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「棋士の妻になってよかったと思っております」

将棋世界1989年4月号、炬口勝弘さんの「棋士の女房・お袋さん 原田栄子さん(原田泰夫九段夫人)」より。

将棋世界同じ号、昭和23年の結婚式の記念写真。
お嬢さん育ち

「司令官の娘というのは、忠君愛国という思想のせいか、率直に言って色香が漂わない。結婚は同情結婚。お互いに同情、人命救助の結婚でした。だけれども、家庭とか子供、内弟子のことでは、私はひとつも心配したことがない。そこのところはテキを大いに褒めてやりたい。感謝また感謝です。女はなんといっても掃除、洗濯、キンピラゴボウですから」

 夫・原田泰夫九段の夫人評である。例にによって愉快で元気な原川節だが、「人命教助の結婚」って一体なに? 

 栄子大人に昭和二年、東京の中野に生まれた。父親は職業軍人だった。祖父もそうだったから代々軍人の家系だ。

 幼稚園から小学校二年生までを父の赴任先・北例道の旭川で過した。三年からまた東京に戻ったが、女学校は「朝鮮」の「京城第二高等女学校」だった。終戦は、疎開していたり母親の実家・静岡市で迎えた。そして結婚までそこで過ごした。

 姉、弟、妹がいる四人兄弟の次女。父親の友人・知人には役人が多く、サラリーマンという職業があることすら知らなかったというお嬢さん育ちであった。朝鮮時代には女中さんが二人もいて、お勝手には入ったこともない。

 だから、女学校の料理の授業で、キュウリを切らなければいけないとなったときには、女中さんがお使いに行っていないスキをみて、台所で刻む練習をした。

平凡はいや

 姉は父親の勧めでお堅い役人に嫁いだ。妹の栄子さんにもそういう候補者が上がったが、本人は変わったところ、変わった職業の人がいいと思い、親にもそう公言していた。

「お寺さんでもいい。きれいな座敷で、きちんと和服を着ている大黒さんの姿にあこがれたりして……。平凡を好まない性格でした」

「確かな人間だから。家も旧家でしっかりしている」

 ただそれだけで見合いをした。昭和二十二年だった。本人は行かなかった。両親と祖父と父とオバが箱根まで出かけ、原田七段をよく見、「大丈夫だ」と決めてしまった。栄子さんも訳も分らず承知した。

 結婚式は翌二十三年の十月。東京の明治記念館でだった。新郎二十五歳、新婦二十一歳だった。

 新婚旅行は、仲人の漫談家・西村楽天師匠の顔で箱根の玉泉荘へ。タイトル戦で知られる天成園のずっと奥、川添の細い山道を登ったところの宿だったが、まだ戦後間もない食糧難の時代のこと、米三合持参で出かけた。

千客万来 木賃宿?

 新婚生活は鎌倉の十畳・三畳二間の間借りからスタートした。しかし甘い蜜月はなかった。三ヶ月後に、主人がA級八段に昇段した時、新潟出身の佐藤庄平八段が内弟子に入った。

 翌年の二十四年に東京の西荻窪に移った。夫人の父の知人の家で、転任の間の留守居役だったが、敷地二百坪、建坪七十数坪の大邸宅。しかしここでものんびりとしていられなかった。当時、連盟も、後楽園スタジアムの一室に事務所を間借りしていた状態だったから、戦後初めての奨励会(十人ほど)が、原田宅でスタートしたのであった。

「芹沢(博文)少年が、入会試験に現われたことも今では懐しい思い出です」

 その後、中野に連盟本部ができると奨励会の例会もそちらに移った。

 しかし、千客万来、原田邸は相変らず木賃宿。

 二年後、留守居役が終わると港区小山町に移った。師匠の加藤治郎九段の実家の家作だった。

 四畳半、三畳二間、八畳の居間のある十五坪の家だったが、そこに内弟子四人、家族四人、他に居候も時々あってテンヤワンヤ。内弟子は三畳間に二人づつ。八畳の部屋は通り道のようで、家族四人は四畳半一間に寝起きしていた。

「子供が夜泣きすると、くるんで、オブって表へ出ました。来客も絶えず、ぼんとに木賃宿みたいでした」

 二十五年に長女、二十七年に長男が生まれたが、長男出産のときなどは、六日後に退院すると、なんと自宅に荷物と一緒に見知らぬ少年(桜井昇現七段)が着いていたのだった。

「主人たら何考えてるんでしょうね。家内がその日に戻るから、その日に来ればいいだろう、なんです。私は何も聞いてなかったんですよ。それにもうその日からお客さん呼びまして、産後も何もなかったです。そうね、赤ん坊背負って静岡の実家へ帰ろうと思ったことは三回ぐらいありました。何が、不満ということじゃなくて、ただ大変だから……。でも今日は帰ろうと思うと弟が、三田の慶応大学に通ってたんですが、必ず現われて。いつでもそうでとうとう…….」

 地方から棋士志望の家出少年が早朝に訪ねて来たことも何度かあった。

 大学将棋で上京してきた学生を、十五人も泊めたこともあった。湯のみ茶わんでご飯を食べさせ、座布団を布団がわりにした。

 桜井少年(十歳で内弟子入り)の授業参観日には、長女の手をひき、長男をオンブして出かけた。

 しかしそんな中で、いやむしろそうした環境のせいで、二人の子は、長女はお茶の水、長男は一橋大を卒業し、それぞれが立派な社会人となって独立している。

 皮肉なもので、狭い時に人が多く、今豪邸(敷地九十坪、二階建・六十四坪)に住めるようになったら、夫婦二人だけだ。

 静かな、家族だけの生活になったのは夫人が四十路に入ってからだった。

「やっとお鍋も小っちゃいの買いまして」

棋士の妻になって

 インタヴューの後、夫人からは、妻として母としての真情あふるる便りをいただいた。

※ ※ ※ ※

 主人が自分の対局は二の次三の次で恵まれない将棋界の基礎作りに腐心した時代。将棋界を論じる人たちがよく集より、夜通しお酒を飲み声高にやかましい中で、子供は耳に栓をして勉強していました。

 今よりずっと狭い家で、試験中であろうと頓着なく酒盛りがあって、私が主人に抗議することが多かったのですが、主人は「親の仕事のお陰で生活できる。子供に遠慮など毛頭考えない」という主義を通しました。

 言葉通り、主人は机に向っており、連盟を思う真摯さは子供たちにも通じていて、主人は今も遊びなどしない性格ですが、昔はもっと姿勢を崩さない行儀のよい暮し方でしたから、子供たちも父親の背中を見て育ち、ですから子供から文句の出ることは一度もありませんでした。

 ふりかえれば、私の結婚は、戦後復興の将棋連盟と共にきて、そのことに忙殺された主人の現役時代だったので、今やっと静かに暮らせるというのが実感です。主人は現役中のほとんどを連盟の役員として働き、将棋界の社会的地位の向上を願ってきました。何かをしなければと、今の暮しから思えば凄絶なもので、職団戦も、よい子の将棋会、女性教室も、ともに苦労なさった初期の方々のお顔が浮びます。

 将棋を指すことはもちろん、人と接して何より品性(格)を重んじる主人の生き方が好きです。棋士の妻になってよかったと思っております。

※ ※ ※ ※

趣味を楽しむ

 生活の苦労はなかった、と言う。浮き沈みが厭だということで、最初から対局料で生活しない方針を貫いた。生活は月々の原稿料と本の印税で充分だった。

 ただし、そのために主人はみんなが寝静まってから、夜通しで一生懸命に原稿を書いた。大阪屋号(書店)から本を十冊以上も出し、すべて順調に売れてもいたのだった。

 常に界・道・盟のために、私利私欲を捨て奔走した主人。連盟の仕事が80%、自分の将棋は20%だった。将棋だけに専念させてもらえなかった。当時は理事の手当はゼロ。会長時代は休場して復興に専心した。職員の給料を払うため家の預金を持ち出したことさえあった。

「まあそういう巡り合わせだったんですね」

 今やっと静かになって趣味の「行体摘画」(羽二重を染めた材料で、花や鳥などを折って作り、色紙や短冊に飾る手芸)や俳句を楽しむ。

 摘画は、主人の現役時代、対局で遅くなるのを待ちながら、時間を忘れるために熱中するようになってもう二十五年になる。句歴も、俳人協会の偉い先生方が集まる春燈の会員で十年になる。

「主人の身代わりで出るようになったのですが、いまだに最末席、初心者と呼ばれています」

 しあわせな娘の里帰り春の服

 

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

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原田栄子さんは、馬淵逸雄陸軍少将の次女。

「司令官の娘というのは、忠君愛国という思想のせいか、率直に言って色香が漂わない」

”色香”のような、口語ではあまり使わない言葉を話すのが原田流。

同情結婚、人命救助の結婚も、原田泰夫九段らしい表現だ。

「だけれども、家庭とか子供、内弟子のことでは、私はひとつも心配したことがない。そこのところはテキを大いに褒めてやりたい。感謝また感謝です」

原田九段は奥様のことをいつも「テキ(敵)」と呼んでいた。

* * * * *

この頃は、両家とも旧家でしっかりしていれば、当人同士が会う前に結婚が決まることがあったということになるのだろう。

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「四畳半、三畳二間、八畳の居間のある十五坪の家だったが、そこに内弟子四人、家族四人、他に居候も時々あってテンヤワンヤ。内弟子は三畳間に二人づつ。八畳の部屋は通り道のようで、家族四人は四畳半一間に寝起きしていた」

奥様は本当に大変だったと思う。

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「でも今日は帰ろうと思うと弟が、三田の慶応大学に通ってたんですが、必ず現われて。いつでもそうでとうとう…….」

この頃の住まいの港区小山町は現在の港区三田1丁目。慶応大学と非常に近い場所だった。

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「浮き沈みが厭だということで、最初から対局料で生活しない方針を貫いた。生活は月々の原稿料と本の印税で充分だった」

原田九段は結婚の翌年にA級に昇級する。対局料が安い時代だったとはいえ、ものすごい決断だ。

「当時は理事の手当はゼロ。会長時代は休場して復興に専心した。職員の給料を払うため家の預金を持ち出したことさえあった」

日本将棋連盟の資金繰りが非常に厳しい時代があった。

「縁の下の力持ち」の引退

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「皮肉なもので、狭い時に人が多く、今豪邸(敷地九十坪、二階建・六十四坪)に住めるようになったら、夫婦二人だけだ」

「やっとお鍋も小っちゃいの買いまして」という言葉が心を打つ。

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「将棋を指すことはもちろん、人と接して何より品性(格)を重んじる主人の生き方が好きです。棋士の妻になってよかったと思っております」

原田九段には将棋ペンクラブ名誉会長を10年以上務めていただいた。

その頃は、将棋ペンクラブ大賞最終選考会、新年会が原田九段邸で行われており、私も何度も伺ったことがある。

大人数の宴会の準備など大変だったのに、奥様はいつも笑顔で暖かく迎えてくださった。

2004年に原田九段が亡くなって以降、原田九段に代わるように奥様が将棋ペンクラブに入会され、現在に至っている。

感謝、感謝の言葉しかない。

 

「羽生や森内が負け、といっても2、3番だけれど、負けた時期があって、どうしてかと調べたら、試験勉強中だったんだね(笑)。あの子らは試験が敵なのかなと」

昨日からの続き。

将棋世界1988年2月号、河口俊彦六段(当時)、石堂淑朗さん(脚本家)、読売新聞の山田史生さんによる「特別企画・新春辛口座談会」より。

司会 それそろ今年の事を占っていただきましょうか。

山田 南が頭角を現してきましたね。昨年、棋聖、王将と立て続けに挑戦権を得ましたし。

河口 一昨年の暮れも棋聖戦に出てきたんだけれど、何かこう季節で好不調があるみたいで、中原、米長にもそれがあるようだし、トップが安定してないんだよね。

山田 高橋が年間を通すと一番安定感があるんじゃないかな。

河口 それは一昨年辺りから抜けてますよね。

山田 乱世をまとめる候補としては一番手じゃないかな。B1も当確の星だしね。

司会 A級の人からよく勝負はAに昇ってから、というような声をききますけれども、皆がそう思っているんでしょうか。

河口 それは前はA級にも権威があったから言えたけど、今はちょっと違うんじゃないかな。

山田 そうね、高橋と今のA級の何人かとどっちが強いか、を比べたら、はっきり高橋の方が上なんじゃないかな。

河口 来期、仮に高橋をA級に入れたら本命ですよ。これは間違いない。

司会 羽生四段はどうですか。

河口 本命に推す人もいるだろうね。

山田 AやB1でも遜色ないんじゃないかな。実際のところ。

司会 順位戦は今期は谷川さんの挑戦が濃厚なんですが、他はどうでしょう、統一のムードはないですか?

河口 乱世のままでしょうね。兆しはあるかもしれないけれども。

山田 僕はね、谷川と高橋を中心に回ると思いますね。

石堂 これからしばらくは、ということですね。

山田 去年の実績から見てもタイトル戦で2回顔を合わせてますし、それと、南がどう絡んでくるか。最近の感じからいって半歩リードしてますからね。あと塚田がどうかね。

河口 中原は花粉症のおさまる4月から夏場が強いんだよね。だから名人戦は鬼のように強い。比べて秋口からどうも、ということで王座戦がああいう結果になっちゃった。谷川にしても年頭から3月までは滅茶強いけれど、それ以降がね。年間安定した実力が発揮できないとなかなか4つ5つのタイトルを取るのは難しいね。ただ、子供達にはないね、この波が。羽生や森内が負け、といっても2、3番だけれど、負けた時機があって、どうしてかと調べたら、試験勉強中だったんだね(笑)。あの子らは試験が敵なのかなと。

石堂 高校生がねえ、考えると嫌になるなあ。

河口 加藤さんや中原さんの若い頃もA級には通じてた。ところが升田、大山となるとはっきり力が違ってたんですよ、ところが、今の羽生や森内は時代のトップを負かしている。その辺が凄いんですよ。

司会 上が手を抜いているとかじゃないんですね?

河口 そんな事はない。事情をよく知らない人が見るテレビで負けてるんだから。

山田 勝負という点で、昔は経験で覚えなければいけなかったのが、勉強で事が足りるようになっちゃったんですかね。

河口 ただ、その勉強法が進歩したんですね、きっと。いい棋譜を見れるというのは昔も今も同じ条件だから、何かコンピュータに優秀なんソフトが加わったんだね。最初の方でも言ったけれど、それが何か、はよく判らない。

司会 環境も影響あるんでしょうか。

山田 当然あるでしょう。それは連盟と棋士の努力が大きいね。つまり、社会というか世間が見る将棋に対する目が昔と今では隔世の感がありますもの。だから今の若者には将棋に対する後ろめたさが全然ない。

石堂 僕なんかはね、初めて観戦記を書いた頃は田舎のばあ様に言われましたよ、「やめろ、あの人達を怒らせるとえらいことになる。あの人達は乞食よりタチが悪い」(笑)、なんてね。

山田 今はイメージがいいんですよ、これはベテランの棋士の功績ですね。

河口 芹沢、米長の両スポークスマンの功績だね。

石堂 そうね。

山田 内藤とか大山、中原両名人のね。

司会 芹沢先生の場合は明るいイメージを茶の間に運んでくれましたしね。

(中略)

山田 ここまであまり個々の名前が出てこなかったですね。

石堂 いや、それは新人類の前にかすんじゃったんでしょう。森なんか個人的には大好きなんだけれどこういう話になると出てこないもの。

河口 寅も青野もね、真部も出てこない。

山田 福崎も出る場所がない(笑)

石堂 中原も名人じゃなきゃ話題にならなかったろうしね。

河口 米長なんか去年は負け越しでしょ、あの男が負け越しなんてあるのかね!

司会 どうですかこの辺で、5年後にはA級に誰がいるか、というのを新春らしく話題にしていただけませんか。

石堂 おもしろそうだね。

河口 だけど今までの5~6年は変わらなかったねえ。これは制度のせいだね。

山田 制度というかむしろ既得権優先みたいな感じでしょ。といっても弱ければ落ちるんだけれどもね。

司会 してみると5年後もあまり変わりませんか。

山田 10代はどうかな、羽生がきてるかどうか。

河口 5年後に大山は幾つになるの、69歳か、さすがにいないだろうねえ。いたらそれこそ怪物だ。

山田 だいたい米長だって危ない気がしているものね。それで一応選んでみたんだけれども、中原、谷川、桐山、南、青野、高橋、中村、田中寅、塚田まではいて、米長、森のどちらかというところまでは私の予想の顔ぶれね。

河口 いい線を突いてきますねえ。

山田 それでB1に今の10代の何人かがきている。Aまではちょっと苦しいかなという感じで、順位戦はつぶし合いがありますからね。力はあっても昇ってこれないと思うんですよ。

河口 僕はガラリと変わる様な気もしているんですよ。

山田 泉、森下というところがよく判らないんですね。

河口 彼らは若手といっても古いタイプの棋士でしてね、力が判るからAはどうかな、B1かB2と思うけれども、さっきのメンバーの中で中村っていうのがよく判らないんだよなあ。弱くはないんだけれども、かと言って滅法強い感じもしないし。名前は出てなかったけれども加藤さんはどうしてるかな、あの将棋は特別だからきっといるな。いますね。

石堂 Bに落ちた事あるでしょ。

司会 すぐ翌年には昇ってますね。

河口 Bの将棋じゃないですよ。

山田 どうも5年後のA級というのもちょっと差し障りがありそうな気がするな。

河口 いや、そんな事ないですよ。こういう事はちゃんと書いて記録しといた方がいいですよ。

石堂 意見が割れたら多数決にすればいいでしょ、合議制ということで。

河口 僕は5人は確実なんだけれどもなあ。

司会 その5人というのは。

河口 谷川、高橋、南、加藤、塚田。

山田 中原はいるでしょう。加藤はやっぱりいますか。加藤以外は同一意見だな。

石堂 僕もそれに対してはちょっとね。

山田 寅チャンがいるような気がするんですがね。

河口 入れたいね。

石堂 あれだけのファイターには、いてほしいという願望がありますね。

河口 福崎ってのは問題だね。十段戦のだらしなさって言ったらなかったんだけれどもね。

山田 そのだらしなさが、ある時ひょこっとね。

河口 十段戦じゃモグラが地上に出たみたいで(笑)。

山田 それが飛ぶかもしれないんだよね。意外性がある棋士だから。それと桐山ね。あの強さというか、安定感は買いたいな。年をとっても急に衰えるという感じがしないし。

石堂 僕は谷川、高橋以外の新人類はかなり不安定要素があり過ぎるんでどうも。塚田辺りもね。

山田 青野はこのところ安定してきていると思うんだけれども。どうかな。

石堂 僕はあの人は角換わりの将棋で基礎を作った人で、少ない駒で動く将棋が多いと思うんですよ。

河口 模様を張った将棋というのがね、その点じゃ高橋の方がスケールは大きい感じがするね。同じ意味でも塚田にもそんな心配があるんだけれど、彼は終盤の頑張りというか執念があるからね。

山田 桐山というのはいいでしょう?

河口 森雞の方を買うなあ。

山田 加藤ねえ、体力あるからいるかな。

石堂 糖尿病になってるかもしれないですよ(笑)。

河口 あそこは奥さんがしっかりしているからだいじょうぶです(笑)。

山田 米長はどうなんです?米長は。

河口 僕は入れないでいいと思うね。どうもこの負けっぷりは、奮起を促す意味でね。あえて外す。

山田 羽生はどうですか。

河口 きてるかもしれない。今期はC1へ昇るでしょうし、C1は1年で抜けて行く。これは私が言うんだから間違いない(笑)。問題はB2からだね。

山田 つぶし合いがありますからね。ただ羽生を入れなくちゃおもしろくない。やっぱり入れよう。

河口 C1にはいそうにないね。B2も前述した3人以外はどうもね。やはりこのクラスで3人が今の成績を見ても抜けてるね。島なんかは順位戦タイプで個人的には買うけれどもね。

司会 この辺で絞って貰いましょうか。

石堂 僕はこれで決定するのは難し過ぎるから名前だけ取りあえず挙げると、谷川、高橋、塚田、中原、田中寅、南、桐山、加藤、森、羽生、米長ときていて、羽生を挙げるのは僕のセオリーに反するんだけれどもね。

河口 これで3人が一致したのは誰と誰なのかな。

司会 谷川、高橋、南、中原、田中寅、羽生、塚田の7人ですね。

山田 米長をはずすと目むいて怒るかな(笑)。

河口 7人まで決定で後は2対1ということで行きますか。

山田 桐山ははずしたくないなあ。

河口 同様に加藤もね。

石堂 森のガッツある将棋も魅力でしょう。

山田 その3人を入れましょうよ。それで10人。残る候補としては青野、中村、福崎、島、といったところかな。

石堂 決める問題でもないしね。

河口 ベスト10で残る4人は一議席の候補ということね。両巨頭はいないから恨みっこなしだね(笑)。

司会 それでは名人は、というと。

河口 名人は谷川。

山田 か、高橋だね。

石堂 うーん。

司会 石堂さんは考えておられますか。

石堂 いや僕はね、南かもしれないと思って。3人の中では徹底的にしゃべらないので腹が立つ。しかし、何とも独特の凄味を感じるんです。

河口 3人のうちに誰かということですね。中原の名前が出てこなかったのは淋しいけれど、仕方がないですかね。

司会 どうも長時間にわたりありがとうございました。5年後を楽しみに、ということで終わりたいと思います。


(名人候補)
谷川浩司
南芳一
高橋道雄

(A級候補)
中原誠
桐山清澄
森雞二
加藤一二三
田中寅彦
塚田泰明
羽生善治

(ボーダーライン)
青野照市
福崎文吾
中村修
島朗

* * * * *

1988年初頭の5年後にA級に誰がいるか。

5年後にあたる1992年度と1993年度のA級在籍棋士は次の通り。(青字は座談会で挙げられていた棋士)

1992年度

中原誠名人
高橋道雄九段
谷川浩司棋聖
南芳一九段
大山康晴十五世名人
有吉道夫九段
小林健二八段
米長邦雄九段
塚田泰明八段
田中寅彦八段
田丸昇八段

1993年度

米長邦雄名人
中原誠前名人
高橋道雄九段
南芳一九段
谷川浩司王将
小林健二八段
田中寅彦八段
有吉道夫九段
塚田泰明八段
羽生善治四冠
加藤一二三九段

予想はかなり当たっている。

大山康晴十五世名人は1992年度にA級在籍のまま亡くなっているが、誰も69歳になってもA級とは予想していなかった。

「いたらそれこそ怪物だ」が、現実のものとなったわけだ。

* * * * *

A級になる直前で羽生善治四冠。やはり、圧倒的に凄い。

* * * * *

「羽生や森内が負け、といっても2、3番だけれど、負けた時期があって、どうしてかと調べたら、試験勉強中だったんだね(笑)。あの子らは試験が敵なのかなと」

将棋は自分との戦いであることを実感させられる。

中原誠十六世名人をはじめとして、高校や大学を卒業すると、その間に溜めていたエネルギーを放出するかのように、在学中よりももっと勝ち星を重ねるケースが多い。

藤井聡太七段も、そのような展開になると予想される。

 

「羽生や森内なんかはどうも女性に溺れるようなタイプにはみえないんだけれどもね」

将棋世界1988年2月号、河口俊彦六段(当時)、石堂淑朗さん(脚本家)、読売新聞の山田史生さんによる「特別企画・新春辛口座談会」より。

司会 本日はお忙しいところどうもありがとうございます。さっそくですが、棋界に詳しい皆さんに1987年を振り返っていただき、新人類の活躍をどうみるか。1988年はどういった展開になるのか、また、棋界が発展していくためには等、忌憚のないお話をしていただければと思います。名人戦の中原-米長、棋聖戦の桐山-西村というカードを除くと、若手に押されっぱなしという感が強かったですが。

河口 名人戦でいえば谷川、南以外はレースに参加できないからね。他の若手はここまで昇ってこなくちゃいけないから。だから谷川にとって今年はチャンスでしょう、名人を獲る。

司会 昨年の名人戦第1局では石堂さんに小誌では観戦をお願いしましたが。

石堂 一時の中原じゃないという感じで、名人戦が最強者の戦いではなかったように思いましたね。専門家の指摘では名人戦らしからぬ落手も多かったようですし、疲れてるんじゃないですかね。僕はいま55歳ですけれども40の声を聞いた頃からたとえば二日酔いが三日酔いにもなっちゃったと思うんです。将棋も同じように、これだけ棋戦が多いと疲れが抜けない。体力のある若い者とは決定的に違ってきますよ。

河口 森安がそうだね、立ち直る可能性は充分あるにしても、何年か前の活躍が信じられない感じだもの。

石堂 僕なんかの商売は時間を余分にくれるといえば若い者とも張り合えるけれども、将棋の場合はそうはいかないでしょう、体力差は大きいと思うな。

司会 ただ、年齢や体力差だけでしょうか、塚田が中原から王座を連敗後3連勝で奪ったり、天王戦の決勝戦が森下、羽生の組み合わせになったのは。実力が接近しているんでしょうか。

河口 そうでしょうね。最近じゃないですね、プロ筋は2年以上前から判っていましたよ。

山田 いつの時代でも同じでしょ、40代よりは20代の方が明らかに強いのは。

石堂 そりゃそうですね。

河口 だけど20代じゃないんだ、10代なんだね、今は。それで今までの若手と同じ物差しじゃ計れないんですよ、羽生を代表とする何人かは。レベルが随分と上がっている。石堂さんじゃなかったですか、一番最初に羽生の強さを認めたのは。

石堂 僕じゃないんですよ、僕の息子がね、ある時小学生の大会かなんか見ていて、かわいい顔した子がやたら強いというんで。

山田 それが羽生だった訳ですね。

司会 第一人者を中心にというんでなく、昨年のような状況は続きますかね。

山田 続くような気がするね。だいたい科学の発達と同じで皆、進み方が加速されてるでしょう、将棋も同じ範疇に入ると思うな。

河口 僕は違う方向へ行くと思うな。3、4人の若手がまとめてくると思いますよ。名人はともかく、他のタイトルは10代が3つ4つ取るんじゃないかな。

司会 10代がですか!

河口 つまり僕はね、ここ1、2年は将棋界の産業革命が起こったと思うんですよ、技術革新がね。

司会 それは情報量ですか。

河口 中村なんかがそう言ってるね。ただ、序盤とか中盤までは情報でカバーできても、終盤は才能だと思っていた訳ですよ。それを中村は、いい棋譜を並べれば得られる、というんだね。10代のレン中は単なるコピーでなく優れた処理能力がそれに加わっている気もするしね。この辺がまだよく判らないけれども。現実に棋譜を見れば10代の若手のものには何の冴えも感じないし、米長や谷川の方がはるかに才気を感じてるんだけど、勝負となると勝てない。不思議だね。

石堂 大山は住み込みの苦労を知らないと駄目とか言ってましたけれど、今ははじめからワンルームマンションでエレガントにやってる方が強いと。

石堂 だから、彼らが10年もつかもたないかというのは大問題でしてね。普通20から30にかけては人格形成の時期といわれるでしょ、それと並行して将棋も強くなっていくんならともかく、ぱっと強くなってそれからいきなり酒と女という二つのカベにぶちあたって、コロッと狂って2、3年後には見るも無惨になってしまうんじゃないかという。

一同 (笑)。

石堂 今の若者にはハングリーさがない、男女関係もハングリーさがなくて、例えば謝国権に言わせると、お互いに美男美女のイメージが先行していて具体的にはろくなのがいないからつき合わない、全部頭の中だけでいいという。将棋もそんな考え方になっちゃうとね。20代後半から絶対にカベがあるはずですよ、人間的にね。谷川や羽生が酒や女の味を覚えたらどうなるか、一般に東大出たてがすぐに実社会で通用する訳がないのと同じで、将棋界で現在ハイティーンが活躍しているのは全然信用できませんね。将棋だけが強いのは5年、10年たってみないと。

河口 そうね、ずうーっと強いだけという人間の観戦記は、モノ書きとして困っちゃうね。どうしようもない。

石堂 若手の活躍は東大の学生が実社会ではなく、卒業論文の世界で素晴らしい成績を挙げているのと同じで、見ていてもおもしろくない。やはり中原、米長の将棋こそという思いですね。現状をどう見るかときかれれば、若手タイトルホルダーの観戦記はもう書きたくない、という思いがどんどん濃くなってきている。

司会 若いが故に話題がとぼしいということとは違いますか。

石堂 だからたったひとり書きたい素材がいますね。あの苔丸の村山(笑)。

河口 皆さんそう言いますね。師匠の森といっしょにインタビューしたいとか。

石堂 別に奇行の持ち主というんじゃなくて、何かこちらに伝わってくるものがあるんですよ。人間味というかね。

山田 戻るようですが、羽生や森内なんかはどうも女に溺れるようなタイプにはみえないんだけれどもね。

河口 それは谷川や高橋にもいえるね。彼らは一種独特の女性に対する拒否反応みたいなものがあるみたいだし。

山田 中村はちょっと雰囲気が違うかな。

司会 トップを目指そうという人達は自己規制に優れているんでしょうね。

河口 少年達はそういったことすらも考えてないでしょう。将棋の為にああしちゃいけない、こうしちゃいけないなんて。

石堂 僕なんかはそういった将棋の強さと人間的なものがどうも結びつかなくてイメージが持てませんね、これからどうなるか、ということが。そういうイメージを持てないことが淋しいですね。新人類達が席捲している将棋界はまるでイタリアの政界みたいですよ。誰がどうなるか判らない。

司会 棋界にペンクラブができたのも画期的なことだと思うんですよ。

石堂 そう思えるのは危機感があるからですよ。

河口 それは言えますね。将棋連盟でも愛棋家という人達と縁遠くなっていることに気がついたんですね、それじゃいけないという事で。もっと世間にアピールしなければいけないという危機感ね。

石堂 碁の方は文壇大会はありますよね。将棋の方もあればおもしろいでしょう。

河口 いろいろと接点を見出してやっていきたいと思ってはいるんです。棋界と将棋ファンとのね。

山田 これからの活動を期待しましょう。

(中略)

司会 石堂さんが、まるでイタリアみたいと評した1987年の様相ですが、この辺をもう少し突っ込んでお話いただけませんか。

河口 棋界には合わせて19の公式棋戦があるんだけれどもね、驚いたことにひとつふたつを除いて優勝者の名前が全部違うんだね。驚くよりあきれたね。

山田 先ほども触れていましたけれど、中堅、低段の棋士のレベルが上がったんでしょう。

河口 上がったのは確かですが、上がちょっと落ちている気がしますね。そうでなければあんなにコロコロ負ける訳がない、と思いたいですね。それでその象徴的なのが米長だね。さっきの16人だか17人だかの名前にないんだもの。

石堂 我々の世界はね、映画監督10年説というのがあるんですよ。本気でやったら10年がいっぱいで、後は余生でやる。将棋の場合はそれが通用しないからね。

河口 ひとり例外の人がいるでしょ将棋界は。あの人についえは論理が成り立たないから。確かに大山ほどの人が情報豊富な今の時代に生まれていたら凄いことになっていると思うね。

山田 大山はともかく、今のA級が落ちているとすれば、下の者にとってはチャンスですよね。順位戦は制度的に無理としても。別の見方をすれば高橋のように二冠持っている者がB2にいる、というのは正常ではないと思いますがね。

河口 ただ順位戦というのは他と比べるとはっきり質が違いますね。

石堂 基本的には全員穴熊を指したいんだけど(笑)という感じですか。

河口 感じはね。負けて失うものがあるでしょう。他は勝てばプラス、負けても失うものがないという感じが多かれ少なかれね。そういう意味で竜王戦が誕生したのは大きな意味があるんですよ。やはり勝負は負けて失うものがないんじゃつまんないですよ。

山田 その辺の所を担当者として言いたいのは、順位戦より回転が早くてより厳しいものに、ということで3年がかりでこぎつけた訳なんですね。棋士にも反対はなかったし、喜んで貰えましたし、嬉しく思っているんです。

河口 その通りなんですが、もっと厳しくてもよかったでしょう。

山田 はじめはそういう意見もあったんですけれどもね。昇降級の人数をもう少し増やそうとかね。

河口 ちょっと不満なのは下の者が各段戦で上がっていかなくてはならないから不利でしょう。その辺が改善されないかなと思いますね。

山田 考慮の余地はあると思います。

司会 何年かすると順位戦とは違った竜王戦独自のランキングができて見比べられるのでおもしろいですね。

(中略)

河口 石堂さんが今の若手の10年後がどうなるかという話で思ったんですがね、僕もね、疑い始めてるんですよ。人間というのは年をとるにしたがって年々進歩するもんだと思うし、将棋界の考え方もそうだったんですよ。20歳で八段になれば30歳の頃は大名人になっているというようなね。大方がそう思ってると思いますよ。だから若くして四段になった方がいいと言うけれど、それはちょっと違うんじゃないかと思ってきたんですよ。この頃。

石堂 30代までに微妙な感じで香一本強くなるようなことがなくなって、10代後半あるいは20代前半でピークを迎えるというのは恐怖ですね。あとは余生ですもんね。

河口 僕は今の20代棋士全員に対して感じるんですね。

石堂 怪物大山、升田にしても最初は居飛車で頭が割れる程考えて指して、おじいさんになったら体力がなくなって楽な振り飛車を指す。という、そういった節目が今の新人類にはないでしょう。節がなくてファイバーグラスみたいにスウーッとのびているだけだからね。ところが人間は節目がなくちゃ生きていけない動物だからね、あの若い人達がいったいどこで節目を作るのか、そういう意味では信用してませんね。

山田 陸上競技でそのカベというのがありますよね、9秒8とか7とか。人間に限界がある訳で、棋界で若い時に活躍したからと言っても10年後には素晴らしい卓越した技術を持った棋士になるということは言えませんね。ちょっと早く成長したことは事実としても。

河口 だから、そういった見方が出てきたというのが大きいんじゃないかな。昔は絶対になかった考えだもの。谷川が名人になった時にもなかったもの。末は大山名人を越えるんじゃないかという意見はあってもね。事実今の谷川とその当時を比べればはるかに名人の頃の方がよかったもの。将棋や成績がね。

石堂 その伝で行って羽生善治は今が一番強いとしたら悲劇だね(笑)。これからは落ちるばかりで。

司会 新年号の升田-内藤対談の中でも内藤先生が同様のことをおっしゃっていましたね。

河口 今までは将棋の技術的な面が、神様がいるとしたら相当近づいてきたんじゃないかと言われてましたが、ところが本当は100のうち20か30のレベルでとても90なんて事じゃないので、皆が強くなれるんじゃないか、という気もしますね。

山田 芹沢さんなんかは100のうち5だなんて言ってましたけれどもね。5ぐらいなら誰でも行けると。藤沢秀行さんは6だって言ってましたが(笑)。

河口 記録のカベと同じでどのくらい進歩するか判らないけれども。

(つづく)

* * * * *

昭和から平成に移り変わる前の年の、激辛座談会。

この時のタイトル保持者は次の通り。

中原誠名人
高橋道雄十段・棋王
桐山清澄棋聖(南芳一八段が挑戦中→奪取)
谷川浩司王位
塚田泰明王座
中村修王将(南芳一八段が挑戦中→奪取)

つい最近まで中原・米長時代だったのが、中原誠名人は一冠のみ、米長邦雄九段は無冠という時期。

20代への世代交代が始まったか、という流れだった。

* * * * *

そのような中、河口俊彦六段(当時)の、

「だけど20代じゃないんだ、10代なんだね、今は。それで今までの若手と同じ物差しじゃ計れないんですよ、羽生を代表とする何人かは。レベルが随分と上がっている」

「僕は違う方向へ行くと思うな。3、4人の若手がまとめてくると思いますよ。名人はともかく、他のタイトルは10代が3つ4つ取るんじゃないかな」

は、まさしく近い未来を的確に予言していた。

* * * * *

また、河口六段の「つまり僕はね、ここ1、2年は将棋界の産業革命が起こったと思うんですよ、技術革新がね」も見事な視点で、2005年に先崎学八段(当時)が、同様の主旨の記事を書いている。

先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」

* * * * *

「だから、彼らが10年もつかもたないかというのは大問題でしてね。普通20から30にかけては人格形成の時期といわれるでしょ、それと並行して将棋も強くなっていくんならともかく、ぱっと強くなってそれからいきなり酒と女という二つのカベにぶちあたって、コロッと狂って2、3年後には見るも無惨になってしまうんじゃないかという」

このような図式に陥らないということは、羽生世代以降の棋士たちが証明している。

* * * * *

「だからたったひとり書きたい素材がいますね。あの苔丸の村山(笑)」「皆さんそう言いますね。師匠の森といっしょにインタビューしたいとか」「別に奇行の持ち主というんじゃなくて、何かこちらに伝わってくるものがあるんですよ。人間味というかね」

四段デビューして1年程でこのように思われるのだから、村山聖四段(当時)の個性が際立っていたということだ。

森信雄五段(当時)と一緒のインタビューがあったら、本当に貴重なものとなっていただろう。

* * * * *

「羽生や森内なんかはどうも女に溺れるようなタイプにはみえないんだけれどもね」「それは谷川や高橋にもいえるね。彼らは一種独特の女性に対する拒否反応みたいなものがあるみたいだし」「中村はちょっと雰囲気が違うかな」

中村修王将(当時)は、喜んでいいのかそうではないのか、とても微妙な気持ちになったと思う。

 

桐山清澄棋聖(当時)「スーパーマリオブラザーズは8-4まで全部いけますよ。すごい?だれでも練習すれば、これくらい簡単にいけますよ」

将棋世界1987年4月号、池崎和記さんの「自分主義からの出発 桐山棋聖のすべて」より。

 人間・桐山についてなら、わたしが昔から思い描いているイメージがある。

 外柔内剛。
 含羞の人。

わたしのなかにある桐山像は、煎じ詰めれば、この二点に凝縮される。これに

 マロンケーキの好きな人。

 という一項が加われば、人間・桐山のほぼ半分は理解したことになると、わたしは勝手にそう思うことにしている。

 棋士として、人間として。そのありのままの姿を引き出そうというのが、今回のテーマだ。以下は、桐山棋聖がわたしのインタビューに答えてくれたものに、別個に取材したものを加味して構成した。

(中略)

 桐山棋聖の私生活は、これまであまり公表されていない。今回の取材のために、古い将棋雑誌を片っ端からめくってみたが、ほんの少し断片的に載っているだけで、ほとんど収穫がなかった。別に本人が隠していたわけではなく、その部分にスポットライトを当てる人がいなかっただけなのだろう。

(中略)

 ここに桐山棋聖の最新パーソナルデータを一挙に公開する。棋聖は記者の珍問・愚問にも嫌な顔ひとつせず、その素顔をあっさり明かしてくれた。本邦初公開のものも多いはずだ。

競馬

 桐山棋聖は棋界でも有数の競馬ファンだ。20歳のころに競馬を覚え、20代は毎週のように競馬場へ通っていた。現在は多忙のためあまり行くなくなったが、馬券はいまも電話投票で毎週買っている。数年前、スポーツ紙で競馬予想を担当していたことがある。

「10数年前、タマホープという馬がいました。名馬ではなかったのですが、この馬に魅せられたのが競馬ファンになったきっかけです。馬券を連勝で取ったから余計に愛着を感じたのかもしれませんが。いまは特別好きな馬はありません。好きな馬はみんな引退しちゃった」(笑)

 大穴は、7千数百円が過去最高。いつか万馬券を取りたいという夢を持っているが「ぼくは穴狙いしゃなく、どちらかというと本命党なので、確率は薄いですね」

映画

 これも大のつくファン。むしろ競馬異常といっていいだろう。棋聖は洋画の大作といわれるものは、ほとんど見ている。古いものではベンハー、十戒、エルシド、ナバロンの要塞など。とくに面白かったのは、大脱走、ジャッカルの日、十二人の怒れる男。

「最近では、地獄の七人、ハスラー2が印象に残っています。トップガンも見ましたが、これは全然ダメ(笑)。最近のものは、見てもしょうもないものがありますね」

 以上でおわかりのように、棋聖は勇壮な男たちが主人公の映画(洋画オンリー)をとくの好む。ラブロマンス物はあまり見ないようだ。

テレビ

 映画が好きだから、当然「洋画劇場」。ほかにNHKの「クローズアップ」、YTVの「知られざる世界」など。

「以前、十月のミサイルという映画をテレビでみたんですが、これが抜群に面白かった。見ませんでしたか?」

 棋聖に用事のある人は、事前に新聞のテレビ欄を読んでおいた方がよさそうだ。

マージャン

 棋士の例にもれず、これも好きだ。マージャン仲間は、小林健八段、伊達七段、小阪五段など。メンバーが4人いても、3人マージャンしかない。

 関西には「桐山リーチ」というマージャン用語があって、いわゆる筋待ちリーチ(ひっかけ、などという下品な言葉は使いません)のことを、こういう。

読書

 ひところ、司馬遼太郎の歴史小説ばかり読んでいた。いまはノンフィクション物をいろいろと。最近、読んだのは「鷲の翼に乗って」

 古い将棋雑誌を読んでいたら「好きな女性のタイプは司馬遼太郎の小説に出てくる山内一豊の妻女」という一文に出くわした(昭和49年の近代将棋12月号)。一子(かずこ)夫人は、きっとこんなタイプの奥様なのでしょうね。

桐山ファミリー

 昭和53年、八段のときに一子夫人と結婚。長男(7歳)と長女(4歳)がいる。

 今回の取材中、某所で「桐山先生は結婚されてから棋風が変わったんじゃないか」という話を聞いた。本当だろうか。

「そういうことは、まったくありませんよ」(笑)と棋聖。

 同じく「桐山先生は結婚されてから性格が明るくなったみたい」という説はどうか。

「そんなこと、本人に聞いてもわかりませんよ」(笑)と棋聖。

スポーツ

 現在やっているのはゴルフだけ。関西棋士のゴルフ同好会「枝豆会」のメンバー。連盟ハンデは25~26。

「以前は野球とボウリングをよくやってました。ぼくは連盟野球部(関西には若手中心のシルバーズというチームがある)のOBなんですよ(笑)。ボウリングはブームのころ、森安君(秀光八段)や滝君(誠一郎六段)と一緒にずいぶんやりました。アベレージは170くらい。いまはほとんど機会がありません。子供がまだ小さいですから」

アルコール

 現在は、まったくダメ。20代半ばに薄い水割りを5杯飲んだのが自己最高。

「酒をやめたというのではなく、もともと弱いので飲めなくなったんです」

カラオケ

 酒が飲めないから、行かない。前出の「水割り5杯時代」には、東京ナイトクラブ、柳ケ瀬ブルースなどを歌っていたらしい(当時の歌唱力については森安八段や滝六段に聞かないとわからない)。

ファミコン

 1、2年前、長男のT君がファミコンをやっていたときに、棋聖も熱中。

「いまは子供の熱がさめて、ファミコンはやってないので、ぼくもやってません。マリオは8-4まで全部いけますよ。すごい?だれでも練習すれば、これくらい簡単にいけますよ」

桐山棋聖の一日(対局のない日)

 朝8~9時に起床。朝食がすむと、原稿を書いたり、詰将棋や次の一手を創作したり。忙しくないときは、映画を見に行く。就寝は夜11時ごろ。

「食事は1日3回、ちゃんと食べています。独身時代は徹夜したりして、とても不規則な生活を送っていましたが、いまはごく普通の生活ですよ」

好きな食べ物

 好き嫌いはあまりない。魚と肉では、どちらかといえば肉(とくにステーキ)が好き。

 対局のおやつの時間には、必ずマロンケーキを注文する。

「典型的な甘党ですね。なぜマロンケーキですかって?もちろん、おいしいからですよ。栗は、わりと好きなんです」

好きな飲み物

 ホットコーヒーとミネラルウォーター。とくに対局中のミネラルウォーターは必需品だ。必ず5本飲む。

「ミネラルウォーターを飲み始めたのは7、8年前から。森さん(雞二九段)の影響です。1日5本というのは、一局が終わるのにちょうどいい分量なんです。生水(水道の水)はあまり飲みません。お茶は好きですが。

(以下略)

将棋世界同じ号グラビアより。撮影は池崎和記さん。

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桐山清澄九段らしさ溢れる、ほのぼのとしたインタビュー。

桐山九段の日常まで踏み込んだ記事は少なく、非常に貴重なインタビューだ。

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マロンケーキとモンブランの違いが気になったので調べてみると、非常に乱暴に言えば、モンブランはマロンペーストが山の形をしたマロンケーキ、つまりモンブランがマロンケーキの部分集合になるということが確認できた。

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「ベンハー、十戒、エルシド、ナバロンの要塞など。とくに面白かったのは、大脱走、ジャッカルの日、十二人の怒れる男」

1950年代から1970年代初頭にかけてのハリウッド大作映画が多い。桐山九段が10代から20代前半にかけて観た映画が中心。

石原裕次郎、小林旭、勝新太、三船敏郎、中村錦之介、高倉健、鶴田浩二などが主演する同時期の邦画ではなく、洋画が主体というところが桐山流だと言える。

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「スーパーマリオブラザーズ」は1985年に任天堂から発売されたファミコンソフト。

ワールド1からワールド8まであって、それぞれのワールドに4つのステージがある。8-4は最終ステージで32ステージ目。

スーパーマリオブラザーズは、電源を切らなければAボタンを押しながらスタートを押すと、ゲームオーバー前にいたワールドの1から再開することができるが、電源を切ってしまうと(セーブ機能がなく)1-1から始めなければならなかった。

そういうわけなので、普通ならファミコンの電源を1週間以上切らずに付けっぱなしにしておかないと8-4までのクリアは難しい。

桐山棋聖(当時)の「マリオは8-4まで全部いけますよ。すごい?だれでも練習すれば、これくらい簡単にいけますよ」は、ゲームオーバーに一度もならずに、通しで1-1から8-4までを一気にクリアできたということだろう。

こんなお父さんは滅多にいないはずだ。

板谷進八段(当時)「マスコミが将棋界のことを、なんでもいい、とりあげてくれただけで、私は感謝しますよ。私で役に立つなら、いくらでも協力する」

将棋マガジン1991年4月号、高橋呉郎さんの「小林健二 体力将棋の継承者」より。

 板谷には「将棋は体力なり」という有名な台詞がある。板谷の将棋を見ていると、その一端に触れたような気がしてくる。
最初に観戦したときの相手は、松田茂役九段だった。松田はアゴをなぜると、どこかアラカンの”むっつり右門”に似ていた。

 中盤の佳境にはいって、板谷の駒音がだんだん高くなった。腰が坐っているとでもいうのか、モーションは小さいのに、バシッと重い音が響いた。サウスポーの松田が、負けじと発する駒音も、”むっつり”どころではなかった。オーバースローのように振りかぶり、思いきりよく駒をたたきつける。間髪を入れずに、板谷がさらに力をこめて打ちつける。

 こうなると、手こそ出さないけれど、雰囲気は殴り合いそのものといっていい。まだ観戦慣れしていなかった私は、その迫力に圧倒された。そこへ花村元司九段が現れ、しばし戦況を眺めて、呆れ顔でつぶやいた。

「よく盤が割れんもんだねえ」

 また、ある対局で、体力将棋のべつの一面を垣間見た。その将棋、板谷は寄せをまちがえた。控え室の棋士は、もうサジを投げていたが、板谷の闘志は、いささかも衰えない。

 夜の十時を過ぎて、残り時間もすくない板谷が、つと立ち上がり、小走りに部屋を出ていった。やがて、タバコを二箱つかんで、駆け込むようにして戻ってきた。それから五十手以上、板谷は、およそ勝ち目のない白兵戦を挑んだ。最後は満身創痍、頼朝の大軍の前に単身、立ちはだかって、矢ぶすまにされた弁慶を彷彿させるものがあった。

 感想戦も終わって、新宿で一緒に飲んだ。東京で対局があるときは、東京の大学にきている息子さんのアパートに泊まるという。息子さんの話になると、「親の苦労も知らないで、よく遊んでますよ」といっていたが、口とは裏腹に、顔はたるみっぱなしだった。

 板谷と飲んだのは、あとにも先にも、このときしかない。

 最後に会ったのは、芹澤博文の通夜の晩だった。その日、東京で対局があった板谷は、弔問客もほとんど帰ったころに駆けつけた。帰りしなに、私を見つけて「新宿にでも行きましょうや」と声をかけてきた。私も行きたいのは山々だったが、通夜の裏方を手伝っていたので、残念ながら同道できなかった。

 それから三月と経たないうちに、板谷は急逝した。訃報に接したとき、なぜ、あの晩、むりをしてでも付き合わなかったのか、とまっ先に悔やんだ。

 芹澤と板谷は、古きよき時代の先輩後輩の関係を、そのまま受け継いでいた。板谷は、年齢からいえば、たいして差がない芹澤を、つねに「先生」と呼びつづけた。といっても、堅苦しい付き合いとは程遠く、むしろ、気の合った遊び仲間といえば、いちばん当たっている。

 芹澤の晩年、酒びたりの生活に陥ったころ、板谷は本気になって心配した。新宿で飲んだときも、真剣な表情で私にいった。「私らがなにいっても、ぜんぜん効き目がない。高橋さん、なんかいってやってくださいよ。あなたなら、効き目がありそうだから。このままだと、名人(中原)やヨネさん(米長)も、だんだん先生をかばいきれなくなっちゃいますよ」

 私なら効き目がありそうだというのは、買いかぶりもいいところで、たまたま、私は芹澤よりいくつか年長というにすぎない。すでに私の出番も、とうに終わっていて、芹澤の知人仲間では、色川武大氏に最後の望みをかけていた。

 それはともかく、芹澤のことを話すほどに、板谷は、本当に困った、という顔になった。律儀な男だから、芹澤が酒びたりになった、何十分の一かの責任は自分にある、と感じていたらしい。

 私が小林健二という棋士の名前を記憶したのも、芹澤を介してだった。王位戦の観戦記で、芹澤は四段時代の小林をコテンパンにやっつけた。それを読んで、あまりの痛烈さに小林の名前まで印象に残った。

 小林も、その観戦記について、本誌の「忘れ得ぬ局面忘れたい局面」に書いている。最初に、観戦記を読んだときは、なんてひどいことを書くのだろう、と芹澤に腹を立てた。半年後、切り抜きが出てきて、読み返したとき、自分に足りないものがなんなのかに思い到った。以下、引用すると、

<  そして芹澤先生の気持ちが少しずつ、わかりかけて来た。私は考えた。「棋士が棋士たるゆえんはプロとしての誇りと、そして将棋を愛する気持ちを持ち続ける事ではないか」と。そう考えられるようになった時、「ああ、自分はあんな将棋を指して恥ずかしい」と思った。芹澤先生には、それ以後もいろいろ教わることができ感謝の気持ちでいっぱいである  >

 芹澤がそこまで激しく書いたのは、それだけ小林に目をかけていたからだろう。親しい板谷の弟子となれば、なおさらそうだったにちがいない。さらにカンぐれば、板谷が芹澤に「最近、健二のやつ、すこしテングになっているから、叱りつけてください」と頼んだとも推察できる。

 小林は昭和五十年十二月に十八歳で四段に昇段した。当時は最年少の棋士だった。五十二年に王位戦リーグ入りして、敗れはしたものの、米長邦雄と挑戦権を争った。いまとちがって、若手棋士の活躍はめずらしい時代だったから、二十歳の小林四段は一躍、脚光を浴びる存在になった。前述した一局は、翌五十三年の王位戦リーグの対花村元司戦。小林はこういっている。

「あのころ、ぼくらからみると、米長先生は雲の上の人でした。地位だけじゃなく、技術的にも雲の上だと思っていましたし、尊敬もしてました。だから、もう米長先生と指せるだけで、うれしかった。ところが、花村先生と指したころには、そういう謙虚さが、いつのまにか消えていたんでしょうね。芹澤先生は、いちども対局室にこられなかったんですが、ちゃんとお見通しで、怒られたんですね」

(中略)

 小林にほぼ一年遅れて、谷川浩司が四段に昇段した。小林は、尻に火がついた感じがしたという。「名古屋に住んでいると、どうしてもハンディがある。対局のたびに、三日も費やさなければならない。小林は板谷に「大阪で修業させてください」と直訴した。板谷も即座に賛成してくれた。

 小林の大阪生活がはじまったが、そのために師弟の関係が疎遠になるはずもなかった。小林が本当に板谷の影響を受けたのは、むしろ、独立して棋士生活を送ってからである。たとえば、

「将棋は体力なり」という名言について、こういっている。

「たしかに、師匠はよくいってましたが、言葉じゃなくて、全身から溢れ出ているというか……。将棋を指してシンドイとか、アマチュアの人のお稽古で疲れたとかいうと、師匠に”怠けとる”と叱られたものです。将棋指しが将棋を指すのは、いちばんありがたくて、しかも、いちばん楽なことをしているんだ、というわけですね。ですから、師匠の前では、疲れたとはいわないことにしたんです。同じようなことですが、将棋ファンを大事にしろ、と口が酸っぱくなるほどいわれた。プロとアマがあっての将棋界なんだ、と。じっさい、師匠をみていると、それを肌で感じましたね」

 小林の話を聞いて、私も思い当たるフシがあった。いつか板谷がいっていた。

「マスコミが将棋界のことを、なんでもいい、とりあげてくれただけで、私は感謝しますよ。私で役に立つなら、いくらでも協力する。将棋を普及させるのに、こんなにありがたいことないですもの。そのへんがまだよくわかっていない、頭の古い将棋指しがいて困るんです。最近の若い棋士は、ずっとさばけてきましたけどね」

 周知のように、板谷は中京将棋界の育成と繁栄に生涯をかけた。ファンを大事にするのも、マスコミに積極的に協力するのも、だれに教わったわけでもなく、自らの体験から生まれた教訓だろう。小林の言葉を借りれば、全身から溢れたものだった。

 私は板谷とそれほど深く接したわけではないけれど、おそらく板谷は浮気ができない性分だったにちがいない。好きになったら、とことんのめり込む。

 将棋がそうだった。ハートで愛するだけでなく、全身で愛した。惜しむらくは、体力に自信をもつあまり、無防備になりすぎた。「将棋は体力なり」という信条が、かえって仇になったともいえる。

 名古屋に将棋会館を建て、奨励会をつくり、公式対局も行なう―板谷は志半ばにして倒れた。小林に胸中を訊くと、

「大阪に行くとき、いずれ名古屋に帰ります、と師匠に約束したんです。師匠が亡くなって、ぼくらは師匠の夢を引き継ぐ役目がある。ぼくらの世代ではむりでも、とにかく引き継いでいきたい。ただ、そのためにも、”並八”じゃダメなんです。幸い、こんどA級に帰ってきましたから、基礎体力をつけて、タイトルも取れる棋士になりたいですね。そのあと、引退してからになるかもしれませんが、名古屋に帰りますよ。ぼくにとって、名古屋は第二の故郷ですから」

* * * * *

(中略)の部分は、この記事に→東海の若大将

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板谷進九段の人情味と温かさ。そして、将棋とファンと弟子に対する限りない愛情。

これらの思いは、弟子である小林健二九段、杉本昌隆八段に受け継がれている。

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板谷進九段。将棋マガジン1988年5月号。
「中日将棋まつりの推進役・板谷進八段」(将棋世界1980年10月号)