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加藤一二三名人(当時)「今まであまり食べ物のことばかり書かれたんでちょっと控えたんですよ(笑)」

将棋世界1982年10月号、「突っこみインタビュー 新名人に聞く」より。

―詰めろのがれの詰めろ。絵に描いたような一手でした。では一番気に入っている将棋は。

加藤 うーん。一番うまく指せたのは第3局ですね。

―名人獲得はどなたに最初にお伝えになりましたか。

加藤 ええ、家族に電話で。ただ後援会の人が連絡してくれてて知ってましたが。

―加藤さんが新名人になって一番喜んでくれた人はどなたですか。

加藤 うーん、これは長考しないと無理ですよ。(笑)応援して下さっている方も大勢いますし、一人にはしぼれませんねえ。

―今度の名人交代劇は大きな話題になりました。取材の申込みもさぞかし多いのでは。

加藤 そうですね。今日までで(8月5日までの5日間)15件ほど来てますね。とても全部応じられませんので、NHK、週刊朝日、文藝春秋など6件くらい応じました。そうそう、もちろん将棋世界も入れてですよ。(笑)

(中略)

―今回の名人戦で少し変わったことといえば、加藤さんいままでみたいに食べなくなったんじゃないですか。

加藤 今まであまり食物のことばかり書かれたんでちょっと控えたんですよ(笑)。もちろんそれほど深い意味ないですよ。

―失礼ですが、名人戦の賞金というものはいくらくらいのものですか。庶民としてはそれが聞きたい。

加藤 うーん、確かにタイトル戦としては一番高額なお金をいただくわけですが、棋士は名人戦に関しては金抜きのいわゆる棋士根性でやってますからね。これは言わぬが花としておきましょう。

―名人をとったばかりで来年のことを尋ねるのもなんですが、来年、誰が出てきたらいやですか。

加藤 いや、これは誰がくるかわかりませんからね。(笑)まあ成り行きを見ているしかありませんよ。

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将棋世界同じ号の鈴木宏彦さんの編集後記より。

 名人戦最終局の夜、対局室階下の事務室にいると、感想戦を終えた加藤新名人が電話をかけに下りてきました。もちろん家で待つご家族への第一報。ところが「モシモシ、モシモシ、オヤ加藤さんのお宅じゃないんですか。失礼しました」

 加藤名人でも番号に見落としがあったようです。でもやがて「モシモシ、あ、ユリちゃんですか。パパですよ。ウンウン、そう。これからあとちょっとお仕事して11時半には帰りますからね、ハイおやすみ」の声。

 ユリちゃんは小学校1年生。やさしいパパの声でした。

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「今まであまり食物のことばかり書かれたんでちょっと控えたんですよ(笑)。もちろんそれほど深い意味ないですよ」

いつもと違うことをやった場合、ペースを崩してしまったりするものだが、そのようなことなく名人位を獲得したのだから凄い。

それにしても、「今まであまり食物のことばかり書かれたのでちょっと控えた」だけでも十分に深い意味だと思うのだが

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加藤一二三名人(当時)の名人位獲得直後の最初の電話が間違い電話だったということになる。

当時は日本将棋連盟の電話もダイヤル式だったと思われ、また、大熱戦が終わった直後でもあるし、名人位奪取の高揚感もあっただろうから、ダイヤルを回す力の入り具合では間違い電話になる可能性は高かったと考えられる。

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私は経験がないのだが、自分の家へ電話をしたつもりなのに間違い電話だった場合、普通はどのような会話になるのだろう。

電話に出た瞬間に相手が名乗ってくれれば、「あっ、失礼しました。間違い電話でした」で終わるが、問題は相手が名乗らなかった時。

相手の声でほとんど判断はできるわけだが、これは違っているなと感じた時にどのように撤退するか。

相手が名乗る前に「あっ、失礼しました。間違い電話でした」もあるのだろうが、間違いなく不審がられそうだ。

ここで、あえて、「○○さんのお宅でしょうか」と聞く手続きを踏んでから、「あっ、失礼しました。間違い電話でした」と展開するのが手筋なのかもしれない。

しかし、加藤一二三名人の、

「モシモシ、モシモシ、オヤ加藤さんのお宅じゃないんですか。失礼しました」

は、電話をした瞬間に相手が名乗っているケースと思われ、そこであえて「オヤ加藤さんのお宅じゃないんですか」と付け加えているところが可笑しい。

 

 

神谷広志五段(当時)「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」

将棋世界1987年9月号、大崎善生さんの「不敵な追走者 ―連勝新記録を樹立した神谷五段―」より。

”昭和36年4月21日、静岡県浜松市の生まれ。50年、5級で廣津久雄九段門。53年初段、56年3月四段、59年五段。59年第3回早指し新鋭戦、第7回若獅子戦で準優勝”

 昭和62年版将棋年鑑の棋士名鑑に掲載されている神谷広志五段の略歴は、それで終わりである。棋戦優勝もなければ、リーグ入りの記録もない。実にシンプルな経歴である。その、たった5行で総括されてしまう棋歴の持ち主が、ちょっと信じられないような快記録を打ち立てた。

 27連勝、継続中。

 もう二度と破られることはない、と思われていた塚田七段の、22連勝という大記録を、たったの半年足らずで塗り替えてしまった。しかも、大幅の更新である。

 2月10日の対野本戦から7月24日の対青野戦まで、ドロドロと地底で熱せられたマグマが大噴火を起こしたように、白星の山を、神谷は累々と、より高く築き続けた。「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」と神谷は言う。一事が万事、こんな風である。

 10連勝ぐらいまでは、いつの間にかという感じだった。15連勝を過ぎたあたりからだろうか、「昨日、神谷勝った?」「勝った勝った」「ヒェー」。というような会話が、連盟のあちこちで、挨拶がわりに聞かれるようになってきた。

 そして、20連勝を超えたあたりから、驚異の視線が神谷に注がれ始めた。

 7月7日、C級1組順位戦で必敗の将棋を粘り抜き、武者野五段を破り22連勝を達成。塚田の記録に並んだ。その後も神谷の内包するマグマは、とどまるところを知らず、滝、石田、二上、武市、青野と連破。とうとう27連勝。

「偶然といえば偶然ですね」。連勝のことを聞くと、神谷は照れ笑いを浮かべ、こう続けた「やってみろって言われてできるもんじゃないし、狙ってできるもんでもないですしね」

兄貴分タイプ

 こんな場面に出会ったことがある。今から3年程前の話だ。

 4、5人の奨励会員が、将棋連盟の2階の道場で、盤を囲んでタイトル戦の研究をしていた。「この手はこういう意味だ」「この手にはこれがあって、存外大変」「なるほど、ではここではこうする一手か」というような調子でつつき合い、ようやく一つの結論らしきものが生まれようとしていた。

 誰かが「この変化は先手の勝ちでしょう」という。「そうだね、それは流石にいいか」ということになって、次の変化へと盤面は進められた。

 そこへ、いかつい顔をした神谷が、ヌッと現れた。

「どっちがいいだって?」まるで喧嘩を売っているような口調だった。「言ってみろよ」。

「この変化は、このように進んでこれでは流石に先手がいいという結論になったんです」と誰かがおそるおそるという感じで統一見解を述べた。

「だから、その先をやってみろよ」と神谷。「どうよくなるんだ」。いいと結論したからには、負けたら許さんという雰囲気である。

 奨励会員達は黙ってしまった。皆が結論した局面だし、それで確かに悪いとも思えないのなら、誰か局面を進めてやっつけてしまえばいいのに、と思って見ていたのだが、神谷の気迫に気押されたか誰も率先して駒を動かそうとしない。

 反応がないので、神谷はおもしろくねえ、という顔でその場を立ち去った。

 へぇー、凄い奴だなあと思った。何が凄いと思ったかというと、誰にも何も言わせないところがである。

 神谷が立ち去ったあと、奨励会員達は一瞬の緊張から解放され、いいと結論した局面から再検討を始めた。彼らは、不幸にも、突然熊に出会った登山者のようなものだった。

 彼らが自分達の出した結論の早急さを反省したのか、やっつけるチャンスだったと地団太を踏んだかは覚えていない。恐らく後者だったような気もするが…。

「ほんとうに恐かったですよ」と塚田七段はいう。「僕もよくいじめられました」。

 神谷の恐さは、肝っ玉の据わったものの考え方と、ぶっきらぼうな話し方にあるのだろう。ほんとうは心根は優しく、思いやりのある兄貴分タイプである。

 だから、当時も奨励会員達に抜群の人気があったし、塚田とのつき合いは今でも続いている。

「最近、またいじめられた」と塚田は笑う。もちろん、連勝記録のことである。

二つの壁

 神谷は昭和36年、静岡県の浜松市に生まれた。小学校3年の頃、将棋のルールを覚え、5年の頃に夢中になって本を読みだしたというから、棋士としては遅いスタートである。それから、浜松の支部に通い始める。

 特A、A、B1、B2、C1、C2とキッチリと組織化されたシステムの中に組み込まれ、神谷はC2からスタートを切った。1日に5対局、5連勝もしくは4勝1敗連続2回で昇級という規定に初めは苦しむ。C2をなかなか脱せられず、そしてやっと抜けたと思ったらB2でまた壁にぶつかる。B2にいた頃はもう、中学に入学していた。ちなみに、B2というのはアマチュアの4級ぐらいという。

 この頃、神谷はもう一つの壁にぶつかっていた。

 小学生時代の神谷は、相撲が強く無敵を誇っていたという。「得意技も何もありませんよ、土俵に上がればそれだけで勝ち」。という程の圧倒的強さだった。神社の境内で行われる、小学生の相撲大会では、常に優勝候補の筆頭であった。

 中学に進学して、将棋に夢中になる少年を先輩のワルが待ちうけていた。

「生意気でしたからね」。今でこそそう笑うが、中学に進学したばかりの少年にとってはそれは悲惨な試練であったことは、想像に難くない。

 毎日のようにつきまとわれ、なんだかんだと因縁をつけられ、顔がはれる程、殴られた。「自分も体がガッチリしていて、同年代のは負ける気はしなかったけれど、その頃の2年差の体力は手合違いですからね」。

 喧嘩なんてもんじゃない。ただ、ただ耐えるだけの毎日だったようだ。

「今でも、あいつだけは許しません」という神谷の言葉に、中学生の少年が受けた理不尽な暴力への怒りの刻印を感じる。

 しかし、神谷はくじけなかった。

 いや、かえってそれに耐えることによって、強靭な精神力を鍛えあげていく。

 殴られながら育ってきた、そこに、神谷のふてぶてしい反骨精神、ものに動じない何か異質の精神力の原点があるのかも知れない。

 中学1年の終わり頃、苦しみながらB1に上がった神谷は、ここから一気に爆発する。B1から特Aまで、15連勝で駆け上がっていく。前後の2勝を加えて、17連勝。それは当時の浜松支部の連勝記録であり、おそらく今だに君臨する記録だろう。

 中学1年、将来の希望を聞かれ”プロ棋士”と答え、教示に怪訝な顔をされた5級の怪男児は、中学1年の終わり頃にはアマ四段の実力をつけ、より強い相手のいる静岡へ足を伸ばす。

 廣津九段の教室に月一度、電車で通い始め揺籃期に終止符を打つ。

 神谷は、二つの壁を、自力でクリアーしたのだ。

(以下略)

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神谷広志五段(当時)は、このインタビューの時に27連勝中。

次の対局で米長邦雄九段に勝って、現在に至るまで記録を破られていない28連勝を達成する。

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29連勝を阻止したのは室岡克彦五段(当時)。

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神谷広志八段の個性の源泉に迫る、若い頃の大崎善生さんの力作。

「16連勝した時に、塚田君が本気で心配しているという話を聞いて、それなら塚田の泣く顔を見てやろうと思った」や連盟道場での話など、いかにも神谷広志八段らしさ全開だ。

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昨日の記事の塚田泰明六段(当時)インタビューが21連勝中、今日の神谷五段インタビューが27連勝中。

昨日も今日も大崎善生さんによるインタビューだが、塚田六段も神谷五段も、もう1勝記録を伸ばして、その次の対局で連勝が止まっている。

たまたまの偶然なのだろうが、1勝だけ更に記録が更新される、嬉しいような嬉しくないような微妙な偶然だ。

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神谷八段のエピソードもいろいろとある。

神谷広志六段(当時)の歯に衣着せぬスタジオジブリ作品評論

とても優しい羽生善治竜王(当時)と神谷広志六段(当時)の趣味

先崎八段と行方八段

棋譜解説のほとんどない名観戦記(完結編)

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神谷八段の色紙も非常にユニークだ。(2014年の将棋ペンクラブ関東交流会に寄贈いただいた色紙)

 

 

22連勝(当時連勝新記録)の塚田泰明六段(当時)インタビュー

将棋世界1987年1月号、大崎善生さんの「攻めようとする心 ―攻め100%・塚田将棋のすべて―」より。サブタイトルで「連勝新記録の塚田六段に聞く」と記されている。

一本の扇子

 どういうわけで、ここにあるのかは解らない。それを買った記憶はないし、人に貰ったという覚えもない。どういう経路で、この部屋に辿りついたのか、まるで見当がつかない。

 ただ、気がついた時には部屋の片隅にあった。たいていの人の家には、きっとそういった風なものが、必ず一つ二つ転がっているものなのだろう。

 ボロボロになった一本の扇子。この部屋の場合は、これがそうだった。

 昇段の一局より、と題し、あまり馴れていない、たどたどしい筆運びで1図の局面が誌されている。

 1986年の夏の間、クーラーが故障してしまった暑苦しい部屋の中で、その扇子をあおぎ、そして幾度となくその局面に目をやったものだ。その局面に描かれた▲3三香という一手は、見れば見る程、痛快な気分を味あわせてくれた。

 いつもエンジンをレッドゾーンにぶちこんで、少しでも速く、自分の肉体の限界に向かって突っ走っていく。そんな、覇気が、攻めようとする心、少しでも前に進もうとする意志が図面から伝わってくるようだ。

 扇子の左端には、四段塚田泰明と、これまた初々しい署名がある。

 それは、暑苦しく、あわただしく扇子をあおいでいたこの夏の間、ただの一度も負けなかった男。22度も将棋をひたすら勝ち続けた塚田泰明という棋士が誕生した、記念すべき局面を誌した扇子なのだ。

ピンクの服

 11月9日、日曜日。塚田六段には3つの仕事があった。一つは、雑誌フォーカスのインタビュー。もう一つは、この将棋世界インタビューと写真撮影。そして、一番のメインの仕事が、もう彼が2年以上もの間続けている子供将棋スクールの講師である。

 子供が100人近くも一堂に会すと、それはもう想像を絶する騒ぎとなる。動物園の二乗。うるせえなんてもんじゃない。

 その子供達のほぼ中央で、塚田はいつも笑顔を絶やさず、決して怒らず、将棋を教えている。

「かじられちゃいました」と見せる塚田の手には、子供の歯型とよだれがべっとり。それでも塚田はニコニコとしている。筆者なら、ほとんど殺してますね。

「カッコいい」「やさしい」「ツヨいのだ」「いつもピンクの服きてる」。スクールの子供達に聞いてみたら、ほとんどからこのような塚田評が返ってきた。塚田を語る子供達は、まるで自分の自慢をするように鼻をピクピクさせる。驚いたことに、この4つの形容は塚田のことを簡潔に、そして十分にいいあてている。

「小学校2年ぐらいの時、父に将棋を教わりました。駒落ちから始めたのですが、負けてくやしくてくやしくて」とピンクの服を着た塚田。原宿の喫茶店で、ビールを飲みながら語ってくれた。

「あまり勝てないので、雑誌を買って貰うようになりました。それから少しずつ勝てるようになったのですが、平手ではとても勝てなくて、その頃、父が平手で一番でも勝ち越したら桂の五寸盤を買ってやると約束してくれたのです。それから、俄然やる気を出しましたね」と塚田は笑う。例の、顔全体がブッこわれちゃうような笑顔である。

(中略)

塚田流

「いるよね、そういうタイプ」塚田が10数連勝したとき、そんな会話を交わしたことがあった。

「いるいる」と会話の相手はいたずらっぽく笑う。「そうそう」と筆者。

「勝ち出したら、火い吹いたように止まらなくなっちゃう奴」「そう、唐辛子食べたみたいにね」。

 そんな話をしながら一杯飲んでいるうちは良かったが、もう二度と再び破れないとさえ言われていた、有吉九段の20連勝を破った頃は冗談では済ませなくなった。塚田が指す一番一番に、熱い視線が集まり、塚田は期待に応え、一歩一歩足を踏み入れていった。

 4図は16連勝目の将棋の最終盤。まだ唐辛子を食べたと目されていた頃の将棋だ。

 塚田流とさえ呼ばれるようになった大流行の相掛かり戦(3図)に羽生は正面からとびこんでいった。そして、塚田は木っ端微塵にスーパールーキーを打ち砕く。

 4図から塚田は5分考えて、ぽんと▲8五角と打った。瞬時の収束である。4図は色々な勝ち方がある。が、塚田の選んだ▲8五角は何とも厳しい。合駒がない。

 ▲8五角に△5一玉ならば▲5七香~▲4一角打。羽生はやむなく△3一玉と逃げたが、▲5七香△同飛成▲1三角△2一玉▲4一角成まで。粘りを身上とするルーキーを、その隙を与えずに、バッサリと切って落とした。

(中略)

 22連勝中の、会心の一局はと聞くと、森九段との王将リーグの将棋をあげてくれた。わずか、59手で終わってしまった将棋である。

 5図は、横歩取りの定跡書に現れそうな局面だ。5図から▲2一角△4二玉▲3二角成△同玉▲4二金と進み、いくばくもなく塚田は攻め倒した。

 ▲2一角に△2三歩は▲3二角成が詰めろになる。△2三銀は▲同飛成△同金▲4三角成が詰めろ飛車取り。△3一金も▲2二飛成△同金▲4三角成がある。

 局後、森九段は12手目の△6二銀が敗着だったと語っていたという。そして、序盤の疑問手を積極的にとがめたところが、会心の一局たる所以なのだ。序盤からでも、常にポイントを積極的に上げることを意識する。そして、それを維持したまま押し切る。それが塚田の考える理想形であり、そんな発想から塚田流と言われる▲2四歩が生まれたのだ。

 塚田はスプリンターだ。少しでも速く全速力で100mを駆け抜けることを目標とする。それが、塚田の根底に流れている思想なのである。

(以下略)

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将棋世界同じ号の「将棋パトロール」より。

塚田、新記録達成!

 塚田六段が、22連勝というウルトラ新記録を達成した。一昨年に有吉九段がマークした20連勝を、更新するもので、次に紹介するように内容も満点。素晴らしい記録だ。

(中略)

 連勝中に、対A級・タイトル保持者7勝、順位戦5勝、新人王戦決勝の2勝を含んでいて、まさに、空前絶後の大記録といえる。

 ただ、惜しむらくは、連勝ストップの相手が、過去一度も勝ったことのない(4連敗)谷川棋王だったことで、絶好調で当たった今回の対戦でも勝てず、連勝にケチをつけるとすれば、唯一、この点だろう。

 塚田は対中原(3-2)、対米長(2-1)には健闘しているのだから谷川にだけ、これほど分が悪いのは、ちょっと不思議な気がする。近い将来タイトル戦でも好敵手となるであろう二人だけに、塚田には、なんとか谷川を克服してもらいたいものだ。

(以下略)

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塚田泰明六段(当時)の個性が十二分に表現されている記事。

「顔全体がブッこわれちゃうような笑顔」が最高だ。

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将棋世界の同じ号に載っている、この当時の歴代連勝記録を見ると、連勝新記録の推移は次のようになる。

升田幸三八段 14連勝(1956年)

大内延介六段 17連勝(1966年)

有吉道夫九段 20連勝(1984年)

塚田泰明六段 22連勝(1986年)

神谷広志五段(当時)の28連勝は、この翌年、1987年のこととなる。

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インタビューが行われたのは21連勝中の時。

3図は「塚田スペシャル」そのものの序盤。

この頃はまだ「塚田スペシャル」という名前が付けられていないようだ。

 

 

森信雄六段(当時)「村山君は弟子というよりも肉親に近かったです」

将棋世界2001年12月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 無名有力の人 森信雄六段」より。

 6年間の連載で、これが最終回になった。谷川九段、羽生四冠ときて、最後のゲストはそれなりの人、とも考えたが、この企画らしい方でと思っていた。

 そもそもこの連載は、スター棋士ではないけれど、一棋士としての生きざまに光を当てる頁であった。そんな想いからも、森信雄さんはふさわしい方だと感じる。「棋士それぞれの地平」は「棋士達のプロジェクトX」でもある。

 森さんとは、若い頃にプロアマ戦の関西代表でお会いしている。しかし、その時の印象は薄い。見た目も御本人の口グセの「さえんな」であった気がする。

 これは、私自身の人物眼の至らなさだと今になって恥じ入る。刮目したのは、数年前の電話からだった。その時は、どれだけ救われたか分からない。

 電話のキッカケは些細なことからだった。この企画を考えてくれた、大崎善生前編集長と飲んでいる時に「鈴木さんの頭脳が大学教授なら」と大崎氏が言ってからだ。自分の能力に迷いもあり、「大学教授なら」という言葉に飛びついた。そんな格ではないが、自信を無くしていたのだろう。

「将棋界で、ぼくが大学教授なら」と聞くと、「森信さんはノーベル賞クラスですよ」といつもの辛口で、ちっとも誉めていない。世間を見る眼が狭い、と彼は言いたかったのに違いない。

 しかし、敏腕編集長で、後に『聖の青春』や『将棋の子』で賞を受ける大崎さんが、これほど高く評価する森さんとはどんな人なのか、突然むら雲のように興味が湧いてきた。電話で1時間半程、将棋界のことを語り合ったのは話を聞いた翌日だった。

 森さんへの予備知識は殆どなかった。多少人間性を知り得たのは『聖の青春』で村山聖九段の師匠としての関わりを読んでからだった。それでも、語り口で人間としての暖かさや、思いやりの深さは理解出来た。その上、冷静な分析力には驚かされた。関西の理事として苦労している分、将棋界の置かれる立場が客観的に見えていたのだと思う。反省するのは、将棋の実力とか立場で判断する悪い癖である。(自分は)もう、そんな判断から脱していると思っていたが、40歳を過ぎても、こんなものか、と思ってしまう。

 関西の棋士が森さんを理事として応援していた気持ちが今にして分かる。無名であっても、自分の人生をまっとうするために頑張る。それだけで社会貢献するようになっている人は、業界や地域社会で評価される。逆に、無名であるが故に人格者ということもあるだろう。

「無名有力」は、人物学からの教えであるが、「有名無力」になる場合も世間には多いのではないか。私はどちらにも値しないが、森さんの「無名有力の人」は灯台のような目標になっている。

奨励会前後

鈴木 東京まで出て来て頂き、申し訳ないです。腰の具合はどうですか。

森 今年の2月に退院してからは、だいぶいいです。東京は退院後初めてです。連載の最後が私でいいんですか(笑)。

鈴木 村山聖君の本(『聖の青春』)が出てから、森さんは一番有名な棋士かもしれません。興味ある読者は多いと思います。将棋のルールを覚えた頃からでいいですか。

森 遅かったね。小学5年生の時に、母の知り合いの腰掛け銀が得意な将棋の強い人から教わりました。

鈴木 『聖の青春』で読みましたが、小さい時に父親と離別して苦労したそうですね。将棋盤とかは。

森 ベニヤ板だった(笑)。貧乏なのは小学校に上がるまでやね。兄姉もいましたから。

鈴木 本だから脚色もありますね(笑)。赤貧なのかと思ってました。将棋との縁は?

森 『将棋世界』を夢中で読んだりとかです。詰将棋に興味があって作り始め、投稿もしました。棋力はアマの7,8級です。

鈴木 中学2年で今のレベルに近い作品を作っていたそうですから、かなりのマニアですね。詰将棋作家に多いですね。

森 道場にも行ったけど、アマ初段の人に二枚落ちの手合でした。夏は神社の境内で指し、道場は週1回通いました。高校を卒業する時は二段です。こんなんでいいんかなあ(笑)。

鈴木 良くないというよりも、信じられません。本当にプロになるんですか(笑)。

森 プロになるとは思ってないです。伊丹の帝国化成に就職して働きました。そこの寮は40人くらいいて、昼に大学へ行くか、夜に行く人ばかりです。行ってないのは1人か2人で、ぼくはその内の1人でした(笑)。

鈴木 プロ棋士とは無縁ですね(笑)。高校チャンピオンでも難しいですから。

森 南口教室に通います。実力はアマ二段ですけど、集団生活が合わない。単調な仕事に向いてないなと感じていた。会社を辞めたい、と思ってました。

鈴木 それが奨励会を受けることに。

森 これも偶然やね。山形から家出少年が教室に来て「弟子入りしたい」と言った。それで「ぼくも受けてみます」と師匠に言ったら「受けてみるか」で決まった(笑)。

鈴木 1年半働いて、19歳も半ばですよね。昭和46年の秋ですから。1年半で初段は絶望的です。櫛田陽一君(現六段)のように1級で入会なら分かりますけど。

森 会社からも慰留されなかった(笑)。ダメで元々の気持ちです。3級を受けて1勝2敗で4級入会やった。今なら無理やね(笑)。どの道、次の仕事をと思ってたからね。

鈴木 アマの四段からプロの初段は大変です。しかも、1年間上がれなかった。

森 道場のお客さんの店で洋服の配達を半年してた。これも合わんかった(笑)。半年実家に帰ったら、塾生の空きが出て志願しました。これは自分に一番合ってたね。3食つくし、将棋も指せる。

鈴木 その時が20歳の4級で、残り半年の年齢制限ですけど。

森 塾生を一生懸命やってたら、師匠が「まかせとけ」と言ってくれて(笑)。とりあえず、延長出来そうな雰囲気やった。22歳で初段になりました。

鈴木 それから2年で四段昇段ですか。信じられない(笑)。よほど強くなる条件があったのか、才能でしょうか。

森 塾生生活は刑務所に入ったつもりで、他のことは一切やらないと決めてました。水が合っていたのと、集中力がありました。ぼくは奨励会は全部、Bに落ちてから半年で上がりました。4級から三段までです。落ちたら辞めないかん、と思うと力が出るタイプです(笑)。

鈴木 それは記録です(笑)。Bに落ちても、上がれると決まっていれば落ちますが(笑)。4年半で四段も凄いですけど、過酷な関西の塾生生活が才能に火をつけたのでしょう。入った時、三段の先輩でそのまま残った人もいたでしょう。

森 夢中で、考えたこともないです。とにかく、ホッとしました。塾生は本当に好きで、四段になっても数ヵ月やってました。辞めたくなかったけど、どうもまずい、というので辞めましたが(笑)。

鈴木 東京では永作君が似てます。塾生があれば、2年早く四段になったと思います。24時間将棋漬けの体が盤に乗り移るというか、恐ろしさがありました。そんな感じでしょうか。

森 3年半は全部将棋です。あれは自分では作れない環境ですね。

―森さんが四段になったのは、51年の3月というから、私が二段の時だ。私が1年半先輩といっても、3歳年上だから、アマの強豪出身だと思っていた。もし、同じように修行をしていたら大ショックを受けていただろう。19歳入会で甘く見ていたらスッと上がってしまう。実力と勝負は別もの、とでも自分を慰めたのだろうか。今になれば、1年半手にケガをしながら単調な部品作りをしていた経験も、苦戦の将棋に耐える力になっていたとは分かるのだが。

棋士生活25年

鈴木 棋士になってからはどうですか。

森 パッとせんね(笑)。初めて自由になって、奈良のアパートの近くの競輪場にも行くようになって。

鈴木 それが普通です。高校に行きながら才能のままに四段になる人とは違って当たり前です。近年は、苦労が流行りません。

森 順位戦では3回不戦敗をしている。これでは上がれんね(笑)。最初は20代の時に肺結核の疑いで入院して3局くらい不戦敗した。後は30代と今年です。やはり、3局ずつ不戦敗でした。今年のは、もう長い順位戦は無理やと思い、フリークラスに転出しました。

鈴木 20代では、新人王戦(第11回)で優勝しました。この時は。

森 入院した後で、降級点を取った次の年です。20代で2回取って、次は引退かと思った時も、6勝4敗で降級点を消しました。消した年に、降級点制度がなくなりましたけど(笑)。背水の陣にならないと力が出ないタイプです。順位戦も年齢制限があると良かったかな(笑)。

(中略)

森 元々、欲が少ないですね。生活出来ればいいというか、好きな将棋を指していればいいと思ってきました。

鈴木 将棋が本当に好きなんですね。ぼくはそこまで好きか自信がないです。フリークラス転出の決断は、腰痛のこともありますか。

森 自分の時間を作りたいと思ったのが一番です。もう(人生の)残り時間を考えないといけない。8年前から子供の自宅教室をやってるけど、本気でやらないと上手くいかないと思って。

鈴木 森さんの詰将棋や次の一手(注:スーパートリック)は有名ですけど、子供教室は知りませんでした。現在は何人くらいですか。

森 隔週木・金・土の各2時間で、50人くらいです。お母さんが大切で、(将棋を)強くしたいと思ってはダメですね。もっと軽いもの、というか塾のような感覚です。妻がピアノを教えているのですが、音楽教育の方面では先生用の指導書があります。でも、将棋の世界ではまだ作られていません。

鈴木 全員がピアノのソリストを目指したら重いですね、確かに。将棋の指導で食べている人が少ないせいもあるでしょうけど。

森 アルバイトの感覚ではダメです。ぼくも以前、弟子に任せて失敗してます。これで飯を食う、というくらいでないと成功しないです。まだ分かりませんが。

鈴木 対局以外のことへ力を入れるのに、49歳はいい年齢だと思います。子供への普及に力を入れて下さい。

森 (教室は)連盟とかではなく、生徒の家の近くがいいです。しかも低料金で。これは、ピアノのマニュアル本の教えです(笑)。

創作と弟子の話

鈴木 詰将棋と次の一手を両方作る人は内藤國雄先生くらいですね。

森 ぼくは職人です(笑)。仕事ならどんなに苦労しても作ります。賞とかは興味ないですね。

鈴木 次の一手は特別の感覚で、才能がないと作れない感じです。以前は打ち歩詰めの筋か逆王手くらいでした。森さんの影響が大きいですね。

森 コツコツ考えるのが楽しい。自分の好きなことばかりやって生きています。

鈴木 実はぼくもそうです(笑)。弟子は育ててませんけど。村山君のことは胸を打たれました。

森 村山君は弟子というよりも肉親に近かったです。増田、山崎、安用寺と棋士になりましたが、村山君とは違いますね。ひと言で言うと面白かったです。

鈴木 村山君も森さんでなければ、と思います。当然強くなったでしょうけど。

森 あれだけの才能だから、ぼくが師匠でなくても強くなった、と言われますが、犠牲も大きかったと思います。何十勝かは逃していると思います(笑)。ぼくは強くならなくても長生きしてほしかったです。それを言うと彼は怒りましたけど。

鈴木 ある意味では、森さんの30代を捧げたのだと思います。師弟愛とかひと言で言えないですね。他に弟子も多いと聞いていますが。

森 今、奨励会に8人います。地元や京都、広島、大阪から頼まれます。親には上手くいかない方が多い、と話しています。その時どう対応するかですね。

鈴木 身近に三段で辞めた人がいます。その気持ちは分からないですね。

森 優れているのに、どうしてこんなことになるのかと思うと、辞めてからも辛いですね。幸せは棋士になることではないですから。

鈴木 これからの将棋界はどうですか。

森 連盟は投資が必要です。帰ってこないケースもあります。将棋はファンにとっては娯楽ですから、ファンの負担を軽くしてあげるべきです。せいぜい1パーセントくらいで、20パーセント持ってほしいというのは棋士の論理です。

鈴木 確かにそうですね。棋士はライセンスをもっと感謝していいと思います。

趣味と優先順位

鈴木 優先順位を聞くのも今回が最後になりました。

森 将棋の仕事が全部です。放浪癖も写真も将棋のうちだと思ってます。

鈴木 本誌の連載も長いですね。趣味でお金を稼げるのは凄いです。カメラはどのくらい持ってますか。

森 1台です。もう1つ中判カメラを持ってますが、いつか使いたいです。

鈴木 1台ですか。レンズとかは高級ではないんですか。名人の域です(笑)。

森 器械に弱くて(笑)。車もダメだと思ってたら、3月に免許を取りました。なんとかなるもんですね。

鈴木 不思議な人です。インドで1ヵ月も住んでしまうし、想像を超えます(笑)。

森 中国でも言葉が通じない快感があります(笑)。相当困っても、人は信用出来ます。どこに住んでいても24時間は変わらないですよ。3食たべるし、散歩もします。

鈴木 今日は有終の美を飾って頂き(笑)、ありがとうございました。最近、読んだというゲーテの『ファウスト』の話を飲みながらしましょう。

対談を終えて

 森さんは知性の人だと思う。会ったことはないけれど、インドの大詩人タゴールと話をしているような錯覚におちいる瞬間があった。話題の急所をポツリポツリと話をする。もしも、将棋界が行き詰まった時は、森さんが助け舟を出してくれるだろう。「終盤は村山に聞け」「苦難は森信に聞け」である。

(以下略)

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ここまで5,533文字。通常なら前編、中編、後編と3回に分ける分量だが、面白くて一気に読めてしまうし、より多くのことが深く伝わってくるので、1回にまとめた。

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実際に森信雄七段と一緒にいると、この対談と同じような雰囲気で、森信雄七段の話をいつまでも聞いていたい思いになる。

世間話であっても、ずっと聞いていたくなる。

人間的な魅力と内面に潜む温かさ。

奥様も一緒だと、話にまた新しい面白さが加わる。

相撲部屋とは全く異なるが、森信雄七段と奥様が、多くの森一門の弟子が育ちやすい、飛躍しやすい土壌を作ってきたのだと思う。

森信雄七段の物語は、これからも続く。

 

 

芸能界と将棋界の違い

将棋世界1982年1月号、内藤國雄九段と福本和生さんの新春放談「晴耕雨読が夢」より。

福本「おゆき」、正直いってあんなにヒットするとは思えなかったですね。ボクは。

編集部 何十万でしょ。才能というより運。

福本 運もあるし、才能ももちろんあった。

内藤 おゆきの場合、全部新人でやったんです。作曲家、作詞家、編曲者、そしてぼく。普通本職が別にあるものはああいったキャンペーンは馬鹿々々しくてやりませんが、ぼくは2年間、全力をあげてやりました。将棋仲間もよく言いますが、バカには勝てぬという言葉があります。この場合のバカは、言い換えれば一途ということです。新人のキャンペーンというのは、ノーギャラとしたものでね。頭下げてタダで歌って、そのうえヤジられることがある。よく腹が立ってね、なんべんマイクほかそうと思ったかわからない。なんでこんなバカなことせなあかんのや。でもやりかけたことはやり通さなきゃ。で、しゃかりきになってやった。つまりバカになってがんばったわけですわ。歌詞、メロディ、編曲と全部よく、また本人がバカになってやった。この四拍子がそろったからヒットしたんで、このどれが欠けてもダメですね。おゆき以上にいい作品をその後に出しているんですが、ぼくはキャンペーンをやらないからやはりヒットしません。 

福本 すべてがそろったわけですね。

内藤 1日3回飛行機に乗ったことが何回もありますよ。福岡で朝のテレビに出て、昼には広島で2、3本のラジオに出て夜大阪のテレビに出る。そのまま夜行で東京へ行って朝一番のテレビに出演。それで旅費はほとんど出ませんからね。実際大変でした。

福本 芸能界はシビアだから。

(中略)

福本 内藤さんは芸能界に5年いてどういうことを感じましたか。

内藤 勝負の世界はたしかにきびしい。百点か0点しかない。単純であってきびしい。でも対人関係に一切気を使わなくていい。人の名前を覚える必要はない。ところが芸能界はそうはいかない。一般のサラリーマン社会もそう。今サラリーマン4人に1人ぐらいの割合で胃潰瘍になりかかっている人がいる。これは対人関係に気を使うからです。将棋の棋士はそういうことがないからありがたい。相手を倒すことは大変だけど、物を売るということも大変です。自分の評価を人様にしてもらうということは神経を使うことです。

福本 なるほど、それから…。

内藤 人と力を合わせる喜びを感じました。キャンペーンに行って調子よく歌えて拍手が多いと関係者が喜ぶんです。「よかったねえ」と。将棋の棋士は盤の上では自陣の駒が力を合わせるよう心がけるけれど、日常生活ではそういう気持ちは薄い。将棋に負けても困るのは極端に言えば自分と女房だけ。ところが芸能界は自分がいい加減やるとまわりの人がいっぱい迷惑する。つまり歌手は将棋の駒なんです。銀か桂かわからないが力を合わせなきゃいけない。それに比べ棋士は対局中好きなものが食べれて、ファンといえども観戦拒否ができる。棋士は感謝しなければいけません。

福本 長生きできそうですね。

内藤 それと棋士はお金をもらうとき頭を下げない。支払う方がありがとうございますといってお金を払う。受け取る方は、やあどうもてなもんです。稽古に行ってもそう、対局の時もそう、これは楽ですわ。

福本 プロは17、8歳で先生ですものね。

内藤 ただ付き合っている人の範囲が狭い。小さな温室で育っている。だから狭いということを自覚せにゃいかん。ただし修行中の者は違う。将棋ばっかりやってると狭くなるとか、人物がこまかくなると思うのはもってのほか。将棋の強いのが一番えらいんだと思ってがんばらにゃいけません。まだ三段や四段の者がいろんなものを身につけようとしてはいけない。ある程度バカにならなきゃ。

(以下略)

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「おゆき」が大ヒットしたのは1976年から1977年にかけて。

内藤國雄九段が36歳の時の歌手デビューだった。

現在の年齢でいえば、山崎隆之八段が突然歌手デビューするような雰囲気。

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「おゆき」の作曲は弦哲也さんで、作曲家としてのデビュー作。

弦哲也さんは1965年に歌手デビューしていたが、ヒットに恵まれず、地方公演で一緒だった北島三郎さんに「作曲をやってみたら」と勧められて作曲を始めた。

「おゆき」の後には、川中美幸「ふたり酒」、石川さゆり「天城越え」などの作曲をしている。

「おゆき」の作詞は関根浩子さんで、これは松倉久雄さんの筆名。松倉久雄さんは村田英雄「二代目無法松」の作詞をしている。

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棋士の場合は、たしかに負けても経済的に影響があるのは家族だけだが、歌手となると、作詞家や作曲家、レコード会社(当時)などにも経済的な影響を与えてしまう。

ある意味では、棋士と歌手は真逆な世界とも言える。

この両方の世界を経験しているのだから、内藤國雄九段の言葉には重みがある。