剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1)

現役時代は「若手潰し」と異名を持ち、橋本崇載七段、松本佳介六段、佐藤慎一四段、加藤一二三九段の師匠である剱持松二八段。

嬉しくなるくらい個性的な棋士だ。

湯川博士さんの振り飛車党列伝、「勝つと決めたら勝つのが男 剛剣軟剣両党遣いの、剱持松二八段」より。

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古豪といわれる振り飛車党には、個性の強い将棋指しが多い。その昔、居飛車正統、振り飛車邪道とまで言う人がいた時代に、そんな俗言馬耳東風と、振り飛車を愛用してきた人種でもある。

振り飛車党の性格判断をするならば、人がなんと言おうと平気な神経、相手の先攻にジッと耐えるしたたかさ、一瞬のチャンスを見逃さない鋭利な感覚、そういうものを兼ね備えている人…か。

東京都久留米市は、西武池袋線で池袋から20分ほど行った町で、まだ武蔵野が色濃く残っている静かな土地柄だ。剱持さんは2年前に小平市から移ってきた。よく手入れされた庭と家屋が、緑濃い周りの景色によく馴染んでいる。

玄関を入ってすぐの座敷が仕事部屋で、パソコンと将棋盤が2面置いてある。

しばし棋界の雑談をした。昔は、浅黒い精悍な顔付きに眼光も鋭く、という印象だったが、歳月は人を柔和にするのだろう。すっかり優しい風貌に様変わりした。だが、いったん将棋の話になると、昔耳にした剱持節が甦った。

「私はね、どういうわけか金もうけがうまいんだな。それで安い対局料の将棋なんか…という気持ちもあったんだろうね。将棋の勉強はあまり熱心じゃなかった。なにしろほかのことで忙しくて、将棋の勉強もしないし人の将棋も見たことない」

将棋は天職ですという棋士が聞いたら、腰を抜かすようなことをこともなげにおっしゃる。

でもふだんからこういうことを言う先生が、実は恐いのだ。

「私はずいぶん若手の強いところを泣かしているんだ。田中寅ちゃん(寅彦九段)なんか、勝率1位のころ3連勝したら、

『なんて強いんだ、こんな人いるのか』と言ってたもの。

勝率7割も勝っている人が、私にかかるとボロボロでね。私はね、タイトル者を負かすのが得意なんだ。高橋君なんか、C級1組で苦しんでいたのは私が負かしたからなんだ。あんまり負かすんで泣いてたよ」

調べてみると、高橋は痛いところで剱持八段にやられている。王位を獲って充実していた時期にも順位戦で一発やられている。

(中略)

「高道ちゃん、あまり泣き顔になるんで可哀想になって、順位戦の3年目につい仏心が起きて緩めたら、勝ち将棋を負けてね。それからはムキになって私を負かしにきてね。勝てなくなっちゃった。将棋は緩めるもんじゃないね。あいつは私が緩めたのを知らないんだよ。武士の情けというものを知らないんだね。でもね、強い奴には勝つんだけど、弱いのにコロッとやられちゃうこともあるね。どうやっても勝ちというのを、ポカでやられちゃう」

素人考えでは、強いのに勝つのなら、弱いのはもっと楽だという気がするが。

「昔は若くて元気があるのにぶつかるのが好きでね。若手を負かすのが楽しみだった。でも弱いのは好きじゃないんだ。最初からバカにしちゃって油断してね。強いのにはけっこう勝っているんだ」

(中略)

「振り飛車党は元来居飛車が得意なんですよ。理屈を言えば居飛車のほうが少し率がいい。私も若いときは矢倉が多かった。でも年をとってくると序盤考えなくていいし、玉が1筋奥だから終盤1手得する。私は相手が振ってくれれば居飛車にします。相振り飛車なんておもしろくないもの」

振り飛車党というのは、居飛車の年をとったものらしい。

なるほど大山、中原、谷川など歴代名人は、中年から振り飛車を指している。

「振り飛車は序盤楽な分、居飛車に攻められる。それをジッと我慢しているうちに、向こうがミスを出す。そこをたたくのがコツだ。将棋は妙手を出して勝てるもんじゃない。ミスが出たとき、それを感じとる感覚が大切。もって生まれた才能と、のちの努力で感覚ができる」

今までの、勉強はしない、努力は嫌いという口調とは少し違い、将棋の神髄に迫る口調だった。

「今、空中戦みたいなの流行っているでしょ。あれは弱い連中がやることなんだ。あらかじめ研究して、相手がそこへはまったら勝とうなんて考えでしょう。力があれば、堂々と四つに組んで、自分の力で将棋を指せばいいんで。私は人真似が嫌いでね。だから人の将棋を見ないんだ。今何が流行っているか見たってしょうがないからね」

実は剱持先生、若いときは15時間から20時間、勉強したそうだ。そのときに将棋の基礎は出来ているから、あとはそのときの対応で大丈夫というのが、本当のところらしい。

(中略)

ところで、居飛車穴熊もお好き。

「私ね、穴熊三羽烏と言われたんだ。大内(延介九段)に、西村(一義九段)君ね。穴熊はとりあえず堅くしといて、あとで指しながら考えればいいからね」

(中略)

話は、テレビ新番組創設、新会館建設、など、連盟の財政面での裏舞台へ移る。

テレビ東京で将棋番組をつくることになり、船舶振興会が半分出すが、あと半分必要になった。ついては日本の基幹産業でしっかりした会社が望ましい。丸田会長をはじめ皆動いたがうまくいかなかった。剱持八段の稽古先に、条件にピッタリの大物会社があった。そこで連盟幹部が来て、「剱ちゃん、頼むよ。口説いてくれないか」と頭を下げたという。

それじゃあというので、剱持さんが大企業のお偉いさんのところを訪ねた。ちなみにこの方とはプロレス仲間。かの重役の会社はプロレス番組のスポンサーでもあるので、リングサイド席を持ち、剱持さんも御供していた。その縁で、連盟から力道山に将棋三段を贈呈したこともあるという。

「ところが重役の話だと、12チャンネル創設のときに出資したのに経営が悪くなり、元金を没収されたとかで、いまさらそんな会社のスポンサーにはなれぬ、という。それもそうだがなんとか将棋界発展のために…と粘ったよ。番組開始期限ギリギリ1週間前に話を聞いてから、その翌日に会社へ行き、その日に決まって、なんとか番組がスタートしたんだ」

もうひとつはその数年後、新会館建設のための寄付集めのときだ。今度は大山会長自ら来て、

「剱ちゃん、千日手になっちゃった。なんとかしてくれないか」

と頼む。聞いてみると、寄付集めのプロのような経団連の大幹部が困っているという。

新会館建設のような大きなものは、日本の基幹大手企業が名前を連ねていないと、ほかは出せないのだそうだ。ところが、お宅が出せばウチも出すというばかりでグルグル回りで打開出来ない。

どこか大物1社出せばよじれたヒモがほどけるそうだ。そこで新番組創設で活躍した剱持さんに会長自ら頼みにきたという。

「それもやったよ。大山さんには喜ばれ、いろいろ先のこと約束してくれたけど、果たしてくれないうちに亡くなっちゃった。今じゃこういう話を知っている人もいなくなっちゃったねえ」

(中略)

剱持さんは若いときに、将棋(対局)じゃ食えない、と思ったせいか人間関係をいちばんに大事にした。そのためだろう、大きな企業の役員や社長クラスにひいきにされてきたそうだ。

(中略)

また、稽古先からの勧めで株を買い、次第におもしろさに取りつかれた。大儲けもあったが対局どころじゃないような危機も味わった。

「株は何億という単位になったこともあったし、新宿に弟子の住まい用に買ったマンションなんかバブルの終わりころには、数千万のものが数億にもなったんだ。こういうものは、買う、売るのタイミングと場を作る力が必要なんだよ。どういうわけか私は勝負事に強いみたい」

つづく