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中原誠名人「いやいや。私はB型ですからね(笑)。そういうことはしませんよ」

将棋世界1985年8月号、「これが中原名人だ!本音直撃インタビュー」より。

聞き手は、田中寅彦八段(当時)、バトルロイヤル風間さん。

本誌 今日は3年ぶりに名人復位を果たした中原名人にお越しいただき、プロ代表の田中寅彦八段とアマ代表のバトルロイヤル風間さんに、いろんな質問をしていただくことにしました。皆さんよろしくお願いします。

田中・風間 名人復位、おめでとうございます。

中原 どうも(笑)。まあ、お手柔らかにお願いしますよ。

本誌 バトルロイヤル風間さんは、無名ですが最近売り出しの将棋漫画家です。

中原 知ってますよ(笑)。週刊将棋でね。将棋はどのくらいですか。

風間 どのくらいの顔に見えます?

中原 昔はわかったんだけどナー。高柳道場の手合係やってたからね(笑)。

風間 3級か5級くらいなんです。お恥ずかシー。ボクは将棋以外のことを専門に質問させてもらいます。(キッパリ)

中原 まあ、そう言わないで、何でも聞いてください(笑)。

本誌 はじめに第1局から第5局までを軽く振り返っていただきましょう。田中八段には、プロの目で見たポイントを指摘してもらいます。

田中 まず第1局、あの大逆転の将棋ですね。ポイントと言っても難しいんですけどねえ。

中原 プロの思うポイントってのは、わかりにくいからね。

(中略)

本誌 第2局、この急戦相掛かりがすっかりこの名人戦の主役になりましたね。

中原 そう、偶然ね(笑)。これは小林(健二)先生の専売特許ですからね。

風間 秘密兵器じゃないんですか。

中原 いやいや。私はB型ですからね(笑)。そういうことはしませんよ。

田中 この将棋は、終盤谷川さんの攻めがわずかに足らなかったということになってますけど、2図の局面で△6六金と打たれると、受けがわからなかったんですけど。

(中略)

本誌 さて、第三部はこれまでおとなしかったバトルロイヤル風間さんの素人気ままインタビューです。

中原 いよいよ風間さんの出番ですね。

風間 どうも。いやあ将棋は難しいですねえ。見てても全然わかりませんでした。わからないついでにいろいろ聞かせてもらいます。

中原 なんでもどうぞ(笑)。

風間 第3局の時、ボクも2日間対局場に連れてってもらったんですけど、見てるだけでグッタリ疲れちゃったんです。対局者ってのは、きっとものすごーく疲れると思うんですけど。

中原 そうね、一局指すとかなり疲れますよ。やっぱり。

風間 例えて言うとどのくらいですか。

中原 あんまり疲れたって言いたくないんだけどね(笑)。でも、家に帰ってきて寝ると、ぐったりしちゃいますね。

風間 タイトル戦の1日目は、今までに何度も指した形になりますよね、それでもその間はちゃんと考えてるんですか。

中原 それは考えてますよ。ずーっと。ボクは遊んでる時間は少ない方ですからね(笑)。

風間 2、4、6局と同じ戦法を採られましたけど、あれは研究済みの局面に谷川名人(当時)を誘導したわけですか。

中原 そんなことはないですよ。研究といってもそんなに研究しているわけではありませんし、研究した通りにいくわけでもないし。経験の多い形になれば、少し有利ってことはありますけどね。

風間 3-2になった時は、一瞬ヤバいなって感じだったと思いますけど、そんな時、普段の生活まで暗くなりませんか。

中原 フフ、そうねえ、3連勝した時にちょっと浮ついた気持ちになりましたからね、普段の生活も。だから2番負けてかえって元に戻りました。

風間 米長棋聖が四冠王になった時”米長時代到来”って言われましたよね、その時、中原名人はどんなお気持ちでした。

中原 フフ、いやボクもそう思いましたよ。フフフ。しばらくすごく充実されてましたから。

風間 名人はこれで三冠王になったわけですけど、これで将棋界の名人も落ち着くところに落ち着いたという気がするんですよね。考えてみればこれはすごいことだと思うんですけど、やっぱりご自分でもすごいと思いますか。

中原 ハハ、いや、思いませんよ。だけど地位というより、名人戦のような大きな舞台で将棋を指せるだけでもありがたいっていう気持ち、そういった謙虚な気持ちが名人戦9連覇の後半の頃は薄れてきてましたね。だから、そういった気持ちを失わないようにこれから指していきたいと思います。

風間 名人に復帰して一番嬉しかったことはなんですか。

中原 やっぱり二人の大先輩の名人が成し遂げたことを自分もできたということですね。自分にとってはそれが常に大きな目標として目の前にありましたから。

風間 ということは、もうカムバックできないと考えたことはありますか。

中原 ええありましたよ。しばらく調子が悪かったし、今期も最初はとても挑戦者になれるとは思えなかったですし。

風間 名人を取って年収はどのくらい増えますか。ズバリ。

中原 フフ、名人戦の賞金もボクが持っていた頃よりだいぶ上がりましたし、そうですねえ、2,000万円くらいははっきり違うでしょうね。

風間 やっぱりニコニコするわけですねえ、それじゃ(笑)。第3局でボクが見に行った時はすごいいい天気だったんですよね。そんな時”外はあんなにいい天気なのにどうして将棋なんか指してなくちゃならないんだろ”って思いませんか。

中原 それは全然思いませんね。思いませんけど、天気は少し悪いくらいの方が集中できますね。

風間 できれば、いつ頃まで名人でいたいですか。

中原 フフ。でも田中先生が許してくれないだろうからね。田中先生が挑戦してくるまでは名人でいたいです(笑)。

田中 是非お願いします。

風間 対局中に相手の顔が憎ったらしくなることはありませんか。

中原 顔見て?顔はあんまり見なかったですけどね。でもたまに見るとあまりいいことなかったですね。谷川先生の顔は闘志が湧きにくいですよね。やっぱりあどけないし…。年齢相応の顔をされているなと思いました。そういえば、相手をにらみつける人もいるらしいんですけどね(笑)。どうですか、田中先生。

田中 いや、ボクはあまり自分では意識してないんです。知らないうちに見てるらしいんですけど。

風間 将棋のどんなところが一番面白いんですかね。

中原 難しいところかな。それが長考しているうちに少しずつわかってきたりした時…そんな時ですね。

風間 中原先生はまちがいなく天才だと思うんですが、自分でどんな時に”アッ、オレって天才だ”と思いますか。

中原 いえ、ボクは天才だなんて思ったことないですから……。将棋界で天才と思った人は一人もいませんよ、正直言って。これから現れるかもしれませんが。

風間 米長棋聖が勝負論の本を出してますけど、ああいうのは参考にしますか。

中原 フフ、参考にしますよ。

風間 自分以外で誰が一番強いと思いますか。

中原 一人だけ?そう、やっぱり大山先生です。

風間 じゃ、ライバルは。

中原 目標にしているのは大山先生ですね。ライバルは他にもいっぱいいます。

風間 将棋を指したくない相手は。

中原 強い人ですね。(深刻に)あと同門ね。フフ。

風間 長考し過ぎたりして、脳みそがウニみたいになって働かなくなることがありませんか。

中原 ウニ?ハハ、よくありますよ。第4局の終盤なんか完全にウニですよ、ウニ。第6局もウニだったね、途中。

(以下略)

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「タイトル戦の1日目は、今までに何度も指した形になりますよね、それでもその間はちゃんと考えてるんですか」

「名人を取って年収はどのくらい増えますか。ズバリ」

「対局中に相手の顔が憎ったらしくなることはありませんか」

「3-2になった時は、一瞬ヤバいなって感じだったと思いますけど、そんな時、普段の生活まで暗くなりませんか」

「米長棋聖が勝負論の本を出してますけど、ああいうのは参考にしますか」

など、バトルロイヤル風間さんが、”聞いてみたいけれどもとても聞きにくいこと”に見事に斬り込んでいる。

しかし、よくよく考えてみると、答えによっては全て4コマ漫画のネタになりそうなことばかりだ。

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この頃のバトルロイヤル風間さんは将棋4コマ漫画で週刊将棋にデビューしたばかり。

略歴は次のように紹介されている。

本名、国籍不明。昭和31年東京で生まれたらしい。法政大学をA7個で卒業後、某出版社へ入社。学習雑誌の編集に携わるも3年で退社。現在は謎のマンガ家として売り出し中。元プロレスラーらしい。

元プロレスラーは冗談だが、バトルさんは全日本プロレスを受けて、ジャイアント馬場社長と面接をして合格している。もちろん、これはレスラーとしてではなく職員として。

しかし、バトルさんは出版社に就職する。

この時の上司が、週刊将棋を発行している毎日コミュニケーションズに転職をして、その元上司(週刊将棋初代編集長の大崎千明さん)から声がかかったことが、バトルさんが週刊将棋で4コマ漫画を描くきっかけとなった。

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バトルさんは法政大学をA7個で卒業。

私は別の大学でA21個だった。

この21個の中には、卒業研究(誰でもAになる)、教育実習(Aにならなかったら相当問題がある)、先生が所属サークルの顧問だったのでAにしかなりようがない仏語2A、仏語2B、仏語3A、仏語3B、などが含まれるので、私もバトルさんとあまり変わりはないと思う。

そもそもAが21個とはいえ、9段階評価で下から3番目に位置付けられていた。

会社に入ったら、Aの数が1桁だったという同期が多かった。会社は明らかにAの数が少ない人間を選んで合格させたのではないかとしか思えない状況だった。

数年経ってから人事部長に聞くと、少し変わった人間を積極的に採用する方針だったので、結果的にAが少ない人ばかりが残ったのだろうということだった。

たしかに、会社は自由で明るい雰囲気だった。

それはそれで良いのだが、私も変わっている人間だと認定されていたことになり、少しだけ落ち込んだ。

 

 

羽生善治七冠(当時)「15歳ぐらいの私なら経験の差で、何とかあしらえると思うんですけど(笑)」

将棋世界1996年4月号、「七冠達成直撃独占インタビュー 羽生七冠王の将棋宇宙」より。聞き手は大崎善生編集長(当時)。

―昔は棋譜はほとんど覚えていたけど、最近は忘れることが多くなったとおっしゃっていましたが、それは進化の過程なんですか。

羽生 じゃなくて、退化の過程(笑)。退化の見事な証明。

―人知れず退化してる(笑)。でも忘れることがプラスになることもあるわけですよね、色々な状況において。

羽生 そういうこともありますが、でもまあ覚えていた方がいいんでしょうね。年齢が上がっていくに従って忘れるというのは当然のことであって、そういうマイナスを補うプラスがあればいいんです。記憶力を、30代40代になっても維持するように努力するよりも、それはそれで落ちていくのは仕方がないことで、別のことでプラスアルファがあれば、トータルでは力が持続できるということですね。

―別の何かというのは、例えば発想の自由さとかですか。

羽生 そうですね、ええ。自由な発想もあるし、勝負ということでいえばハートの面もあるでしょうし。

(中略)

―羽生さんの読みというのは、例えば15手目ぐらいの局面がパッと見えちゃうんですか。

羽生 いや、そういうのは最後の場面で、こういう形で詰み上がればいいなとかそういうのはありますけど、それであとからつじつまを合わせるとかいうのもあるし。後は、今までの指し手の連続の中で、この局面はこの一手でなければおかしいということをよく考えます。つまり、今までの指し手の流れの中からいって、この局面ではこの手が最善手でなければならないはずだっていう仮定をたくさん立てるんです。だから前の指し手があればあるほど、それは次の手を考えるヒントというか材料がたくさんあるということだから、考えやすいんですよ。しかし、序盤はそれが極端に少ないからわからない。だから終盤の方が考えやすいということはありますね。

―つまり最善手というのは今までの指し手を矛盾させない手ということなんですか。

羽生 一局の流れの中で次を見るんです。今までこういう仮定でこういう駒のテンポで動いてきたから、その次は今までの指し手の意味を継承するか、あるいは相手の指し手の弱点を突くか、どちらかの手が最善手であるわけですから。それは多分この手だろうと見当をつけて、それに裏付けを取るということですね。

―やっぱり逆算と正算みたいな読みを繰り返して。

羽生 そうです。両方をやって。

―カンとかあらゆることを駆使して。でも指される手は一手だけなんだ。

羽生 そうですね。

―以前の本誌のインタビューで升田先生と将棋を指したいと語っていましたが、どういう所に一番魅力を感じますか。

羽生 最後まで指さなくていいんですけど、序盤戦だけ、20、30手位を10局位指したいんです。そうすると、どういうことを考えてああいう発想をしたのかということがわかるかもしれないから。

―ああいう発想とはどういう発想ですか。

羽生 つまり、升田先生は、未来を見る目を持っていたんですよ。だから、その時はわからなくても、この先何十年か経った時には、この手がいい、新手として残るという、そういう未来を見る目をキチンと持っていた。その未来の目を持つためには、どういう感覚が必要なのかと、どういう発想が必要なのかと、そういうことをできれば知りたかった。

―それは対局の中においてしか知りようがない。

羽生 ないですね。棋譜で見てそれがわかればいいんですけど。もちろん、対局してみる方が数段いいと思います。

―あの人間性が面白いとかいうんじゃなくて(笑)。

羽生 人間的にも面白いと思っていますよ(笑)。個人的には凄く好きな先生です。

―格好いいですもんね。しっちゃかめっちゃかで(笑)。奥さんも面白い方ですよ。

羽生 そうですね。将棋世界の話は面白かった(笑)。ああいうキャラクターでないとああいう発想が生まれて来ないのかなあ。

―大山先生はどうですか。

羽生 勝負術ですね。勝負術ということに関していえば、将棋以外のありとあらゆる勝負事にあてはめられるような勝負哲学をお持ちになっていたという気がします。

―精神面は特に凄いですよね。異質な強さというか、独特な強靭さ。

羽生 大山先生は一言でいうと相手を疲れさす強さですから。だから、何十時間という持ち時間があってある局面でゆっくり休んで、またそれで指すのだと多分苦手だと思うんですよね。限られた時間の中で、この一局の将棋に勝つということに関しては素晴らしいものがあったと思います。

―羽生さんはプロの四段の実力になったのはおいくつぐらいの時ですか。

羽生 いや、多分、それは三段とか四段位の時……。

―しかし、四段になってすぐに本誌で当時のタイトルホルダーと対局する企画があって勝ち越したんですよね。ということは、その時にはすでに八段位はあったと……。

羽生 それはですね、あれは全部持ち時間が短いですよね。だから例えば10秒将棋とかでトーナメントなりリーグ戦をやったら三段リーグの人が優勝するかもしれませんよ。短い時間であれば、15歳でプロになって、18とか19とかそれ位までが一番強い時期だったんじゃないですかね。ただ、長い持ち時間になると話は違ってくるでしょうけど。

―というと、やっぱり段が上がるにつれて、実力も上がっていったということですか。

羽生 実力が上がってきたというか、持ち時間が長い将棋のレベルが上がってきたということですね。10分切れ負けとかだったらもう力が落ちてますから、昔の私に勝てませんから、今は……。20歳の私は手の見え方が違いますから勝てない。

―15ぐらいの私には?

羽生 15ぐらいの私なら経験の差で、何とかあしらえると思うんですけど(笑)。

―結構手強いですよね。

羽生 結構手強いですよ(笑)。ムチャクチャやってきそうだし、大変だと思います。

(以下略)

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昔の自分と今の自分が戦ったらどちらが強いか。

これは永遠のテーマになるのだと思う。

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例えばアイドル歌手。

どんなに売れたアイドル歌手がいたとしても、10年同じスタイルを続けていればどんどん人気は落ちてくる。

うまく女優などに転身できれば、例えば小泉今日子さんのように活躍しつづけることも可能となる。

昔の小泉今日子さんと今の小泉今日子さんを戦わせたら、どちらが強いか。

これは、どのような軸で比較するかで変わってくるわけで、一概には決まらない。

現在の羽生善治竜王と22年前の羽生善治七冠を戦わせたらどちらが強いか、も同じような問題になるのだと思う。

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それにしても、25歳の段階で「自身の退化とそれを補うもの」について考え始めているのだから、本当にすごいとしか言いようがない。

 

 

羽生善治七冠(当時)「自分は負ける時は大差になることが多いので後遺症がないということが大きいかもしれませんね」

将棋世界1996年4月号、「七冠達成直撃独占インタビュー 羽生七冠王の将棋宇宙」より。聞き手は大崎善生編集長(当時)。

―タイトル戦で8割5分。これを考えていると、もしかしたら羽生さんは終盤力とか定跡力とか大局観の差とか、従来の理屈でなく、何か将棋というゲームに対する理論自体が違うのではないかと思うことがあるんですが。

羽生 考え方とか理論とかは基本的にそんなに差はないと思うんですけど、やっぱり個人個人、微妙な所では将棋に対する捉え方、さっき言った定跡のこととか、終盤力のこととか、取り組み方とか違う所はあると思ってるんですけど。

―例えば「打ち歩詰めのルールがなければ将棋は先手が必勝なのではないか」という羽生さんの発言があるんですが、そういう言葉はルール自体、つまり将棋の根源的な存在、ゲームの存在の本質に常に関わっていなければ、なかなか出てこない言葉だと思うんです。

羽生 今、自分が思っているのは、将棋というのはつまり、どういう結論になるのか、ということは常に念頭にありますね。10代後半の頃であれば先手必勝だろうと思っていたし、またそれから数年経てばいやむしろ後手の方がやれるんじゃないかと思っていたり。あるいは今はなんとなく、カンだけれども打ち歩詰めがなければ先手必勝になるという気がしている。なんとなくそういうカンですよ。

―カンですか。

羽生 ただ、それが一応盤面に向かう時の一つのスタンスみたいなものですね。あとは気持ちの持ちようでやっていくということですね。例えば、それが何なのかというと、自分は10代後半の時は先手必勝だと思っていたから、先手を持てばうまくやっていけば必ず勝利に結びつくものだということを前提に指していくわけです。後手番の時はどっちにしろ最初から悪いんだから、思い切ったことをやっていこうというスタンスになります。ただもちろんそんなこと(先手必勝)はあり得ないですよ。だから、その時、その棋士がどういう将棋の結論を持っているかということは、結構大きなことだと思うんです。

―なるほど。

羽生 今は先手必勝と思っていないです。まあどちらを持っても引き分けの可能性が高いという気はしています。

(中略)

―羽生さんはコンピュータがチェスで人間に勝つというのは、チェスの理論をコンピュータに教え込むことができるからだとおっしゃっていましたが、将棋も々ことですよね。つまり将棋の理論をコンピュータに教え込めば、コンピュータが人間に勝てる可能性がある、そう解釈してもよろしいですか。

羽生 構いません。

―人間VSコンピュータという図式で考えてしまいがちですが、実はそういう図式はないんですよね。

羽生 コンピュータは人間が作り出すものですから結局は。人間が作り出したコンピュータVS人間なんですよね。

―そういう意味で、羽生さんが将棋の理論を教えるとすれば、どういうことを教えますか。

羽生 私はその辺は詳しくはないのですが、もし自分がやるとすれば、つまり定跡とか詰まし方ではなくて、この形の時にはこう動かした方がいいとか、この形とこの形を比較したら、こっちの方がいいとか。そういう部分的な良し悪しなり、部分的な形なり、こっちの方がいいケース、これはこっちの方が悪いケースというのを莫大な量を入力していくのがいいと思います。

―それは駒の損得でもスピードでもないんですね。

羽生 そうです。場面、場面の形、形です。ただもちろんその中には駒得とかそういうこともあるので、形が悪くても駒得の方がいいという判断のケースとかも沢山入れていくのがいいのではないですかねえ。

―それはすなわち羽生さんの将棋の考え方に非常に近いのではないんですか。

羽生 そうです。つまり、自分が将棋の手を考える時にどういう判断をしているかということをインプットしていくわけです。

(中略)

―羽生さんは将棋は宇宙だということを、あるいは宇宙のように広いものだということをおっしゃっているんですが、羽生さんは対局している最中に、どんどん物凄い量の読みをしていくわけですよね。その時にどういう感覚になるんですか。

羽生 そうですね、考えている時、本当に集中している時は無意識なんです。ただ、色々と考えている中で、もちろん勝ちたいということも思うんですけど、あきらめる気持ちによくなりますね。つまり、それはいい手とか悪い手とかじゃなくて、なんか、結局自分で考えてもわからないからというあきらめの気持ちですね。どんなに考えてもわからないから。

―私の場合は3手か5手先で頭が真っ白になってしまうんですが。羽生さんでもここから先は読み切れないという局面が、毎局のように続くわけですよね。

羽生 そうですね。まあそういう時はカンですね。わからないから。しょうがないですよね。ただ、自分の方から自信のない局面でも、相手の方から見て自信がないという時もあるので、だから、こんなもんだろうなっていう感じで指していくことが多いですね。いつも自信満々に一手一手指せるわけではないですから。

―結構、不安と共にある。

羽生 ええ、常にそうですね。

―不安と共にありながら、やっぱり結果が出てくるというのは、どういう所が違うんですか。結果が伴う理由というか。

羽生 何が違うかっていうのは、そんなに違うところはないと思うんですけど。ただ、自分は負ける時は大差になることが多いので後遺症がないということが大きいかもしれませんね。勝つ時は大体接戦だし、苦しんでいるから。だから次にまた油断するということもないし、そういうことは結構、1年とか2年とか長いスタンスで見れば大きいのかなあという気がします。

―負け方がうまいということですか。

羽生 うまいというか(笑)、負け方がヘタなのかもしれませんけど、大差で負けているから。

(つづく)

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たしかに、大差で負けた時は、かえって心の痛手が少ない。

「あそこでああやっておけば……」などのような思い残すことがあるほど、尾を引いてしまうことが多い。

宝くじが好例で、バラで買って、1等賞と2番違いが1枚あったら、一生悔やみ続けるかもしれない。

 

 

羽生善治七冠(当時)「一局二局やるとこっちの調子の悪いのが相手にうつるんじゃないかという気がしているんです」

将棋世界1996年4月号、「七冠達成直撃独占インタビュー 羽生七冠王の将棋宇宙」より。聞き手は大崎善生編集長(当時)。

―もう何回も聞かれていると思うんですが、七冠になられた率直な印象はいかがでしょう。

羽生 やっぱり嬉しい気持ちもあるし、ずっとここ3年位目標にしてきたものが達成されてしまったので、ちょっと気が抜けたという気持ちもあるし、その両方ですね。

―七冠達成の当日、私は将棋連盟にいまして、その夜、二上先生と午前3時頃まで読み歩いてしまいました。控え目な先生にしては珍しくハシャいでまして、喜んでいらっしゃいました。

羽生 そうですか、そうですか(笑)。それは私も嬉しいです。

―子供の頃は、色々な夢を描くと思うのですがその中に七冠王というのは入っていましたか。

羽生 いや全然ないです。全くないですね。そういうことを考えたのは五冠王になってからです。棋士になってからも、七冠王なんて一度も考えたことはないですから。

―ということは羽生さんにしても、やっぱり凄いことなんですね。

羽生 凄いことというか、あり得ないことと思ってましたから。

―対局後のインタビューや記者会見の時など、大変感激というか興奮されているように見えましたが、やっぱり相当にグッとくるものが?

羽生 対局が終わってとりあえず、気持ち的には大分開放的な感じはあったんですけど、ただちょっと肉体的にはつらいので、変な状態でしたね。

―風邪は治りましたか?

羽生 今は大分良くなりました。熱は下がったので、後はセキだけです。 

―羽生さんはこの一年、ずっと勝ち続けてきたという印象ですが、それでも振り返ると苦しい場面も多々あったと思います。どういう所が印象に残ってますか。

羽生 やっぱり昨年の4月からずっと10、11月まで、あまり自分が納得できるような将棋を指せていなかったので、そういう意味ではなんかずっと苦しいなと思っていました。

―森九段に王座戦で詰まされていたら、もしかしたらガラリと展開が変わっていたかもしれない。

羽生 そうですね。それは王位戦にしろ、竜王戦にしろ、一局の違いですよね。一局の違いというよりも、一手の違いでもう多分、それでシリーズの流れが変わっていたと思います。後から考えれば、よくこんなに危ない橋をいくつもいくつも渡って来られたなあと思いますね。

(中略)

―現在、殆どタイトル戦という状態で8割5分という驚異的な勝率を上げていらっしゃる。タイトルホルダーというのは常に、その時の一番調子のいい相手と戦っているわけですよね。

羽生 今年度に関する話でいえば、そうですね。常に調子のいい人が挑戦者になりますよね。で、私は調子が悪いんですよ。で、一局二局やるとこっちの調子の悪いのが相手にうつるんじゃないかという気がしているんです。だから、後半戦になると調子がおかしくなってきた人が多かったですね(笑)。

(後日につづく)

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昨日、羽生善治永世七冠と囲碁の井山裕太七冠への国民栄誉賞の授与が正式決定された。

羽生氏と井山氏に国民栄誉賞の授与決定(NHK)

昨年末に予定されていた正式発表が事務的手続き等の理由で年明けになった形だが、昨日は大安で指し初め式。

こうなってみると新年の非常に明るい話題だし。発表が当初予定よりも遅れたのがむしろ良かったようにも思える。

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ということで、今日は羽生善治七冠誕生の直後のインタビューから。

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「後から考えれば、よくこんなに危ない橋をいくつもいくつも渡って来られたなあと思いますね」

いつも思うことだが、七冠を獲得するのももちろん凄いことだが、その前の1年以上、六冠を保持し続けてなおかつ王将戦の挑戦者になることも考えられないほど大変なことだ。

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自分の調子の悪さが相手に伝染する。

厳密には調子の悪さが自分から相手に移動するので、伝染ではなく、調子の悪さが相手に憑依する、と言った方が正しいのだろう。

これも、広い意味での羽生マジックであることは間違いない。

 

 

日本テレビ旧本社の場所にあった将棋大成会

将棋世界2004年4月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 五十嵐豊一九段」より。聞き書きは木屋太二さん。

 将棋大成会は麹町一番町にあった。いまは日本テレビが建っている。敷地は約600坪。塾生は掃除するのが大変だった。そこから師匠の家に行く。奨励会の成績を報告するんです。

 関根先生のお宅は麹町三年町で、国会議事堂の裏にあった。隣は米内海軍大臣の家でした。私は麹町一番町からバスに乗り、麹町三年町の”議事堂前”で降りた。関根邸は質素な造りで、庭には池があった。関根先生は貫禄十分だが、ひょうひょうとした人物だった。

 私が、さえない成績を報告すると、「負けろ負けろ、負けて強くなれ」と言い、こづかいをくれた。「真剣は素人とやっちゃだめだ。仲間とやれ」とも言われた。やわらか味のある、とてもいい先生でした。

(中略)

 五十嵐九段には屋敷伸之八段という優秀な弟子がいる。この弟子は師匠思いで、盆、暮になると必ず好物の日本酒を送ってくる。一万円の一升瓶だ。「ありがたいが高級な酒は、ふだん飲みにくい。屋敷君には五千円のを二本にしてくれと言っているんです」と九段。

(以下略)

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将棋世界2004年6月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 宮坂幸雄九段」より。聞き書きは木屋太二さん。

 奨励会へは昭和23年6月に入った。塚田先生のところに行ってから1年が過ぎていた。

(中略)

 連盟の事務所は水道橋の後楽園にあった。野球場の観客席の下です。対局は麻布の若松寺で行った。そこの住職は勤めていて、あまりいない。ふだん、あいているということで借りることが出来たらしい。焼けたあとに建て増したようで新しかった。

 対局はお寺の本堂を使った。6畳と8畳の2部屋です。大体、4局行われるのだが、それを2人の記録係が同時に2局取った。物資の乏しい時代だからストップウォッチはない。記録係は秒針の小さい腕時計ひとつで2局とるのだから忙しい。

(中略)

 その頃の棋戦は順位戦しかなく、年間に5、6局しか指せない棋士も相当いました。そのせいか、時間いっぱい使う人が多かった。

 升田幸三さん(実力制第四代名人)は八段になったばかりで、寝袋を持って対局場にやってきた。しかし慣れないのか、「こんなものやってられない」と起き上がり、私に、「君、一丁やろう」と言う。私は棋譜を必要な枚数書いているところだった。手合は飛香落ち。私が駒音高くビシッと指すと升田さんは、「駒音は強いけど将棋は強うないの」と言って笑う。とにかく、いろんなことを言う。口が悪い。こちらはあおられる一方で将棋はバタバタやって、すぐ負けた。

 そのあと升田さんは他の棋士と話を始めた。大山康晴さん(十五世名人)との名人挑戦者を賭けた昭和23年の高野山の決戦のあとで、升田さんは順位戦のことをしゃべっていた。「必勝の将棋をバタッとやって負けた」とか「将棋は考えにゃならん」と言っていた。私が「考えなかったから負けたんですか」と聞くと、「この小僧、何ぬかす」と怒られた。「へらず口たたいて、勝てんかったと言わしてやる。もう一番だ」と、さらにもう一局指してくれた。普通なら生意気な少年ということで頭をコツンとたたかれるところだが、よく指してくださったと思う。

「お前は誰の弟子だ」「塚田先生です」「内弟子か?」「通いです」「客弟子か」。この升田先生とのやりとりも、よく覚えている。客弟子という言葉が記憶に残っている。良い思い出です。

(中略)昭和24年6月に西荻窪の原田泰夫八段(九段)のお宅で奨励会を再開した。

(中略)

 やがて将棋連盟は中野に移り、事務所と対局場を一本化した。ここは早稲田通りから少し入ったところで、JRの中野と東中野の間。相撲の照国道場を買い取った、と聞きました。1階は留守居役の奥野基芳六段(八段)の部屋と棋士のたまり場、それに応接室。2階は6畳と8畳の対局室。庭は広く、土俵のあとがありました。

(以下略)

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倉島竹二郎さんの著書を見ると、将棋大成会は昭和11年頃は青山北町(現在の北青山)のひなびた屋敷、その後、赤坂表町(現在の元赤坂、赤坂4、7、8丁目の一部)の新築まもなくの堂々たる邸宅に移ったと書かれている。そこから更に麹町一番町へ移転ということであれば、現在なら地価が非常に高い場所ばかり。

なおかつ、関根金次郎十三世名人の自宅が麹町三年町(現在の永田町、霞が関3丁目、九段南2丁目)で国会議事堂の裏だったというのだから、ものすごい場所に住んでいたということになる。

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日本テレビ旧本社(現在の日本テレビ麹町分室)は番町皿屋敷があった場所という説もあるが、皿屋敷伝説(大事な皿を割ったとして咎められた女性が井戸に身投げし、その後、夜ごとに井戸の底から皿の枚数を数える女性の恨めしい声が聞こえてくるようになる)は全国に存在するようで、真偽の程は不明。

番町皿屋敷から徒歩10分ほどの場所が「四谷怪談」の舞台、番町皿屋敷から徒歩5分ほどの紀尾井坂が「のっぺらぼう」の出現地ということで、この一帯に怪談話が集中している。

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将棋大成会は、戦況著しく悪化し中期的に対局の目処が立たなくなった時点で財産を清算し、お金を会員に分配したとどこかに書かれていたのを見た記憶がある。

どちらにしても麹町は引き払い、戦後、日本将棋連盟となって活動を再開する。

戦後直後の日本将棋連盟は後楽園球場にあったわけだが、後楽園にあったのは事務所だけで、対局場は別だったことがわかる。

麻布の若松寺は、現在の南麻布3丁目にある日蓮宗のお寺。高級住宅街にあるお寺だ。

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日本将棋連盟が東中野から千駄ヶ谷へ移転するのは1961年のこと。

たまたまではあるが、青山北町時代の将棋大成会本部にやや近い場所に戻ってきたということになるのだろう。