将棋が大好きな広島の親分(1)

2004年に亡くなられてしまったが、広島に将棋が大好きな元・テキヤの大親分がいた。

昨年、私とバトルロイヤル風間さんが将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞を受賞することとなった「広島の親分」の主人公、高木達夫さんだ。

親分を引退した後の高木さんは、大型アマチュア大会の創設、将棋会館建設などの功績で、日本将棋連盟から七段を贈呈されている。

私が書いた「広島の親分」はかなりな長編なのでブログに全文載せることはできないが、はじめの部分などを抜粋して、七條兼三氏とは違ったタイプの旦那、高木達夫さんを紹介していきたい。

はじめの部分の抜粋とはいえ、それでも結構長く、3回の連載となる。

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2004年5月5日品川駅 この日、連休最終日にもかかわらず、私は会社へ向かっていた。私の勤務する会社が、中野から品川へ連休中に引越しをしており、自席の荷物の整理などをするための出社日となっていたからだ。

 私の携帯電話に着信があったのは、山手線が大崎を過ぎ品川に向かう途中のことだった。車中であるので電話に出ることができない。品川駅で降りて携帯電話を確認すると、湯川博士さんからの電話だった。留守電が入っていた。「広島の高木さんがお亡くなりになられたよ。君にも伝えておこうと思って」

広島の高木さん。愛棋家で、テキヤの大親分だった高木達夫さんのことだ。ご病気だということは聞いていたが… 私が高木さんとお会いしたのは一度だけだったが、高木さんは極めて個性的で魅力のある方だった。私は、湯川さんと一緒に広島まで高木さんに会いに行った時のことを思い出しながら、新社屋へと入っていった。広島へ行くきっかけとなったのは、ちょうど7年前の5月、湯川さんと交わした会話からだった。

1997年5月4日新幹線車内

1997年5月4日、大阪へ向かう新幹線の車中、私は湯川博士さんが話してくれることに聴き入っていた。翌日は将棋ペンクラブ大阪交流会がある日だった。

「将棋が強い人にはいろいろとユニークな人がいてさ…」

大田学さんや小池重明さんなどの面白い話が次々と続く。列車は名古屋近辺を通過した。

「そういえば、名古屋の演芸場の楽屋に住み着いていた将棋の強い芸人がいてね」

「えっ、楽屋に寝泊りしていたんですか?」

「そう、神田連山という変わった講談師なんだ。楽屋を勝手に自分の家のようにしていた。神田山陽さんの弟子だったけれども、不始末ばかりやっていて7回も破門になっちゃってさ。東京の寄席に出られなくなった」

「7回も破門なんて、よく6回も許してもらえましたね」

「ふつう破門は一度で終わりだし、調子のいい奴でも二度目の破門でそれきりになるんだけれども、破門されるたびに寄席の席亭だとか有力後援者を連れてきて詫びを入れるんだ。それで山陽師匠も許してしまう。59歳で真打になった遅咲きで、将棋の実力はアマトップクラスあったけど、講談は上手くなかった。不思議な愛嬌のある爺さんだったね」

もう鬼籍に入ったこの老講談師に、私が微妙な興味を抱きはじめた頃、湯川さんは更に興味深い話をしはじめた。

「ところがもっとすごい人がいて、高木達夫さんという広島のテキヤの大親分なんだ。映画の仁義なき戦いの金子信雄のようなとぼけた感じの親分でさ」それからの湯川さんの話は次のようなものだった。

つづく