[第7譜]
都大路の挑発
すわ急戦か?控室をのぞいたら、森けい二八段と目が合った。
「どっちをモチたい?」
形勢をどう思うかというときに、将棋界では「モチタイカ」という。ヘンな日本語。
ウーン、まだわかんないなあ、と答えた森八段は、ひと呼吸おいてから、意味ありげに、うふふと笑っていわく。
「ま、どっちもモチたくないですね」
(中略)
身じろぎしないで盤上を凝視していた谷川は、少考十分、ホーッと吐息を漏らしてから、5五歩とつっかけた。
その都大路の挑発に、加藤がのった。
5五の敵歩をゆっくりと駒台にのせておいてから、ひょいとつまみ上げた金に、二度三度とカラ打ちをくれて、ピシリ、と打ちおろした。
のってはいけない挑発だった。
「5五同金が致命的だった。あそこは6八とでよかった」
名人自身の終局後の感想である。6八と、同角、2六飛で王手金とり。
(中略)
「一分で同金と指して、次の5四飛(*先手の8四飛に対する)で五十一分という時間のつかい方は、どうみても変則。同金と指すまで、名人には勝ちが見えていたのかもしれない」
某八段の、後日の感想である。
[第8譜]
好手の手から水
午後七時。仙石原が暮色の底に沈みはじめている。墨絵を思わせる山と湖。富士山はもう闇に溶けた。
静かである。
静寂を破るもの二つ。挑戦者がひざ元で開閉する扇子の音が、ぱふ、ぱふ。名人のいまや天下周知のカラセキが、こほ、こほ、こほ。
ぴしり、と第三の音が、対局室の空気を切り裂いた。夕食休憩をはさんで五十一分、5四飛とふりおろした名人の駒音である。
(中略)
白い、細い谷川の指が駒台にのび、獲れたてほやほやの桂をつまみあげた。そのまま安置させるように、ふわりと3六桂。7一歩を打たせる前に総攻撃開始という勝負手であると同時に、名人位に一歩近づく好手だった。
控室が騒然としはじめていた。続く三手のメモを持って記者がとび込んできた。5七金、4四桂、4三玉。
だれかが「もう終わるぞ」と叫んだ。せまい廊下に、いつのまにかカメラマンたちがひしめいている。合図と同時になだれ込もうという殺気のようなものを背中に感じながら、対局室に戻る。
外は闇。一枚ガラスの窓に両対局者の姿が、くっきりと写っている。
めったに感情を表にあらわさない谷川が、めずらしく二度三度と首をひねった。ひねりながら手が動いた。
不覚の一手。好手の手から水が漏れるとはこのことか。ここでは3二桂成と成り捨てていればよかったのである。(*着手は▲3二角)
3二桂成、同玉、2一角、2二玉、5四角成、同歩、2一飛。
もう一度控室にとんで行ったら、盤をとりまいていた加藤(博二)正立会、青野副立会、丸田九段、森八段のうちのだれかの声が聞こえた。
「名人をとりそこなった痛恨の一手だ」
(つづく)
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この後、勝負は混戦になる。
「都大路」とは、都の大通りという意味。
第1図は、広い道のど真ん中(5五)で喧嘩を売った瞬間。
現在であれば、銀座四丁目の交差点、札幌の大通西4丁目、仙台の青葉通りと一番町の交差点、名古屋栄の久屋大通り、大阪北新地の御堂筋、広島流川の平和通り、福岡の天神、この辺で喧嘩を売るような話になるのだろう。