小池重明氏「すべてを告白します」(後編2)

将棋ジャーナル1985年12月号、小池重明氏の「すべてを告白します(最終回)」より。

こども将棋教室

 私の筆もだんだん重くなってきた。しかし、ここを避けて通ることは出来ない。歯を食いしばって、事件の概略を告白しようと思う。

 私にはアマ名人になる以前から、一つの夢があった。それは”こども将棋教室”を開きたい、ということだった。こども達に将棋の理論とマナーを教える、そして実戦で鍛える、これは将棋の普及にもなり、将棋界のレベルアップにもつながる。もし、これがある程度事業化して定期的にやれたら、とても素晴しいことだと考えていた。

 しかし、いろいろ研究してみると、特定の会場で定期的に教室を開くことは、採算的にとても難しいし、多数のこどもを対象にすることも困難である。

 そこで巡回移動教室のようなことも考えたが、結局将棋大会を中心に運営するのが、最も現実性のある妥当な形式のように思えてきた。

 会場は各区市町村の公民館を借り、会費は無料で、賞品は各地元商店街などから応援してもらう。東京二十三区の場合、一つの区で三ヵ月に一度位の割合で開く構想だった。月間にすると、八回大会が開催できることになる。こうして、こどもたち、その父兄たちの間に将棋を指す楽しみと目標を与えながら、大会運営が一応軌道に乗った時点で、改めて将棋を本格的に教える”こども教室”の開設を計画しようと考えた。

 そして、いささかでも将棋の普及に貢献しながら、将棋以外に生きる道のない私自身を役に立てたい、と願ったのである。プロ入りして専門棋士になるのが、本来の私の夢であるが、現在の将棋連盟の制度ではそれは到底実現しそうにない。それならば、せめてものこと何らかの形で将棋の仕事に携わりながら、将棋の勉強をつづけて行きたいと、私は強く思った。

 この夢は、日を逐う毎に私の中でふくらんでいき、都下町田市選出の都会議員、渋谷守生先生に大体の趣旨をお話ししたところ、本当にやる気があるのなら応援しようとのお言葉を頂いた。その後”こども将棋教室”の母体となるものとして「東京将棋連盟」(仮称)を作ろうという話にまで進展した。知り合いの愛棋家数人の方にこの計画を説明したところ、皆さんが二つ返事で賛成して下さり、何れも資金面その他の協力を快諾して下さった。この好反響に私はすっかり気を良くして、これなら十分やって行けそうだとの自信を固めたのだが……それなのに、なぜこんな結果を迎えてしまったのだろうか。この文を書きながら、私は自分自身の不甲斐なさに、今さらながら呆れ、腹を立てている次第である。

 責任はすべて私にあり、その原因もまた私自身の中にあった

 決定的にまずかったのは、私の事務遂行能力の不足(計画実行までには、細かい無数の事務的手続を積み上げていかなければならない)と金銭管理面のルーズさだった。

 具体的な活動に入る前に、わずかな障害につまずいて、これの解決能力がないために、現実的なことは一向に前へ進まない。しかも、このことを早い時期に鋭く自覚していたら、資金集めのテンポを早めて適当なスタッフを編成するなどして、私個人の欠陥を補なうことが出来たのであるが……。

 金銭面でも、つまずく要素が一杯あった。何となく無計画に、たまたま有力者にお会いすると、資金の拠出もしくは借用をお願いするといった調子で、ある相当額のプールがなかなか出来なかった。そして一方では、私個人の経済が完全に行き詰まっていたから、つい安易な気持で集まった金を一時流用する、流用したらそのまま元へ戻せなくなる、といった悪循環が重なって行くのだった。

 こうして折角集まった金は、私の生活費や交際費、酒代、借金の利息等に次つぎに消えて行った。いけない、いけないと思いながらも、ずるずると惰性がつづき、資金は一向に確保できず、金が無くなると集め、集めては使ってしまうという蟻地獄のような状態が続いた。しまいにはサラ金にまで手を出すようになっていた。

 こうなると焦りは焦りを呼び、少しでも何とかしようと競馬やギャンブルに手を出すようになり、完全に深みにはまり込んでしまったのである。気がついた時には、前後三年ほどの間に数十件約一千万円という莫大な借金だけが残っていた。

 純粋な動機から出発したはずの計画だったが、私の至らなさ、だらしなさで、結局は泥まみれの姿となってしまい、多くの知人、友人各位の好意を無にしてしまった。まことに慚愧のきわみである。

 そして自業自得とはいえ、このことが私のプロ入り問題にまで悪影響をおよぼし、私の最後の望みは完全に絶たれてしまった。一時はあれほど持てはやしてくれたマスコミも、掌を返したように、仮借ない糾弾をしてきた。身から出た錆とはいえ、これは応えた。私にはもはや、耐える力が残っていなかった。五十八年秋、私は何にもかも振り捨て、悄然と当てもない旅に出た。

プロ入り問題の真相

「敗軍の将、兵を語らず」という諺があるが、あれだけ世間を騒がせ、多くの方に迷惑をかけてしまった以上、私のプロ入り問題についても、この機会にぜひ語っておきたいと思う。というのも、この一種の騒動に関して、沢山の発言があり「将棋世界」はじめ各紙誌でも取り上げられているので、当時一言もモノを言う勇気がなかった当事者として、その立場からの釈明なり事実の報告があったとしても、若干は許されるのではなかろうかと思う次第である。筆は足りないかも知れないが、この問題について私が感じたまま、考えたままを正直に話すことにしよう。

 五十七年暮れ頃、私は借金がかなり増えていたので、何とか手当てしなければと、真剣の旅に出た。

 名古屋を振り出しに、大阪、広島、小倉、宮崎、仙台、秋田という順で回り、それぞれの土地の強豪に真剣勝負をお願いした。幸い、それ相当の収穫があり、当座少しばかり息をつくことが出来た。

 さて、大阪から広島へ新幹線で向かう途中、食堂車へ行くと、日本将棋連盟の大山会長が、連れの方となにか話しながら食事していた。

 近づいていくと、視線がばったりと会い、思わず身体が固くなった。大山十五世名人には朝日角落戦でお相手して頂いたことがあり、一応面識があった。

私「どうも、お久しぶりです……」

大山「いや、しばらく。どちらまで行くの」

私「広島から、ずっとあちこち回ろうと……」

 そんなやりとりがあって、私が少し離れた所で食事をしていると、大山会長の「九号車にいるから、後でまた」という言葉があった。「何だろう」と私が考えている間に、会長と連れの人は何時の間にか居なくなった。私は急にのんびりした気分になって、食事をすませて窓の外の景色を眺めていた。

 そこへ大山名人が一人でやってきた。

 お茶を飲みながら話しているうちに「小池さん、プロでやってみる気はないの?」と大山会長。びっくりしたが嬉しい気持で

「三段からでも、入れるものなら入って、頑張ってみたい気持はあります」と私。

「三段は年齢制限があるから、まずいな……」と会長。

 後日東京に帰ってから、あの時の大山会長の謎のような言葉をいろいろ考えてみたが、いま一つ真意がはっきりしない。たんなる気まぐれで出た言葉のようにも思えない。そこで古い友人の近代将棋社の森編集長に会い、永井英明社長から大山会長に聞いてもらえないかとお願いした。

 永井社長を通じての、大山会長の返事はこんな具合であった。

「しかるべき保証人(師匠)を立てて、連盟に文書で申し込むように」

 早速長い間お付き合いをして頂いている松田茂役九段にお願いすると、快く引き受けて下さった。そして松田先生は、忙しい中を時間をさいて大山会長と会い、どんな文面にしたらよいか打ち合わせをして下さった。

 大山会長の話では、現行の奨励会制度(年齢制限)があるので、三段ではまずい、むろん二段や初段でもまずい。入るなら四段で申し込みなさい、ということだった。連盟の記者会(新聞、テレビ、雑誌等)にも協力をお願いしたところ、全員がプロ入り賛成との言を得た。さらに推薦人として七條兼三氏(秋葉原ラジオ会館社長)、高木達夫氏(広島平和公園支部長)のご諒解も得た。

 ところが連盟に書類を提出すると、棋士会にかけられ、全員一致(といっても百数名の会員中わずかに二十数名しか出席していなかった)で否決されてしまった。

 これでは約束が違うではないかと、怒った松田先生が大山会長のところへかけ合いに行っても、のれんに腕押しでさっぱりラチが明かない。会長は逃げの一手である。

 一方、記者会のメンバーの読売新聞の山田史生氏が連盟の若手理事に話をしに行って下さったが「読売新聞と連盟との契約金を増やしてくれるのなら、考えてもよい。棋士が一人出来れば、その分金が余計にかかるのだから……」と筋違いの返事だった。

 当時この問題をめぐって、あれこれとずいぶん書かれたが、私は何にも反論しなかった。所詮水かけ論になるだろうし、だいいち「これで念願のプロになれる。やっと将棋オンリーで生活できる。入ったら、勝って勝って勝ちまくって白星(お金)を積み重ね、ご迷惑をかけた方たちにも何とか返済の目途がつく。これから一所懸命頑張ろう」と天にも昇る心地でいたところへ、予想外の鉄槌が下ったので、ただ呆然と放心状態だった。

 後になっていろいろ情報を総合してみると、結局私のプロ入りが阻止されたのは、全棋士の意思というよりも、「素人のくせに、仲間をチョイチョイ負かす、あの生意気な男にお灸をすえてやれ」「我々は苦労して奨励会から必死に上がってきたのに、途中から楽して入られたのではたまらない」「大山会長にだけくっついて、我々に事前に挨拶に来ないとは何事だ」などという一部の棋士による感情的な根回し工作の結果だったようだ。

 もちろん、反対論の有力な根拠として私の素行上の問題が使われたのはいうまでない。これは全く私の不徳のいたすところでこんなところに隙を作った私の不敏は返す返すも残念である。また、そのために折角絶好のお膳立てをして下さった大山会長はじめ松田先生、七條社長、高木会長らに対して申し訳のないことをしてしまった。四面楚歌の中で、ずいぶん辛い思いをされたことと、私は一層身の縮む思いだった。

 しかし、くり言になるが、プロ入りに際して、私の技倆の合否が全く判定の対象にならず、それ以外の問題だけで事が処理されたことについて、現在でも私はどうにも割り切れない思いがしている。「強いのがプロではないか。素人を入れるのが嫌なら、試験でも何でもして、やっつけてしまえばすむ問題である。それだけの自信がプロ側になかったのか?」私の女々しい怨み節である。

 それにしても残酷な話だった。

 一度与えられた希望を取り上げられるのは、全く希望を与えられないことより、どれだけ殺生か。私の絶望感はますます深まり、さながら生ける屍のような心境だった。何をする気力も失せていた。

 しかも、私の業の深さよ。借金だけは依然としてふえつづけ、サラ金の催促は日増しに厳しくなってきた。破滅の時は刻々と迫っていたのだった。

(つづく)

* * * * *

綻びがどんどんと大きくなる展開。

借金は厳しい。

* * * * *

プロ入り申請。推薦人として七條兼三氏、高木達夫氏という、会館建設など当時の将棋界に大きな貢献のあった迫力満点の二人の大物を揃えたまでは良かったのだが、結果としては不首尾に終わってしまう。

瀬川晶司五段のプロ入り試験の時と大きく異なるのは、物理的にも心情的にも同年代の周りの人が動いてくれたか、動いてくれる人がいなかったかの違いだと思う。

一人だけではできることも限られてくる。なかなか難しい問題だ。