佐藤康光前竜王の車に羽生善治六冠と森内俊之七段が同乗した日

将棋マガジン1995年4月号、毎日新聞の山村英樹さんの第44期王将戦七番勝負第4局〔谷川浩司王将-羽生善治六冠〕観戦記「羽生、渾身の追撃」より。

将棋世界1995年4月号より、撮影は弦巻勝さん。

 第44期王将戦は谷川王将と羽生名人の対決になった。第1局が七冠達成がなるかどうかの注目で、多くのファン、報道陣が集まったことは先月号でお伝えしたが、第1局の4日後に予想もできないことが起こった。―1月17日早朝の阪神・淡路大震災。

 神戸市東灘区の六甲アイランドに住む谷川王将からは同日昼、将棋連盟に電話があり、無事が確認された。王将によると「言葉では表せないような」激しい揺れで、室内はメチャクチャになってしまったとのこと。翌18日には近くの工場のガス漏れ騒ぎで、一時避難勧告に従って退避した。

 水道・ガスなど日常生活に必要なものが足りず、交通機関も奪われたなどの理由で、この後は大阪のホテルに移り、さらに名古屋市内の恵子夫人の実家に移ることとなる。自宅に住むことができない不自由さもさることながら、日夜を問わず襲ってくる余震や、夜に見た神戸市内の炎上する様子が、心理面で大きな影を落としたことは間違いない。

 だが、棋士・谷川浩司としては、11時間がかりでたどりついた大阪の関西将棋会館でのA級順位戦、米長邦雄前名人戦(1月21日)に勝って挑戦者争いに残り、あいかわらず好調を維持した。そして23日からは栃木県日光市での王将戦第2局に臨むことになる。

 心理的には地震の後遺症はあっただろうが、谷川はこの一局に集中した。ふだんと少し変わった点と言えば、控え室を訪れた回数。対局1日目には5回も足を運んだ。異例の事態のため、移動の問題やさまざまな課題(第1局で着た和服を送った宅配便が未着だったことなど)を話し合うことが多かったこともあるが、被災で受けたショックを雑談によってやわらげる意味もあったのかもしれない。

 将棋は相矢倉模様の出だしから、後手番の羽生名人が△5三銀右と上がり、急戦含みの構えを見せた。「どこかで見たような戦型だな」と思ったら、王将戦プレーオフの羽生-郷田五段戦とまったく同じ手順をたどった。谷川はともかく、羽生はこの将棋の特徴を熟知しているはずだが、敗れた側の立場を持って同一手順をたどっている。結局、手を変えたのは谷川だった。

「その将棋のことはよく覚えていませんでした。ただ、けっこう攻めが続く手順なので、指してみようと思った」(谷川)

「実は後手番で指してみたい手があり、プレーオフと同じに指していたのですが、よく考えてみると面白い変化にはならないのでやめました」(羽生)

 このような事情が背景にはあったのだが、記者としてはずっと同一手順が続くことに驚くとともに、プレーオフを修正した何らかの工夫があるものと期待していた。その点で言えば、谷川がさらに攻めの速度を早め、果敢に羽生陣へ迫ったことが勝因となった。

 2日目の昼には、佐藤前竜王、森内七段が連れ立って現れ、また丸田九段が「今週のNHK囲碁将棋ウィークリーでこの将棋を解説することになっていて、やはり実際に見ておかないと」と、遠いところまで訪れてくれた。

 このメンバーが検討し始めたとたん、局面が急転する。谷川が馬取りを放置して桂を端に成り捨てて王手をかけた手に、一同「そういう意味だろう?」。しばらくして佐藤前竜王が「ここに打つ意味なのかなあ」と4四に今取ったばかりの歩を置いた。「それはいい手―あれっ、終わってしまうじゃない」。

 事実、羽生はこの手を見落としていて収拾がつかない局面になっていた。佐藤-森内コンビで想定図が並べられ、「ここで投げるでしょう」。モニター画面もまるでビデオを見るように同じ手順となり、同じ局面で羽生が投了した。

「次からはこんなひどい将棋を指さないようにします」(羽生)の言葉が表すように午後3時すぎ終局の早い将棋だった。谷川は昼食休憩前後の長考ですべてを読み切った上の快勝に見えたが、局後の感想では「直前の手を読んでいなくて、(決め手は)その場で思いつきました」と語っていた。

 しかし、解説を加えてくれた前田七段は「読んでいなくても、谷川さんの場合は早い段階から終局のイメージが浮かび、『こういう終わり方になるのかな』のようなことは考えていると思います。そこが、直線的な谷川将棋の強さ。逆に、羽生さんは曲線的な読みで局面を進めていくのがうまい」とまとめてくれた。

 谷川の良さばかりが出た第2局だった。

 羽生は対局を終えた夜に佐藤前竜王、森内七段とともに帰京。谷川も「少しでも早く帰りたい」と、朝8時前にはホテルを発った。タイトル戦の一局の裏には双方のその時の生活が大きく影響してくる。傑作を作った谷川には、震災による心理的な変化、「将棋に集中しよう」という熱い思いがあった。

 タイトル戦連投中の羽生にとっても、この第2局は特別な気分があっただろう。谷川のおかれた立場には同情しながら、将棋は勝ちに行かなくてはならない。その心理的な面がうまくコントロールできたかどうか。

(以下略)

将棋世界1995年4月号より、撮影は中野英伴さん

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「だが、棋士・谷川浩司としては、11時間がかりでたどりついた大阪の関西将棋会館でのA級順位戦、米長邦雄前名人戦(1月21日)に勝って挑戦者争いに残り、あいかわらず好調を維持した。そして23日からは栃木県日光市での王将戦第2局に臨むことになる」

谷川浩司王将(当時)の将棋世界での自戦記で、大震災直後のことが書かれており、非常に苛酷な状況であったことが痛みを伴って伝わってくる。

11時間とは、対局前日、車で神戸から大阪のホテルまで着くまでの時間だった。

谷川浩司王将(当時)「将棋を指せるのが嬉しい。この一言に尽きた」

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また、この震災では、森信雄六段(当時)門下の船越隆文2級が亡くなっている。

森信雄六段の悲嘆は非常に大きかった。

森信雄六段(当時)「珍しいぐらいええ子でな。だからちょっと心配やなあ」

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「移動の問題やさまざまな課題(第1局で着た和服を送った宅配便が未着だったことなど)」

王将戦第1局が行われたのが1月12、13日。14日に彦根から和服を送っているはずなので、未着なのは様々な意味で心配だ。

震災後から少し落ち着いてから、いろいろと課題が見つかってくるのは辛い。

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「実は後手番で指してみたい手があり、プレーオフと同じに指していたのですが、よく考えてみると面白い変化にはならないのでやめました」

自分が破った側を持っての新しい試みと、その途中での予定変更(新しい試みの中止)。

そのうちに、勝った側を持っている相手の方から手を変えてくる。

それぞれ考えていたことをすべて書き出せば、一冊の本ができそうだ。

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「2日目の昼には、佐藤前竜王、森内七段が連れ立って現れ」

「羽生は対局を終えた夜に佐藤前竜王、森内七段とともに帰京」

この帰京時に、将棋界界隈で『いろは坂事件』と呼ばれている出来事が起きる。

佐藤康光前竜王の運転する車に同乗した羽生善治六冠と森内俊之七段が、帰途、結果的には物理的に何もなかったものの、かなりの恐怖を味わったという展開。

近代将棋1995年4月号、大矢順正さんの「棋界こぼれ話」より。

 佐藤康光前竜王も今年恰好いいスポーツカー・三菱のFTOを購入した。

 シルバーのボデーに五角形の若葉マークが初々しい。

 車を手にすれば早くドライブしてみたくなるのは当然。早速、日光で行われた王将戦の第2局を勉強を兼ねて観戦に出掛けた。

 同行したのが森内七段であった。対局はご存知のように午後3時過ぎに終わった。

 急遽、羽生名人も佐藤前竜王の車で帰京することになった。

「東北自動車道を帰ったんですが、やはり少し怖かった。三車線の中央を走るんですが、後ろの車に追い立てられて車線変更しようとしますが、なかなか上手くいかないんです」と同乗の羽生名人の後日談。

「まだ不慣れですからね。追い越し車線はもちろんまだ怖い。かといって左車線はパーキングエリアなどから出てくる車があるでしょう。あの合流してくるのが苦手でして。羽生名人を同乗させたのは悪手でした。いま思うとゾッとします」

 ということで佐藤前竜王の戦略はじっと中飛車で攻めることだ。

 まだ、端攻めのタイミングは難しい?

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いろは坂事件』と呼ばれているけれども、往路、冬季のいろは坂を車で行こうとした佐藤前竜王を森内七段が押し止め、車は日光駅に置き、対局場まではタクシーで向かっている。

そういう訳なので、内容的には『東北自動車道・首都高事件』という方が実態に合っているだろう。

下のニコニコ動画の映像では、当日の全貌について、3人がそれぞれ語っていてる。良い思い出となっているようだ。

歴史的には非常に貴重な映像と言える。

(日光の話が出るのは07:00以降)

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