「将棋雑文」カテゴリーアーカイブ

最年少棋士の推移

その時々の最年少棋士が誰だったのか、そして最年少の期間はどれくらいだったのか、を調査・計算してみた。

元としたデータは、Wikipediaの将棋棋士一覧

加藤一二三九段が四段になる以前は、調べるのがかなり難しそうなため、加藤一二三九段以降を対象とした。

最年少棋士の推移は次の通り。

四段昇段日・その時点の年令最年少日数
加藤一二三九段1954年8月1日14歳7ヵ月2,800
高島弘光八段1962年4月1日20歳6ヵ月365
米長邦雄永世棋聖1963年4月1日19歳9ヵ月914
中原誠十六世名人1965年10月1日18歳0ヵ月182
桐山清澄九段1966年4月1日18歳5ヵ月731
森安秀光九段1968年4月1日18歳7ヵ月1,461
田丸昇九段1972年4月1日21歳10ヵ月183
宮田利男八段1972年10月1日19歳11ヵ月547
青野照市九段1974年4月1日21歳2ヵ月156
前田祐司九段1974年9月4日20歳6ヵ月181
飯野健二八段1975年3月4日20歳7ヵ月291
小林健二九段1975年12月20日18歳8ヵ月167
田中寅彦九段1976年6月4日19歳1ヵ月119
大島映二七段1976年10月1日19歳3ヵ月80
谷川浩司九段1976年12月20日14歳8ヵ月1,290
中村修九段1980年7月2日17歳7ヵ月78
島朗九段1980年9月18日17歳6ヵ月123
南芳一九段1981年1月19日17歳7ヵ月45
塚田泰明九段1981年3月5日16歳3ヵ月930
森下卓九段1983年9月21日17歳2ヵ月628
阿部隆八段1985年6月10日17歳9ヵ月191
羽生善治九段1985年12月18日15歳2ヵ月511
森内俊之九段1987年5月13日16歳7ヵ月507
屋敷伸之九段1988年10月1日16歳8ヵ月1,095
深浦康市九段1991年10月1日19歳7ヵ月183
真田圭一八段1992年4月1日19歳5ヵ月183
三浦弘行九段1992年10月1日18歳7ヵ月182
久保利明九段1993年4月1日17歳7ヵ月365
北浜健介八段1994年4月1日18歳3ヵ月548
田村康介七段1995年10月1日19歳6ヵ月548
小林裕士七段1997年4月1日20歳6ヵ月183
佐藤紳哉七段1997年10月1日20歳1ヵ月182
山崎隆之八段1998年4月1日17歳1ヵ月548
阿久津主税八段1999年10月1日17歳3ヵ月183
渡辺明三冠2000年4月1日15歳11ヵ月1,278
村山慈明七段2003年10月1日19歳4ヵ月183
中村亮介六段2004年4月1日18歳6ヵ月365
広瀬章人竜王2005年4月1日18歳2ヵ月183
髙﨑一生六段2005年10月1日18歳7ヵ月182
糸谷哲郎八段2006年4月1日17歳5ヵ月365
豊島将之名人2007年4月1日16歳11ヵ月731
澤田真吾六段2009年4月1日17歳4ヵ月183
永瀬拓矢叡王2009年10月1日17歳0ヵ月365
佐々木勇気七段2010年10月1日16歳1ヵ月182
阿部光瑠六段2011年4月1日16歳5ヵ月1,279
増田康宏六段2014年10月1日16歳10ヵ月731
藤井聡太七段2016年10月1日14歳2ヵ月1,073
  • 前田祐司九段から森内俊之九段までは、三段リーグが行われていなかった時期なので、四段昇段が4月1日または10月1日にはなっていない。
  • 羽生善治九段と現在進行形の藤井聡太七段を除く中学生棋士(加藤一二三九段、谷川浩司九段、渡辺明三冠)は、最年少期間が1,200日を超えている。
  • 加藤一二三九段の2,800日は、「神武以来の天才」という言葉にふさわしい記録。
  • 羽生善治九段が511日と意外と短いのは、2週間若い森内俊之九段の登場があったから。
  • とはいえ、羽生・森内連合だったとしても1,018日(511日+507日)。
  • 羽生世代第一陣の後の、屋敷伸之九段の四段昇段が16歳8ヵ月と早かった。その後、羽生世代第二陣(丸山忠久九段 、郷田真隆九段 、藤井猛九段 )の四段昇段などが重なり、屋敷九段の最年少期間は1,095日の長期となった。
  • 屋敷九段に変わって最年少となったのは1991年の深浦康市九段。以降の1990年代は、それまで頭を抑えられていたのを解消するかのように半年~1年半で最年少棋士は移り変わる。
  • 2000年代は、渡辺明三冠と豊島将之名人だけが1年半以上。
  • 2010年代になって16歳棋士が続けて誕生する。佐々木勇気七段の最年少が続くかと思えたが、阿部光瑠六段が半年後に四段になり、半年の意外な短さ。
  • 16歳で四段となった阿部光瑠六段、増田康宏六段は、それぞれ3年半、2年と最年少期間が長い。
  • そして、藤井聡太七段は最年少を継続中。

* * * * *

羽生九段が四段になって以降、昇段年齢別の平均最年少期間は、(括弧内は人数)は、

  • 15歳 895日(2人)
  • 16歳 754日(6人)
  • 17歳 335日(6人)
  • 18歳 292日(5人)
  • 19歳 274日(4人)
  • 20歳 183日(1人)

* * * * *

この表に生年月日は出ていないが、

  • 1940年代生まれの初の棋士は加藤一二三九段
  • 1950年代生まれの初の棋士は田丸昇九段
  • 1960年代生まれの初の棋士は谷川浩司九段
  • 1970年代生まれの初の棋士は羽生善治九段
  • 1980年代生まれの初の棋士は山崎隆之八段
  • 1990年代生まれの初の棋士は豊島将之名人
  • 2000年代生まれの初の棋士は藤井聡太七段

* * * * *

桐山清澄九段、豊島将之名人、ともに最年少期間は731日。

師弟で同じ日数(同じ2年でも730日の場合もある)というのも、不思議な縁を感じる。

 

棋士の初段通過年齢から読み取る全体的傾向

近代将棋1984年12月号、「関東奨励会」より。

 先般、大変興味深いデータを目にした。

  • 名人 13.5歳(4人)
  • タイトル者 16歳(13人)名人を含む
  • A級 17歳(30人)名人を含む
  • C級 20.5歳(28人)現在30歳以上の人
  • 準棋士 22歳(24人)

 と、これは、奨励会での初段通過年齢を各クラス別に分け、その平均を出したものである。一目瞭然。出世率と初段通過年齢には見事な相関があることがわかる。

 平均値を示されて、それより上だから良し、劣っているからダメとノータイムで判断するのはどうかと思うが、奨励会の戦士にとって一応知っておいても良いデータだと思う。特にこれから入品を目指す者たちの指標になり励みになればと思いご紹介した次第である。

 ただ、このデータのサンプルは当然ながら現行規定時(今は20歳までに初段というのが第一関門)のものではないので、スピード化と情報化の進んだ今に生きる者としてはもう少しキビシメに思っていた方が間違いがないであろう。

(以下略)

* * * * *

ここでの名人、タイトル者、A級は、それぞれ経験者ということになるのだろう。

初段通過年齢は二段になった時の年齢。

同じような集計はできないが、現在版を調べてみた。

(二段になった時の年齢は「将棋順位戦データベース」より。棋士名の右の数字は二段になった時の年齢)

〔タイトル保持者・A級〕

広瀬章人竜王 13
佐藤天彦名人 14
豊島将之二冠 13
高見泰地叡王 14
斎藤慎太郎王座 14
渡辺明棋王 13
久保利明王将 15
羽生善治九段 13
稲葉陽八段 16
佐藤康光九段 16
深浦康市九段 16
三浦弘行九段 15
糸谷哲郎八段 15
阿久津主税八段 15

〔B級1組〕

行方尚史八段 17
屋敷伸之九段 15
橋本崇載八段 14
木村一基九段 15
山崎隆之八段 13
谷川浩司九段 13
郷田真隆九段 14
菅井竜也七段 15
松尾歩八段 17
野月浩貴八段 20
畠山鎮七段 18

〔B級2組〕

丸山忠久九段 16
北浜健介八段 16
横山泰明六段 18
村山慈明七段 16
中田宏樹八段 17
中村太地七段 14
澤田真吾六段 15
飯島栄治七段 17
藤井猛九段 18
窪田義行七段 18
井上慶太九段 17
中村修九段 16
畠山成幸八段 17
中川大輔八段 18
佐々木慎六段 18
鈴木大介九段 16
大石直嗣七段 15
田村康介七段 15
阿部隆八段 16
千田翔太六段 15
永瀬拓矢七段 14
戸辺誠七段 15
飯塚祐紀七段 20
先崎学九段 15

全棋士について調べようと思ったが、かなりの作業量となるので、とりあえずはB級2組以上まで。

あまり意味のない数字になるだろうが、現在のタイトル保持者・A級の平均は14.4歳、B級1組は15.5歳、B級2組は16.3歳となる。

C級1組以下で二段になった時の年齢が特に若いのは、

藤井聡太七段 12
佐々木勇気七段 12
阿部光瑠六段 13
増田康宏六段 13

* * * * *

近代将棋のこの記事が書かれた頃よりも、奨励会入会の若年化が進んだということもあるだろうが、明らかに二段になる年齢が全体的に下がってきていることがわかる。

「平均値を示されて、それより上だから良し、劣っているからダメとノータイムで判断するのはどうかと思うが」と書かれている通り、個々のケースでは一概には判断できないものの、全体の流れとしては緩やかに傾向がつかめる数字になるのだと思う。

 

「振飛車」の表記が「振り飛車」に変わった時期

昔は「振飛車」と表記されることが多かったのが、最近では「振り飛車」に統一されているように思える。

いつ頃から変わったのか、調べてみた。

* * * * *

これまでブログを書いてきて、感覚的にこの辺が微妙な時期かなと思った1983年から見てみることにした。

(引用青字が振飛車、赤字が振り飛車)

将棋世界1983年12月号、加藤一二三前名人(当時)の「加藤前名人の勝つ次の一手」より。

 先月の宿題はいかがでしたでしょうか。こうした対振飛車戦の心得は、敵のさばきを押さえながら、少しずつポイントを上げていくことです。

将棋世界1983年12月号、たつの香太さん記の「女流棋士対各界将棋天狗 お手並み拝見」より。

 振飛車に対する右四間飛車はプロ棋士では小堀清一八段が得意にしているが、これは本来、超急戦を目的とする戦法なのである。

将棋世界1983年12月号、「公式棋戦の動き」より。

 初戦で中原に矢倉で快勝した森が、2戦目でも大山の振飛車を居飛車穴グマで破って連勝している。

将棋世界1983年12月号、「新年号予告」より。

 ”振飛車には急戦”故山田道美九段の遺志を継ぐ青野八段が、山田流に改良を加えた振飛車攻略法を堂々公開。

将棋世界1983年12月号、大山康晴十五世名人の「激闘!大山将棋」より。

 3手目の▲9六歩は、ニガ手を意識して私の好きな振り飛車をすべりだしからくずす意味も感じとられた。それでも私はかまわず△4四歩と、好きな振り飛車をめざした。

将棋世界1983年12月号、読売新聞の山田史生記者の「第22期十段戦七番勝負第1局 絶好調桐山、初戦に快勝」より。

 桐山は奨励会時代から四、五段ぐらいまでは居飛車党だったが、それ以降、八段になるまでは専ら振り飛車を愛用、好成績をあげていた。

——–

1983年は、基本(および編集部)は振飛車で、振り飛車は少数派。

1984年を見てみると、青野照市八段(当時)の新連載「現代に生きる山田流」では振り飛車が使われている。しかし、5月号と9月号は振飛車と、やや混在。それ以外の記事は振飛車中心の1983年と傾向は変わらず。

1985年は、塚田泰明六段(当時)の「ガンバレ振飛車党」の連載が開始され、振り飛車への流れにはまだなっていないことが観測できる。

将棋世界1985年12月号の「公式棋戦の動き」にも、

 1回戦で神谷に勝った武者野はシードの真部と対戦。真部の中飛車に対し、対振飛車はほとんど居飛車穴熊の武者野だが本局は普通の囲い。

とあり、1985年も振飛車が主流。

1986年になって、小林健二七段(当時)の連載「振り飛車で楽勝」が始まった。

2月発売の日本将棋連盟発刊の「必勝!鷺宮定跡」のコピーも”振り飛車破りの決定版”となっている。日本将棋連盟発行の棋書では、これまでは全て振飛車の表記だった。

将棋世界1986年3月号、スポーツニッポンの松村久記者の「王将戦 中原VS中村のNN対決」でも、

 しかし、この振り飛車採用も、変身を図っている中村にしてみれば当然の作戦で、「相手の研究範囲には入らない」と考えた結果なのだ。

と振り飛車の風が吹くかに思えたが、将棋世界1986年5月号、谷川浩司棋王(当時)の自戦記「勢いで勝ち切る」では、

 桐山棋王の局後の感想では、流れを変えるために振飛車は予定だった、とのこと。

将棋世界1986年9月号、中平邦彦さんの「痛恨の一局」では、

 同じ振飛車党で粘っこい森安は大山とよく比較されるが、二人は違っている。

と書かれており、まだ振り飛車が主流になったとは言い難い。「公式棋戦の動き」も振飛車。

とはいえ、将棋世界同じ号、西川慶二五段(当時)の「将棋相談室」では、

 それから振り飛車と将棋のスケールの関係ですが、これは大変難しい問題で一概にいえないのではないかと思います。

将棋世界同じ号、新刊紹介『森安流 力戦四間飛車』では、

 本書は振り飛車党の代表者の一人である著者が、振り飛車退治に居飛車穴熊△6四銀戦法を用いてくる相手を如何に撃退したら良いか、戦い方、勝ち方のコツをわかりやすく解説している。

など、振り飛車の表記が増えてくる。

1987年~1988年は、新しく将棋世界で書き始めた複数のライターは振り飛車の表記。また、文責が編集部の座談会でも、以前は振飛車だったものが振り飛車の表記になっている。

——–

将棋世界1989年3月号、中平邦彦さんの観戦記「大山振飛車に10代パワーが挑戦・第3弾 村山、会心の指し回し」より。

 この局面、振り飛車党の小阪六段が見て顔をしかめた。「(振り飛車側が)とても勝てる気がしない」という。

中平邦彦さんが振飛車→振り飛車に表記を変えている。”大山振飛車に10代パワーが挑戦”は、記事タイトルのデザイン上、ギリギリの文字数なので振り飛車ではなく振飛車になっている。

「公式棋戦の動き」も、

 振り飛車を得意とする林葉だが、うまく行かないと見るや、サッと転身をはかれるところが勝負強さの一要素といえよう。

と振り飛車が定着。

一方、将棋世界1989年6月号、谷川浩司名人(当時)の「名人の読みと大局観」では、

 もっとも、振飛車にする意図ではなく、△8四歩▲6八銀△6二銀▲7八金で、やはり相矢倉のつもりであろう。

と、振飛車の表記。

この頃は振り飛車冬の時代で、また振り飛車が指されても、中飛車、四間飛車などの戦法名で書かれることが多く、振飛車あるいは振り飛車という用語が誌上に出てくることは意外なほど少なかったものの、1989年になって、明らかに振り飛車の表記のほうが多くなった印象だ。

——–

1990年12月号、羽生善治竜王(当時)の連載自戦記「一手の罪」より。

 最近、少しずつですが、振り飛車が増えてきたように思います。

 居飛車穴熊の出現で振り飛車党は激減してしまいました。

 それが見直されつつあるのは色々な原因があると思いますが、何と言っても相居飛車の序盤戦術の進歩でしょう。

総合的に見てみると、1986年から(振飛車→振り飛車)に流れが変わりはじめて、1987年~1988年に地固めをして、1989年には振り飛車の表記が主流になったと見て良いだろう。

ちょうど平成になった頃。羽生世代の棋士の活躍が顕著になってきた頃だ。

——–

谷川浩司九段は、1992年の自戦記は振飛車、1996年の自戦記では振り飛車になっている。

加藤一二三九段も1996年の自戦記では振り飛車の表記になっている。

* * * * *

ところで、早い段階から「振り飛車」の表記を使っていたのが大山康晴十五世名人。

大山康晴十五世名人が、いつから「振り飛車」としていたのか、手元にある最も古い将棋世界を調べてみた。

将棋世界1971年1月号、大山康晴十段(当時)の「三転、四転、トン死負け」より。

 2連敗した。しかも錯覚したり、攻めの常識を見損じるやらで、さんざんのていたらくである。振り飛車を指しながら、2番もつづけて100手以内で負けたことは、経験がない。

ほかのページは振飛車の表記全盛の頃。

大山十五世名人のこの頃の著書を確認してみると、『快勝大山流振り飛車』(池田書店)、『よくわかる振り飛車』(東京書店)。

弘文社は『大野の振飛車』『升田の振飛車』、大泉書店は加藤一二三八段(当時)『振飛車破り』『力戦振飛車』など、ほかの棋書は振飛車の表記だった時代だ。

大山十五世名人が昔から続けてきた「振り飛車」という表記法が平成になって将棋界に浸透した形となる。

ところで、大山十五世名人は忙しかったので、いつ頃からかはわからないが、奥様にだいたいのことを話して、奥様が原稿をまとめていたという。

棋士が文章を書く時(後編)

もしかすると、振り飛車の表記は、元々は大山十五世名人の奥様流の表記だった可能性もある。

——–

中原誠十六世名人と米長邦雄永世棋聖と原田泰夫九段も1971年頃の将棋世界で振り飛車の表記を使っている。

同じ頃、升田幸三実力制第四代名人をはじめとする多くの棋士やライターは振飛車の表記。

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近代将棋を見てみると、なんと、手元にある最も古い1973年1月号ですでに全ての表記が振り飛車になっていた。(金子金五郎九段「金子教室」のフリ飛車を除く)

近代将棋1974年7月号、加藤一二三九段の「九段までをふりかえって」では、

 私はそこで、△7七歩と打った。振り飛車陣を攻める常用手段である。

と、かなり後期まで振飛車と表記していた加藤一二三九段までが振り飛車の表記となっている。

加藤一二三九段は原稿をライターに頼んではいないと思われるので、近代将棋編集部で振り飛車の表記に統一していた可能性が高い。

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〔まとめ〕

近代将棋では以前から振り飛車の表記だったが、将棋界全体の流れとしては、1989年、平成に入ってから振り飛車の表記が振飛車の表記よりも多くなった、1990年代半ばには、ほとんどが振り飛車の表記になっている、というのが結論になるだろう。

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「向飛車」がいつ頃から「向かい飛車」の表記になったか、

「腰掛銀」がいつ頃から「腰掛け銀」の表記になったか、

「タテ歩取り」がいつ頃から「ひねり飛車」と呼ばれることの方が多くなったか、

など、全く役に立たないけれども調べ甲斐のあるテーマがいくつかある。

しかし、元号のようにある日を境に一変するようなものでもないので、調べるのに結構手間がかかることも分かった。

今回の(振飛車→振り飛車)で十分過ぎるほど手間を体感することができたので、「向かい飛車」「腰掛け銀」「ひねり飛車」は宝くじでも当たらない限り、手を付けないのではないかと思う。

酉年生まれ棋士の大活躍

昨日、斎藤慎太郎新王座が誕生した。

斎藤新王座が誕生 3勝2敗で初タイトル、将棋王座戦(日本経済新聞)

今年に入ってから酉年生まれの棋士の活躍はめざましく、

3月、山崎隆之八段がNHK杯戦で優勝

5月、高見泰地叡王誕生

6月、渡部愛女流王位誕生

そして10月の斎藤慎太郎王座。

今年のタイトル奪取は、豊島将之二冠以外はすべて酉年生まれの棋士。

女流王座戦で挑戦中の清水市代女流六段、倉敷藤花戦で挑戦する谷口由紀女流二段も酉年生まれ。

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今年、これらの動きとは別に(動きが起きる前に)、将棋界に「酉年の会」が発足した。

毎日新聞では、佐藤康光九段を会長として酉年の会が発足したと報道している。(幹事長的な役割は田中寅彦九段)

将棋 B級1組 山崎八段 今期5勝1敗、好調持続 酉年の棋士多数「会」発足(毎日新聞:有料記事なので途中までの表示になります)

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もちろん「酉年の会」発足と酉年生まれ棋士の活躍はお互いに因果関係はないが、同じタイミングというのが面白い。

「酉年の会」発足のきっかけ→佐藤康光九段「酉年の会も面白そうだなあ」

 

加藤結李愛女流2級誕生

昨日のマイナビ女子オープン予選で加藤結李愛女流3級が2連勝、本戦トーナメントへの進出を決めて、女流2級に昇級した。

予選決勝 終局(4)(マイナビ女子オープン中継ブログ)

加藤結李愛女流2級は仙台市在住で、今春高校1年生になったばかり。

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加藤結李愛女流2級が将棋を始めたのは小学2年生の時で、将棋日本シリーズ テーブルマークこども大会の参加賞の駒の形をした消しゴムが欲しくて(もともと文房具が大好きだった)、お兄さんから将棋のルールを教わったことがきっかけ。

小学3年生の時から、元・朝日アマ名人(3期)で元奨励会員の加部康晴さんの「杜の都加部道場」へ通い続けるようになり、実力を蓄えてきた。

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加藤結李愛女流2級が女流棋士になろうと思ったのは、東日本大震災後、精力的に被災地へ足を運んでいた東北普及部長の鈴木環那女流二段の指導対局の姿を見てからという。

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その後、様々な大会で活躍をしながら、女流棋士になるために研修会に入会。

月2回の例会の日に仙台から東京へ通う生活がはじまった。

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勝てばC2からC1(女流3級の資格を得ることができる)に上がれるという一戦で敗れること6回。心が折れそうになったこともあったというが、加部さんの集中特訓がきっかけとなって6連勝でC1昇級、今年の4月に女流3級の資格を得た。

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加部さんは奨励会員時代、独身だった石田和雄九段のアパートによく遊びに行っていて親しかった。そのような関係もあって、加藤結李愛女流2級は石田和雄九段門下となった。

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杜の都加部道場には小学生が多く来ているが(毎土曜日、30人位)、県代表クラスの有段者、中学生の研修会委員(C1)も通ってきており、4月以降も加藤結李愛女流2級は月に2度位のペースで杜の都加部道場で腕を磨いている。

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昨日は加部さんも加藤結李愛女流3級の勝敗が気になっていて、予選決勝が始まって30分経った頃から、中継はなかったものの、スマホを何度も見ていた。

中継ブログで結果を知ってからは、まさに、じわじわと喜びが湧いてきたといった表情になっていた。

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以下、昨日の加部さんのtwitterなど。

(杜の都加部道場掲示板)

加藤結李愛 女流2級昇級 – 加部 康晴

2018/07/07 (Sat) 21:20:04

本日の第12期マイナビ女子オープン予選にて、
加藤結李愛が2連勝で本戦入り、同時にホンモノの女流棋士となる女流2級昇級を決めた。

小学3年生からの女の子の教え子だけに、男の子とは違った感無量の気持ちが湧き出てくるようであった。

これで重圧がとれたことから、今後の対局は伸び伸び指せることだろう。それが何よりもよかったと思っている。

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石田和雄九段門下の棋士のtweet。

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宮城県松島町の瑞巌寺で行われた叡王戦第3局、兄弟子の高見泰地六段(当時)の応援に行きたがっていた加藤結李愛女流3級(当時)だが、リコー杯女流王座戦一次予選(デビュー戦)と同じ日だったため、駆けつけることができなかった。

高見叡王へのお祝いの手紙には、その時の思いも込められていたに違いない。

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めざせ!プロ女流棋士! 加藤結李愛さん(東北高校ホームページ)

仙台の高校生が将棋の女流棋士に(朝日新聞)