「インタビュー・対談」カテゴリーアーカイブ

「井上慶太君の奥さんになる子がピカ一で、有吉さんもそう言っとった」

将棋世界2001年4月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 男は黙って〔伊達康夫七段〕」より。

「馬には乗ってみろ、人には添ってみろ」というけれど、人には外見だけでは分からない部分がある、と今更ながらに考えさせられる対談だった。

 20年以上前の入社試験の面接で、何を訊いてもうまくしゃべれない学生がいた。

「最後に何か言いたいことはあるか」

 面接官の一言に「男は黙ってサッポロビール」とだけいった。この、当時流行したCMキャッチコピーの一言で、サッポロビールに入社できたそうだ。作ったような話だが、男は黙って、の部分が面接官の琴線に触れたのだと思う。

 伊達先生も、実に口が重い。理事時代も総会の席で他の大阪の理事が代弁していたこともあった。それでいて、信望が厚かったのは、実務のエキスパートだからだと思っていた。関東でいえば、勝浦修専務理事のようなタイプである。

 しかし、関西本部の道場経営や稽古先の多さを聞くと、営業面での才能を感じる。知らなかったのは、東京の若手だけだったかもしれない。関西の棋士は肌で感じる部分があったのだろう。

 (中略)

鈴木 引退された時が52歳で驚きました。これはどうしてですか。

伊達 12年前やね。持病の腰痛がヒドくなってね。対局になると出る。40歳くらいから出て、30分くらい我慢すると直る。トイレにも行けないくらい痛いんだよ。

鈴木 持ち時間が長いとキツいですね。特に順位戦は長いですから。

伊達 始めのうちは夜の10時くらいに出て、8時、6時と段々早くなってきた。お灸や針もやったけど効かなかった。引退しよう思ったのは1図や。

%e4%bc%8a%e9%81%94%e6%ab%9b%e7%94%b0%ef%bc%91

 もう必勝で△8六歩なら櫛田君も「投了するつもり」と言っていた。打とうとしてズキンときて歩を5六に置いてしまった。二歩やけど、こんな反則はない。この年の3月に辞めたのはこの理由です。

鈴木 痛いですね。ホームランを打たれて辞めた投手もいました。しかも、二度と投げられない所に針を打って(笑)。それとは訳が違います。休場という手はなかったですか。

伊達 それはできない。理事もやってたからね。苦しんでいるのを見てたカミさんが「嬉しい」というので決断できた。いろいろと悩んだよ。

鈴木 それは分かります。棋士から将棋を取るとどうなるのか。加えて生活面のこともあります。(中略)収入的にも恵まれたんですか。対局料では大変だったと伺っています。

伊達 交通費に毛が生えた程度や(笑)。稽古を一件紹介されて、そこから増えていった。教えてる人が他にも紹介してくれてね。

鈴木 理想的ですね。今はそんな感じになりません。棋士本人がいけないんでしょうか(笑)。

伊達 それは分からない(笑)。府庁やあさひ銀行、電通とかは35年から40年行ってます。今でもOBの人が来てね。

鈴木 それだけの大会社の人を相手に出来るのは凄いことです。新聞を読むとか本を読むのが必要ですか。

伊達 それは常識やね。背広にネクタイで遅刻しないことでしょう。タイトル戦がある時は新聞を買ってきて並べるとかはするね。

鈴木 そんな秘伝を聴いていいんですか(笑)。取ってない新聞を買うことはないですね。稽古の日数はどのくらいですか。

伊達 月の半分は行ってた。お金のことは二の次やった。

(中略)

鈴木 関西の理事も長いですね。

伊達 35歳の時に5年と、昭和55年の会館建設の時から13年経験した。

鈴木 辛かったこと、楽しかったことを一つずつ話して下さい。

伊達 辛かったことはないね。良かったのは最初の時に近鉄将棋まつりを作れたこと。何度も足を運んだ。もう一つは平成元年に職員を二人入れた。本当は一人やった。井上慶太君の奥さんになる子がピカ一で、有吉さんもそう言っとった。もう一人、東京で免状を書いている森君の履歴書の字がきれいやった。

鈴木 字がきれいくらいで免状の字が分かりますか。しかも定員は一人ですよね。

伊達 荒巻先生の次を考えてた。それで大山会長に言ったら「関西のことは関西で」と認めてくれた。大山会長は大きな人物やったね。あの先生がいなかったら会館は建ってないやろ。

鈴木 その1年後に森君は東京に移るんですね。彼はぼくの弟弟子になります。奨励会試験は落ちたんですけど(笑)。小事を見逃さないことに敬服します。

伊達 運営者としては普通や。道場を作る時も2ヵ月、他を見て回った。毎日見てた(笑)。連盟がようなっても、他がダメになったらアカン。それで他よりも席料を3割増しにした。

鈴木 競争原理としては難しくなりますけど。

伊達 連盟の上では、谷川や羽生が指しとる。ファンにはあこがれの人達や。どこで会えるか分からない。それが連盟の強い所やね。同じにしたら他の道場は厳しいやろ。

鈴木 対局の厳しい所で、缶のお茶を買いに降りてきたりします。一瞬ですけどファン冥利に尽きますね。ぼくもデビッド・カッパーフィールドを見るだけで1万2千円は安く感じますから。

伊達 そやろ、だから高くした。東京もいいとこ(注:黒字のこと)に出来る筈や。

鈴木 引退してからの生活面は?

伊達 今でも稽古に5、6軒、月に12、13日行っとる。カルチャーセンターの十面指しはキツうなっとるけどね(笑)。15年指したら棋士は分かる。連盟で貰う分くらいは外で稼がないとね。全部がA級やタイトル取れる訳ではないから。

(以下略)

——–

「道場を作る時も2ヵ月、他を見て回った。毎日見てた(笑)。連盟がようなっても、他がダメになったらアカン。それで他よりも席料を3割増しにした。連盟の上では、谷川や羽生が指しとる。ファンにはあこがれの人達や。どこで会えるか分からない。それが連盟の強い所やね。同じにしたら他の道場は厳しいやろ」

が、感動的なほど素晴らしい感覚。

——–

「井上慶太君の奥さんになる子がピカ一で、有吉さんもそう言っとった」

以前も紹介したが、元・近代将棋編集長で、当時日本将棋連盟に勤務していた中野隆義さんの、次のような証言がある。

当時、関西将棋会館の女性職員は皆それぞれに感じのよい方ばかりでして、私めは関西に出張に行くのが楽しみでした。関西会館の女性職員の中で、全てのしゃべりの語尾がクルリと上がる方がいらっしゃいました。コレがまたその容姿と年齢にピッタリと合った雰囲気を醸し出していまして、そうですねえ、可憐さと可愛さをミックスさせたような感じですか。その方が井上流と結婚したと聞いたときは、ホントにもう井上の野郎めえと、あ、いえ、井上さんおめでとーと心より喜んだものでした。

——–

伊達康夫八段は2003年に亡くなっている。享年66歳。

 

 

佐藤康光九段「実は、ぼくは誰とも読み筋が合いません」

将棋世界2001年6月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 神の領域に挑む男 佐藤康光九段」より。

佐藤 実は、ぼくは誰とも読み筋が合いません。自分が変だと最近分かって来ました(笑)。この間、郷田真隆君と指して「ええ、そう指すの」と言ったら「そんなの全く考えてません」の連続です。羽生-森内や羽生-谷川は読み筋が合ってますね。

(以下略)

——–

佐藤康光九段の2015年の著書『長考力 1000手先を読む技術』では、羽生善治三冠とも森内俊之九段とも全く読み筋が合わず、相対的には郷田真隆王将とは読みが合う、と書かれている。

2001年からお互いに多少変化してきたのか、お互いの理解が更に深まったのか、どちらかは分からない。

—————-

羽生善治三冠と郷田真隆王将の読みが合っていることを1990年代に先崎学九段が指摘している。

羽生善治五冠(当時)と読み筋の合う棋士、合わない棋士

羽生善治三冠と郷田真隆王将の読みが合い、郷田真隆王将と佐藤康光九段の読みが合うからといって、羽生善治三冠と佐藤康光九段の読みが合わないという事実。

AさんとBさんの顔が似ていて、BさんとCさんの顔が似ている場合でも、AさんとCさんは顔が似ていない、ということが多いが、そのことと同じようなことなのかもしれない。

 

 

 

三浦弘行八段(当時)「恋愛もいけないと思ってきました。これ変ですか(笑)」

将棋世界2001年7月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 もう一度鍛え直す 三浦弘行八段」より。

 新A級の三浦弘行八段は、謎の人である。いや、そう思われている節がありそうだ。丸山忠久名人の系譜である、将棋一筋、手の内を明かさない派と感じている棋士も少なくない。

 しかし、実体はやや違うと私自身は思っている。初めて見たのは彼が三段で記録を取ってくれた時だった。他の奨励会員とはどこか雰囲気が違っていて、記録用紙の名前を見た覚えがある。

 それから、しばらくして「変わった子が棋士になりました」と後輩棋士から聞いた名前が印象に残る彼だった。四段になっても群馬から通うせいか情報は少ない。「ネクタイがうまく結べない」は笑い話としても、周囲に気を遣わない昔気質の棋士なのか、とは思っていた。

 それが、1年くらい経って行方尚史新四段のお祝いの会で話をして見方は変わった。普通に話もするし、地方から通っている悩みを相談する後輩でもあった。相談を受けると嬉しいもので、一遍に情が移る気がした。その後、棋聖になり一緒に大盤解説をして深夜まで話をしたこともあった。話はかつての記録係の時に戻り、私が宇宙の”ビッグバン”は無理がある、と言ったのを「変わった棋士がいる」と思ったそうだ。これには笑ってしまった。だいたい、棋士が棋士を変わっていると言うのが可笑しいのだろう。

 話をして感じるのは求道心の力強さである。多弁であり、質問が好きだ。その全てが如何にして将棋が強くなれるか、そのことだけを考えている。純粋であり、純真そのもので、19歳の頃と今も全く変わらないでいる。

「インタビューは断るべきでしょうか」とインタビューの最中に訊いてくる。変わっている、と思われるが、彼のようなタイプは棋士の中に3分の1はいる。

 それを変だと思わない。むしろ、利害や損得でなく、より真理を追求するタイプとして好感を持てるのだ。

 彼のような人間に政治的な話は、してはいけないと思う。将棋を強くなることが最大の責務と考えているからだ。ただ、将棋以外のことに鈍感でいられない感性も持ち合わせているようで、今の悩みにもなっている。人は見かけだけでは分からないものである。

「普及とか何もしないと思われているのは心外です」と彼は言った。きっと、心ない言葉をどこかで聞いたのだろう。

 それは、世間の眼や棋士の眼等から無縁でいられない人間界への疑問である。

(中略)

―彼が2年前にNHKの講師をすることになって少し驚いてしまった。本人も不器用だから、と言っていたからだ。

 別件で電話をすると、彼は留守でお母さんと少し話をした。お母さんは彼のことが心配そうだったが、評判もいいようで安心されていた。それよりも、お母さんが将棋界のことに詳しいのでビックリした。それだけ、ご両親には話をしているに違いない。彼の人柄が感じられてほのぼのとした気分になったものだ。

(中略)

鈴木 今27歳だけど、将棋観というのはどうですか。

三浦 もう一度鍛え直したいです。技術と大山康晴先生のような人間的強さを求めています。

鈴木 電話でも言ってたけど、A級になって何を鍛え直すの(笑)。もう十分な気がするけど。

三浦 理由があって4月に車の免許を取ったんですけど、その間1勝5敗です。気持ちが離れると負けますね。

鈴木 そんなにストイックにならなくてもいいと思う。将棋に人生を捧げる人に申し訳ないけど、楽しむ部分があっていい気がする。恋愛とか、有名になってお金持ちになりたいとかは考えないの。

三浦 恋愛もいけないと思ってきました。これ変ですか(笑)。有名になるとか、お金持ちになりたいとかも思っちゃいけないと考えてます。13歳の時からずっとです。

鈴木 その質問には答えられない(笑)。将棋にはある種のハングリーさとか失う物の恐ろしさをバネにする部分があると思う。しかし、最近の若手は「お金の話はしないで下さい」と棋士会で言ったりする。中堅棋士は口を開けてます(笑)。

三浦 普及も父に言われて無料で行っている所もあります。その代わり将棋世界を買って下さいとお願いしてます。それでも買ってくれないですね(笑)。ネギを貰ったりしますけど。

鈴木 尊いけど、無料はどうかな。指導料を頂いて、そのお金で将棋世界を送ってあげる方が価値的です。プロが無料で教えるのは芸の世界としては良くないように思います。

三浦 父の考え方は、これまで強くなれた恩返しだと思います。地方に住んでますから出来るだけ行きたいと考えます。一方で、対局のことだけ考えるのがいいのかとも思って迷ってます。

鈴木 それはさまざまですね。30代以下の考え方に、それ以上の棋士達は戸惑っているというか、時代の変化に追いついていけない。三浦君の考え方はついていける(笑)。

三浦 対局以外は何もしない、と思っている若手もいますけど、何かをしたい気持ちはあります。誤解されてますか。

鈴木 それは深い質問ですね。人間心理の複雑さです。丸山名人にもあるけど、強さに対する裏返しの気持ちもないとはいえないでしょう。

(中略)

鈴木 優先順位は判りますけど(笑)。

三浦 1番が将棋です。これが全部ですけど、2番は家族です。趣味は読書で歴史書が好きです。後は散歩です。

鈴木 散歩はいい趣味です。カントは毎日同じ時間に散歩したそうです。純粋理性批判をカント先生が考えたように、将棋の純粋理性批判を考えて下さい(笑)。

三浦 将棋のことだけで精一杯です(笑)。

鈴木 今日はありがとう。一杯飲みながら話の続きをしましょう。

——–

三浦弘行九段らしさが、非常にうまく引き出されている。

インタビューの最中に「インタビューは断るべきでしょうか」と聞いたのは、心を許している表れでもあるだろう。

——–

「恋愛もいけないと思ってきました。これ変ですか(笑)。有名になるとか、お金持ちになりたいとかも思っちゃいけないと考えてます。13歳の時からずっとです」

思わず「変だ」と言いたくなりそうになるが、自分のことを振り返って考えてみると、中学生の頃、同級生なり下級生、誰かを好きになった時に成績が落ちた経験がある。

恋愛と勉強は両立しない、とその時に思ったものだ。

幸いなことに、高校は男子校だったので勉強に集中することができたが、そういうわけなので、三浦弘行八段(当時)の恋愛に対する気持ちは理解できる。

将棋を強くなることに人生を懸けてきた三浦弘行九段。

将棋に対する一途さが、清々しく感じられる。

——–

「普及も父に言われて無料で行っている所もあります。その代わり将棋世界を買って下さいとお願いしてます。それでも買ってくれないですね(笑)。ネギを貰ったりしますけど」の、最後に突然出てくる”ネギを貰ったりしますけど”が絶妙に可笑しい。

——–

実際のインタビューはこの数倍のボリューム。

「棋士それぞれの地平」は観る将棋ファンの方にとっては必携の読み物だと思う。

 

 

大の苦手を克服した加藤一二三九段

将棋世界1981年2月号、読売新聞の山田史生さんの「第19期十段戦終わる 加藤、4-1で十段位奪取!」より。

 加藤一二三・九段が、常勝・中原誠十段から、堂々4勝1敗で、十段位を奪い取った。第7期(昭和43年度)以来、実に12年ぶり、二度目の十段位である。

 それにしても、今回の七番勝負で見せた加藤の、積極果敢な攻撃ぶりは見事であった。かつては慎重な上にも慎重、石橋を叩いてもなお渡らず、そのため千日手もけっこう多かった加藤だったが、今回はそんな弱気さはみじんも感じられなかった。

 対局前のインタビューで、加藤は私に言った。

「ひところ対戦成績が極端に悪かった(加藤の1勝20敗)のですが、そのころ私は中原さんの将棋を通り一辺の見方しかしていなかったんですね。浅い見方しかせず、突っ込んだ見方をしていなかった。でも気持ちを込めて見るようになると、中原さんの長所がよくわかるようになりました」

 私はあえてダメを押す。「短所も見えてきたということですね」

 加藤「ええ、まあ。以前に比べ戦い易くなってきたといえますね」

 加藤の満々たる自信を見ることができる。ほかに時間の使い方については「時間にも少し気を使うようになってきました。だから秒読みにはなっても、以前より、秒読みになる時間が遅くなってきていますね。でも、難しくて、面白い所では、たっぷり時間を使ってしまいます」

 ”面白い”という所に注目したい。加藤の長考は、苦吟ではなく、むしろ”楽しみ”であるらしい。これでは相手になる棋士はたまらない。

(以下略)

——–

長所がよくわかるようになるとともに短所も見えてきた、何と奥の深い言葉だろう。

たしかに、相手に真剣に向かい合えば、そのようになるものなのだろう。

勝負に勝つための鉄則と言っていいのかもしれない。

だからと言って、私がキュウリと真剣に向かい合って、キュウリの長所や短所を知っても、苦手なキュウリを克服できるとは思えない。

食べ物や恋愛の初期段階への適用は難しそうだ。

 

 

木村一基五段(当時)「君は丸山と違って行かないだろうな、って言われました」

将棋世界2000年3月号、鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平 人生のパートナー 木村一基五段」より。

鈴木 行方君のつもりが、1ヵ月早まったけどよろしく頼みます。

木村 電話がありました。野月の次では濃すぎる、と(笑)。

鈴木 今の26歳組に興味がある。仲がいいんだね。

(中略)

鈴木 奨励会受験はいつでした。

木村 小学5年の時です。アマ四段になってました。59年と60年が多くて80人位受けて17、8人合格でした。試験者と5-1で奨励会員が1-2でした。師匠(佐瀬勇次名誉九段)が大丈夫、というのでお祝いをしました。

鈴木 6勝3敗は立派です。6級なら当然ですね。

木村 そうでしょう。ところが不合格。「落ちました」と師匠に言ったら「あ、そう」の一言でした(笑)。

鈴木 1年浪人するんだね(笑)。小学生名人戦は。本来奨励会のレベルだから良かったの。

木村 これが人生の汚点です(笑)。その年は野月が優勝で僕はベスト8でした。

鈴木 他のレベルも上がってたんだね。ブームの頂点を感じる。今は34、5人でしょう受けるのは。

木村 小学6年が4-2、2-1で同期が屋敷、野月、金沢です。屋敷さんは18歳でタイトルを取り、未だに同期と思っていませんね。

鈴木 昇級はどうでしたか。

木村 ここが野月と違って(笑)、2年で初段、2年半の15歳で二段でした。それまでの貯金でしたね。

鈴木 小学2年からだからね。それから高校へ行くんだね。師匠は反対したでしょう。

木村 「君は丸山と違って行かないだろうな」って言われました。丸山流で笑って「はい」と言って行きました(笑)。

鈴木 丸山流は面白いね。大学も行くんだね。僕の時代は師匠の言葉は絶対だったけど

木村 丸山さんがいなかったらダメでしたね。規則正しい生活で、7時前に起きます。2年の17歳で三段でした。

鈴木 将棋の勉強は出来るの?

木村 夜詰将棋を2、3時間やりました。勉強はしなかったですね。将棋を知らない友人と話すのが楽しかったです。

鈴木 プロ生活のマンネリなのかな。中学卒業で来て来る人とどこか違う。普通の生活は欲張りかもしれない。

木村 序盤の研究なんかもしません。力で勝ってましたから。このまま自然に強くなると。小学2年からずっとそうでしたから。

鈴木 それが年齢制限を気にするようになるんだね。ある意味、戦場が平事に思えてしまうんではないだろうか。

木村 平事も有事も判りません(笑)。物心ついた時からプロですから。

―木村君が大学に行ったのは正解だと思う。非日常の奨励会生活を日常と思う人生だからだ。四段昇段を逃して、泣いた時の話になったら、本当に目に泪が溜まっていた。この対談中に泣いたのは彼が始めてである。私も半分もらい泣きをしそうになった。彼と将棋の関係を垣間見た瞬間でもある。

鈴木 三段リーグは何期指したの。

木村 13期、6年半です。前半は負け越しで、後半は勝ち越してました。

鈴木 特に上がれなかった理由は?

木村 上がる2年前くらいからです。序盤の研究をしたのは。半年が無機質に過ぎていきます。このまま将棋を辞めるのかな、て思ったりしました。

鈴木 君にとって将棋は、人生のパートナーだよね。同じ諦めるでも、他の人とは少し違うと思う。

木村 考えられないです。ここまでやったんだから胸を張って辞められる、と思うまで努力しようと思いました。

鈴木 「限界までの努力」は大切です。どうなっても、いつかその力を発揮して頭角を現すことができる。

木村 週1回、大学に行っている以外は上がれない理由はない、と思いました。それでも、2度最終局に負けて上がれない時はショックでした。

鈴木 野月君は、頑張れ木村と書いていたね。

木村 その時は沼さんと飲んでいて、泣けて泣けて、ただ泣いてました。負けた野月が入ってきて、外に出たんです。そのまま連盟に歩いて、野月が上がったことを知りました。彼は知りませんから、知らせに行って後は覚えていません。

鈴木 絶望の淵だよね。でも、その苦労はきっと活きる。僕は財産も何もないけれど、苦労が財産だと思っている。だから、どうなっても負けないつもりです。

木村 次のリーグが14勝4敗で上がりました。大学も同時に卒業しました。

鈴木 11年半だね。内心こんな筈ではなかったと。

木村 いや、嬉しかったです。どんなにお金を積まれても、三段リーグはもういいやです(笑)。

(以下略)

——–

鈴木輝彦七段(当時)の「棋士それぞれの地平、この前の号に登場したのが野月浩貴四段(当時)だった。そして、この号は行方尚史六段(当時)の予定だったが、行方六段が「野月の次では濃すぎる」と辞退したという流れ。

——–

佐瀬勇次名誉九段は、弟子が高校へ進学することをあまり推奨しなかった。

しかし、一番弟子の故・米長邦雄永世棋聖がそれを破って大学まで行っている。

とはいえ、米長永世棋聖は佐瀬一門の中では別格であり、遠い昔の話でもあったため、高校へは行きづらい雰囲気が濃厚に残されていたのだと考えられる。

——–

棋士を目指している上で、高校や大学へ行ったほうが良いのか、あるいは高校には進学せず将棋100%の環境にした方が良いのか、これは正解がなく、人それぞれケースバイケースということになるのだろう。

どちらにしても大切なことは、悔いのないようにすることだと思う。

——–

木村一基三段(当時)が三段リーグ最終戦に敗れて昇段を逃し、師匠代わりの沼春雄六段(当時)と飲みながら泣いた時のことは、次の記事にも出ている。

1996年三段リーグ最終局

木村一基四段(当時)「あの恥ずかしく悔しい思いは、今も忘れることができない」

——–

木村一基八段が三段時代の自戦記→木村一基三段(当時)の自戦記「生意気小僧」