木村一基五段(当時)「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」

将棋世界2001年11月号、野月浩貴五段(当時)の第14期竜王戦挑戦者決定戦〔羽生善治四冠-木村一基五段〕観戦記「戦いの内側にあるもの」より。

 羽生善治四冠―この先生については、今更わざわざ語るまでもなく、皆さんに充分過ぎるほど認知されているだろう。

 従って今回は木村サイドから見ていきたいと思う。羽生ファンはお許しを……。

〔きむらかずき〕

 木村という男、今回の竜王戦が大舞台初登場となる。

 棋士になってからの通算成績は7割強で、前々年度の勝率1位、そして今年度はこの挑決3番勝負が始まるまで、30局指して9割の成績。勝敗に直すと27勝3敗という恐るべき数字。

 研究熱心な割に、序盤で優勢になることは極めて少ない。これではまるでおバカさんみたいだがそうではなく、常に工夫を見せて少しでも良くしようとしているのが今のところ裏目に出ているだけで、定跡手順は最新のものから定番まで全て知り尽くしている。

 ただ、序盤で悪くなっても中盤の力が強いので泥仕合に持ち込んで、最後は本人曰く「ご愁傷様」ということになってしまう。9割の大部分が逆転勝ちだから恐れ入る。

 この3番勝負にあたって彼はいつも「最後は人間同士1対1だから」と言っていた。羽生といえば今、将棋の神に一番近い男。その男相手に強がりではなく、本心からこう言えるのは勢いからなる自信が爆発寸前まで膨れ上がっているからだろう。

〔挑決ハイライト〕

 1、2局を振り返るとやはり第1局(9月1日)が大きな意味を持っていた。

木村にとっては何が何でも勝つしかなかった。もし1局目を負けてしまうと、羽生相手に2連勝はとても厳しい。というよりも木村の性格からして不可能に近い。これは10歳のときからずっと一緒にやってきているのでよく分かる。

ちなみに僕も木村も28歳で、不本意だが11日間だけ向こうが年上となる。

A図は1局目の山場で、ここまでは羽生がリードを拡大、縮小を繰り返しつつも何とか上手にまとめて、木村のやけくそとも思える辛抱が無駄に終わるかと思えたのだが、実戦はここから思わぬ結果となる。

A図以下、▲4六桂!△5五銀打▲6五玉△5六銀▲6四玉!△6五飛までの世紀の大頓死となった。

まず▲4六桂のところでは▲3一銀△2三玉▲2四馬からの詰みがあったし、最後の▲6四玉では▲7六玉△6五銀▲8七玉で箸にも棒にも掛からずに木村は投了するしかなかった。もう勝ちだと思って羽生は深く考えてなかったのだろう。「投了前の儀式」のはずが、木村にとっては大きな拾い物となった。

この勝利で俄然面白くなってきた。そして翌週行われた2局目(9月7日)では、羽生の四間飛車に対し、先手番の木村が作戦勝ちになったが千日手模様の局面となる。木村は迷うことなく自ら千日手にした。控え室では一様にブーイングだったが、木村は「指し直しで勝てばいい」と全く意に介すところがない。指し直し局は1局目同様、再び横歩取りとなる。

B図はその局面だが、ここで羽生の▲5五角を木村はうっかりしていた。

この手をみて木村は「勝てないな」と気持ちが萎えたという。ただこの後も粘りに粘る。「ほら、棋士しか分かんない感覚だろうけど、あぁもう勝てないなって思っちゃうと、その後も引き摺っちゃってダメなんだよね」と言いながら「でも投げないよ。投了より悪手なんてこの世に存在しないんだから」と照れながらも悪びれることなく言い放つ。ここが木村の憎めないところ。カワイイな、なんて思う人も多いだろう。

前局のこともあって、羽生の信用が薄れているため、どんなに羽生が勝勢でも「まだ何かあるよ」とか「二歩を打つかもしれないし」などと控え室では今までの羽生評ではありえない言葉がとびかっている。羽生ブランドをここまで落とした棋士は未だかつて見たことがない。

しかし前局とは違い、羽生が凄みを見せて完勝。追い詰められると流石に迫力が違う。泣いても笑っても次で全てが決まる。いよいよ決戦の時が来た。

(中略)

〔2分の1のいたずら〕

遠山君(雄亮三段)の振り駒で羽生の先手となった。木村としては先手が欲しかったが、確率2分の1には文句が言えない。「前局(指し直し局)でボコボコにされたからもう一度やってみたかった」と木村が言うように全く同じ展開だが、△5五歩に対し、▲3六歩と羽生が修正案を見せる。

(中略)

1図以下の指し手
△5一金▲3七銀△9四歩▲3四歩△4四角▲3六飛△8五飛▲1六歩△3五歩▲2六飛△2三金▲3三歩成(2図)

〔大局観〕

△9四歩は手待ちの意味が強い。というのは後手陣は今が理想形で下手に何か動かすとバランスが崩れてしまう可能性が強い。ただ、先手がゆっくりしていると△9五歩から△9六歩▲同歩△9七歩を見ている。羽生は35分考えて▲3四歩、52分で▲1六歩と指したが、この2手を「甘かった、大局観が悪かった」と後悔していた。

▲3四歩のところでは▲1六歩が正着で、これなら本譜で木村の△3五歩から△2三金がなく、先手もまあまあだった。

(中略)

△3五歩から△2三金はまさに木村の大局観が生み出した手。形にこだわらない柔軟な発想で、後手がペースを握った。

2図以下の指し手
△同桂▲3四歩△4五桂▲4八銀△6五桂▲3三歩成△同角▲6六歩△5七桂右成▲同銀左△同桂成▲同銀△3四金▲7七桂△8三飛▲4六桂△2五歩▲2八飛△2四金(3図)

〔読み抜け〕

2図の▲3三歩成は夕休に入る直前に指された手だ。△同桂に▲2四歩で良しと思っていたが、読み抜けがあって▲3四歩から▲4八銀と軌道修正するはめになった。序盤からこんなに悪手を指すのは珍しい。対局中に木村は、羽生が疲れているのがよく分かると言っていたが、実際に対局過多はどのように影響しているのだろうか?

 手順に桂馬を4五まで跳ばせて銀を引き、しかも一歩損、控え室にいた藤井に言わせると、3手損して一歩損で代償なしは飛車損に等しいと言っていた。

3図以下の指し手
▲9六歩△8六歩▲同歩△6四歩▲4五桂△4四角▲3四歩△2三金▲5三歩△同銀▲3七桂△4二銀▲2五桂△3六銀(4図)

〔温泉気分〕

 ▲9六歩には驚いた。ここで一手パスのような手を平然と指すなんてやはり羽生も大胆さを失っていない。

 △8六歩▲同歩に△6四歩が「敗着に等しい」と木村が悔やんだ手。飛車が通って好手に見えるが、△8七歩▲7九角△8八銀の方がよかったという。

 温泉気分(温泉に入って鼻歌を歌っている時の気分)になって深く読みをいれなかったことを後悔していた。

 △2三金では△1二香!を読んでいたが、あまりに見たこともない手なので、自分が信じられなくなってしまったと嘆いていた。2局目同様、木村は嫌な気持ちを引き摺り始めた。

4図以下の指し手
▲2四歩△同金▲3三桂右不成△3二玉▲2四飛△4五銀▲8五歩△5六歩▲6八銀△2三銀▲2九飛△2四歩▲9七角△6三飛▲8四歩△6六角▲6七金△4四角▲6六金打(5図)

〔しかし依然優勢〕

 ▲2四歩から金をただ取りするが、△4五銀と桂馬を取り返してまだ木村が優勢だ。やはり先手の角が遊んでいるのが大きい。

 手のない羽生は▲9七角から▲8四歩とあやを求めるが△6六角が味良く後手が有望だ。が、最終手の▲6六金打が木村の意表を突く一手だった。

5図以下の指し手
△8六歩▲同角△6五歩▲同桂△6四歩▲5六金寄△同銀▲同金△5七歩▲同銀△8五歩▲5二歩△6一金▲5五銀(投了図)
まで、111手で羽生四冠の勝ち

〔あせりと動揺〕

 残り22分のうち、16分考えて指した△8六歩が敗着となった。ここでは△1四歩は△9五歩として、▲5六金寄△同銀▲同金に△5七歩▲同金△4五桂と攻めていれば分かりやすい勝ちだった。

「色々考えたけど、あせっちゃって」

と言っていたが、動揺を引き摺ったまま、ここまでたどり着いてしまったのが木村の敗因だろう。

 本譜は▲5二歩のタタキが厳しく投了図からはどう頑張っても勝ち目がない。3分考えて悪あがきも諦めた。最後は潔くとでも考えたのだろうか。

 こんなに盛り上がった挑決戦は今まで見たことがない。さすがは竜王戦。

〔対局が終わって〕

 1時間ほど続いていた感想戦が終わったので、先に対局室を出て廊下で木村を迎えた。「ごくろうさん、お疲れ様だったね」と声を掛けると小さな声で「楽しかったよ……でもさ、複雑な気分だけどね」と木村がつぶやいた。酔っ払っている時以外、僕には嘘をついた事がないので、強がりでも何でもなく本心だと思う。

 この言葉を聞いた時、三段時代に二人同時で上がりを逃したり、昇級の一番を負けたことが何度かあって、その度にお互い泣きながら同じようなことを言いながら慰めあったことがふと頭に思い浮かび、木村の顔を見つめていると胸がいっぱいになり言葉に詰まってしまった。

 校了の関係で締め切りが翌日の午前中と時間がなかったが、親友を置いて帰る訳にはいかず、付き合うことにした。

 直後、夜中から十数人で行われた打ち上げでは、平静を装って色々と対局中のエピソードを喋って場を盛り上げていたが、見ていて木村の人のいい性格が現れている感じがした。「悔しい顔をすればいいのに」心で思っていると、みんな酔っ払って訳がわかんなくなり始めた頃、木村がおもむろに鞄から今日の棋譜を取り出して、見ているうちに人知れず涙を拭いていた。誰も気付いていないみたいだったが、いつもの木村を見た気がしてうまく言葉にできないが安心した。

 新人王戦ではやつの笑顔が見られるだろう、たぶんきっと。

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野月浩貴五段(当時)の、少年時代からの親友だからこそ書くことができる珠玉の観戦記。

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この時の竜王戦挑戦者決定戦第1局は、羽生善治四冠(当時)にとっては非常に珍しいトン死があった一局。

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「新人王戦ではやつの笑顔が見られるだろう、たぶんきっと」。

残念ながらこの年の新人王戦での木村一基五段(当時)は、決勝三番勝負で松尾歩四段(当時)に0勝2敗で敗れている。

しかし、翌年の新人王戦決勝三番勝負で木村一基六段(当時)は鈴木大介六段(当時)に2勝1敗で勝って新人王に輝いている。