将棋界の大旦那「七條兼三」(最終回)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の最終回。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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先日、詰棋人の集まりに出て、おもしろいエピソードを聞いた。私が本欄に七條の話を書いているのを見たある人が、言って来た。

「あなたは七條のいいところばかり書いているが、私はこんな目に遇っているんだ…」

詰将棋のことで話がこじれたかして、七條がこんなことを言ったそうだ。

「君ね、そんな分からずなことを言っていると、香港から殺し屋を呼んで、始末してもらいますよ」

これを聞いたその人は、新宿の警察に駆け込み、脅迫されたから調べてくれと頼んだところ、本当に警察の人が七條の会社へ事情を聴きに行った。七條はビル業界の関係で消防や防犯面から何度も表彰され、消防警察と関係が深いから警察が来たことには驚かないが冗談が通じない人間がいることには驚いた。

「七條さんも節操がない。人を脅かしておいて、慌てて菓子折りを持って謝りに来たよ」とその人は言った。どちらかというと、将棋連盟に近い人からこういう話を聞く。

棋士でも「七條作品の半分くらいは周りのブレーンが創っているんでしょ」と言う人もいるし、「どんな偉い人か知らんけど、なんであんなに威張っているんだ」とも聞く。

棋士はいまどきの世では珍しく純な人種が多い集団で、その点を敬慕し尊重するファンや旦那が大多数である。七條は実業家ではあるが、自分では商いをしなくていいせいか、純なままの人間だ。棋士より純な面を多分に持っている点、一般社長族とは人種が違う。

囲碁将棋の棋士は子供のときから旦那側として見ている。辛い評価で棋士や連盟を見るし接しもする。当然、連盟側の人間から見ればおもしろくない。悪く言う人が多くなる。

七條からすれば、あんな応援しているのにしようがない野郎どもだという認識になる。

悪童ごっこ

ところで殺し屋の一件…。

これは彼がお気にいりのセリフ。七條小噺で似たようなやつもある。

「香港の殺し屋はね、脅しのときは耳を落とすそうですね。○○なんか耳を取られたら困るだろうね。メガネが落ちてきて…」

こういう話を、広島のテキヤの親分が遊びに来ているときもやる。そうすると親分は、

「恐れ入りました。社長には二度とお手向かい、いたしましぇ~ん」

と言って土下座したりする。

まあ悪童の他愛ないおふざけなんだが…。

私のように好意を持って付き合う人間は、七條を好きになるが、初めから嫌う人もまたかなり多い。照れ屋で露悪的な面があるし、誤解を恐れないというより、面白がる面もあるから、よけい加速度がつくのだろう。かく言う私なども、自分が嫌われたり誤解されるのはそれほど嫌ではない。場合によっては、得意になって噺のタネにしていることもあるから、七條のようなダンディズムに生きる人間には、その気配がより濃厚だったろう。

殺し屋の次はブレーンの代作話にいってみる。七條のブレーンとは、毎年正月に七條邸に集まる面々と見られている。中でも作品制作に関わっていたのが、黒川一郎、門脇芳雄、駒場和男の三人だ。黒川、門脇が検討陣で、駒場は七條のアドバイザー的な立場。

戦後詰棋界の流れとして、構想派山田修司が「新手一生」を旗印に現われ、山田が冬眠に入ってからは、北原義治、巨椋鴻之助が引っ張り、その後、駒場和男、七條兼三、上田吉一、添川公司らがリードした。

駒場和男は難解長編モノを得意とし、煙詰[父帰る][三十六人斬り]など、空前絶後の名作を残す。煙詰が難しいところへ、都詰(5五で詰む)と玉の完全無防備を実現した鬼才だ。

七條が解答王(詰パラで三年連続完全解答を達成)から創作へ転じたころ、七條を長編作家へ導いたのが駒場だ。

(中略)

駒場自身は、寡作であるが、その分すごい作品を創る。将棋の力が強いので、誰も解けないような難解な作品を仕上げる。彼から見ると、やさしい短編をたくさん創り、それで入賞何十回と自慢されると、

「作家というのは数じゃない。後世にどれだけいい作品を残したかではないでしょうか」

などと発言したくなる詰将棋界の硬派だ。作品づくりに関しては、一途である。寝食忘れて打ち込む。これも七條小噺のひとつに…。

「駒場君のカミさんは美人でねぇ。ミス東京なんとかと言ったな。それがね、駒場君が看寿を超すような煙詰を、ろくに仕事もしないで何年もかかって完成したとき、カミさんも煙のように消えちまったんだ。煙詰のカミさんですよ。あれは…」

実情はさだかでないが、一時期の駒場は、家庭などかえりみず、まるで鬼人のごとき形相で創っていたことはたしかだ。

こと詰将棋に関しては絶対譲らないところがあり、はからずも敵もつくった。

「社長はああ見えても繊細なところがあってね、そういうぼくのことを心配してくれたんですよ。代作説ですか。うーん。詰将棋が分からない人の嫉妬でしょうね」

(中略)

「夜私が会社から帰る時間を見計らって社長から電話が来るんです。百手を越す長編の作品について、電話で変化や紛れまでしゃべるんですよ。こんな芸当ができる詰棋作家はそうはいない。若島君とか、ああいうレベルに達していましたよ」

(中略)

「七條社長が誤解を受けるようなことをしたことも確かです。たとえば、小池重明とか都名人が表敬訪問してくると、どういうわけかべろべろに酔って街の将棋道場へ乗り込む。ひどい将棋を指して負ける。あんなにひどい将棋を指すんだから、難しい詰将棋なんか創れないだろうと思われても仕方ない。

それから、詰パラの鶴田主幹が名古屋のういろうを土産に持ってきたとき社長はそれをごみ箱へ捨てた。それを見ていた人が、ひどいことをすると人にしゃべる。実は鶴田主幹は、社長から金貨銀貨をたくさんもらっていながら、もうなくなったからまたくれと言いにきた。聞くと、それをそのまま読者へ賞品として出したというじゃない。社長が苦労してコレクションしている高価なモノで、換金して詰パラ経営の足しにしろと渡したわけで、このバカ野郎という場面ですよ。それを一端だけ見た人がいろいろ言うわけですね」

今の世では、いかに誤解されないかに気を配って生きるのが普通になっているから、こういう生き方は理解されにくい。

ダンディーとは、教条と押し付けを拒み、多数に対して単独を、過剰に対して希少を、利益に対して無償を、富の蓄財に対して豪華さを、心情吐露に対して控えめを、家計よりは羽目をはずすことを対置した…。

晩年七條がどれだけ詰将棋に熱中したか。

「ご存知のように月曜は囲碁将棋のサロンを開き、木曜は詩吟の会、土曜が詰将棋の研究会だった。ところが、実は金曜がぼくとのマンツーマンの特訓日だった。この日は午後一時から四時まで、電話が来ても来客があっても取りつがない。あの酒好きの社長がビールも口にせず真剣に取り組んでいた。ぼくから長編のコツを吸い取るような気迫があった。晩年は囲碁も引退して詰将棋一本だった。残り時間を感じたんでしょうかね…」

鬼才駒場も、昔は拒否していた作品集を来春に出すという。円満な年齢になったのだ。

「いい社長だったよなあ…」

遠くを見るような眼が、よき時代を回想しているようでもあった。

(了)

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確実に言えることは、七條兼三氏のようなタイプの旦那はもう二度と現われないということだ。

また、このような個性的な旦那に惚れられた大山康晴十五世名人もすごいと思う。

大正生まれの人には、昭和生まれの人が持っていないような魅力がある。