美学に殉じた棋士(後編)

今日は美学に殉じた棋士の本編。

近代将棋2000年11月号、青野照市九段の「実戦青野塾 美学に殉じた棋士」より。

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1968年の棋聖戦の挑戦者決定戦に、若手の二人が進出した。

中原誠六段と高島弘光五段。

高島は将棋界最後の、「寄らば斬るぞ」的雰囲気を持った剣豪のような棋士であった。

(中略)

私も塾生(将棋会館の住み込み奨励会員)時代には、随分怖い先生だなと思ったことが多々ある。郵便物をポストに出してくれと頼まれ、それをちょうど郵便局に行く用事のある女子職員に頼んだら、「君はその手紙がなくなったら、責任が持てるのか」と怒られたこともあった。

氏の終盤戦は、やはり怖くて見に行けなかった。順位戦の最終局など、うっかり誰かが対局室に入ろうものなら、「すまんが君、出て行ってくれないか」と言われたものである。

その反面私生活のほうは、よく言えば豪快、悪く言えば滅茶苦茶だったということは、人から聞いたことがある。もっともその当時までは、そういう棋士の方が多かったのである。

(中略)

図は、1968年棋聖戦挑戦者決定戦の終盤、有名な局面。

先手が高島弘光五段、後手が中原誠六段。

高島弘光2

高島五段は秒読みに追われていた。

この局面は先手玉が詰むことはないため、後手玉に確実な詰めろを続けるか、必至をかければ先手が勝つ。ここで高島は▲2四歩と打った。この手が、結果的かつ心理的に敗着となった。

ここは▲2四香(▲2五香でも)と、歩ではなく香を打てば先手の勝ちだった。香の場合は△1三金も△3三金も、▲2二銀成以下詰みだから△同金と取る一手。▲同飛に、▲2二飛成と▲2三金を同時に受ける手は△3二金よりなく、▲2二金△1三玉▲3二金で必至となる。

(中略)

しかし考えてみれば、▲2四歩△1三金と進んだ局面でも▲2三歩成△同金と成り捨てれば、一歩の違い(歩の数は5枚あるから関係ない)だけで元の局面に戻すことができる。

秒に追われて、▲2四歩と打った瞬間は気がつかなくても、△1三金と逃げられた局面では、歩でなく香なら受けなしになることは、プロなら気がつかないはずはない。現代のプロなら逆に、気がついていても時間稼ぎ―すなわち▲2四歩と打つ一手と次の歩成りで、二分考えることができる―のために、わざと歩を打つことさえ考えられる。

しかし高島は、そうは指さなかった。局後、

「なぜ歩をもう一度成らなかったのですか」

と聞かれた時に、

「そんな手は死んでも指せん」

と言ったという話が伝わっている。

知っていたのである。しかし、打った歩をすぐに成り捨てるような棋譜が残ることを、潔しとしない風潮と、氏の気質がそれを許さなかったのであろう。

(中略)

中原にしてみれば、この勝利によって挑戦権がころがり込み、山田(道美棋聖)との五番勝負を3-1で勝って、初のタイトル”棋聖”を奪取したのであった。あれだけの大棋士だから、たとえこの将棋を負けても、人生に影響はなかったと思うが、少なくても高島の美学がなければ、初タイトルは半年か一年は遅れたはずである。

こうして高島の、生涯唯一のタイトル戦登場のチャンスは消えた。

高島は平成8年、55歳の若さで亡くなった。晩年、私が故郷の静岡駅に降りたら、そこの待合室に一人ぽつねんと座っている氏を見かけて驚いたことがある。

「広津さん(私の師匠)に会いたいと思ってね」

突然思いついて、新幹線を降りたらしい。晩年は淋しかったのだろう。そこには昔の、剣豪の面影はなかった。

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高島弘光八段は叔父の高島一岐代九段の門下。

1975年度の第1期棋王戦決勝リーグは、トーナメントで勝ち上がってきた大内延介八段、内藤國雄八段、高島弘光七段の3名による2局ずつの総当り戦で行われた。

この時に内藤-高島戦が将棋史上初の公式戦海外対局としてハワイで行われることとなったが、高島七段は飛行機嫌いという理由で海外対局を辞退する。(ハワイ対局は内藤-大内戦に変更された)

Wikipediaによると、後年の将棋世界で高島八段は、「本戦の途中から決勝の場所がハワイになったからや。最初から決まっていたなら何も言わん。棋士は商品やない」と語っていたという。飛行機は嫌いではなかったようだ。

1996年12月、高島八段は現役のまま食道癌で亡くなる。享年55歳だった。

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近代将棋1997年3月号、故・池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

高島弘光八段の悲報を聞く。信じられなかった。

「食道ガンなんだ。でも、わしは手術はせんよ。食事療法でなおす」

高島先生からそう聞いたのは、三ヵ月も前のことだ。そのころからひどくやせていたが、いきなり”ガン”という言葉が出てきたので私は驚いた。

「食事療法でなおるんですか」

「うん。まあ、精進料理みたいなもんやな。体力つけると、がん細胞も元気になるやろ。そやから、わざと体力を弱くしてガンを弱めるわけや」

私はガンの治療法についてはよく知らないけれど、高島先生は真顔でそう言っていた。

「当然、タバコも酒も禁じられているんでしょうね」

「いや。酒はアカンと言われたけど、タバコを吸うなとは言われとらん。そやからタバコは吸ってるけどな」

その後、高島先生とは関西将棋会館で何度か会ったが、最後に見たのは12月17日である。この日、大阪で高島-武者野戦のC級2組順位戦があり、夕休前に終わった。高島先生の逆転勝ちだった。

私はその感想戦も見たし、また感想戦のあと、棋士室で高島先生と三十分くらい話をしたのだ。

体は前よりやせていた。体重が16キロ減ったという。「先生、体は大丈夫ですか。だいぶ、しんどそうに見えますが」と聞くと、果たして「しんどい。永年棋士をやってきたけど、今日が一番しんどい。こんなん、初めてや」

私はガンのせいだと思ったが、高島先生は「風邪のせいや」と言った。

「四、五日前に風邪をひいたんや。なおったと思って土曜日(三日前)に外出したのがいかんかった。それでもっとひどくなった。熱が四十度を超えとる」

そんな体で順位戦を戦ったのだ。

「先生、今日は早く家に帰って休んだほうがいいですよ」

「うん、帰る。熱が上がるのはまだええんや。下がったら危ないらしいけどな」

それが私との最後の会話になった。亡くなったのは十日後の午前三時である。

高島先生はガンを克服できると思っていたようだが、死因はやはり食道ガンだった。

五十五歳。唐突な、そして、あまりに早すぎる死である。

某月某日

奈良県榛原町の、ひのき坂公民館で高島先生の告別式。

高島先生が八尾市内から榛原町の一戸建に移ったのは数年前で、そのころ私は新居を訪問したことがある。八尾に住んでおられたころも一度訪問したこともあるから奥様もよく知っている。

(中略)

私は高島先生によくかわいがってもらった。夜、連盟で会うと、たいてい「池ちゃん、ちょっと飲みに行こうか」と誘われた。

私は将棋界の古い時代のことは活字でしか知らない。だから高島先生から昔話を聞くのは好きだった。酔うと同じ話が何度も出たが、それも嫌いではなかった。若い頃の”武勇伝”もたくさん聞かせてもらった。

いつだったか、佐藤康光八段に「高島先生の棋譜はよく並べていますよ。感覚がいいんです。勉強になります」と言われたことがある。当時、佐藤さんは竜王だったと思う。その話を高島先生にしたら、ちょっと照れ臭そうな顔をしていた。そんなことも思い出した。

(以下略)

将棋世界1997年3月号より。

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美学といっても各方面あるが、美学にこだわる棋士、そうではない棋士、いろいろなタイプの棋士がいるから面白いのだと思う。

升田幸三実力制第4代名人、谷川浩司九段、郷田真隆九段などは代表的美学派。

大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、花村元司九段などは代表的非美学派。

羽生善治名人、森内俊之九段、佐藤康光九段は、棋譜的に非美学派だが、内面はそれぞれ別の方向性で美学派。

内面が非美学派で棋譜が結果的に美学派になっているのが、渡辺明竜王、久保利明二冠、大野源一九段など。

渡辺明竜王の棋譜が結果として美学派というのは、踏み込みが良いので、一手勝ちと見切ったらどんどん邁進するため。

これらの見方はあくまで個人的な感想で、大いに間違っているかもしれないので、ご容赦いただきたい。