将棋が大好きな広島の親分(2)

将棋大好き親分
高木さんは、飯干晃一著「仁義なき戦い」にも実名が出るほどの大物会長だった。昭和40年代初頭の引退時は、地元の中国新聞でも写真入りで取り上げられている。
引退後は喫茶店などを経営し、趣味の将棋を楽しんでいるが、そのような前歴があるとは思えないくらい腰が低い。
戦中は、大阪の木見八段道場のアマチュア門下生だった。
広島平和公園支部を立ち上げ、野外道場を開いていたこともある。
また、高木さんは、アマチュア向けに広島賞金大会を開催した。年を追うごとに参加者は増え続け、昭和51年の第3回アマ将棋強豪広島大会「青葉の将棋祭り」では関西、関東、九州から二百五十名以上の参加があった。参加者の多さに驚いた高木さんは翌年大阪で開催することとした。
これが「第4回全国アマチュア将棋の祭典」通天閣将棋センターで行われた。参加者数四百名余。この大会が読売新聞のアマチュア大会へと引き継がれた。
高木さんは日本将棋連盟から七段を贈位されている。
「大山15世名人の将棋の旅」にはほとんど参加しており、湯川さんが高木さんと知り合ったきっかけも、この旅および故・七條兼三氏(秋葉原ラジオ会館社長)の会だった。
高木さんが上京した時は必ず七條邸に寄っていた(七條氏は将棋界の良き旦那で詰将棋作家、大山15世名人の著作「我が出会い」では将棋会館建設の恩人とされている)。
故・花村九段とは格別に親しく、北九州から将棋の修行のために広島に来ていた森下卓少年(現九段)は、高木さんに見込まれ、その後押しで花村門下に入った。
高木さんの現役時代は、子分を引き連れて歩くと相手方を刺激させ命を狙われる確率が高くなるということで、ボディガードを付けずに子犬を連れて歩いてた。
「子犬を連れている老人を見たら、狙う気も起きなくなるやろ」
ということらしい。

湯川さんは東京出身で「し」と「ひ」が逆になることがしばしばだが、西日本の言葉もデフォルメしてうまく話す。
同様の理由で、市中の飲み屋にもあまり行かなかった。
「飲み屋から出てきた瞬間が危ないんよ」
確かに、実録物である映画「仁義なき戦い」シリーズをみると、ナイトクラブから出てきた瞬間に撃たれて、絶命する人があまりにも多い。
ロサンゼルスでのタイトル戦観戦ツアーに参加した時、主催者側の配慮なのか、飛行機の座席は高木さんと湯川さんが隣どうし、ホテルも高木さんと湯川さんが同室だった。
この頃、高木さんと湯川さんは大分親しくなっていたが、高木さんがいろいろと用事を言いつけるので湯川さんが
「私はあなたの子分じゃないんだから自分でやって下さいよ」

と言うと、高木さんはプイと部屋を出て行き、アマ名人の若林さんの部屋へ

「湯川さんがわしのことを苛めるんよ。この部屋に泊まらせて下さい」

と言って入ってしまった。

このまま高木さんは若林さんの部屋に居着くことになるのだが、後日、若林さんから「湯川さん、あのようなご老人はもっといたわってあげなければいけませんよ」と言われた湯川さんは、むしろいたわってほしいのは自分のほうだと思った。

高木さんは芝居上手なのだろう。
高木さんが若い頃、俳優になろうと思い、京都撮影所まで行ったが、セットなどあまりにウソが多いので断念したそうだ。
この時、高木さんは若林さんに頼み込んで、市街観光は一切せずにホテルの中で将棋ばかり指していた(後年、団鬼六氏のエッセイにも、高木さんが横浜にあった団邸を訪れたとき、団氏が横浜市内を観光でもと勧めても、それを辞し、将棋ばかり指していたという記述があった)。

つづく