがわかるというのはね。

(中略)

―戦法が仮に10あるとして、いま矢倉をどのくらい指していますか?

福崎 8か9ですね。僕は矢倉を指す多さでは、5本の指に入ると言われたことがありますよ。

―さっき、矢倉を指してきたのは気分的なものと言いましたよね。ところが王座戦ではいきなり穴熊でした。あれはまたどうして?

福崎 あれは週刊将棋に書いてある通りですよ。(注=10月30日号に「第1局当時、谷川さんは矢倉党の中田宏樹五段と王位戦を争っていました。同じ戦型ではつまらない、と対局の朝、ふと思ったんです」という福崎王座のコメントが載っている)。

―でも王座戦開幕前の同紙9月4日号では、「最近はずっと居飛車を指しているので、タイトル戦でも居飛車でしょう。振り飛車は忘れました」の発言もある。切り換えが鮮やかすぎるんじゃないですか。

福崎 気分的なものなんですよ。損とか得とかじゃなくて。

―僕のうがった見方かもしれませんが、福崎さんはみんなが注目している勝負では「アピール性の高い将棋を」という気持ちがあるんじゃないですか。驚かせてやろうとか、あるいはサービス精神……。

福崎 それはないですよ。

―でも今期NHK杯戦の対小林宏戦でも振り飛車穴熊をやっていますね。NHK杯戦は視聴率も高いし。

福崎 目立つところで、1局でも穴熊指してたら、納得するでしょう。

―ファンが?

福崎 そう、そう(笑)。

―そういうところで穴熊をやってるから、やっぱりファンの目を意識してサービスしてるのかな、と僕なんか思うわけですよ。

福崎 サービスというか、1回やったら納得しはるでしょう。毎回やれと言われたら困りますが(笑)。王座戦でも1回穴熊をやって、それで負けたらやめるつもりでしたよ。

―王座戦の穴熊は目立ちましたね。

福崎 そうですね。それに、谷川さんとは穴熊でまだ決着がついてなかったですからね。

―過去の対戦成績を見ると、穴熊ではかなり分がいいですね。

福崎 谷川さんもたぶん、1回は穴熊をやって欲しかったと思うんですよ。まあ3番もやったのはやり過ぎやけどね。僕が最初2連敗して、3局目に穴熊を使うということになれば、もうちょっと分かりやすかったんですがね。それが1局目になっただけの話なんですよ。

―そうですか……。

福崎 王座戦が始まる前は、どうしようかな、と迷ってはいたんですよ。本当は第1局で先手番になったら、矢倉でいこうと思ってたんです。後手番だったら、谷川さんの角換りを避けるために振り飛車かなと。それで先手番になり、7六歩に8四歩と突かれた時、ふっと5六歩と突きたくなったんですよ。

―対局中に突然?

福崎 そう。結局、5六歩と突きたいから突いたんですよ。そしたら8五歩で77角に5四歩だからね。これはもう振り飛車でしょう。

―先手のときは矢倉の予定だったのに、気が変わったと。

福崎 角換わりもちょっと考えてましたけどね。もし後手番になったら、向こうは角換わりか矢倉か知りませんけど、角換わりの場合、こっちは腰掛け銀にするか、棒銀にするか、作戦を決めないといけないでしょう。いままで僕は棒銀が多かったんです。勝率も悪くはなかったんですけどね。でも最近、棒銀は減ってきているし、研究が盛んでしょう。それでちょっとね……。だから対局中は「こんなん、やるつもりはなかったのに……」と自分でも思いながら、振り飛車を始めたんですよ。

―谷川さんは意表を衝かれたでしょうね。

福崎 終わってからすぐ谷川さんが言うてはりましたよ。「(穴熊は)しないと言ってたじゃないですか」と。「ぶつぶつ」とも(笑)。

―「振り飛車は忘れました」という週刊将棋のコメントがありましたからね。

福崎 僕は穴熊をやらないとは言ってない。「使うかもしれない」と言ってるんです(笑)。でも第1局は結果が良かったからいいですけど、第2局は谷川さんの必殺の角換わりがありますからね。対策が決まらないうちには簡単にできない。二番煎じでやって、平凡に負けられへんしね。

―ところが第2局も穴熊。

福崎 角換わりの対策が見つからないから、僕は7六歩に3四歩と突いたんですよ。対策が見つかっていたら、7六歩に8四歩と突きますから。

―ところが4四歩に、谷川さんは2五歩と突いてきた。

福崎 あれは「もう一番、穴熊を」という注文ですね。

―その第2局も勝って2連勝。僕は第3局もてっきり穴熊だと思った。このまま穴熊で決着をつけるつもりかと……。ところが第3局は予想に反して矢倉でした。

福崎 ヘソ曲がりなのかもしれませんね。あの時は立ち会いが大内先生で、いかにも雰囲気が”穴熊”という感じでしょう。それで気が変わったりしてね(笑)。

―ただ、第3局の矢倉は谷川さんの立場からすると、カチンときたと思う。2連勝したから矢倉でもいいだろう、みたいな感じに映りますからね。

福崎 そんなん思わへんの違いますか。

―いや、谷川さんは思うでしょう。

福崎 ふだん、谷川さんとは対戦が全然ないしね。僕はそういうふうには思わないけど。カチンと来てるようには見えなかったですよ。

―谷川さんを怒らせるために、わざと矢倉をやったということはないですか。

福崎 そういうことはないですよ(笑)。

―第3局の矢倉は予定ですか。

福崎 先手やしね。自分では矢倉が得意だと思ってるからやったんですよ。それで完敗したら、周りは「なんで矢倉をやったにゃ」みたいな感じで(笑)。

―周りから見れば、そうなりますよ。

福崎 まあ、しゃあないですね。

―作戦が失敗した?

福崎 いや、失敗じゃないです。思った通りに行ってましたから。ただ、中盤の勝負どころで受けにまわったのが悪いてで……。作戦は失敗してないけど、谷川さんには通じなかったということですよ。

―第4局は袖飛車でしたね。

福崎 始めはちょっと悪かったけど、谷川さんが優位を拡大しようとしてきたときに、互角に戻ったんですよ。終盤は僕のほうに勝ちがあったと思うんですけど。

―2連勝して2連敗。勝負の流れから言えば、次の最終局は谷川乗りとなりますが……。

福崎 僕もアカンと思いましたよ。

―最終局は振り駒で、福崎さんが先手になった。振り飛車穴熊は最初からの予定ですか。

福崎 先手でも後手でも、振り飛車穴熊にするつもりでした。

―その将棋が千日手になった。そして指し直し局は矢倉。普通はもう一度穴熊を、となりませんか。

福崎 1局やったら僕はもういいんですよ。おいしいハンバーグを食べて、もう1回、同じハンバーグを食べられますか?

―勝負は違うでしょう。

福崎 だって、朝から体調を整え、「さあ穴熊だ」という感じでやって必死に戦い、最高にやった結果が千日手ですよ。もう、それ以上いいアイデアは出ない、僕の気持ちではね。

―そういうものですか。

福崎 谷川さんは振り飛車退治がすごくうまいんですよ。

―いやいや、福崎穴熊にはあまりうまくない(笑)。

福崎 昔ね、関西の棋士は振り飛車党が多かったんです。谷川さんは自分でも振り飛車をやってるし、対振り飛車もやってる。振り飛車の将棋に鍛えあげられているんですよ。だから千日手になったら、もう一番はできないですよ。

―指し直し局は持ち時間が少ないし、しかも後手番。また穴熊を、と考えるほうが自然では?

福崎 谷川さんは第一人者ですから、この戦法で行けば勝てるとか、そんなんあるはずないですよ(笑)。第一、王座戦でやった穴熊は全部、僕のほうが作戦負けしてるんですから。

―そうすると、すんなり矢倉に行ったと。

福崎 いつもどおりの自分に戻ったんですよ。

―控え室では「わからん」「なぜだ」という人がほとんどでした。やはり福崎さんは穴熊のイメージが強すぎるんですよ。

福崎 そろそろ払拭してもらいたいですね。

―払拭はできないですよ。作戦負けだろうが何だろうが、結果としては穴熊では負けてないんですから。「得意戦法は穴熊」というイメージがあるから、なぜやらないかと思うのが自然で、むしろ福崎さんの考えのほうが僕にはわかりにくい。

福崎 一つのことを考えてて、夜9時までやって結果が出なかったら、同じのをやる気はしないですけどね。

―勝っても負けても穴熊で、というふうには考えないんですね。

福崎 いや、考えられる限りのことは考えますよ。もちろん。ほんの一瞬ですけどね。

―千日手になって、30分後に指し直しだから、作戦を考える時間はほとんどなかったでしょうけど。

福崎 僥倖で(王座)取れて良かったですよ。

―終盤は二転三転という感じでしたね。

福崎 谷川さんにしては珍しいですよ。終盤、あまり間違えないですから。僕とやってペースが乱れたかな。

―福崎さんは、結婚して人生観が変わったということはないですか。僕は独身時代のことは知りませんが、昔は勝負師のかたまりみたいな感じだったとか。結婚して丸くなったということは?

福崎 自分では、変わったつもりはないですけどね。

―しかし戦法は変わった。高橋さんとの十段戦のときね、田中魁秀先生(福崎王座の師匠)がよく「なぜ穴熊をやらないんだ」っておっしゃってましたよ。最近でも「穴熊をやらないのは宝の持ち腐れ」とおっしゃってる。僕もそう思います。

福崎 穴熊はまたやろうと思ってますよ。やっぱり、注目されるほうをやったほうがね……。

―注目されるというのは素晴らしいことですよ。

福崎 でも、ちょっとイヤなことがあると、僕はやらない。気持ちの問題でやってますからね。

―いままで穴熊をやらなかったのは、周りの空気に反発して、ということはないですか。

福崎 みんなが「なぜだろう」と思うほど、本人は考えてないです。自分をごまかしてるつもりはないですよ。

―王座戦でいうと、挑戦者になるまで矢倉で勝ってきてますね。

福崎 でしょう?本当に穴熊をやるつもりなら、準決勝あたりから使ってもいいわけですからね。

― だから余計に、第1局の穴熊に意表を衝かれた、ということはある。

福崎 要するに、そういうことにこだわってなかったってことですよ。勝率が3、4割ぐらいのとき、周到に計画してさ(笑)、屋敷さんに始まって、青野先生、中原名人、米長先生と矢倉で勝って、タイトル戦になったら穴熊にしようなんて、そんなことできるわけない(笑)。

―言われてみたらそうですね。でも竜王戦の本戦トーナメントの対森下戦では、穴熊をやりましたよね。結果的には負けましたけど、あのとき多少は……。

福崎 王座戦の挑戦者に決まって間もないときでしたからね。あれは王座戦の練習(笑)。

―僕は竜王戦用に穴熊をやったのかと思いましたよ。

福崎 そのときは王座戦のことしか考えてなかった。僕は一つのことしか考えられへんから(笑)。3つも4つもタイトルを取ってたら別でしょうけど。

(中略)

―昔、福崎さんが十段戦の挑戦者になったとき、「僕は自分の好きな手を指す。たとえ棋理に合った手が他にあったとしても、嫌な手は指したくない」と話してくれたことがありました。第1局の5六歩の話を聞いたとき、僕はあのときの言葉を思い出しましたよ。全然変わってないなァと。

福崎 いま、将棋界は「悪い手をやったらアカン」みたいな感じでしょう。将棋の神様から見たら、初手から悪手やってる可能性だってあるわけですよ。よく「ここまで最善を尽くして」とか書いてるけど、その人の知能にとっては最善かもしれないが、将棋の神様から見たら、そんなん悪手のオンパレードかもしれないんです。だから、そんな手やったらアカンという根拠がね、成り立たないですよ。だから僕は好きな手をやるというか……。

―最後に現在の心境と、これからの抱負を。

福崎 途方にくれてます(笑)。

―王座になったんだから、そのコメントはダメです。

福崎 矢倉と穴熊に磨きをかけたい。これでいいですか(笑)。

* * * * *

王座就位式にて。近代将棋1992年2月号、撮影は炬口勝弘さん。

* * * * *

福崎文吾王座(当時)に池崎和記さんが鋭く迫る。

振り飛車穴熊と矢倉についての、非常に明快に見えるけれども禅問答のような福崎王座の思い。

福崎王座から見ると、和食の店で出し始めたグラタンが大好評で、グラタン目当てでやってくるお客さんがとても多い、という感じになるのだろうか。

* * * * *

谷川浩司竜王(当時)の「ぶつぶつ」が可笑しい。

関西の棋士同士ならではの感想戦。

* * * * *

「よく『ここまで最善を尽くして』とか書いてるけど、その人の知能にとっては最善かもしれないが、将棋の神様から見たら、そんなん悪手のオンパレードかもしれないんです。だから、そんな手やったらアカンという根拠がね、成り立たないですよ。だから僕は好きな手をやるというか……」

現代においても、この言葉は有効だと思う。

人間と人間の戦いにおいて、コンピュータソフトが示す手が絶対とは言い切れない。

 

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 村山聖五段の巻」

将棋世界1991年9月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 村山聖五段の巻」より。

将棋世界同じ号より。

―将棋の検討をしていて終盤の詰むや詰まざるやの局面になり、どうにも難しくて分からなくなったら「村山に聞け」というのが、若手棋士の間で合言葉になっています。めったなことでは他人をあてにしないプロ棋士が、全幅の信頼を寄せるというのは凄いことだと思います。今日は、村山さんの終盤力が、どのようにして培われていったのか、そのあたりのことを知りたいと思います。

「将棋を覚えたのは、小学校の1年の時だったと思います。ボクは、その頃から体が弱くて療養所のような病院に入院してたんです。でも、子供ですから一日中おとなしくしているなんてのは無理で、よく暴れたらしいんです。それで、室内ゲームの将棋を覚えさせれば、少しは静かにするだろうと……」

―読み筋がしっかりしていますね。お父さんはかなりの腕前だったのではないですか。段を持っていたとか。

「そんなに強くはありませんよ。初段近くはあったかもしれませんが、なにしろボクが全然弱いですから自分より強い人の棋力なんて分からないですよ。それと、普通の指し将棋だけじゃなく”ガチャ”とか”金ふり”とか教えてもらいました」

―”ガチャ”というのは何ですか。

「箱に入った将棋の駒を、その箱をひっくり返して盤の上に山盛りに置いて、それを音をさせないように取っていくんです。無事に取れれば自分のものになって、途中で音をさせたらアウトで相手の番になるというヤツです」

―関東の方では”山崩し”とか”お金将棋”とか言うヤツですね。村山さんは広島出身でしたね。ガチャというのはいかにも感じが出た言い方ですね。”金ふり”というのは、おそらく関東では回り将棋というやつでしょう。金4枚を振って、スタートの歩が、香~桂~銀と順に玉まで出世していくのを争うスゴロク感覚のゲームですね。

「ええ、それで、はじめのうちは、父がガチャとか回り将棋とかの相手をしてくれてました」

―うーん。まず、将棋の駒に慣れさせておいてとは、やはりお父さんの読み筋というかやり方には、相当な手練れを感じさせられますね。小さなお子さんがいる方で、将棋を教えようと思ったら、村山さんのお父さんのようなやり方は、非常に参考になる手筋だと思います。

(中略)

―将棋の上達ぐあいはどうでしたか。

「1,2年生の頃は、まったく熱心じゃなくて、たまにやるという感じでしたんで、上達するわけはなかったんですけど、3年生になった頃に、同じ病室に中学生か高校生の、初段と5級くらいの人が入ってきて、それから今までより少し熱心に将棋をやるようになりました」

―初段と5級というと、弱い方の5級の人でも初心者の村山さんにとっては大変な強敵だったと思いますが。

「ええ、それは、全然勝てませんよ」

―全然勝てないではイヤになりませんでしたか。

「そういうことはなかったみたいですね。あまり覚えていないんですけど、たまに緩めて勝たせてくれたのかな。それに他にやることがなかったというのもあったかもしれません。まあ、相手の人がボクよりずいぶん年上でしたから、負けるのが普通という感じもあったですから……」

―将棋はそのお兄さん達からいろいろ教わったのですか。

「特に教えてもらったということはなかったと思います。時々将棋を指すくらいでしたから。その頃に、親に将棋の本をねだって、買ってきてもらいました。初めて読んだのは、内藤先生の本で、題名はたしか『矢倉の囲い方』というのだったと思います」

―初めて将棋の本を読んでみてどうでしたか。

「ボクにとっては、書いてあることは全部すごいというか、なにしろ九段の先生が書いている訳ですからね。今でも印象に残っているのは、矢倉の4手角定跡がありますよね(1図参照)。

 この形から▲4五歩△同歩▲4四歩△同銀▲4五銀△同銀▲4四歩(2図)と攻めて行くんですけど、それを完全に覚えました」

―その攻め筋は、いわゆる定跡手順とはいえ、途中の二度にわたる▲4四歩が後手の受けを許さない手筋で、かなり高度な内容を含んでいると思います。(中略)それを読んだだけで全部覚えてしまうとは、さすがでしたね。

「いえ、そんな、とんでもない。実際に盤に並べてですよ。それも毎日毎日、何回も何回もですから。逆に相当にぶい方じゃないんでしょうか。やってた割にはそれ程強くなりませんでしたからね。しまいには、本を見なくても手順だけじゃなくて、そこに書いてある解説を空でいえるようになっちゃいましたけど、それは、中身を理解したというより単に丸暗記したというだけですから、自慢にはなりません」

―いや、それにしても凄いですよ。村山さんの将棋のやり方には、何か迫力のようなものを感じますね。

(中略)

「将棋世界の初段コースにも何年か応募していたんですよ」

―初めて挑戦というか、応募しはじめたのはいつ頃でしたか。

「やはり3年の頃だったですかね。さっきも言ったようにそれまではあまり熱心ではなかったんですけど3年の時からけっこう熱が入って来たんです」

―問題は難しかったですか。

「ボクに初段の力がないので、なかなか点数が取れなくて……。100点満点で60点とか70点が多かったかな。あの頃は、全問不正解でも、20点くらいだったのですかね、なんらかの点数がもらえて、あれでずいぶん助かったというか……。全部できてないと気分的にもがっくりきますからね。それが、少ないなりにも少しは点数がもらえるというのはありがたかったですよ。1年半か2年くらいかかって初段の認定を受けました。その時は嬉しかったです」

―上の段位には進まなかったんですか。

「続けて二段コースにもはがきを出しました。たしか、二段の認定も受かったと思いますよ」

(中略)

「将棋世界を読んで、初段コースに応募するようになった頃は、他にもいろいろ将棋の本を読みました」

―それは定跡書のようなものが多かったんですか。

「そうですね。大山先生の『将棋は四間飛車』とか『将棋は中飛車』のシリーズものとか、定跡の解説書みたいなものも読みましたけど、実戦譜を集めたものもよく買って読みましたけど。中原先生の四段になってから三冠王になるまでの実戦集や加藤先生の実戦集が特に好きでよく盤に並べたものです」

―実戦譜は、その内容もかなり高度だと思いますが、抵抗なく並べられましたか。

「実戦譜を買い出すようになった頃は棋力の方も全くの初心者から少しは強くなっていて、初段に近くなっていましたから、解説を読みながら何回も並べてみて自分なりに、この手はこういう意味があるんだなと多少は分かっていたつもりでした」

―将棋の本は何冊くらい読みましたか。

「30冊以上は読んだと思いますよ。なにしろ、病院にいてひまですからね。朝起きて、食事して、昼寝して、風呂に入って、学校のようなものも病院の中にありましたし、その間に本を読む時間はヤマほどありましたから」

―あれっ、村山さんの風呂嫌いは有名ですが。

「信じられないでしょうけど、その頃のボクは極度のきれい好きで潔癖症だったんですよ(笑)。だから、本なんかでもシリーズものを買ったら、そのシリーズを全部揃えて買って読まないと気が済まないところがあって、大山先生の『将棋は……』のシリーズも全部揃えたんですよ。買った本も本棚にきちんと、それこそ少しのずれもないくらいに整理整頓してましたから」

―一度、村山さんの部屋を写真で拝見したことがありますが、失礼ですけどホントに信じられません。

「そうでしょう。だからこれ言わんとこ思ったんですが、つい口がすべってしまいました」

―5級の人と初段の人がいたそうですけど、その頃はもう勝てるようになりましたか。

「初段の人とは4年生の秋頃にいい勝負になっていたんじゃないかと思います。その人は、雰囲気っていうか感じがとても良い人でした。ボクが強くなってきた頃はよくその人のところに行って将棋を指してもらいました」

(中略)

「詰将棋もけっこう好きで、問題を解いたり、自分で詰将棋を作ったりもしたんですよ。一度だけど将棋マガジンに入選したことがありました」

―その詰将棋は覚えていますか。

「3図です。詰将棋学校っていったかな。伊藤果先生が講座の講師をしていた時でした」

―将棋マガジンの昭和56年11月号に(初入選)広島 村山聖さん作として載っています。昭和56年だから村山さんが12歳の時の作品ということになります。えーと、どうやって詰ますのでしょうか。ちょっと、考えさせてください。読者の皆さんも一緒に考えてみてください……。なるほど▲6五飛と打って△同歩▲6四馬△同玉▲7四飛までの5手詰ですね。飛車を捨てて歩を呼んでおいてその跡に馬を捨てるというのがシャレていますね。

「ええ、でもこれ、後で分かったんですけど、余詰があるんです」

―えっ。

「初手でいきなり▲6四馬と捨てちゃって、△同玉に▲7四飛△6五玉▲6六飛までで詰んじゃうんですよ。お恥ずかしい(笑)」

―ご愛敬というやつですね。解く方はどうでしたか。『詰将棋パラダイス』という詰将棋の専門誌がありますが、そちらの方にも手を伸ばしていたんではありませんか。

「詰パラを見るようになったのは、奨励会に入る頃からでした。初段前後の頃は、将棋世界とか将棋マガジン、近代将棋の詰将棋欄の問題を解いていました。特に、将棋世界には、全題正解を目指して、毎号毎号せっせとハガキを出していました」

―ありがとうございます。村山さんのことだから、全題正解ラッシュだったのでしょう。

「それが、全然でした。本が出てから締め切りのギリギリまで考えて出したんですけど、ハガキを出す時点でこれは分からないなんていうのもあったですし、自分ではできたつもりでいても後で本の答えを見たら間違ってたなんていうのはしょっちゅうでした(笑)」

―村山さんのことだから、さぞかしすごい解答力だったのではと思いましたが、意外に普通だったんですね。いや、安心しました。

(中略)

―読者の皆さんに、村山流の上達法を伝授してください。

「上達法ですか、上達は難しいですね」

―そこを何とか……。

「上達は難しいです。自分が嫌いなことをやらないと上達しませんからね。例えば、終盤が弱かったら詰将棋を解いて終盤を強くするとか……。詰将棋が解けるようになれば初段になれるんですよ」

―強くなるには、読みが大切ということですか。

「それもありますけど、それより、詰将棋をやると駒の性質がよく分かるんです」

―駒の性質?ですか。駒の性質とはどういうことでしょうか。

「駒にはそれぞれの利きがありますよね。その利きの違いで、駒によってその駒の弱点というのが、いろいろあるんです」

―金だとナナメ後ろが利かないからそこが弱点というわけですね。

「そうです。その弱点から形の急所っていうのが分かってくるんです。4図の詰将棋を解くにも、▲3二とと金を取ってしまうと駒は得しますけど△同玉で王様が広くなってしまう。そこで▲3三桂と打って金のナナメ後ろに利かない弱点を衝く。そこが形の急所になる訳です」

―なるほど、詰将棋の効用は、読みの力を養う以外に、駒の性質を知って、形の急所が分かるようになるということもあるんですね。

「弱いうちは、さっきボクが言ったみたいにそんなに順序だてて考えられなくてもそれでいいんです。たくさん問題を解いていくうちに、そのうち図面を見ただけで、パッと瞬間的に急所が分かるようになりますから」

―それは、誰でもそうなれるものなんでしょうか。

「ええ。誰でもなれると思いますよ」

* * * * *

村山聖九段、はじめの頃は30冊以上の本と将棋雑誌で実力を養成していたことがわかる。

相手が限られた実戦はあったものの、一般的には本だけで覚えた将棋は、筋は良いけれどもあまり力強くない将棋になってしまうと言われている。

そこがそうならなかったのは、村山聖九段のもともと持っている才能・資質によるものだったのだと思う。

* * * * *

「初段の人とは4年生の秋頃にいい勝負になっていたんじゃないかと思います。その人は、雰囲気っていうか感じがとても良い人でした。ボクが強くなってきた頃はよくその人のところに行って将棋を指してもらいました」

この初段の少年の存在も大きい。

* * * * *

昔の棋書では矢倉は、1図の4手角から攻める定跡が載っているものが多かった。

この4手角は、実際には後手に対抗策があってこのようにうまくは組めないのだが、この攻め方は非常にわかりやすく、ためになる攻め方だった。

* * * * *

「信じられないでしょうけど、その頃のボクは極度のきれい好きで潔癖症だったんですよ(笑)」

酒を飲むと頭が悪くなると思って酒など飲むものかと思っていた高校生が大学に入った途端に大酒飲みになる、タバコが大嫌いだった大学生が社会人になったらヘビースモーカーになる、両方とも私のことだが、このように、頑なに守ってきたことが一旦崩れると、正反対の状態になる場合がある。

気持ちはとてもよくわかる。

 

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 佐藤康光五段の巻」

将棋世界1991年7月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 佐藤康光五段の巻」

将棋世界同じ号より。

―将棋を始めたのはいつ頃からでしょうか。

「小学校の1年生の時でした。クラスで5、6人将棋を指す友達がいたので、おそらくその友達に教えてもらったのだと思います。夏がくる頃にはいつの間にか一緒に指していました」

―学校でいうと、休み時間に指していたんですね。

「いえ、休み時間は外で遊んでましたから(笑)」

―と、いうことは、まさか授業中ですか。

「はい、実はそうなんです」

―若手棋士の皆さんは総じて礼儀正しいし、中でも佐藤五段はその筆頭という評判ですから、これには驚きですね。ところで、授業中に将棋を指すといっても、将棋盤はけっこう大きいですし、木の盤駒では音も立ちますよね。そのあたりはどうやってクリアしたのでしょうか。

「木の盤駒は一切使わず、ノートにボールペンで将棋盤を書いて、駒は鉛筆で書いては消すというやり方です」

―なるほど、それなら目立たないし音も立ちません。ただ、この手筋は本誌の読者にまねしてもらっては困りますね。

「勿論です(笑)」

―将棋の本は読んだりしましたか。

「まだ、その頃は本を読むということはなかったですね」

―では、定跡などは知らずに指していたのですか。

「はい、1年生の頃、流行していた戦法は、まず▲5八飛と飛車を真ん中に持って行って、そこから▲4八銀~▲6八銀と両側の銀を上がるんです。みんなその形が一番固いと思っていて、後手の方も全く同じように組んで(1図参照)将棋はここから始まるという感じでした」

―なるほど、その形なら王様の回りには金銀が密集していて固そうですね。なにしろ王手がかかりにくいですものね。しかも、真ん中の歩を突いていけば攻撃力もありそうです。ただ、これも、先ほどのボールペンの将棋盤ではありませんが、読者の皆さんはあまりまねをなさらない方が良さそうですね。

「そうですね(笑)。まだこの頃は、本を読んで定跡を覚えるというレベルではなかったですね。そういうことを知るようになったのは、2年生から3年生にかけての頃からです」

―覚え立ての頃、お父さんとは将棋を指したりしましたか。

「はい、初めの頃は日曜日とかにときどき指していました。父の棋力は今から思うと5級くらいだったと思います。ですからそんなに強くないというか全然弱いんですけど最初はなかなか勝てませんでした」

―やっつけられてばかりだと、いやになりませんでしたか。

「それが、たまに緩めてくれていたみたいで……(笑)。なんかわざと勝たせてくれているみたいだなというのが子ども心にもわかりましたから」

―それは、本当に良いお父さんでしたね。そのご努力がなかったら、今の佐藤五段はなかったかもしれませんものね。

「本当に勝てるようになったのはだいぶ後で、3年生くらいになった頃からでした」

―将棋の道場などには行きませんでしたか。

「2年生の頃からだったと思いますが、近所に将棋の支部の同好会があって、そこに行っていました。その少し前に、父に公民館でやっていた将棋スクールに連れて行ってもらいまして、そこで将棋の支部道場のことを知りました」

―道場にはどれくらい行きましたか。

「そこは月2回しか開いていませんでしたので、それ以上は行けませんでした。そこの支部長の小牧先生に駒落ちで教えてもらっていました。小牧先生は四、五段の実力者でした」

―初めは何級からでしたか。

「それが、どうもその頃の記憶はあやふやなんです。たしか9級からだったと思います。師匠の道場に行きだしてからのことは比較的よく覚えているんですが」

―師匠というと田中魁秀八段ですね。佐藤さんは今は東京に住んでますけど、その頃は京都にいたんでしたね。

「はい。師匠の所に行くようになったのは4年生の頃からです。そこにはボクと同じくらいの歳の子どもが何人も来ていて、みんなでワイワイ言いながら道場に通っていました」

―同年代のライバルがたくさんいるというのは良い刺激になったでしょう。

「特に意識はしてなかったと思いますが、やっぱり競争意識というのはあるでしょうから励みにはなったでしょうね。ただその頃は一緒に将棋を指す仲間がいるということの方が嬉しかったんじゃないかと思います」

―その頃の棋力は?

「当時、道場では、指した将棋の棋譜をつけるのがはやってまして、今でもそれが手元に残っていましたので見てみたら4級でやってましたね。師匠と指した二枚落ちの寄付もあります」

―4級で師匠と二枚落ちでは、下手が相当に辛そうな手合いですね。

「ええ、全然かないませんでした(笑)。勝てるようになったのは初段になる頃からでした」

―4級の頃はどんな将棋を指していましたか。

「原田先生の小学館から出た本で、子ども用の入門書があるんですが、それを読んで中にあった石田流の形が好きになりましてよく指しました」

―石田流というと急戦のものではなくて石田流本組と呼ばれているあの形ですね。(2図参照)

「そうです。ですから、その形に組むために振り飛車をよく指してましたね」

―石田流本組は、攻めの飛角銀桂と守りの金銀3枚のバランスがとれた、一つの理想形と言われている駒組ですね。

「それと、ひねり飛車もよくやりました。あれも石田流の形に導けますから」

―なるほど、出だしは相掛かりの居飛車調ですが、浮き飛車の構えから飛車をひねって、石田流の形になります。

「それでヒドイことやった記憶があるんですよ。一度▲9六歩を突かずに先に▲7七桂と跳ねちゃいまして……(3図参照)。もちろん△8七歩で角が死んじゃいます。思わず待ったをさせてもらいました(笑)」

―ああ、それならひねり飛車をやった人ならたいてい身に覚えがあるんじゃないでしょうか。かかく言う私も全く同じことをしでかした記憶があります(笑)。読者の皆さんには気を付けていただかないといけませんね。

「まだあるんですよ。今度はひねり飛車とは反対側の方を持った時、相手が▲7七桂を跳ねずに▲9七角(4図参照)とやって来てくれたことがあるんです」

―なるほど、△8九飛成で桂をいただきながら飛車が成り込めますね。

「ところが▲9七角に対しては△8九飛成と成ってはだめ、という先入観があって、その時はたしか成らずにそのまま普通に指してしまいました(笑)。▲7七桂と跳ねてある形なら△8九飛成と成るのは、▲8八角と蓋されてまずいのですが、4図のようにただで桂が取れるのなら断然後手よしなのは言うまでもありません。具体的には4図以下、△8九飛成▲8八角には△3二金と角をぶつけられるくらいで先手は収拾が困難です」

―佐藤五段でも初級者のころは、とんでもないことをしていたんですね(笑)。

(中略)

―昇級のペースはどうでしたか。

「道場で、約半年間に1期の割でリーグ戦をやっていまして、そのリーグ戦での成績が良いものが昇級というルールでした。4年生の4月から49月にかけてのリーグ戦で2位になって3級に上がり、翌年の1月に3位で2級、5年生の初め頃に優勝して初段になりました」

―リーグ戦は全部で何人くらい入っていましたか。

「ボク達、級位者のリーグは25人くらいでした」

―ずいぶん多人数ですね。その中で常に上位を占めていたというのは流石ですね。

「いえ、全員が全試合消化するわけではありませんでしたから。勝率よりも勝ち星数がものを言うので、よく出てくる者が有利ということもありました」

―そのころ得意にしていた戦法は何でしたか。

「やはり石田流が好きということで、振り飛車が多かったです。相居飛車や相振り飛車はほとんど指さずに、相手が振り飛車でくればこちらは居飛車というやり方でした」

―大山システムですね。居飛車一辺倒の現在とは全く違うというのが面白いですね。

(中略)

―詰将棋はよくやりましたか。

「易しいやつを少しやったという程度で、詰将棋はあまりやった覚えがないですね。テレビの詰将棋を毎週考えていたようですけど、あんまり解いたという記憶はありません(笑)」

―では、特に終盤とか寄せの勉強はしなかったですか。

「終盤に限らず、中盤の指し方でも、本を読んだりして勉強するというのはほとんどなかったですね」

―本をあまり読まなかったというと強くなるためのエキスは実戦から吸収したわけですね。

「はい、もうほとんど実戦だけといってもいいと思います。実戦と感想戦の繰り返しでした」

―感想戦というのは、将棋が終わった後に行う、お互いの反省会のようなものですね。

「はい。道場でやっている時は、師匠が感想戦を覗いてくれていろいろ意見を言ってくれました」

―それは素晴らしいですね。今、自分が指したばかりの将棋に対して、プロの考え方が直に聞けるんですから……。

「そうですね。毎週土日ですから、今考えると師匠も大変でしたね。生徒はボクだけじゃありませんでしたからね」

―師匠には、稽古もつけてもらっていましたか。

「週1回は教えてもらっていました。4年生の時に初めて教えてもらって1年間くらいはずっと二枚落ちでした。ここでも実戦とその後の手直しが基本で、駒落ちの本はあまり読まなかったです」

―初段になる頃から、勝てるようになったとのことですが、どんなところが良くなったからなんでしょうか。

「将棋が終わってから、ここではこういうふうに指すのが良いとか、いろいろ教えてもらうわけですけど、将棋はちょっとした駒の配置の違いで、ある局面ではすごく良くても、似たようなある局面では悪いということがありますよね。まだ弱い頃は、教えてもらったことは覚えられるんです。ここでは良いと言われれば、なるほどと思い、こういう場合は悪いと言われれば、それもなるほどと思えるんです。でも、それは自分の力で分かってるんじゃなくて、教えられたことを鵜呑みにしている状態に近い状態ですよね。局面によって違う、手の善し悪しの区別が自分なりの考えで分かるようになった頃、初段になれたみたいでした」

将棋世界同じ号より。

* * * * *

1図の形は、羽生善治九段も将棋を覚えたての頃によく指していたという。

羽生名人が語るカニカニ銀

「この型はルールを覚えて間もない人がよく指しているのを見かけるが、何故、多くの人がこの型を指すのか、一度、心理学者の人に調べてほしいものだ」と羽生九段が書いているように、本当に心理学の一つのテーマになっても良いと思う。

* * * * *

佐藤康光少年の得意戦法の石田流。

そのような意味では、18年前頃によく指された佐藤康光九段の変形振り飛車、2007年に初めて佐藤康光九段によって指されたダイレクト向かい飛車など、そのルーツは子供の頃の棋風によるものなのかもしれない。

佐藤康光王将の子供の頃の得意戦法

* * * * *

東京・渋谷駅。

ハチ公口から山手線に乗る(改札は1階、ホームは2階)のと、階段で2階に上って2階の改札から山手線に乗るという関係が、三間飛車から石田流とひねり飛車から石田流の関係に似ている。

しかし、最近の渋谷駅の変貌ぶりはものすごく、どこがどうなっているのかわからなくなってきており、現在だと何とも言い難い。

* * * * *

「原田先生の小学館から出た本で、子ども用の入門書があるんですが、それを読んで中にあった石田流の形が好きになりましてよく指しました」

この原田泰夫九段著の入門書は、『将棋初段への道 (小学館入門百科シリーズ 118)』。

羽生善治少年が表紙で、羽生少年の棋譜が2局分載っている。

当然のことだが、この少年と将来、激戦を繰り広げることになるとは、佐藤少年は想像もしていなかったこと。

奨励会に入る1年前の羽生善治少年の写真

 

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 丸山忠久四段の巻」

将棋世界1991年6月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 丸山忠久四段の巻」より。

将棋世界同じ号より。

―プロ棋士になった人は、皆かなり小さい時から将棋を始めたようです。丸山さんの場合はどうだったのでしょうか。

「小学校4年の秋頃、クラスの友達と一緒に木更津支部の将棋道場に行ってからですから、それほど早いほうではないと思います」

―クラスの友達というと、将棋を指す好敵手がたくさんいたわけですね。

「ええ、その頃、クラスで将棋が流行りまして。先生の方で、休み時間ならやっても良いということで、みんなとよく指しました」

―それは羨ましい話ですね。一時、将棋が今ほど理解を受けていない頃は、休み時間でも学校で将棋を指すのは禁止というところが結構ありましたからね。かく言う私も、昼休みに将棋を指しているのが見つかって、将棋の盤駒をよく先生に取り上げられたものでした。

「でも、ボクのとことも少ししたら禁止になっちゃいました。そのうちみんなが熱中しだしてきて授業中にもやりだすようになってしまったんで(笑)」

―丸山さんが学業優秀と聞き及んでいますから、まさか授業中に……なんてことはなかったですよね。

「えっ、そういうことはしなかったと思います。よく覚えていませんよ(笑)」

―せっかくの流行にストップがかかってしまったのは残念でしたね。学校でできなくなったので、道場に行くようになったのですか。

「いえ、そういう訳ではなくて、クラスの中に強い子がいたんです。その子から強さの秘密を聞き出したという記憶があります」

―なるほど、どうして強いのかを探っているうちに木更津支部の道場が近所にあるのを知ったということですね。

「そうです、それで普段からよく遊んでいる仲間と一緒に6、7人で行ったという記憶があります」

―独自の調査でせっかく強い人の秘密を探り出したのに、友達みんなに教えてあげちゃうというのは気前がいいですね。もったいない、独り占めしちゃえとは思いませんでしたか。

「秘密といっても、それほどたいしたことではありませんし、子供でしたからそういうセコイことは考えないですよ(笑)。友達みんなで行った方が楽しいですしね」

(中略)

―お父さんから手ほどきを受けてからクラスの友達と指していた頃は、どんな戦法をやっていましたか。

「戦法といっても、その頃は戦法に関して知識も全くありませんし、なにしろ金と銀の動きを間違っちゃうというくらいのレベルでしたからね。そういえば、銀の動きかなんかでもめちゃって、友達とケンカになっちゃったなんてことがありました(笑)」

―将棋の本はまだ読んでいなかったのですね。

「本を読むようになったのは道場に行き出してからです。それ以前は、適当に指していました。居飛車と振り飛車の概念なんかも全くなくって、初手でいきなり真ん中に飛車を振ったり、もうなんでもありっていう感じで指していましたね」」

―将棋の本はどういうものを読みましたか。

「それほど本を読んだという記憶はないんですけど、自分の興味を持った戦法について書いてあるものだけを読んでいたという感じでしたね」

―というと読んでいた本は定跡書ということですね。棋書の中でも定跡の本は指し手の解説が中心ですから息を抜くところがなくって、初心の頃の人にとってなかなか難しいと思いますが……。

「その戦法について調べたいからというか、読みたいから読んだという感じでしたから、難しいとかはあまり思わなかったですね」

―詰将棋の本などはどうでしたか。

「詰将棋の本を読んだことは少なかったですね。やると頭痛くなっちゃってたんで(笑)。分からないとすぐ答えを見ちゃうほうでしたからね。でも、詰将棋にちょっと興味を持った時期もあって、詰将棋を作ろうとしたこともありました」

―では、将棋雑誌などに投稿したことも……。

「いえ、とてもそんなレベルじゃなかったです。なにかの本を見ていて、はっとさせられた手があって、ああ、こうやって詰むのかって感動して。それで、その筋で詰将棋を作ろうとしたんですけど、どんな図面だったか記憶にないところをみると完成しなかったんでしょうね」

―道場での稽古ぶりを教えてください。

「木更津支部支部長の鈴木三郎という方によく教えていただきました。最初は六枚落ちからスタートしました」

―級位は何級からでしたか。

「8級からでした。この道場に来て、初めて将棋のきちんとしたルールを覚えたというか……。それまでは、駒の動かし方とか、かなりいい加減なルールでやってました。ですから、ボクにとって、将棋を本格的に始めたのは、道場に行き出した時からという感じですね」

―駒落ちの定跡は教わりましたか。

「ええ、初めに六枚落ちの定跡を教えてもらって、その通りに指していました」

―道場での将棋は駒落ちオンリーだったのですか。

「友達と指す時は平手でしたし、少し強くなってからは大人のお客さんとも平手で指しましたから」

―六枚落ちからというと、駒落ちの基本から教わったということになると思いますが、それは今、ご自身から見て上達する上でためになったといいますか、良かったと思いますか。

「今思えば、例えば、六枚落ちの定跡は、端に兵力を集めるという数の攻めを、飛車落ちの定跡は、お互いの主力が正面衝突した後の一手を争う寄せ合いを、と、それぞれ上達のためには必要な基本技の大切さを教えてくれているわけで、大変ためになったに違いないですよね。でも、子供の頃は、そんなことには気付かないで、相手の駒がどんどん増えていくのがなによりの楽しみで指し手ましたね。手合いが上がれば相手の駒が増えるわけですから、自分が上達したというのが一目瞭然で分かるというのが、良かったというか、何よりの励みでしたね」

―道場には毎日行ったのでしょうか。

「道場が開いているのは、土曜と日曜だけでしたので、週2日でした」

―それでは、普段の日は友達と指したりしていたんでしょうか。

「将棋を指してたこともあったでしょうけど、それ以外のことでみんなと遊んでいることの方が多かったですね。将棋も好きでしたけど、それ以外は自分でいうのも変ですけど全く普通の子供という感じでしたね」

―昇級ペースはどうだったでしょう。

「5年生になった頃に1級になりました。道場に行き始めたのが4年制の9月頃だと思いますから……」

(中略)

―それにしても、流石に驚くべき早さですね。1級から初段までもすぐでしたか」

「1級から初段になるのは半年くらいかかりました」

―それまでのハイペースからみると、ちょっと一息という感じですが、その頃何か苦労したというような思い出はありませんか。

「うーん。苦労したとか、上がれないということで苦しんだりとか、そういうことは思ってなかったんじゃないかな。そりゃ上がれれば嬉しいとは思っていましたけど、アマチュアで、ましてや子供ですから、何段になろうなんていうビジョンもありませんでしたし……。ただ将棋を指すのがおもしろいからやってたみたいなとこでしたかね」

―道場に一緒に行った友達も丸山さんのようにどんどん強くなっていたのですか。

「それが、友達は途中でみんなやめちゃいました。一番長くいた子で半年くらいでしたかね」

―引き止めたりはしませんでしたか。

「将棋の他にも、いろいろ楽しいことありますから(笑)。そちらに興味がいったのを無理に将棋をやらせてもしょうがないでしょうから、そういうことはしませんでしたね」

―丸山さんだけ将棋に興味を持ち続けたのはどうしてだったのでしょう。

「ボクは、熱中しやすいけどまた冷めやすかったんですけど、将棋だけは冷めなかったんです。子供ですから、楽しくなければすぐやめるわけで、そういうことがなかったのは、ずっと将棋が楽しかったっていうことだったんでしょうかね」

(中略)

―初段を目指している読者の皆さんのために、丸山さんから上達のアドバイスを聞かせてください。

「そうですね。やっぱり、自分で常に工夫してみるってことでしょうかね。工夫することによって新しい興味が湧いてきてマンネリ化するのを防いでもくれますしね」

―工夫するといいますと、具体的にはどういうことをするのでしょうか。

「例えば、定跡なんかでも、それを自分なりにもっと良い手はないかと考えてみたり、ちょっと改良してみたりとか、そういったことですね。ただ、実際は、定跡というのは、当然のことですが、かなり優れたものですから、もっと良い手なんていうのはめったにあるものではないんですけど、それでも自分なりに考えてみるってことですね」

将棋世界同じ号より。

* * * * *

決して早いとはいえない小学校4年生の頃に将棋を覚え、プロになり、名人位を獲得することになる丸山忠久四段(当時)。

丸山少年が将棋を覚えた以前の年齢である小学校低学年の有段者はかなりいると思うが、皆が皆、丸山九段のようになれるとは限らないし、そもそもプロになれるかどうかもわからない。

やはり元々ある才能というものがあるのだと思う。(さらに、それに運の要素も加わる)

とはいえ、強くなるための方法は参考になる。

やはり、将棋を強くなるために最も大切なものは、将棋を好きであること、に尽きると思う。

* * * * *

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 羽生善治棋王の巻」

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 森内俊之五段の巻」

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 郷田真隆四段の巻」

 

佐藤康光五段(当時)「普段いかにやっていないかを、思い知ったような。とにかく凄い体験でした」

近代将棋1990年12月号、湯川博士さんの「若手棋士インタビュー・佐藤康光五段 競争社会の駿馬」より。

 チャイルドブランドとか10代棋士というような表現をずっとされてきたけれど、言われている側の気持ちというのはどんなものですか。

「年齢でくくられるのは、いい気持ちじゃないですね」

 表現する側はその方が楽ですし、ファンの方も頭に入りやすいことはありますけどね。もう少し一人一人の個性面でとりあげてほしいということでしょうか。

「ええ、まあ」

 現実には元10代棋士も20歳を越え大人になって、また別の表現を考えなくてはならなくなったようですが。

「ボクなんかは、どう書かれても結局は勝っているかどうか、だと思っています」

 そう、勝っているからこそ書かれるし、勝てなくなると、ニックネームすらつけられなくなりますね。

 ところでこの間の王位戦は、初体験ですがどんな感じで臨んだのですか。

「そうとう不安でした。まず、恥ずかしくない将棋を、という思いが頭に浮かびました。タイトル戦は注目されていますが、ひどい将棋で飛ばされるんじゃないか。そういう不安がありました」

 勝ち負けよりも恥、ですか。若い棋士は勝つことが第一という印象を持っていますけど。

「タイトル戦はまた違う感じがありました。1局目と2局目はとても疲れました。対局の2日間を含めてずっと緊張していたような気がします」

 相手の谷川さんはどんな感じに見えました。

「とても余裕があって、リラックスしていましたね」

 相手がリラックスしていると、こちらもそうなるものですか、それとも逆に……。

「ボクは全然余裕がありませんでした。むしろ堅くなったかも(笑い)」

 何局目くらいから少し慣れましたか。

「3局目ですね。少し息抜くことを覚えまして。なにしろはじめは、一流旅館で、関係者の方がボクのために気を遣ってくれて、そういうことでもびっくりします(笑い)」

 そういえば屋敷さんが、スイートルームの特大ベッドにちょこなんと座っている写真があったけど、まず部屋でびっくりするんですね。

「それからタイトル戦の期間中の2ヵ月間はまったく将棋漬けで、ああいうことも今まで初めてでした」

 あれ。佐藤さんは普段でも将棋漬けじゃないの。そういう印象があるけど。

「いやいや。あの時はとにかく、寝ても覚めても将棋のことで頭が一杯という状態でしたから」

 それは谷川さんと戦っている将棋のこと。

「いや。そういうことではなく、いろいろな形の将棋で、気になる局面とか……」

 普段の研究の、うんと濃い状態と思えばいいのかな。

「そうです。普段いかにやっていないかを、思い知ったような。とにかく凄い体験でした」

 すると普段よりひとつ上のランクの状態を体験したというわけだ。

「そう、でしょうね」

 谷川さんをはじめ、タイトル経験者の普段の状態を体で知ったというのは、これは大きな財産だ。

(中略)

 今の若い棋士はとても研究熱心のようだけど、どんな研究をしているのかな。

「ボクは相居飛車の研究が主体です。相居飛車は戦いがはじまるとすぐ終わっちゃうところがあるでしょ。ですからやっておかないと。持ち時間の中では最善が見つからないですから」

 研究というと、ひとり机に向かって駒を動かし、凄い手を発見するなんてイメージが浮かぶんだけど。

「ひとりで駒を動かすことはありません。実戦を指して、そこから出てくる形を研究するんです」

 すると相手もわかっちゃうでしょ。

「あるところまではいっしょですけど、その先は各人の研究ですから」

 研究に指す相手は強い人がいいですか。

「そうですね。その方がいい局面が出ますから。ある程度は強い方がいいかもしれません」

 若い人で研究していない人はいないくらい。

「そうでしょうね。ボクなんかもやっていないと置いていかれそうな気がして、とても怠けていられません」

 そんなに強くても、ですか。

「いやいや。勉強していないとダメです。勝てなくなったらどうしよう……という不安がいつもあります」

 そうすると、皆が一斉に研究を放り投げたと確認できるまでは、休めないですね。

「ええ……」

 赤信号みんなで渡れば怖くない、ではなく、青信号みんな渡るからボクも渡らなきゃという心境なんだろうか。競争社会そのものの生き方だ。昔の棋士は、オレが一番になってやるという、蛮勇型の精神で前へ進んだのだが、今は遅れたくないという周りの圧力に突き動かされる部分が大きいのかもしれない。

 思えば棋士の気質もずいぶん変わったが、それは時代が変えているのだ。

 今の時代、それほど競争が激しいと、対局中心でとてもお稽古などやっている余裕がないみたいだ。対局も週に一度で楽なようだけど、実際はどんなものか。

「そうですね。週に一度だとちょうどいいくらいですね。週に二回が重なってくると、やや疲れますね。でも今は二回でもなんでも指したい気分ですけど」

 やはり好調な時はどんどん指したいんだ。同じ対局でも短いのや順位戦やらあるけど、そのへんはどうですか。

「順位戦は特別ですね。ちょっと異様な感じ。ボクは順位戦がよくなくて、スタート4連勝したことがないんですよ。4月にスタートして12月までに2敗していることが多いんです。1敗じゃないと目がないですから」

 タイトル戦に挑戦できてもやはり順位戦がものいいますか。

「ええ。……今はもうひとつ上のB2組しか頭にないですね」

 当然Aクラス、名人戦が目標なんでしょう。

「いやいや。そんな雲の上のことです。はるか過ぎて、見えません(笑い)」

 タイトル戦に出ているんだから、当然強いわけで、当然上に行くのが当たり前と思っているのかと思えば、そうじゃない。おそらく、55年組のタイトル戦大活躍と順位戦での苦戦ぶりが頭にあるのだろう。

 上のクラスと下のクラスはどう違う。

「上のクラスの人は余裕がある。C2組は当然余裕がないけどC1組は少し余裕が出てきているし、その上はもっとリラックスしているように感じます」

 将棋の違いということが出てくるかと思って聞いたら”余裕”であった。今の若い棋士たちは、人から見ると歳も若いのに金とひまがあって将来性もあっていいなあと、映るけど、そうでもないんだ。

「そうですね。そういうゆとりがあまりありません」

ときどき海外旅行に行くようだけど、あれは気分転換かな。英語もけっこういけるの。

「富岡さん(五段)といっしょで、しゃべる方もおんぶです。少し勉強しようと思っていますけど」

 海外の人と知り合うといいことあるでしょう。それに将棋の普及にもなるし。

「ええ。応援してくれたりして、嬉しいですね。将棋の普及も海外はまだ可能性がたくさんあります。チェスをやった人も、将棋を覚えると将棋の方が面白い、と言ってますからね」

 将棋界の将来なんて仲間と話すことはありますか。

「ええ。話しますけど……」

 やはり頭の中は将棋でいっぱいのようだ。

 喫茶店でしゃべってから、そろそろ時間ですから、というので外へ出た。小雨が降っていたが、ためらわず外へ出て、急ぎ足で駅に向かう。

「今日は午後から、櫛田さんのところで指すことになっています。明日順位戦なので指そうということで。ボクは前日は用事つくらずじっと家にいる方ですけど、櫛田さんは数少ない振り飛車党で力があるので、勉強になります」

 相手が強い人なら誰から頼まれても時間があれば断らないそうだ。

 でも今の人は本当に研究熱心だ。だからみんな強いんだろうね。

「ええ。これだけ一度に出てきたというのはやはり研究だと思いますね」

 チャイルドブランド出現についていろいろ書かれたりしているが、この言葉が端的に表しているだろう。そしてこの研究熱心をつくり出したのは、受験勉強が醸し出した、まごまごしていると置いていかれるという恐怖感か。

 そうしてもうひとつ。昔の棋士のように”飲む打つ買う”に溺れないほどほど体質が本業である将棋に力を入れる結果になっているような気がする。

 豊かな時代に育った若者は飢えた狼のように酒や女や博打に走る必要がない。自分に与えられたテーマを一生懸命にやる……。

 そんなことを考えていたら、新宿に電車が着き、大久保へ行く佐藤が、

「あの、ボクこの先ですので、ここで失礼いたします」

 育ちの良さそうな顔をこちらに向けて、声をかけてくれた。会った時と同じ淡々としたリズムであった。

近代将棋同じ号より。

* * * * *

佐藤康光九段が21歳の時のインタビュー。

佐藤康光九段らしさが確立されつつある時代だと思う。

* * * * *

「いやいや。勉強していないとダメです。勝てなくなったらどうしよう……という不安がいつもあります」

この姿勢が、この後もずっと続いている。

佐藤康光竜王(当時)「休み?休みなんか要るんですか。だって勉強は労働じゃないでしょう」

* * * * *

「おそらく、55年組のタイトル戦大活躍と順位戦での苦戦ぶりが頭にあるのだろう」

これは推測になるが、羽生世代の棋士たちは、前の世代がどうだったから、のような考え方はしないと思う。佐藤康光五段(当時)が、あくまで純粋に謙虚なのだと思う。

また、

「そしてこの研究熱心をつくり出したのは、受験勉強が醸し出した、まごまごしていると置いていかれるという恐怖感か」

羽生世代の棋士は、小学生時代に奨励会入りしており、受験の雰囲気が醸し出すものとは無縁の世界だった。

外部環境とは関係なく、ただただ純粋に負けず嫌いで、なおかつ研究熱心だったような感じがする。

* * * * *

写真は、千駄ヶ谷駅のホームと思われる。

雨の降っている雰囲気が伝わってくる、なかなか情緒のある写真。