遊郭キラー

将棋マガジン1990年2月号、東公平さんの「明治大正棋界散策」より。

 大野源一九段、升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人ほか、多数の名棋士を育てた木見金治郎九段の若いころのことである。

 出身地の岡山へ遊歴に出かけた。目当ての将棋好きの旦那を訪ねたところ、妻君が愚痴を並べている。主人はもうこれで四日も五日も、遊郭へ流連(いつづけ)であるという。

「なに、ご心配はいりません」と木見五段は妻君にいった。

「ご主人は本当は女より将棋の方がお好きだ。私が来たからには、めったに外泊などできないようにしてご覧に入れよう」

 使いをやると、はたして旦那はすぐに帰宅して、さっそく一番ご教授にあずかりましょうと盤駒を用意させた。昼間は将棋、夜は酒肴珍味で遠来の棋士をもてなした。

「やはり将棋がよい。もう、女遊びは飽きた」などと言うので妻君は大いに喜び、数日の稽古料に、いつもの倍ほども包んだ。

 にこやかに愛棋家の邸を辞した木見五段はその足でまっすぐに遊所へ向かい、ゆるりと居続けをしたそうである。

 私は少年時代、神戸で木見先生に四枚落ちから飛香落ちまで個人稽古をつけていただいたから察しがつくのだが、先生の壮年のころの好物は一に酒、ニに女、三に中将棋(駒数九十二枚)であったと思う。

(以下略)

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遊郭は、料亭とクラブと風俗店の3つの業態の要素を一つにまとめたような所で、1957年までは定められた地域であれば合法とされていた。

東京であれば吉原(はじめは人形町だったが明暦の大火で現在の地へ移転された)、大阪であれば飛田新地(大正時代から)、京都の島原など。

ゴルフやクラブ・キャバクラ、公営ギャンブルなどのなかった時代、男の遊びは遊郭に集中したのかもしれない。

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Wikipediaには次のような記述がある。

江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。

吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという不文律があった。ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたようである。

宝塚のファンクラブと同様、かけもちは許されないということだ。

銀座や六本木などのクラブも、永久担当制。

他の女性と仲良くなっても構わないが、店へ行った時の売上は担当する女性の売上としてカウントされるという仕組み。

Aという人がその店へ初めて行くBさん、Cさんを連れて行ったとする。

Aさんの担当は、ゆかりさん。

その場合、Bさん・Cさんの担当も、ゆかりさんいうことになる。

Cさんが小百合さんを気に入り、次の機会に小百合さん目当てにその店へ一人で行ったとしても、ゆかりさんの売上となる。

キャバクラは場内指名制。担当制という概念はない。

しかし、他の女性の指名のお客さんに名刺を配ってはいけない、電話番号を聞いてもダメなど、後々のモメ事にならないよう場内指名制であるがゆえの制約がある。

ガチガチのシステムだが何も気にせずに飲めるクラブ、指名のことなど気にしなければならないが自由なシステムのキャバクラ。

どちらの形態が良いかは、それぞれの人の好みということになる。