プロの至芸(1992年 羽生善治棋王編)

昨日の、故・村山聖九段の「羽生将棋は次善手で勝つ」。

その最も分かりやすい事例を見てみたい。

将棋マガジン1992年7月号、青野照市八段(当時)の第10回全日本プロトーナメント決勝(羽生善治棋王-森下卓六段)観戦記「年間五十勝の極意」より。

 羽生と森下という当代の若手、イヤ現在の将棋界でも、最も注目される二人が戦い、なおかつ五番勝負が、二勝二敗で最終局にもつれ込んだとあっては、イヤでもこの勝負は、アマプロ問わず、関心の的となった。

 人によっては、1500万円の賞金の行方が、気になる人もいるかと思うが、立会人の私にとって気になることは唯一つ。年間五十勝する棋士の、指し口、勝ち方はどんなものかということである。

  過去にもずば抜けて勝ち星を稼ぐ棋士はいた。中原しかり、米長、谷川しかりである。しかし当時は、その世代において、たいてい一人か二人くらいのものであった。

 ところが現在は、昨年の最多勝が森内六段の六十三勝をトップに、五十勝を越す棋士が、この二人も含めて、合計四人も出ているのである。

 強い棋士ということなら、ほかにも当然名前が挙げられるが、これだけ勝つというのは、もはや最近は対局が増えたとか、若手は予選が多いからだ、などという言葉は当てはまらない。

 じっくりと見させてもらう、いい機会だと思った。

(中略)

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 4図では、誰しも▲7一銀と打つ手が浮かぶ。そして実際銀を打てば、以下△6六角▲7六飛△9二飛▲6二銀成△5七角成▲4八金打(参考図)となって、先手優勢が確立するのである。

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 にもかかわらず、私は控え室で羽生の指し手を▲6八金と予想した。

  ▲7一銀が、結果的には最善手であっても、この銀を打って勝ちに行くタイプでは、とても年に五十勝はできないと感じたからである。

 もっとも相手が森下のような粘っこさがなかったら、ここで一気に無理をして、いくばくもなく先手の勝ちに終わったかも知れない。

(中略)

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三間飛車や石田流が大好きな私からすれば、4図の局面は鼻血が出るほどエキサイティングなシーン。

こういう時に▲7一銀と打つ快感のために将棋をやってきたようなものだ。あとはどうなろうと。

ところが、羽生棋王は▲6八金。

新幹線の自由席、一つだけ席が空いていてその席の隣には菊池桃子さんに似た素敵な女性が座っている。しかし、それを見送って隣の車両に席を探しに行く。

あるいは、金曜日の夜の六本木、「今日は帰りたくない」と言う女性を振り切って、家に帰って掃除をする。

そのような感じのする▲6八金だ。

一生かかっても真似ができない。

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4図以下の、羽生棋王の指し手は次の通り。

▲6八金△8六角▲7六飛△6四角▲8三歩△同飛▲7三歩成△同金▲7四金△7五歩▲同金△5五角右▲8四歩△8二飛▲8五桂△7二金▲7七歩

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相手の狙いを殺すのがプロの技。

この後、羽生棋王は、ほとんど完封に近い形で勝っている。

目先の快楽に飛び込まずに、もっとリスクが少なく、局地的ではなく大局的な視点での優勢を勝ち取る。

プロ中のプロの技だ。

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将棋には、現実の世界に役に立つ格言は非常に少ない。

(そこが良いところでもあるのだが)

例えば、「不利な時には戦線を拡大せよ」。

日本陸軍のインパール作戦を筆頭に、企業活動においても最もやってはならないことが、”不利な時の戦線拡大”だ。

将棋の場合、格言よりも、その指し手あるいは棋士の姿勢そのものが、現実の世界で何かを成す上で参考になるのではないかと思う。