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「もし本命の彼女とデートするならどの場所で」の質問への佐藤康光二冠(当時)の回答

将棋世界2003年3月号、「Q&A 佐藤康光棋聖・王将に聞く」より。

1.奨励会時代、目標にした棋士。 

米長邦雄

2.奨励会時代、羽生少年との印象深いエピソード。 

電車に乗っていても詰パラを解いていたので、よく勉強する人だなと思った。

3.四段に昇段したとき、A級昇級の目標を何年後に設定したか。 

30前

4.平成5年度に竜王を獲得したときの賞金の主な使い道。 

車と和服

5.「緻密流」という名称の率直な感想。

光栄です

6.天野宗歩の将棋についてどう思うか。

素晴らしいと聞いているが、まだ研究した事がない

7.1億手読むと言われているが、実際はどれぐらい。

ちょっと足りないかな

8.対局で縁起をかつぐことはあるか。

ある

9.このたびの竜王戦での阿部隆七段の大健闘について一言。

兄弟子惜しかった。が、また次がある。羽生竜王とはフルセットを戦った事がないので、その点はうらやましい

10.大の巨人ファンとのことだが、好きな巨人の選手。

高橋由伸

11.大リーグでの松井の予想ホームラン数。

45本

12.ゴルフのハンディと最高スコア

ハンディ29。最高83

13.好きなバイオリン曲。

バッハ『2つのバイオリンの為の協奏曲

14.もし本命の彼女とデートするならどの場所で。

まだ一度も行った事がないディズニー・シーかUSJ

15.タイトル戦で着る和服は何着ぐらい。また好きな色は。

20着。ブルー系

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平成5年度に竜王を獲得したときの賞金の主な使い道で「車と和服」という回答になっているが、佐藤康光竜王(当時)は、東京ドームでの棋士・奨励会員チーム「キングス」VS連盟職員チーム「バッカス」の野球の試合も開催している。

佐藤康光竜王(当時)が実現した東京ドーム草野球

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1999年、佐藤康光名人(当時)は、高橋由伸選手の色紙を入手している。

佐藤康光名人(当時)「また私の許可もなく書きましたね」

ちなみに、2016年、郷田真隆王将(当時)防衛に際して、主催紙のスポニチ紙上に高橋由伸監督からのお祝いコメントが掲載されている。

初防衛・郷田王将も絶句!巨人・高橋監督からお祝いコメント(スポニチ)

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2003年、大リーグ1年目の松井秀喜選手のホームラン数は16本、打率は.287だった。

佐藤康光九段は、高橋由伸選手デビュー以前は松井秀喜選手のファンだったという。

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東京ディズニー・シーには2001年12月に一度だけ行ったことがある。

真冬の強風の日だったので、ギョウザドッグがこの世のものとは思えないほど美味しかった。

本命の彼女とデートするのに適しているかどうかはケースバイケースだと思う。

 

 

佐藤康光二冠(当時)「羽生さんとは読み筋が合いませんね。タイトル戦で何回か戦うと合ってくるものなんですよ。しかし、合わない」

昨日からのつづき。

将棋世界2003年3月号、「棋士たちの真情 天運、天性、天命 ―佐藤康光棋聖・王将」より。記は松本治人さん。

 佐藤の「この10年、指す相手が変わらない」というセリフはよく知られている。若手が出てこないという意味だ。あるトップ棋士も「羽生さんは飽きが来ないんですかね」と指摘する。新世代の台頭を望んでいるのはメディア側ばかりではない。

「それでも最近は若手がA級に勝ったりしています。20代のころまでは、1年で評価が変わります。逆に若手が自分の将棋をどう見ているかというのは、気になりますね」

 東京の若手によると「佐藤先生の将棋は難しすぎて真似しにくい。ただ王座戦挑戦者決定戦で角を引いたり、掘り尽くされたような局面で新しい手を試みるのには、すごく刺激を受ける」という。「実戦的な将棋。勝負師らしく見えないが、実は天性の勝負師」との声も。

 これからの佐藤を占う時、やはりキーポイントになるのは「羽生」。

「羽生さんとは読み筋が合いませんね。タイトル戦で何回か戦うと合ってくるものなんですよ。しかし、合わない。今までがそうだということは、これからも一生合わないのではないか(笑)」

 佐藤の将棋は「緻密流」と一言では、とても言い表せない。直線、強情、腕力の将棋でもある。島八段の言葉を借りれば「誰とも読み筋が合わない、つまり相手の読まない部分を読んでいる点が強いところ」となる。

 羽生は「佐藤さんの将棋が変わったと言われるが、実際に指すとそんな印象は受けない。相変わらず力強い」と言う。

「最善手を構築する手段はあるわけですが、羽生さんとはその思考方法が違うような気がします。結論は結局同じになるかもしれませんが、それにたどり着くプロセスがどうも違う。チェスをやってよくわかりました。自分にとって一番謎めいた部分が多い人です」

「ここ2、3年で将棋を少し柔軟に見られるようになった気がしますね。30歳で記憶力は衰えているかもしれませんが、気にならなくなりました。ただ、感性の記憶が衰えると致命傷になりかねませんが(笑)。10年前と今では、今の方が自由な見方で局面を見ることができます。藤井システムとか中座飛車の影響で、それまでいいと思っていた局面がそうじゃない可能性もあるわけだから」

 佐藤に強く感じるのは、常に屹立として世界と向かい合う「自我」の強さだ。棋士になって16年、誰しもが一種の金属疲労を感じる時期でも「マンネリを感じたことがない」と迷いがない。「棋士以外の職業は考えたことがない。あらゆる戦型で最先端に立つのが目標だけれど、すぐには無理だから(笑)。そのうちのいくつかでも」と言う。人生いかに生きるべきかを将棋で表現しようとしている。「自分の後に道はできる。自分が元祖だ」という信念に溢れている。

「10年後の自分は、今より将棋は強くなっているでしょうね。勝つ負けるという意味ではなくて、レベルが上っているという意味で。ただこれから10年というより、1年1年で大きく変わります。それでもずっと意識しないではいられないのが、羽生さんの存在です」

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同世代の棋士同士の切磋琢磨がいかにお互いを伸ばし合うかということが実感できる。

やはり羽生世代の出現は将棋界の奇跡だったように思えてならない。

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佐藤康光九段の将棋は、この頃よりも更に自由奔放になっている。

常に続けられる新しいチャレンジ、本当に素晴らしいことだと思う。

 

 

郷田真隆九段「佐藤君と付き合った方がいいよ」

昨日からのつづき。

将棋世界2003年3月号、「棋士たちの真情 天運、天性、天命 ―佐藤康光棋聖・王将」より。記は松本治人さん。

 佐藤は大きな勝負に負けると「泣く」という。先崎学八段の著書『浮いたり沈んだり』の一章である。

 時代を彩る人気棋士は、いつも名文家に恵まれる。升田幸三には東公平、中原誠に高林譲二、米長邦雄に河口俊彦、谷川浩司に中平邦彦。そして佐藤には先崎学。『浮いたり沈んだり』には純粋、純情、直情径行な佐藤の素顔が余すところなく綴られている。一読すれば誰もが、佐藤のような友人を欲しいと思う。一流棋士でありライバルである先崎に、ここまで魅力的に書かせるのも佐藤の実力か。

「今は泣きません。たまにあるかな(笑)。先崎さんは1歳年下だけど、人生は彼の方が何年分か多く生きているような気がしますね」

 森内名人の結婚式では友人代表としてスピーチした。約20年前、島八段から「研究会を始めたい」と相談の電話を受けたとき、「島研」結成に佐藤を推薦したのは森内だった。

「後で『郷田くんと言おうか迷った』と言われました(笑)。昔からすごく積極的でしたが、それが今は前面に出ているような気がします。そういうところが名人獲得につながったと思います」

 佐藤にはちょっと近づきにくい雰囲気もある。恵まれた家庭に育ち、幼児からバイオリンを習い、ゴルフ誌へのエッセイ歴は本誌自戦記より長い。絵に書いたようなエリート人生だが、実際は「人生意気に感じる」タイプの人情家だ。端からは、もう少しずるく立ち回ってもいいのではないか、と思わせるタイプ。森内は佐藤を「あんないい人はいない」と言っては、ちょっと憂い顔になる。

「タイトルは私の方が早かったですが、棋戦優勝は森内さんの方がずっと早く、羨ましいと思っていました。研究仲間でしたし、何かが分かち合える、一番近くで意識していた相手です。向こうはどう思っているか分かりませんが。気は合っても読み筋はなかなか合いません(笑)」

 読みが合うと感じたのが郷田九段との棋聖戦だった。

「相手を見ずに盤上だけで勝負したのに近いシリーズでしたね。将棋のつくり方はかなり違うんですが、結構読み筋はあった。郷田さんの方が本格派ですね。潔さというか、美しさというか」

 同じ世代ながら、佐藤と郷田は社会的な価値観やライフスタイルが違っていそうだ。郷田と親しいある若手は、郷田から「佐藤くんと付き合った方がいいよ」と諭された(?)という。

「郷田将棋に比べ、僕の方がどちらかというと派手な要素が多い気がします。こちらは少し曲がっているというか。自分では正しいと思っているのです(笑)」

 棋聖戦では連敗した後、ある関係者から「松山(第4局の場所)に行きたいです」と頼まれた(!?)という。形を変えた激励でもあっただろうが、珍しい。佐藤と接していると、何かしら不思議な親近感がわいてくるものらしい。以前の名人戦でも本人の意思にかかわらず、後輩たちがどんどん祝勝会の準備をしていたという。「タイトル戦中でも、あまり気を使ってくれない」と苦笑する。

(つづく)

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佐藤康光九段と郷田真隆九段、共通点は正統派紳士で人情家であることなど様々あるが、たしかにライフスタイルや趣味はかなり違っていそうだ。

「佐藤くんと付き合った方がいいよ」は、飲みに行った酒場でサイコロを振るようなゲームで遊んでいる時に、郷田九段が若手棋士に自戒気味に語った言葉のように思える。

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島朗五段(当時)は1985年、森内俊之二段(当時)に声をかけて研究会を始める際に、もう一人の人選を森内二段に任せている。

このとき、森内二段の頭の中にあったのは、佐藤康光二段(当時)と郷田真隆二段(当時)だったと言われている。

羽生善治四段(当時)が島研に参加するようになるのは1987年から。

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”森内は佐藤を「あんないい人はいない」と言っては、ちょっと憂い顔になる”

今年の1月、NHK杯戦の千田翔太六段-佐藤康光九段戦を観戦した時のこと。

解説の森内俊之九段がリハーサルの時に、佐藤康光九段について「面倒見の良さと人の良さには定評があります」と紹介して、副調整室内は笑いに包まれた。

森内九段は、本番では「面倒見が良く棋士に慕われています」と表現を変えていたが、この頃は佐藤康光九段が日本将棋連盟会長に立候補することを決めた直後と思われ(発表はまだの頃)、そのことを知っていた森内九段が(こんな大変な時期に引き受けて、佐藤さんは人が良すぎるんだから)という気持ちでリハーサルでそのような感想を述べたとも考えられる。

森内九段が4月に理事選に立候補したのは、いくつかの条件が重なったからだが、頑張っている佐藤会長を助けなければ、という動機も大きかったと思う。

森内九段理事選立候補の報道を目にした時、その男気に、私は鳥肌が立つ思いだった。

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「一流棋士でありライバルである先崎に、ここまで魅力的に書かせるのも佐藤の実力か」。

『浮いたり沈んだり』よりもずっと前の時代になるが、先崎学九段に書かれた佐藤康光九段の事例は次の通り。

1998年、佐藤康光八段名人挑戦権獲得前夜

佐藤康光九段の中学生時代のニックネーム

佐藤康光八段(当時)の逆襲

佐藤康光八段(当時)の災難

 

 

佐藤康光二冠(当時)「特に丸山さんには”おお”と思うことが多かった」

将棋世界2003年3月号、「棋士たちの真情 天運、天性、天命 ―佐藤康光棋聖・王将」より。記は松本治人さん。

 佐藤は「名人は選ばれてなるもの」と言い切る。

「竜王、名人に限らず、タイトルは選ばれるものだと思います。人間性や風格ではなく”技術”で選ばれる。一年ごとに。タイトル戦に出ると香一枚強くなる。しかしストレート負けすると棋士寿命を縮める恐れがある(笑)」

 昨年は7大タイトルのうち、4つのタイトル戦に挑戦した。

「羽生さんとの王将戦、棋王戦は面白いシリーズで、対局者として意義があった。いろいろな将棋が指せ、三間飛車などで新しい手を思いつく楽しさがありました」「王座戦では羽生さんの調子は明らかによくなかったと思います。羽生さんが勝ったというより僕の方がミスして負けた。羽生さんが勝つパターンは大体そうなんですけれどね」

(中略)

 佐藤語録に「100年後に笑われる棋譜は残したくない」がある。

「30歳になってから意識するようになりました。将棋というのは何のために勉強するかというと、勝つための勉強もありますが、基本的には自分が強くなるための勉強じゃないですか。勝ち負けは大事ですが、それ以外には指した棋譜しか残らないわけです。本当は全てを本に書くように伝えたい。小説のように伝えたいんだけれど、将棋を知らないと理解してもらえないし、タイトル戦でも感動を持ってもらえないのが、ちょっとつらい」

 勝負のあり方は20年間で劇的に変わった。あるタイトル者は「大山先生は勝つことを最優先し、その局面での最善手は何かなどとは、あまり考えなかったのではないか」と指摘する。しかし現代は、それでは生き残れない。「今は最善手を理論的に求めていかないと、勝負にも勝てない時代」(羽生)。純粋な真理を求める気持ちは佐藤にも強い。データ的に勝率が悪く、プロも躊躇する角換わり腰掛け銀の後手番にも踏み込む。「米長先生が昔”矢倉は将棋の純文学”とおっしゃっていますけれど、僕にとっては角換わりです。名人戦の対谷川戦と対丸山戦であれだけ指しましたから。こういうことを言うのはおこがましいけれど、角換わりの将棋をあのタイトル戦で、ある程度前進させたという自負はありますね。発見が多かったです」

「特に丸山さんには”おお”と思うことが多かった。普通は自分がいちばん強いと思っているから、その後すぐ”その手は違うな”って感じるのだけれど、あの名人戦では”ああ、なるほど”と影響を受けたことがありました。谷川、羽生に感じる”なるほど”とは質が違っていました。僕の感覚の方がちょっと古いんですよ。新しい感覚をじかに感じ取れました」

 加藤一二三九段は羽生世代を「問題解決のスピードが速い」と評する。「例えて言えばA地点からB地点まで行くとき、一直線に行くスマートさがある。我々の世代は何度も繰り返し、やっとこの手は悪かったんだと納得して次のステップに進んだ」と言う。

「将棋を分析して自分なりのアイデアを出していく才能と、終盤の寄せを読むとか詰将棋を解くのが早いとかの才能とがあります。読みの早さというのは訓練だと思うのです。訓練を厭わないのも能力の一つです。しかし序中盤は、特に序盤がそうですが、空想というか、絵画を描くのに近い感じですね。その2つの強さがないと将棋は勝てないですよね」

 佐藤の探究心は対局後も続く。感想戦は時に3時間を超える。ある時、有望な奨励会員が控え室に来て「本当のことをずばり言ってくれる佐藤先生の感想戦が一番勉強になります」と感動した口吻で言った。

「あまり言いたくないんですけれど、相手によって作戦を変えるようになったのは最近かな(笑)。以前は無意識でしたが、今は意識的に変えることがありますね。ただ、自分の年齢としては純粋な方だと思っています(笑):

 昨年のタイトル戦の最中、佐藤は熊本へ移動する前日に森内と対戦した。午後11時に対局終了。しかし感想戦が終わったのは午前2時近く。途中、関係者が「明日早いでしょう」と促しても「フライト時間を忘れました」とトボケ続け、最善手の探索を続けた。帰宅の車中で森内は「本当に将棋が好きですね」と絞り出すような声で言った。

(中略)

 羽生は「昔のタイトル戦は、必ず最後は泥仕合になる。将棋の技術革新が始まったのは、ここ20年ほど。それまでは勝負技術の進歩だった」と分析する。

「いろいろ昔話を聞いていると”どうしたって最後は力でしょ”という風になるんですよ。まあ、実際そうなんですけど、それは要するに勝負をつけるものであって、将棋の本質からいうと違うわけです。一人で延々と考えるという勉強方法もありますが、やっぱり過去の歴史から学ばなければならない。極端に言うと、初手から全部掘り下げなければならない。そういう考えは今では当たり前だけれど、当時はなかった。僕らの世代が勝ってきた理由の一つは、そうした時代の変わり目にプロとしてスタートできたことがあるかもしれません」

(つづく)

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コンピュータソフトが非常に強くなって、棋士の指し手に影響を与えていると言われるが、もっと根本的で革命的な変化は、羽生世代の棋士が登場し始めた頃に起き始めている。

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「竜王、名人に限らず、タイトルは選ばれるものだと思います。人間性や風格ではなく”技術”で選ばれる。一年ごとに」

「タイトル戦に出ると香一枚強くなる。しかしストレート負けすると棋士寿命を縮める恐れがある」

「100年後に笑われる棋譜は残したくない」

「将棋というのは何のために勉強するかというと、勝つための勉強もありますが、基本的には自分が強くなるための勉強じゃないですか」

「勝ち負けは大事ですが、それ以外には指した棋譜しか残らないわけです」

「今は最善手を理論的に求めていかないと、勝負にも勝てない時代」

 

「将棋の技術革新が始まったのは、ここ20年ほど。それまでは勝負技術の進歩だった」

そのまま広告コピーで使えそうな談話が数多く含まれている。

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「明日早いでしょう」と促されて、「大丈夫です」「平気です」ではなく「フライト時間を忘れました」と変なことを言って話をそらしているのが、微妙に可笑しい。

 

 

阿部隆七段(当時)「若い頃の村山君とは合わなかった。四、五段時代の村山君にはとげとげしいところがあったし、こっちも生意気だったから。でも、彼の晩年はどちらも丸くなって、よく話し合った」

将棋世界2002年12月号、鈴木宏彦さん記の「第15期竜王戦挑戦者 阿部隆七段インタビュー 無欲に秘める関西の闘志」より。

「人のことは意識しない」という阿部だが、1度だけ将棋に負けて泣いたことがあるという。平成3年の第59期棋聖戦と翌年の第60期棋聖戦で阿部は、2年連続挑戦者決定戦に勝ち進んだ。当時、阿部は24歳の五段。関西の大器がいよいよ大舞台に登場するかと、周りも期待した瞬間だ。

 最初の挑戦者決定戦の相手は当時竜王の谷川。相矢倉。序盤でリードした阿部だが、中盤で失速した。「相手は谷川さんだから、プレッシャーも悔しさもなかった」という。だが、2度目の対戦相手は当時まだ四段の郷田真隆。阿部より年下の関東の新鋭である。

阿部「谷川さんのときとは全然違う。順番的に行っても、今度は自分の番だと思っていた。それをひどい内容の将棋で負けた。将棋に負けて泣いたのは、あとにもさきにもこの時だけです」

 阿部は、「自分は羽生世代です」と言う。阿部は昭和42年生まれ。羽生は昭和45年生まれ。3年の差はあるが、四段昇段は同期。それに、本格的に将棋を始めたときに初めて意識したライバルが佐藤康光だったし、今も最も親しくしている棋士仲間がその佐藤と森内なのだ。そういう意味では羽生に対する世代的な違和感はほとんどないのだろう。関西の羽生世代といえば、もう1人、村山聖がいた。あの悲劇の天才と阿部はどう付き合ったのだろう。

阿部「若い頃の村山君とは合わなかった。四、五段時代の村山君にはとげとげしいところがあったし、こっちも生意気だったから。でも、彼の晩年はどちらも丸くなって、よく話し合った。彼が亡くなった年の3月にもわざわざ2人で鶴橋まで行って焼肉を食べたくらい。お互いに成長して分かり合えたと思う。村山君の将棋も最初はストレートすぎて味がないと思ったけど、段々長所が見えてきた。あのファイトは懐かしい。他の関西の棋士はみんな欲がないんですよ。よく言えば人がいいけど、悪くいえばうしろ向き。タイトルを取るとか、A級に行くとか、もっと堂々と気持ちを出してほしい。東京に住んでいるほうが強くなりやすいとか、大阪にいたら強くなれないとか、そんなことは絶対にない」

(中略)

阿部「自分は関西の棋士だという意識は当然あります。村山君が東京に行くずっと前から、自分も東京に行ってみたいという気持ちはあった。行ったら行ったで考え方も変わったかもしれないけど、やっぱり、大阪で強くなりたいという意識が勝ったんです。大阪の将棋会館で僕が谷川-羽生戦の解説をするでしょう。終盤、羽生必勝の場面で羽生の勝ち筋を解説すると、お客さんが、『そんなんどうでもええから、谷川の勝ち筋を解説してくれ』というんです。どう見ても谷川さんの勝ち筋なんかないんだけど、それでも谷川さんを応援する。そういう大阪の雰囲気が好きなんです。若いころは自分が勝つことがすべてだったけど、この年になってファンの声も聞こえるようになってきました」

(以下略)

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1992年の第60期棋聖戦挑戦者決定戦で郷田真隆四段(当時)に敗れた阿部隆五段(当時)。

この数日前に行われた王位戦挑戦者決定戦では佐藤康光六段(当時)が郷田四段に敗れている。

郷田四段が谷川浩司棋聖(当時)に挑戦した第60期棋聖戦第3局の立会人は、佐藤六段と阿部五段の師匠の田中魁秀八段(当時)。

この時、田中魁秀八段が郷田四段に話しかけている。

「うちの佐藤がお世話になりましてぇ」

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阿部隆八段と村山聖九段の関係。若い頃は反目しあっていても、年齢を重ねて仲が良くなる場合があるし、そうでない場合もある。

二人は将棋を通して、もともと仲良くなる運命だったのだと思う。

鶴橋は大阪の焼肉のメッカ。

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「羽生必勝の場面で羽生の勝ち筋を解説すると、お客さんが、『そんなんどうでもええから、谷川の勝ち筋を解説してくれ』というんです。どう見ても谷川さんの勝ち筋なんかないんだけど、それでも谷川さんを応援する。そういう大阪の雰囲気が好きなんです」

大阪から離れたくない理由が、非常な説得力をもって伝わってくる。

大阪らしい大阪の良さ、と言えるだろう。