将棋界の大旦那「七條兼三」(1)

湯川博士さんは近代将棋で「アマ強豪伝」シリーズを連載していたが、その中から珠玉の一作を。

「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話。

七條兼三氏は、現在の将棋会館建設の際には、真っ先に寄付を申し出て、建設中の仮住まい(高輪)の保証人にもなった。

詰将棋作家としても有名だ。

強烈な個性と義侠心とダンディズム。

もう二度とは現れない、古き良き時代の旦那道。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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指し将棋の強豪が続いたが、七條さんは旦那の強豪である。

将棋ファンには指し将棋派、詰将棋派、歴史派、駒収集派などがあるが、七條さんは旦那部門の強豪だ。立派な旦那ぶりであるが、今まで取り上げた真剣師派ともどこか共通点がある。

小池重明なども一時期お世話になっているし、アマ連(日本アマチュア将棋連盟)を創るときには随分肩入れし、自分のビルで設立総会まで開かせている。将棋という盤上遊戯に魂を奪われ、プロでもないのに男の一生を賭けるという愚直さを、おもしろがり愛するようなところがあったからだ。

平成元年の暮れ、自宅でひっそり心臓マヒで亡くなったが、その三日前に詩吟の会で彼が吟じたのは、[秋日偶成]という詩だ。

「…富貴にして淫せず 貧賎にして楽しむ 男児此に至らば 是れ豪雄…」

七條さんの吟はずいぶん聞いたが、このときはなんとも哀愁のある吟であった。吟を聞いてああ七條さんと俺みたいだなと思った。むろん富貴にして淫せずが七條さんで、貧賎にして楽しむが私である。

出会いは取材だった。文筆で独立したばかりのころ、創刊まもない週刊将棋の新しい連載を依頼され、人物シリーズをやるなら伝説的存在の七條兼三をやろうと決めていた。幸い、大山十五世名人の船旅で面識を得ていたので、電話で取材申し込みをしてみた。こちらの要件を聞きおわるや、

「あ、そ」

素っ気なく電話が切れた。この後、どうつなけていいかが浮かばず、思わず受話器を見つめてしまった。翌日勇気を出してまた電話し、やっと会えることになった。取材の主旨など汗をかきかき説明していると、ひょろりと立ち上がり、グラスと果実酒のビンを持ってきて、なみなみと注いでくれる。

「ま、呑みなさい」

嫌いなほうではないので、二、三杯呑んでいるといい気持ちに。と…唐突に、

「じゃあ、行きましょうか」。

まるで前から決まっているかのような、「じゃあ」である。

志ん生(古今亭)が突然、

「で、このう…酒というものは」

さっきから酒の話題を出したくて堪らず、唐突に言う呼吸に似ていると思った。

午後一時ころ伺ったので、外はまだ昼間。

会社のビルからベンツに乗り、すぐ先の神田の「藪そば」へ行く。

「酒を持ってきて下さい」

女中さんに言いつけると、鴨肉の焼いたのとお銚子が二本。さらに数本追加して、かなり出来上がってくる。外はいい具合に暗くなり、ぼんやり街灯が燈っている。

「明神下へ、な」

運転手はいつものコースを慎重に進み、お馴染みの料亭へつく。ここで碁を打ち、芸者が来て、わいわいやって、きれいにお開き。社長車で上野公園内の邸宅へ着いたあと、

「この人、送ってあげてください」。

郊外の私の家まで送っていただいた。

すっかりいい気持ちにさせられたのはいいが、翌朝、なにも取材していないことに愕然とした。マスコミの世界に入って、こんなことは初めてだ。さりげなく人をいい気持ちにさせるのが、なんとうまい人か、驚いた。

一筋縄の旦那ではない。どおりで今まで、あまり七條さんのことを書いた記事を目にしなかったわけだ。取材がたいへんなのだ。

秋葉原ラジオ会館が彼の持ちビルであるがそれへ何回も通い、酒浸しになりながらやっと話を聞かせてもらい、原稿をモノにした。

若いライターが生意気な視点で描いているにもかかわらず、ひとことも言わなかった。

人の芸には文句を付ける人ではないのだ。

(つづく)

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今はなくなったが、七條兼三邸は上野公園の中にあったというからすごい。

秋葉原ラジオ会館は、JR東日本秋葉原駅電気街口駅前のショッピングセンタービルで、家電、パソコン、コンピュータゲーム、おもちゃ、書籍、DVDソフトなどの店舗が入っている。